鬼火 参

鬼火 参

明暁に向かいて番外編 その55

 白いフロックコート。陽の光の中で輝く金色の髪。ゆっくりと歩み寄る足元には濃茶の革靴。西国の頭領はまっすぐと千鶴の瞳を見据えながら敷石をまたぐように近づいてきた。

「風間さん」

 驚きながら縁側に下りようとした千鶴に、風間はよくとおる声で応えた。

「鬼火が出たときいて来た」

 鬼火。千鶴は一瞬それが何の事かが判らなかった。訝しさが表情にでていたのか、目の前の風間はその場にとどまり真剣な表情で立っている。千鶴ははっとした。

「庭にでた怪火のことでしょうか」

 風間は頷き、そうだと答えた。縁側の台石の上に立った千鶴と向かい合うように目線を合せた風間はそれ以上何も言わず、ただじっと黙ったまま千鶴の瞳を見詰めている。金色の睫毛に縁どられた深紅の瞳。どこか遠くを見るような。風間は千鶴の全身を確かめるように瞼を伏せた。

「みな無事だと聞いて安堵した」

 囁くような声。口角が一瞬上がったように見えたが、風間は既に中庭に首を向けている。殆どの庭木は膝ぐらいの高さで切られ、麻縄で残った枝が縛ってあった。

「母屋へ火が移らずに済みました。どうぞ、こちらから」

 千鶴は風間を促すように縁側に上がると、廊下に正座して縁石の上の草履を横に揃えた。

「藤田豊誠に話があって来た」

 風間は庭木から顔を千鶴に向け、すぐに会いたいと申し出た。

「今、学校に行っています。もうすぐ戻ってまいります」

 風間は急いだ様子で、それならばまた出直すと踵を返すように門に向かった。千鶴は風間が姿を消したのを見届けると、昼寝から起き出した千桜を背におぶり、次男の手を引き小日向の郵便分局に急ぎ歩いていった。

 オキヤクアリスグモドレ

 念のために、虎ノ門署に電報を打った。ちょうど配達士が出立する時で、すぐに届けてもらえるという。千鶴はその足で駒込のやっちゃ場に立ち寄り買い物を済ませて家に戻った。お昼を済ませて片付けをしていると、玄関から長男の豊誠が「ただいまかえりました」と挨拶する声が聞こえた。

「おかえりなさい」

 子供は帽子をとって柱の杭にひっかけると、肩掛け鞄を畳の上に放り投げ袴と足袋を脱いで中庭に降り立った。手には竹とんぼを持っている。走りよってきた次男の剛志に、「ほら」と言って宙に飛ばしてみせた。千鶴は鞄から弁当箱を出して台所に持っていき、窓から遊ぶ子供たちに手を洗ってくるようにと声をかけ蒸かし芋が入った籠をお膳の真ん中に置いた。下の子供のおしめを取り替えていると、ばたばたと子供たちが家の中に入り、いただきますと手を併せた。

「今日はお外には行かずに、お庭で遊んでね」
「お客さまがくるから」

 子供たちは黙々と芋を頬張っている。千鶴は風間千景が顔を見せた事をあえて豊誠には伝えなかった。千桜をおんぶしてお勝手に戻り、多めに揃えた食材を台に並べ献立をあれやこれやと考えた。

「風間さんと天霧さん、はじめさん、子供たち……」

 そういえば、さっき天霧さんの姿は見えなかった。千鶴は庭に現れた風間千景の憂いに満ちた表情を思い出し一瞬手を止めた。

(何かあったのかしら)

 思えば、風間千景に最後に会ったのは二年前、雪村の郷での豊誠の元服式。風間は息子の烏帽子親になってくれた。その後、長男は毎年夏に西国の郷に招かれるようになり鬼世界の見聞を広めている。いつも帰路には天霧九寿が付き添い無事に戻ってくる。今日もおそらく天霧が診療所に現われるだろう。

 千鶴は風間の様子が気がかりな一方、久しぶりに天霧が診療所に訪れ一緒に語り合えることを楽しみに食事の仕度にとりかかった。

**************

 小石川の診療所から立ち去った風間が向かったのは向島。平屋が続く静かな街並みに、藤田豊誠が「空の家」と呼ぶ水色の洋館が抜き出るように建っている。西村邸には予め人間の使う電報を打って訪問を伝えてあった。母屋の玄関に現れた風間千景を快く迎えたのは土方の妻の西村多佳だった。

