玉の緒

玉の緒

戊辰一八六八 その25(番外編)

慶応四年七月

 川のせせらぎと一緒に賑やかな女たちの声が聞こえてきた。

 林の向こうの河原で女たちが洗濯をしている姿が見えた。着物の裾と袖をまくり、手拭を被った女たちは左之助が近づくと、一斉に手を止めて会釈をした。

「邪魔をしてわるい」

 左之助は左脇で杖を抱えるように体重を乗せると、一歩一歩前へ出た。洗濯女の一人が手拭を脱いで手を拭きながら、左之助に駆け寄って歩く手伝いをした。「悪いな。すまねえ」と左之助は謝りながら、なんとか川辺に辿り着いた。

「この川の向こうは郷の境になるのか?」

 息を落ち着けた左之助が洗濯女たちに尋ねると、女たちは皆首を横に振った。

「川の向こうも郷が続いています」

 女たちは親切に左之助を介助して川辺の大きな石の上に腰かけさせた。郷の女たちは、左之助のことを「御殿の客」だと思っている。怪我を負った「人間の男」。今日のように天気のいい日には、この特別な客人が杖をついて歩きまわる姿をよく見かけていた。愛想のいい左之助に郷の女たちは警戒することなく、気軽に挨拶をしている。

 左之助が不知火匡によって八瀬の里に運ばれた時、左の腹に受けた鉄砲傷は深く、身体中の血をほとんど失い瀕死の状態だった。人の命は脆い。ただちに千姫に仕える葵によって手当がされた。失われかけた命に新たな身命を繋ぐ術式。

 鬼の玉の緒。

 この術式を司ることが出来るのは、八瀬の里に葵だけしかいない。葵は戸隠の鬼女「紅葉」の末裔。鬼のト術と術式を担う古い血筋で、幼き時より巫女として八瀬で保護をされている。葵によって吹き込まれた鬼の命は原田の傷を癒した。ひと月も経つと左之助は床上げが叶い、傷跡を庇いながら立ち上がり少しずつ歩くことが出来るようになった。

 腹に力を入れると痛む。

 左之助が訴える身体の調子は人間特有のものだった。葵は膏薬を用意して傷の手当をしながら、あらためて人間が負った傷の治癒には玉の緒も力が及ばないことを実感した。早く怪我を治したいとしきりに言い続ける左之助に、葵は「ゆっくりと養生してください」と伝えるしかなかった。

 八瀬に来てからひと月が過ぎた頃、左之助は壁をつたって歩く練習を始め、杖をついて御殿まわりを歩くようになった。左之助は千姫から、八瀬に運ばれてひと月近く意識がなかったと聞かされた。青々と茂る木々や快晴の空に梅雨がとっくに明けていることが判る。江戸とは違い八瀬の里は山深く随分涼しいと原田は思った。だが、それ以上に郷の空気の違いを強く感じた。静かで人の気配がない。まるで時間が止まっているかのような。御殿の周りに点在する家。小さな田端。集落のはずれには小川が流れ、郷は深い山々に囲まれている。左之助はその豊かな緑の風景に故郷の伊予を想った。

 日中は陽の光の中をゆっくりと歩く。時折、道端で誰かに出逢うと会釈をしてすれ違う。八瀬は御殿と同様郷全体がひっそりとしている。それが左之助を不思議な心持ちにさせた。

 御殿の客人である左之助は千姫の館で手厚くもてなされていた。決して煌びやかではないが美しい調度品。今の時代にはない蔀と格子で区切られた庇や母屋の周りの単廊など、千姫の屋敷は洛中でも滅多に見る事がない古式ゆかしい佇まいだった。上野での戦の後に、北に向かおうとした原田は、関宿藩の藩士たちと共に関所で羅刹たちを相手に乱闘になった。関所を抜けた時に羅刹隊を率いる男に鉄砲で左の腹を撃たれた。それ以降の記憶はない。気づくと、この屋敷の客間で目覚めた。千姫に不知火匡が自分を八瀬に運んで来たと知らされた。その不知火は郷にはおらず、「今は東国の戦に出ている」と千姫は原田に告げた。

