約束

約束

明暁に向かいて その29

明治九年師走


 療養から復帰して間もなく、斎藤は鍛冶橋から虎ノ門署を通して昇任の内示を受けた。

 一等巡査主任 藤田五郎 
 明治十年一月 任警部補

 部下の指導を行っていた主任としての仕事は今までとは変わらないが、職務権限は警部試補(主任)の上に立つことで大幅に強くなり、正式な【官吏】となる。斎藤は身が引き締まる思いがした。田丸に促されて、人事決定した川路大警視に挨拶をしに鍛冶橋へ向かった。川路は鍛冶橋の執務室に在室していて、快く斎藤を迎えた。

「おはんの反乱分子検挙の功を考慮しちょった」

 内示を謹んで受けると返事をして頭を下げた斎藤に向かって、川路はそう話すと。これからも励むようにと笑顔を見せた。それから斎藤を応接椅子に掛けさせると、川路は執務席の書類の山から書状を取り出して斎藤の前にどかっと座った。

「公示は先になるが、警視庁は改編される」

 斎藤は川路の説明を静かに聞いていた。

「東京警視庁は、全国治安も担う。【警視局】になる」

 儂らは【警視官】で、警視局の下に東京警視本署が置かれる。各署はその所属になる。現在の職務と変わりはなかが、国家警察機関の警視官となった事を覚えてほしか。

 斎藤は「はい」と返事をした。

 改編に伴うて、治安維持のための軍事訓練が始まる。陸軍との合同訓練になる。公示と同時に忙しゅうなる、今まで以上に巡察と剣術ん稽古にも励んでほしか。

「士族中心に集めてう警視官は剣の腕が立つ。徴兵されてう陸軍とは違う」

 川路は大きな右手で自分の髭を包むように撫でると、暫く考えるような表情をした。

「鹿児島の士族がせからしか。城下のもんが軍事教練に励んじょる」

 西南は風雲急を告げちょう。黒江小警部を偵察にやらせていっどん、取り締まっにも人員が足らん。年明けにまた両国広小路から三名巡査を鹿児島へ潜伏させる。

 斎藤は静かに話を聞いていた。黒江小警部は鹿児島で偵察中。思った通りだった。川路がいつも言っている通り、警視官はもっと人員が必要なのだろう。実際、虎ノ門署も巡査の数が足りていない。巡察範囲は広く、これに軍事訓練が加わると更に署員は忙殺されるだろう。

 ずっと静かに考えを巡らせている斎藤を眺めると、川路は手元の書類を開いて目を通した。川路は、警部補への昇進に伴う昇給の話をした。月給十二円。これに特任の手当てが別途つく。初任給四円だった明治七年から二年。斎藤は任務での功を認められた事が嬉しかった。

「有難うございます」

 背筋を伸ばし、頭を深く下げて礼をいう斎藤に川路は微笑みながら頷いた。

「おいは、藤田には大いに期待しちょう」

 よく響く声でそう言った川路の明るい声が執務室に響いた。

「こん国を守っために」

 斎藤の前に立ち上がった川路は、真剣な眼差しで斎藤を見下ろした。斎藤は「はい」と返事をして立ち上がり敬礼をした。胸を張って大きく頷く川路は、斎藤を部屋から送りだすと、再び執務席に戻って大きく溜息をついた。斎藤は、鍛冶橋の正面門を出ると、黒い火の見櫓上の監視官に敬礼をして足早に銀座に向かった。




******

銀座にて


 斎藤が鎗屋町の「西村製靴工場」の門を通って、建屋の事務所棟に行くと、眼鏡をかけた洋装の男が出て来た。「西村さんにお会いしたい」と土方への面会を願い出ると、奥の部屋に通された。土方の大きな机の上には、書類が散乱していて忙しそうな様子だった。斎藤の姿を見た土方は笑顔になって、「よお」と挨拶した。

