初午
文久四年冬 壬生村の屯所にて
斎藤が朝の稽古に向おうと離れから母屋の廊下に向かっていると、千鶴が駆けて来た。
「丁度良かった、今隊服をお持ちしようと」
手に畳んだ羽織を持った千鶴は、斎藤に渡すと、その上には綺麗に畳まれた襷も載っていた。数日、霙交じりの冷たい雨が続いていて、洗濯物が乾かず火熨斗をかけた隊服を急ぎ持って来たという。斎藤は礼を言って受け取った。千鶴は、部屋から出て来た藤堂平助にも隊服を渡した。
「ありがとう。まだ温ったかい」
そう言って、嬉しそうに「へへへ」と平助は笑った。千鶴は、「今日は初午だから御揚げを煮てお稲荷さんを作ります」といって踵を返して廊下を走って行った。平助は、「あとで手伝ってやるよ」と声を掛けるように言うと、千鶴は振り返って会釈してから走っていった。
斎藤は部屋に隊服を置きに行こうとすると、平助は渡り廊下で隊服に顔を埋めたまま立っていた。
「いい匂いがする」
平助は斎藤に、「あの子が洗濯すると、いい匂いがするんだ」と告白するかのようにいうと、斎藤は息を止めたようになってじっと立ち止まった。
「甘い、なんともいえねえいい匂いだ」
平助は微笑みながら再び隊服の匂いを嗅ぐと、「千鶴の匂いだ」といって自室に向かって歩いていった。斎藤も自室に戻った。そっと手に持った隊服の匂いを嗅いだ。甘い香り。まだほんのりと温かい。雪村の匂い。襷にも残り香がしていた。それも手にとって匂いを吸い込んだ。不思議だ。雪村が扱うだけで、洗いものに優しい香りが漂う。
俺だけが知っていると思っておったが。
斎藤は、さっき廊下で見た平助の恍惚とした表情を思い出した。平助はあからさまな奴だ。洗濯物の香り、雪村の髪から香る匂い、すれ違いざまに、甘い匂いがする。だが、誰にも言えずにいた。そうか、平助も知っていたのか。そんな風に思いながら、部屋からでて道場に向かった。
勝手口から台所で平助が炊事を手伝う姿が見えた。竃の前で大きな鉄鍋をゆすっている。
「胡麻は炒れたぞ、千鶴」
張り切って声を掛ける平助は、千鶴に指示されて大皿の上に炒りたての胡麻を広げた。斎藤が入口から覗きこんでいるのを知らずに、二人は仲睦まじく鍋を一緒に流しで洗っていた。
「ありがとう、平助君。あとは全部、私出来るから」
「いいって、いいって」
平助は、稽古をそっちのけで炊事を手伝う気でいるようだった。斎藤は、そのまま道場に向かった。それから半刻、みっちりと隊士たちに稽古をつけた。平助が途中で加わって、仕合形式の打ち合いを行った。稽古の後に汗を拭っていると、巡察の当番が急遽変更になったと左之助が声を掛けて来た。平助は、慌てて十番組の巡察に一緒に出て行かなければならなくなり、そのまま母屋に向かって走っていった。
斎藤は、汗が引くのを待ってから長着を着直すと、母屋の廊下に向かった。ちょうど、お勝手口を通ろうとすると、廊下に千鶴が出て来た。
「お疲れ様です。斎藤さん」
「稽古終わられたんですね」
「ああ」と答えた斎藤に、お茶を煎れましょうかと千鶴は尋ねたが、斎藤は水を一杯飲みたいと言って、千鶴と一緒に台所に入って行った。竃の大鍋から湯気が立って、いい匂いが土間に漂っていた。千鶴が水瓶から湯飲みに水を入れたものを渡すと、斎藤は立ったまま一気に飲み干した。
「礼をいう。いい匂いがしておるな」
「はい、お揚げを煮ています」
