すずらんのかをり

すずらんのかをり

明暁に向かいて その25

明治九年梅雨

 六月に入ってから雨続きで神夷も雲雀も診療所の厩で留守番が続いていた。毎日厩で子供は馬に遊んでもらって過ごしている。千鶴は午前中に家事を済ませると、坊やをつれて久しぶりに銀座へ出てみた。

 子供に小さな雨合羽を着せて、小降りになった雨の中を乗り合い馬車から降りた千鶴は、日村屋總本店の店先の列に並んだ。じっとしていない息子をなんとか宥めながら、ようやく【あんぱん】を買うことが出来た。雨間に急いで京橋方面に歩いて鎗屋町に出た。土方に会いに行くためだった。
土方の【西村造靴場】は今年に入ってから土方が政府から買い取った革靴工場で、土方が殖産顧問を務めながら全面的な経営も担っていた。土方は多忙を極めているらしく、ここのところ診療所に姿を見せていない、千鶴は、ほぼひと月ぶりに息子と土方に会うのを楽しみに雨の中を急いで歩いた。

 工場の入り口で、土方の秘書を務める男性に土方に面会したいと申し出たが、土方は工場には居ないといわれた。何時に戻るのかと尋ねたら、「暫く休まれている」と秘書は応えた。千鶴は、急に心配になった。差し支えなければ、休む理由を教えてほしいと尋ねると、秘書はようやく土方が病気で入院していると答えた。千鶴は、入院先の病院が芝愛宕だと教えて貰うと急いで坊やを連れて向かった。愛宕の東京府下病院は広大な建屋で、千鶴は受付で入院患者の【西村義三】さんに面会したいと申し出たが、さんざん待たされた後看護婦からもうすでに【西村さん】は退院して自宅療養していると知らされた。

 千鶴は、土砂降りの雨の中を坊やと馬車に乗って御殿山に向かった。だが、御殿山の土方の屋敷には誰もおらず、外から扉を叩いても、お勝手口で呼びかけても応える者が居ない。庭木も伸びたままになっていて、手入れされている様子もない。千鶴は土方がもうずっと長く屋敷を留守にしていたのではと余計に心配になった。だが雨合羽を着せた子供がこれ以上雨に当たるのは良くないと思い、その日は諦めて小石川に戻った。

 夜に斎藤が帰宅したときに、土方が愛宕の病院に入院していたみたいだが、すでに退院して御殿山の屋敷にもいない。所在がわからない土方が心配だと斎藤に話した。斎藤も永く土方とは会っていないと心配した。

  翌朝、斎藤は向島のメリヤス工場に出向いて、土方の所在を尋ねると言って出かけて行った。
雨で斎藤の帰宅時間はいつもより遅かった。すっかり陽が暮れてから戻った斎藤から、土方が向島で療養をしていると聞いて千鶴は安堵した。

「風邪をこじらせて肺炎で入院されたそうだ。今月いっぱい療養して工場に戻られる」

 千鶴は驚いた。肺炎で入院。きっとご無理が祟ったのだろう。千鶴は、初めて東京に戻った年の暮れの事を思い出した。土方は酷い風邪で寝込み、診療所で暫く療養してもらった。千鶴は、斎藤に土方に診療所で療養してもらうようにお願いできないかと尋ねると、「それは必要ない」と答えたまま、風呂場に行ってしまった。

 千鶴は、風呂場に行って斎藤の背中を流しながら、「どうしてだ」と尋ねた。

「土方さんは、向島で手厚く看護されている。ここに来る必要はない」

 斎藤は千鶴に背中を流されながら答えた。千鶴は、それでは土方さんは向島で療養されてるんですね。どこの病院でしょう?と尋ねたが、斎藤は立ち上がって湯舟に浸かって、顔に湯をかけて拭ってゆっくりと湯舟にもたれかかったまま黙っている。

「どこの病院ですか? わたし、坊やを連れて明日行ってまいります」

  千鶴が洗い場の床をお湯で流しながら尋ねると、「病院ではない」と斎藤が呟いた。

「病院じゃないって……。土方さんは、向島におうちが在るんですか」

 千鶴が尋ねると、斎藤は「ああ」と答えた。千鶴は、そうなんですね。それでは番地を教えてください、明日坊やとお見舞いに行きます、そう言って立ち上がった。

  風呂から上がった斎藤は、居間で冷酒を呑んで寛ぎ始めた。千鶴は、子供と風呂に入った後に、居間で子供の髪を拭きながら、明日は「よしみさん」に会いに行きましょうねと子供に話かけていた。



