頭痛

頭痛

慶応元年七月

 台所で朝の片付けを済ませた千鶴は、用を思い出して北側の廊下に向かって歩いて行った。

「失礼いたします」

 開け放たれた障子の前で一旦正座をした千鶴は、廊下から部屋の中に声を掛けた。北側の一番大きな部屋は、新選組総長伊東甲子太郎が住まい、板の間続きに書庫も設えられていた。

朝食の席に現れなかった伊東は、まだ布団の中で横になっていた。首だけを千鶴に向けた伊東は、いつもより一段と色白な顔で額には病鉢巻きをしている。

「具合がお悪いのですか」
「ええ、頭が痛くてね」

千鶴は伊藤の枕元に座って、顔を覗き込んだ。

「いつからですか」
「今朝方です。朝起きたら眩暈がして」
「時々、こうなるのよ。ちょっと暑さで参ってしまったみたい」

 千鶴は、「失礼します」といって伊東の右手首を指で押さえて脈をとった。少し早くて深い。疲労から来る頭痛かもしれない。伊東の手を布団の上に戻して、千鶴は伊東に額と首筋を触れてもいいかと訊ねた。伊東は、静かに頷いた。

「微熱がでています」
「ただいま、お水をお持ちします。額を冷やしましょう」
「ありがとう、雪村くん。お世話をおかけします」

 伊東はそう言って静かに目を瞑った。

 千鶴は、清潔な手拭と桶に冷たい水を汲んだものを伊東の部屋に持って行った。額を冷やすと、「気持ちがいい」といって伊東は浅い息を吐いた。山崎烝が近藤と大坂に出張していて戻りが二日後。千鶴は、伊東に食欲がないか、排せつは済ませているかと質問をした。

 伊東は、ここ数日食欲がなく、夏負けしたのだろうと云って溜息をついた。

「大事はいりません。こうして横になっていれば、頭痛は治りますから」

 千鶴は吸い飲みで水を飲ませようとしたが、伊東は起き上がって自分で頂きますといって、布団の上で上体を起こした。千鶴は、これから醒ヶ井でもっと冷たい水を汲んできますと伊東の部屋を後にした。

 

 

****

 

 千鶴が醒ヶ井から戻って来た時、北集会所の表階段の下に見かけない箱籠が停めてあった。

 上り口には美しい履物が並べてあった。柾目の無垢下駄。細かい杢目に漆塗。輝くような絹の鼻緒。千鶴はお殿様でも見えたのかと暫く見とれてしまった。伊東の部屋には、客人が来ているようだった。開け放たれた障子の向こうで、三木三郎が胡坐をかいて座っている。布団に横たわる伊東の傍で正座する男は、総髪の髪を肩の辺りで切りそろえて、灰色の絽の着物を纏っていた。

「今日、明日横になってゆっくりしとればようなる」
「薬は二日分だしとこう」

 千鶴は、立ち上がった医者を見て初めてみる顔だと思った。三木三郎が医者に礼を言って、廊下を案内するように出て行った。千鶴は入れ替わりに部屋に入ると、持ち寄った醒ヶ井の湧き水を湯飲みに汲んで伊東に飲ませた。

「雪村君、ありがとう」
「とても冷たくて美味しいお水」
「よかった。熱は高くなっていません」

 千鶴は横になった伊東の額や首の後ろに手を当てて安堵の表情を見せた。

「お医者様が夏負けと仰っていました」
「頭痛も横になっていれば引いていくでしょう」

 千鶴は、伊東に七分がゆを作って来ますといって立ち上がった。煎じ薬も一緒に持ってくると伝えると、伊東は「有難う」と言って微笑んだ。

 千鶴が廊下に出ると、廊下の角から土方が現れた。今日一日ずっと会計方の佐藤と帳簿つけの確認作業をするために、土蔵の事務方部屋に詰めていた。昼餉を作って持っていこうと思っていた千鶴は、土方が自分を呼びに来たと思った。

