ブログ【小説の中のこと】幕末、戊辰戦争、明治の始まり、季節など
こんにちは。すっかり残暑は過ぎ去って肌寒い日が続いています。皆さん、お元気にお過ごしでしょうか。
今日は、そろそろ終盤に向かっている「戊辰一八六八」の設定について書きます。
戊辰一八六八は日付の表記、隊士達や会津藩軍の固有名詞など、捏造している部分が沢山。実名の隊士については、千田兵衛は名前だけお借りして、紀州出身の士分ではない若者としています。山岳移動に強い隊士という設定も捏造です。新選組隊士録によると、千田兵衛は津軽藩出身。このほか、会津戦争終結時に残った隊士は、記録に残っている隊士達のお名前(志村武蔵、久米部正親、河合鉄五郎など)を拝借して、ふわっと捏造設定にしてあります。ページトップの写真は白河戦線の最中に作成された隊士名簿(福島県立博物館所蔵)、左端に歩兵指図役「尾関雅次郎」の名前があります(尾関は後に旗掛役になります)。上の画像では見切れていますが、実際の名簿はもっと横に長く、途中から墨が足りなかったのか、薄墨になっています。下に全体画像を貼ります。左端に千田兵衛の名前があります。
会津藩軍会義隊(かいぎたい)の隊長野田進は実在した会津藩士です。下士身分で正規軍の補助的部隊として白河戦争にも参戦し、会津戦争中も城下で奮闘し部隊全体が上士身分に引き上げられます。人物だったらしく、謹慎先の越後高田藩にそのまま残り、後年は教育者になりました。小説では、新選組と一緒に行軍して息の合う連携を取った部隊長として描いています。斎藤さんと立場も似ていて二人は信頼し合っています。
下の画像は、左側の二本が会義隊の隊旗です。右側の説明にあるように、同盟軍は味方の兵を識別する為に、仙台藩は紅白、会津藩は浅黄のタスキをつけて識別していました。
上の画像は蝦夷に渡った新選組の袖章です。これに似たものを会津戦争中も目印でつけていたと思われます。日の丸が付いているのが、旧幕府海軍章っぽいです。(こちらは市立函館博物館の資料です)
時勢については、小説(濁りなき心にシリーズ)の中で出来る限り触れましたが、ここにちょっと補足しておきます。
戊辰の年は、前年に大政奉還(新暦1867年11月)が行われ、その時点で江戸幕府は瓦解。(一般的に「幕末」と呼ばれるのは、ペリー提督の黒船来航の年、嘉永六年六月(1853年7月)から慶応三年十月の江戸幕府の崩壊まで)同年十二月には「王政復古の大号令」が発令され、「新政府」が打ち立てられました。薄桜鬼斎藤さんルートの中では、十一月の終わりに斎藤さんが御陵衛士を離脱して高台寺から屯所に復帰し、その数日後に「油小路の変」が起き、「天満屋事件」があって、伏見奉行所への転陣。近藤さんが墨染で襲撃されて、沖田さんと一緒に大坂へ搬送されていった物々しい年末。厳密に線引きすると、ここまでが幕末です(幕末がいつまでかは諸説あり)。幕末の最後は、新選組にとって辛い出来事が次々に起きました。
年明けに伏見の戦いが勃発し、戊辰戦争が始まります。戊辰の年は、年号では「慶応四年」長い一年の幕開けです。
小説で斎藤さんが如来堂から脱出後、会義隊と一緒に一ノ堰に転陣したのは慶応四年九月八日。この日元号が慶応から明治に変り、一世一元の詔が発せられました。この時に、一月までさかのぼって明治元年と定められたので、表記は「慶応四年/明治元年」とされることが多いです。このように明治が始まったExact dateが後付けだったため、「幕末」の区切りは少し曖昧に感じてしまいがちです。感覚的には、戊辰戦争の九月八日までが幕末ともいえるでしょう。もしくは戊辰戦争が終わるまでが幕末ともいえます。時代区分として、戊辰yearは特異な一年です。
小説では、斎藤さんと千鶴ちゃん目線で時の経過を描いています。時代は新しい明治期へ移り変わっていますが、日々戦い、必死で生き抜いている二人にとって、時勢の変化は気づかない内に起こっていた事のように描写しています。でも実際はどうだったのでしょうね。斎藤さんたちの意識や得られていた情報などは、私の中であらんかぎり洞察するしかないです。
会津藩降伏の九月二十二日は、現在の暦では11月6日立冬。城北の塩川に連行された斎藤さんは厳しい寒さの中、新政府の処遇を待つ事になります。仙台に向かった土方さん率いる新選組、幕府軍の戦いはまだ続いています。斎藤さんの中では、まだ戦いは終わっていません。
今、シリーズ完結部分を書いているところです。毎年9月から11月ぐらいまで、日々斎藤さんの行軍風景を想い浮かべることが多いです。新暦の季節で思い起こすとよりリアルに当時の出来事を感じ取れるような気がします。
もうしばらく先になりますが、完結部分を書き終えたらアップしますね。
ちよろず