****

奥の間でのこと


「よしたん、ごびょうき?」

 子供が千鶴の言っていることを鸚鵡返しに尋ねている。

「そうですよ。早く良くなってもらえるようにお仏壇にお願いしましょう」

 千鶴はそう言って、「とうたま、おやすみなさい」と挨拶を済ませた子供を抱っこして奥の間に入って言った。子供を寝かしつけて居間に戻った千鶴に「向島に子供は連れて行かぬ方がよい」と斎藤が話した。

「初めて訪ねる先だ。それに土方さんはまだ全快されていない」

 斎藤は真面目な顔でそういうと、ぐいっと硝子のお猪口に入った酒を飲み干した。

「そんなにお悪いんですか?」と千鶴が心配そうに訊いた。

「ああ、まだ床上げもされておらん。豊誠が甘えてまとわりつくのを相手にするのも難儀であろう」

 そう応える斎藤に、千鶴は「そうですか。それでは明日は私独りでお見舞いに参ります」と千鶴は答えた。

 それから、晩酌を終えた斎藤は先に床に入ると居間を出て行った。千鶴はお膳を片付けて戸締りをして寝間に向かった。

 布団に入る前に、先に土方さんの番地を聞いておきますという千鶴に斎藤は向島の番地を教えた。場所は料亭【名月】の近くということだった。

「そうですか、それなら乗り合いから降りて歩いて行けますね」

 千鶴は番地を書き付けた紙を引き出しに仕舞うと、行灯を吹き消して寝間に横になった。

「お多佳さんは、店もある。あまり長居はせぬようにな」

  暗がりで斎藤がぼそっと呟いた。

 千鶴は驚いた。お多佳。

「土方さんは、お多佳さんのところにいらっしゃるんですか?」

 千鶴が暗闇で斎藤に向かって尋ねた。子供が起きるぐらいの大声だった。

「ああ、お多佳さんの家におられる」

 斎藤が静かに答えた。

「どうして、それを先に仰らないんです」

 千鶴は布団から起き上がった。

「静かにせぬか。子供が目を覚ます」

  斎藤が静かに諭した。千鶴は、囁くような小さな声で「どうしてです。お多佳さんのところにいることを、どうして教えてくれなかったんです」と繰り返している。

「俺も今日初めて知った。メリヤス工場で相馬に会って、土方さんは名月の女将の家で療養されていると教えてもらった」

 斎藤は、天井を見上げたまま静かに話し始めた。

「女将の家は近くにあった。俺が尋ねると、お多佳さんは驚いていたが、奥の間で横になっている土方さんの元へ通してくれた」

「土方さんは、少しやつれていた。肺炎で死にかけたと笑っていた。靴工場で倒れて愛宕の病院に運ばれて、三日間は意識もなかったらしい」

 千鶴は、息を呑んで斎藤の話を聞いていた。そんなに、そんなにお悪くなるまで……。千鶴は、土方が以前の風邪を拗らせかけた時を思い出した。

「一命は取留められた。病院では経過も良く。一週間前に退院して、そのままお多佳さんの家で世話をされている」

 斎藤がそういうと、千鶴は安堵したように隣で再び体を横たえた。

「そうですか。御殿山のお屋敷が空き家のようだったので。どこに行かれたのかと本当に心配しました」

 千鶴は、枕に頭を載せて斎藤に体を向けて微笑んだ。

「もう、随分前から御殿山には帰っていないらしい」

「お多佳さんのところに住まわれているようだ」

 静かに斎藤が話すのを聞いて、千鶴はまた体を起こした。

「住まわれてるって、一緒にお暮しなんですか?」

 千鶴の素っ頓狂な声が奥の間に響いた。「静かにせぬか」と斎藤がまた諫めた。

「土方さんとお多佳さんはくっついていらっしゃるんですか」

 まだ千鶴は声が高いまま尋ねた。斎藤は、答えずに大きく溜息をついた。

「【くっついて】おるのかは知らぬ」

「だが、奥の間は土方さんの調度も置かれて、そこで仕事もされているようだった。お多佳さんに傍で甲斐甲斐しく世話をされていた」