 長州藩士とつるんで戦っているなら奴は俺の敵だ。
 あの時は、羅刹が襲って来たから一緒に戦った。

 左之助の記憶は曖昧だった。千鶴にそっくりな男が引き連れた羅刹軍。土佐藩の旗印。不知火は「こいつら全員を片付ける」と言っていた。爆薬で奴らを木っ端みじんにしたはずだ。弾薬の匂い、爆音と衝撃。自分の血まみれになった手と必死に掴んだ地面の草。断像が目の前に蘇える。そうか、俺は撃たれて死にかけになったところを不知火が助けてくれたのか。

 敵である不知火が八瀬に自分を運んだことを不思議に思いながらも、左之助はこうして命をとりとめた事に感謝と強い恩義を感じていた。それは千姫や葵にも感じている。洛中で数度会っただけの自分の怪我を癒し、こうして世話をしてくれている。元新選組隊士を匿うことは今の時勢では危険な筈だ。

「ここは鬼の郷。人里より離れているので心配はいりません」

 一度、母屋に居る千姫に面会し、左之助が新政府軍に見つかると迷惑をかけるから郷を出ると言うと、全快するまで郷で養生するようにと引き留められた。

「全快するまで、か……」

 長閑な八瀬の里の風景を見ていると、同じ日の本で戦が起きている実感が薄れて行く。木陰に入ると、緑の濃い香りが漂いその濃密な空気を吸い込むだけで身体全体が楽になる。新八と別れてから、もう三月は過ぎている。きっと新八は陸奥の庄内まで辿り着いて戦に出ているのだろう。

****

「ありがとう。世話になった」

 洗濯女が近くの泉で汲んで来た水を飲んだ左之助は、再び立ち上がって杖をつきながらゆっくりと屋敷まで戻った。川辺から屋敷まで、およそ一町は離れている。前日には、屋敷から反対側の林の向こうに歩いてみた。行けども行けども林は途切れない。暗い山道へと繋がる小道に進んだが、気が付くと元の道に戻っていた。その日は、日も傾いて来たので屋敷へ戻った。

 八瀬の里の集落を四方八方と歩き回る内に、左之助は千姫の屋敷が郷の中心にあることを理解した。千姫は母屋の奥座敷に居る日もあれば、郷の外に出掛けていくこともあった。左之助の世話をするのは葵と下女の楓という名の娘。傷の手当は葵が執り行い、薬も用意する。その手際の良さを見ていると、京に暮らした頃の雪村千鶴を思わせた。

「だいぶん歩けるようになった。集落の外れまで行ってみたんだが、郷の外に出るにはどっちに向かえばいい?」
「郷の外どすか? 八瀬の外には山があるだけ……」
「人里はないのか」
「人里……どすか」
「へえ、洛中まで人の足で三里ぐらいでっしゃろか……」

 そんなに近いのか。左之助は拍子抜けした。だが、杖をついてゆっくり歩いているにしても、この小さな郷の広さは幾らでもない。それにもかかわらず、半日歩き回って一向に郷の外れにも行きつくことが出来ない。なんとも不思議だった。もし、朝の内に郷を発ったら三里の距離ならとっくに北山へ出ているはずだ。八瀬からは山を下るだけだろう。

 翌日も郷の中を歩き回ったが、山道に出ることが出来ないまま。山深い道を選んでも、いつの間にか元来た道に戻ってしまう。左之助は狐につままれたような気持ちになった。

「聞きたいことがある。ここは一旦入ると出られねえ場所か何かか?」
「姫さんからは、鬼の郷だとは聞いている」
「ここにきて暫く経つ。外では戦がまだ続いているんだろう」
「ここに俺を連れて来た不知火匡はどうしている」

 ある夕暮れ、左之助は部屋に現れた葵に矢継ぎ早に質問した。葵は左之助の夕餉を下女に運ばせると、部屋の下手に座ったまま給仕をされる左之助をじっと見ていた。

「不知火さまは、棚倉で土佐藩の動きを追うてはるて聞いてます」
「土佐と薩摩藩は、長州兵と共に陸奥の国を北へと攻めてます」
「棚倉は落ちたのか」
「白河はどうだ。白河城は」

