焔立つ
濁りなき心に その21
慶応二年五月
よく晴れた朝、千鶴は大量の洗濯物を干した後、洗濯盥を重ねて持って渡り廊下を歩いていた。
境内では砲撃の訓練が行われ、【用意】、【撃て】の合図で隊士達は太鼓楼に向かい空砲を放って居る。三番組隊士が順番に列を並べ替え、大砲を撃つ準備をするのに、袴着の斎藤が珍しく大きな声を張り上げ指揮して居る様子に千鶴は見惚れていた。
「おっと」
急に大きな声が頭上からしたと思うと、目の前の人に盥を抱えたまま思い切りぶつかってしまった。千鶴は勢いで後ろに尻餅をついて倒れてしまった。洗濯盥はそのまま、ぶつかった相手の足の上に落としてしまったらしく、
「いてえ」という声とともに、相手も足先を抱えて蹲み込んでいる。
「すみません。私余所見をしていて。お怪我は無いですか?」
千鶴が慌てて起き上がって駈寄ると、相手は顔を上げた。九番組組長の三木三郎だった。
「……ってえ」三木は、呟きながら立ち上がった。そして床の洗濯盥を抱え上げると。
「これ、何処へ持っていくんだ?」と千鶴に尋ねて来た。
「井戸端の物置きへ」 千鶴はそう答えながら、盥を受け取ろうとした。
「いいよ、持って行ってやる」
三木は盥を高く持ち上げると、井戸端へ向かい歩いて行った。
千鶴は、礼を言いながら三木に付いて歩いて行った。
物置きの前に、盥を伏せて乾かす様に置くと、千鶴は改めて三木にお礼を言った。
三木はまじまじと千鶴の顔を見て笑った。
「あんた、こんな盥運ぶのに苦労する位、細っこいんだな」
そう言うと、千鶴の手首を掴んだ。
「武道はやってねえ手だな」
掌を眺めた後、そのまま手首を高く持ち上げた。
「離して下さい」
千鶴は苦しそうに背伸びをして抗った。
三木は、千鶴の手首をゆっくりと捻り上げていく。
「離して」
千鶴は身をよじって逃れようとすると手首に激痛が走った。
「おい、その手を離せ」
渡り廊下から、相馬の声が聞こえた。三木はさも愉しそうに、ずっと千鶴の手首を持ち上げている。
相馬は野村と二人で駆け寄って来ると、体当たりで三木にぶつかった。三木は面倒な様子で千鶴の手首を放すと、相馬達に振り返った。そして、鯉口を切る相馬の右手を掴んでそのまま自分に引き寄せ、右脚で相馬の足を掬い地面に叩きつけた。相馬は顔から砂利に突っ込んだまま動かなかった。千鶴が相馬に駆け寄ると、背後で野村が叫び声を上げて、三木に斬りかかった。
「やめて、野村くん、駄目」千鶴は叫んだが、三木は一瞬で野村の太刀を躱すと、後ろから蹴りかかり、野村も横向きに倒されてしまった。
「私闘は禁令だろ。用があるなら、道場で受けて立つ」倒れている野村に吐き捨てる様に言うと、千鶴に振り返った。
「そんで、あんた」
三木は千鶴を見下ろすと言った。
「あんたも、その細腕はもうちょっと鍛えた方がいい。新選組では衆道が流行ってるってな。あんたみたいなのが一番狙われんだよ」
揶揄する様に笑って、三木は北集会所に歩いて行った。
千鶴は相馬と野村を助け起こすと、井戸水で二人の顔の傷を洗った。二人とも顔の片側のこめかみから頰にかけて、酷い擦り傷を負った。相馬は、口の横を切っていて、血がなかなか止まらず、頰も腫れ上がってきた。千鶴は手拭いを相馬の口元に当てて、部屋に手当てしに戻ろうと二人を促した。
「雪村さんこそ、お怪我はないですか」
相馬が千鶴の顔を覗き込む様に尋ねる。千鶴は大丈夫と言っているが、左手首が真っ赤に腫れ上がっていた。
「あいつ、許さない」相馬は、怒りに満ちた表情で千鶴の手首をそっと持つと、
「直ぐに手当てしましょう」、そう言って千鶴を横抱きに抱えて歩き出した。
「ちょっと、待って。相馬くん、私は大丈夫。歩けるから降ろして」
千鶴は慌てて、降ろして貰おうとするが、
「いいんです。俺ら、雪村さんをお守りするのが仕事ですから」