「遠路をよくお越しくださいました。お待ち申し上げておりました」

 お多佳は客間に風間を通すと、すぐに土方を呼びに行った。客間で土方はどっかと腰を下ろし、「久しぶりだな」と挨拶をしている。

「火急の用があってきた」
「藤田豊誠のことだ」

 いささか唐突に話を始めた風間の声を聞きながら、お多佳はお茶を差し出すとそっと黙礼して部屋から出た。土方が黙ったままでいる様子にお多佳は暫く廊下に佇んでいたが、急ぎ午餐の膳を客間の隣の部屋に用意した。

「なんの許可が必要なんだ」

 少し厳しい口調で話をする声が襖越しに聞こえてくる。お多佳は物音を立てずに隣室の様子を伺い続けた。

「外魔の退治だ。藤田豊誠を連れていく」
「外魔? なんだそれは」
「西海の果てに現れた。鬼火が出ている。我ら西海九国の鬼は御護が使命だ。外魔から日の本を守る」
「そいつはあれか。列強の奴らか」
「それはわからぬ」

 暫く沈黙が続いた。お多佳は頃合いを見計らって廊下から声をかけて障子を開いた。

「お食事のご用意をいたしました。風間さま、よろしければこちらへ」

 お多佳は静かに部屋の中に入り隣室へ続く襖を開いて風間を案内した。土方が無表情のまま風間と向かい合うように席につくと、お多佳は濡れ手拭を畳んだものが載った盆を風間に差し出した。風間は目礼し静かに手を拭っている。

「どうぞ、ごゆるりと。御足はお崩しくださいませ」

 風間は静かな様子で座椅子にゆったりと腰をかけた。お多佳は膳の上の器の蓋をとり、小さな硝子で出来た西洋風の一杯飲みを風間の膳の上に置いた。

「梅酒でございます。お食事の前にどうぞ」

 風間はお多佳に言われた通りに食前酒を飲むと、美しい所作で箸をとり食事を始めた。お多佳は静かに部屋から出て行った。土方も黙々と箸をすすめている。

「なんの用だか知らねえが、豊誠には尋常学校がある」
「西国に行く暇はねえよ」

 風間は顔を土方に向けた。

「烏帽子親として許可をもらいたい。外魔を討つには藤田豊誠が必要だ」

 風間は箸を置いてじっと土方を見ている。土方は食事を全て平らげると、膳を横にやって胡坐をかいた。

「さっきから、外魔だの御護だのいってえ何のことだ」
「外魔は西の果ての海にいる。それを討たねばならぬ」

 風間は真剣な表情で答えた。土方は眼球だけをじっと風間に向けている。

「鬼火は消えぬ。藤田豊誠の力が必要だ」
「それはあれか。数日前の不審火のことか」
「鬼火と我らは呼ぶ。普通の炎ではない」

 土方は数日前の夜の出来事を思い返した。夜中に突然空の家にやってきた豊誠は酷く慌てていた。

 ――お多佳さんと美禰子のところへ行って、はやく。火を消してくる。

 刀を持って窓から飛び出した豊誠は一帯に水の粒を降らせた。土方が見た限り向島に火事が起きた様子はなかった。その後も警戒はしているが、向島の消防組が動いている様子はない。昨日も斎藤が鎗屋町の工場に顔を見せた。あの晩、田安門近くで不審火が出たが豊誠が鎮火した。火が出たのは近衛駐屯所管轄地で憲兵隊が調査をしているが事件性は低く公表されることはないという。斎藤は不審火について、それ以上は触れなかった。土方は子供も千鶴も無事で平穏に過ごしていると聞いて安堵した。風間の急な来訪は商売の話だと思い込んでいた。まさか、不審火の鎮火のために来たとは思いもよらなかった。

「鬼火が西国に現れたのは、この春先のことだ」
「我らは西海の果てに強い結界をもっている。鬼火はそれを越え九国に出るようになった。強い外魔が現れた」
「その外魔って奴の鬼火が田安門にでたのか。狙いは皇城か」
「鬼火は西国の郷と八瀬にも現れた。藤田豊誠の家の庭にも」
「いずれ東国の郷も襲う」
「西国の守備兵は何をしている。お前ら鬼の連中が寄れば人間の軍隊より動ける筈だろう」
「手は尽くしている。八瀬での弦打ちは裏目にでた。その結果、東京にまで鬼火が放たれるようになった」

 襖の傍でお多佳はずっと中の様子を伺っていた。二人の会話は途絶え物音ひとつしない。お多佳には夫の様子が手に取るように判っていた。眉間に皺をよせ腕組みをして畳の表目を睨みつけているだろう。尋常ではない何かが起きている。豊誠さん、西国の鬼の郷……。

