
柘榴色の簪
明暁に向かいて その6
明治八年正月
正月二日目の朝は快晴で、早朝に庭で久しぶりに斎藤は剣を振るった。休み明けには、陸軍との合同巡察も始まる。二月に本庁主催の剣術仕合も催される。大一区小二署から、警部補の田丸、斎藤と部下の巡査二名が出場することが決まっていた。麻布にある警視庁道場で予備選出の試合が来月初旬に行われる為、部下二名は年明け早々に斎藤に早朝稽古を願い出ていた。
千鶴はゆっくりと、お節を用意している。昨年の暮れに炊いた肉の煮こごりは、母屋の北側の軒下で凍らせる為にそっと筵の上に置かれていた。鍋の蓋を明けると、二寸ほどの厚さで表面に真っ白な脂の塊が出来ている。それを綺麗に別の鍋に取り出した。これは、炒め物や焼き物に鍋に敷く脂として重宝する。冷えたご飯に葱と一緒に炒めるだけで、お酒に合う一品が出来る。千鶴は、脂を移し替えると、また軒下の影に鍋を仕舞った。元の鍋には、肉の煮こごりが透明な塊になって出来ていた。昨年の暮れの冷え込みは十分に肉汁を固めてくれた。寒い年末から大寒にかけて作るこの料理は、京の屯所に居た頃に、井上源三郎と一緒に作った。井上は、もともと多摩の出身だが、京で食べた『うまいもの』は、どんどんと屯所での食事作りに取り入れていた
京に暮らした頃、千鶴と井上が料理の仕方を教わったのは、お漬け物屋であったり、市場の佃煮屋、煮売り屋、ももんじやであったり。あらゆるところで、美味しい一品の作り方を教わっては、試しに屯所の台所で作っていた。千鶴は、井上と献立の帳面を作って、食材のこと、教わった料理法などを二人で細かく書き綴っていた。もうその帳面は、手元にはないが、隊士たちが喜んで食べてくれていたものは、今でも食材が手に入ると時折思い出して作っている。
『肉の煮こごり』もその中の一品だった。とっておきの一品。本当に、特別にしか作れなかった。
井上は、これを【ももんじや】から教わったといって、ある寒い日の朝、これから作るからと千鶴に手伝いを頼んで来た。それまでは、肉料理は、赤身の部分だけを匂いを押さえるために山椒と醤油で辛く煮付けるぐらいにしかできなかった。それが、牛の肉が大量に。筋のはいった箇所ばかりが台所に置いてあった。牛の筋肉は軟骨のように堅く。出刃包丁でたたき切らないと細かく出来ない。それでも、井上は根気よく、茹でて煮こぼし、細かく切り続けた。手元には、【ももんじや】から教わった作り方を書き留めたものがあった。脂抜きした牛すじを細かく刻んで、たっぷりのお湯で煮込む。味付けは、お醤油と味醂だけで。出来あがった出汁をそのまま鍋ごと、外に一晩置いて固める。井上の几帳面な美しい文字で、「一昼夜煮込む」と書いてあった。千鶴は、一晩中起きて台所に詰めていないと。そう覚悟した。西本願寺で、初めて大寒を迎える頃で、井上と二人で順番にお鍋の番をしようと相談して笑い合ったのを覚えている。
鍋から取り出した煮こごりは、綺麗な透明な黄金色で、寒天で固めたようになっていた。小さく切り分けてお節と一緒に並べる。斎藤や土方は覚えているだろうか。冬の寒い時期に、暖かい部屋で、夕餉や酒の肴に、これを出すと、皆が美味しいと喜んでいた。確か、お醤油に七味をつけたのが良いと言っていたのは、永倉さんだったか。土方さんだったか。そんな風に懐かしく思いながら、炊きたてのご飯と一緒にお膳に並べた。
土方が、漸く起きて来てお膳に座った。元旦の夜は、遅くまで起きて斎藤と話し込んでいた。今日の午後に、実家の多摩に一旦戻ると土方は言った。日野の土方の実家には、去年の正月に一度帰ったきり。俺は箱館で戦死したことになっているからな。そう言って土方は笑う。人目を忍んで陽が落ちる頃に戻るという。賊軍の汚名は、土方の親兄弟、親戚に至るまで、そのそしりを逃れていない。のこのこと昼間に姿を現すことは出来ない。
俺の一番上の兄貴が、二年前に亡くなってな。
もともと、次兄が土方家を継いでいた。長兄が他界していたことを、土方は洋行から戻った時に知ったという。去年も正月の夜に一晩だけ日野に戻った。兄弟姉妹は皆、自分が生きて居たことを喜んでくれた。だが、隠れ暮らす俺なんかが出入りをしねえのが一番だ。そう言って、土方は暫く黙った。
仏壇に、兄貴と一緒に俺の位牌も並んでいる。自分の位牌に手を合わせるのは変な気分だ。
そう言って、小さく笑った。それをじっと黙って斎藤は聞いていた。斎藤は土方が実家との縁が完全に途切れていない事に安堵した。御殿山の家に通いで来ている老年の女中は、日野の遠い親戚筋で、土方の姉のおのぶさんとその夫の佐藤彦五郎氏が、独り身の土方の身の回りの世話を頼んだらしい。土方の義兄であり、新選組への資金援助をしていた佐藤氏は、政府からの咎めは逃れている。変名を使い、世間から身をくらませて生きるのは辛い。実家である山口家と断絶している斎藤は、土方の苦労がよくわかる。斎藤は思い切って土方に、土方さえ良ければ、診療所で斎藤たちと一緒に暮らす事も考えて欲しいと願い出た。
ああ、俺はここを自分の家みたいに思っている。