そう言って、相馬は腫れ上がった顔で笑顔を見せた。
部屋に着くと、千鶴は相馬達を納得させる為に、晒しで手首を覆った。此れぐらいの怪我なら、夜には腫れも引いて治る。千鶴は相馬達の傷口の砂利を丁寧に取り除くと、傷口を焼酎で消毒して膏薬をつけた。二人を座布団の上に並べて寝かせ、井戸水を汲んで来て、腫れ上がった顔に濡れ手拭いを置いて冷やした。
「二人とも、さっきは助けてくれて有難う」
千鶴は改めて、横になっている二人に頭を下げた。
「私が、洗濯盥もまともに運べないから、こんな事になってしまって。もっと鍛えないと駄目だね」
千鶴は俯きがちにそう言った。
「三木さんの言った事なんて、従う必要はありません」
相馬は起き上がると、
「俺、あいつの所に行って来ます」
刀を持って立ち上がる相馬に続いて、野村も起き上がって刀を取った。
「待って、二人とも」千鶴は二人を止めた。
「刀を振っては駄目。三木さんは、私に気を付ける様にって言って下さっただけなの」
「でもあいつは、雪村さんに危害を」
千鶴は廊下に出て、障子の前で両手を広げて必死に二人を止めた。
そこに、斎藤が表階段から歩いて来た。
「どうした」
斎藤は、相馬達の顔を見ると、
「何があった」千鶴の背後から尋ねた。
千鶴が斎藤に振り返ると、斎藤は千鶴の手首をそっと取った。
「怪我をしたのか」
斎藤の厳しい表情に、千鶴は躊躇してしまった。
「言え。あんたに怪我を負わせたのは誰だ」
千鶴が答えられずにいると。
「すみません。俺らが目を離していた時に、三木さんが井戸端で」
「三木だな」
斎藤が念を押すと、相馬達は頷いた。
「俺が戻るまで雪村を頼む」
そう言うと、斎藤は部屋に千鶴をそっと押し込んで障子を閉めた。
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焔立つ
斎藤は、三木の部屋に直行した。部屋はもぬけの殻で、斎藤は道場に向かった。案の定、三木は九番組隊士数名と道場に居た。
「三木、あんたに話がある。人払いをしろ」
三木は隊士に目配せすると、道場の外に出て行かせた。
「雪村に怪我をさせたのは、あんただな」
「怪我?」
「俺は、盥を井戸端に運んでやっただけだ」三木は口角を上げて皮肉な表情で笑った。
「細っこい腕をちょっと掴んでやった。奴さんが嫌がって勝手に手首を捻ったんだろうが」
「前にも言った通り、雪村は我々新選組が会津藩より預かっている客人だ」
「仇する輩は斬り捨てる」
斎藤は鯉口を切った。
「おい、待てよ。道場を血で汚す気か。あんた気狂いだな」
「剣を取れ。待ってやる」
斎藤の眼孔には焔が立って居た。道場の窓から中を覗いて居た隊士は、慌てて、伊東を呼びに走った。
「俺が剣を取ったら、此れは私闘になるぜ。俺が生き残ったとしても法度破りであの世行き。そいつは真っ平御免だ」三木は笑った。
「生き残れるものならな」
斎藤は静かに言った。その表情は薄っすらと微笑している様にも見えた。
「あんたが必死に守るあのお客人。そんなに大事なら真綿に包んで懐にでも入れときゃあいいさ」
斎藤は柄に手を掛けた。
「辞世にしては粗末だな」
斎藤は、静かに躙り寄ると低く構えた。三木は、斎藤に睨み付けられ、生唾を飲んだ。
「それまで」
道場の扉が開き、伊東が入って来た。その後ろには土方の姿が見えた。
「お前ら、いい加減にしねえか」
土方が大声で叫び、斎藤の肩に手を掛けて止めた。
「丸腰の相手に何やってんだ」
「道場で真剣を振り回すのは法度だ、斎藤」
土方は斎藤の腰から無理やり大小を抜くと、
「勝負するなら、木刀でやりやがれ」
そう言って、壁から木刀を二本取って、二人に投げた。
「俺が審判してやる、いいか」
土方は二人を睨みつけた。
「土方さん、剣撃師範の斎藤くんと体術の三木を剣術で勝負させるのは、公平でないですわ」
