離れがたくて

離れがたくて

FRAGMENTS 10 冬

 イルミネーション会場を通り過ぎてから、斎藤は千鶴を連れて雪村診療所に戻って行った。

(9時前か、門限を過ぎてしまうな)

 斎藤は、駅から真っ直ぐに診療所に向かったが、千鶴は礫川公園の入り口で立ち止まった。斎藤の腕を引いて、「はじめさん、渡したいものがあるから」といって公園に入っていった。二人でいつもの噴水前のベンチに座わると、千鶴は斎藤にプレゼントを渡した。

 四角い箱に入ったレザーの手袋。ボアの裏打ちがとても暖かい。

「前から欲しかった。有難う」

 斎藤は嬉しそうに手にはめてみた。斎藤もポケットから、小さなプレゼントを取り出して千鶴に渡した。千鶴は嬉しそうに受け取ると、箱を開いて悦びの声をあげた。

「素敵、これと同じ」

 千鶴は、マフラーをとって首のネックレスを指に取って見せた。オリーブの葉のモチーフのネックレス。プレゼントは、同じオーナメントがデザインされた二連のピンクゴールドのブレスレットだった。

「幸せになるチャームだそうだ」

 斎藤は嬉しそうに千鶴の手を取った。千鶴の18歳の誕生日祝いに斎藤は同じモチーフのネックレスを贈った。斎藤の姉が勤める店で姉に勧められて、誕生日プレゼントにした。斎藤の姉、勝乃は、斎藤より五歳上で、ジュエリーショップの店員。一から「彼女の誕生日に何か身に付けるものを贈りたい」とこっそり相談されて、ネックレスを勧めた。少し値は張るが、良い品を贈るのが一番。オクテのはじめに彼女が出来た。これは、勝乃にとってとても喜ばしい出来事だった。社員割引で弟のバイト代で負担なく提供できるもの。若い女の子が、ずっと大人になっても身に付けていられる上品でシンプルなデザイン。勝乃は、ハート型のオリーブリーフを勧めた。

「平和と調和のシンボル。これを身に付けると幸せになる」

 斎藤は千鶴にぴったりだと思った。勝乃にプレゼント用に包んでもらった。今年の元旦、二人で初詣に行った時に渡した。千鶴の誕生日は一月の中旬だが、ちょうど大学入試と重なっていた為、先にプレゼントすることにした。千鶴は大層喜んでいた。以来千鶴はずっとネックレスを身に付けている。千鶴の華奢な首と襟元に見えるハートのオーナメントは、とてもよく似合っていた。

 今月に入って、クリスマスのプレゼントを考えていたら、勝乃に今度はブレスレットを勧められた。

「これ、きっと喜ぶよ。彼女」

 勝乃は、高校時代からずっと同じ彼女と一途に付き合い続けている一を可愛いと思った。こんな生真面目で朴訥な弟を好いてくれる子なら、一の彼女はきっといい子。店にプレゼントを買いに来た斎藤に彼女を一度会わせてと言うと、斎藤は頬を赤くして頷いていた。

 千鶴はさっそくブレスレットを左手首に付けてみた。「素敵、可愛い。こんなに素敵なの。どうもありがとう。大切にします」と喜んでいる。斎藤は千鶴の手をひいて抱き寄せ、口づけた。何度も何度も。深く口づけている内に、千鶴は半分身体をベンチの手すりに凭れ掛かるように預けていた。斎藤はそのまま覆いかぶさるように千鶴を抱きしめた。コートの下のドレスは薄くて、身体のラインを手でなぞりながら斎藤は欲情が溢れかえるのを止めることが出来なかった。

 でもこの寒空の中、これ以上は……。
 それに千鶴を早く家に送り届けなければ。

 パーティ会場での千鶴の父親の顔が脳裏に浮かぶ。斎藤は身を起こした。千鶴の手を引いて起き上がらせると、「帰ろう」と言って立ち上がった。

 それから二人とも無言のまま道を歩いた。次の角を曲がると診療所だ。ちょうど街灯の下を通りすぎて角に差し掛かった時、斎藤は千鶴を腕に抱き寄せた。千鶴も斎藤の腰に手を廻して強く抱き着いたまま離れない。