そう言って、土方は「ほんとうに有り難い。千鶴やお前には感謝している」そう言って微笑んだ。今晩、日野に行った後は、御殿山に戻る。明日から仕事始めだ。炉に火を入れる。【点火式典】ってやつを催す。何個か試作品を作る予定だ。大がかりな作業になる。それにな、硝子に色をつける行程も試してるんだ。すげえ物をみせてやる。土方は硝子造りの話になると止まらないようだった。斎藤は、一旦興業社に出られたら、忙しくされるのだろうと思った。また、正月明けにでもゆっくり休みに来てくださいと土方に念を押した。
全員がそろって、ゆっくりと朝餉を食べた。煮こごりは、斎藤も土方も懐かしいと喜んで食べた。土方は、「源さんはうまいもの好きで、舌が肥えていた」と話ながら、屯所に居た頃の食事を懐かしく思い出した。斎藤は、すぐきの漬け物、土方は、近清の沢庵をまた食べたいと笑う。千鶴は、京に行きたいですね、食い道楽をしてまわりたい、と笑った。千鶴は、土方に日野に持って行けるようにと、用意しておいた清酒の瓶とお餅を風呂敷に包んだ。それから、土方はのんびりと中庭で子供を遊ばせた。
昼過ぎに斎藤の部下が二人で年始の挨拶に診療所を訪ねてきた。津島は、弘前からの土産の【貴醸酒陸奥八仙】ですと言って、酒瓶を差し出した。斎藤は、これは珍しい旨い地酒だと喜んだ。千鶴は、津島にお礼を言うと、遅い昼餉を皆で食べた。年末に、豊誠に投げ飛ばされて打撲を負った天野は、すっかり頭のたんこぶは引きましたと、笑って話した。部下の二人は、それぞれ実家に戻って良い正月を迎えたと報告すると、明日の仕事始めの前に、稽古始めをお願いしたいと頼んできた。斎藤は、「いつもより一時間早くからしごいてやる」と笑った
食事の後に、土方が身支度をして診療所を後にした。馬車が着くと、玄関まで斎藤の部下達も含め全員で見送りに出た。
「副長、正月明けには新八が上京します」
「ああ、わかった。みんな、世話になったな。千鶴、こんどは豊誠を連れて品川台場に行こう」
土方は、思い出したように言って笑った。千鶴は、「はい」と笑って返事をした。土方の乗った馬車が、道の角に消えるまで、千鶴は豊誠と手を振り続けた。
*****
天野と津島
翌日の三日が斎藤の初出勤日だった。午前中の式典だけで午後は、早くに帰ってくると千鶴は聞いていたが、部下との朝稽古をするからとまだ暗い内に家を出ていった。斎藤の話では、剣術試合は勝ち抜き戦になっていて、最終戦は警視本庁にて決勝戦を大警視の前で行うという。御前試合のようなものだ。虎ノ門署の威厳が関わっている。そんな風に話した。天野と津島は二十代の部。斎藤は三十代。それ以上も六十代の部まで、それぞれ年齢別に部が分けられている。田丸警部補は、四十代の部に出られる。田丸さんは、四十二才。出場する部では最年長だ。斎藤の話を聞いて、千鶴は試合を見に行きたいと言ったが、斎藤は、初めてのことで身内が見に行けるものかわからぬと応えた。
斎藤と同じぐらい早い時間に本郷から署に向かった部下二人は、ずっと暗い道を白い息を吐きながら足早に歩いていた。
「すっかり正月で体がなまっちまった」
天野が自分は、東京の下町の実家に戻って寝正月だったからなと言い訳をした。
「俺は、ずっと素振りと居合形の浚いをやっていた」
津島は呟いた。夏の怪我以来、それまで使っていた右手を利き腕の左手構えに変えた。慣れるにつれて、身体が自由に動く事に気がついた。力の入れ具合、体捌き、全てが自然に意のままに動く。これは、津島にとって衝撃的だった。自分も精進すれは。藤田主任のように。ただそう願い努力を続けてきている。故郷の兄や父親は、息子が一回り逞しくなったと喜んでいたが、左手構えに変えた事には、憤っていた。東京は、そのように不作法な土地なのか。そんな風に津島は諫められたが、これが自分の剣術だと突っぱねて、正月の元旦の昼過ぎには、刀を持って弘前の港を出た。
「昨日もなんだかんだ、主任の家でご馳走になったし。俺は、まだ正月気分だ」
「何を暢気な事を言っている。これからは巡察も大規模になる。それに来月の試合は絶対に負けられん」
津島は、やる気を見せない天野に呆れながら応えた。
「それにしても、主任の家に来てた。西村さんって男前だよな」
天野が突然、土方の話をし始めた。津島は天野の暢気な様子に半分呆れながらも、うん、と言って前を向いて歩き続けている。
「昨日の、あの外套姿も格好良かった。あの人は、品川興業社の社長だろ?奥さんの親戚かなんかか?」
天野が津島に訊ねた。
「知らん。奥さんは、土方さんって呼びかけている」
津島が応えると。天野は、思い出したように話し出した。
「そういやあ、そうだ。主任も「副長」って呼んでるな。元の上役か」
「ああ、主任は会津藩士だった。たぶん、西村さんも会津の人だろ」
「じゃあ、奥さんの縁者じゃねえな。あんまり男前だからよ。それに、身内みたいだよな」
「もともと土方って姓だったのが、西村になっているようだ」
そうか、土方さんが西村さんか。そんな風に二人で納得しながら歩いていた。
署の道場に行くと、斎藤が先について、居合いの形をやっていた。二人は、みっちり二時間をかけて絞られた。特に、天野は全く力が入っていない。そう斎藤に叱責された。その後、式典の前に簡単な朝礼報告があった。斎藤の率いる隊は別働隊として、陸軍と合同警備を行う。翌日以降、警備範囲が変更になり、軍議朝礼に毎週月曜日に青山練兵場に出向く事になると説明があった。その後、警視庁本庁での式典に全員で出席して、そこで解散となった。
