赤い懐鏡(前編)
明暁に向かいて その27
明治九年 神無月
中庭での朝の稽古の途中、はたりという音が背後で聞こえた。
木刀を右手で持って降ろした斎藤は、背後を振り返った。庭の御影石の上に一匹の蜻蛉がじっとしていた。羽を真横に広げたまま石の上に休むようにじっとしている。季節外れの大きな蜻蛉。その銀色の身体はまだ緩い朝日を浴びて鈍い光を放っていた。斎藤は飛び立つ様子のない昆虫が首を傾げるような仕草で斎藤を見上げたような気がした。
斎藤が一歩近づいた瞬間、蜻蛉の首はゆっくりと傾き、頭がゴロリと捥げるように落ちた。あっという間の出来事だった。蜻蛉の頭はそのまま、音もなく石の上に転がっていた。
斎藤は自ら首を落とした虫を不思議に思いながら、その身体と頭を左の掌に載せると、庭の奥の供養塚に埋めた。土を被せながらふと、総司の事を思った。斎藤は立ち上がると足早に庭を横切って居間に向かった。総司は敷物の上で丸くなって眠っていた。
斎藤は道着のまま、じっとしゃがんで総司を眺めた。器用に自分のしっぽを身体に被せるようにして眠っている。斎藤はその背中を優しく撫でた。温かい身体。どこもおかしくはないな。斎藤は安心して着替えに奥の間に入っていった。
朝食を済ませた後、斎藤は神夷に跨り千鶴に見送られて家を出た。今日は雨が降らないから夕方まで馬で巡察が叶う。最近は雨が多くて、神夷を診療所に置いたままの場合が多い。泊まりの張り込みが続いているので、診療所に連れて帰らずに日本橋逓信部の馬場に預けることもあった。斎藤の部下が借り受けている雲雀は、天野か津島が交代で診療所に連れて帰っていた。
朝のうちに虎ノ門署で朝礼に出た後、そのまま巡察に出た。今日は部下の津島と騎馬で築地を廻る。虎ノ門から釆女うねめが原の馬場に出ると、そこに馬を置いて二人で付近を見廻った。築地川の河岸は夏は水泳場もあり小屋掛けができて賑わっている。葭簀(よしず)張りの小屋、講釈師、浄瑠璃、水茶屋(みずぢゃや)、楊弓場(ようきゅうば)が軒を並べている。
連日の長雨で水嵩があがった河岸には、柳の並木から伸びた枝が、水面を撫でるように伸びていた。斎藤たちは河岸の淵をずっと東に向かって見廻った。先にある新富町まで一本道。この界隈は芝居小屋の新富座を中心に、茶屋が軒を連ねていて賑やかだ。
新富座の芝居茶屋「川島屋」は、七月に入った頃から監視の対象になっていた。今年に入ってから、ずっと反政府運動家の検挙が続いている。「評論新聞」の編集者たちは、数か月の禁獄を経て出所後は、居を転々としながら夜間はこの「川島屋」に集っていた。編集者の中には、旧会津藩出身の者も居た。斎藤がそれを知ったのは、今年の春。川路大警視から鍛冶橋に呼び出され、元青森県権大属の【永岡久茂】が検挙されたと知らされた。
斎藤が斗南藩に居た頃、永岡は小参事として主に開墾事業に携わっていた。大番掛として藩邸廻りの警備についていた斎藤は、北区や越後に赴いていた永岡とは殆ど接点がなかった。永岡の経歴によると、小参事から青森県権大属となった年には、斎藤は既に五戸に赴任していた。調書を更に読み進めると、永岡が明治六年に斗南を離れて上京していたことが判った。
***
新富町での監視
薄っすらとした記憶。確か、以前山川さんが話をしていたのを覚えている。
敬次郎さんが湯島で寺子屋を開いている
書生を置いて手習いを教えて
永岡の事を敬次郎さんと山川さんは呼んでいた。たしか、佐川さんも……。
東京に暮らす会津藩士は陸軍中佐の山川浩を通して集う事が多い。山川の自宅で、時々酒を一緒に酌み交わす一等警部補の佐川官兵衛も当時永岡と交流があるような事を話していた。斎藤は、湯島なら小石川から目と鼻の先だと当時思ったのを思い出した。だが、実際に会う機会はないままだった。調書に書かれている永岡は、上京直後に反政府運動に身を投じ、「集思社」を立ち上げたと書かれていた。その時、川路からの指示で、斎藤は銀座尾張町の建屋にある「集思社」を監視することになった。
