猫柳と桜

猫柳と桜

明暁にむかいて その10

明治八年三月

午のひととき

 朝から陸軍兵との剣術稽古を終えた斎藤は、午過ぎに青山練兵所を出て小石川まで陸軍の馬車に乗って帰った。東京鎮台に馬車は大型から小型のものまで全部で十両あり、出稽古の後に斎藤は自由に行きたい場所まで小型の馬車に乗ることが許されていた。

 陸軍練兵所の稽古は、総勢五十名の大所帯で行う。毎回、稽古には合同巡察を一緒に行っている永井少佐が参加している。永井は必ず斎藤と手合わせすると決めているようだった。剣の腕は互角。永井の隙のない剣筋は、なかなか心中を明かさない性質をそのまま物語るようだった。毎回無言のまま互いに探り合いが続いている。

 警戒をされている。

 これが斎藤の実感だった。稽古をつけながら様子を伺い。己からは決して相手に近づかない。永井の動向を探るのは長期になる。一年、二年は必要か。だがまだ練兵所の道場に通って日が浅い。徴兵令が出た直後の歩兵の面々も独特のものがあった。大勢の歩兵のうち自ら志願したものは極めて少数だと聞いて納得した。警視庁で新たに採用されて日に日に増えている新人巡査とは眼の光が違う。陸軍には戦を生業とすることに抵抗のある百姓のせがれなどが多かった。

 斎藤は相手が誰でも剣術を教えるのは厭わなかったが、練兵所での自分の立ち振る舞いには細心の注意を払った。永井とは稽古の前後に挨拶を交わすだけ。ここ数週間で、永井の側近らしき歩兵の顔と名前、剣筋は覚えた。同じ合同巡察に出ている者だ。おそらく薩摩者だろう。

 そんな風に練兵所での様子を思い返していると、自宅の近くの通りに馬車が着いた。最近は一旦午に家に帰って昼餉をとる。三時頃に再び虎ノ門に戻り、報告や会議に出た後に夜に鍛冶橋に向かう。川路に会った前後、築地地区に立ち寄りカンテラ片手に単独で一廻りすることもある。夜の築地地区は昼間とは様子が違い、一層犯罪の匂いが強くなる。反政府勢力、【愛国の志士】を名乗る不平士族の潜伏場所。賭場もある。夜でも暗がりに人の足が途絶えない。

 警視庁では近く夜間の巡察を開始する。これは斎藤が川路へ築地地区の報告をしたのが発端となった。一度新しい試みの案が出ると、一気に川路は進める。夜行巡察も検討され直ぐに開始が決定した。

 東京のポリスは二十四時間体勢で都を守る。

 これが新たな警視庁の方針だった。斎藤は巡察時間が伸びて、休日返上になると覚悟した。ここ数ヶ月先に、たぶん休日はない。それでなくても、夜間の報告で鍛冶橋に行くことも多い。家に帰るのは夜中になることもあった。家を開けることが多くなった斎藤は、練兵所での出稽古後は署には戻らずに、こうして自宅に昼食と休憩に戻るようになった。

 千鶴はいつも昼食を用意して待っている。子供と三人で食事をするのは、最近ではこの昼餉ぐらいになった。千鶴はずっと喋り続ける。だいたいが豊誠がやんちゃをして困ったと腕白ぶりの報告が多い。時々総司がふらりと外から戻ることもあった。昼食の後に、子供が昼寝をし始めると、斎藤も横になった。半刻ぐらいの間だが、うとうとと気持ちがいい。

 暖かくなった。剣術の試合からもうだいぶ経った気がする。彼岸も近い。

 畳の上で短い睡眠のあと目覚めると、千鶴が自分の背中に寄り添い眠っていた。前掛けをつけたまま、斎藤に背後から摑まるように。

 親子三人で川の字で昼寝。斎藤は微笑んだ。

 千鶴は毎晩、遅くまで斎藤を待っている。以前のようにゆっくり風呂で語らうこともなく、家に着くと軽い食事、斎藤が風呂に浸かって直ぐに床につけるように万全に準備していてくれる。

 早く、お休みになってください。

 千鶴は斎藤に休暇がない事を随分と心配しているようだった。促されるまま就寝しているが、明け方に千鶴が自分に寄り添うように眠って居る姿に気づく。懐に潜り込み、斎藤の寝間着の胸をはぐって胸に直接頬をつけている。小さな子供のように安らかな顔をして。