 葵は首を横に振って、「わかりまへん」と答えるだけだった。夜に葵から千姫に東国の戦況について尋ねてみますといって、葵は部屋を下がっていった。次に葵と顔を合せたのは、翌日の夕暮れ時だった。

「原田さま、東国の様子は姫様も知らへんそうどす」
「不知火さまがご無事なこと願うてます」

 憂いを帯びた表情の葵を見て、左之助はそれ以上何も尋ねることをしなかった。千姫に言われた通り、全快するまで郷に留まらなければならないのなら……。左之助は焦る気持ちをずっと堪えて、その夜も早くに横になった。

 杖に頼らずに歩行が出来るようになると、左之助は郷の中を自由に歩き回るようになった。毎朝、川辺に向かい洗濯女の荷物運びを手伝う。大きな盥に入った洗濯物を女たちは少し離れた高台の物干しまで運んで干す。それは大義な作業だった。左之助は女たちのために、川からもっと近い日当たりの良い場所に物干し台を造ってやりたいと思うようになった。

「左之助だ。そう呼んでもらってかまわねえ」

 村落の女たちは、御殿の客に自分たちの仕事を手伝って貰うのを最初は遠慮をして断っていた。だがその内に女たちは左之助と一緒に川辺で語らい、昼餉も外で弁当を広げて一緒に食べるようになった。郷の女たちは、生まれてから殆ど外にでることがなく、八瀬以外の世界を知らない様子だった。

「立ち入った事を聞くが、この郷の男衆はみんな戦にでているのか」

 昼におむすびを食べながら語らっている時に、左之助は女たちに尋ねた。皆は首を横に振っている。「いくさ」と聞いて、きょとんと訊かれている事を理解していない様子の者も居た。

「八瀬の男衆は、もっと山奥にいてはります」
「童子衆は郷には滅多に下りてきまへん」

 どうじしゅう……。其の呼び名を左之助は聞きなれず、鬼の世界の仕来りだと思った。案の定、山奥に籠もる八瀬の男たちは、日々京の都と天子さまを守る役目についていると教えられた。八瀬は都を悪鬼や邪気から守る楯の役割を担っているらしい。左之助は不思議な気がした。この平穏な郷を取り囲む山を男たちが守っているのだろう。静かで長閑な郷。明るく笑う女たち。それは左之助が理想とするものに近いと思った。

「童子衆のところに行ってみてえもんだ」
「何か手伝いがしたい」
「俺は、こう見えても槍使いだ。槍一本ありゃあ、悪い奴を追っ払うことは朝飯前だ」

 女たちは顔を見合わせて、少し驚いたような表情を見せると、左之助に満面の笑みを見せた。

「おおきに。そいでも、そないなことがお願いできるんやろうか……」
「山の上には誰も近寄ることができへんから」

「ほんにおおきに。いっつもうちらの手伝いをしてもろて」

 女たちは左之助に礼を言い続けた。

 その日の夜、左之助は奥座敷の千姫を訪ね、物干し台を造る許可を貰いたいと申し出た。千姫は快く申し出を受けると、必要な資材は近いうちに用意すると左之助に約束した。左之助は、川辺に近い森の木を使ってもいいのなら、自分で木材は調達できると云うと、切ってもよい樹木を選定する必要があると云われた。郷の樹木はむやみやたらに伐採してはいけないらしい。物干しを立てる場所も、方位や日取りなどの取り決めがあるらしく。結局作業にとりかかるまで、十日は待たなければならなかった。

手持無沙汰の左之助は身体が鈍るのを嫌い、庭先で槍を振るって鍛錬するようになった。腹に受けた傷は完治していて、もういつでも戦場に戻ることが出来る。それまでに、郷の整備や女たちを手伝って、出来る限りの恩返しをしたいと左之助は思っていた。

*****

 八瀬の里も中秋を過ぎ、夕暮れ時に涼しい風が吹くようになった。

 御殿の南西にある単廊に座って、左之助は独り夕涼みをしていた。さっきまで、集落の女たちが持ちよった夕餉を食べて部屋で語り合った。

「姫様は、なごうお出かけになられてますなあ」
「えらいこと、ほんに早う戻ってきてほしいなあ」

 女たちは洛中に出向いた千姫が新しい天子さまのお立ちになる手伝いをしていると左之助に話した。八瀬の童子衆も物忌みの為に結界を強くしているらしい。女たちの話ぶりから、八瀬の里は朝廷と繋がりが強く、先の天皇の後に若い皇子が近く即位することが解った。