天野と津島は、午後は神田に羽伸ばしに行こうと斎藤を飲みに誘った。斎藤は、一杯だけだと言って、麦酒を出す店につきあった。そこは、西洋風の飲み屋で。大きな縦長の杯に麦酒をなみなみと注いで振る舞う。給仕の女が多い店で。斎藤たちが座った席に、一緒に腰掛けて話掛けてくる。お座敷の延長のような店だな。斎藤はそう思った。
陽気に女達が話しかけてくるが、斎藤は黙って飲み続けた。天野がずっと喋り続けている。初夢に鷹が空を舞っていたのを見たが、幸先いいと喜んだところで、それは鳶だった。気づいた時には手に持っていた田楽を取られた。鳶に油揚さらわれる初夢って。そんな話をして、女達を笑わせている。斎藤は自分の隣に座る津島を見た。津島は、女の勢いを適当にあしらいながら、黙々と飲んでいる。天野と津島。本当に対照的な二人だ。二人を足して二で割ったら、丁度、適度な愛想のよい男になるのでは。そんな事を考えていた。
機嫌良く飲んでいる部下二人を置いて、斎藤は独り先に帰った。その後も部下の二人は麦酒をさんざん飲んで、天野はふらふらとなりながら、午後の道を津島と本郷に向かって歩いて帰った。
「それにしても、主任は鉄仮面だよな」
天野は、橋の欄干に手をかけながらゆっくり歩く。傍を馬車が勢いよく通るので、津島が庇うように左側を歩いて、天野の腕を引いた。
「あの人は、結構男前なんだぜ。西村さんほどじゃあねえが。綺麗な顔立ちだ」
「あれでちょっとでもニコっとしてみろ、あの店の女はみんな靡くのに」
「あんな無愛想だとな。もってえねえ……」
「お前もだ。津島」
「隣に女が座って、笑いかけてるんだから、普通はもうちょっと相手になるもんだろうが」
「俺は、女の居ない店でも構わん。酒が飲めればいい」
「・・・・・・お前、主任みたいな事を言うな。鉄仮面が移ったか」
天野に呆れられながらも、津島はしゃんとした足取りで天野をひっぱる様に歩いていた。
「あの鉄仮面がよくあんな可愛い人を嫁に出来たもんだ」
「まだ、主任を悪く云うか?」
津島は、立ち止まって天野を睨み付けた。
「悪くは言ってねえだろ。あんな仏頂面で、どうやってあの可愛い奥さんを口説いたんだってんだ。俺は、いっつも不思議だ。それに主任は、あの奥さんの前だと、ニコニコしてまるで別人だぜ」
「奥さんだからだろう」
津島は、そっけなく前を向いたまま話す。
「この前、主任と巡察にでた帰りに二人のなれそめを聞いたんだ。お前知ってるか?」
「なにをだ」
だんだん、津島の機嫌が悪くなってきているのに、天野は気づかない。
「主任が二十歳。奥さんは数えで十五。出会った時よ」
「それ以来ずっと一緒に暮らしてるらしいぜ」
津島は、黙って聞いていた。十五。故郷の妹と変わらないぐらいだ。奥さんはどうかわからないが。妹はまだ子供だ。正月に帰った時も、千代紙を土産に渡したら、姉さん人形を着せ替えると大層喜んでいた。まだ人形遊びをしている頃。そんな時分から、主任と一緒に暮らしていたのか。そんな頃から……。
「祝言を挙げたのは、戦の後だって言ってたよ」
「ああ、奥さんは会津の戦に主任と従軍してたそうだ」
「ああ、それを俺は田丸さんから聞いた。奥さんは男の格好をして、帯刀してたって」
「そうか、その頃に薙刀振り回してたんだな、奥さん」
昨年の暮れ、中庭で千鶴が薙刀を持って立った姿を、津島は思い出した。いつもしとやかで優しく笑うあの人が。素早い動きで坊ちゃんを抱えて。だんだんと鮮明に思い出して来た。そうだ、薙刀を振っていた。
「会津は、女子供まで槍や銃を持って闘ったらしいな。田丸さんが、なにも藤田の嫁御だけじゃねえ。みなだ。みなで闘っただ。そう言って悔しそうに話してた」
「……。俺は、先の戦は、知らん。親父が松前に出て闘っただけだ。でも、待機してる内に戦は終わったと。弘前藩は、早くに新政府に恭順した。負け戦に出ず賢明だったと……」
「おまえ、それは絶対に田丸さんの前で言うな」
それまで、だらだらと歩いていた天野が、急に立ち止まって真顔になって言った。
「ああ、わかっている。主任も、俺が弘前藩士の士族だって事はご存じだ。先の戦の話は、互いに避けている」
「……そうだろう。俺は、親父から幕府軍の話は沢山聞いていた。尾張藩も早くに寝返ったくちだ。親父は、最後まで公方様をお守りするのが己の勤めだと言ってたがな」
「ま、気にするな。俺もお前も、先の戦の頃は、まだ洟垂れ小僧だ。ただのガキの俺等に、田丸さんも恨み事は垂れまい。主任も同じだ」
「ああ」
津島は返事をしながら、心の中で、いつもそう願っていると呟いた。そして、故郷の妹を思った。少女が戦で男の格好をして死線をくぐり抜ける。主任の奥さん。妹の姿と重ね合わせながら、その苦労を思った。
「それにしても、縁は異なものだ。あの鉄仮面の主任が、あの【めんけー】奥さんを嫁に貰うんだからな」
「お前みたいに、無愛想にしてる方が、女の方で寄ってくんのか?」
「なあ、津島。黙ってねえで、応えろ」
「おなごの事は、わからん」