 はじめさんの心の臓の音を聴くと安心する。

 千鶴は、昔から斎藤の胸に耳をつけてじっと音を確かめながら眠る。生き心地がする。確か、戦に出ていた時に言っていた。死期を察してのことか。あの頃は互いに強く抱き合いながら一瞬一瞬を過ごしていた。

 今も変わらぬ。だが、千鶴はきっと察しているのだろう

 新しい密偵の任務については千鶴には何も伝えていない。ただ、巡察の時間が変更になり、夜間も任務に就くこと。休日は暫くとれないとだけ説明した。以来、夜間の団らんは無くなった。それでも文句一つ言わず、こうして斎藤が自宅に居られる短い時間をできる限りの休息に充てられるように工夫してくれている。ありがたい。

 斎藤は千鶴を抱きしめ額の生え際に口づけた。まだ、小一時間はゆっくり出来る。眠っている千鶴の顔や首筋に口づけ続けた。いつのまにか目覚めた千鶴が斎藤の背中に腕を廻し微笑んでいる。

 斎藤は起き上がると、そのまま千鶴を抱き上げて、診療所の奥の間に向かった。



*****

猫柳

 それから数日が経ち、彼岸が近くなったある日。斎藤は自宅での昼餉の後、庭で子供を遊ばせていた。千鶴がお茶が入ったからと、縁側から呼ぶので子供を抱っこして居間に戻った。

「猫柳が沢山咲いたな」

 斎藤が、折ってきた枝を千鶴に渡した。千鶴は可愛らしいふわふわとした花を息子に触らせながら、残りの枝を柱の一輪挿しに飾った。膳の上の小皿にきな粉飴が並んで、熱い玄米茶が煎れてあった。

「本当に、こんなに沢山咲いたのは初めてかも。子猫の指先みたいで、私は大好き」

 そう話をしていると縁側に総司が戻ってきて座っているのに気がついた。千鶴は、水を新しく木椀に入れ替えて総司に与えると、刷毛を取り出して総司の耳と耳の間から背中にかけて毛を綺麗に梳かしつけた。気持ち良さそうにしていた総司は、豊誠が猫柳を振り回しているのが気になるのか、急に千鶴の膝から飛びだして、豊誠と一緒に隣の部屋に消えていった。千鶴は、その姿を見ながら思い出したように話だした。

