第十三部 水琴窟

第十三部 水琴窟

薄桜鬼奇譚拾遺集

慶応三年八月

 陽が傾き始めた午後、千鶴は総司の部屋の前に打ち水をした。

 よしずの内側には黒い丸い石が敷き詰められている。しっとりと濡れた石はつやつやとして、何度目かの水撒きで漸く冷たくなった。そっと草履を脱いで、裸足の足で石を踏んでみた。気持ちがいい。千鶴は柄杓で掬った水を自分の足先にかけた。

 濡れ縁に腰かけて千鶴は涼んだ。廊下とよしずの隙間から夕風が入ってきて、少し暑さが和らいだ気がする。廊下に手をついて、総司の様子を伺ってみると、布団の上に横になっている総司はぐっすりと眠っているようだった。

(よかった。少しは楽になったみたい)

 千鶴は安堵した。ここ数日、総司は微熱が続き床に臥せっている。暑さが厳しい午後は、寝苦しいらしく、千鶴は総司の部屋の前によしずを置いてもらうようにした。こうして、こまめに打ち水をすると、過ごしやすい。千鶴は、再び桶の中の水を掬って足元の石に水を撒いた。水は、ゆっくりと小石の下を流れていく。微かな水の流れる音。遠くに聞こえるひぐらしの声。千鶴は、目を瞑って思い出していた。去年の夏のことを。

 

*****

慶応二年八月十五日 放生会 

 朝食の席で、土方が黒谷の境内で開かれる放生会の話をした。

「法要の後に池に鯉を放すそうだ。今日、俺は黒谷には出向く時間はねえが、もし誰か行くことが出来るなら、代りに行ってお布施を納めて来てほしい」

 斎藤が非番だからと言って役目を買って出た。前の年に放生会に参加した井上源三郎から、午後に法要と鯉を放して用事は済んだと教わった。

「暑い中、ご苦労だね。斎藤くん」

 井上は、ずっと外出が出来ていない千鶴に一緒に行って来たらどうだと黒谷行きを勧めた。

「南禅寺に立ち寄るといい。そうだ、水琴窟に行くといいよ。夕涼みにいい場所だ」

 千鶴は、水琴窟の話を初めて聞いた。手水の水を流すと涼し気な美しい音が聞こえる不思議な水場。千鶴は行ってみたいと思った。斎藤は水琴窟のある場所を知っているようだった。土方が千鶴の外出を許可して、昼餉の後に屯所を出発しようと云う事になった。

 西本願寺の阿弥陀堂門を出ると、通りには陽炎がゆれていた。日陰の多い万年寺通りを通って四条大橋に向かい、祇園を経由して黒谷に向かった。本堂に到着した時に丁度法要が始まり、京都守護職の役人も参列していて、法要後に斎藤は挨拶を済ませる事が出来た。黒谷の放生池は美しい庭の中にあり、千鶴は色とりどりの鯉が放たれる様子を眺めて楽しんだ。それから二人は山門を通らずに、蹴上に向かって裏山道を下りて行った。

 丸太町通りを暫く行くと四つ辻にでた。斎藤は、道をよく知っているかのように小さな路地に入っていく。石橋を渡るとその向こうは鬱蒼とした竹林が続く。辺りはとても静かだ。時折見える寺院がある以外は、山の中の道のようで。千鶴は、草履より草鞋を履いて来ればよかったと後悔した。斎藤は草履に足止めの長い鼻緒を巻いたものを履いている。颯爽と前を歩く斎藤に千鶴は小走りでついていった。

「この先だ、源さんは南禅寺と言っていたが、ここは別の寺、禅林寺だ」

 斎藤は、通りから逸れた通路のようなところに入っていく。そこには立派な総門があった。そこを抜けると、美しい庭園が広がり、池の向こうに御影堂が見えた。中に上がり【見返り阿弥陀像】を拝んでから、ぐるりと回り込むように裏山に下りていく臥龍廊を伝った。青いもみじが陽の光で影を作るように鬱蒼と茂っている。再び持っていた草履を履いて、山裾にある水琴窟に向かった。竹で覆われた手水場は鬱蒼と茂る木々と苔生した岩に囲まれてひっそりと佇んでいる。

 千鶴は、斎藤に促されるまま柄杓で水を掬って、竹の覆いの真ん中にある巌に水を注いでみた。暫くすると、鐘が鳴るような不思議な音が竹の覆いの中から響いてくる。美しい調べ。せせらぎのような音と、蝉の声の中に優しく響く涼し気な音色に千鶴は聞き入った。