「また、それかよ。だから、今度、品川で上がろうぜ、な。給金下りたら行こう」
そう言って、天野は津島の肩に手を掛けた。酔っ払いながらの道中だったが、陽が落ちる前には、江戸川を渡って、二人は無事に本郷の下宿に着いた。
*****
柘榴色の小瓶
仕事始めから数日後の午後に、土方が突然診療所に現れた。木の箱を抱えた土方は、家に上がると箱を開いて中から、小さな一輪挿しを取り出した。真っ赤な硝子で出来た美しい小瓶。緩やかな紡錘形で首元はすっと長く、よく見ると斜めにねじるような飾りが入っている。
「金赤、硝子の生地に金を混ぜてこの色を出した。どうだ、綺麗だろう」
土方は、縁側からの陽の光にかざして千鶴に見せた。
「ガーネットだ。職人は血色って呼ぶ。ここまで濃く、深い色はなかなか出ねえ。炉の温度をおもいきり低くして作るんだ。うちの職人はいい腕をしてるだろう、これは、ほんの一瞬で吹き込んでこの飾りも作ったんだ」
「本当に。こんなに綺麗な物は見たことがありません。表面が艶々で、陽にかざすと金色に表面が輝いています」
「そうだろ。もっと透明度を出すことも出来るんだが、血色の方が貴重だって職人が喜んでいた。こんな一輪挿しだと、花が負けちまうものか? 売り物になるかと、職人は首をひねっていたがな」
「私は、どんなお花でも合うと思います。こうやって陽の光のあたる場所に置いておくだけでも、綺麗で。きっと売れると思います」
土方は、千鶴の感想を聞いて嬉しそうにしていた。いい物が出来たから直ぐに見せたくて持ってきた。今日はこれから品川台場に出る。豊誠を連れて行きたいが、千鶴も一緒に出られるかと訊ねてきた。千鶴は、今日は、斎藤が部下を連れて早めに戻ると聞いていたので、夕飯の支度にとりかかっていた。土方にも一緒に夕飯をと引き留めたが、品川の用事のついでに、坊主に灯台を見せてやりたい。そういうので、思い切って土方に子供だけを連れて行ってもらう事にした。
おしめの替えと上着を着せて、豊誠は初めて千鶴から離れて、土方と出掛けていった。いつもずっと一緒にいる息子が、傍にいないのは不思議な感覚だった。猫と二人きり。猫も火鉢の傍の敷物の上で丸くなって眠っている。急に静かになった部屋を見回した後、千鶴は再び台所に戻って夕飯の支度をした。
日が暮れてすぐに斎藤が部下を連れて家に戻った。今日は新しい巡察地域を回った。陸軍との合同巡察は、規模が大きく、一緒の隊員の名前と顔がまだ一致しない。陸軍部隊は薩摩出身のものが多く、薩摩なまりで話されると斎藤たちは言っていることを理解するまでに時間がかかる。斎藤は、京に居た頃に薩摩藩士と話す機会があったから、相手の言わんとすることはなんとなく解ったが、部下同士に関しては、全く互いに意を介さない場合が沢山あり、何か事が起きた時を想定すると、もう少し言葉の統制が必要だと思った。
夕飯を食べながら、斎藤は部下と陸軍部隊との巡察の感想や問題点など、意見交換を熱心にしていた。千鶴は、お酌や給仕をしながら。三人の話を聞いていたが、心の中では、まだ暗くなっても戻らない息子が気になって仕方がない。もう夕餉の時間なのに。なかなか戻らぬ土方たちが気になり、なんども門の外まで出ては、土方と息子の帰りを待った。
夕餉が終わって、晩酌も一通り進み。部下達がそろそろと腰を上げた。もう夜の八時をとうに過ぎていた。ちょうど玄関に部下の二人が帰るのを見送っているところに、やっと土方が豊誠と帰ってきた。土方は、少し酒臭い息で上機嫌だった。
「遅くなった。坊主はもう夕飯は食わせた。品川の灯台は灯をともすところを観れた。見事だった。な、豊誠」
千鶴に子供を渡すと、土方は、斎藤に部屋に上がるように引き留められたが、翌朝が早いから今夜はこのまま帰るという。
「こいつは、座敷でもひっぱりだこでな、隣の座敷の芸子までみんな部屋に集めてしまいやがった。俺も花街の女には相当もてたが、こいつには敵わねえ」
そう言って、手を伸ばして豊誠の頭を自分に引き寄せると思い切り頬ずりしてから、「またな」と言ってぐしゃぐしゃと頭を撫でて、帰ってしまった。
居間に子供を抱いて連れて行って、洋燈の灯りの下で息子の顔を見た千鶴は、「まあ」と驚嘆の声を上げた。豊誠の両頬に紅の跡がついていた。口づけされた跡が、一つどころではなく、何個もついている。さっきの土方の様子では、お酒の席に豊誠を連れて行ったようだった。そのような場所で、芸子さんに豊誠は紅のついた口元で、さんざん可愛がられたようだった。手拭いでこすっても、綺麗に落ちない。千鶴は、濡れ手拭いを持ってきた。
「よほどモテたようだな」
斎藤は、息子の顔を覗き込んで笑っている。斎藤は嬉しそうだ。千鶴は、少し複雑な気分だった。昼間から長い時間離れて、寂しく心配もしていたのに、豊誠は頬に紅をつけて帰って来るなんて。千鶴は、おしめを替えるために坊やを敷物の上に寝かせた。息子は珍しくじっとしている。千鶴は、坊やの下着の前をめくって、「まあ」と更に大きな声を上げた。豊誠のおへその回りに無数に紅の跡がついていた。
「齢ひとつで、腹におなごの紅の跡か」