「すみません、お忙しいところを約束もせずに……」

 頭を下げて謝る斎藤に、土方は「元気そうだな。もう巡察にでているのか?」と立ち上がって、応接椅子に腰かけた。

「はい、お陰様で。先週から仕事に戻りました」

 斎藤は十月に反乱士族との乱闘で倒れた後、暫く自宅療養していた間、土方が妻のお多佳と見舞いに来てくれた事に対しての礼を伝えた。眼鏡の男がお茶を運んできたが、土方はそれをさっと飲み干すと、「昼は済ませたか?」と斎藤に訊ねた。

「いえ、まだです」

 斎藤が応えると、土方は立ち上がって「じゃあ、付き合え」と言って先に部屋を出て行った。そして、眼鏡の男に昼飯に出ると一言伝えて、土方は斎藤を連れて工場を後にした。表通りの一角にある【藪蕎麦】と書かれた小さな暖簾をくぐると、店の女将が笑顔で「いらっしゃいませ」と挨拶した。
 土方は、席に着くなり「しっぽく、二人前だ」と店の奥の親父に指を二本たてて注文した。厨房から店の親父が「まいど」と笑顔で答えた。女将が温かいお茶を席に運んでくると、土方は斎藤に「ほかに何か頼みてえものは?」と訊ねたので、斎藤は【豆腐の田楽】を頼んだ。

「お前と蕎麦を食うのは、久しぶりだな」

 斎藤の向かい側に座った土方が微笑む。斎藤も微笑みながら「はい」と答えた。

「ここは、神田の藪蕎麦から暖簾分けした店だ。蕎麦屋の親父を覚えてるか?」
「はい」

 斎藤は遠い昔を想いだした。瓦解前、まだ試衛場に通っていた頃、多摩から出稽古に来た土方と一緒に伝馬町の道場に向かった。二人で陽が暮れるまで稽古をつけた帰りに神田で屋台の蕎麦を食べた。

 卓袱(しっぽく)を一気に平らげた斎藤を見て土方は、「親父、もう一杯頼む」と注文し、「お前は、食いっぷりがいいな」と笑っていた。あの頃は、ひと月に一度、多摩から出て来る土方と行動することが多かった。伝馬町から斎藤の家のあった本郷まで上野を廻って歩きながら、いろいろな話をした。土方の生い立ちや親兄弟の話。奉公先での失敗談。佐藤道場の兄弟弟子の話。行商しながら出会った変わり者の話。近藤と通っている手習いの話。土方の話はどれを聞いても面白く、一本気な土方が剣術だけでなく、家業にも関わり、博識なことに驚いた。自分は道場と家、せいぜい出掛けても芝の浜に海を眺めに出るぐらいで、自分から話す事は刀と剣技の話ぐらいだった。

「お前は無口な性質だが、物事をしっかり見ている。わけえのに大したもんだ」

 土方がいつも投げかける言葉は、自分を認めてくれるものだった。それが嬉しく、遠回りをしながら家路に着くのが楽しくて仕方がなかった。自分の話は土方の万分の一も面白いものではなかっただろう。それでも、いつも「おい、山口。何か話せ」と促された。それは今も変わらない。

「俺の商売の話は、そんなところだ」

 土方は陸軍の徴募兵が一気に増えた事で、メリヤスも革靴製造も生産が追い付かないぐらいで、全国の工場に委託も始めている話をしていた。端は九州から北は酒田、相馬に購買も兼ねて全国の工場を廻って貰っている。あいつは家に帰れねえ、女房が恋しいって文句を言ってやがるが、仕方あるめえ。土方は笑いながらも、春までには落ち着かせたいと思っていると斎藤に話した。そして、静かに話を聞いている斎藤に訊ねた。

