無患子

無患子

戊辰一八六八 その16

白河奪還作戦

慶応四年五月二十三日

 三代宿に待機していた斎藤達は白河奪還の為に、会義隊と共に勢至堂峠に向かった。

 長沼宿で米澤藩兵と合流し大きな隊となった。五月一日の白河城落城の後、仙台藩、米澤藩が中心となって東北諸藩が合議を重ね、新政府への徹底抗戦を決めたのが数日前の五月二十日。仙台藩が白河奪還を呼び掛け、会津藩を含む奥羽越列藩同盟を結んだ三十一の藩は白河に応援兵を次々に出兵していた。

 長沼の陣での待機中、千鶴は新選組が陣を上小屋に敷くことを告げられた。夜間の内に上小屋へ移動し、明け方に陣を整えて再び会義隊と出発する。千鶴は、兵糧の最終確認をして雨避けの筵を運ぶ為に建屋の外に出た。低い雲が立ち込めて来ている空は今にも雨が降り出しそうだった。

「筵をあと十枚、だめ、十五枚は持っていかないと」

 独り言を言いながら、物置に向かって走りだした千鶴は振り返りざまに誰かとぶつかった。背中に腕が回されて、躓くようになったところを抱えられるように身体を真っ直ぐにされた。目の前に見えたのは、喉元。白いシャツ。千鶴は、慌てながら顔をあげると斎藤の碧い瞳が傍にあった。

「すみません」

 謝る千鶴は目を逸らすように俯いた。頬が熱い。斎藤は、ずっと千鶴の背中に手を回したまま「何をしている」と静かな声で尋ねた。千鶴の手は斎藤の右胸にあてたまま。それに気づいた千鶴は慌てて手を引っ込めた。見上げた時に、斎藤と眼があった。真っ直ぐに自分の目を見ている。優しい眼差し。口元は微笑んでいるように見えた。千鶴は動けなくなった。息ができない。

「着替えは広間にあるのか」

 斎藤の声が聞こえているが、千鶴は小さく頷くしかできなかった。斎藤が隊服の上着の場所を訊ねている事に気が付いたのは、そのずっと後だった。斎藤の腕の中から離れて、再び「ここで何をしている」と問われて、ようやく物置に筵を取りに行くところだったことを思い出した。雨よけの筵を荷車に掛けておくと応えると、斎藤も一緒に物置についてきた。暗い物置の中で、斎藤の白いシャツが白く浮かび上がっていた。シャツ一枚で、斎藤が歩き回る姿を千鶴はあまり見た事がない。さっき千鶴が驚いたのは、斎藤のシャツの襟の釦が開いたままで喉が目の前に見えたからだ。いつも首元を襟巻で覆っている斎藤がそのような姿でいる事は滅多になかった。

「知ってる? はじめ君、首が弱点なの」
「こそばすと、飛び上がるよ」
「だから、いつも襟巻で覆ってる」
「首が弱いの丸出しでしょ」

 京の屯所で暮らし始めた頃、千鶴は斎藤の弱点が首だということを沖田総司に教えられた。首を触られるのを嫌い、それゆえ夏でも襟巻をしていると。千鶴は成る程と納得した。だが、時折襟巻を外している斎藤の首元を目にすることもあった。斎藤の喉には立派な喉仏がある。長い首に大きな骨の塊が動くのが不思議だった。千鶴は、斎藤が襟巻をとった喉を見るのが好きだった。それは千鶴の密かな楽しみだった。

 物置の暗がりで、目の前の斎藤の大きく開いた襟元を見て、心の臓が早く打った。千鶴は、一体どうしてこんなにも動悸がしているのか不思議で、夕餉に食べた何かにあたったのかと鳩尾を押えた。

「俺は十枚もあればよいと思うが」
「雨水を吸うと、筵は重さが増す」

 斎藤が自分に話しかけている事に気付くまで、何度も名前を呼ばれた。

「雪村、どうした。筵の他にも運ぶものがあるのか」

 斎藤が物置の入り口で振り返った。千鶴は「いいえ、なにもありません」と応えて斎藤に付いて外に出た。斎藤は兵糧を積んだ荷車に丁寧に筵を掛けて縄で縛ると、雨が降って来たから戻ろうと言って、建屋に走って行った。洗濯を済ませた隊服を置いてある広間に、隊士全員が集まって各自が荷物をまとめて行軍の準備を進めていた。千鶴は、斎藤に隊服を渡すと、自分も筒袖に着替えに奥の間に戻っていった。