斎藤は、妙に感心して笑っている。千鶴は、ただただ驚いた。自分も息子のおむつ替えのついでに、臍に口をつけて思い切り吹いて笑わせたりしているが、この様な紅をつけられると複雑な気分だった。夫の斎藤は脇に女の影を見せたことがない。このような経験は初めてだった。なんとも、なんとも複雑な。これは悋気。可愛い坊やがまるで遠くに行ってしまったような。千鶴にとってこの夜の事は大きな衝撃だった。
翌朝、炊事に台所に立った千鶴は、窓辺においてある血色の小瓶を眺めて、前日の土方と出掛けた息子が紅だらけだった事を思い出した。真っ紅なその色は、美しいがゆえ、千鶴をなんとも落ち着かない気分にする。柘榴色。がーねっと、と土方さんは仰っていた。英吉利のことばかしら……。
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会津藩剣術試合
鏡開きが終わって、斎藤たちは巡察も本格的に軌道に乗った。朝の巡察から署に戻ると、斎藤は、軍議にでるために再び市ヶ谷の陸軍省に出向いた。残った巡査は、署で書類の整理にあたることになっていた。同じ部屋で警部補の田丸がしきりに、ふむふむと言いながらなにやら古い帳面のようなものを眺めている。天野は、何を調べておられるのかと訊ねた。
「これはな、旧会津藩の剣術試合の勝敗表だ。これで、来月の試合に出る者を探している」
覗き込む天野に、帳面の自分の載っている場所を指さして見せている。
「これは、慶応二年の御前試合だ。俺が六本取って勝った。相手は、米沢藩の剣術指南の芳澤達之助殿だ」
「へえ、田丸さん、流石でございますね」
「これが、二月の試合の麻布署の参加者だ。ここに出ている者で、会津藩での試合に出て居る者が見つかる。だいたいの相手の予想がつくだろ」
「そうですか。あとで私たちにも見せて貰えますでしょうか。研修で一緒になった者の名前がでているかもしれません」
田丸は、そうかと言って、自分はこれから出掛けるから、見たければ机の上に勝敗表を置いておくと言って部屋を出ていった。天野は早速、田丸の机から、旧会津藩の剣術試合の記録帳面を持ってきて、中を見た。細かくぎっしりと書かれた記録は、古い日付のもので、文久二年まで遡る。その頃は、自分はまだ数えで九つ。剣術を初めてもいなかった。天野は、じっと対戦成績とそこに書かれている名前を見た。時々見かける、田丸の名前。だが、藤田主任の名前はどこにもない。主任の名は、「五郎」とも「はじめ」とも呼ばれていることを知っていた天野は、くまなく「はじめ」という名でも探してみたが、見当たらない。
あれだけの腕で、剣術試合の記録に名が見当たらないのを不思議に思った。天野は、隣に座る津島に、一緒に帳面の記録から藤田主任の名前を探そうと誘って、その午後はずっと二人で帳面とにらめっこした。だが、最近の記録にも藤田五郎、もしくは藤田一の記録は見つからなかった。天野は、田丸が外出から戻ると、勝敗表を拝見したと礼を言った。田丸警部補の記録は沢山みつかったが、藤田主任は見当たらなかったと伝えた。
田丸は、笑いながら、藤田は、会津には居らんかったからな。だが、京の御前試合には出ているはずだ。藤田の剣術の腕は、藩の剣術指南筆頭だった自分の上役からさんざん逸話として聞いていた。有名でな。
なにせ、あの町野さんを打ち負かした。京では、殿の御前で居合形を披露したこともある。
天野と津島は、時折、上司の斎藤と田丸が話す会話で、旧会津藩出身の剣豪であり警視庁の警部を勤める【町野主水】の名は聞き及んでいた。陸軍との合同巡察でも部隊を率いている上役だ。丸の内での総会でも遠目に何度か見かけたことがある。その剣豪に主任は試合で勝った。天野も津島も、改めて、斎藤の剣の強さに舌を巻いた。そして、毎朝のように斎藤に直接に稽古をつけてもらっている己の幸運に感謝した。天野はもう一度、その御前試合を調べたが、【町野主水】の対戦相手に藤田の姓はなかった。対戦相手は、【新選組副長助勤 三番組組長 斎藤一】とあった。
斎藤一、「はじめ」と読むこの名前が気になった。新選組副長助勤。新選組……。天野は、前に自分の叔父から京の新選組の話を聞いた事があった。遠い遠い記憶。京で警備組織として人を斬りまくっていると。叔父が藩の用向きで殿様の護衛として上洛した時、当時の京の市中の治安の悪さの話をしていた。ぼんやりと思いだし始めた時に、天野は別の仕事の話が舞い込んで、剣術試合の記録の帳面のことから頭が離れた。
それからちょうど二日たったある午後に、虎ノ門署の斎藤宛に電報が届いた。差出人は【ニシムラヨシミ】品川興業社の西村からだった。
ホンジツユウコク
ムコウジマ
メイゲツニテチヅルトマツ
急な誘いだった。向島に千鶴が。斎藤は、早めに仕事を終えると田丸に断って署を出ていった。天野と津島には、翌朝は直接丸の内に直行するよう指示をした。天野は【向島の名月】は有名な料亭です。豪勢でございますね。そういって羨ましがった。「ああ、副長と妻からのお呼び出しだ」斎藤は笑いながら外套トンビを羽織ると颯爽と部屋を出ていった。
副長と妻のお呼び出し。天野は、斎藤がそう言ったのが、頭にひっかかった。仕事を終えてから、津島と下宿に戻りながら、ぼんやりと呟いた。