(そうなれば、薩長の連中が新しい天子を後ろ盾に奥羽諸藩を一掃しようとするだろう……)

「姫さんは、いつ戻るんだ?」
「へえ、月が改まったらと聞いてます」

 左之助は近く千姫が戻ったら、郷を出て庄内に向かおうと決めた。女たちは、膳を片付けると再び左之助に挨拶をしに廊下に現れた。

「明日は、お絹さんが夕餉をお持ちします」
「お絹さんか。屋号は【丹後屋】だったな」
「へえ、丹後やのおきぬさん。えろう張り切ってはって」

 女たちは顔を見合わせてくすくすと笑い出した。

「左之助さまに大池の鯉を掬ってくるって」
「鯉こくを。せやから、ようお腹を空かせて待っててください」
「それは、ありがてえ」
「お絹さん、左之助さまの為やったら、大池の水を全部浚ってみせるやってえ」

 女たちは黄色い声をたてて、「そんなん言やはったん?」と驚いた。

「うちかて、左之助さまの為やったら」
「あら、うちかて」
「それやったら、うちもやわ」

 女たちはわーわーと騒ぎだした。左之助はそんな女たちを目を細めるようにして微笑みながら眺めている。郷の女たちは人懐こく天真爛漫で無邪気なところがある。可愛い。

「さあ、外が暗くなってきた」

 左之助は、立ち上がって女たちを見送るために玄関の外に出た。荷物を持って集落の近くまで女たちを送り届けると、御殿までゆっくりと独りで歩いて戻った。屋敷の中は主の千姫が不在でひっそりと静まり返っている。

 左之助は単廊に腰かけて、空が紫に変り夕闇が迫るのをただぼんやりと眺めていた。

 ふと暗い竹藪の中から黒い影が動いたのが見えた。何かが近づいて来る。野犬か。そう思った瞬間、影はぼんやりと光を放ちながらすっくと立ちあがるように見えた。

「よお、すっかり怪我は治ったようだな」

 庭先に不知火匡が立って微笑んでいる。いつものように短銃をこちらに向けるでもなく、洋装で腰に手をやってふんぞり返るように左之助をみていた。

「不知火か」

 思わず、左之助は立ちあがり単廊の縁から降りようとした。

「お前の様子を見に来た。東国の戦はそろそろ決する」
「俺は暫く仙台に行く」
「庄内はまだ戦の最中だ。あっちは仙台の後に行くつもりだ」

「俺も庄内に」

 左之助がそう言うと、不知火は何かを云いかけて黙ったままじっと左之助の眼を見つめ返した。

「とにかく、上がれよ。助けて貰った礼を言いたい」

 左之助は縁側に下りて手で招くように不知火に近づいた。不知火は黙ったまま、だんだんとその陰が薄くなっていく。ぼんやりと輝くような輪郭が暗い影に溶けて消えた。左之助は不知火の立っていたところに黒い大きな獣が佇みこっちを見ている事に気付いた。

 真っ黒な光沢のある毛並み。
 紫色の眼。
 獣は、しなやかな動きで踵を返すように
 竹藪の中に姿を消した。

 郷の女たちを垂らしこむんじゃねえ。

 不知火の声が聞こえた。風の中に笑い声のような響き。左之助は咄嗟に獣が消えた先を追いかけようとしたが、竹藪の向こうは真っ暗な闇が広がっているだけだった。鬼の連中は、いつもあっという間に姿を消す。左之助は不知火と一緒に郷の外に出れば良かったと思った。不知火なら郷から出る道を知っているだろう。

 ——東国の戦はそろそろ決する。

 白河城の戦いからもう半年は経つ。仙台、庄内はまだ戦をしているのか。新八はどうしている。きっと靖兵隊の仲間と戦っているんだろうな。

 俺はすっかり出遅れちまったな。

「すまねえな……」

 竹藪の上に拡がる空はただ暗く、いつもは瞬く星が見えるのにその日は靄がかかったように何も見えなかった。左之助は大きく溜息をつくと、部屋の中に入って身の回りのものを纏めてから横になった。