****

 

 それから直ぐに長沼を出立した。雨が降り始めた中、街道を急ぎ下っていく。夜更けに上小屋に到着した新選組は、予め割り当てられた陣屋に入り、濡れた隊服を乾かしがてら、隊士全員が下着姿で雑魚寝を始めた。千鶴は浴衣に着替えて、斎藤の上着とシャツを建屋の軒下に干すと、斎藤に夜食を用意して持っていった。

 灯をともさない部屋で、斎藤は窓辺に独りで立っていた。ズボンだけを身に付けて、上半身には何も身に付けずにいる。千鶴は廊下から、声だけをかけて夕餉を持ち寄ったと言って外で待った。

「入れ」

 静かに言われて。千鶴は膳を持って部屋に入った。斎藤は、手拭を手に持って身体の汗を拭っている。千鶴は、お膳を置くと行灯を灯した。斎藤の手から手拭を受け取って、背中の汗をそっと拭いた。斎藤は固まったようになって、「自分でやるからよい」と千鶴の手から手拭を取り返した。振り返った斎藤の顔は赤くなっていた。千鶴も気恥ずかしさに顔がみるみるうちに赤くなるのが判った。

「蒸し暑いので、冷たいお水を。今、お持ちします」

 斎藤が自分の顔を見ているのを感じながら、千鶴は顔を背けるように障子まで足早に進むと、走り去るように廊下に出た。お勝手に出て、水瓶の水を湯飲みに汲んで一気に飲み干した。胸がどきどきとしている。今日はおかしい。わたし、どうしちゃったんだろう。

 千鶴は、一息つくように自分の胸に手をあてた。行軍が決まって、白河のお城を取り戻すと皆さんが勇んでいらっしゃる。まだ戦が始まってもいないのに。しっかりしないと……。千鶴は、首をぶんぶんと横に振って、気持ちをしゃんとさせようとした。そして、水差しに冷たい水と湯呑み用意して、斎藤の部屋に持って行った。

 斎藤は、もう夕餉を食べ終えていて、シャツを着た姿のまま行軍図を広げて眺めていた。千鶴は、湯飲みの水を差し出し、斎藤がとつとつと説明する行軍と城攻めの計画を静かに聞いていた。

「俺等は先鋭部隊として、ここに出る。城の城壁にどれぐらい近づけるかだ」

 斎藤は城の北側に流れる川を指していた。この雨では水嵩も増しているだろう。橋を落として攻め込む必要があると言われて、白河口での闘いを思い出した。橋の向こうから大きな砲弾が飛んで来た。何人もの人が吹き飛ばされ黒い煙が立って地響きがした。恐ろしい光景。それでも、皆さんは立ち向かって行かれるのだろうか。

「雪村はこの陣で待機していて欲しい。戦は暫く続く。兵糧の補給準備をしておいてくれ」
「はい」
「陣屋は三軒確保してある。地頭を一人護衛につけておくゆえ心配には及ばぬ」
「はい」
「数刻のうちに米澤藩が到着する。会義隊と隊を整えて、その後をついて柏野に向かう」
「かしわの……」
「ああ、雪村はまだ行ったことがなかったな。間道を横切る。狭い道ゆえ、移動には少し時間がかかるが、俺等は、柏野から一気に六反山へ向かう」

 山から一気に城へ攻める。そう斎藤が話すのを千鶴は大きく頷きながら聞いていた。きっと大きな戦いになるだろう。斎藤は夕餉の礼を言うと、千鶴に休むように言った。千鶴は「はい」と返事をすると、膳を下げ「おやすみなさい」と挨拶して、部屋から下がった。斎藤は、刀の手入れをしてそのまま眠らずに明け方に米澤藩兵が到着するまで起きていた。



****

六反山

 それから数刻の内に、斎藤達は米澤藩兵の後に続いて殿を徒歩で柏野方面へ向かい出立していった。夜明けも近い。千鶴は、日中曇り空のまま強い日差しが射さないことを祈った。