伊東が扇子を持ったまま腕組みをして、土方を止めた。
斎藤は、木刀を土方に返した。三木も木刀を脇に置いて、道場の真ん中に立った。
「先手三本勝負だ。相手の背中を床につけて一本とする」
土方は眉間に皺を寄せたまま、斎藤と三木を見据えた。
斎藤は首巻きを外し静かに位置についた。三木は威圧的に上手で、斎藤に掴みかかった。斎藤は素速く躱すと、三木の懐に入り、左腕で三木の胴体を引っ掛けてそのままの勢いで倒した。
「一本あり」
「チッ、」起き上がりながら、三木は吐き捨てると、位置に戻った。
土方の【始め】の合図で、今度は三木は慎重に斎藤と睨み合い、にじり寄った。
一気に前に出ると、斎藤の利き腕の左手を抱えて、左足を掬った。斎藤は腰から床に落ちたが、三木が飛び掛かる前に右に身体を翻した。四つん這いになった三木の脇腹を斎藤は起き上がりながら蹴り上げた。それから左腕で三木の右手をねじ伏せた。三木が反発したところを体重を掛けて押し込み、二本目を取った。
この時に道場は人集りになり、総司や三番組隊士、井上まで駆け付けていた。
斎藤は元の位置に戻ると、三木は合図も待たずに飛びかかった。後ろに躙り下がった斎藤に、連続で蹴りを入れる。斎藤は腕で受け流しながら、隙をみて、三木の胴体を左手の拳で撃った。鳩尾を撃たれて、三木は態勢を崩し片膝をついた。三木の顎を斎藤は左膝で蹴り上げた。三木は仰向けに倒れた。
「一本。勝負あり」土方が叫んだ。
斎藤は、ゆっくりと三木に近づくと、三木の髪を掴んで自分に向けさせた。
「二度と雪村に手出しをするな。わかったな」
そう言って、立ち上がって位置に戻り一礼した。其れから土方に向かって一礼した後に身仕舞いし、自分の大小を取ると黙ったまま道場を足早に去った。伊東が、「三郎」と叫んで三木に駆け寄り、九番組隊士達が手当てが必要だと大騒ぎを始めた。土方は、事情は今晩双方から聴くと言い残して部屋に戻った。総司達はにんまりと笑って満足そうに廊下を戻って行った。
斎藤は、千鶴の部屋に向かった。相馬と野村が刀を持ち、千鶴の前に並んで正座をして待っていた。斎藤は二人に、護衛ご苦労だったと声を掛けた。二人はやっと緊張を解いた。千鶴は、桶の水で冷やした手拭いで相馬達の腫れ上がった頰を冷やし直した。
「雪村、手首を見せてみろ」
斎藤は、大小を置いて千鶴の前に座ると、千鶴の手首から晒しを取って確かめた。
「触れるぞ。痛かったら、直ぐに言え」
斎藤は手首をそっと動かし、曲げたり伸ばしたりした。
「腫れているな。だが骨が折れた様子はない」
「はい」
「冷やすと良い」
そう言うと、桶の水に千鶴の手首をつけて冷やした。
「こうすると、楽になる。腫れも引く」
「……、雪村、ずっとついててやれず、済まなかった。手荒らな隊士からあんたを守るのは俺の役目だ。此れからは気を付ける」
斎藤は千鶴の手を握ったまま俯いていた。
「斎藤さんの隊務中は、俺らが雪村さんを護ります。俺ら」
野村が身を乗り出した。すると、相馬が野村を押さえ付けて、自分に引き寄せると、正座をして斎藤と千鶴に向き直った。
「すみません、俺ら。昨日の夜、偶然廊下で、原田さん達が雪村さんが女だって話してたのを聞きました」
畳に額ををつけて、謝りながら相馬は続けた。
「今までの不躾な振る舞いを御許し下さい。雪村さんはきっと事情があって男の振りをされているんだと思いました。俺らは、局長同様、雪村さんをこの身に代えても守ります」
相馬に倣って、野村も両手を畳につけて深く頭を下げた。
千鶴は、驚いた様子で二人に何も言えずに座っていた。
「あい分かった。雪村を守るために秘匿にして居たことだ。二人が協力してくれるのは有難い」
斎藤は静かにそう言うと、腰を上げた。
「この事は幹部でも一部にしか知らされていない。雪村の身の安全が肝要だ。いいな」
斎藤は相馬達に念を押すと、障子の向こうに消えて行った。