「そうだ、はじめさんに伝えたかったんです」

 千鶴は、総司が消えた先をもう一度確かめてから、斎藤の隣に座布団を寄せて座ると、

「居るんです」

 そっと耳打ちするように話す。斎藤が、不思議そうに「なにがだ」と問うと。

「沖田さんです。恋仲が」

 千鶴は大きな目をくるくるとさせて報告する。縁側の向こうを見ながら、お夏の家の方向を指さし、

「お夏さんの三軒先の鵜飼さん宅の【みい】さん」

「色白で美人なんです」

 そして、ふふふふと口もとを手で隠しながら笑っている。

「私、見ちゃったんです。鵜飼さんの家の屋根の上で、二人が仲良く日向ぼっこしているのを」

「寄り添って、時々沖田さんが【みい】さんの耳のうしろを優しく舐めていて」

「最近、朝にお庭から居なくなったら直ぐに会いにいっているみたいで」

「坊やが『そーじ、そーじ』と探し廻っています」

 千鶴は嬉しそうに話す。斎藤は、黙って聞いていたが、お茶を一口すすると。

「俺が見たのは、角の妾宅の黒猫だ。あれと睦んでいる」

 斎藤が千鶴の話に水を差した。千鶴は、きょとんとしている。

「俺が戻って来るときは、必ず妾宅の塀の上に総司が居る。昨日も黒猫の長い尻尾で首を絡められておった」

 斎藤が面白そうに笑って話す。千鶴は、「まあ」と驚いて右手を口元にもって行った。

「お妾宅って、はじめさん。黒崎さん宅のお澪さんのことですか」

「ああ、あの黒塀の家だ」

「どうして、はじめさんがお澪さんのことをお妾さんってご存じなんですか」

「知っている。日本橋の佃煮屋の大主人が旦那だ」

「元は柳橋の芸者だ」

「十二になる一人娘がぜんそく持ちで、その為に黒猫を飼っている」

「ちなみに総司が追い掛け廻している黒猫は、【チヨ】という名だ」

 千鶴は、「まあ、猫の名前まで」と目を丸くして驚いている。いつになく、しゃらしゃらと立て板に水の調子で説明をする斎藤に、どうしてそんなに詳しいのかと不思議がる。

「天野からの情報だ」

 千鶴が「天野さんが」と更に驚きの声をあげた。天野は斎藤の部下の巡査で、本郷真砂町に暮らしている。

「ああ、天野はここら一帯の事情に詳しい」

 そう言って、斎藤はきな粉飴を頬張りながら、話を続けた。

「植木屋の長治郎さんのせがれが、日本橋の料亭に修行にでているが、博打に入れあげて借金をこさえて、家に泣きついて来た。怒った長治郎さんは『放蕩者は出ていけ』と追い返した。正月を過ぎたのに、まだ長治郎さんの腹の虫は収まらぬ。せがれを不憫に思って母御のサナさんがこっそり【へそくり】を渡しに日本橋に会いにいっている」

 斎藤が話す植木屋の長治郎は、千鶴が幼い頃より診療所の庭を世話してくれている人の良い植木職人だ。確か、息子は千鶴よりいくつか歳が上で、千鶴が小さい時に家の外で駒廻しを見せてくれた事があった。

 あの息子さんが、日本橋で修行に・・・・・・。サナさんは、千鶴がお夏の家で開いている【春告鳥】の会にもいつも来ている。明るく皆と交流する人の良いサナを千鶴は大好きだった。そんな苦労をしているなど、全くそぶりも見せていない。

 それにしても斎藤の話は、ご近所の家の事情、それも内情に詳し過ぎて千鶴は驚くばかりだった。隣家のお夏を通して、近隣の女衆と付き合いのある千鶴だが、斎藤から聴く話は、まさかと思うような話ばかり。これを全て集めて報告したのが天野と言うことにも驚いていた。