 斎藤達は間道を柏野から米村の村落を抜けて、丘陵の襞をそのまま六反山に向かった。ずっと小ぶりの雨が続き、阿武隈川のほとりに居る敵兵に向けて銃砲を放った。川の水嵩が高く、渉ることは不可能だった。敵軍は六連発銃で次々に撃ってくる。米澤藩兵は旧式の火縄銃で応戦しているが、圧倒的に砲撃の数では負けていた。一向に敵は退却する様子がなく、河を超えて攻めるには、味方兵の数が足りないと判断した同盟軍は、六反山からの撤退を決めた。

 雨が強く降り出した。敵の砲火が止み、その時を見計らって、斎藤達は退却していった。陽がまだ高い内の敗走だったが、敵の追撃は一切なく昼八つには、上小屋の陣に戻ることが出来た。ぬかるみの中を走った斎藤たちの靴も靴下も泥に濡れていて、千鶴は下足掛と一緒に上がり口で隊士たちの履物の泥を落とし、その後洗濯に勤しんだ。

 斎藤は休む様子もなく、ずっと軍議に出ていた。夜遅くに部屋に戻り、千鶴は遅い夕餉を運び給仕をした。斎藤は黙々と食べ続けた。千鶴は斎藤の濡れた上着に火熨斗をかけて乾かし、明け方に部屋に持って行った。斎藤は部屋で休んでいた。眠る斎藤の枕元に隊服を置いて、朝餉の仕度をした。隊士たちと斎藤は早い時間にひとたび大広間に集まり、行軍の説明を始めた。千鶴は、最後の部分だけしか聞く事は出来なかった。今日の行軍は「遊撃隊」と合兵して六反山から攻めると言う事は判った。遊撃隊は、会津藩の主戦力となっている大きな隊だった。バタバタと出陣の準備を始めた隊士たちを手伝いながら、千鶴は兵糧の補給をして、陣の出立を見送った。殿を歩く新選組の歩兵が坂の向こうに見えなくなる時、自然と胸の前で手を合わせて強く皆の無事を祈った。

 斎藤達が大谷地から六反山の山襞を通った時に、既に先に進んでいた米澤藩兵が発砲を始めた音が聞こえた。敵兵は既に阿武隈川を渡って六反山に攻めて来ていた。山頂に着く前から、斎藤達は抜刀して一気に山の中腹から山道を東側の山塊に繋がる山襞を駆け抜けて、敵兵に斬り込んで行った。六反山には鬱蒼と茂った木々で空から射す光は届きにくい。斎藤は、山の裾野から駆け上がって来る敵兵を叩き斬るように倒していった。薩摩の旗と土佐藩の旗が見える。草むらに蠢く兵士の数、百は居ただろう。米澤藩兵は、山の頂上から切り崩そうと大砲を撃ち続けているが、敵も後退しながらも砲撃を止めない。

 大きな喇叭の音が遠くに聞こえた。頂上からの砲撃が止んだ。山の中腹の背後に、土佐藩の旗が見えた。

 しまった。

 斎藤は、会義隊の背後に迫る敵兵を見て、六反山が西側からも攻め込まれた事に気が付いた。山の東側の林に走り抜けた。裾野の薩兵は、砲撃を辞めて河岸を西側に進み始めている。陣形移動か、斎藤は林に潜みながら、敵の動きを確かめた。背後に土佐藩が追って来る。素早く味方の兵士に指示を出して、そのまま六反山の裾野を東側へ駆け抜けた。陽の光が眩しい。痛い。焼け付くようだ。斎藤は必死に走った。背後に発砲音と味方の兵が撃たれて、叫ぶ声が聞こえた。

 六反山の山襞をひたすらに駆けて大谷地まで戻った。島田魁が肩を撃たれていた。他に部下の三名が負傷している事が判った。怪我人を荷車に載せて、間道を走って刎石の防塁まで敗走した。会義隊と一緒に防塁に隠れて、敵の砲撃から身を守った。味方の兵士の死傷者は十二名。米澤藩兵は既に勢至堂方面に移動しているという伝令を受けた。陽が暮れて、漸く敵の砲撃が止んだ。斎藤は、街道に斥候を走らせて上小屋までの街道の安全を確認させた。