****

 不知火が御殿の庭脇に姿を現した夜から数日たって、千姫に仕える葵が御殿に戻って来た。

「原田さま、留守居をまもって下さりありがとうございます」
「千姫さまは次の満月には郷にお戻りになられます」
「そうか。忙しいようだな」
「へえ。月変りに天子さまが行幸されます」

「千姫が戻ったら、暇の挨拶をしたい」
「庄内に行かなければならねえ。仲間が待っている」

 葵は黙ったまま頷いた。夕暮れ時で、玄関に郷の女たちが左之助の夕餉を用意したと訪ねて来た。女たちがわらわらと座敷の廊下に現れて、次々に重箱を広げて膳の用意をし始めた。葵は千姫に文を書くと云って、左之助の部屋から退がって行った。

 八瀬の郷の季節の移り変わりは、美しい草木の様子から感じ取ることが出来る。

 御殿の庭に濃い桃色の華やかな花が咲き始めた。毎朝、下女の楓が花を摘んで左之助の部屋に活けて飾る。

「これは八瀬では【秋牡丹】て呼んでます」
「毎年、長月に咲きます」

 楓は左之助の部屋を手早く片付けると会釈をして下がって行った。

「ながつき、か……」

 左之助は一輪挿しから首をもたげるような可憐な花を眺めると、壁に立てかけてあった槍を手に取り、濡れ縁から庭脇に降り立って鍛錬を始めた。月が改まっても千姫は戻らず、足止めされたまま無為に時間ばかりが過ぎていく。左之助は戦に出られない焦燥を強く感じ、それを紛らわせるために鎗を振るうことに集中した。

「天子様の行幸の日取りが決まりました」
「童子衆が山を下りはります」
「姫様も担ぎ手と一緒に準備であちらこちらに」

 郷の女たちが夕方の膳を片付けて帰った後、入れ替わるように葵が御殿に戻った。葵は千姫が暫く郷には戻らないと左之助に伝えた。

「戻って来ねえのなら、仕方がない」
「文を置いていく。俺は明日ここを出る」
「長い間世話になった。心から感謝している」

 左之助は頭を深く下げて葵に礼を言うと、「旅の準備はもう出来ている」と言って笑顔を見せた。

「原田さま、郷を出られることはまだお控えください」
「姫様がお許しにならしまへん」
「十分養生して良くなった。手厚く介抱してもらったお陰だ。感謝している」

 左之助は葵の前に立って、俯いている葵の顔を覗き込むように首をかしげて見詰めた。葵を困らせてしまっているのが忍びないという表情で眉尻がさがっている。その優しいまなざしを見上げて、葵は何かを云いかけてやめてしまった。二人は黙ったまま互いに目を合せて暫くその場に立ちすくんだ。

 西の空に茜雲がたなびき、まわりから紫色の空が段々と色濃くなってきている。

「姫様がお戻りになるまで、どうか……」

 左之助は黙ったまま頷いた。郷の主の留守中に出立することは礼儀に悖る。左之助はふたたび「月代りに千姫が戻ったら直ぐに暇乞いをする」と葵に伝えた。葵はじっと左之助の眼を見詰めたまま返事をせず、深く会釈をしてから廊下を母屋に向かって歩いて行った。

廊下の柱に凭れ掛かりながら夕闇が迫る庭先を眺めて、左之助は大きく溜息をついた。

*****

禁足の縛り

慶応四年十月

 月が改まり、ようやく千姫が八瀬に帰郷した。

 大広間の祭壇の前で左之助は千姫と面会が叶い、千姫は天子様が東行し江戸が【東京】になったと左之助に知らせた。

「奥羽諸藩は仙台を筆頭に新政府に恭順降伏しています」
「庄内藩も先月降伏に応じたと聞きました」
「幕府軍は? まさか幕府軍は降伏していないだろう」
「詳しいことはわかりません。降伏したという報せは来ていません」