永岡は銀座尾張町に時折姿を現した。特に怪しい様子は見せていない。永岡は、自分と道で出会っても、知り合いだとは認識しないだろうと斎藤は思った。だが、巡査の制服を来た者を警戒することは確かだった。両国広小路と合同で監視をする長屋では、皆で制服を着流しなどに着替えて長時間の監視を続けた。永岡を含め、出入りをしている士族は、まったく警戒した様子は見せず、新聞論考を執筆していた。
斎藤は津島と新富座近くの「川島屋」前を素通りする振りをして、反対側の【出方でかた】の二階家の一室にまわった。両国広小路がここを間借りしていた。普段、斎藤と特任の巡査が夕方に道の反対側から上がり、密かに監視を続けている。道の向かいの芝居茶屋「川島屋」は、【小茶屋】で、主人の高橋三郎は、瓦解前は会津藩上屋敷に仕出しを献上していた。その縁があったのだろう、旧会津藩士の永岡が二階の座敷を借り受けて、毎晩のように集っていた。斎藤は、津島と見張り窓から向かいの川島屋の様子を伺った。座敷に人がいる様子はなかった。今日は、尾張町の「集思社」に人が集まっているのやもしれぬ。斎藤は、暫く二階の窓から通りの様子を伺ってから、津島と一緒に建屋の外に出て、再び釆女が原の馬場まで戻った。斎藤は永岡と行動を共にしている他の士族の動きを中心に追っていた。
永岡や会津者と接触はせんでよか。
これが川路の指示だった。永岡の息のかかる会津藩士の情報は既に陸軍中佐の山川浩より警視庁は得ていた。川路は斎藤に敢えて会津藩士との接触はさせず、外から「川島屋」の見張りをさせた。斎藤は出入りの士族を一人ずつ洗い出している。地道な作業。連日の尾行と張り込み。川島屋と尾張町にたむろする者は、判っている者だけで八名いた。出身地はまちまちで、住まいも神田から赤坂とばらばら。一見すると、この者たちの接点はないように見えた。だが夜な夜な新富町に現れる面々は、芝居見物や街遊びに興じる人々とは異なっていた。歩き方、纏う空気。何かを画する者たち……。この確信は、斎藤の長年培った勘で感じるものだった。
表向きは虎ノ門署の指示で動いている斎藤の部下、天野と津島は、陸運会社以外にも質屋、宿屋、伝馬口利きまで聞き込み捜査をしていた。二人の岡っ引き捜査は、北は本所、南は品川と広範囲だった。そして、連日新富町に泊まりで張り込みをしている斎藤の元へ、千鶴から着替えを届けるついでに、新しい聞き込みで得た情報を告げに現れた。
「親方、【五代金道】を質入れした奴。やはり【評論新聞】を出してた一味です」
天野が座敷へ転がるように上がってくるなり捲し立てた。
満木清繁
鹿児島県の士族
住まいは神田佐久間町の淡路屋、煮売り居酒屋です。
黙って聞いていた斎藤は、静かに「ヤス、よくやった」と微笑んだ。天野は胡坐を組みながら破顔した。
「淡路屋の主人が、気のいい親父でしてね。蜂須賀はちすかの殿さんにあやかって暖簾に卍。あすこは里芋の煮物が美味い」
既に居酒屋で一杯やったような事を話して、天野は持ってきた斎藤の着替えの入った風呂敷包みを差し出すと、機嫌よく座敷を出て行った。風呂敷を開くと、着替えに書き付けがついていた。
連日お疲れ様です。
長袖の肌着をいれてあります。
胴着はシャツの上に着てください。
夜間は冷えます。
書き付けと一緒に小さな袋に入った黒砂糖の飴。斎藤は、微笑みながら飴玉を口に放り込んだ。もう暫く診療所には帰っていない。朝に数時間、青山練兵所で稽古をする以外は、昼間は巡察、夜は張り込みだった。合間の仮眠。両国広小路の巡査と交代で、近くの銭湯に行く事もあるが、斎藤は診療所の風呂に浸かり、ゆっくりと千鶴の作る食事を食べたいといつも思っていた。
この翌日の朝だった。いったん虎ノ門署に戻った斎藤に警部補の田丸が新聞を見せた。
「熊本で変が起きた」
一昨廿四日の夜、熊本鎮台に大変ありし由の電報あり。風説にハ、兵営ハみな焼払ひたりと聞けり