 斥候の報告では、本道移動は危険だということだった。陽が完全に落ちるまでに、長沼まで間道を進む必要があろう。斎藤は隊を三つに分けて、順番に獣道を進むように指示をした。獣道は、間道に平行するように宿場から宿場を繋ぐ斎藤たちの秘密の通路。夜間でも確認が出来る光苔の傍に鉄杭を打って道標を付けてあった。十六ささげ隊の秘密の通路。辺りには、敵兵を落とす為の穴も掘ってある。塹壕の傍の大きな溝。一歩足を踏み外すと、一軒分はある大きな塹壕の隙間に落ちる。長沼から白河まで。間道の中に、このような罠が無数に仕掛けられてあった。

 大きな塹壕で一休みをすることになった。幸いにも怪我人は、全員止血がされて意識もあった。朝から何も食べていなかった兵士は、乾いた飯に梅干しが挟んである竹皮を打飼から取りだして「うまい、うまい」と言って貪り食べた。

 岩の隙間の湧き水を汲んだ隊士が、塹壕の溝の中に下りて行くのが見えた。斎藤は、水を飲んだついでに、塹壕の上から消えた隊士に声を掛けた。

「局長、ここはムクロジの宝庫です」

 声の主は、吉田俊太郎だった。ちょうど空の晴れ間から射す月明かりが塹壕の溝の中を照らしていた。ぼんやりと底に拡がる白っぽい地面は、一面にムクロジの実が降り積もるように落ちていた。斎藤は周りに植わっている木が全て無患子であることを確かめた。斎藤が溝の中に飛び降りると、部下の吉田は、地面の実を拾って手に持っている大きな布袋に詰めていた。

「これ、持って帰ると、雪村君が喜びます」
「長沼でも、拾っていましたからね」

 斎藤も足元に沢山落ちている実を両手で掬うように拾っては、吉田の拡げている袋の中に入れて行った。

「洗濯に使うそうですよ。泡が立って綺麗になるって」

 斎藤は、大量に両手で掬った大きな実をどんどんと袋に詰めるように集めている。

「血は、ムクロジの泡で良く落ちるゆえな」

 静かに斎藤は話した。袋が満杯になって吉田は、「重いな」と言いながら背中に背負うようにして縛ると、傍にあった蔓を掴んで塹壕の上によじ登った。上から斎藤の手を引き上げると、二人で隊の集まる場所へ戻って行った。

 斎藤たちが上小屋に辿り着いたのは夜更けだった。千鶴は、速やかに怪我人の手当てをした。新選組隊士たちの怪我は、鉄砲が皮膚をかすめただけの軽傷だと言って安堵した。島田魁だけは、肩の腱の傍の銃創で安静が必要だった。千鶴は念の為に銃創を縫って手当した。出血がそれほど酷くなかったのは、島田が自分で肩を固定して晒しで縛っていた為で、その適格な応急処置に千鶴は感心した。

「わたしは山崎くんから、常日頃、手ほどきを受けていましたからね」

 包帯を丁寧に巻いている千鶴に島田はそう言って、手助けされながらゆっくりと布団に横になった。千鶴は化膿止めの薬草を煎じて、島田の枕許に持っていき飲ませた。

「今夜はゆっくりお休みください」
「局長は、牧野内ですか」
「いいえ、暫くこちらで休陣されます。どうぞ安静にしていてください」

 島田の部屋の行灯を吹き消して、千鶴はお勝手に向かった。激戦だった事は確かだ。帰陣した時の、皆のくたびれきった表情を思い出す。隊士たちが脱いだ服は、泥と血まみれになっていた。盥の中に積まれた服の山を見て、千鶴が溜息をついていると、いつの間にか背後に斎藤が立っていた。