「なあ、津島。主任は、【藤田五郎】と名乗っておられるが、変名だろうか」
「御一新で名を変えられたのか。どうも、剣術試合の記録に別の名前で載っているような気がする」
「ああ」
津島は、生返事をした。名前を変えるのは確かに気にはなるが。特別珍しいことでもない。生家と違う姓を名乗ることもある。最近では、平民も皆、名字を名乗る法律が出来た。皆が好きな様に自分の姓を決めていいことになっている。
「あれだけ腕のある剣客が、剣術試合の記録に名がないのがおかしいとはおもわねえか?」
「ああ」
「田丸さんに見せてもらった帳面では、町野警部さんが負けた記録のあったのは、京の会津藩邸での御前試合だ。文久二年。それに藤田主任は出られてるはずだと田丸さんが言っていた。それには、藤田って名前はなかった」
「町野さんを負かしたのが主任だとおっしゃっていた。対戦相手の名前は、そこは見たのか」
津島が天野に訊いた。
「【斎藤一】だった」
「新選組副長助勤、三番組組長斎藤一。先手六本で御前試合の決勝戦に勝っている。文久二年。場所は京の会津藩屋敷」
「その【斎藤一】が主任なのか」
「たぶんな。田丸さんの話ならそうなる。わからん、またあの帳面を確かめないとわからん」
天野は、自分の制服の胸の辺りをさすり始めた。
「なあ、おい。俺、心の臓が変な感じだ」
「やばい気がする」
「やばい?なんだ、どういう意味だ」
津島が、天野の様子がおかしい事に気づいて立ち止まった。俯く天野の顔を覗き込んでいる。
「まずいって事だ。まずいぜ」
ちょうど御茶ノ水橋にさしかかったところだった。天野は、津島の肩に手をかけて自分に向けさせると。
「なあ、俺とお前。ここだけの話だ。いいか。今から言うことは、俺の想像の話だ。いいな」
「主任は、元新選組の斎藤一かもしれねえ」
「ただの偶然かもしれねえが。奥さんが呼びかける【はじめさん】という名前は、斎藤一の【はじめ】だ」
「あと気になっているのが、診療所によく居る、【西村さん】だ。あの人のことを主任は副長と呼んでいる」
「新選組副長助勤、副長の下についてたんだろう。もしもだ、あの西村さんが、【新選組】の副長なら」
「じゃあ、主任も西村さんも元【新選組】か」
津島は、天野の眼を見詰め返す。
【新選組】って何だ? 津島が改めて訊ねた。天野は、津島が何も知らないことに驚愕した。だが、無理もないのか。新選組のことは、自分も詳しくは知らない。だが、旧幕府の組織だった事は確かだ。戊辰の戦の賊軍である。
「会津藩の新選組だ。京に居た。洛中を見回る人斬り集団だ。幕末の頃の話だ。先の戦も、幕府軍として闘った」
天野の説明を聞いて、津島は眼を丸くした。主任が人斬り集団?
「言っただろ。これはあくまでも想像だ。いいな、これは隠密に調べないと駄目だ」
天野はそう言うと、足早に橋を渡って行った。橋のたもとで振り返ると、津島に言った。
「俺とお前で、捜査しよう。いいな」
「これは、秘密捜査だ。スケさん」
津島は、真剣な顔で話す天野に、「スケさん?」と聞き返した。
「いいか、俺等は目明かしのヤスとスケだ。隠密捜査だ」
「何をいっている」
津島は、訝しげにしている。
「俺等の秘密の任務の時の互いの呼び名だ。お前がスケだ。淳之介のスケ、おれは邦保のヤス。隠密の時にこれで呼び合う。いいな。合い言葉も決めようか」
「何をいっている」
「【山、川】これは、ちんけだ。なんかいいのねえか?」
「なんだ、対になっていればいいのか。【天(あま)、川(かわ)】はどうだ」
「十段目かよ、それもちんけだ。【肥松、痩松】はどうだ?」
「十段目を馬鹿にして、狂言をもってくるのか」
津島は、珍しく言い返した。だが、いい情報が入った時の合い言葉には【肥松】、まずい時には【痩松】とかけるのはどうだ。津島の提案に天野は痛く感心した。これは、極秘任務。主任が元新選組かどうかを確かめる。そして、もしそうだと判ってからが肝要だ。そこからが俺等の本当の大仕事が始まる。その出自を隠されているなら、その秘密を守ろう。今は、政府(官軍)に仕える身。かつての敵であった薩長の軍人と一緒に合同警備もしている。ここで、主任の身許が公にされたら、主任の身が危ない。いいな、スケさん。
津島は、こっくりと頷いた。
主任をお守りする。この剣にかけて。
二人で腰の刀に手を掛けて誓いあった。二人の頭上では、藍青の空に満月が輝いていた。
*****
料亭 名月
斎藤の部下二人が月下で誓いを立てていた頃、斎藤は、向島の料亭【名月】の座敷に通されていた。千鶴が余所行きの身なりで、座敷の上座でもてなしを受けていた。土方は、その前で、豊誠を抱っこして座っている。相馬も一緒に座っていて。互いに新年の挨拶をした。土方が、今日は、千鶴にどうしても【メリヤス工場】の仕事の事で相談があったと土方が話した。
「本所にある織物工場も面倒をみててな。そこで生地を作っている。今年の春に、向島に工場を移すんだが。今日は千鶴にその生地を使って靴下、背当てやズボン下を作ったものをみて貰った」
「今度日本橋で見本市を開く。英吉利では、作った品物の見本を並べて市に出す。大勢の人に見本を見せる。問屋、卸屋、小売り、客がそのまま来てもいいようになっててな。品物をみてもらう。皆が欲しいものが解ってから、大量に作って売り出す。いい仕組みだろう」