「でも、はじめさん。どうして天野さんはそんなに皆さんのご事情に詳しいのでしょう」

 千鶴はお茶のおかわりを煎れながら斎藤に尋ねた。

「あいつは、最近お夏さんと懇意にしているそうだ」

 斎藤の話に、更に千鶴は驚いた。

「毎週のように家に上がり込んで、夕餉までご馳走になっているらしい」

「この正月に伝通院前の市で偶然、天野がお夏さんに会って、荷物持ちをして送って行ったそうだ」

「お夏さんと【世間話】が弾んで大層楽しいと言っておった」

 斎藤は、微笑みながら話す。

「診療所の周りの世帯に不審者はいない。安心して、奥さんとお坊ちゃんと沖田さんとお暮らしくださいと言っておった」

「まあ、ご近所を巡察されていたんですね」と千鶴が驚くと。

「ここは、厳密には署の管轄ではないがな……。確かに、天野は巡査の鑑だ」

 斎藤は笑っている。

「そんなにしょっちゅう見えているなら、診療所に立ち寄ってくださればいいのに」

 千鶴が、目と鼻の先の距離のお夏宅に来ている天野が診療所に立ち寄らないのを残念そうに話す。

「いや、津島と挨拶しようとしていたらしい……」

 斎藤はそう呟いた。千鶴は、「まあ、津島さんまでいらしてたんですね」と驚いている。斎藤は、署で天野と診療所周りの話を聴いた時のことを思い出した。

「近くに来ているのに、なにゆえ診療所に立ち寄らぬ」

 斎藤は、天野達が挨拶もせずに居たことを咎めると。

「いいえ、わたしたちは行きましたとも」と天野は応えた。

「ちょうどお庭に、主任と奥さんの姿が見えたんですよ」

 天野は、「なっ」といって隣の津島を突いた。津島は黙って頷いている。

「私が声をおかけしようとしたら、お二人が余りにも仲睦まじくされているんで、遠慮したんですよ」

 天野は笑っている。斎藤は、何のことか解らないという表情をしている。

「な、津島」

 天野は再び津島を突いた。津島は無表情のまま頷いている。

「昼日中から、ほんとにお仲がお宜しいことで結構なこってす」

 天野の揶揄する風な物言いに、斎藤は睨むような表情を向けた。

「そんな、怒った顔なさって。ようございますか。こうですよ」

 天野は、いきなり津島の腕を引くと、抱きかかえて横にするように腕を下ろすと口づけるように顔を津島に近づけた。津島は「やめろ」と嫌がって暴れている。

「もう、あんな姿見せられたら、わたしは」

 天野の腕からなんとか逃れた津島が、乱れた制服を直している。

「な、津島。主任、津島なんてね、お二人を見た途端、ぴゅーっと走って行ってしまって」

 斎藤はここまで聴いて、記憶がよみがえった。確か、庭で掃き掃除をしていた千鶴が着物の襟になにか風で飛んできたものが入ったから、とってくれろと斎藤に頼んで来た。

「枯れ葉か、ちり塵が……。首元にチクッとなにか触った気がして。はじめさん、取ってください」

 斎藤が千鶴の背中の襟元に手をいれると、千鶴は「冷たい!」と驚いてよろめいた。斎藤は千鶴を抱えて、二人で笑い合った。枯れ葉が背中に挟まっていた。それを取ってやりながら、ついでに首元に口づけたりしたような……。覚えておらぬが、千鶴に触れるのは日常の事過ぎて、一々覚えておらぬ。だが、それを外からこっそり目撃されていたのは、ちと恥ずかしい。

「大人をからかうな」

 斎藤は、頬を紅くしながら天野を睨みつけた。天野はあの日、逃げるように走って行った津島を追い掛けて、そのまま挨拶をする機会を失ったと改めて斎藤に謝った。津島も、一緒に己の欠礼の詫びを始めたので、斎藤はようやく納得した。最近は、めっきり部下を家によんで夕餉を一緒に食べる機会がない。千鶴が津島と天野の顔を見たいと言っていたと二人に伝えると、天野は喜び、津島は頬を紅くしていた。

 斎藤が署での出来事を思い出していた間も、千鶴は斎藤の隣で「じゃあ、【おみいさん】は御正妻で、【おチヨ】さんはお妾さんでしょうか」などと独り言を言っている。

「さあな、総司が白い子猫を連れ帰れば鵜飼さんで、黒猫なら黒塀が本命だろう」

「まあ、随分なことを……」

 千鶴は、口をぽかんと開けたまま、きな粉飴を手に持っている。

「だが、白黒のブチなら、わからぬな」

 斎藤は自分でそう言って、微笑んだ。千鶴は、「まあ」とまた驚きの声を小さくあげると、クスクスと笑い出した。沖田さんが可愛い子猫を連れて帰ってくるなんて。楽しみで仕方がない。千鶴は、笑いながらふと視線を感じて廊下を見た。

 総司がいつのまにか廊下の障子の影に座っていた。じっと恨めしそうに、斎藤と千鶴を見詰めている。

 千鶴は、びくっと小さく飛びあがった。

「沖田さん、いつの間に戻ってらしたんでしょう」

 慌てた千鶴が総司に駆け寄ろうとすると、総司は、「ふん」と鼻を慣らして縁側の向こうに降り立つと、庭を横切って塀の向こうに飛び乗り、そのまま姿を消してしまった。

「……、聞かれていたんでしょうか」

 千鶴が、心配そうな表情で斎藤に尋ねると。

「むろん、総司はいつでも話に耳をそばだてておる」

 斎藤は微笑んだまま、湯飲みに残ったお茶を一気に飲んだ。そして、そろそろ行くと言って、制服の上着を着込むと、玄関に向かった。

「今晩も遅くなる」

 そういう斎藤に、千鶴は「はい、くれぐれもお気をつけて」と言って送り出した。




********

ぼた餅

 彼岸の入りに、千鶴は朝から餅米を蒸してぼた餅の準備をした。重箱に綺麗に詰めると風呂敷に包んで斎藤に持たせた。それから、自分も着替えてもう一つの重箱に詰めたぼた餅を持って、土方のいる品川硝子興行社に出向く準備をした。