 千鶴は興奮した声で尋ねた、「では、倒れる前からってことですか。お二人は。もう一緒に暮らしてたって」

「俺は知らん」
 斎藤はそう言って、枕に頭を載せ直すと、「もう寝るぞ」と一言。そのまま黙ってしまった。

「じゃああれですか、土方さんは旦那さんを差し置いて、奪っちゃったんですか」

 千鶴は斎藤の布団に向かって暗がりで尋ねた。斎藤が鼻で笑う声がした。

「奪う。奪ったのであろうな……」

 半分眠っているかのような声で斎藤は応えた。

「では、旦那さんはどうされるんです?お多佳さんが土方さんとくっついてて、黙ってるんでしょうか?」

「……」

 斎藤は寝始めているようだった。千鶴は再び問い直した。

「旦那さん、どうするんでしょう?」

「……」

 千鶴は、斎藤の顔に自分の顔を近づけた。

「はじめさん?」

 千鶴は斎藤の鼻を摘まんだ。斎藤はゆっくりと目を開けた。千鶴が顔を近づけているのに気づくと、寝返りを打つように千鶴を布団に押し返すと、そのまま覆いかぶさるように千鶴の首に顔を埋めた。右手が千鶴の腰に伸びてきて尻をまさぐり始めた。

「はじめさん、違います」

 千鶴は、斎藤の背中をぽんぽんと叩くようにして体を揺らした。斎藤は動きを止めると、がばっと起き上がった。暗がりで膝に両手をついて憮然としている。

「何が、違うのだ」

 小さな声で呟く斎藤に、千鶴は乱れた寝間着の胸元を合わせながら起き上がると。

「私が聞きたいのは、旦那さんです」
「旦那さんは、土方さんをどうするんでしょう?」

 暗がりに千鶴の大きな瞳が光っているのが見えた。いかん、酷く興奮している顔だ。斎藤はそう思った。だが、睡魔が襲ってくる。眠い、これ以上は無理だ。

「知らぬ。俺は眠い。寝るぞ」

 そう答えるのがやっとだった。自分の布団に横になると瞼を閉じて再び眠りに落ちた。その矢先だった。再び鼻を摘ままれて思い切り横に揺らされた。

「一体、なんだ」

 がばっと起き上がった斎藤は声を荒げた。

「眠いといっておる」

 酷く苛立った声が響いた。

「ですから、旦那様です。どうするんですか。旦那さまが家に来て、土方さんと鉢合わせたら」

 千鶴も布団から起き上がって正座して尋ねている。「それこそ一大事です」と心配そうに呟いている。斎藤は、どっと疲れた。そして、大きく溜息を吐いた。

「旦那のことは俺は知らぬ。もう寝たい」

 斎藤は、千鶴に背中を向けて布団を頭から被った。蒸し暑い夜だが、仕方ない。背後から、「はじめさん、はじめさん」と千鶴のしつこい声が聞こえたが、無視しているうちにすぐ眠りに落ちた。


****

向島へお見舞い

 翌朝、出勤の準備をする斎藤を手伝いながら、千鶴は自分ひとりで向島に行ってまいりますと話した。

「土方さんのお顔を見たら、さっと帰ってきますから」

 昨夜、斎藤から「長居はするな」と注意されたことを千鶴は気にしているようだった。
「わかっていますから、それぐらい」とつんとした表情で話している。斎藤は「ああ」とだけ答えて家を出た。

 千鶴は朝一番にお多佳の家に宛てて電報を打って、午後を過ぎてから独りで家を出た。お多佳の家の奥の間で、土方は布団に伏せたままだったが、千鶴が思っていたよりは随分と元気な様子だった。千鶴の顔を見るなり、「坊主は?」と土方は尋ねた。隣のお夏の家で留守番をさせていると伝えると、「元気にしているなら、いい」と笑った。そして、千鶴が土方を探して芝愛宕の病院に出向いたことを、「無茶をしやがる」と言って諫めた。

「木挽町界隈で【コロリ】が流行っている。愛宕の病院も、入院患者が後を絶たねえ。俺の病棟の床が直ぐに足りなくなった、平熱になったから退院しろって医者に言われて、病院を出た」

