黒谷の短冊
濁りなき心に その20
慶応二年三月
昨年の暮れ以来、松本良順が屯所に診察に来なくなった。
大坂城内に病人が出ているらしく、上洛が叶わないと土方の元に文が届いた。屯所内の衛生管理は、軽鴨隊のお蔭で行き届いていた。山崎が持ち帰った薬草の効果か、総司は床上げをして、日中屯所内で過ごす様になって居た。そんなある日の出来事。
千鶴が斎藤と巡察から戻ると、部屋の様子が普段と違う様に感じた。
総司の蒲団を日中干す間、千鶴は自分の部屋で総司に昼寝をしてもらって居た。総司の夜半の寝汗は酷く、留守中の山崎の蒲団と毎日入れ替えて、総司の寝間の準備をしなければならなかった。それでも最近は日中の仮眠も必要無くなった様子で、千鶴の蒲団も使う事がなかった。
千鶴が屏風の裏を覗いても総司の姿はなかった。
ふと、屏風に目をやると、いつの間にか短冊が数枚貼りつけてあった。
公用に出て行く道や春の月
梅の花壱輪咲ても梅はうめ
朝茶呑みてそちこちすれば霞なり
うぐひすやはたきの音もつひやめる
美しい手跡で書かれた歌を読んで、千鶴は総司が貼ったものだと判った。
「ふふふ、春の句が四首も」
千鶴は、総司が日中に起きて活動して居る事を嬉しく思った。
千鶴は障子を開け放して、部屋の掃除に取り掛かった。斎藤の許可も得て、斎藤の部屋との境にある襖も開け放ち、廊下に雑巾掛けをした。ふと、廊下の向こうから、
「誰だ、俺の文箱から取ってった奴は」土方の怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい、総司!!」
土方が総司を追い掛けて廊下を走る音が聞こえた。斎藤と平助が渡り廊下から千鶴の元へやって来た。
「雪村、掃除の礼だ」斎藤はそう言ってお団子の包みを千鶴に渡した。
「有難う御座います」
そう言って、千鶴がお茶を入れに台所へ行こうとした時に、道場から新八が廊下を歩いて来た。
「よ、千鶴ちゃん。今、土方さんが物凄い顔して総司を追い掛けて走ってった」
新八はそう言うと、部屋に向かって行った。
「私も土方さんの声が聞こえました。永倉さん、今平助くん達にお茶を入れようと思って。永倉さんも如何ですか」
「お、わりい。俺のも入れてくれるか。平助の部屋だな」
「いいえ、皆さん私の部屋の前の廊下にいらっしゃいます」
千鶴は急いでお茶を入れて戻った。平助達は千鶴の部屋の中を覗いていた。
「やっぱり、此れだろう」
「だぜ。あの剣幕だ」
「ひょっとして、千鶴にまでとばっちり来るぜ」
ヒソヒソと三人で話していた。
「お待たせしました」千鶴が背後から声を掛けると、三人は振り返って障子を閉めた。
「おお、千鶴ちゃん。有難うよ」新八が喜んで、礼を言った。
「私の部屋が良ければ、どうぞ」千鶴は障子を開けて部屋に皆を招き入れた。
其処へ土方が総司の耳を引っ張るように廊下を走り、総司の部屋に駆け込んだ。
「痛いよ、土方さん。病み上がりなんだから」
「何が病み上がりだ。早く出しやがれ」
総司の部屋から、一際大きい土方の声が響いた。新八達は、千鶴の部屋から顔を出して事の成り行きを伺っていた。
「ねえじゃねえか。何処やったんだ」
「無いって、何がです。土方さん」
「すっ惚けんじゃねえ。短冊だ。俺の文箱に黒谷和紙の上等のが入ってただろう」
「短冊なら、 ちゃんと僕が俳句を書いて飾ってありますよ」
「出せ、とっとと出しやがれ」
「此処には無くて。ちゃんとした場所に飾ってありますよ」
「てめー、何だと」