「帰りたくない」
「もっと一緒にいたい」

 千鶴の悲しそうな声が聞こえた。

 ——帰したくない。

 次に会えるのは、また数日後。それでも、今、この瞬間ずっと離れずに居たい。

「今夜は。門限を過ぎてもいい。父さまもパーティできっと遅いし」
「夜中までに、家に戻れればいいから」

 夜中まで。そうは言っても、あと数時間だ。この寒空の中。温かく過ごせる場所は、遠くの。ホテル……。

 斎藤は千鶴と二人きりになりたかった。もう、我慢ができない。

 気が付くと、診療所に曲がる角から二人で駅前に引き返していた。もう駅前の店はどこも閉まっていた。二人は呑み屋の前で騒いでいる大人のグループを避けるように通り過ぎた。どんどんと繁華街を離れて、国道沿いのホテルの前を通ったがどこも満室だった。

 斎藤は、諦めがつかなかった。もう既に十時を過ぎている。あと一時間でもいい。温かい場所で二人きりになれたら。

 そんなことを考えた時に、突然斎藤の腹の音が鳴った。静かな道で、それはとてつもなく大きく響いた。

「はじめさん、お腹が空いてる?」
「パーティでお食事は」

 千鶴が心配そうに斎藤に訊ねた。斎藤は首を横に振った。「はじめさん、」と言うと、千鶴はコツコツと靴のヒールの音をさせて、駅前に向かって急ぎ足で歩き始めた。そして、一番近くにあったコンビニエンスストアに入って、おにぎりやサンドイッチを籠に入れていった。

 斎藤は、明るい店内でコートのポケットに入っている何かに気づいて取り出してみた。それは試衛館道場の鍵だった。今日は斎藤が戸締りをして、明日返す予定の道場の鍵。斎藤は、道場に行こうと思った。あそこなら、誰もいない。数時間なら、ストーブを焚いて温かく過ごせる。デートに使うのは忍びないが、千鶴も道場の門人で部外者ではない。二人で、コンビニの食事を持ち込んで温かく過ごせれば……。

「千鶴、道場の鍵がある。これから試衛館へ行こう」

 千鶴の持っている買い物かごを手に取ると、斎藤は微笑みながらレジに向かった。二人で、お菓子や温かい飲み物を買って、急ぎ足で道場に向かった。夜間の道場は、高校時代の夏の合宿で利用して以来だ。懐かしい。

 斎藤は道場の裏の勝手口の鍵を開けると、そっと千鶴の手をとって中に入った。玄関の灯も、廊下の灯も付けずに中に進んだ。夜中に、電灯をつけているのを、知られるのはまずい気がした。ここで千鶴と二人きりで過ごす事を、出来れば誰にも知られたくない。そんな風に思いながら、斎藤は気配を消して千鶴の手を引いて静かに歩いた。道場の広間のドアを開けようとした瞬間、暗がりから殺気を感じた。

 斎藤は、背後の千鶴を庇うよう右手を後ろに回すと、咄嗟に壁の上の木刀を手に取って構えた。その瞬間、空を切る音とともに木刀の突きが迫って来た。斎藤は、千鶴を壁側に隠すように押すと、突きを避けて背後に身を除けて下がった。すかさず、無言のまま低い位置から相手に斬りかかった。千鶴は、壁に打ち付けられるようになって小さな悲鳴を上げた

「誰かと思ったら、はじめくん?」

 相手は、飛び下がりながら声をたてた。暗がりの相手は総司だった。

「そこにいるのは、千鶴ちゃん?」

 総司は、廊下の灯のスイッチをいれると、辺りは明るくなった。床には、二人で買い物をしてきたレジ袋の中身が散らばっている。総司は、セーターに道場のスリッパをはいた姿で木刀を肩に載せていた。

「いいよ、みんな。泥棒じゃなかった」
「はじめ君と千鶴ちゃんだ」

 そう言って、広間のドアを開けた。そして中の電気を灯すと、広間の壁から平助と相馬主計、野村利三郎が出て来た。畳の上には、ファーストフードやケーキ、お菓子やビール、ジュースが広げられている。広間の中はヒーターがついて暖かかった。

「なに、二人で? 道場に忘れ物?」

 平助は、二人を招き入れると、相馬と野村が挨拶した。この二人は、薄桜学園の千鶴の後輩で、試衛館道場にも通っている門人。それにしても、ここで総司達四人は何をしているのだろうと斎藤は思った。