***
夕餉の間、皆は斎藤と三木の勝負について語りたがったが、斎藤が黙ったままなので話題には上がらなかった。代わりに、目刺しの数が斎藤だけ一匹多いだの、煮物が薄味過ぎて物足りないだの、いつもの不平不満で盛り上がり、土方の「つべこべ言わずに、黙って食いやがれ」といういつもの啖呵で皆が黙って、食事は終わった。
夕餉の後は、土方の部屋に相馬、野村、千鶴、三木、斎藤、伊東が呼び出された。経緯の報告を双方から聞いた土方は、【双方御咎め無し】とした。土方から伊東に対して、改めて雪村千鶴は隊士ではなく土方の小姓、会津藩からの預かりの身で客人扱いをしている事が説明された。伊東は、千鶴の素養の高さを褒め称え、新選組には千鶴の様な逸材が必要だと熱く語って部屋を下がった。
斎藤は、部屋に戻ると石田散薬をお湯に煎じて千鶴に飲ませた。
「私の不注意で、斎藤さんにまでご迷惑をお掛けしました。守って頂いた上に手当てまでして頂いて、本当にありがとうございます」
千鶴は深々と頭を下げた。
「あんたが謝る必要は一切ない。あんたに落ち度が無いのは明らかだ。怪我をさせたのは俺の責任だ。今後、二度とこういう事は起きない様にする」
「ありがとうございます」千鶴は笑顔を見せた。
斎藤は、千鶴の笑顔を見て安堵した。今晩はゆっくり休めと言って部屋を出た。
斎藤は夜半に再び土方の部屋に行って、千鶴の怪我の様子を報告した。相馬と野村が千鶴が女だと知った事、二人が千鶴を護りたいと言っている事も知らせた。
「軽鴨達は、何れ知る事だった。仕方ねえ。今日のは三木が千鶴が女だと気付いているか、探りを入れて来た上での騒動だ」
「はい」
「伊東達には、千鶴が男だとしらを切り通せ。お前と【義兄弟の契り】を交わしたとでも言っておけばいい」
斎藤は目を丸くした。
「そうすれば、誰も千鶴に手出しはしねえよ。お前に斬られるからな」
土方は、笑顔でそう言うと。
「それにしても、お前が体術をあそこまで極めてるのが」
「俺の喧嘩に加勢してた時より腕上げてんじゃねえか」
土方は斎藤に左肘を上げてポンポンと叩いて見せた。
「羅刹隊との鍛錬では、打ち合いの最後は三人がかりで素手で飛び掛かって来ます故」
「三木の一人や二人、楽勝って事か」土方は笑った。
「山南さんも自信持つ訳だな」土方は首を傾けながら苦笑した。
「御堂での鍛錬は、山南さんや羅刹隊に感謝しています」
「其れは山南さんに俺からも伝えておく」
「はい」
「今日の騒動で、お前の強さは伊東派に証明出来た。お前の腕を伊東さんは欲しがるだろう。千鶴の事も気に入ってるみてえだ。懐柔される様に持って行けば問題ない」
「はい」
「千鶴は置いて、お前だけ丸め込まれる事になるが大丈夫か」
「はい。俺はそう望んでます」
土方は真剣な表情で斎藤を見詰めると、そっと言った。
「わかった。今夜は此処までだ」
斎藤は一礼して部屋を出た。
斎藤が土方の部屋から自室に戻った時、伊東は三木の部屋を見舞っていた。
「兄貴、あれは女だ」
「そう。道理で隊士には出来ない訳ね」三木は口元に手を持って行って、微かに笑った。
「三郎、もう手荒な真似は駄目よ。お前は事を急いてしまう。これからは三番組と九番組で合同で鍛錬なさい」
「今日の騒動をきっかけにね。斎藤くんは講義も真面目に出て来てるわ。彼は使える。雪村くんを引き合いに出せば、何でもやる子よ」
「わかった。兄貴の仰る通りにしますよ」
「今日は良くお休みなさい。明日、湿布を替えてあげる」
三木は布団から、伊東に笑いかけた。
「兄者、おやすみ」
「ま、あなたったら、まだそんな呼び方するのね。ふふふ」
伊東は、可愛い弟を慈しむ様に眺めると、行燈の灯を消してから部屋を出た。
つづく
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