此れを聞いた斎藤が、さっと立ち上がり自分の部屋に繋がる襖を開けた。
「新八、雪村をこっちへ早く」
斎藤は静かに平助達に目配せした。新八達は事を察して、千鶴を取り囲み、人差し指を口の前に持って来て「静かに」と言うと、斎藤の部屋に移動した。
暫くすると、「おい、千鶴、居るか? 俺だ、開けるぞ」と廊下から土方の声がした。
千鶴は新八達に声を立てないように言われ、じっと黙って襖に聞き耳を立てていた。障子を開け放つ音が聞こえた。暫くの沈黙の後、
「おい、総司、何てことしてくれたんだ」土方の声が轟渡った。
「此れはな、新選組が出来た時の初めての給金で買った短冊だ」
「俺の取って置きの俳句を詠む時に、特別に取っておいたんだ」
土方の絞り出すような声が聞こえた。
「だから、こうやってちゃんと飾ってるじゃない。豊玉発句集」
総司のとぼけたような声が聞こえてきた。
「お前は、わかんねえ奴だな。これはそこらの短冊とは訳が違うんだ。幻の和紙なんだよ。手に入んねえ白もんだ」
「へえ、そうなの。良く墨が伸びたよ。なかなかの出来でしょう」
「総司、てめえ」
物がぶつかる激しい音がして、千鶴は怯えた表情をした。斎藤は、襖を少し開けて千鶴の部屋の様子を伺った。同時に千鶴を庇うように後ろ手を伸ばした。襖の隙間から取っ組み合う総司と土方の姿が見えた。馬乗りになった土方が拳を振り挙げて怒鳴る。
「歯を食い縛れ」
その時、廊下から井上の声がした。
「トシさん、其処に居るのはトシさんかね」
障子が開く音が聞こえた。
「やっと見つけた。さっき広済和尚が見えて、トシさんに火急の用があるってね。部屋に居ない様だと伝えたら、本堂で待って居るって帰って行ったよ」
土方は拳を降ろすと身を解いて立ち上がった。
「また、宗次郎が何かやらかしたのかい」
井上は仕方がないという表情で総司を見下ろして居る。
「こいつは、俺の短冊を悪戯に使いやがった」
総司は起き上がって胡座をかいている。井上は総司の背後の屏風を眺めた。
「へえ、中々に風流じゃないか。トシさん、これはトシさんの句だね」
「見事なもんだ。私は素人で俳句は良くわからないが、みんな今の季節にぴったりじゃないか。良いものだねえ。私の部屋にもこんな屏風を置きたいよ」
「……」
思わぬところに現れた井上の思わぬ程の褒め称え様に、土方は総司への剣幕を完全に削がれてしまった。
襖の向こうでは、新八達が必死に笑い声を堪えていた。
「おい、角が引っ込んじまったよ」
「流石、源さん。すげえな」
「見てみろよ、照れ笑いしてるぜ。あの土方さんが……」
「源さん、有難うよ。和尚のところには直ぐに行く」、土方は井上にそう答えると総司に向き直った。
「おい、総司。今度俺の部屋から何か持って行きやがったら、只じゃおかねえぞ」
そう言って、千鶴の部屋から出て行った。
「宗次郎、相変わらずお前の筆は立派だねえ。おみつに文でも書いたらどうだい。きっとお前の便りを喜ぶよ」
井上はそう言って微笑むと部屋を後にした。
屏風の前に座ったまま総司は襖の向こうに声を掛けた。
「良い加減出てきたら」
襖を開いて、斎藤達が千鶴の部屋に入った。
「僕が酷い目に遭ってるのに、はじめくん、随分薄情だね」
総司は不貞腐れた顔で斎藤を見上げた。
「いやー、あんな怒髪天の土方さん久し振りに見た」新八が笑いながら話した。
「わりい、総司。千鶴まで巻き込まれそうだったからさ」平助が笑いながら胡座をかいた。
「沖田さん、この短冊。私、土方さんに同じ物を見つけてお返しします」