「外が寒いゆえ、立ち寄った。平助たちこそ、ここで何をしている」
「なにって、クリパだよ。なっ」

 平助は傍の相馬と野村に同意を求めた。二人も一緒になって頷いている。確かに、部屋の真ん中には、大きな紙のバレルにフライドチキンが入って、ケーキやクラッカー、平助や野村の頭にはサンタ帽、相馬はよく見るとフェルトで出来たトナカイの角を付けている。ここで、総司たちはクリスマスパーティーを開いているようだった。

「二人とも、座れば」

 茫然と立っている千鶴と斎藤に、背後から総司がそう言うと、平助たちは二人が座る場所を開けた。千鶴は、持ち寄ったレジ袋の中のおにぎりやサンドイッチを取り出して、斎藤が食べられるようにハンカチの上に並べ始めた。

「じゃあ、はじめ君と千鶴が加わったってことで、仕切り直し」

 平助は、クラッカーを皆に配ると。

「メリーーー、クリスマス!!」

 そう叫んで、クラッカーを鳴らした。相馬と野村もそれに続いてクラッカーを鳴らした。千鶴は、両手で耳を塞ぎながらも笑顔になって喜んでいる。斎藤はコートを脱いで丁寧に畳んで千鶴の隣に座った。千鶴もコートを脱いで寛ぐように足を崩した。



******

 

地獄のクリスマスパーティー

 

「なに、二人ともデート帰り?」

 平助は千鶴のドレス姿や斎藤のスーツ姿を見て目を丸くしていた。相馬と野村は、千鶴の晴れやかな姿にぼーっと見とれている。

「ああ、千鶴のお父さんのレセプションパーティーに行って来た」
「へえー、だからそんなめかしこんでんのか」

 平助はそう言いながら、フライドチキンを手に持って食べ始めた。斎藤も千鶴が差し出したおにぎりを頬張った。千鶴は缶のミルク紅茶を飲みながら一息ついた。

「それで、二人は。ここに何しにきたの」

 総司がごろんと二人の傍に寝転がって、覗き込むように二人の顔を見た。斎藤は、総司の揶揄するような目線を避けるように、黙々とサンドイッチを開けて食べている。

「コンビニで買ったおにぎりを食べに来ただけじゃないでしょ」

 まるで尋問をするようだ。斎藤はそう思った。千鶴もそう思っていた。何も答えない斎藤に寄り添うように千鶴も何も答えずに飲み物を手にもったまま俯いている。

「ねえ、もしかして」

 総司が身体を横にして腕枕をしながら、斎藤と千鶴の顔を下から覗き込んだ。翡翠色の瞳がきらりと光ったようにみえた。総司の右の口角がゆっくりと持ち上がった。

「クリスマスセックスしに来たとか?」

 千鶴と斎藤は絶句した。

「ここで、」
「やっちゃう気満々だった?」

 嬉しそうに尋ねる総司をよそに、部屋の一同はシーンとなった。気まずい沈黙。

「おい、未成年の前だぞ!!」

 平助が、やっと声を上げて相馬と野村を見た。相馬と野村は動顛したままじっと、斎藤と千鶴を見ている。相馬は完全に顔の色を失っていた。斎藤と千鶴はずっと動かないまま。総司の言うことは図星過ぎて、何も言い返せない。

「あれ、もしかして。そうなの?」

 総司は容赦なく畳みかけるように尋ねてくる。発破をかけられていると悟った斎藤は、上目遣いで総司を睨んだ。

「千鶴を夜中までに家に帰す為だ、駅前のカフェも閉まっていて。どこも行く当てがなかった」

 ——今夜はイブで、ラブホはどこも満室だしね。

 総司は容赦ない。平助が「おい、アンダー18、やめろよ。総司」と野村と相馬を顎で指すようにして諫めている。総司は、寝転がったまま、くっくっくと笑い続けていた。

「僕らもたいがい、悲惨なイブだけど。はじめ君たちもだね」
「ここでやりたければ。どうぞGo ahead。僕らのことはお構いなく」

 総司は、畳の上のパーティグッズの吹き戻し笛を手にとって、ピューっと音をたてて吹いた。青い水玉の巻き笛の先は勢いよく斎藤の股間に向けて伸びていく。総司は、もう一つのピンクの笛を千鶴のドレスの膝に向けても吹いた。斎藤は思い切り、その笛を左手で叩き払った。