「俺は鬼の世界のことは良くわからねえ。鬼火を消すために豊誠を連れていくってのは、悪いが許可はできねえ」
「あいつはまだ子供だ。危険な目に遭わすわけにはいかねえ」

 土方の応えを耳にしたお多佳は廊下から声をかけた。

「失礼いたします。お茶をお持ちしました」

 沈黙が破られた雰囲気の中、お多佳は静かに食後のお茶を出し膳の上から食器を下げた。風間はお多佳の用意した食事の全てが美味だったと感想を伝え、急な来訪にもかかわらず手厚くもてなされたことへの礼をのべた。そして、これから雪村診療所に立ち寄ると言って、早々に向島を後にした。

 土方は仕事部屋に戻っていき、お多佳は何度も離れの仕事部屋に様子を見に行った。土方は眉間に皺を寄せたまま、じっと腕を組んで窓の外を眺めている。お多佳が話しかけてもまるで気づく様子がない。仕方がなく、お多佳は母屋に戻り昼寝から目覚めた美禰子を中庭で遊ばせながら客間での二人の会話や小石川に暮らす豊誠とその家族のことを考え続けた。

*****************

 昼下がりに神夷を連れて斎藤が帰宅した。子供たちがわらわらと厩に集まり馬に草やりを始めた。鞍と鐙を外された馬は背中に飛び乗った猫の坊やを構う様子もなく飼葉桶に鼻先を突っ込んだまま尻尾だけをゆっさゆっさと左右に振っている。斎藤は馬を子供たちに任せて母屋の中庭に周り縁側に腰を下ろして靴を脱いだ。居間には誰もおらず客が来ている様子はない。

「ただいま戻った」
「おかえりなさい」
「千姫はまだ来ていないようだな」
「千姫? お千ちゃんが来るの?」
「客が来るというのは、八瀬からではないのか」

 千鶴は首を横に振り、「風間さんがみえて」と答えた。

「豊誠に会いにいらしたみたいで。また出直すって」
「ちょうど八瀬に式鬼を送ろうとした時だったんです。なので今夜にします。八瀬に送るのは」

 斎藤は千鶴の差し出した湯呑みの水を一気に飲み干すと再び厩に戻り馬の世話をした。草と水をたっぷりと与えられた神夷は機嫌よく子供と戯れている。風間を迎え夕餉を終えたら陽がある内に署に戻ることも叶うだろう。斎藤は新しい鞍と鐙を棚から卸してすぐに装着できるように調整しておいた。

 それから間もなく風間が診療所に現われた。玄関で出迎えた千鶴は、風間が天霧九寿を伴わず、単独で上京した事を知って内心驚いた。

「豊誠が戻っております。どうぞ」

 千鶴は斎藤が風間に応対している間に厩にいる長男を呼んできた。

「こんにちは」

 豊誠は縁側で大きな声で挨拶し草履を脱いで居間に上がった。風間は座ったまま軽く頷くように挨拶を返した。子供はいそいそと手水場で手を洗い戻ってきた。下の弟も千鶴に促されて部屋にあがり「こんにちは。ふじたつよし五さいです」と上手に挨拶をすることができた。

「話があってきた」

 風間は居ずまいを正すように背筋をのばした。豊誠もそれに倣うように正座をして「はい」と返事をした。

「鬼火を消したそうだな」

 子供は一寸の間の後、こっくりと頷いた。風間はゆっくりと瞼を下ろすように畳をみると、再び問うた。

「水を使ったのか」
「はい」
「鎮火できたのなら、よい」

 二人はずっと見つめ合ったままでいる。台所では千鶴と下の子供たちが話す声がしていて、夕焼けの影が中庭に伸びていた。

「西の海の果てに外魔があらわれた」
「結界を越えて鬼火がでている」

 風間は静かに豊誠と斎藤に語り掛けた。

「風見の浜を始め、備前、肥後の郷が襲われた。八瀬にも出た。ここも襲われたときいた」

 豊誠は首を大きく縦にふって頷いた。斎藤はいつもの場所に静かに正座し二人の話を聞いている。

「われら西海の結界は百年以上破れたことはない。御護に向かったが西の海の果てには火炎がたっていて近づくことができずにいる」
「外魔だ。鎮火するには外魔を討たねばならぬ」