「そこに置いてある袋のなかに、ムクロジの実が入っている」
「吉田が刎石の塹壕の傍で拾ってきた」

 千鶴は、「まあ」と驚嘆の声を上げて、袋の中を見ている。「こんなに沢山」「大きな実」と袋の中から実を取り出して掌に載せて眺めた。

「有難うございます。お洗濯に。これだけ沢山あれば、皆さんの隊服を全部洗えるかも」

 千鶴は嬉しそうに袋を抱えて、斎藤に礼を言った。そして、斎藤に下着も靴下も全て洗濯に出して下さいねと念を押すと、さっそく洗濯に取り掛かろうとした。

「今から、洗うのか」
「はい、水につけておこうと思って」
「今日は遅い。井戸端までこれを運ぶなら、明日の朝に吉田達に手伝わせる」

「いいえ、そんなこと。頼めません」

 千鶴は首を振って断った。結局斎藤が盥の洗濯物を井戸まで運び、水を汲み上げるのを手伝った。

「お疲れになっているところを、こんなことまでして頂いて」
「礼には及ばぬ」
「月明かりは、俺にとっては昼の光だ」

 優しく笑う斎藤の横顔を目の前にして、千鶴は返す言葉もなくただ見つめるしかなかった。もう丸二日はまともに眠っていらっしゃらない。千鶴は急に斎藤の体調が気になった。

「お休みになってください」
「ああ、横になる。暫く休陣することになる」
「牧野内へ行かれるのは、本当ですか」
「ああ、軍議に出る」
「起きて、すぐに向かわれるのですか」
「ああ」

 斎藤は、足早に建屋に歩いて行きながら応えた。それなら、幾らも休むことが出来ない。千鶴は心中で思った。小走りに斎藤を追いかけるようにして、建屋に入ると急いで斎藤の部屋を整えて寝間の準備をした。用意をしておいた長着を差し出して着替えを手伝おうとすると、斎藤は「自分でできる」と千鶴の手から離れようとした。

 その直後だった斎藤は苦しそうに膝を落とすと両手を畳についた。羅刹の発作。荒い息を必死にこらえるように呻き声を上げている。銀色の髪。千鶴が駆け寄ると、瞳が深紅になった顔を背けて「離れろ」と腕を突っぱねられた。

 千鶴は、傍にあった脇差を手に取って、耳に傷をつけた。蹲る斎藤の肩を持ち上げるようにして、自分から斎藤に血を飲んで貰った。荒い息が徐々に静かになっていく。温かな唇が耳に触れたまま。腰に回された手に力が入って、一瞬強く抱き締められたように感じた。鼻から溜息のような息を吐くと、ゆっくりと斎藤は千鶴を腕から離した。顔を背けたまま、項垂れるように小さな声で「すまん」と謝った。発作が収まった様子を確かめられて、千鶴は安堵した。無理もない。連日の出陣の上に、昼間の光の中を……。どれ程苦しい思いをしていらっしゃるのだろう。何も言わずに、お独りの内に我慢をされて……。

「お腹が空いていらっしゃるのでは。すぐに食事を用意します」

 顔をそむけたまま、腕で口を覆ってうなだれている斎藤に千鶴は尋ねた。「いや、いい」と答えた斎藤は「すまぬな」と再び謝った。千鶴は、正座したままずっと斎藤を見ていた。今日は、敵兵に刎石の陣まで追われて陽が暮れても砲火は止まなかったと聞いた。道のない道を進む間道移動は、それだけでも体力を消耗する。

「疲れておるだろう。今日は遅い。休め」

 斎藤は、千鶴に部屋から下がるように言うと、立ち上がって廊下に出た。千鶴は斎藤が、そのまま陣屋の外に出ていく後ろ姿を見ていた。こうして、必ず夜に外に出ていく。きっと、夜空を眺めにいらっしゃるのだろう。

 雲の間の星空を
 ひとりで見つめて

 千鶴は部屋に戻って横になった。夢の中で、斎藤が闇夜の向こうに歩いていく姿が見えた。千鶴は追いかけるが、どんどんとその背中は遠くなる。手を伸ばせば届くのに。声をかけても、斎藤は振り返るように首を動かすように見えるが、そのまままっすぐに進んでいく。

 どこに行かれるのですか。
 待ってください
 斎藤さん、斎藤さん

 林の向こうを進む斎藤の背中を、追いかけても、追いかけてもなかなか近づけない。



*****

 

 朝になって目覚めたとき、千鶴は涙で枕も自分の髪の毛も濡れているのに気が付いた。悲しい気持ちが胸のあたりに残っていた。悪い夢を見ていたのか。千鶴は寝間着の胸元を抑えて、しばらく起き上がれないままぼんやりとしていた。