そう言って、千鶴は湯飲みを受け取ろうと手を差し出したが、斎藤は「いや、いい。俺が片付ける」と言って流しの前に立った。千鶴は大鍋の落し蓋を開けて、菜箸を持って鍋の中を覗きこんでいる。斎藤がその隣で湯飲みを洗っていると、千鶴が小さな取り皿に御揚げを載せたものを斎藤に差し出した。
「お味見、してもらえませんか」
斎藤が、湯飲みを伏せて。手を拭こうと手拭を探していると。
「お口を開けてください」
そう言って、千鶴は小さく切った揚げを菜箸で斎藤の口元に運んできた。小さな手を添えた御揚げが口元の近くに来た。斎藤は急な事で驚いた。目の前に御揚げを持って千鶴が背伸びをするようにじっと下から覗き込んでいる。小さな手の先が、斎藤の顎に触れていた。
どきどきした。
千鶴は、嬉しそうに御揚げを斎藤の口の中にそっと入れた。甘い。美味い。柔らかくて、美味い。直ぐに揚げは斎藤の口の中から消えていった。
「美味い」
「よかった。甘過ぎないですか」
「いや、ちょうど良い」
「醤油辛くないですか」
「いや、ちょうど良い」
千鶴は「良かった」と言って、また大きな塊を斎藤の口元に持って来た。もう手を拭き終わっていたが、「あーん」と千鶴に云われるままに口の中に入れて貰った。恥ずかしい。とてつもなく恥ずかしい。
「……美味い」
嬉しそうな顔で覗き込んでくる千鶴と眼を合わせるのが恥ずかしいが、やっとそう言えた。耳まで紅くなってしまっているのが判った。千鶴は大鍋の中を菜箸でつつきながら、「でも……」と呟いている。
「さっき、お雅さんが『なんで、こないに真っ黒にしてしまいはるの』って……」
「真っ黒でしょうか」
千鶴は斎藤に尋ねた。斎藤は、千鶴の傍に立って鍋を覗いた。
「俺は、そうは思わぬ。江戸で食べていた稲荷の色はこんなものだ」
「私、江戸では黒砂糖が手に入ったら、お醤油と御揚げを煮ていました」
「父さまは、甘辛い御揚げが好みで……」
「俺もそうだ。飯は酢がきいたのがよい」
「はい、酢飯はそのほうが。胡麻も沢山」
「ああ、胡麻は多ければ多いほど良い」
千鶴は嬉しそうに斎藤の顔を見上げていた。「胡麻をたっぷりと入れてお作りします」と言って、隣の竃の上の飯炊き窯の火加減を確かめている。斎藤は、しゃがみ込む千鶴のことをぼーっと立ったまま眺めていた。
「お昼に、お出ししますね。お吸い物と」
千鶴は立ち上がって、斎藤に笑いかけた。そして、ふと気が付いたように斎藤に近づいた。懐から手拭を出して、小さく畳んだ端を持って、斎藤の胸に手を添えるように背伸びをすると、斎藤の口元をそっと拭った。口の両側に稲荷のたれが付いたままになっていると、笑っている。
甘い、やさしい香り。
手拭と千鶴から漂う芳香に、また胸がどきどきした。身が固まってしまって、後ろに下がるべきかどうしようか迷う。千鶴は、「とれました」と言って、丁寧な仕草で手拭を懐にしまうと、また新しい湯飲みに水を汲んで斎藤に差し出した。
「お忙しいところ、お留め立てしました」
「斎藤さんに、お味見してもらったので。これで安心して出せます」
頭を下げて礼をいう千鶴に、斎藤は黙って頷いた。
昼餉に大量に稲荷ずしを並べた大皿が並べられ、幹部の皆は喜んで食べた。平助は十五個、土方は十二、総司も十個すすんだ。斎藤は、二十個をぺろりと食べて、千鶴を喜ばせた。
その日の午後、斎藤は伏見への巡察に出掛けた時に、初午の「しるしの杉」を特別に千鶴の為に買って帰った。千鶴は大層喜んで、部屋の柱に飾り毎日手を併せるようになった。青杉の穂の香は、どこか清廉とした斎藤を思わせるもので。斎藤から香る匂いと似ていると、いつも千鶴は思っていた。
了
(2019.01.03)