 子供は大きく頷いた。千鶴がお茶を風間に差し出し、廊下をとことこと歩いてきた千桜を抱き上げ斎藤の隣に座った。子供はすぐに斎藤の膝の上に移りちょこんと腰をかけ斎藤の顔を見上げている。次男の剛志は行李からブリキの軍艦を取り出し廊下を走りまわり始めた。子供たちの手が離れたのを見計らい千鶴はそっと台所に戻っていく。風間が再び口を開いた。

「ここに来る前にそなたの烏帽子親に会ってきた。西国に行くことを許さぬと言っておった」
「危険な目には遭わせられぬと」
「だがそなたのもう一人の烏帽子親として頼みたい。外魔を討つために来てもらいたい。そなたの力が必要だ。わかるか」

 子供は頷き「はい」と返事をした。その時、斎藤が声をあげた。

「待ってくれ。話がよくわからん。外魔というのはあの怪火のことか」

 風間の瞳が斎藤の方に動いた。

「確かに庭に出た怪火を我らは消した。ただの炎ではなかったことは確かだ。だがそれが西国に起きている異変と何の関係があるのだ。火は消えた。庭木に上がった炎は刀で切り払い事なきを得た」
「鬼火は消えてもまた現れる。鬼火に近づく者は、炎に取り込まれそのまま消えてしまう。あれはただ燃えているのではない」
「それは俺も確かめた。炎が上がるが燃えてはいない」
「鬼火を追い払うことが出来たのか」

 斎藤は「ああ」と答えた。豊誠が斎藤の方を見て大きく頷いた。千鶴が大きな盆を持って台所に繋がる廊下から部屋に入ってきた。斎藤が子供を抱いて立ち上がり、大きな膳を移動させて席を整えた。千鶴は手際よく食事の載った皿を並べはじめた。すぐさまに風間は「申し訳ない」と一言謝った。

「さっき、食事は済ませてきた。用件を伝えたらすぐに暇をする」

 千鶴は「でも」と言って引き留めようとしたが、斎藤が小さく首を振るのをみてそれ以上は言葉をかけなかった。途中まで並べた膳はそのまま置かれた。千鶴は新しく煎れたお茶を運んで斎藤より少し離れた場所に座って下の子供を膝に抱っこした。

「こたび起きていることは八瀬も手を焼いている。数百年打たれることのなかった弦打ちで東西の結界を強める策にでたが。より外魔の威力が強くなった。御護の兵は風に煽られた火炎にまかれ西海の果てに近づくことも敵わぬ」
「我らは火炎とは相性が悪い。金は火に負ける。だが豊誠殿の司る水は火に相克する」

 風間は首を斎藤の方に向けて静かに話を続けている。

「八瀬に藤田豊誠の力を借りることを申し立てたが、なしのつぶてだ」
「山の御守に八瀬の姫が掛け合おうとしておると天霧が情報を得た。それが数日前。ここに鬼火が現れた直後だ」
「僕が行く」と、豊誠が立ち上がった。
「西国の郷も風見の浜の人たちも備前の郷もわたしが守ります。火を消して外魔を退治する」

 その時、千鶴が部屋に入ってきた。

「行くって、どこへ?」と笑顔で尋ねた千鶴は斎藤の隣に腰かけた。
「西国にいってまいります。鬼火を消してくる」

 子供は二人の前を逸るように奥の間へ走っていき袴をはいて身支度を始めた。

「なんでしょう、急に。風間さんについて西国に行くつもりなのかしら」と、クスクスと可笑しそうに笑っている。
「ほんとうにすみません、風間さん。豊誠は、それはもう西国のことが大好きで。備前のお友達にも会いたいとしきりに申していまして」

 千鶴が全く経緯を理解していない様子に風間は暫く黙っていたが、先に斎藤が話を始めた。

「坊主は西国に行くといっておる」

 千鶴は隣の斎藤の方をみた。

「数日前の怪火は西の海の果てから飛んで来た。風間さんは外魔を討つために豊誠が必要だと言っている」

一瞬で千鶴の表情が変わった。それまでの笑顔が消え斎藤の真剣な眼差しに言葉がでてこない。

「豊誠殿が使役する水や霧が鬼火を消す。鬼火が消えたら外魔に近づき討つ事ができる」
「外魔。いったい……、なにのことを」

 千鶴は呆然としながら風間に尋ねた。

「西の海の果てに外魔が現れると災難、疫病、飢饉あらゆる禍の元となる。この世の災いを引き起こす魔物だ。絶対に結界の中には入れてはならぬ」

 千鶴の瞳は大きく開かれ、完全に言葉を失ってしまっている。

「太古の昔、我々鬼は悪鬼を封じ込めた。西海の果てに蛇穴があると云われている。外魔はそこから現れる。だが誰もその姿を見た者はおらぬ」
「姿がみえぬとはどういうことだ」と斎藤が問うた。
「先刻話した通りだ。我ら風間の民は火を煽るばかりで近づけぬ」