 いけない。

 今日はお洗濯をしなくちゃ。千鶴は起き上がると、急いで着替えて朝餉の支度をした。隊士たちは、まだゆっくりと眠っているようだった。怪我人の部屋に行くと、島田も静かに眠っていた。熱が出る様子もなく千鶴は安堵した。斎藤が部屋にいて、軍議を上小屋にいる隊で開いた後に、翌日に牧野内に移動することになったと知らされた。千鶴は、斎藤が陣を移る必要がなくなったことに安堵した。

「斎藤さん、薄明の膳をご用意しています」

 千鶴は張り切って、斎藤を呼びに来た。二人で久しぶりに一緒に朝食をとった。何か魚のようなものが醤油で煮てあるもの。沢庵。麦飯に赤紫蘇の塩漬けが細かく切ったものが混ぜてあり、焼いた味噌が載せてあった。

「冷ました番茶がございます」

 千鶴は、茶瓶から茶碗にお茶をかけて茶漬けにしろと笑っている。斎藤は、言われた通りにしてみた。うまい。蒸し暑い空気の中、これだけさっぱりとした朝餉が食べられるのはこの上ない喜びだった。

「これ、棒鱈です。沢山御城下から持ってきましたから。日持ちはするし水で戻せばこうしてよい御出汁になります」
「こーんなに大きいんです」
「薩兵が来たら、これをこん棒にして戦うこともできます」

 千鶴はいつの間にか、棒鱈の干したものを勝手口の食糧庫から持ってきて斎藤に見せた。確かに大きな干物で硬い。千鶴が刀を構えるように棒鱈を持つ姿を見て斎藤は笑顔になった。

「芋も鱈には敵わぬな」

 斎藤はおどけるような事を言って千鶴を笑わせた。そうです、お芋なんて、この鱈でぽっきりと折ってやります。千鶴は勇ましい口調で棒鱈を抱えて勝手口に片づけた。千鶴は斎藤が食事を終える前に、斎藤の部屋に行って寝間を整えた。すぐに休んでもらおう。

 斎藤は、部屋に入ってきて千鶴に言われるままに隊服を脱いで横になった。上掛けをお腹の上にかけて、顔を覗き込んだ千鶴は、もうすでに斎藤が深い眠りについて静かに寝息を立てていることに気づいた。千鶴はそのままそっと部屋を後にした。



******

 

 斎藤が数刻のうちに目覚めたとき、すでに陽が高くなっていた。

 厠に向かった斎藤は、建屋の向こうから遠くに大きな声がしているのを耳にした。なにやら、隊士たちが騒いでいるようだ。斎藤は訝しく思いながら、草履を履くとゆっくりと声の聞こえる方へ歩いて行った。

 井戸端では、隊士たちが洗濯をしていた。皆が着物の裾を尻まくりして洗濯石の上で足踏みをしている。中には、褌一丁になっている者もいた。皆で歌に合わせて拍子をつけて、飛び跳ねては、何度も足で洗い物を踏んでいる。斎藤は、井戸の柱につかまりながら、大きな盥の中に立つ千鶴を見た。

 白地に紺の葦模様の浴衣を着た千鶴は、裾をまくって両足をあらわにして洗濯ものを踏んでいた。泡立った盥の中の水は、千鶴のすらりと伸びたふくらはぎに白い泡沫を打ち突け、波打つように揺れていた。斎藤は、千鶴の白い肌に目が釘付けになって動けなくなった。

「それ、もう一丁、どっこいしょっと」

 誰かの掛け声で、千鶴はまた構えて何度も飛び跳ねている。その笑顔と膝頭とその上の太腿は、朝の光の中で輝くようで。斎藤はただぼーっと見惚れたままになっていた。

「あ、局長。おはようございます」
「こちらへ、陰がありますから」

 隊士たちは、道を開けるように斎藤を井戸のそばの大木の下に通した。

「昨日のムクロジの実で洗濯しているんです」
「大層、綺麗になるもんですね」

 吉田は、隊服の泥も血も落ちて綺麗になったと言っている。斎藤はうなずいた。千鶴は相変わらず、井戸の前の盥の中で一生懸命洗濯を続けている。このように足も露わに洗濯をする姿は、屯所に居た頃でも見たことがなかった。一度だけ、まだ壬生村に居た頃に、総司と平助に悪戯で水を掛けられた千鶴が袴の裾をめくって困っていた姿を目にしたことがあった。