「なに、怒ってる、はじめくん?」総司は、愉快そうに肩を揺らせている。
「悲惨なイブだね」

「何が悲惨なものか。パーティの後に、渋谷で【青の洞窟】を見て来た」
「あの青いイルミネーション? 行って来たんだ」
「とても綺麗でした。厳かな感じで。渋谷じゃないみたいで」

 千鶴が嬉しそうに話した。平助が「へえー」と頷いているが、平助も後輩の二人もどこか不満そうな様子でこっちを見ていた。

「イルミネーション見て、二人で盛り上がって、キスして」
「それ以上のこともしたくなった。だよね?」

 総司は容赦がない。そうだ。確かにそうだ。もし、ここで二人きりなら、確かに俺は事に及んでいる。それは否めない。総司が覗き込めば覗き込んでくる程、恥ずかしくなる。隣の千鶴も俯いた頬が紅くなっている。もう観念して二人で赤面するしかなかった。

「ま、【見守る会】としては、はじめくんに、この場を提供してあげたいけど」

 起き上がった総司が胡坐をかいて、吹き戻し笛をからかうように再び、斎藤に向かって吹いた。気まずい沈黙の中を、ピューっという笛と紙の先が丸く戻ってくる音だけが何度も繰り返された。

「見守る……会?」

 斎藤の隣で、千鶴が小さな声で呟いた。きょとんとした様子で総司に尋ねている。

「そ、【はじめのはじめてのクリスマスせっくすを見守る会】さ」

 総司は千鶴に教えるように宣言すると。斎藤が「なっ、なにをいっている」と怒り出した。千鶴は目を丸くしている。

「ちなみに、会員1号が平助。僕が主催兼2号。今日は、3号助っ人会員は欠席だけどね」
「助っ人会員……?」

 千鶴は、まだ理解には及ばない様子で、総司の言っていることを繰り返している。

「いい加減にしろ、総司。俺はあんたらに見守って貰う義理も筋合いもない!!」

 斎藤は正座したまま、腕を膝に突っぱねるようにして怒っている。千鶴は、斎藤の剣幕に驚いたような顔をした。

「ねえ、オレ、会員1号だけどさ。道場でそんな事しちゃっていいわけ?」
「いくらイブの夜だからってさ、剣術道場は神聖なもんだろ」

 平助は、フライドチキンの骨を振り回しながら声を荒げた。斎藤は目を見張って平助を見返した。後輩の二人は、今度は平助が怒りだしたのかといった表情で驚いている。平助は、片膝を立てて、チキンの骨を思い切りバレルの中に投げいれると。

「そんなによろしくやりたけりゃ、」

 ——更衣室に籠ればいいんじゃね?

 斎藤は平助の突然の提案に更に目を見開いた。「なっ」と言ったまま、言葉が出て来ない。

「そーだね、折角だから、【はじめて尽くし】で、女子更衣室に入ってやっちゃうのもいいかもね」
「おお、それな」

「なっ、なにが初めて尽くしだ。いい加減にしろ!!」

「見守る会、会員1号。なまあたたかーく見守ってやるよ。イブだしな」
「主催兼2号。なまあたたかーくね」

 怒る斎藤の隣で、千鶴はずっと恥ずかしそうに俯いたままでいた。居た堪れなくなった斎藤は、コートを掴むと千鶴の手を引いて立ち上がろうとした。

「あれ、もう早速、はじめちゃう?」
「イブのはじめて尽くし」

 総司は、おもちゃのラッパを鳴らした後に、吹き戻し笛二本咥えてピロピロと囃子たてた。

「俺等は帰る」

「何言ってるの。お楽しみはこれからなのに」

 総司は、いつの間にか、広間のドアへの動線に立ちはだかるように立って。斎藤に余裕の表情で笑いかけた。

「僕らがここに居たのが運の尽きだよ。はじめくん」
「今夜はね、クリスマスせっくすの代わりに地獄のクリパだよ」

「せっかくのイブなんだから」

 総司は嬉しくてしょうがないといった風情で、クラッカーを天井に向けて鳴らすと。斎藤と千鶴の肩を無理矢理押し戻して、畳に座らせた。

「それじゃあ、王様ゲーム始めるよ」
「よし来たーーー」

 平助が張り切りだした。あっという間に王様ゲームのパーティセットを取りだして、みんなにスティックを引かせた。千鶴も斎藤も平助の捲し立てるような勢いに圧倒されて、引いたスティックを持たされた。