「それで、お前の話はなんだ?」

 女将が田楽と蕎麦を並べたので、二人でひとまず箸を持って食事を始めた。土方も斎藤も昔から藪蕎麦の卓袱は好物である。二人で蕎麦をすすって勢いよく無言のまま食べ続けた。うまい。この椎茸、蒲鉾も美味い。斎藤は感動した。土方も美味そうに食べ続けている。そして、蕎麦をすすり終わると、二人で茶碗をもって汁を味わいながら一気に飲み干した。

「うめえ」

 茶碗を盆に置くと、土方が呟いた。斎藤は黙々と田楽を食べている。「俺にもくれ」と土方はもう一本の田楽に手を伸ばした。女将がお上がりのお代わりを貰って来た。土方は楊枝を片手にお茶を飲んでいる。

「女房が昼飯を食べに帰れってうるさくてな」

 土方は、お多佳がお昼を作って待っているが、向島へ一度戻ると銀座に戻るのが嫌になるから帰らないようにしていると言って苦笑いした。斎藤が、恋女房が美味い昼餉を用意しているのは何よりだというような事を言うと。

「あれは昼餉じゃねえ。茶懐石だ。昼間っから腹が膨れすぎて動けなくなる」
「お多佳は、俺が好きなものばかり並べやがる」

 土方の文句はどれも幸せそうな話で、聞いている斎藤は自然と顔が綻んだ。

「俺の話はいい。お前の話だ」

 土方は再び斎藤に水を向けた。斎藤は湯飲みを机に置くと、「今年の正月は是非お多佳さんと診療所へ来てください」と頭を下げた。

 土方は「わかった」と返事をすると、女将を呼んで勘定を払った。そして、上着を持って立ち上がると、
 
「場所を変えるぞ」

 そう言って、暖簾の向こうに歩きだした。斎藤も刀を持って土方の後に付いて行った。土方は表通りを足早に歩き、道の向こう側にある店の入り口に入って行った。西洋茶の店だった。

「二階の個室は?」

 店の主人にそう訊ねた土方は、案内されるままに斎藤と一緒に階段を上がって奥の部屋に通された。そこは凡そ日本とは思えない部屋だった。模様のついた壁紙に、重厚な彫り物がされた立派な西洋椅子が並べられ、ふかふかとした敷物が敷かれてあった。傍には大きな洋灯のようなものが置かれてあり、火が焚いてあった。温かい部屋だった。

「いつものを頼む」

 土方は主人に何かを注文した。主人は「かしこまりました」と言って部屋から出て行った。土方はゆったりと椅子に足を組んで腰かけた。

「ここは静かだ。話はなんだ」

 再び土方は斎藤に水を向けた。ひじ掛けに肘を置いて頭を支えながらゆっくりと斎藤が話すのを待っている。

「年が明けたら、近く任務で西国に行くやもしれません」
「暫く家を空けることになります」

 斎藤は土方との間にあるティーテーブルの上を見つめながら、とつとつと話を続けた。

「俺は国家の警視局に勤めることになりました。警視局も人出が足りないのは陸軍と同じです。西国、熊本鎮台に人がいなければ、東京、大坂から増員として赴く必要があります」

 ここまで話をして、斎藤は暫く沈黙した。土方は真剣な表情のままじっと動かずに斎藤が話すのを待っていた。

「この正月は、千鶴に大勢の人と賑やかに過ごさせてやりたい」

 斎藤が土方の眼を見詰めてそう言うと、土方は小さく頷いた。

「俺が、山口の家と疎遠にしているせいで、千鶴には頼る親戚がいません」

 雪村の郷にも……。元より寄る辺のない身の上です。そう言ったまま斎藤は言葉が続かなかった。

「そんなことはねえ」

 土方が遮った。

「あいつに血縁はいねえかもしれねえが、俺らがいる」
「なにも心配することはねえよ」

 土方のよく響く声が斎藤を安心させた。その時、部屋の戸が開いて店の主人がお盆を持って入って来た。ティーテーブルに西洋茶を並べると、大きなポットを置いて下がって行った。
土方は手慣れた様子で、ポットからティーカップに紅茶を注ぐと、斎藤の分も準備をして勧めた。