 左之助は安堵の息を吐いた。そして今すぐ郷を出て東国に向かいたいと申し出た。

「仲間が待っている。まだ戦は終わっていない」
「命を救って貰ったことに感謝している」
「大層世話になった」

 姿勢を正して深々と頭を下げる左之助に千姫は「礼には及びません」と応えた。

「あなたの命を救ったのは不知火匡です。葵も私も彼の願いに応じたまで」
「不知火はどんな事をしてでもあなたの命を救って欲しいと、葵の術式を頼って八瀬にあなたを連れて来ました」

——葵の術式は特別なものです。

「郷にあなたを留め置いたのは、【玉の緒】を繋いだため。人間のあなたに鬼の命を与えたからです」

 左之助はずっと黙ったまま千姫の言葉を聞いていた。

「鬼の命を与えらえた人間は人の世に関わることはできません」
「これは鬼の世の理です。玉の緒で繋いだ命は、いわば人と鬼の間にあるもの」
「ふたつの世に介在する身命は、どちらの世にも深く関わることはできません」

「戦は人が武器を持ち殺し合います。郷は荒らされ野山は焼かれてしまいます」

 ——人間は命を屠り傷つけあうのが性なのか……。遺憾に思います。

 されど鬼とて同じ。いにしえより守る者の為に鬼も人も戦い、命のやり取りをしてきました。仲間や家族を守り助け合います。この営みは人も鬼も変わりません。

「玉の緒で繋いだ命は、どちらの世の営みにも関わることがありません」
「お解りください。これが大きな縛りであることを」

 左之助は戦場で戦うことができないと知って愕然とした。命を救って貰った代償。人の世に関わることが出来なくなった。郷の外に出ても仲間の元へ行くことが叶わないのか……。

「郷の外では生きていけない。そういう事か?」
「どんなに歩いても、郷の外に出られないのはそういった縛りがあるからか」
「禁足の縛りは私が敷いたものです。怪我が全快するまで」
「郷の中にいれば、鬼の命を宿した者は安全に過ごせます」
「俺はこの郷以外の場所には居られない。そういう事か」

 千姫は首を横に振った。

「それはわかりません」
「本来なら、あなたは郷の鬼たちとも関わることのない存在です」
「ですが、原田さん。あなたは郷の女たちを助け、共に働き、語らい、一緒に過ごしています」
「鬼である私たちと一緒に居る。それはお分かりですね」
「夏の間にあなたは川の傍に新しい物干し台を建てた。お陰様で、洗濯女たちは大層喜んでいます」
「山の上の童子衆も物忌みの間、禍もなく無事に過ごせました」

「原田さん、【鬼の玉の緒】は古くから伝わる術式です。司る葵でさえ、その効果や縛りがどこまで力を及ぼすのかが判らないと云っています」
「怪我が治ったあなたがお仲間の元へ戻りたいと願うのは無理もないこと」
「この郷で障りなく過ごせたあなたを東国へ向かわせることも吝かではありません」

「ですが、そこに禍が起きるとすれば」
「あなたを奥羽へ送ることはどうしてもできません」
「今は天子様の東行の時。そこに如何なる凶事も起きてはなりません」
「術式で繋いだ命が、人の世で儚くなることも考えられます」
「郷の外へ出られるなら、今一度あなたが生きながらえることを望んだ不知火をここへ呼び寄せます」
「不知火はどこにいる」
「仙台に居ます。仙台城下には羅刹が潜伏していて不知火がその行方を追っています」
「元新選組が造り出した羅刹だそうです。不知火は日ノ本に存在する羅刹を壊滅すると云っています」
「鬼の血族はそれに異論はありません」
「新選組の羅刹の処分なら俺が請け負う。俺達の責任だ。あんたたち鬼が手を下す必要はねえ」

 左之助は厳しい口調で千姫に凄んだ。

「仙台に向かうことはなりません。東国の鬼の郷に玉の緒で繋いだ命を持つ人間が近づく事は決してなりません」

 ——不知火が八瀬に来るまで禁足の縛りは解きません。

 千姫は全く妥協する様子もなく強い口調で原田に御殿に待機するようにと言って、奥の間に戻って行った。左之助は離れの自分の部屋に戻り、ふたたび旅立ちの為に身の回りのものを整理をすると、ひたすら不知火が到着するのを待ち続けた。

