流水浮木
薄桜鬼小品集
元治元年十月
「とっても美味しかった。食べすぎちゃいました。わたし」
三条の煮売り屋で昼餉をとった後、通りに出た千鶴は胃の辺りを擦りながら斎藤に笑いかけた。この日、三番組の巡察は午前中だけで、午後は非番だった。隊士たちとも分れ、斎藤と千鶴は二人で腹ごなしに屯所とは反対方向に三条大橋へ向かって歩いて行った。近頃は、巡察帰りに鴨川の河岸に立ち寄ることが多い。
八月に起きた大火で焼け出された通りは、建て直しや修繕で元の姿を取り戻しつつある。通りには材木や資材を摘んだ荷車が行き交い、焼け落ちた店舗の前で出店を出している商店もある。通りの喧噪の中、盗みや諍いは日常茶飯事のこと。夏にどんどん焼けの原因を作った長州藩を京から追い出すことに成功したが、市中の取り締まりは今も変わらず新選組の一番の仕事だった。だが斎藤は、隊士たちと離れて千鶴と二人で歩く時は大通りを避けることにしていた。いつかの「桝や」で起きた事件のように不逞浪士の斬りあいに、いつ千鶴が巻き込まれないとも限らない。
大橋の袂から土手を下りて、河岸の道を歩いていた二人は、雲ひとつない真っ青な空を見上げ、気持ちのいい秋風に吹かれていた。
「あっ、綺麗。斎藤さん。あそこに、ほら。尾っぽの長い鳥が」
美しい尾長が葦の林の上を飛んでいるのが見えたのを千鶴が指をさしている。ちょうど河の水は引いていて、大橋の下から大きな州が出来ていた。二人で、短い葦の林を抜けて州の方に歩いていった。水面から浮かび上がった砂の島は広く、川の真ん中まで伸びていた。
「かわいい。これ、千鳥の足跡」
千鶴は、鳥が歩いた跡を追うように進んでいる。足跡は途中でくるりと何度も輪を描き、その先に小さな鳥の姿を見つけた。砂の上に交互についた足跡を「かわいらしい」と千鶴はくすくす笑いながら眺めている。斎藤は、千鶴が嬉しそうに動き回る姿をずっと眺めていた。鴨川の流れは穏やかで、川面はきらきらと眩しい。
ふと、川面に朱いものが見えた。楓か紅葉。橋の傍の木から落ちたものか。ゆっくりと流れる木の葉は、途中で水の流れに巻かれたようになり再び水面に浮きあがり、石を除けるように流れていった。斎藤は、足元に落ちていた小枝を小さく折ったものを水面に投げた。水流の音だけがしている。洲の端にしゃがんでいた千鶴は立ちあがって斎藤に話しかけようと振り返った。斎藤は、じっと背筋を伸ばしたまま目を伏せている。大橋の方向から吹く風に斎藤の蒼い髪がなびいている。節ばった大きな手を握り絞めたまま斎藤は全く動かない。
斎藤さん、集中していらっしゃる。
千鶴は、斎藤が常に「集中する時」を大切にしていることを知っていた。新選組幹部の中でも斎藤は寡黙でめったに大きな声をたてない。幹部の皆が賑やかなことが大好きで、陽気に騒ぐ中、斎藤は静かに佇ずむ。そんな印象を受けていた。だが、屯所の中に居ても巡察で外に出ていても、斎藤は常に目配せをし何かがあると、たちどころに動く。幹部同士での言い合いのような場面でも、肝心肝要な一言でその場を収めてしまう事も多い。千鶴は、そんな斎藤をいつしか信頼するようになっていた。そして、斎藤の静かな振る舞いの中に見える「何か」を知りたいと思うようになっていた。
静かに佇む斎藤の横顔をじっと見ていると、瞳は完全に閉じられていない。ただ伏せがちに瞼を落としているだけ。深い青い瞳はじっと川面を見詰めている。千鶴は、何が川の中にあるのかと思って覗いてみたが、何も見当たらない。ただ動かずにいる斎藤を見て、千鶴もその隣に立って真似をしてみた。じっと立って集中する。目を瞑ろう。
屯所に暮らし始めた冬の頃、新選組局長の近藤が「雪村君、部屋に籠もってばかりだと退屈だろう」と言って、屯所の道場稽古の見学に連れ出してくれた。空気が凍るような寒い朝。暗い道場の中で隊士達が熱心に剣術の稽古をしていた。近藤が斎藤を呼んで、千鶴に「見取り稽古」をつけるように頼んだ。まだ、その頃は、斎藤と言葉を交わしたことは数えるほどしかなく、隣で正座をする斎藤から厳しい空気を感じ大層緊張した。三番組の稽古は、隊士達同士が試合形式で打ち合うものだった。斎藤は、隊士達の「良い手」「悪い手」を的確に指摘していく。千鶴は、隊士たちの動きに集中し、斎藤が予測する通りに動く剣先を目で追うのに必死だった。稽古は一刻以上続き、終わった頃には足が痺れてしまい、直ぐには立ち上がれなかった。よろけた千鶴を大きな手で引き上げるように支えた斎藤は、「ご苦労だった」と一言。口角が上がり、優しい表情で微笑んでいた。それが斎藤の笑顔を初めて見た瞬間だった。
ある日、屯所の中庭で斎藤が立っていた。声を掛けても、返事もなく動かない。傍にいって、斎藤が目を瞑っていることに気付いた。何かの音に耳を傾けている様子でもなかった。暫くすると、傍にいる千鶴に、「すまぬ、集中しておった。何か用か」と問いかけてきた。