「牛乳は入れるか?」

 手前にある小さな水差しを持ち上げて、土方は尋ねる。斎藤は生まれて初めて紅茶を目の前にした。牛乳を入れて飲むものなのかと土方に訊ねた。

「ああ、俺は少し入れる」

 そう言って、土方は自分のカップに牛乳を注いだ。斎藤は、土方と同じものを飲みたいと言って牛乳を入れて貰った。

「すみません、勝手がわからないものですから」

 斎藤は、全てを土方にさせているのを申し訳なく思って謝った。土方は、「ただの茶だ。少し匂いが変わっているが、慣れるとうめえもんだ」と笑った。

 お湯に少し香りがついたもののような気がした。不思議な飲み物だ。斎藤はそう思いながら、少しずつカップのお茶を飲んだ。土方は皿に載った西洋焼き菓子を指で割って、カップのお茶につけて口に持っていく。斎藤は見よう見真似で食べた。甘い菓子が、紅茶を吸ってほろほろと口の中で溶けた。

「英国に居た頃は、毎日のように茶を飲まされてな。当時は日本茶が恋しくて堪らなかった」
「今は、たまにこうして飲みたくなる」

 微笑む土方に、遠い昔の土方を見た気がした。志の大きさ、人間の大きさ、心の大きさ。まるで大海のような。懐が深くて。

「千鶴と坊主の事は俺とお多佳がついている。お前の留守中に何か東京で起きれば、多摩に避難する」

 だから心配はいらねえ。

 斎藤は土方にそう言われて心から安堵した。

「なあ、斎藤」

 土方はまっすぐに斎藤の眼を見詰めていた。真顔で自分を見る土方は、新選組の副長だった頃と変わらない。真剣な眼差し。斎藤は何か命令をされると思った。静かな覚悟の中、土方の声が響いた。

「必ず、生きて戻れ」




*****

暮れも押し迫り


 それから数日後の午後。

 斎藤と約束をした通り、土方から千鶴に正月はお多佳と診療所で過ごしたいと珍しく文が届いた。千鶴は大層悦び、早くから正月を迎える準備を始め毎日忙しくしていた。
斎藤は以前と変わらずに青山練兵所での剣術指南、日中の騎馬巡察、夜行巡査を行っていた。

 斎藤の部下二人にも鍛冶橋から内示が出ていたことが判ったのは年末が近くなってからだった。公示が出るまで他言しないようにと田丸から注意されていた天野は、ずっと我慢したが、堪え切れずに斎藤に話があるからと馬を診療所に戻したときに昇任が決まったと打ち明けた。

「主任、俺、晴れて二等巡査になります」

 胸を張って嬉しそうに報告した天野に、斎藤は「おめでとう」とお祝いの言葉をかけた。天野は一緒に津島も昇任が決まっていると言って大喜びしていた。

「なんてたって、給金が月七円になりますからね」

麦酒が百杯飲める。女も買える。刀も買える。万々歳だーーー。

 天野が厩で小躍りしているのを、神夷と雲雀は不思議そうに横目で眺めていた。斎藤は微笑みながら、馬の世話を終えると今晩は風呂に入って飯を食べて行けと天野を誘った。風呂上りに晩酌をしながら天野と夕餉を食べた。千鶴に天野と津島の昇進が決まったと教えると、千鶴は自分の事のように喜んだ。

「今度、津島さんもお呼びしてお祝いをしましょう」

 千鶴がご馳走を用意しますと張り切った。天野は嬉しそうに「そいつは有難いです」とお礼を言った。斎藤は、天野達の仕事納めが暮れの三十日だからその時にゆっくりしていけば良いと誘った。天野は、津島に伝えておきますと返事をしたが、