「土方さん、お疲れ様……」

 会釈をしたところを、物凄い勢いで土方は千鶴の横をすり抜けていった。口を真一文字に結んで睨むように前を見ている。ずかずかと大股で進んだ土方は、完全に千鶴を無視したまま伊東の部屋に入って行った。

「伊東さん、勝手なことをして貰っちゃあ困る」

 土方の大きな声が聞こえた。千鶴は廊下を引き返した。

「新選組には四条の広瀬先生、幕府奥医師の松本先生がついている」
「どこの馬の骨かもわからん医者を許可もなく屯所に入れるあんたの気が知れねえ」
「坪井先生は、立派な蘭方医ですわ」
「薩摩藩の奥医師もやっていらっしゃる、確かな腕のお医者様です」

 薩摩藩と聞いて、一層土方の表情が厳しくなった。

「薩摩者に屯所の中に入られちゃあ困るんだよ」
「あんたは何を考えてんだ」

「土方さん」

 千鶴が廊下から居てもたってもいられず、土方の背後に立った。

「伊東さんは、具合がお悪いんです。どうか、大きな声を立てないでください」

 土方が振り返るように千鶴を見た。

「お医者様は確かな方のようでした」
「これが、お医者様が置いていかれた薬です」
「苓桂朮甘湯。頭痛や眩暈を抑える薬です」

 千鶴は手に持っている薬の包みを土方に見せた。今朝方、伊東は眩暈と頭痛がするから横になっていた。微熱だったから様子をみていた。土方には昼餉の際、伊東の容態を報告しようと思っていたと事の経緯を説明した。

「お見えになっていた先生を三木さんが送って行かれました」
「三木さんがお戻りになってからお医者様の事を確かめてください」
「三木がそいつを連れて来たんだな」

 土方は腕組をしたまま千鶴を睨み返した。その厳しい表情に、千鶴の身は竦み何も言えなくなった。伊東は布団から起き上がって、身仕舞を正した。

「事前に許可もとらず、部外者を屯所に入れてしまった事は謝ります」
「坪井先生は、わたくしが水戸に居た頃にお世話になったお医者様です」
「薩摩藩邸に遊説に伺った時に偶然お会いして」
「洛中に知り合いのいない私が唯一頼りにしているお方」
「薩摩や長州の間者では、決してございません」

 静かに話す伊東の顔色は悪く。座っているのも辛そうだった。千鶴は、土方の前をすり抜けるように前に出ると、伊東の背中を支えるように手を添えて、伊東が横になるのを手伝った。そして、手拭を水で濡らして額の上にそっと置いた。

「具合が悪い時は、広瀬先生か松本先生に診て貰うようにしてくれ」

 土方は吐き捨てるようにそう言うと、部屋を出て行った。伊東は、ゆっくりと眼を閉じた。

「雪村君、痛み入ります。ありがとう」
「暫く、眠ります」

 静かな声で伊東はそういった。千鶴は、「はい」と返事して台所に向かった。

 

******

 千鶴は、土方におむすびを握って、冷たい麦湯と一緒に事務方部屋に運んだ。土方は、千鶴に、「三木が戻ったら、俺の部屋に来るように言ってくれ」と言って、再び帳簿作業に戻った。それから、千鶴は伊東の為に粥を炊いた。医者が置いていった薬を煎じて冷まし、膳と一緒に伊東の部屋に持って行った。伊東はまだ眠っていた。部屋は屯所の北側に面しているが、日陰の割には涼しさに欠け風通りはよくない。千鶴は、障子を互い違いに開けて風の通りをよくした。隣の客間の襖を取り払ってみると、幾分涼しくなった。南側の地面から時折、熱気が風に乗ってくる。千鶴は、井戸から水を運んで辺りに打ち水をした。汗だくになって、伊東の部屋に戻ると、伊東は目覚めていた。