 土方に会った後に、麻布の専称寺へ向かう予定だった。総司と沖田家のお墓に墓参に行く。千鶴は、朝餉の後に縁側で丁寧に毛繕いをしている総司にこれからの予定を伝えた。

「沖田さん、今日はこれから土方さんにお会いして。その後に、沖田さんの菩提寺にお参りします」

「ご住職さまにご挨拶してきますね。沖田さんがお元気だと沖田家の皆様にも伝えてきます」

 総司は、ゆっくりと瞬きをした。口元は微笑むように口角が上がっている。それから、くるりと千鶴に背を向けると、縁側にすとんと降りていった。暫く歩いた先の御影石の上で振り返ると。

「土方さんによろしく」

 そう、総司が話す声が聞こえた。千鶴は、目を見張った。今、沖田さんの声が、確かに。いつもの口調で、全く変わらない。沖田さん、沖田さん。

 千鶴は、下駄も履かずに縁側に降りて総司を追い掛けようとしたが、総司は一瞬でいつものように塀の向こうに姿を消してしまった。千鶴の背後で、豊誠の声がした。

「かーたん」
「そーじ」

 一生懸命、坊やが総司を探して居る様子だった。千鶴は、沖田さんはお出かけですよ。そう言って、坊やも今日は、【義三】さんに会いにいきますよ、と上着を着せて出掛ける用意をした。

 久しぶりに会った土方は壮健そうだった。部屋に入った途端、走って飛びつく豊誠を抱きかかえると、「坊主、会いたかったぜ」と大笑いしながら縦に横に振り回してあやし始めた。坊やの喜び笑う声が響いて、土方は嬉しそうに破顔していた。

 彼岸の入りだから、ぼた餅を持って来た。最近は、斎藤が激務で休みもない。斎藤が家に居る時に是非診療所に来て欲しいと頼んだ。新八と原田ともまだ全員が揃って食事をとれていないのを千鶴は残念がっていた。

「原田は、来月始まる蝦夷地開発業者の入札のために東京に居るだろう。不知火を覚えているか。長州者の鉄砲使いの」

 千鶴が「はい」と、返事すると。原田が不知火を連れてやってきたと千鶴に話を始めた。貿易商をしている不知火とは、硝子の原料の買い付け輸入を請け負ってもらうつもりだと言う。千鶴は、土方が更に事業を推し進めていることに感心した。そして土方が、原田の仕事の事情にも詳しい事、来月の終わりには永倉の県用も落ち着いて、新選組の慰霊塔の準備も進むだろうと言って、その頃に皆で向島にでも集まれるように思っていると微笑んだ。

 千鶴は、はい、と元気に返事をして土方を笑わせた。

「その頃には、必ず、一さんにも休んで貰って、うかがえるようにします」

 張り切る声で言い放つ千鶴は満面の笑顔を見せた。土方は、笑顔で急に立ち上がると、

「今日は、午後の仕事は取り止めた。麻布の専称寺だな」

 そう言って、上着を着ると事務方を呼び出して、午後は出掛けると伝えると豊誠を抱っこして廊下に出た。千鶴は、事務方の眼鏡の男にぼた餅の包みを渡すと、挨拶をして品川を後にした。

 寺では、御本堂で住職が総司の法要を執り行ってくれた。穏やかな表情で、彼岸の話を説いた住職は、裏の墓所でも丁寧にお経をあげてくれた。土方は、千鶴と豊誠を小石川に送ると、これから多摩の実家に戻ると言った。

「多摩にある【近藤さん】の墓にも参りにな」

 土方はそう言って、馬車の窓から手を伸ばして豊誠の頬を撫でた。千鶴は、近藤さんに宜しくお伝えくださいと土方に頼んだ。土方の馬車が、通りの角を曲がるまで見送って家の中に入った。坊やは、朝が早かった分、畳の上の座布団の上で直ぐに眠り始めた。千鶴も坊やの背中を撫でながら、暖かい外の光を感じながらうとうととしていた。