「そういえば、今年津島は身内に不幸があったから正月は祝わないと言ってました」

 そう言って、帰省もやめるような事を言ってましたと斎藤に話した。斎藤は、帰省しないなら、診療所で正月を迎えればよいと津島に伝えておけと天野に言うと、天野は「ええ!!津島の奴、こちらでお正月迎えるんですか?」と大声を上げた。

 そりゃあ、ずるい。わたしを差し置いて。
 わたしも、来てはいけませんか?
 ねえ、主任。

 天野は両手をすり合わせて頼んでいる。千鶴は、「是非、天野さんもいらしてください」と誘いかけた。

「何も、特別な事はできませんが、奥の間も温かく過ごしてもらえるようにしますので」

 千鶴は嬉しそうに斎藤の顔を見上げた。

「皆さんと大晦日を過ごせるのは、賑やかで楽しそう」

 そう言って満面の笑顔を斎藤に向けた千鶴は、帳面を出してきて準備の予定を書き加えた。斎藤は嬉しそうに笑っている千鶴の横顔を見ながら、良い正月を迎えられそうだと心の中で満足した。
  



*****

明治九年十二月三十日


 それから、斎藤の部下二名は無事に仕事納めを迎えた。斎藤は、鍛冶橋への報告と最後の夜行巡察を行う必要があったので、戻りは大晦日の朝になった。一足先に仕事を終えた部下二人は、神夷と雲雀を診療所の厩に戻すと、一旦下宿に戻って着替えの風呂敷包みを持って私服で診療所にやって来た。そして、斎藤が不在のまま食事を済ませると、子供を相手に居間で遊び、風呂場でも遊んで、奥の間で寝かしつけるところまで面倒を見てくれた。その様子の一部始終を箪笥の上の総司がじっと口角を上げて微笑むように眺めていた。

 翌朝は、千鶴と一緒に早朝に起きて大掃除を始めた二人は、玄関で巡察から戻った斎藤を迎えた。

「主任、お疲れ様でございました」

 斎藤は、何事もなかったかと部下二人に尋ねると、「はい」と二人は声を揃えて返事をした。それから斎藤が仮眠をとっている間も、部下はてきぱきと千鶴の指示のもと働き、合間に子供の相手もしていた。夕暮れの早い時間に、「御節が全部出来上がりました」と千鶴が宣言をして、ようやく畳に座って一息つくと、天野が千鶴の肩を按摩し始めた。

「今年一年、お疲れ様でございました。ご新造」

 天野はかしこまった様子で労いの言葉をかけている。千鶴は「天野さんも、お疲れ様でございました」と頭を下げて笑っていた。津島は、千鶴の肩に手をかけている天野をチラチラと眺めながら独り溜息をついていたが、子供が膝に登ってくるので、そのまま肩に載せて肩車をして廊下をひと廻りしてきた。戻って来ても、まだ天野は千鶴の肩を揉み続けていた。

「今度は天野さんの番です」

 千鶴は天野の背中に回るとトントンと肩たたきを始めた。それをみた豊誠が、

「かーたん、なにちてんの?」と話しかけた。千鶴は、天野さんの肩を按摩している、父様にやっているのと同じだと説明した。

「あんまちてんの?」と鸚鵡返しに訊ねてくる子供に、千鶴は「坊やも津島さんにトントンしてあげてくださいな」と頼んだ。

 津島は優しく微笑む千鶴の顔を見て、鳩尾のあたりがふんわりと温かくなった。言われるままに天野の隣に並んで座ると、坊やが肩たたきを始めた。

 激痛が走った。

 鎖骨が折れるかのようで、津島は前につんのめって息ができないでいた。千鶴がとっさに覆いかぶさるように、子供が肩を叩く瞬間を払うように止めると。

 「津島さん、大丈夫ですか?」と助け起こした。津島は、なんとか首を上下に振って頷いた。豊誠の「トントン」は力加減がわからないまま、渾身の力で肩を打ってしまっていた。謝り続ける千鶴は、手当てをしたいからと津島の着物を剥ぐって肩の様子を確かめた。千鶴の顔が自分の首筋の近くに来て、優しい手で何度も肩や背中を撫でられた。津島は千鶴から薫る甘い匂いに包み込まれ、嬉しい気持ちと照れ臭い気分でずっと俯いていた。