****

羅刹隊殲滅

 時は少し遡る。

 九月十五日、仙台藩降伏恭順。この後、会津、庄内など奥羽の同盟軍は次々に新政府に白旗を揚げることになった。東征軍はそのまま仙台城下に駐屯し、戦に加担した藩士及び商人や農民にも処分を科していった。これに反発する者多数に及び、領内は常に諍いが起きるようになった。新政府は薩摩兵と土佐兵に領内見廻りをさせ、仙台藩兵は捉えた無法者を城内の座敷牢に幽閉した。

 不知火が天霧九寿と連れ立って仙台に入ったのは、上弦の月が傾く夜、城下は静まり返っていて通りに人の影は見当たらなかった。

 城下に狐火がでる。
 姿のない人斬りの横行。
 朱い眼をした鬼に襲われる。

 あれほど賑やかだった城下が、化け物が出るという噂で東征軍でさえ夜間は外出を控えている。城下は不穏な空気に覆われていた。

「中央の通りを東と西に分かれましょう」

 天霧の提案で二手に分かれた不知火は、大町通りを東に向かい駆け抜けて行った。狐火を追えば羅刹は見つかる。仙台城下に巣食う鬼のまがいもの。薩摩藩の情報では、白石城に潜伏していた新撰組羅刹隊が北上し、恭順降伏後の仙台藩の見廻り組として城下の警備を担っているという。

 だが警備とは名だけのもので、実際は夜な夜な人を斬って襲い、橋を渡って城壁の向こうに姿を消してしまう。不知火が町の中心に戻った時、通りの真ん中に既に息絶えた数名の者の姿が見えた。惨殺された遺体はどれもはらわたを抜かれ心の臓が掴みとられていた。無数についた傷口から全身の血を吸いとられた形跡がみられる。

「酷い。この者たちを襲った羅刹は、人としての理性は何も持ち合わせていないでしょう」
「ああ、奴らを片っ端から潰して行く」

 不知火は腰のリボルバーを手にとって一気に駆けだした。一丁先を狂ったように走る羅刹の影。通りの向こうに先廻りした天霧と挟み撃ちにした。羅刹は動きが単調で、捕まえるのは容易だ。朱い眼をした男たちは次々に不知火に襲い掛かってきた。天霧と連携し、リボルバーで眉間を撃って倒した。羅刹は肩に仙台藩の腕章を付けていた。川向うの城郭に羅刹が潜伏している筈。天霧と直ちに仙台城へ向かった不知火は、そこに待機する羅刹隊全てを殲滅した。

 それから間もなく夜が明けると、不知火は天霧と別れ急ぎ青森に向かった。旧知の仲の長州軍総督の山田市之允と面会し、新政府軍の今後の動きを確認するためだ。市之充は海軍を率いて蝦夷へ幕府軍残党を一掃しに行くと息巻いていた。一緒に蝦夷行きの船に乗るように誘われた不知火は、戦線には参加しないときっぱり断った。そして、幕府軍の勝算は極めて低いと感じた不知火は、このまま八瀬に報告に向かうことにした。

 蝦夷で幕府軍の連中が巻き返そうが、興味はねえ。

 青森の港に立った不知火は、遠い海原の向こうの蝦夷の地を眺めながら、日ノ本を出ようと思った。仙台一関は人間の介入なしに守られている。白岩の鬼塚も事なきを得た。東国の戦はひとまず収まった。唯一の気掛かりだった鬼のまがい物の始末も終えた。思い残すことはない。

****

明治元年十月

 新しい天皇の行幸が叶い。江戸は東京と改められた。

 新しい世が始まる。童子衆が天子様を送り届ける大役を終え、八瀬の郷にも静かな日が戻った。年越しの追儺まで千姫は郷に留まり禊に入る。その前に千姫は東国から戻った不知火を郷に呼び寄せた。

「それでは、東国は平定したと」
「ああ、やっとな。一関も白岩も無事だ」
「仙台の羅刹隊も全て殲滅したと天霧が式鬼で知らせてくれました。改めてそなたにお礼を言います、不知火」
「長州軍が蝦夷を攻めるのは年明け?」
「いや、うんと先だ。春の雪解けを待つと云っていた。気のなげえ話だ」
「幕府軍の残党は皆蝦夷へ渡ったのかしら」
「全員がまとまったかどうかは定かじゃねえ。東国には敗走兵がごまんといる。薩軍は片っ端から敗走兵を掴まえているが、中には船に乗り込んでそのまま志那に逃げる奴もいるらしい」