記事には短く書かれているだけで詳細がわからぬ。田丸はもう一つの「朝野新聞」を広げて読みあげた。
サアサア大変な騒動がはじまりました。ト申すものの、嘘か誠かハ保証仕らぬが、一作に廿四日の夜十二時五十五分、暴発の賊徒が大勢熊本鎮台へ押寄せ、屯営へ火を掛け烈しく発砲し、鎮台兵一時防ぎかねて散乱したる由。
「たまげた。熊本の鎮台が焼き討ちとある。ずねえことだ」
田丸は呟いている。「戦になるがもしれね」と言うと、斎藤に急いで鍛冶橋に行くようにと指示をした。
****
野分
急に冷たい雨が降り出した。
斎藤が、降り始めの雨に濡れながら夕方に帰って来た。神夷の身体を拭って、更にもう一度乾いた毛布で体中をさすって刷毛をかけた。神夷は気持ちよさそうに千鶴に頬ずりした。その間、斎藤は沸かしたての風呂に浸かってから、奥の間の布団で横になった。数時間後、目覚めた斎藤は厠に起きた。千鶴が用意していた夕餉の膳を前にしたが、数口箸をつけただけで「横になる」と一言呟くと再び布団に入った。千鶴は、斎藤が余程疲れているのだろうと心配になった。
翌朝、千鶴が朝食を並べて斎藤を呼んだが中庭にはいなかった。姿が見えないので診療所の離れまで探しにいった。斎藤は井戸端で何度も水で顔を洗っていた。前髪も寝間着もびしょびしょになったまま、歩いてくる足元が覚束ない。顔を上げた斎藤は、右目の瞼が腫れあがっていた。
「はじめさん、見せてください」
千鶴が庭先に出て、斎藤の腕を引いて縁側に上がると、斎藤を横にならせた。
「ものもらいです。瞼の上に腫れものがあって、眼球も赤い」
「痛みますか?」
千鶴は、そっと濡らした手拭いで右目を冷やした。斎藤は「ああ」と返事をしながら起き上がった。
「目に塵か何かが入ったと思った」
そう言って立ち上がると、ふらふらと奥の間に歩いていった。千鶴は診療所から「目あらい」と晒しを持ってきた。
斎藤は、着替えを済ませていた。千鶴は驚いた。こんな腫物が出来たまま、出勤されるのだろうか。
「はじめさん、【お目あらい】をつけさせてください。ここに横になって」
千鶴は、斎藤の腕を引いて膝の上に横にならせた。左の眼は特に変わった様子はない。薬をつけると、斎藤は楽になったと呟いた。千鶴は、眼帯を取り出して小さく切った晒しを右目の瞼にあてて動かないように帯紐を結んだ。
「はじめさん、不自由ですが。こうしておいてください」
斎藤は起き上がると、ゆっくり自分の背後、左右を首を動かしながら確認した。腕を腰にかけて刀を抜く格好をしている。千鶴は、斎藤の重心が前後に大きく揺れたのを見て、片目で立っているのも覚束ないのではと不安になった。思わず駆け寄って背中を支えると、斎藤は千鶴の手をとって、「大事はない」と微笑んだ。
今日は雨が降る。神夷は置いていく。
暫く、馬には乗れん。山形さんに知らせて、逓信部の馬場に引き取ってもらった方がよい。
ぼそぼそと話す斎藤は、最近雨漏りがする診療所の厩に馬を置かないほうがいいと千鶴に話した。千鶴は、「はい、暫く引き取ってもらいます」と返事をした。
「必ず今日は家に戻ってください、【精錡水】を貰ってきます。すぐに良くなりますから」
千鶴はそういいながら、思い出したように【お目洗い】を小さな巾着袋にしまったものを斎藤に渡した。
「お昼の休憩の時にでも、痛みを感じたら、これを右目に浸けて。手ぬぐいで押さえれば、薬は流れません」
千鶴はそう言うと、急に気づいたように今の物入から引き出しを出して何かを取り出した。
「これ、懐鏡です。これで眼帯がずれないよう確かめて。はじめさんは前髪が、どうしても前に下りてきてしまうので、髪がかからないように」
そう言いながら、赤い漆塗の鏡をハンカチに包んだものを斎藤の胸ポケットにしまった。そして、心配そうに斎藤の前髪を掻き上げて、頬に手の平を当てたまま斎藤の眼を覗き込んだ。
「心配には及ばぬ」
斎藤は微笑みながら呟いた。いつもよりゆっくり動きながら、玄関で靴を履くと千鶴から刀を受け取って腰にさした。