「酷い打撲です。本当にごめんなさい」

 しゅんとしながら謝り続ける千鶴に津島は「いいえ」と言い続け頬が紅くなった。子供も肩を思い切り打った事を悪いことだったと理解したようで、じっと正座したまま千鶴が手当てをしている様子を眺めていた。千鶴に促されて坊やは「ごめんなさい」と謝るとへの字に口が曲がってべそをかきだした。津島は、優しく笑いながら「ぼっちゃんは悪くありません」と手を伸ばして頭を撫でた。

「豊誠、トントンはもっと優しく。あんまは優しく。わかりましたか」

 千鶴は子どもの手をとって、優しい力加減を教えた。豊誠は「はい」とよい返事をしたところで、今度は天野に肩車をされて廊下を一周してきた。戻って来た時には、また笑顔になっていた。

 漸く斎藤が起きて来た。大晦日の昼間をこんなに長く寝て過ごしたのは初めてだと言いながら、家が綺麗に片付いていると部下二人の手伝いに改めて礼を言った。それから、千鶴が用意した年越しそばを全員で食べた。



*****

大つごもり


 斎藤の部下二人が子供を遊ばせながら風呂に入れてくれたお陰で、豊誠は十分に遊び疲れた様子ですんなりと眠りについた。千鶴は、酒の肴を用意して、斎藤たちが総司も一緒に晩酌できるようにした。津島も天野も千鶴が用意した綿入れの半纏を着て、斎藤のとっておきの清酒を燗にしたものを美味しそうに飲んでいた。

「本当に、お客様として来ていただくつもりが、大掃除を手伝ってもらえた上に、子供の面倒まで見ていただいて。こんなに御節が早く仕上がった大晦日は初めてです」

 そう言って千鶴は部下二人にお礼を言った。

「なんでもございません。私も母親が生きていた頃みたいで、こんな風に家のこと手伝って正月を迎えるのは」

 そう言って天野は笑った。天野は元服前に母親を病で亡くして以来、親戚の家を転々として暮らしたらしく、正月は毎年ひっそりとした実家に戻るのが習慣だった。津島も実家では、餅つきや外で力仕事をするぐらいで、家の中で下女や母親のことを手伝った事はなかったと言う。千鶴は、今年は早くから準備を始めたけれど、やはり暮れが押し迫ってくるとあれもこれもとなってしまいますねと笑った。

「奥さん、どうでしょ?書生でも置くつもりで、私がこちらへ下宿するのは」

 また天野が診療所に下宿したいと言い出した。書生ほど時間はありませんが、診療所にいる間は、奥さんの手伝いや坊っちゃんのお相手はいくらでも。そう言って、天野は「ようございますでしょ?」と訊ねた。千鶴は、「書生さんですか」とキョトンとした顔をしていた。

 ま、本当にここで医学校の書生が下宿すりゃあ、そりゃあ便利ですよ。

 そんな風に天野は医学校に近くて静かな診療所の立地もいいからと、下宿には最適だと笑っていた。千鶴は暫く考えを巡らすような表情をしていたが、急に思い立ったように奥の間に行って、なにやら書物と帳面を持って現れた。そして、天野と津島の間に座って書物を開いた。