 縁側の陽の当たる場所に、総司が座って日向ぼっこをしていた。

 ちょうど中庭のモチの木の手前にある大きな御影石の傍に、人影が見えた。

「やあ、総司。無沙汰だったな」

「あれ、近藤さん。珍しいこともあるもんですね」

 総司は、木の陰から優しそうな表情で現れた近藤に向かって挨拶をした。尻尾が揺れて、
一歩前に出ようとする猫の身体から、総司がゆっくりと立ち上がった。

 胡桃色の髪
 翡翠色の瞳
 茶色の着物に
 濃い緑の山袴
 白い脚絆をつけて立つ
 その姿は生前と違わぬ

「今日は、【つね】の所へ呼ばれていてな」

 笑顔で近藤がゆっくり歩いて来た。総司は、縁側に座ると眩しそうに近藤を見上げた。

「さっき、僕もお寺さんに呼ばれたけどね。土方さんにはここで会えてるから、昼寝をしていたところ」

「そうか。そうか」

 近藤は優しく微笑んで頷いている。

「なあ、総司。今日、お前に会いに来たのは、ひとつな……」

 そう近藤が言いかけた時に、総司の背後で千鶴が立っている姿が見えた。

「近藤さん!!」

「そこにいらっしゃるのは、近藤さんですか?」

 千鶴は、そう言いながら縁側から降り立ち、草履も履かずに近藤に駆け寄った。

 白く陽の光に浮かび上がるその姿は、いつもの優しい表情。近づく千鶴に、

「やあ、雪村くん。見違えるようだ。すっかり娘らしくなった」

 伸ばした手は、大きくてごつごつとしていて分厚く、千鶴の頭を撫でる。まるで、京の屯所に居た頃の近藤の様な振る舞い。千鶴は子供の頃のように、はにかみながら笑いかけた。

「近藤さん、おいでくださって。お逢いできてこんなに嬉しいことが……」

 千鶴は近藤の腕を引いて、どうぞお上がりください。近藤さん、今すぐにお茶を用意します。あわてて縁側に上がって、台所に向かおうとする千鶴に近藤は笑いかけた。

「慌てなくてもよい、雪村くん。ただここで一休みに立ち寄っただけだ」

 そう言って、総司の隣に座った。千鶴は、今すぐですから。そういいながら台所に入ると、薬罐に火をかけてお茶の準備を始めた。




***

 千鶴がお勝手に居る間。近藤は総司に、近況を尋ねていた。総司は、縁側に腰掛けたまま脚をぶらぶらと揺らしていた。総司が一通り診療所での暮らしの話をすると、近藤が一つだけ言っておきたいと、総司に向かって話を始めた。