 白いふくらはぎ。

 あの時も、千鶴の綺麗な足に目をやったまま目が離せずに困った。今もそうだ。ムクロジの泡にまみれて。

 思えば、こうやっていつも隊士の着物や隊服を洗って綺麗にしてくれたのは雪村だ。

 ——血のついたお着物は、すぐに出してくださいね。

 へっついから集めた灰で作った灰汁、米のとぎ汁、時々大鍋に湯を沸かして大根の煮汁で、血のついた着物を洗うこともあった。怪我の手当てに使う包帯や晒も常に清潔に洗濯して日干しがされてあった。本願寺の屯所では、華池のそばと、御堂の裏に無患子が植えられていた。斎藤は、千鶴がいつもムクロジの実を集めては、丁寧に皮を取って洗濯に使っていたのを知っていた。

「こんなに沢山。わたし、中の実を集めています。丸くて、ころころとして可愛いんですもの」

 いつだったか、斎藤の部屋に来て繕いものか何かをしていた時に話していた。ムクロジの黒い種子を「可愛い」と愛おしそうに話す千鶴を不思議に思った。おなごは時折、葉っぱや石ころ、空の雲を見ても「可愛い、綺麗」といって喜ぶ。千鶴もそういうところがあった。斎藤は、道に変わった形の石や、丸い綺麗な石を見つけたら、それを拾って千鶴に渡すようになった。千鶴は斎藤が渡すものを大層喜んで受け取った。一度、菓子折りの箱の中に、葉っぱや石ころを綺麗にしまってあるものを見せに来たことがある。

「これ、斎藤さんが信濃の崖のそばで見つけたって下さった緑石。この青いのは、三条の河原の」
「これは、真っ白な羽。これも御堂の軒下にひっかかっていたって」

 貝殻も、可愛いでしょ。斎藤さん、ダメです。これはこっちに仕舞わないと。千鶴は口をとがらせながら、宝箱の中を決まり事があるかのように仕分けて並び替えて満足しているようだった。

 斎藤は、千鶴が光の中で洗濯する姿を見ながら、ずっと屯所の日々を思い出していた。隊士たちは、一通り洗い終えると、今度は、井戸の水を豪快に組み上げては盥に流しいれてわしゃわしゃと洗濯ものをすすぎ始めた。千鶴は、すすぎ終わった隊服を絞るのを手伝っている。

 斎藤の目の前で、額から汗を流しながら時折腕を持ち上げる千鶴は、身八ツ口から脇と脇腹がちらりと見える。見てはいけないと思っても、目が離せない。斎藤は、隊士たちが「局長はそこで休んでいてくださいましね」という声を聞きながらも、千鶴の白い肌をただ黙ってみていた。光の中で眩しいぐらいのその美しい姿を。

 建屋のそばの広場に即席でこしらえた干場で、沢山の隊服が陽の光の下に広げて干された。千鶴は大量の洗濯物が短時間で洗い終えられたことに隊士たちに感謝をしていた。建屋の中に戻ると、竹籠の中にムクロジの実の種が沢山入っているものが置いてあった。

「これは洗って、陰干しにします。こんなに大きな粒。乾かしてとっておきます」
「とっても可愛いんですもの」

 斎藤は、竹籠をもって母屋から外に出ていく千鶴をぼーっと見ていた。白地の浴衣姿の輪郭は、どこか京の夏に見た千鶴の女の姿を思い浮かばせた。額の汗をそっと袖で拭った横顔は、はっとするほど美しく、斎藤は上り口で息をのむように佇んでいるしかなかった。

「軍議に、冷たいお茶をお持ちしますね」

 千鶴は零れるような笑顔で、玄関口から斎藤に笑いかけた。斎藤は、陽の光の中に消えた千鶴の笑顔の残像をずっと思いながら廊下を歩いた。昨日の今日、敵の銃弾が降る中を駆けていた。生ぬるい空気に火薬が焼けるきな臭い中をただ走った。暗闇の中を……。

 蝉の鬱蒼と鳴く声を聞きながら、斎藤は光の中にいる千鶴を想い救われた気がしていた。



つづく




→次話 戊辰一八六八 その17

(2020/05/12)

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