「これ、今【春告鳥の会】で読んでるんです」

 菱川春蝶(ひしかわしゅんちょう)先生の【堀川春宵重(ほりかわはるよいがさね)】です。書生の「文四郎」が下宿先のおかみに恋する話です。千鶴はそう言いながら、中本を開いて中の挿絵を見せた。書生らしい男が居間に座っていたり、家の前で掃き掃除をする女将らしき女を背後から様子を伺っていたりする場面が描かれていた。天野は、「へえー」と感心するような声をあげて覗き込んでいる。

「これ、途中で話が終わるような結末で」

 おかみに想いを伝えて文四郎は下宿を出て行っちゃうんです。おかみもこの書生さんを想っているので、二人は両想いなんです。

そう千鶴が天野と津島に熱心に説明をしているのを、膳の向かい側に座っている斎藤は呆れながら眺めていた。また泣き本か……。

「へえ、それじゃあ、このおかみは旦那がいる前で不義密通でございますか」

 天野があらすじを聞いて訊ね返した。千鶴が大きな目を一層大きくして首を振っている。

「そんな事は一切書いてないんです。でも、ここ最後に」

 千鶴は本の最後の頁を開いて天野に見せた。

「駒子は、文四郎の置いていった手ぬぐいをそっと手にとった。そして綺麗に畳まれた手ぬぐいに己の手を重ねた」

 千鶴は最後の文章を読み上げると、本を閉じてうっとりと胸に抱いた。宙を見つめるように溜息をつくと、天野に向かって。

「駒子と文四郎は手を取り合う事もなかったんです」

 そう言って、また本を広げながら頁を繰りだした。

「ご主人は立派な軍人さまで、駒子はご主人を裏切っちゃいけないって独り泣いてるんです」

 ほら、と言いながら、千鶴は天野と津島におかみが泣いている姿の挿絵を見せた。天野は千鶴から泣き本を貰うとパラパラと頁をめくりながら眺めた。そして、この書生どこに行っちゃったんでしょうね。手ぬぐいを忘れたってとりに帰ってきて、奥さんに言い寄るなんて続きがあるんじゃないですか。そう言って、津島に泣き本を渡した。

「最後がこんな終わり方で、続きがあるんじゃないかって、春告鳥でも盛り上がってます」

 千鶴は興奮しながら話始めた。膳の向こうの斎藤は、(また始まった)と心中で思った。

「お澪さんは、この【手ぬぐい】が【心中】の意味じゃないかって、言うんです」
「もともと文四郎と駒子が初めて出会ったときに、文四郎が怪我をして血が流れているの手当てしたのがこの【松葉の手ぬぐい】なんです」

 二人が松葉のように離れない、一度は血に染まった手ぬぐいに駒子が手を添えるのは、二人が手を取り合って【心中】するからだって、お澪さんは言うんです。

 天野は千鶴の話を聞いて、「お澪さんって、そこの角の黒塀の家の?」と訊ねた。千鶴は頷いた。
大店のお妾の【お澪さん】ですね。そういって天野は嬉しそうに微笑んだ。そして、心中ってまた穏やかでないですねえと笑った。

「お澪さんが言うんです。二人は一緒になるためには死ぬしかないって、剃刀で喉を切って。流れた血でまた、この松葉の手ぬぐいが染まるんだって」

 千鶴の興奮した大きな瞳でじっと見つめられた津島は、言葉がでてこなかった。天野は、お澪さんは、随分と激しい想像されるんですねえと言って笑っている。

「まるで世話物じゃありませんか、奥さん。そんな喉を掻き切って心中なんて」

 そういって天野は、「なっ」とぼーっとしている津島の背中を叩いた。津島は、興奮している千鶴から目が離せなかった。膳の向こうでは、斎藤が晩酌しながら完全に引いていた。

 下らない泣き本に、何を興奮しておるのだ。

 今年の最後の最後まで、千鶴は泣き本に夢中だった。ご近所の女衆の集まりでは、千鶴の朗読が評判で、遠く雑司ヶ谷から足を運ぶ知り合いもいるらしい。それにしても部下の天野と津島にまで下らぬ話をするのは、なんとしたことか……。斎藤は小さく溜息をついた。