「もう一度やってみるとよい」

 斎藤は水琴窟の前に立って、千鶴に柄杓を持たせた。どこか懐かしい、優しい音。共鳴する水琴の響きに二人はずっと耳を傾け続けた。

「なんだ」

 斎藤がかがめていた上体を持ち上げて、千鶴に問うた。突然、大きな声がしたので千鶴も驚いたように顔を上げた。

「今、俺の名を呼んだのは、あんたか」

 斎藤は、千鶴の顔を見て訊ねてくる。千鶴は首を横に振った。「いいえ、私は呼んでいません」と答えると。斎藤は、不思議そうな顔をして背後を振り返った。

「確かにあんたの声がした。俺に話しかけたのかと思った」
「いいえ、わたし。ずっと水琴窟の音を聴いていました」

 斎藤は不思議そうに再び辺りを見回した。

「あやかしの仕業やもしれん。水辺には出るというからな」

 斎藤はそう言って、水琴窟から離れて、阿弥陀堂の裏小径を廻って歩きだした。千鶴は、その後をついて行った。

 ——あやかしの仕業やもしれん。

 あやかし……。千鶴は斎藤が辺りを怪訝な様子で振り返っていた表情を思い出すと、背筋がぞわっとした。足早に斎藤に追いつくと、斎藤も歩を早めた。林の緑が揺れている。「はっ、はっ」という自分の息と蝉の声。怖い。早く暗い小径を抜けて明るい場所に出なきゃ。

「なにゆえ……急に……駆ける」

 気付くと、千鶴の隣で斎藤は膝に両手をついて肩で息をしていた。どうやら二人で一目散に走っていたらしく、「巾着を振り回して、あんたが走るゆえ、俺も思わず駆けてきた」と斎藤は不思議そうに千鶴を見上げた。

「草履をどうした」

 千鶴の足元を見て斎藤が訊ねた。千鶴は、右の草履が見当たらず足袋で走っていた事に気付いた。

「走っている内に脱げたのであろう」

 斎藤は元来た小径を引き返そうとした。「ここで待っていろ」と千鶴に云ったが、千鶴は斎藤の袖に掴まったまま動かない。

「嫌です」
「……出ますから」
「何がだ」
「お化けです」
「何を言っている」
「さっき、出たって仰ったじゃないですか」

 怯えた顔で千鶴は斎藤の袖に掴まっていた。「妖のことか」と斎藤がボソッと言うと。千鶴は大きく頷いた。

「あれは空耳だ。すぐに行って取ってくる。ここで待っておれ」

 千鶴は首を横に振って「嫌です」の一点張り。しまいには腕に掴まって踏ん張り放さなくなった。斎藤は溜息をついた。こんな風に、千鶴は変に怖がりなところがある。斎藤は千鶴の手をとって背中を向けるとその場でしゃがんだ。

「おぶされ、草履が落ちている場所まで一緒に行こう」

 千鶴は斎藤の背中におぶさった。斎藤の肩に回した手の先に巾着を持って、しっかりと掴まった。斎藤は、ゆっくりと元来た道を歩いて行った。林の中の小径は、陽も傾いてきて一層と薄暗い。蝉の声に交じって、カナカナカナという蜩の声も聞こえる。千鶴は、斎藤の肩にしがみついた。

 暫く行った場所に千鶴の草履が落ちていた。鼻緒が切れてしまっている。斎藤は草履を拾うと、踵を返して戻って行った。背中の千鶴はしきりに謝っているが、斎藤は「よい」と言ったまま通りに向かって歩いて行った。

「鼻緒が切れるほど、急いでいた。仕方あるまい」
「茶屋までは直ぐだ。そこで草履を直せばいい」

 ゆっくりと歩く斎藤の首筋には、汗が滲んでいた。大きな肩の向こうに見える林の先は、もう夕暮れの茜の光が伸びていて。蝉の声が静かになって来た。斎藤は、背後の千鶴に振り返った。微笑む横顔が目の前に見えたと同時に斎藤の匂いがした。揺れる髪の先に見えた長い睫毛。

「おんぶお化けの話を知っているか」

 突然斎藤は千鶴に尋ねた。千鶴は「知りません」と答えると。斎藤は、「おんぶのお化けだ」と笑った。

 

****

おんぶお化け

 むかし、女房を貰ったばかりの大層臆病な男がおった。夜に独りで厠にも行けず、嫁に頼んで厠について来て貰う始末。毎晩、夜中に起こされるのを難儀に思った嫁は、身内に相談した。

 嫁の叔父御が「そんなに臆病なら、俺が治してやろう」と言って、夜に便所の屋根の上に上がって、男が用を足しに来た時に真っ赤な南瓜を男の頭をめがけて落とした。男は飛び上がって逃げた。

「化け物がでた」

 大声で叫ぶ男に、女房が「よく見ろ。ただの南瓜だ」と言ってきかせた。男は床の上に転がっている南瓜を見て、「お化けっていうのは、みな南瓜のことだな」と夫婦二人で笑い合った。

 その村にあった寺に、夜な夜な金に光る化け物がでるという噂があった。「おぶれ、おぶれ」と言って出て来る。村の五人衆が寺に泊まり込んだが、本当に「おぶれ、おぶれ」と言って化け物が出て来た。男たちは肝を冷やして逃げた。

 それを聞いた男は、「そんなもの、俺が退治してやる」と言って、夜に独りで寺に出掛けて行った。化け物が座敷に出て来て「おぶれ、おぶれ」というので、「そんなに言うなら、負ぶってやろう」と言って、男は背中に化け物をおぶった。覆いかぶさるようにおぶさった化け物はずっしりと重い。