「お粥をお持ちしました」
「少し召し上がられてから、お薬を」

 伊東は、千鶴に云われた通りに梅干しの果肉と塩昆布を粥に混ぜて、ゆっくりと咀嚼して食べた。

「美味しい。よく炊けたお粥だこと」
「ありがとうございます」
「頭が痛い時は、七分がゆをゆっくりよく噛むと良くなります」
「梅干しは頭痛の妙薬です」
「粥と塩気の多いものを夏負けにはとられた方がいいです」

 伊東は茶碗に一杯の粥を食べ終わると、千鶴に促されて薬を飲んだ。

「幾分、楽になってきました」
「よかった。また醒ヶ井で冷たい水を汲んできます」

 千鶴は水差しを置いて、膳を持って立ち上がろうとした。その時、背後から「どうだ、具合は」と大きな声がした。三木三郎だった。打刀を手に持って、どかっと畳に胡坐をかいてすわった。

「よくなってきた」
「先生を呼んできてくれて、ありがとう」

 三木は四つん這いになって、部屋の端にあった団扇をとると着物の前をはぐってバタバタと煽いだ。

「あー、暑い」

 伊東は、三木の様子を目だけ動かして見ると。

「なんです、三郎。お行儀が悪い」

 ぴしりと叱りつけた。三郎は、仕方ないという風に襟を引っ張って合わせた。膳を持ってひざまずいている千鶴に目をやると、団扇で指さすように千鶴を引き留めた。

「兄貴は、何か食ったのか?」
「はい、お粥を一膳」
「お薬もお飲みになりました」

「腹に何か入ったんならいい。先生が言ってた。なんでも欲しいものを食べろって」
「兄貴、何か食いたいものはねえか?」

 伊東は、嬉しそうに微笑んでいる。「なにもないわ」といってゆっくりと瞬きをした。

「あれは? 兄貴が前に美味いっていってた。紀州蜜柑は」
「市中で買ってきてやろうか」

 伊東は肩を揺らせて笑っている。布団から手を出して口元を覆って、ふふふと声をたてた。

「なんだ?」
「三郎、いくら紀州でも。この七月に蜜柑が実をつけているものですか」

「たとえ天子さまがご所望されても、洛中の蜜柑問屋はひと粒も用意できないでしょう」
「ね、雪村君」

 伊東は、千鶴に同意を求めた。千鶴は「はい」と頷いた。

「わたしは大丈夫。こうして雪村君が手厚く世話をしてくれるから」
「それより、井戸で顔を洗ってきなさい。汗を流して」

 三木は伊東に促されるまま部屋を出て行った。

「ほんとに、がさつ者で困ったものです」

 千鶴はずっと微笑んだまま伊東の事を見ていた。

「滑稽に思っているのでしょう」

 目を少し伏し目がちに千鶴を横目で見た伊東の顔には笑みがなかった。

「いいえ、とても仲睦まじくいらっしゃって。羨ましいです」
「私は一人っ子で。いつも兄弟が居たらと思っていましたから」

 伊東の顔に微笑みが現れた。

「私が江戸の伊東道場を引き継ぐことになって、三郎は、わたくしの実家に残り家を継ぐことになったの」
「なのに、こうして京までついて来て」
「小さな時からずっとわたくしの後を追いかけて来て」

 伊東の話を聞いて、千鶴は三木三郎が兄を余程慕っているのだと思った。

「向こう見ずなところがあるでしょ。それが心配」
「心根は真っすぐな。いい子なの」

 三木三郎は新選組の九番組の組頭として多くの隊士を率いている。噂では体術に長けていて、厳しく指南していると聞いていた。身体も大きくて、大きな声で皆を統率している三木の事をまるで小さな子供のように話す伊東を見て、千鶴は身内をとても大切に想われているのだと思った。千鶴は、ふと土方が三木を部屋に呼ぶようにと云っていたことを思い出し、膳を下げて伊東の部屋から下がって行った。

 