「行って参る」
玄関を出た時に斎藤の背中越しに聞こえた挨拶と、ゆっくりと歩く足取りを千鶴はずっと道の向こうに姿が見えなくなるまで見送った。
空には暗い雲が立ちこみ始めていた。
****
野分
千鶴は、居間に戻ると起き出した子供の着替えを済ませて。朝餉を食べさせた。子どもは洋服の上に遊び着を着せられたまま、バタバタと片付けをする千鶴の傍で、きょろきょろと猫の総司を探していた。
「かーたん、そうじ、どこ?」
両手を口にあてて遠くに呼びかけるように、「そーじ、どこー?」と探し回っている。千鶴は、筒袖に着替えると厩に行って、神夷にブラシ掛けをした。そして、壁にかけてある自分の鞍を降ろすと、神夷の背中に載せて準備を始めた。
「神夷、お願いがあるの。私と坊やを日本橋まで連れて行って。山形さんのところへ」
そう話しかけると、神夷は「わかった」というようにゆっくりと瞬きをした。空模様が気になったが、急いで日本橋にでれば雨が降り出す前に、神夷を逓信部へ返すことが出来ると思った。そして、薬問屋で【精錡水】を買い求めよう。千鶴はそう決めていた。鐙の調整をして、居間に戻った。子供は「そうじがいない」と半べそをかいていた。
「沖田さんは、きっとお出かけです。今日は嵐になりそうだから、すぐにお戻りになりますよ」
千鶴は子供の遊び着を脱がせて上着を着せると、おんぶ用の襷と鞄を持って玄関に出た。子供にも靴を履かせて、急いで厩から神夷を出した。子供を上り台に立たせたまま千鶴は先に馬に跨って、手を伸ばして子供を引っ張り上げた。豊誠は器用に千鶴の前に跨るように乗っかると。さっそく鞍の前に捕まって身体を揺らして悦びだした。
「かーたん、かむいどこ行くの?」
「日本橋です。山形さんのところへ、さあ、母さんのお腹にくっついて」
千鶴は持ってきた襷で子どもの胴を自分から離れないようにくぐり付けた。
「走りますよ。しっかり鞍の前に掴まって」
千鶴は、内股で思い切り神夷の腹を蹴った。馬はすぐに歩き始め、大きな通りに出た途端、速足を始めた。空の雲は暗い色で低く立ち込め、今にも降り出しそうな様子だった。千鶴は手綱を持ってひたすらに馬を走らせた。豊誠は風に乗るのが楽しいらしく、両手を広げて流れる風に身体をまかせていた。
疾走する神夷は、途中で踵を返すように道を変える。千鶴は斎藤から、神夷は帝都中の通りを覚えているかのように進むことを聞いていた。
まるで神がかりでな。
そう言って斎藤が感心して話していた。狭い路地裏、馬首が軒先より高い場所でも恐れることなく前に進む。器用に足元の石畳や横切る鶏も除けて歩く。あのように器用な馬は俺はみたことがない。そして、いつも最短で目的地にたどり着く。
何か廻りの景色や空、風と語り合っているかのように嘶く。
不思議なやつだ。
千鶴は神夷が進むままにさせていた。いったん行く方向を違えているように感じても、神夷は通りをするすると人の居ない場所にでては、駆け足を繰り返している。その時、前の子供が「あっ」と声をあげた。
そーじ
そーじいた
子供が指さす先は、昌平橋の向こうだった。胡桃色の毛をした大きな猫が前を歩いている。振り返った時に、いつもの翡翠色の眼が光った。神夷が嘶いて、総司の後を追いかけた。総司は、どんどん前を走って行った。
こんなに遠い場所まで、沖田さん。
千鶴は驚いた。毎朝、出掛けてくると言って診療所の中庭をでると、夜まで戻ってこない日があるが、近所の仲良し猫の家で過ごしているのだろうと思っていた。だが、千鶴が考える以上に猫の総司の活動範囲は広かった。まるで、神夷を先導するかのように前を走る総司は、風の中を飛んでいるようだった。ふさふさの尻尾を上下させて。
本気で走ると、幹部の誰よりも足が速かった沖田さん。
千鶴は思い出した。一瞬で屯所の入り口から駆け出していく生前の総司の後ろ姿を。