「千鶴はいいんだよ、そんな事しなくて。どうせ総司が勝手に貼ったんだろ」
「でも、私のお部屋に置いてある物ですから」
「千鶴ちゃん、この短冊気に入った?」総司が千鶴に尋ねる。
「はい、美しい手跡で気に入っています」
「俳句はどう?」
「俳句は、その……」
総司は肩を震わせて笑って居る。
「気に入って貰えて、嬉しいよ。今度は夏の句を貼ってあげるね」
「総司、悪ふざけは大概にせぬか。副長は発句集をとても大事にしておられる」
「はじめくんは解ってないね、土方さんが大事にすればするほど面白いんじゃない」
そう言って総司は立ち上がると、部屋を出て行こうとした。
「沖田さん、待ってください。さっきお茶を入れて来たんです。皆さん、もう一度入れ直しますので、待っててください」
千鶴は台所へ走って行った。お湯を沸かしている間、台所に居た井上と千鶴の部屋での騒動について話し込んでしまった。千鶴が席を外している間、斎藤は、新八達から、斎藤と千鶴の部屋が襖一枚で繋がって居るのはおかしいと言い掛かりを付けられていた。
「土方さんがよ、こんな部屋割り決めたってのが、俺は不思議でならねえ」
ごろんと畳に横になった総司が、腕枕で皆に向いて話す。
「そうでしょ、病に臥せってる僕が千鶴ちゃんと壁で隔てられて、はじめ君が千鶴ちゃんと同じ部屋なんてね。それに何で山崎くんと僕の部屋が襖で繋がってるのか。おかしいよね」
「総司は、それでいいんだよ。山崎君に介抱されんだから。それよりはじめくんだよ」
平助が納得行かない様子で怒り出す。
「そうだよね、夜這いし放題だよね。はじめくんは」総司は唇の右側だけ上げた皮肉な表情で笑った。
「な、何をいっている」
斎藤は真っ赤になった。正座したまま膝に置いた拳を握りしめている。
「俺は、さっきまで此の襖に手を掛けた事は一度もない」
「本当かよ」新八がからかう様に笑った。
「ああ、誓って言う。俺は屯所を移ってから、緊急時以外は決して自分からこの襖を開かぬと己に誓った」
「でもさ、こんな襖一枚だと、寝息でも聞こえんじゃない?」平助がたたみ返す。
「僕さ、山崎くんの鼾で眠れない時あるんだよね」総司が不満そうに言う。
「へえー、千鶴も鼾かくのかなぁ」平助が呟くと、皆が一斉に斎藤を見た。
「知らぬ。俺は雪村の鼾は一度も聞いた事がない」
「ふうーん、千鶴ちゃん、鼾はかかないんだね」
「千鶴ちゃんは、かかねえよ。女の子は普通かかねえんだよ」新八は納得しながら言った。
「他には、はじめくん。何か聞こえる?」平助の詰問が続く。
「……時々鼻歌を歌っている」
「なに、鼻歌?」
「ああ、機嫌がいい時にな」
「他は?鼻歌以外、なんか聞こえる?」
「……何もない。俺は聞き耳を立てている訳ではない」
(雪村は時々部屋で一人泣いている。声を堪えて)
斎藤は、それきり黙った。
平助達は、次に部屋割り移動がある時は、千鶴の隣の部屋にして貰うよう土方に直談判しようと言い出した。
それから、千鶴が部屋に戻り、お団子を皆で分け合って食べた。総司は開け放った千鶴の部屋の障子の向こうにひと気を感じて居た。久し振りに起き出すと、屯所の様子は変わっていた。
日中に殆どの幹部が屯所から出払って、平隊士が北集会所の周りにたむろしている事が多い。監視。影を感じる。土方の苛立ちは、其れが原因か、それとも、近藤さんの不在か。新八達と笑いながらも、総司はそんな事を考えていた。
斎藤もそんな総司に気づいて居るのか、ずっと刀から手を離さない。