****

 三木と土方が話をしている間、千鶴は冷たい麦湯を運んで持って行った。

 案の定、土方が部外者の蘭方医を屯所に呼んだ事で、三木を咎めていた。三木は憮然とした態度のまま黙っている。

「屯所内で具合の悪い者が出た時は、山崎と雪村に世話に当たらせる。必要なら医者を呼ぶ」
「勝手な真似をするようなら出て行ってもらう」

 千鶴は、土方の一言に驚きお茶を差し出す手を止めた。

「あの、今朝のことは。私も外出していて。その間にお医者様を呼びに行かれたと伺っています」
「危急の場合は、許可をとる必要はないと……思います」
「怪我人や病人の手当てを一番に考えなくてはなりません。お医者様が来てもらえるなら、どのお医者さまがきても、診て貰えることが肝要で……」

「お前が口出しをするんじゃねえ」

 土方の大きな叱責がとんだ。千鶴は身がすくんだ。盆を手から落としてしまい。両手を膝で握りしめて目を瞑った。

「俺が勝手に医者を呼びにやった。すみません」

 千鶴の前に庇うように左手をだした三木は、きっちりと正座に座り直して平身低頭で謝った

「隊則をやぶったのは俺です。罰するなら存分にお願いします」

 土方は、ずっと黙ったままだった。大きな溜息のあと、「もういい、さがれ」という土方の声が聞こえた。三木がもう一度深く頭を下げると立ち上がって部屋を出て行った。千鶴も畳の上の盆を手に取って、「すみません」と頭を下げてから部屋から下がった。土方は、何も言わず、文机の前で背中を向けたままだった。

 廊下の角を曲がると、斎藤が立っていた。一瞬目があったが、斎藤は無表情のまま微かに頷いたように感じた。千鶴は会釈をして台所に繋がる廊下に歩いて行った。斎藤は土方の部屋に入って行った。

 

****

 陽が落ち始めた頃、千鶴はぬるま湯をいれた桶と手拭を持って伊東の部屋に向かった。

 伊東は横になっていたが、枕もとには沢山の書物が積まれてあった。傍らには帳面や巻紙、矢立まで置いてある。千鶴が、「身体を拭ってお着替えを」と云うと、伊東は起き上がった。

「お手数をおかけします。着物入れに寝間着があるのでとってもらえるかしら」

 千鶴は新しい寝間着を用意して枕元に戻った。伊東は、帯を自分で解こうとしたが、手を止めて千鶴の顔を見た。

「お手伝いが必要でなければ、私は部屋からでています」

 千鶴は、伊東が人目に肌を晒すことを嫌っていたのを思い出してそう言った。あれはひと月前、松本良順が隊士達をお堂の大広間に集めて診察した。全員が褌一枚になって並び、一人一人、先生に全身を診て貰った。伊東は、人前で裸になることを野蛮でおぞましいと言って、廊下で大騒ぎしていた。

「あの禿坊主」と良順先生を毛嫌いしていらっしゃった。確か、「雪村君が診て貰っていないなら、私もご遠慮しますわ」と言って診察を全面拒否していたっけ……。

「背中を拭くのをお願いできるかしら」

 伊東はそう言って、さっと着物を脱ぐと布団の上で背中を向けた。千鶴はぬるま湯で搾った手拭で丁寧に背中や首筋の汗を拭って行った。

「ありがとう。あとは自分でやります」

 千鶴は伊東に絞った手拭を渡して、脱ぎ捨てた寝間着と下着を纏めて廊下に出た。それから台所で夕餉にお粥と香の物、煎じ薬を持って伊東に持って行った。伊東は、行灯を枕元によせて書物を読んでいた。千鶴は、伊東が食事をしている間に部屋を片付けて、薬を与えた。