「千鶴には、帰りに見本を持たせる。斎藤、お前の制服の下に背当てやズボン下を着てみてくれ。どんな風か、着心地。どんなところが良くないか、細かく教えてくれれば助かる」
土方は、まくしたてた。硝子工場だけでなく、織物工場まで。工部省の仕事は、大がかりで、いくら土方でも昼夜寝ずに仕事を続けられているとしか思えない。斎藤は、眼を丸くした。一体、この方は……。斎藤は、土方は目標を決めたら、絶対に手を抜かずにとりかかり、やり遂げる。昔と全く変わっていないと感心した。
斎藤の前に並べられた料理は、飾り付け、味が見事で。千鶴は、一緒になって美味しい美味しいと喜んでいる。座敷の障子が開いて、挨拶をしたのは、この料亭の女将のようだった。
「女将、俺が世話になっている警視庁の巡査主任の藤田五郎だ。豊誠の父親だ」
「まあ、千鶴様のご主人様でございますね。女将の多佳と申します。いつも西村様には大変お世話になっております」
女将は丁寧に頭を下げると、斎藤の傍ににじり寄って、お酌をした。お多佳は切れ長の眼をした美しい女性で、薄化粧の肌が透き通るよう。口元は、ほんのりと桃色をして。白地に紫と濃緑の縞の大島紬を粋に着こなしていた。
「こちらは、蕪に甘海老のしんじょを中に詰めて蒸したものに、餡をかけたもの。お熱いのでお気をつけください」
そう言って、仲居といっしょに美しい椀を並べた。出てくるものは、器、盛り付け、味、全てにおいて完璧で。千鶴はうっとりとなってお料理を味わっている。
「たまには、いいだろう。千鶴は坊主とお前の世話で年中休みもねえ。今日は骨休めだ」
土方はそう言って笑っている。お多佳は、坊やの為にと、茶碗蒸しや、小さく食べやすく切った料理を用意させて運んでくる。一緒に来る仲居は、まだ少女のように見えた。その娘は【おさよ】という名で、豊誠を土方から預かると、「お坊ちゃまのお相手は、わたしが」と言って、少し離れたところで、上手にあやしながら食事を食べさせ始めた。お多佳が、先日、お坊ちゃんを連れて西村様がいらした時は。店のもの全員が、夢中になりましてね。楽しい夕べでございました。お坊ちゃんは本当にお可愛らしい。おさよは、小さな弟の面倒をずっとみてきましてね、子供が大好きなんでございます。そう言って微笑んでいる。
豊誠は、おさよの膝の上でご飯を食べさせてもらってご機嫌だった。千鶴は、その様子をみながら、本当に美味しい食事をこんな風に、ゆっくりと出来るなんて、夢のようだと感じた。いつも、土方さんにはこんな風に労われていた。京の屯所時代も。時折、島原に幹部の皆さんと連れ出され。美しいお座敷で、豪勢な食事を振る舞われた。幹部の皆さんとのひととき。もうあれから十年以上も経つ。千鶴は、隣に座る斎藤や土方を眺めながら、昔と変わらない土方の気遣いに感謝した。
土方が女将に何かを頼むと、女将は一瞬顔を伏せて断っていたようだが、暫くすると三味を持った年配の女性がそっと座敷に入って挨拶した。女将が舞いを披露してくれる。そう土方は言うと、拍手した。千鶴は、このように酒が進んで、上機嫌な土方を久しぶりに見た気がした。お多佳が屏風の前で両手を付いて挨拶をすると、その場がぱっと華やいだ。しっとりとした歌声に併せて、ゆっくりと舞うお多佳は、美しく。千鶴は、恋しい人をじっと待つ情感のある唄とその舞いが、心にじーんと響き、なんとも言えない気持ちになった。
お多佳が、背を向けた時に、髪に挿した簪が見えた。真紅の柘榴色。銀杏形にねじられた軸の先に血色の四つの玉が葉先のように並んでいる。金地の帯に併せて紫の帯留めの真ん中にも同じ柘榴色の硝子が見えた。美しい硝子細工。きっと土方さんが。千鶴は、美しいお多佳と簪をじっと眺めた。本当によくお似合いになっている。
舞い終わった女将に皆が賞賛の拍手をした。女将は、恥ずかしそうにしていたが、土方が流石深川一の芸子だっただけあるな、と褒め称えた。斎藤は、千鶴や土方が楽しんでいることを嬉しそうに眺めていた。昨年の秋口から、休みもなく自分が働き詰めで、千鶴を骨休めさせてやることも出来てなかった。今度の非番には、こうして千鶴をのんびりとさせてやろう。そんな風に心の中で決めた。
そのまま和やかな時間を過ごして、斎藤達は料亭から馬車を出して貰って家路についた。豊誠は、家に付く前に斎藤に抱っこされたまま眠ってしまった。玄関の暗がりで総司が独り眼を光らせて待っていた。千鶴は、猫を抱き上げると、「沖田さん、お留守番有り難うございます。直ぐにご飯を用意しますね」、そう言って、猫の食事の支度をした。斎藤は、子供を寝かせると、明日は市ヶ谷での総会に出なければならん。そう言って、風呂に入ると早々に休んだ。
******
隠密捜査心得の条
翌日の陸軍省での総会朝礼に、斎藤と巡査二人が一緒に参加した。巡査地域の調整と部隊編成を変更したと陸軍の中佐が手にもった紙を読み上げる。斎藤達、警視庁大一区小二は、第二別働隊。隊長、陸軍少佐永井盛宏、副隊長、警視庁巡査主任藤田五郎。