逓信部の馬場に着いた時、総司の姿は見えなくなっていた。雨が降り出す前にたどり着けて良かった。建屋から現れた山形は、筒袖姿の千鶴が子供と乗馬している姿に驚いていた。
「これは、奥様。どうかされたんですか」
慌てて馬から下りて、神夷を厩に引いていく千鶴に山形は尋ねながら、手綱を千鶴から預かると、助手に馬を引いていくように指示をして千鶴と子供を事務所の建屋に招いた。
「すみません。主人が暫く大雨が続くので、いったん神夷をこちらへと」
山形は、それはどうも有難うございます、と言って頭を下げた。千鶴は、雨が降り出す前に辿りつけて良かったと言って笑っている。そして、これから急いで、日本橋にでなければと言って、子供をおんぶする準備を始めた。
「これから、お出かけでございますか?」
山形は目を丸くしている。もう、外は雨が降り出していた。千鶴は、はい、と返事をしながら合羽を羽織って支度をした。
「これから大雨になります。この風の様子だと嵐になる」
山形が心配そうに建屋の窓から外を眺めた。
「主人が目を悪くして、薬が必要なんです。それさえ買えば、乗り合いに乗って診療所まで朝のうちに戻れるかと」
千鶴は山形に事情を話した。
「藤田さんが、具合が悪い?そりゃ、大変だ」
そう言って、山形は腰を上げると壁に掛けてある鍵を手にとった。
「奥さん、薬問屋まで、早馬車を出しましょう」
山形はそう言うと、洋服掛けから雨合羽をひっかけて、千鶴を厩の方へ案内した。そしてそこで立って待っててくださいと言った山形は、もう一つの建屋に傍の馬を一等連れて行くと、小さな幌付きの馬車に繋いだ。
小柄な黒毛の駿馬だった。目隠しをされてじっとしている。
「こいつは、【北風】っていいましてね。逓信部一の早馬なんです」
そう言って山形は、馬の首を撫でた。「小石川の奥様と坊ちゃまだ。日本橋と小石川をひとっ走りするぞ」と山形は優しく話しかけた。
千鶴は山形に促されて、馬車に乗り込んだ。子供を雨合羽で包んで膝に乗せると、山形はすぐに手綱を叩いて馬車を走らせ始めた。薬問屋まではあっという間についた。店は空いていて、すぐに「精綺水」を買う事が出来た。千鶴は念のために、発熱に聞く薬草も買い求めた。
再び馬車に乗った時、雨は本降りになっていた。ゴーゴーと風が音を立てて吹き始めていた。山形は、ひたすら馬車を走らせた。幌の隙間から外の様子が見える。風で周辺の草木が大きく揺れていた。
(この雨の中、はじめさんは巡察に出られてるのかしら)
千鶴は、体調が悪そうだった斎藤が心配だった。きっと疲労が祟って。目にものもらいが。夜中の監視で、睡眠もまともに取れていないのだろう。ここのところ、朝晩の気温も低い。手に持った薬を握りしめて、千鶴は早く斎藤が無事に家に戻ってくることを願った。
山形の早馬車のおかげで、無事に診療所に戻ることが出来た。山形は、千鶴たちが礼を言いながら馬車を降りるのを手伝うと、
「奥さん、熊本で変が起きたのはご存知で?」
と急に尋ねた。千鶴は、急いで子供を降ろしていたが、一瞬動きが止まった。
「いいえ、熊本で何か」
千鶴を軒先まで誘導するように山形は走ると、今朝の新聞で、熊本で不平士族が鎮台を焼き討ちにした。どんどん乱が広がるかもしれないと書いてあったと説明した。千鶴は言葉を失った。無理に斎藤が出勤したのも、それがあるから。
反乱が起きるやもしれぬ
斎藤がずっと前に話をしていたのを思い出した。はじめさん。千鶴は、嫌な予感と不安で足がすくんでしまった。じっと動かない千鶴に、山形が覗き込むように声を掛けた。
「奥さん、ひとまず家にお入りください。大丈夫です。何かあれば、我々逓信部が帝都中に報せをだします」
山形は、「藤田主任に、お大事にとお伝えください」と叫びながら、再び馬車に乗ると、手綱を引いて道を引き返して走っていった。千鶴は、家の中に入っていった。合羽を着せていた子供は雨に当たらずに無事に帰ることが出来た。千鶴は居間に戻って、子供を遊び着に着替えさせた。そして、これから大嵐がくるからと、家中の雨戸をしっかり閉めて備えた。