「王様、だーれだ?」

 平助と総司が嬉しそうに声を合わせて大声で呼びかけると。「俺です」と野村が手を挙げた。王様の野村が命令した。

「三番は、好きな人の名前を尻字で書く」
「三番だーれだ」

 平助と総司が大声で尋ねると、笑顔になった千鶴も相馬も一緒になって声を合わせている。

「はい、僕、三番。書くよ」

 立ち上がったのは、総司だった。「みー、よー、かー」と派手に尻で宙に字を書いた。平助は、「総司のみよちゃんって、「みよか」って名前か」と感心していた。総司は、「もう好きかどうかもわかんないけど、書きやすいからこれで」と笑っている。

 次の王様は、千鶴だった。「二番の人。バック転してください」

 嬉しそうに命令する千鶴は無邪気な様子で、くすくすと笑っている。斎藤は、千鶴が楽しそうに笑っている横顔を見て、ようやく腰を落ち着けて畳に座わり直した。二番は野村だった。「俺、バック転出来ないっすよ」と首を捻っていたが。プロレス技のバックドロップをやって、皆を笑わせた。

 次の王様は、平助だった。「じゃあ、一番の人は、上半身脱いで裸になって好きな人の名前を言って。その人への想いを叫ぶ」

 斎藤は、その命令に驚いた。脱いだり裸になったりは、絶対千鶴にはさせてはいかん。斎藤は、千鶴を庇うように右手を伸ばした。「一番だーれだ」の掛け声で、手を挙げたのは相馬だった。ほっと、安堵の溜息をついた斎藤の向かい側で、相馬は固まってしまっていた。正座のままずっと動かない。野村が心配そうに横からじっと相馬を見つめている。「ほら、上半身脱げよ」と平助が催促した。相馬は、意を決したようにパーカーを脱いで、その下のTシャツも脱いだ。そして、正座のまま真っ赤な顔をして背筋を伸ばすと。

「雪村千鶴さん。初めて会った時から好きです。先輩のことが好きで、俺は剣道部に入りました。卒業されてもずっと好きです。可愛くて、優しくて、ずっと守りたいです」

 そこまで言い切った相馬は、手に持ったパーカーを頭から被って突っ伏してしまった。千鶴は突然のことで、ただただ吃驚していた。相馬は、「恥ずかしくて死ぬ」とくぐもった声で頭を覆ったまま悶絶していた。相馬は、背中まで真っ赤になっていた。総司は、くっくっくと笑っている。斎藤は、微笑みながらその様子を見ていた。

 その次、王様は総司だった。「はい、三番は四番にべろちゅー」

 三番は斎藤、四番は千鶴だった。斎藤はずっと前をみたまま正座している。千鶴は、どうしようかと思った。

(最近は、人前で抱きしめられたり、頬にキスされたりすることはあるけど、沖田先輩や、平助くんの前でそんな事、絶対に出来ない)

 千鶴は、目の前の四人の目線を感じながら、ずっと俯いたままだった。突然、斎藤がしゃがみ込むようにして、千鶴の唇に口づけた。小さなキス。一瞬で終わって。斎藤はさっと離れた。平助が、「おお、もう終わったの?」と大声で叫んだ。

「王様の命令。三番は四番にべろちゅー」

 総司が狡猾そうな表情でもう一度命令した。平助が、「べーろーちゅ、べーろーちゅ」と独りで手拍子をつけて囃し立てた。すかさず、総司も一緒になって、べろちゅーコールをしている。どこまでも下世話な奴らだ。斎藤は呆れた。相馬は固まったまま、ずっと正座をして俯いている。さっきまで全身真っ赤だったのが、色を失って真っ青だった。野村は、そんな隣の相馬が気になりながら、べろちゅーコールに加わろうか、どうかとオロオロしている。