それまで直立不動だった陸軍の部隊から動揺の声が聞こえた。小さな驚嘆の声。斎藤の前に名前を呼ばれた陸軍少佐の永井は、そのざわついた方を睨み付けた。その途端皆が水を打ったように静かになった。天野と津島は、直立したまま眼だけ動かして、一連の陸軍部隊の変化をしっかりと見ていた。主任を見ると、全く表情を変えずに真っ直ぐ前を見ている。いつもの鉄仮面だ。陸軍のざわつきは何だ。主任が副隊長につくことが不満なのか。これも、捜査せんといかん。天野は回れ右をする時に、津島に眼で合図した。津島は小さく頷いた。総会の終了の号令で、最後の敬礼が終わり、斎藤達は順番に行進しながら門の外に向かった。
門を出て隊列が解かれたところで、天野が津島の背後にたった。
「肥松」
小さな声で津島に言うと。「痩松」と津島は振り返りながら応えた。二人で頷き合った。
「署に戻ったら、もう一度田丸さんから勝敗表をお借りする」
天野が早口で津島に伝えた。津島は、頷くと。
「今度の新しい編成の陸軍部隊の名簿を確認させてもらう。おそらく薩長の連中だろう」
「気をつけろ、スケさん」
「おまえもだ、ヤス」
二人で頷きあった。隠密捜査心得の条。ひとつ、我が命我が物と思わず。ふたつ、武門の義、あくまで影にて己の器量伏す。二人は、暫く真剣に見つめ合っていたが、斎藤が近づくと、なんでもない振りをして、署へと戻った。
署に戻ると、斎藤は、田丸と署長に総会の報告をすると言って別の部屋に移った。天野は、早速田丸の机に行き、剣術試合の勝敗表を手に入れた。そっと自分の席につくと、半紙の下に隠しながら、文久二年の御前試合のところを開いた。御前試合は全部で三十の手合わせだった。出場している者の名前を、天野はそっと書き写した。そして、新選組から六名の参加者が居たことが判った。驚いた事に、参加者の中に。
新選組副長 土方歳三 対 新選組副長助勤 八番組組長藤堂平助
結果 土方の三本先手勝
とあった。
副長土方、副長、土方。決定的だった。「西村さん」だ。天野は、驚いて立ち上がった。
「肥松!!」
大きい声で叫んでしまった。津島は、天野の異様な様子に驚きながら「痩松」と呟き返した。天野は、そのまま部屋の外に出ようと首で合図をすると、二人で厠に向かった。そして、便所に誰も居ないことを二人で確認してから、天野は、自分が見つけた情報を津島に話した。
「あの西村さんは、新選組副長の【土方歳三】だ。勝敗表に名前が出ていた。同じ御前試合に出ていた」
津島は、生唾を飲み込んだ。
肥松。
そう一言、それが精一杯でてきた言葉だった。
痩松。
天野もそう返した。これで決定だ。俺等の本当の隠密任務が始まる。スケさん、死して屍拾う者なしだ。いいな。俺等で、主任をお守りするぞ。
ああ、相解った。
だが、何からだ。
津島は素っ頓狂な問いかけをしてくる。天野は、声を荒げた。
「だから、薩長の奴らだ。官軍だ」
「俺等は官軍だ。主任も官軍だろ。薩長の奴らも一緒じゃないか」
津島は、混乱している。天野も考えるとだんだん解らなくなってきた。便所の入り口で天野は頭を掻きむしった。
「その薩長の奴らだ。今朝の総会でも変にざわついただろう。主任の名前を聞いて。おかしくなかったか」
「あれは、確かに。そうか。陸軍の者の中に新選組に恨みを抱く奴が、主任の出自を知っているかもしれないんだな」
天野はだんだん頭の中の整理がついてきた。よし、そうだ。主任を陸軍の薩長連中からお守りしよう。そうだ。そうだ。
「ヤス、俺は陸軍部隊の連中を調べる。もし、向こうが主任の正体を知っているとなると、事は厄介だ」
二人で、相談がまとまった。なんだか堂々巡りのようだが仕方がない。隠密捜査心得の条。三つ、ご下命いかにても果たすべし。主任を守る。それだけは、はっきりしているぞ。
こうして、ヤスとスケが便所で心を砕いている間、署長の部屋では、斎藤が総会と今までの陸軍との合同巡察について報告をしていた。
「巡察については、陸軍との統制はとれています。ただ、隊員の出身地によっては、言葉の壁が厚いと思われます」
「確かにな、東北出身のものと薩摩のものが一緒になると言葉は通じん」
「今度一緒になった部隊は、大半を薩摩藩士が占めています。陸軍少佐の永井殿は、自分は京時代から面識があります」
「なんだ、永井は薩摩者か」
「はい」
「斬り結んだのか」
「はい。白河口で」
「因縁の相手が今日の味方か……。これも我ら、会津藩士の宿命やもしれん。やりにくいかも知れんがな」
「心得ています」
斎藤は静かに応えた。警視庁への採用が決まった時に、とっくに覚悟を決めたこと。
署長と田丸は、何か問題があれば直ぐに報告するようにと斎藤に指示をした。斎藤は、承知と返事をして部屋を後にした。戊辰の苦渋は決して忘れていない。そして、新選組隊士として生きた自分も。己の中の義。これだけは通させて貰う。
斎藤は真っ直ぐ前を見て廊下を進んだ。巡査部屋に入ると、部下の二人が黙々と仕事に打ち込んでいた。この者たちと、来月の剣術試合は絶対に勝ち進もう。薩摩藩の大警視、川路さんの前で必ず勝ってやる。きっと我らなら出来る。
斎藤はそう強く心に決めた。
つづく
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(2017.11.01)