(集中されていたんだ……)
心中でそう思いながら、首を横に振って「なにもございません」と答えるしかなかった。日々の生活の中で、斎藤は時折「集中」することがあることが解かった。千鶴は、決して邪魔をしないようにしようと決めた。同時に、斎藤が「集中」するのは何のためにされているのだろうと不思議に思った。
それからも時折、斎藤が独り静かに集中する姿を目にすることがあった。いつしか千鶴も見様見真似で同じように目を瞑りじっと動かずにいるようになった。どれぐらい自分で「集中」出来ているかは判らなかったが、不思議と自分の中が落ち着く心持がした。
今もまた「集中」してみる。川の州で。砂の地面の上で佇む……。
どれぐらいの刻が経ったのか。千鶴が目を開けると、斎藤は真っすぐに目を開いて川を眺めていた。
「一刀流の教えの中に『流水浮木』がある」
そう言って千鶴に見せるように、木の枝を折ったものを水面に放り投げた。枝は、水の流れにくるりと一回転すると再び流れていった。
流れる水、浮く木。
水に浮く木の枝は、波があれば沈み、浮き上がり流れていく。
決して自然に逆らわない。
構えた己の剣を浮木。
水に浮かぶ丸太を突こうとして、
丸太の中心より右に突くと丸太は右回りにくるりと廻る。
鋭く突くと、廻りながら水中に沈み、廻りながら浮いてくる。
同様に左に突くと左に廻りながら水中に沈み、廻りながら浮いてくる。
突く力の度合いに応じて廻る速度、深さが変わる。
何遍くり返しても同じことだ。
遂には突くのに疲れ果てて、相手は根負けするだろう。
相手が俺の剣を左右に叩いても、その力を利用して相手の中心、喉や心の臓に剣先をつけ、あるいは一拍子で突き、こだわることなく外しては上に乗り、争わずして勝つ。
己の心を水とし、剣を浮木として乗ずる。
「一刀流の秘伝だ。浮木は真の真剣の理だと俺は思う」
千鶴は水が流れていく様を見ながら、じっと斎藤の言葉に耳を傾けていた。小太刀の護身術を少し身に着けただけの自分に、剣術の理をどれほど理解出来ているのか、自分でも定かではない。だが、斎藤が教えてくれる言葉はとても大切な事だと思った。
——流れには逆らわずに。自然に。己の心を水とする。
さっき、水面を見詰めて集中されていたのは、そういうことだ。斎藤さんは、常に剣術の理を、心を静かにして見詰めていらっしゃるのだろう。
「そろそろ屯所に戻ろう」
斎藤がそう言って踵を返した。砂地の州は、いつのまにか川が満ちて水面から消えていた。二人が立つ場所の周りは青い水面に覆われてしまっている。斎藤はしまったと思った。
「随分と早く満ちるものだな」
そう言って、おもむろに草履を脱いで帯に結び付けた。そして、足袋を脱いで袂に仕舞うと、千鶴に背を向けてしゃがんだ。
「念の為に草履をぬいで袂にしまっておけ」
そして、斎藤は千鶴を背負って州から下りて水の中に入った。思ったほど水は冷たくはなかった。一歩一歩前に進みながら、「さっき、もみじが流れてきたのが見えた。東山も紅葉が綺麗な頃だ」と千鶴に話しかけた。
「はい、井上さんが京は紅葉の季節が見事だと仰っていました」
「また、伏見にいく用があれば、行ってみよう」
「はい」
背中の千鶴は嬉しそうに返事をした。
***
「あれ、あそこにいるの、はじめ君と千鶴?」
巡察の列の最後尾を歩いていた平助が指さした。十番組と祇園で合流した平助は、傍を歩く左之助を呼んで、三条大橋の欄干から身を乗り出すようにして大声で叫んだ。
「おーーーい、はじめ君。千鶴」
斎藤は、気づく様子もなくゆっくりと川の中を歩いている。
「なにしてんだ」
「川遊びでもしたんじゃねえか。今日はいい天気だ」
「にしても、水は冷たいだろ。いくら何でも」
「おーーーい、ちづるーーーー」
平助は大声で呼びかけるが、二人は気づく様子はない。川辺の道に上がった二人は、土手に座って、斎藤が手拭で足を拭き足袋を履いている間、千鶴は辺りの花を摘んでいる。身仕舞を整えた斎藤は、千鶴が持ち寄った花を見て、傍にあった花を一緒に摘み始めた。
「なんだよ、二人で花摘みかよ」
一向に呼びかけを無視しているかのような二人に、平助は痺れを切らして怒り始めた。
「行くぞ、平助」
「おう、でもちょっと待って」
平助は再び身を乗り出すようにして、「はじめくーん、ちづるーーー」と叫んだ。
突然、平助の頭を背後から掴むようにしてぐしゃぐしゃと左之助が撫でまわした。
「おい、野暮なことはすんじゃねえ」
「せっかく、二人で楽しんでんだ。そっとしておいてやれ」
なんでだよ。平助は納得が行かない様子で文句を言ったが。左之助は平助の腕を掴んで、どんどんと橋を渡って行き、隊列に追いついた。
その日、平助たちが、夕方に巡察から戻ると、幹部のそれぞれの部屋の一輪挿しに花が活けてあった。
了
(2020/10/04)