「もうキスはした。しつこいぞ」

 斎藤は総司と平助を睨みつけた。総司は、王様の命令は絶対だよ、と真顔で睨み返した。斎藤は意を決した。千鶴の腰に手を廻すと自分に引き寄せて、顎を持ち上げるように熱烈なキスをした。

(ゲームでもなんでもいい。千鶴に触れられるなら……)

 もう完全に斎藤の箍は外れていた。千鶴は、斎藤の長い睫毛が伏せているのを見た後、そのまま自分も眼を閉じた。

 斎藤が千鶴から顔を離した後、そっと俯いたまま千鶴を座らせた。大声で騒ぐ総司と平助は、吹き笛やラッパを鳴らして、クラッカーまでパンパンと鳴らして喜んでいる。こいつら。許さん。本当に地獄のクリパだ……。斎藤は、道場に来たことを死ぬほど後悔した。

「はい、ご馳走さま」

 王様の総司は、満足そうに立ち上がった。

「一番いい想いをしたはじめ君が一度も王様にならなかったから、これでお開き」

 総司はそう言って、二人を道場から追い出すように玄関まで見送りに出た。

「今、11時37分。走れば、夜中までに診療所に着く」

 ——ほら、早く。急がないとシンデレラは無事に帰れなくなるよ。

 総司は、千鶴を先に走らせるように手を引いて道場の門の外に連れだした。そして、斎藤に気を付けて帰るようにと言うと、「今晩のこと、近藤先生には内緒だよ」と念を押すように、斎藤に声を掛けた。斎藤は、「相分かった」と応えながら走った。

 診療所の玄関で、もう一度強く千鶴を抱きしめてから別れた。0時ジャストに玄関のドアを開けて、千鶴は「ただいま」と言ってドアの向こうに消えて行った。斎藤は、スマホに総司からメッセージが入っているのに気付いた。

「地獄のクリパ続行中」の文字に、トナカイがウシャウシャと笑うスタンプが押してあった。斎藤は家には戻らずに再び試衛館に戻った。

 平助は酒を持ち込んでいた。未成年の二人は、毛布にくるまったまま不貞腐れたように丸く横になっている。総司も珍しく、酒が入って酔っぱらっているようだった。斎藤が再び、部屋に戻ってくると、平助はさっきの様子とは違って、斎藤に悪態をつき始めた。

「いいよな、はじめ君は。千鶴みたいな可愛い彼女とよろしくやって」
「オレも、よろしくやりてーよ」
「なんだよ、イブなんてよ。誰が決めたんだ、こんなもん」

 そう言って、サンタ帽を投げ捨てた平助は、完全にくだを巻いている。「地獄の合コンだったぜ、ったく」と文句を言って総司に絡んだ。

「だから、地獄のクリパもいいんじゃない」

 総司はゴロンと横になっている。そして、「地獄のダブルぶっきーんぐ」と独り言のように言って、最後に残っていたクラッカーを成大に鳴らした。斎藤は、自分が持ち込んだワンカップを飲みながら、総司の話を聞いた。

 総司と平助は、総司のガールフレンドのみよちゃんと、みよちゃんの女友達3人とイブにクリスマス合コンをすることになっていたらしい。隣町のカフェバーを借り切ってのパーティと聞いていた総司は、相馬と野村も誘ってアルコール抜きで楽しんでいた。だが、店にはもう一組の見知らぬ男子四人グループも来ていて。店内の右と左でテーブルが分かれていた。そして、パーティが始まると、みよちゃんを含め、女の子たち4人は、交互に右と左のテーブルを行き来する、【二重合コン】が繰り広げられたらしい。

 もう一つの「Bテーブル」と総司達Aテーブルとで、当然女の子の取り合いになった。総司は、みよちゃんにどうして、こんなことになったのかと問いただしたら、「ダブルブッキングだった」とミヨちゃんはしれーっと英語で応えたという。

「I can’t help it (仕方ないわよ)」

 そんな風に言って、欧米人のように肩をすくませて笑ったという。総司は、そのまま立ち上がって平助たちを連れて店を出て道場に戻った。酷い話さ、と笑っている。廓遊びじゃあるまいし。最初から道場でクリパを開いて居る方がよっぽど楽しかった。来年からそうするよと、諦めたような表情で斎藤に話した。うんざりしたような表情で紙コップに口をつける総司は、どこか遠い記憶の総司と重なった。斎藤は、総司がふと口にした【廓遊び】という言葉に、京の遊郭の光景が鮮やかに目に浮かんだ。なんだ、これは。酒の匂いのせいか。