「坊主を病院みてえな場所に連れていくんじゃねえ。剣呑だ。悪い病を貰って帰ったら、目も当てられねえ」
「いいな」

 土方は、厳しい表情で千鶴に諭した。大病人に逆に子供の心配をされて、千鶴は微笑みながら土方が元気な様子に安堵した。帰り際、門先までお多佳に見送られた。

「千鶴さま、有難うございました。歳三さんには、ゆっくり養生して貰って、良くなりましたら、改めて診療所にご挨拶にお伺いします」

 そう言ってお多佳は頭を下げた。千鶴は、是非いらしてくださいと笑顔で返し向島を後にした。

 その日、千鶴は斎藤が家に戻るのを待ちわびた。そして、家に戻った斎藤を玄関で迎えると、土方に会いに行ってきたと第一声。そのあとはのべつ幕無しに喋り続けた。

「土方さん、お元気でした」
「【コロリ】で患者さんが溢れかえって、早くに退院されたって」
「まだ先生が往診に見えていて。今月いっぱいは養生されるそうです」
「はじめさんが、築地を巡察しているのを。【コロリ】に気をつけろと」

 斎藤が食卓についても、千鶴の話は止まらなかった。

「土方さん、お薬を飲むのもお多佳さんが手伝われてたんです」
「身体を起こされた時も、お多佳さんにこんな風に凭れ掛かって」

  千鶴は、斎藤に寄りかかってくすくすと嬉しそうな声を挙げて独り喜んでいる。

「あのような土方さんは、わたし初めて見ました」
「お多佳さん、【歳三さん】って呼んでいらっしゃって」

 千鶴は感慨深そうに言うと、宙を見つめてうっとりとしたまま動かなくなった。

 斎藤は翌朝も早いからと、風呂を済ませると直ぐ床についた。千鶴はまだ話が足りない様子だったが、先に休んだ斎藤の寝顔を見ると、諦めたように眠った。

*****

津島淳之介

 翌日の午後、千鶴が夕餉の支度をしていると玄関に斎藤の部下の津島淳之介が現れた。
袴履きで、高下駄に鳥打帽を被った姿は学生のようで、足元に大きな旅鞄と手には花束を持って立っていた。千鶴が上り口に行くと、津島は黙ったまま帽子を脱いで頭を下げた。

「津島さん、今日はお休みですか?」

 千鶴が津島を居間に招きいれながら尋ねた。

「はい、故郷に帰ってました」

  津島はそう言うと、「あの、これを」と手に持っている花束を千鶴に渡した。

「まあ、鈴蘭ですね」
「綺麗」

 千鶴は嬉しそうに花束を抱えている。津島に座布団を差し出すと、千鶴は膝をついたまま再び手の中の花束を眺めた。

 さっきまで降っていた雨は止んで、庭からぼんやりとした光の差す中、千鶴の横顔が津島の目の前にあった。微笑みながら、花束を覗き込んでいる。故郷の津軽に戻っている間、片時も忘れたことがなかった。この優しい笑顔。好きだ、貴方が。

「好きだ」

  思い切って声に出してみた。

「好きです」

(言った。言えた)

 目の前の千鶴は、「わたしも」と津島に微笑みかけながら答えた。津島は、言葉が出てこない。

 わたしも。

(奥さん、ほんとうですか)

 目を見開いたまま固まった津島の前で、千鶴は微笑んでいる。

「わたしも大好きです。このお花。優しい甘い香り」

 千鶴は花束に顔を埋めるようにして、鈴蘭の芳香にうっとりとしていた。津島は固まったまま動けない。

(そうか、花のことか……)

 一瞬高揚した気持ちが、一気に沈み込む。そうか……。

 黙ったままの津島に、千鶴は「有難うございます」とお礼を言うと

「こんなに優しい香りがするんですね。小さな花が並んで」と嬉しそうに花を見つめている。 津島は勇気をだした。ちゃんと伝えよう。深呼吸をした後、千鶴に話かけた。

「わたしは、」

 と言い出して、千鶴の目を見た。だが、言葉がでない。

 その瞬間、子供が膝に突進してきた。衝撃で後ろに倒れそうになったが、子供は膝に腰かけて笑っている。

「これ、汚れた手のままで」

 千鶴は津島に「すみません」、と謝りながら、子供を連れて手を洗いに行った。津島は溜息をついた。心の臓の音が、だんだんと落ち着いてきた。津島はもう一度、深呼吸するように、大きな溜息をついた。