(寝てる場合じゃないね)
総司は自分の右手を握りしめた。
本願寺の用向きから戻った土方は、総司の悪戯に辟易したのか、良順に「総司の回復著しく候」と返信した。翌週より、土方は総司に昼間の短い巡察に出る事を許可した。総司は再び一番組の組頭になり、日中の道場での稽古も再開した。但し、土方は良順からの文で夜間の闇練を総司に禁じるよう念を押された。斎藤にも注意をして御堂での鍛錬をさせないようにした。
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柳に番傘
慶応二年四月
朝から雨がぱらつく鬱陶しい日、千鶴は午後の片付けが終わり、自室に戻ろうとした時に表廊下に独り座る新八を見かけた。
「永倉さん、今日は巡察はお休みですか?」
「おっ、千鶴ちゃんか。巡察は朝の内に終わった。午後は非番だ」
「そうですか。私も今用事が終わったところです」
「そうかい、今日は軽鴨たちは、稽古か?」
「はい、体術の稽古だって、道場に行っています」
「三木のか。ふーん」
「斎藤さんも行かれたんです」
「ふーん。斎藤もか」
「みんな出払って、俺はぼーっとしてんだ。千鶴ちゃん、何かやりたい事はねえか?」
「私ですか。特に何も……」
「永倉さん、私、小豆を炊いたんです。黒砂糖も手に入ったので、餡子にしようと思っていて。もし良かったら、一緒に召し上がりませんか?」
「おお、良いね」
「じゃあ、作って持ってきますね」
千鶴は、台所で餡子を固めに作ると、丸めて水で溶いた地粉を付けてお焼きにした。
お茶を入れて、土方に持っていこうと廊下に出ると、雨がバラバラと降って来た。
土方は部屋で、書き物をしていた。帳簿や文が山積みになった文机の前で頭を掻きむしっていた土方は、
「あーあ、幾らやっても終わらねえ。お、きんつばか。ありがとよ」
そう言って、一旦文机から離れた。
「はい、今急に強く雨が降って来たので、巡察の皆さん、早く引き揚げて来られるかもしれませんね」
千鶴はそう言って、お代わりのお茶を入れに部屋を下がった。
新八と自分のお茶も一緒に用意して、土方の部屋に持って行った。一服した土方は少し落ち着いた様に見えた。
土方の部屋を出てから新八の部屋に行ったが、新八は部屋に居なかった。表階段に戻ろうとしたら、千鶴の部屋の前で新八が座って居た。
「千鶴ちゃん、お茶飲みながら、こいつやろうぜ」
新八は花札の箱を手に持っていた。
「花札。もう長い間やってないです」
千鶴は笑顔でそう言うと、部屋の障子を開け放ち、座布団を拡げて準備をした。
永倉は、胡座をかいて座ると、美味い美味いとお焼きを頰ぼって喜んだ。
「千鶴ちゃんから、親でいいぞ」
「はい」千鶴は座布団の前に座ると、山から手札を配った。
「お、きたきた。イイねー」 新八は上機嫌で手札を並べ替えている。
「それでは、【萩に猪】」千鶴は、札をとって笑っている。
「お、猪か。じゃ、俺は【梅に鶯】、柳に燕、牡丹に唐獅子、竹に虎、っと、チョチョイのチョイっと」
「ふふふ、では、私は【菖蒲に八ツ橋】」千鶴は、カス札で上手く獲れた札を嬉しそうに眺めている。
「あやめと書いて、【しょうぶ】だよっと。俺は、此れで」新八は【桜と幕】をとった。
「かきつばた。唐衣 きつつなれにし 妻しあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」千鶴は【菖蒲に赤短】と【牡丹と蝶】を取った。