「年が明けたら、僕、近藤先生にみっちり稽古してもらって、二月の終わりに日本を発つよ」
「どのみち、みよちゃんとは離れることになるからね」
「これで、心置きなく、大会に集中できる」

 総司は、大学が休みに入るタイミングで、剣道の国際仕合に出るために渡米する予定だった。三月はトーナメント戦で、サンフランシスコからニューヨークまで五都市を横断する。総司は道場からたった独りで参加することになっていた。

(勇気のいることだ。心から尊敬する)

 斎藤は総司の顔を見ながら、そう思っていた。総司は、旅費のほとんどを自分で貯めたバイト代で賄う。試衛館道場の代表として、天然理心流を広めるという目的があると語った。総司は「己の剣で世界征服する」と冗談のように言って笑っているが、この大きな野望に総司が本気で取り組んでいることを、斎藤は一番よく知っていた。

「稽古は、俺も一緒に受けたいと思っている」

 斎藤はそう言って、年明けからの道場稽古に一緒にでて自分も精進したいと言って総司を喜ばせた。

「はじめ君がずっと会津の道場交流を続けているのに、触発されたんだよ」

 総司は嬉しそうに話す。普段、総司はこういった話を滅多にしない。いつも斎藤を揶揄い、「はじめくんは真面目過ぎる」と呆れているが、総司も流派普及にもっと自分も貢献したいと強く思うようになったと話す。

「僕には剣術しかない」
「高みを目指すことをずっとやめたくないんだ」

 珍しく総司は真剣な話を続けた。もう既に平助は泥酔状態で、野村と相馬はこっくりと眠り始めていた。客間から布団を持ってきて、三人を寝かせた。斎藤は、総司と二人で語らいながら過ごし、家には帰らずに道場に泊まった。早朝に総司と起きだして、道場で思い切り打ち合ってから家に帰った。



*****

 

新年

 それから、数日後。風間主催のチャリティークラッシックコンサートに再び斎藤は呼ばれた。誰もいない桟敷席で、千鶴の肩を抱きながら一緒にゲネプロの演奏を楽しんだ。マチネの間だけ受付を手伝った千鶴と夕方早くに会場を後にした。早々に席を立った千鶴を風間千景はしつこく引き留めたが。途中で伊庭八郎が黒いタキシード姿で颯爽と現れて、千鶴に親しく挨拶すると、風間は出鼻を挫かれたように、苦虫を噛み潰したような表情でそれを見ているしかなかった。斎藤は、そこで初めて、千鶴に伊庭八郎医師を紹介された。

(どこかで会った……気がする)

 伊庭八郎。その名にも覚えがあった。ずっと遠い昔の記憶。なんだ。これも、例の過去の断片か。斎藤は、再び自分の心の声が聞こえてくる予感がした。奇妙な胸騒ぎと、どこか懐かしいあの独特の感覚。強い既視感。デジャブ。

 そんな風に思いながらも、千鶴に妙に近づくこの男を斎藤は内心で強く警戒した。とられる。そう強く思った。

 ——千鶴を取られる。

 それは実際、今に起きていることでもあり、過去にそんな経験をしたかのような奇妙な既感覚だった。斎藤は頭を左右に振った。そうすることで頭の中からも、心からもそんな感覚を振るい落してしまえる様な気がした。

「はじめまして、伊庭です」
「不思議です、初めてお目にかかったような気がしません」

 そう言いながら、笑顔で右手を差し出した伊庭は、斎藤の右手を強く握った。斎藤も強く握り返した。真剣を握った時のような共鳴が手を繋いでいない左手に走った。互いに目を合わせて見つめ合った。ほんの一瞬だが相手が真顔になった。深緑の瞳。一体、なんだ。

「それじゃあ、千鶴ちゃん。僕は、第二部の演奏を楽しんで来るよ」

 そう言って、伊庭は優しく千鶴に笑いかけると、斎藤にも礼儀正しく会釈してから会場の奥に消えていった。傍らに立っていた風間は、コンサート会場の隣接するホテルに寛げるように部屋を用意しているとしつこく千鶴を誘ったが、千鶴は、「これから約束がありますので」と丁寧に断って会場を後にした。