 子供の手洗いを済ませ、大きな花瓶を持ってきて花を活けた千鶴は、丁寧に床の間に飾り、小さな一輪挿しをお膳の上に置いた。子供は、津島の膝の上に再び腰かけて、千鶴が並べた小さな湯飲みで白湯を呑んでいる。お茶を煎れながら、千鶴は、「ずっと雨続きで、外で遊べないので、持て余していて」と子供を見ながら、笑っている。

 津島は機を逃した気がしていた。頭の中は、告白のことだけ。心の中の気持ちをただ伝えたい。そう思って船着場からすぐに診療所に来た。

 貴方のことが好きです。どうしようもないくらい。

 心の中で呟く事しかできない。目の前の千鶴は優しく、子供に話しかけている。津島は、やはり言えなかった。告白はならず。小さな溜息しか喉から出てこない。

「今日は、これから署に行かれるのですか?」

 千鶴が優しく尋ねている。津島は、首を横に振った。

「いいえ、明日まで休みです」

 そう答えるのがやっとだった。千鶴は、「それでしたら、ご夕飯を是非」と言った。

「今夜ははじめさんも早く戻られると思います」

 そう言いながら、千鶴は再び立ち上がった。

  津島は「いいえ、下宿に戻ります。荷物も解きたいので」と言うと、子供を抱えながら立ち上がった。

 千鶴は、そうですか。長旅でさぞお疲れでしょう。そう言って、子供を津島から抱きかかえると、玄関に見送りに出た。千鶴は津島に鈴蘭の花束のお礼を言って、門の外で子供と一緒に手を振り続けた。津島は後ろ髪を引かれるように、何度も振り返った。千鶴は笑っていた。いつもの美しい笑顔で。


***


 斎藤が夜に戻って、津島が訪ねて来たと話すと、

「津島は父親が危篤で帰郷していた。父御の容態は?」と千鶴に尋ねた。
千鶴は「さあ。そのことは何も仰ってなかったので」と答えると。
「そうか」と一言。

 明日、署に戻るとおっしゃってました。そう千鶴は伝えた。斎藤は、「そうか」と頷いて、夕餉を食べ始めた。食事の後は、久しぶりに親子三人で湯に浸かった。子供を寝かしつけた後、しばらく縁側で涼んだ。

 床の間に飾られた鈴蘭の花瓶から甘い香りが立ち込めていた。

 二人で床に就くと、千鶴は「はじめさん」と呼びかけた。

「夕べは、早く休まれたから尋ねられなかったんですけど」そう前置きすると、
「お多佳さんの家に土方さんがいらっしゃるの。旦那さまはご存知なんでしょうか?」

  身体を横にしたまま隣の斎藤の顔をじっと見上げて訊いてきた。斎藤は、また始まったと内心思ったが、「さあ、わからん」と答えた。

「お多佳さんの家は、ご立派なお屋敷でした。旦那様がお見えになった時、土方さんと鉢合わせになったらどうされるんでしょう?」

「……」

 黙っている斎藤の息は静かだった。もう眠り始めているらしい。

「はじめさん、」

 千鶴はそう呼びかけながら、斎藤の肩に手をかけた。静かに眠る斎藤の身体を揺らした千鶴は、「聞いてます?」と囁いている。目を開けた斎藤は、溜息をついた。

「旦那様が家に土方さんが居るのを知ったら、土方さん、追い出されちゃうんでしょうか」
 黙っている斎藤に、畳みかけるように千鶴が尋ねる。

「追い出されますよね」

 千鶴が顔を近づけて、斎藤の顔を覗き込む。

「わからぬ。【間男】ならそうだろうが。お多佳さんが土方さんを囲っているのなら、また違う」

 ぼそぼそと話す斎藤は、目をつぶったままだった。

「囲うって、土方さんはお妾さんですか」
「……」

 千鶴が尋ねても、斎藤は黙ったままである。また眠りに戻ったようだった。

「はじめさん、土方さんは二号さんなんでしょうか」

 千鶴の質問は止まらない。「はじめさん、」ずっと斎藤の身体を揺らして尋ねつづける。斎藤は揺り起こされて、再び目を開けた。

「はじめさん、土方さんは二号さんなんでしょうか」

 千鶴の大きな瞳は、じっと斎藤を見つめている。斎藤は大きく溜息をつくと、起き上がった。布団の上に正座をしたまま膝に両手を突っぱねるようについて俯いている。そして、大きな溜息をついた。