 斎藤は鬼火が空に向かい勢いよく巻き上がった瞬間を思い浮かべた。まるで生き物のように蠢く青い炎。あの夜、豊誠は己が剣に炎を引きつけ見事に断ち切った。

「そのような恐ろしいものに豊誠を近づけることはできません」

 千鶴が言い放った。奥の間から刀袋を持った豊誠が出て来た。余所行き用の足袋を履いて斜め掛けにした鞄は大きく膨らんでいる。

「なりません」

 千鶴がにわかに立ち上がり、子供の肩の荷物を取り上げようとした。

「行ってはなりません」

 子供は千鶴と同じように首を横に振って抵抗する様子を見せた。斎藤は静かにその様子を見て風間と目を合せた。

「急に訪ねてきた上に無理を願ってすまぬ」
「御子息を西国に連れていくことはない」
「鬼火のことは我らでなんとかできよう。心配をかけた」

 風間は深々と頭を下げた。斎藤は風間の謙虚な態度を初めて見た気がした。立ちあがった風間は振り返り、千鶴に向かい丁寧に挨拶した。豊誠には優しく微笑むような表情だけをみせ大きく頷いた。

「それでは、失礼致す」

 暇を告げて足早に玄関に向かった風間を斎藤は追い掛け呼び留めた。薄暗い上り口で風間のフロックコートが白く浮かび上がっている。

「待ってくれ。あんたに話したいことがある」

 斎藤は風間と一緒に玄関の外に出た。もう既に日は暮れかかり、夕焼けの空は紫色の雲が線を引いたようにたなびいている。

「下のせがれのことだ。鬼火を見て石のように全身が固くなった。あの晩、両の目に鬼火が入るのを俺は見た」
「気がかりなのは、それだけではない。春先から庭の暗闇を怖がり小便を漏らすようになった。あんたが言っていた鬼火が春先から結界を越えていたのなら合点がいく」

「瞳に鬼火が見えたのか」

 斎藤は頷いた。

「おそらく、見えているのだろう。鬼境通。そのような力を具えている鬼は希少だ。我が郷にも居る」
「未来を見通す力だ。恐れる必要はない」

 風間は急ぐ様子で門に向かった。斎藤は再び風間を呼び留めた。

「あんたに頼みがある。俺も西国に行く」

 風間は立ち止まり振り返った。

「鬼火を消して外魔を討つなら。助太刀しよう」

 黙っている風間に斎藤は近づいた。

「あんたには恩義がある」
「なにのことだ」
「先の戦で千鶴の命を救ってもらった。雪村の郷が今あるのはあんたのお陰だ」
「西の海の果てを守り、必ずせがれを家に連れ帰る。だから俺も連れていってもらいたい」

 風間はふっと息をもらすように微笑んだ。

「藤田豊誠も連れていくと」
「ああ、せがれは一度言い出したら聞かぬ。母親が留め立てをしてもあんたを助けに行くだろう」

 風間は深く頭を下げた。

「ありがたい。礼を言う」

 それから二人は出来る限り早くに西国に出立できるよう日取りを決めた。千鶴を説得するという斎藤に風間はもう一人の烏帽子親である土方の許しも得なければならないといった。

「これから西村に会いに向島へ行く」
「それならば、俺も一緒に行こう」

 風間は頷いた。斎藤は急ぎ家の中に戻り、取り乱している千鶴を説き伏せ空の家に出掛けると告げた。

「土方さんと話をする必要がある」
「夕餉は帰ってからだ」

 千鶴は豊誠を留めることに成功したようだった。既に鞄も刀袋も片付けられてしまっていた。じっと居間で拗ねたような表情で正座している息子に斎藤は声をかけた。

「父が戻るまでおとなしく待っていろ」

 子供は「はい」と返事をした。一番下の千桜がとことこと追いかけてきたが、斎藤は抱き上げて頬ずりをしてから急ぎ玄関の外に出た。空は濃い紫になり辺りは暗かった。風間は少々急ぎたいと斎藤に断ると、一瞬で風に乗り二人は向島に赴いた。


つづく


(2024/11/09)

コメントは受け付けていません。
テキストのコピーはできません。