「頭の痛みはいかがですか」
「変わらずね」
「あの、……差し出がましいようですが」
「頭が痛い内は、どうか書物に目を通されるのをお控えください」

「伊東さんは、左のこめかみに痛みがあるようにお見受けしました。左側が痛むのは、頭に集まる血の管に悪い血がたくさん巡っているからです」
「字を読むと目を使います。その時に沢山の血が頭の中を巡ります。痛みが増す原因に」
「身体を横にして目を瞑られるのが、一番の養生です」

 伊東は、納得したようだった。書物を片付けるように千鶴に頼んで、横になって目を瞑った。

「あなた、わたくしが左のこめかみに痛みがあるの、どうして判ったの」
「今朝方から、頻繁に左側を手で押さえになっていました。鉢巻きを左のこめかみで結んでいらっしゃいましたし……」

「あなた、医術の心得もあるのね」
「少しだけです。監察方の山崎さんに教わりながらお手当をしています」
「そう」
「今日みえた坪井為春先生は、水戸の弘道館で蘭方医学を教えていらっしゃったの」

 千鶴は【弘道館】と聞いて、父親の鋼道が若い頃に医術を学んだ場所だと思った。

「わたくしは丁度あなたぐらいの時、水戸に遊学に出ていました」
「医学館には蘭方医術を学ぶ優秀な藩士が沢山いました」
「雪村君、あなた。もし医術を学ぶ気がおありなら、坪井先生にご紹介してよ」
「弘道館の医学館に推薦状も書いてくださるわ」

「ありがとうございます。でも、私は京で……。ここでやることがありますので」
「そうね。あなたも志があって、ここに」

 千鶴は父親の鋼道の事を土方達以外には、一切誰にも話さないと決めていた。

「あなたのような優秀で前途有望な若者を新選組はもっと重用し導くべきね。わたしはね、あなたの細やかな気遣いや、丁寧な所作をとても気に入っています」
「病気の看病も、行き届く限りの事をして下さる。あなたのような方がいて、とても安心できてよ」
「ありがとうございます」

「わたくしの頭痛の原因が、書物の読み過ぎだと云ったのは、後にも先にもあなたと三郎ぐらいなもの」

 伊東は愉快そうに口元に手をあてて、ふふふと笑った。そして、暫くは千鶴の言う通りに安静に養生すると約束した。千鶴は、「なにかあったら、お呼びください」といってお湯の入った桶を持って廊下に出た。

「おっと」

 出会いがしらに三木三郎とぶつかりそうになった。三木は、千鶴の手の桶を支えるように受け止めると、「兄貴の世話をしてくれて、ありがとう」と言って笑った。

「どういたしまして。熱も下がって、容態は安定していらっしゃいます。明日には床上げも叶うでしょう」

 そう言って、千鶴は笑顔で応えた。

 この一部始終を斎藤は廊下の影で聞いていた。その日の夜遅く、斎藤は土方の部屋で千鶴が伊東の看病に勤しみ、三木三郎も警戒を解いていると報告した。

「あいつは人を分け隔てしねえ。病人なら猶更だ」

 薄い行灯の灯の前で、腕組みをして座った土方はそう言った。

「伊東の息のかかる隊士達と俺らが、そりが合わねえのは仕方がない。だが、表向きは波風たてずに良好を装う必要がある」
「ちょうどいい機会だ。この前の風呂場の件もある。三木が千鶴に警戒を解いているなら、お前も近づきやすいだろう」

 斎藤は内心千鶴を介して事を進めることに抵抗を感じた。何も応えずにいる斎藤をじっと土方は見詰めている。

「伊東さんの遊説が二日後に予定されています」
「あの体調じゃあ、外出も無理だろう」
「伏見の薩摩藩邸です」
「護衛について行きます」
「相分かった」

 今日はこれまでだ。斎藤は土方にそう言われて、部屋を出た。蒸し暑い今夜は、月も出ていない。斎藤は千鶴の部屋の前を通った。開け放たれた障子の向こうに行灯が灯されている。