 疲れている
 勘弁してもらえまいか

 その声は震えていた。連日の疲れと、同じことの質問にもう限界が来ていた。「土方さんとお多佳さんと旦那のことは、俺にはわからん」
もう一度、振り絞るようにそういうと、

「寝る」
と宣言して、布団を頭に被って背中を向けてしまった。千鶴は、それ以上は何も言えなかった。仕方なく諦めた千鶴も布団に横たわると目をつぶった。

***

天野の噺


 翌日の夕方早くに、斎藤が部下と一緒に帰宅した。夜行巡察がないから、夕餉を部下の分も頼むと言って、斎藤は制服を脱ぐと、酒瓶を出して早速部下と晩酌を始めた。
食事の用意をお膳に運びながら、千鶴は、天野が津島が郷に帰ってたのは、親父さんの容態が悪いのもあったが、【縁談】が持ち上がってるからだと話をしているのを聞いた。

「相手は津島の親父さんの上役の次女で、弘前藩歴代家老杉山家の分家筋。一千石の譜代。剣術好きな家だそうで。昵懇にしている小野派一刀流の道場主から、東京で巡査をしている門弟の津島の話がでたところ、剣の腕がたつ者のところならばと縁談を勧める話になった」

「そんなお姫さんが、こんな三等巡査の元へね。物好きでございましょ?」

 黙って座っている津島を顎で指しながら天野が話を続けている。斎藤は一千石なら早々に家禄処分を行っているだろうと思った。斗南同様、同じ青森県政下の津軽なら、五百石以上の家禄を請けている家は公債支給に切り替わっているはずだ。国から下りていた俸禄は既に廃止されていた。国に禄を取り上げられた武家は貧窮している。青森県は取り上げた禄を下級の士族へ廻していると聞いていた。斎藤は、この津島との縁組をされている杉山の家も同じであろうと思いながら話を聞いていた。

(家が没落する前に出せるところに娘たちを出していこうという親心であろう)

 斎藤は、黙って正座したままじっとしている津島の顔を見ながら思った。

「事がうますぎるでしょ? 持参金に家までついてくるようなお姫さんってね」
天野は興奮しながら話続けている。

「俺はね、どうせ、【おかちめんこ】に決まってらあって高を括ってたんです」

 千鶴は、「まあ」という顔をしながら、小鉢をお盆からお膳に並べていた。

「それが、どうでい!!」と天野は膝を叩いて大声を上げた。
「板屋野小町、って呼ばれるぐらいの器量良しらしいっすよ」

 そう言って、天野は「なっ、」と思い切り津島の背中を小突いた。津島は、自分の話なのに、どこか他人事のように、返事もせずに俯いたままでいる。

「下宿は出ることになるのか?」と斎藤が尋ねたが、津島はじっと考え事をしているように黙ったままだった。

  お膳に食事の用意が全部整ったところで、千鶴が前掛けを取りながら食卓についた。天野はずっと喋り続けている。

「わたしもね、出来れば嫁が欲しいと思っているんです」

  誰も天野に尋ねてもいないのに、天野は語り始めた。

「主任見てるとね。器量よしの奥さんと坊ちゃんと家を構えてって。そりゃあ羨ましい限りです」
「どこかに居ないですかね。奥さんほどの「めんこい」娘は。私もきょろきょろ探してみてるんですけど」そう言って、けへへへと笑っている。

「それでね、私考えたんでご座います」

 天野が、一息ついて千鶴に向かって話始めた。

「私を二号ってことで、どうでしょう。奥さん」

 千鶴がきょとんとして話を聞いている。

「いやね、こう。主任と奥さんが、痴話げんかを始めるんでございます」

 天野は急に声音を変えて話始めた。

「もう、はじめさんったら、なんて解らず屋なんです。この唐変木!!」

「唐変木?唐変木とはなんだ」

 今度は、斎藤の声真似をして応える。

「唐変木ですよ。このわからず屋のコンコンチキ!!」
「コンコンチキ?!なんだそれは」
「コンコンチキだからコンコンチキなんです。この擦れ枯らしの、仏頂面の鉄仮面」
「なんだと!出て行ってやる」ばーんって、主任は出て行っちゃいましてね。