 車で来ていた斎藤は、そのまま千鶴とドライブに出掛けた。久しぶりに二人きりで遠出して、二人きりになれる場所で睦みあった。それは夏以来のことで、斎藤は存分に思いを遂げた。千鶴は美しく、斎藤の愛撫に敏感に応える様子は斎藤を暴走させた。許される時間のぎりぎりまで、二人で過ごした後、夜中に日にちが変わる少し前に診療所に千鶴を送り届けて、斎藤は家路についた。

 そして間もなく年は明け、斎藤は、二十歳の誕生日を迎えた。千鶴も同じ月に十九歳になる。数えで二十歳。振袖姿で初詣にあらわれた千鶴を見て、斎藤はその華やかな美しさに心を奪われた。上げ髪の横顔は、過去の姿の断片を呼び覚ます。年始の挨拶と稽古に試衛館道場の近藤の元を二人で訪ねた。近藤は、晴れ着姿の千鶴を見て、大いに喜んだ。

「こうして二人を見ていると、若い夫婦のようだ」
「実に目出度い」

 同じ事を過去にも言われたような気がするのは自分の思い違いだろうか。だが、近藤のどこか遠くを懐かしむような表情は、自分や千鶴を通して遠い昔の記憶の断片を追っているようにも感じる。

(局長、今年もどうぞよろしくお願いします)

 同じように心の声でも挨拶が聞こえる。

 千鶴が待っている中、斎藤は元旦の稽古を終えて、再び二人で街を歩いた。着物姿の千鶴の手を引いていると、ただ幸福感の中にあって。よい年が迎えられた悦びと、千鶴と共に生きる実感で斎藤は希望の光の中を歩いているような気がしていた。



****

 

スイートルームの一室にて

 元旦の朝の光が射しこむ、ホテルの一室。

 そこで、風間はバスローブを羽織ったまま、気だるい様子で長椅子に座っていた。

「それにしても、あの者……」
「虫の好かぬ奴とは、あのような者か」

 風間は、酷く憤った様子で独り言のように呟いている。テーブルの上には、研究センター関連の書類が散乱しているが、一番上に広げられている資料は、天霧に調べさせた「伊庭八郎医師」の身辺資料だった。家柄、品行、医師としての才覚、実力、人柄、容姿、剣術の腕など、どこをとっても非の打ちどころがない。それだけならまだしも、伊庭八郎は、雪村千鶴と幼少から懇意にしているという箇所に赤い下線がひかれていた。その報告の最後には、現在雪村千鶴の住まう自宅に数間の渡り廊下で繋がった診療所に毎日出勤しているとあった。

 物理的にほぼ毎日雪村千鶴の生活圏にいる男。

 風間は、この資料をみただけで伊庭を脅威に感じていた。雪村千鶴は二十歳になる。

 ——俺様の妻として迎えるにふさわしい年齢に。

 雪村千鶴。近い内に、婚約の儀を結ばねばならぬ。それにしても、この伊庭八郎という男。油断ならぬ。千鶴が熱を上げている斎藤は、俺様がその気になれば、いつでも爪の端で弾けば視界から抹殺することも叶おう。だが、伊庭とやらは。雪村鋼道の開発センター設立顧問委員にも名を列ねておる。なまじ、病院関係の者であれば、消し去ることも慎重にならざるを得ない。

 面倒な男だ。試衛館の土方より面倒だ。だが、雪村千鶴の目の前から、あの者を消し去る必要がある……。

 風間は、傍らの天霧に更に詳細な身辺調査を行うように命令した。天霧は「承知」と返事をしたが、「研究センター顧問メンバーには申し分ないお方かと」と疑問を口にした。

 ——あの者、「ノーブルな貴公子」という属性が俺様と被る。

 不満そうな風間の声が部屋に響いた。天霧は、改めて風間に渡された資料に目を通していた。「消し去るには、惜しい人材です」と残念そうな声で苦言した。

 風間は鼻先であしらうかのように、ふっと笑うと。

「あのような些末な者。消えても何の障りもない」

 そう言って、窓辺に立った。明るい元旦の朝の光が風間の睫毛に射し、深紅の瞳が黄金色に輝いていた。



つづく

→次話 FRAGMENTS 11




(2019/12/23)

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