「随分、重たい南瓜だ」と言って、男はそのまま家に帰って行った。

 五人衆に「お化けは俺がおぶったから、もう出ないぞ」と知らせると。五人衆は大悦びで、酒を持って祝いに男の家に押し寄せた。男の家の囲炉裏端におんぶお化けが下ろしてあった。金色に光る化け物は金の塊だった。寺に集まった賽銭やお布施が長い間使われないまま仕舞ってあったものが溶けて金塊になったものだ。以降、その男の家は大層金持ちになったそうだ。

 背中の千鶴は、ずっと話を聞いていた。怯えていた様子は失せて、くすくす笑う声が聞こえた。もう林はとっくに過ぎて、南禅寺通りも近い。斎藤は、茶屋の入り口の椅子の上に千鶴を下ろした。

「ありがとうございます」
「せっかく、水琴窟で涼めましたのに。汗をかかせてしまって、すみません」

 千鶴は謝りながら、手拭で斎藤の首筋の汗を押えた。斎藤は、「あんたは南瓜ほどでもない」と言って笑った。千鶴が呆気にとられていると、斎藤は千鶴の手を引いて椅子から降ろした。

「壬生に居た頃より背丈は幾分伸びたが、こうして抱えてもさほど重さは変わらぬ」

 斎藤に足元から頭の先まで眺められて、千鶴は自分の頬が紅潮したのが判った。どうしてだろう。とっても恥ずかしい。斎藤は千鶴が狼狽している事には全く気付かない様子で店の中に入って行った。茶屋で豆腐料理を二人で食べた。二人きりの座敷は、東側と北側の窓から涼しい風が通る。遠くにせせらぎが聞こえ、斎藤は冷酒を呑みながら寛いでいる様子だった。

「斎藤さん、黒谷からこちらまで道にお詳しいですね」
「大通りから、もう一度独りで水琴窟まで行けと云われても、私きっと道に迷ってしまいます」
「初めて上洛した頃、丸太町通りに身を寄せていたことがある」

 そうだったんですね。千鶴は、笑いながら応えると、中居が持ってきた豆腐の田楽を受け取った。放生会に精進料理をと頼んだ懐石は、豆腐尽くしで斎藤は嬉しそうに箸を進めている。千鶴は、斎藤が丸太町通りに暮らしていた事をもっと詳しく尋ねようと思っていたが、豆腐料理に気を取られている内にすっかり忘れてしまっていた。

 食事を終えた時には、日も暮れ辺りは暗くなっていた。鼻緒を付け替えた草履を履いて、千鶴は鴨川の河畔を、夕涼みがてら斎藤と家路についた。

 

****

 

「ねえ、僕どれぐらい眠ってた?」

 背後から総司の声が聞こえた。千鶴は、手拭で足を拭いて濡れ縁に上がると、総司の部屋に入って行った。

「数刻です。ぐっすり眠っていらっしゃいました」
「御加減はいかがですか」
「うん、お腹すいた」

 千鶴は、すぐに夕餉を持ってくると云って微笑んだ。千鶴は、再び縁側で草履を履くと、よしずを開いて風が通るようにした。桶と柄杓を持ってお勝手に向かいながら、夕日が落ちていく空を見上げた。

 ——もうあれから一年……。

 水琴窟の音を聴いた楽しい日を思い出す。ちょうどひと月前の送り火の夜に、四条通で斎藤と偶然出逢った。通りを歩きながら、少しだけ言葉を交わす事が出来た。斎藤さんは、変わらずに元気そうで。優しく微笑んでいらした。

 斎藤さんが居らっしゃる詰め所は東山。きっと、あの阿弥陀堂や水琴窟にも足を運んでいらっしゃるだろう。

 水の音。鐘が鳴るような優しい調べ。

 斎藤と聞き入った美しい水琴の音を思い出すと、千鶴は胸のあたりが締め付けられるような心持ちがして、溜息をつきながらお勝手に戻って行った。

 慶応三年の中秋の名月のこの日から、千鶴は水琴窟の音をまた聞いてみたいとずっと長く思い続けていた。願いが叶ったのは、明治二十五年の秋。千鶴が斎藤と夫婦になって二十一年目の年の秋のこと。斎藤はその頃には東京と呼ばれる江戸の町を見守る警視庁警部役を退役し、数十年振りに二人で京を訪れた。戦で京を追われて以来、初めての旅行だった。

 屯所での日々を思い出しながら、当時暮らした場所や訪問したい所を巡った。禅林寺永観堂は紅葉が見事だった。ひっそりと佇む水琴窟に二人で水を注いで、その不思議な音色に聞き入った。静かな小径は、全く昔と変わらず。斎藤が千鶴を背負って歩いた「おんぶお化けの道」を、懐かしい心持でいっぱいになりながら二人で手をとりあって歩いた。

 

 

 

 

 

(2020/08/13)

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