 千鶴はけらけらと笑って聞いている。天野はしなを作って、おいおいと泣いている振りを始めた。
「もう、はじめさんの馬鹿。およよよ」てね、奥さんは泣いてんです。
 そこへね、わたしが診療所に訪ねて来るんです。

「奥さん、お泣きやみになってください。わたしがお傍におります」

「あんなね、わからず屋の唐変木の、すれっからしのコンコンチキの仏頂面の鉄仮面——わんわん鳴いたら犬も同然の主任のことなんて、さっぱり忘れて、わたしが此処に収まりますんで」

 天野の口上を千鶴はくすくす笑いながら聞いている。
「なにが、わんわん鳴いたらだ」と斎藤が天野を睨んでいる。

「出て行ってしまわれたはじめさんは、何処に行かれたんでしょう?」と千鶴は天野に尋ねた。

「どこへですか? そりゃあねえ、わからず屋の唐変木のすれっからしのコンコンチキの仏頂面の鉄仮面——わんわん鳴いたら犬も同然のしみったれた主任なんてね、そこらの居酒屋でしょぼくれて飲んでんでしょうよ」

 天野がそう言った途端、斎藤が「しみったれたは余計だ」と文句を言っていた。千鶴は口元を手で覆いながら大笑いしている。

「わたしはね、奥さん。ずっと奥さんを笑わせて幸せにしてみますよ。坊ちゃんのお世話もします」

 斎藤は憮然とした顔で話しを聞いていた。天野の隣の津島は青い顔をしたままじっとしている。千鶴は、「居酒屋で御酒を召し上がった後、きっとはじめさんは休みに家に戻ってらっしゃいます。天野さんどうされるんでしょう」と心配を始めた。

  天野は、「主任が戻ってきたら、そりゃあ、うっちゃってやりゃあいいんです」と応えた。
 酒が回って気が大きくなっている天野は、また唐変木のすれっからしのと散々続けた挙句、「厩の土間にでも寝かせて干し草でも掛ときゃあようござんす」 わたしがれっきとした【二号】に収まりますんで。ケヘへへと笑っている。千鶴もけらけらと笑っていた。そこに斎藤の拳骨が天野の脳天に落ちた。斎藤は、空になった酒瓶を持って立ち上がると、

「俺の前で妻に言い寄る奴があるか」

 すごい顔で上から睨んだ。そして、「診療所に収まる前に斬る」と一言。薄っすらと微笑んだ表情だが、目は真剣だった。天野は、「そりゃあ、おっかねえ。御免こうむります」と正座して頭を下げている。その隣で、津島が顔面蒼白のままじっと座っていた。

 奥さんに言い寄る

 それは津島が今まで何千回、何万回と想い描いた状況だった。奥さんと坊ちゃんと一緒に暮らす。夢のような生活。この想いをどうすればいいのか。今すぐにでも一緒になりたい、この人と。手をとってずっと離さずにいたい。

 この美しい人を一生。

 思い詰めたような表情で、酒も食事も進まない津島を千鶴は訝った。お皿を下げながら、「食事が口に合わなかったか」と優しく尋ねる千鶴の顔を見ると、それまで蒼白だった顔に少し色が戻ったようだった。

「お嫁さんをお貰いになっても、こうして時々は診療所にいらしてくださいね」 と千鶴に笑いかけられた津島は、嬉しい気持ちと、【嫁を貰ったら】の一言に突き放されたような心持がして、どう答えていいのかわからず、ただ俯いたまま何も返事をしなかった。

  お膳の真ん中に置かれた一輪挿しから、鈴蘭の甘い香りが漂っていた。



*****

好いた人と

 部下が帰った後、夜更けに斎藤たち夫婦は寝床に着いた。

「今夜は楽しかった。天野さんは本当に面白い方ですね」と千鶴が話しかけてきた。

「天野は、巡査を辞めて、辻噺でも始めれば良い」

「はじめさん、私が二号さんを診療所に囲ったらどうします?」と千鶴は尋ねた。

「……斬る」

  奥の間に斎藤の声が響いた。「まあ、」と千鶴は溜息をついたが、斎藤が「当たり前だ」と呟いた。

「それじゃあ土方さんはどうなるんでしょう。旦那様に殺されてしまうのでしょうか」

  千鶴は突然土方の心配を始めた。

「旦那はもう亡くなっている」

  暗がりに斎藤の声がぼそっと聞こえた。

「昼間に相馬に会って、昼飯を一緒に食った。土方さんとお多佳さんの話をした。今年になってから、土方さんは向島に暮らし始めたらしい」
「お多佳さんの旦那は、五年前に病気で他界した。料亭を遺して」