沖田さん、無事に雨の中を戻って来られるかしら
千鶴は総司がいつも眠っている鹿の毛皮の敷物を心配しながら見つめた。
***
点と線
野分はあっという間に帝都を過ぎた。
昼間なのに真っ暗だったのが嘘のように、陽が落ちた後は晴れ間の中に星空が見えていた。新富町の出方の二階の一室で、斎藤はじっと嵐が過ぎるのを待っていた。道の向かいの「川島屋」には人っ子ひとり出入りする様子はなかった。畳に時折横になりながら、ものもらいを手拭いで冷やした。身体が重いのが気になるが、少しでもこうして横になれば楽になる気がした。
野分が過ぎ空に晴れ間が見え始めると、鍛冶橋から指示が届いた。
「尾張町は手を打った。反乱を未然に防ぐ。捜査網を張る。通りを五名以上で歩く者は士族平民問わず、残らず検挙。担当は、上野神田一地区。捜査が終わったら第五署で待機して指示を待て」
両国広小路の三等巡査、樫村太郎と斎藤は新富町を後にした。樫村は、警視庁剣術大会の常連で、二十代の部でいつも斎藤の部下の津島と良い勝負をする。鹿児島出身の士族で恐ろしく無口な男だった。剣術大会優勝者の斎藤の事を「先生」と呼んでいるが、二人きりで張り込みをしていても、二日間で言葉を交わすのは、挨拶を含めて一言二言だった。天野は、この樫村とは、巡査研修でひと月寝食を共にしたらしく、【辛気大王】とあだ名をつけていた。余りに口から声を発することがなく、辛気臭い空気で部屋が満たされるからだ。天野によると、陰気臭さでは斎藤もいい勝負だという。
主任は【辛気覇王】
津島が【辛気小君】
わたしの周りは、なんでこう陰気臭いのばかりなんでしょう、けへへへと笑っていた。
(冗談ではない。俺は、ちゃんと喋っておるではないか)
斎藤は、黙々と歩く樫村と並んで、京橋を渡っていた。辺りは暗い、眼帯をつけているせいか視界が悪かった。斎藤はカンテラを掲げて歩いた。樫村は斎藤の左側を歩いている。右手は空き手。肘を曲げて身体の前に固定させるように歩くのは、いつでも刀を抜けるようにするためだった。示現流の樫村は初動が速い。何度も樫村の手筋を見て、初太刀を振るう速さは津島よりも早いと思っていた。今も斎藤の左側を取って辺りを警戒している。
「どうされもしたか」
不意に樫村が斎藤に尋ねた。ここ二日の間で、初めて樫村が発した声だった。斎藤は、左側の先を行く樫村を見た。
「藤田先生、ご気分でも悪かとですか」
樫村の訝る表情が薄っすらと見えた。耳鳴りがして辺りの音も樫村の声も聞こえない。斎藤は前を向いて歩き続けた。
「案ずるな。なにもない」
斎藤はそう一言。その時、暗い道の先に何かが遮ったのが見えた。見えたような気がした。斎藤は、その方向に足を進めた。暗がりの中を動く何か。一瞬、何かが光った。通りの路地から自分を見つめる眼。緑の光が二つ。
総司、総司か。
斎藤は近づきながら思った。一瞬路地裏に総司の尻尾が消えたのが見えた気がした。斎藤は、足早に追いかけて行った。一緒に樫村も駆け出した。路地の先で、止まった総司が振り返っていた、いつもの翡翠色の光、斎藤が走ってくるのを確かめるとまた踵を返して走り始める。中庭での総司だ。口角を上げて、皮肉な表情で笑っている。
どこだ、どこに行く。
斎藤は重い身体のまま走り続けた。空気は冷たいのに、なぜか重苦しく身体にまとわりつくようだった。総司は江戸川を渡って、神田佐久間町へ出た。尻尾を追いかけたところで、見えなくなり、目の前に【卍】の暖簾が掛かった店に出た。
淡路屋は蜂須賀のお殿さんにちなんで【卍】の暖簾でね。
天野の言葉を思い出す。
ここは、評論新聞士族の下宿か……。斎藤は、暖簾の向こうの戸を開けて中へ入った。
「はい、いらっしゃい」
主人の威勢のいい声がかかった。斎藤は、外に樫村を待機させたまま、煮売り屋に下宿している【満木清繁】は部屋にいるかと訊ねた。主人の傍に立っていた女将らしき女が、「満木様は、昨日ここをお引き払いになりました」と答えた。