 蚊遣りを置いたそばに千鶴の足の先が見えた。ゆっくり近づくと、足から足首、ふくらはぎが露わになっている。斎藤は驚いて足を止めた。

 部屋から漏れる灯の影がゆらゆらと揺れている。斎藤は、気配を消して、そっと部屋を覗いてみた。千鶴は両足を投げ出すように座って、寝間着の裾をはぐって足を団扇で煽いでいる。膝頭を横にして付けて、そこから伸びたふくらはぎは細い足首までなだらかな曲線を描き、千鶴は斎藤が見ているのも気づかずに、さらに裾を持ち上げて、風を送っていた。

 斎藤は生唾を呑み込んだ。外は鈴虫の声がしていて、斎藤がそこに立っている事は、千鶴には気づかれていない。だが、あのようにあられもない恰好の千鶴の前を横切るのは、非常に憚られた。声を掛けるのは猶更だ。

 どうしようか、通ろうか。通らまいか。
 声を掛けようか、掛けまいか。

 斎藤は迷った。それにしても、なんだ。あのあられもない姿は。暑いのはわかる。今夜は陽が落ちてからも一向に涼しくならん。でも、だからといって。

 迷いながらも、もう少し見たいという気持ちは抑えられず、斎藤はそっと前に進んでみた。疚しい気分でいっぱいだが、思い切って中を覗いた。千鶴はもう足を仕舞っていた。斎藤は拍子抜けした。斎藤が背後から突然現れて、千鶴は「斎藤さん」と驚いている。慌てて身仕舞をして正座になった千鶴は、寝間着の襟を合わせるように右手で押えている。

「すまん」

 いきなり謝る斎藤に、千鶴も「びっくりしました」と小さな声で応えた。

「蚊遣りか」

 斎藤は、思わず千鶴の傍らにある黒い蚊遣り豚を見て呟いた。千鶴は、「はい」と答えた。

「この前、原田さんが二条で買って来てくださったんです」
「でも、今夜は二か所も刺されてしまいました。部屋に一匹いるみたいで」

 千鶴は、寝間着の袖をめくって蚊に刺された場所を見せた。白い腕が薄っすらと紅くなっている。

「足も、ふくらはぎを刺されて……」

 ふくらはぎと聞いて、斎藤は心の臓が再び早く打ち始めたのを感じた。さっき見たのは、雪村の足。露わになっておった。白かった。

「斎藤さん」

 千鶴は何度か名前を呼んだが、斎藤はじっと立ったまま何も応えない。その時、境内のどこからか、「ちりりりん」という声が聞こえた。鈴虫の声の中、繰り返し聞こえる小さな虫の声。懐かしい。江戸に居た頃に庭から夜になると、聞こえた可愛い虫の音。

 千鶴は、廊下に手をつくように身を乗り出して耳を凝らした。

 ちりりん、ぴりりん

 そう聞こえる。鈴を振る様な美しい音。

「これ、なんの声でしょう。鈴虫でもなくて。夏になったら聞こえる」
「松虫だ」

 斎藤がボソッと答えた。本願寺の庭にいるようだな。壬生村にはおらんと言って微笑んだ。千鶴は感心した。小さな時から大好きな虫の声は、【まつむし】という名前。

「まつむし、って「松」につく虫でしょうか」
「さあ俺は知らん。江戸では夏になるとこの音を聞いた。庭先に居る虫なのだろう」
「わたしも江戸の家で聞いていました」

 小さな千鶴は嬉しそうに笑っている。その時、だんだんと薄くなった行灯の灯がゆらゆらと揺れて消えて行った。暗闇。目が慣れるまで、斎藤も千鶴もじっとしていた。蚊遣りから煙が白く立っている。

「もう遅い。寝苦しいが横になれ」
「はい」

 千鶴は「おやすみなさい」と手をついて挨拶すると、部屋の奥の寝床に入った。斎藤は、ゆっくりと自室に戻って行った。

 

 

 

(2020/07/24)

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