 ずっと斎藤の話を息を呑んで聞いていた千鶴は、尋ねた。

「じゃあ、お二人が出会われた時には、お多佳さんは後家さんだったってことですか」
「ああ、たぶんな」
そう斎藤が答えた。

「だから、あの家で旦那と鉢合わせになる心配はもういらぬ」
そう言って、斎藤は微笑んで枕に頭を載せ直すと目をつぶった。

「じゃあ、なんで、土方さんはお多佳さんは旦那持ちだって仰ってたんでしょう」
千鶴が尋ねた。

「相馬が言っておった。永く女将は旦那が亡くなった事を表には隠して料亭を切り盛りしていたそうだ。事情を知っている者の中には、援助をたてに女将に言い寄る者も沢山いたらしい」

「だが女将は旦那に操をたてた。誰の援助も受けず、誰も傍には寄せ付けずにいたらしい」
千鶴は、「それでは土方さんも……」そう呟いている。

「それでは、互いに好き合っていたのに、お二人は……」

 千鶴はじっと考えているようだった。

「土方さんは、なにも言っていないが、やっと一緒になれたのであろう」

 暗がりに斎藤の声が聞こえた。ほんとうに。やっと。千鶴もそう思った。そして、数日前に向島で会った土方とお多佳の姿をまた思い出した。優しく丹前を着せかけ、額にかかった髪の毛を梳かすお多佳の手先に完全に身を委ねていた土方は幸せそうだった。

 よかった。土方さん。
 お多佳さんも……。

 千鶴は起き上がって、灯りをともした。引き出しから帳面を取り出すと「先にお休みになってください」と言って灯りを持って居間に移って行った。
斎藤は、厠に立つついでに千鶴のそばに行った。千鶴は、【春告鳥】の帳面に何か一生懸命書き込みをしていた。

「何をしている?」

 斎藤が上から覗き込むと、千鶴は「好き合っているお二人のこと、書き留めてるんです」と答えた。

「書いてどうするのだ」
「ただ書いておくんです」
「泣き本を書いておるのか?」
 斎藤はずっと立ったまま訊いてくる。

「泣き本じゃ、ございません」と千鶴はつんとした声で答えた。
「本当にあった事です」

 そういいながら、書き続ける千鶴を斎藤はそっとしておいた。それから寝床で再び横になった。居間の灯りが気になる、斎藤は眠いのに眠ることもできずにいた。暫くすると千鶴は灯りを消して布団に戻って来た。

 斎藤の腕の中で、千鶴は微笑んでいた。

「私は最後まではじめさんのお傍にいたい」

  囁くような声が聞こえた。斎藤は千鶴を抱きしめた。

「はじめさん、そういえば。津島さん、お元気がなかったですね」
 千鶴が顔を上げてそう言うと。

「ああ、故郷の父親のことが気になっているのやもしれぬ」と斎藤は答えた。

「津軽と東京は遠いですもの。お気の毒です」

 巡察に人手が足りないが、必要なら暫く郷に戻っていられるように明日話をしてみるつもりだと斎藤は話した。

「津島も東京で所帯を持てば、親御さんは安心するのやもな」

  そうですね、と千鶴は言うと。再び、斎藤の胸に頬を寄せた。

「いきさつがどうであれ、好き合っている者同志が一緒になれるのが一番です」

 斎藤は、息をついて返事をしたようだった。髪を優しく撫でられながら、千鶴は目を瞑った。

「好いた人のお傍にいられるのが、一番の幸せです」

 斎藤も、腕の中でそう囁く千鶴の声を耳にしながら目を瞑った。

 床の間から鈴蘭の甘い香りが漂い続けていた。



つづく

→次話 明暁に向かいて その26






(2018.11.17)

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