「なんでも、お商売で東京を離れることになったって」
斎藤が行先を訪ねたが、女将も主人も「さあ」と首を傾げていた。満木さまに何かあったんですかい?と主人に訊かれたが、斎藤は何もないと答えた。
「満木は何かこちらへ残したものは?」
そう斎藤が尋ねると、主人は「何も。永く下宿代も溜めてらっしゃったのが、八両耳を揃えて綺麗に置いていかれましたよ」と機嫌よく答えた。斎藤は、主人に礼を言って店を出た。暗がりの向こう、下宿を引き払った満木は何処へ。そう斎藤が考えた時に、再び、総司の光る眼が通りの先に見えた。
総司は、ずっと走り続ける。
通りを抜けるとそこは見覚えのある場所だった。向柳原。質屋丸福の前だった。総司の姿は消えた。丸福の暖簾の向こうに薄っすらと灯りが灯っていた。斎藤は、誰かが店の中にいると思った。
一瞬で点と線がつながる。
金道を質入れ
満木清繁
評論新聞
下宿先は三河町の淡路屋
斎藤は天野と津島の岡っ引き報告を思い出した。
「奴は鹿児島県士族」
ここで、張れば満木が現れるか。
そう思った瞬間、店の引き戸がガラガラと開いて、中から男が出て来た。斎藤は、道の反対の路地に樫村と隠れて様子を伺った。刀袋を持った男は、袴履きで髪はザンバラ。新富町で見かける怪しい士族だった。質入れしていた刀を受け出したか。
男は通りをゆっくりと南に向かって歩き出した。斎藤は、樫村に尾行するように伝えると、足早に福屋の中へ入っていった。以前尋ねたことのある質屋の亭主は、斎藤の姿を認めると、挨拶をして番台の影から出て来た。斎藤は、今さっきここを出て行った客は、何を受け出したかと訊ねた。主人の福田藤兵衛は、入質代帳を広げると。
「打刀。伊勢守金道。金二十両」
「満木清繁さま、受出し」
そう行灯の傍で読み上げた。斎藤は主人に礼を言うと、満木を尾行する樫村を追いかけた。樫村は警戒しながら満木の二軒後を追っていた。斎藤は右側の路地に樫村を呼び出した。裏道を平行に追うぞ。そう指示した斎藤は樫村と駆け出した。再び、路地の向こうで胡桃色の影が見えた。総司か。今度は何処へ行く。斎藤は、暗がりを駆け続けた。息が切れる。左目の視界は暗いが、総司の尻尾は明確に見えていた。
****
再び 五代金道
大通りと並行に歩きながら、満木を追う斎藤と樫村。大通りでは満木の背後を音もなく総司がずっとつけていた。光る眼と尻尾で路地の斎藤に合図を送っている。
「このまま、あたらし橋のたもとへ」
総司の声が聞こえた気がした。斎藤は橋の北詰が見えるところで樫村を止めた。数名の男と満木が落ちあっている様子が見えた。何処へ向かう気だ。満木達が橋を渡らずに西へ河岸を歩いていく。斎藤たちは、建屋の影に隠れながら後をつけた。二軒ほど先の角を、男たちは右に曲がった。総司の尻尾が翻ってそこで消えた。斎藤は、足早に近づいた。
殺気
カンテラを持っている右手に衝撃を受けた。暗闇から斬り付けてくる影が見えた。斎藤は、カンテラを相手に投げるようにしてにじり下がると同時に抜刀した。
「やってしまえ」
そんな叫び声が聞こえた。樫村が先に初太刀を切った。斎藤の左側に立った樫村は、低い位置から左手に斬りかかり、そのまま右に左にと打ちながら相手を圧倒している。暗闇の中だが、相手は四名と判った。手前の二人が刀を抜いている。背後の男が刀袋を宙に投げたのが見えた。暗い路地で、己の抜いた国重の青黒い光だけが見えていた。耳鳴りがする。口の中が焼けるように熱い。喉が渇ききっている。右目の痛みは既に全身に疼くように広がっていた。
見えぬ
自分の息が上がっている事に気づいた。気配を気取られる。だが、呼吸が苦しいのは確かだ。
——いつもの行くよ
総司の声が聞こえた。胸に広がる総司の声。いつもの。
そうか、あれか。