「お、いいのを取ったな。【猪鹿蝶】狙ってんな。此れでどうだ。それ、【松に(千)鶴ちゃん】っと」
千鶴はクスクス笑う。
「では、【桐に鳳凰】」千鶴は一緒に【藤に赤短】も取った。
「桐に鳳凰、これっ【きり】と。どうだい、千鶴ちゃん、勝負か」
「いいえ、まだ」千鶴は真剣に新八の札を見詰めている。
「こいこいか、じゃ、俺は此れで勝負だ」
「【柳に番傘】雨が降っちゃ、お終いよ」新八は【雨四光】を並べて、満面の笑みでガハハハと笑った。
「参りました」千鶴はガックリと肩を落とした。
「いい勝負だったぜ、菊が来てたら、俺は負けてた」
「もう一回お願いします」千鶴は、文机に走ると半紙と硯を出して、点数を書き込んだ。
「お、火が点いちまったか。いいぜ」新八は、札を切り直して笑う。
「永倉さん、私、真剣ですから」
千鶴は真顔で座布団の前に正座した。
新八は千鶴の気迫に押されて、二戦連敗した。その頃には、二人でお茶を飲む事も忘れて、すっかり札に夢中になっていた。
***
「み吉野の 高峰の桜 散りにけり あらしもしろき 春のあけぼの」(桜に赤短)をとった千鶴は、一句読んでほくそ笑むと、
「【飲み】に【赤短】、勝負」
真剣そのものの表情で、手札を並べた。
「くわー、 参った」 新八は手札を投げると後ろにひっくり返った。
「狡いぜ、千鶴ちゃん。カス札で誘うなんてよ」
千鶴は笑いながら、これで八十文、と点数表を付けている。新八も 千鶴も廊下に暫く斎藤が立っていたのに気付かなかった。
「楽しみ中をすまぬ。雪村、俺は此れから広間で講義だ。風呂番は宮川に頼んである」
「わかりました。斎藤さん、休憩はされないのですか」
「いいや、さっき部屋に置いてあった【きんつば】を食べた。美味かった。礼を言う」
斎藤は、微笑しながらそう言うと廊下を歩いて行ってしまった。
「斎藤は、伊東さんの講義に出てんだな」
新八は起き上がると呟いた。
「はい、伊東さんがお戻りになられてから、よく出ていらっしゃいます。私も伊東さんに参加するように言われたんですが、斎藤さんが、俺ひとり顔を出せば済む事だと仰って。最近は以前にも増してお忙しくされていて」
「そうか」
新八はぽそっと呟くと、気を取直したように花札を続けた。
その内に雨の巡察から戻った平助と左之助が加わり【おいちょかぶ】が始まった。千鶴は、三番組平隊士の宮川に呼ばれて大浴場に向かった。三人は一株一文で勝負したので、興が高じ、千鶴が浴場から戻っても夕餉の時間になっても札遊びをやめなかった。三人の馬鹿騒ぎは、土方の知れる事となり、忙しさで虫の居所の悪かった土方は激昂した。結果、千鶴も含めて夕飯は取り上げ、四人は朝まで部屋で謹慎を言い渡された。
夜も更けた頃、千鶴は部屋で繕いものをしていた。すると障子の向こうから、新八の声がした。
「千鶴ちゃん、俺ら此れから出掛けるんだけど、一緒にでねぇか?」
「でも、部屋から出るなって、土方さんが」
「いいんだよ。夕飯も食い損なったんだ。俺も左之も平助も、腹が空きすぎて朝までもたねえ。腹減ってるだろ。何か美味いもの食いに行こう」
千鶴は半分引き摺られるように、外に連れ出された。泥濘んだ道を番傘を指して歩いて行った。島原とは反対方向の道の先にあった居酒屋に入ると、三人はお銚子を頼んで飲み始めた。
「それにしてもよ。屯所は息が詰まるぜ。前は巡察がなければ、島原行っても何も言われなかったのによ」
「昼間の非番に出掛けるのに、わざわざ土方さんに断んなきゃならねえっつうのが、おかしいんだよ」