「そう……」

 千姫は何かを考えている様子だった。不知火は既に足を崩し、葵が差し出したお茶に気付くと、湯飲みを片手で持って啜り始めた。

「郷で預かっている客人のことですが、傷は治っています」
「無事に身命は繋がれました」
「ありがてえ。心から感謝している」
「巫女の姫さん、礼を言う」

 不知火は姿勢を正して深々と頭を下げて千姫と葵に礼を言った。

「それで、あいつはいつ郷を出られる?」
「その事なの。【玉の緒】の命は人の世では生きることが叶わないことは本人に伝えてあります」

 不知火は絶句した。それまでの笑顔が消え、助けを求めるように傍に座る葵の顔を見た。

「本当か。郷の外に出たら奴は死ぬのか、姫さん」
「それは判りません」
「葵もわからないと云っています」
「玉の緒を繋いだ、あなたの馬関の人間の友人。あの者は儚くなったけど……」
「高杉か。あいつは生きかえった。息を吹き返して一緒に海を見たって言っただろ」

 突然、不知火は大きな声をあげた。

「一緒に坂道を歩いて砂浜に出たんだ。しっかりとした足取りだった。あいつは生き返った」

 千姫はゆっくりと頷いた。葵は千姫の前に出て身仕舞を正し、両手を床について頭を下げた。

「姫様、原田様への禁足の縛りをお解きくださいますようお願い申し上げます」
「いまいちど、玉の緒を。原田さまに授けたく存じます」
「それが叶うの? ねえ、葵」
「はい、今直ぐ禊に入れば」
「今宵は新月。滞りなく行えば、きっと」
「わかったわ。それならただちに。不知火、そなたは客人に命を繋いだ目的を伝える必要があるわ」

「離れの原田さんに会って、ちゃんと話して」
「原田さんはお仲間と一緒に戦うことを望んでいるから」
「不知火、そなたが原田さんに生きていて欲しいと願う、真の理を彼に伝えないと」
「ふたところの間にある彼の玉の緒は繋がりを失います」

 不知火は「相分かった」と言って頷いた。

「奴さんは西の離れに居るんだろ。案内はいい。廊下の突きあたりだな」

 不知火は座敷から廊下に出て足早に西の離れに向かって歩いていった。

*****

舞原港

明治元年師走

 大きな海猫が風に逆らって羽ばたきながら鳴いている。

 耳が切れそうになるぐらい冷たい風が真正面から吹きつけている。大きな客船が艀に停泊している前で、不知火匡と原田左之助は互いに暇の挨拶を交していた。

「いろいろと世話になった。感謝してもしきれねえ」
「不知火、この借りは必ず返す」

「俺が年明けに出向くまで、宿の席を温めてくれりゃあいい」
「わかった。大連遼東飯店。だな」
「リャントンハンテンだ」
「だいれん、りゃんとん。よし覚えた」
「ああ、大連だ」

 乗船開始を知らせる汽笛が鳴った。

「じゃあ、そろそろ行く」

 左之助は、荷物を肩に掛けて船に乗り込む艀に向かい、乗船して直ぐに甲板に上がった。

 艀のそばに不知火が立って、こっちを見上げている。

「おい、不知火。水平線も地平線も、その向こうも見えねえぞ」

 左之助は手を口元に持っていって大声で叫んだ。

「あったりまえだ!!」
「俺が満州に行ったら、一緒に見に行く。それまで野垂れ死ぬんじゃねえぞ」
「お前もな」
「必ず、満州に来い。待っている」

 再び出航の汽笛が響き、二人の叫び声はかき消された。ゆっくり動き出した船を眩しい朝の光が照らしている。

 甲板で大きく手を振り続ける左之助がどんどんと小さくなって見えなくなるまで、笑顔の不知火は手を翳しながら、海原に向かっていく客船を眺め続けた。


→次シリーズ 斗南にて その1




(2021/01/13)




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