そう思ったと同時に重かった足が前に出た、何度も、今まで何百回とな。斎藤は、丹田に力を込めて相手に斬りかかっていった。下からの反対袈裟懸け、宙を切り取るような剣先の動きに相手はたじろいでどんどんとにじり下がった。左後ろでは、ずばっという鈍い音がして樫村が一人斬り倒した。斎藤は、八双の構えで降り降ろしてきた相手の太刀を躱すと、刀を返して峰撃ちで胴を取った。前に折れ曲がるように倒れた男の首の後ろを刀の柄先で打ち突けて制圧した。
黒い袴履きで陰の構えで引いた背後の男は、斎藤の左側に立つ樫村と睨みあっていた。樫村は再び上段から斬りかかって行った。満木は樫村と刀を交えていた。暗闇に輝く剣。切っ先が深い。五代金道。斎藤は再び出会った。樫村に助太刀するために、右側からにじり寄っていった。その時だった、満木の背後から男が前にでて斎藤に銃口を向けた。
ガチリ
機械の音と同時に発砲音が当たりに響いた。
斎藤は胸に強い衝撃を受けた。きな臭い匂い。何かが焦げたような。斎藤はそのまま重心を失って仰向けに倒れ、背中に衝撃を受けた。もう何も見えない……。
「藤田先生」
樫村の叫ぶ声が響いた。その時、遠くで警笛が聞こえた。地響きがして人が走ってくる気配を感じた。自分がどこにいるのかも判らない。胸の痛みと全身が動かない。息が、呼吸が止まっているのか。だんだんと意識が遠のいた。
「無事か」
自分の身体を持ち上げた誰かの声が聞こえた。足に力が入らん。誰かが自分の腰から刀を抜いている。斎藤は肩に力を入れた。左目を開けても何も見えない。これは地面か。水たまりなのか。黒い水たまりに月明かりが反射しているのが見えた。赤いものがゆっくりと滲んでいる。
血か
俺の血か、撃たれたのか
そんなことを考えた。
「樫村、事後処理を頼む、おい、伊佐、伊佐」
斎藤の身体を抱える誰かの声が聞こえた。
(いさ、いさ……。なにのことだ)
朦朧とした意識の中で、周りの音と振動だけを感じる。総司。総司は無事なのか。斎藤は、なんとか頭を持ち上げた。重い。目を開けているのに何も目に映らない。
もはや、これまでか……。
何も確かに出来ぬ。総司。そう思った時に隣から男の声が聞こえた。
「伊佐、いつもん場所へ」
へい、っと威勢のいい声が聞こえて次に体中が振動に包まれた。
「藤田巡査、意識はおありか?」
隣の男が自分を支えるように抱えて顔を覗き込んでいる。斎藤は自分が人力に載せられて走っている事を認識した。尋ねる男に向かって頷くのがやっとだった。どこかの建屋の軒下にたどり着くと、斎藤は今度は馬車の荷台に横になるように運ばれていった。
「こんからは、馬車でお連れいたす」
斎藤は、全身が重くて身体を起こすことも首を男の方に向けることも出来ない。再び、男が「伊佐、伊佐」と呼びかけている声が聞こえた。人力の「伊佐治」か。斎藤はぼんやりと思い出した。ひ組の伊佐治。いつも斎藤が、足がないときに頼んでいる速足の人力夫。
へい、旦那。
かしこまった伊佐治の声が聞こえた。
「川路先生に、淡路屋の満木と斬り合い藤田巡査は負傷、具合が悪いのでこのまま小石川診療所へお連れ致すと伝えてくれ。樫村は現場におっと伝えてくれ」
伊佐治の「へい、わかりやした」という声が聞こえた。「黒江の旦那は?」と聞き返す伊佐治の声が聞こえた。くろえ……。斎藤は意識が朦朧としてきた。なんとか荷台の縁に手をかけて身体を起こした。黒江は、伊佐治に「おいも、藤田巡査の無事を確認したら戻る」と返事をしていた。
荷台の縁の下には大きな水たまりがあった、黒い水に馬車のカンテラの灯りが揺ら揺らとゆれている。斎藤は、首をもたげて総司を探したが、総司の姿は見えなかった。溜息と一緒に態勢が崩れた。黒江と呼ばれている男が荷台に乗り込んできた、自分の上着を脱いで斎藤に掛けると、馬車が進み始めた。斎藤は、最後に再び地面の水たまりを見た。千鶴。そのまま目を開けたまま目の前が真暗になり自失した。
つづく
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(2018.11.20)