「やたらと、俺らの事に文句ばっかり言ってよ。巡察も俺らの組は一緒にならねえ様にしてやがる、ったく向っ腹が立つ」
三人は、土方への不満を一斉に話し出すと、止まらなくなってしまっていた。千鶴は、昼間に独り廊下で座って居た新八を思い出した。最近は、土方も斎藤も、皆が忙しい。息抜きの時間も取れないと、こうして不満が溜まってしまうものなのだろう。
三人はたらふく食べて飲んで、気分は晴れた。千鶴は、ほろ酔いの三人と雨上がりの夜道を歩いて屯所に帰った。
北集会所の表階段の上に土方が腕組みをして座っていた。
「おい、お前ら、何処をほっつき歩いてんだ」
土方の顔は、月明かりで青白く、怒りに満ちた表情で厳しく階下の千鶴達を見下ろしていた。
新八は、皆を誘ったのは自分だからと千鶴達を庇った。
千鶴は新選組の厳しい禁令と其れを破って処分された隊士達を知って居た。このままでは新八が一身に罪を被ってしまう。
「私が、悪いんです。お腹が空いてしまって我慢が出来なかった私を皆さんが食事にと連れ出してくれたんです」
「俺が誘ったんだ、土方さん」左之助が声を上げた。
「俺もだ。腹が減ってどうしようもなかったんだよ」平助もそれに続いた。
土方は全員を部屋に呼んだ。四人は激しく叱責され、処分を言い渡されると覚悟を決めたが、土方は落ち着いた様子で、新八達の不満や不平に気づいて居たと逆に謝罪をした。虚を突かれた様に、四人は話を聞いた。西国から戻った伊東から試衛館派の隊士の結束が強く、優遇され過ぎていると指摘があったと土方は説明した。立場上、公平に隊を取り纏めないとならない。壬生に居た頃の様には振る舞えないと。土方は、自分に非があると謝り続けた。
新八達は土方には敵わないと思った。伊東の様な参謀が幅を利かせ、近藤は幕府の用向きで屯所に寄り付かない。新選組を仕切る土方が見えない所でしている苦労に初めて気が付いた。
新八達と土方は和解した。外に出掛ける時は派手に飲み歩く様な事は控えると、新八達は土方に約束した。
千鶴は、汚れた足袋を脱いで部屋に入ろうとしたら、斎藤が渡り廊下を戻って来た。浴場に行って居た様で髪が濡れて居た。
「今戻ったのか」
斎藤は、千鶴を見て驚いていた。
「はい、さっき外から戻りました。本当は謹慎して居ないと駄目だったんです」
「ああ、副長から処分を聞いていた。さっき握り飯を持って行ったら、部屋に居なかった故、新八達と出掛けたのだろうと思って居た」
千鶴は斎藤に心配をかけてしまった事を詫びた。
「誰にも見られぬ内に部屋に入った方が良い」
「はい、有り難うございます。おやすみなさい」
斎藤は微笑した。千鶴が部屋に入ると、その足で土方の部屋に向かった。
土方の部屋で、斎藤は伊東が広間に隊士を集め、弱腰の幕府を頼るのは間違い、土佐や薩摩藩に新選組は協力して真の攘夷を目指し、孝明天皇を守る必要があると説いていたと報告をした。三木が師範を務める体術の稽古は、伊東の講義に出ている勤皇派で固まっていることを報告した。土方は、何も言わずに斎藤の報告に耳を傾けた。
斎藤が部屋を下がる時に、
「こんな仕事を頼んで、本当に済まねえ」
土方は呟いた。
「心配には及びません」
斎藤は一言そう言うと、一礼して下がった。
土方は、斎藤が閉めた障子を見詰めて、大きく溜息をついた。
つづく
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