「総司、こう長くこちら側にいるのも多少困りものでな」

「あまり長く【他の身】に入っているのがいかんらしい」

 総司は、察したように頷いている。

「僕が長く、この子の身体を借りすぎってこと?」

 そう言って、総司は縁側で眠り続けたようにじっとしている猫の身体を撫でた。

「ああ、多生にな」

「このまま此処にいることも出来るが、【畜生道】に入ることになる」

 何も応えない総司を横目で見たまま、近藤は暫くの間沈黙した。

「なあ、総司。一緒に向こうへ戻らないか」

 近藤の優しい誘いを、総司はじっと庭を見詰めながら聞いている。

「俺と源さんは、そろそろ三途の河を渡ってもいいと思い始めててな」

「六道の辻のどこに行くことになるかは、判らぬが。輪廻してまた【こちら側】に戻ることもある」

 微笑む近藤を遮るように、総司が口を開いた。

「戻らないこともあるんですよね」

 総司は、隣の近藤の顔を見た。

「ああ、地獄の沙汰については、俺も源さんも皆目見当がつかん」

 近藤は、眉毛を八の字方にしながらも苦笑いしている。

「……近藤さん、せっかくのお誘いですけど」

「僕はまだ暫くここに居ます……」

 近藤は、一瞬寂しそうな翳りをその瞳に見せた。だが、直ぐにいつもの笑顔になると「そうか、そうか」と頷いた。

「僕、まだ此処でやる事があるんです」

「それが終われば、後を追い掛けますよ」

 近藤は、瞼をゆっくりと閉じて頷いた。「うむ、よく言った。総司」

 その時、千鶴がお盆にお茶とぼた餅を載せて廊下に戻って来た。縁側に座る近藤と総司にお茶を差し出すと。

「沖田さんには、大変お世話になっています。坊やを、本当によく見てくださって。わたしやはじめさんをいつも助けてくださっています」

 千鶴は、そう言いながら、廊下に両手をついて総司に礼を言った。総司は、ほらね、という表情で、近藤に笑いかけた。

「そうか。雪村くんの煎れたお茶を飲めるのは実に至福だ。君が診療所で斎藤くんと一緒に幸せに居てくれて、こんなに嬉しい事はない。雪村くん、総司をよろしく頼む」

 そう言うと、懐紙を取り出して口元や手を拭って立ち上がった。

「もう、お発ちでしょうか。せめて、はじめさんが戻ってくるまで。御夕飯をご一緒に」

 千鶴が、一生懸命引き留めようとするが、近藤は「そろそろ暇をせんといかん」と笑っている。その姿は、再び陽の光に当たって白く輝き、溶けていきそうな様子だった。

 千鶴は、追い掛けようとしたが、どうしたことか手足が動かない。優しい近藤の声が頭にこだまする。

 ゆきむらくん、そうじを頼む。

 はい、近藤さん。

 そう返事をする自分の声は、同じように近藤の光の中に溶けて行くようだった。縁側に座っている総司の身体も同じ光にだんだんと薄くなるようだった。

 千鶴は、ゆっくりと目を閉じた。動けないまま、じっと……。これは春の光……。

 安らかな表情で、縁側で目を閉じ身体を横たえた千鶴を見て、近藤は総司に話しかけた。

「なあ、総司。ひとつだけ」

「こっちで契ってはいかん。次の生をもうけては、六道に戻っても輪廻はうんと先になる」

 ほとんど消えそうな輪郭の中で、近藤の優しい声はしっかりと響いている。

「先って、どれぐらい?」

 近藤の透明な大きな手が、総司の頭を撫でる。

「そうだな、百年、二百年という話だけは聞いているが……」

 ぐしゃぐしゃと撫でられながら、総司は近藤を見上げた。

「僕は、百年経とうが、二百年経とうが、必ず近藤さんを見つけますよ」

 そう言う総司の表情は、幼い頃と全く変わらない。

「そうか、それは心強いな。総司……、また……会おう……」

 白い光の中に笑顔のまま近藤は溶けて行った。総司は、胡桃色の毛色の猫の中に再び戻ると、自分の身体の下に、何か紅い丸いものを見つけたが、そのまま目を閉じてじっと眠りについた。

 数刻の後、千鶴は豊誠が自分の上に乗っかって来た振動で目覚めた。いつの間にか昼寝から起き出した坊やは、「かーたん」と千鶴の顔を撫でている。こんな時間に縁側で眠ってしまうなんて。千鶴は慌てて身を起こした。

 縁側には、湯飲みとぼた餅を出した皿が二人分置いてあった。

(誰かが見えていたのかしら……)

 千鶴は、懐かしい誰かに夢の中で会ったような気がした。優しい誰か。あれは、近藤さんだろうか。夢でお話出来たのは、今日の沖田さんのお寺さんでそっと願をかけた事が叶った気がした。

 千鶴は、傍で眠っていた総司を撫でた。半分まどろむ様子で、むっくり起き上がった総司は、欠伸をして伸びをすると、自分の足の下にあった丸いモノを眺めた。

 紅い手鏡

 漆塗りの小さな鑑。合わせになっている。どこから出てきたものだろう。総司は、自分がご近所で見つけて拾ってきた訳でも無く、千鶴の持ち物を持ってきた訳でもなく全く心当たりがなかった。だが、これは千鶴と斎藤に渡さなければならないものだと思った。

「千鶴ちゃん、これ持っておいて」

 前足で、床に置いた丸い手鏡を千鶴に差し出した。

 朝と同じ、千鶴には総司の声が聞こえた。はっきりと人間の言葉で、沖田さんの声で猫が話した。

「はい、沖田さん」

 千鶴は、そう返事をすると、紅い手鏡を手拭いで包むと大切に物入れの引き出しに仕舞った。それから、坊やのおしめを取り替えると、おやつを食べさせて夕食の支度にとりかかった。

 総司は、早めの夕食を食べると、ふいと外に出掛けて行った。朝と夕方に必ず、あの娘こたちに逢いに行く。

 早咲きの桜がちらほらと枝の先に揺れているのが見えた。

「契っちゃ駄目だなんて。近藤さんも酷いなあ……」

 総司は、ふわふわの尻尾を揺らしながら独りごちしてゆっくりと通りを横切っていった。




 つづく

→次話 明暁に向かいて その11




(2018.01.20)

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