「そんな手を繋いだこともない二人がいきなり心中なんてな」

 天野はそう言ってから暫く宙を見上げて考え込むような顔をした。

「わたしはね、その前にこんな場面があったと思いますよ」

 そう言って天野は千鶴の手をとって両手で包み込むようにして千鶴の顔を覗きこんだ。千鶴は突然の事で目を丸くしてキョトンとしている。

「ご新造、わたしは貴方の事を離しやしません」

 急に芝居がかった低い男前な声を出して、天野が千鶴に迫った。それを見た津島は目を見張って絶句した。次の瞬間、天野は千鶴の側でしなをつくるように足をくずして座ると宙に手をさしのべたまま、

「いけませんわ、天野さん」

 女のような声音で首を振っている。そして天野はまた自分が座っていた方に戻ると、千鶴の手をとって顔を近づけた。

「主任はいません、奥さん。あなたと私二人きりだ」

 また低い男前の声をだして迫ると。身をひるがえしてしなをつくって。

「だめです。いけないわ、天野さん」

「いいでしょ、ご新造。奥さん、奥さーーん」

 そう言って、千鶴の手をとって抱きしめようとしたところで、斎藤の拳骨が落ちて来た。斎藤は千鶴を自分の腕に抱き寄せて、思い切り天野を睨みつけた。

「妻(さい)を相手に、下世話な想像をするな!!」

 斎藤はまた拳骨でポカリと天野の頭を思い切り殴った。「イテテテ」と天野が両手で頭をかかえて下がった。斎藤の隣で津島が真っ青な顔をして茫然と座っていた。斎藤はそのまま、奥の間から木刀を三本持ってきた。

「表へ出ろ。頭の中からおかしな考えを叩きだしてやる」

 そう言って、天野の後ろ襟を掴んで廊下に引き摺りだすと、ものすごい勢いで雨戸をあけて縁側から中庭に降り立った。そして木刀を天野に投げつけて、天野が構えるのを待つとブンブンと音をさせて木刀を振り回し、逃げ回る天野を容赦なく打ちまくった。それまで火鉢のそばの敷物の上で横になっていた総司が、のっそり起きて縁側に様子を覗きに行った。二人のやり取りをそこで座って面白そうに眺めている。居間に取り残された津島は正座したまま、ずっと青い顔をしていた。中庭から聞こえる、天野の呻き声に津島は完全に縮み上がっていた。


「津島も出て来い。稽古だ」

 斎藤の叫ぶ声が聞こえた。外には除夜の鐘が響く中、斎藤の怒りは収まらないらしく、その矛先は津島にも向けられた。津島は震える手を握りしめて、立ち上がると半纏を脱いで覚悟を決めた。

(打たれよう。思い切り。俺の不埒な想いも主任はご存知なのだ。きっと)

 竦む足をなんとか前に出して、中庭に降り立った。御影石の上に置かれた木刀を手にとって構えた。半月の月明かりで外は明るかった。植木の下に肩で息をしながらへたりこんでいる天野の姿が見えた。目の前に立った斎藤は大きかった。背格好は自分と変わらないのに、動かぬ壁のように大きい、そして光る瞳は碧く焔立っている。恐ろしい。この人には敵わない。

 青眼の構えから、斎藤は打って来た。真正面を突いてくる。津島は除けることもなく、じっとまっすぐに立っていた。身がすくむが仕方がない。打たれて死んでも仕方がない。そう思って、静かに瞑目した。

 しーんとした空気。
 鐘の音も消えて
 全くの無音

 津島は目を開けた。斎藤が突きで構えたまま目の前に立っていた。木刀の切っ先は津島の眉間の寸前で止まっていた。碧い双眸がじっと睨むように津島を入り抜いている。怖い。全て見透かされているかのような。津島は生唾を呑んだ。

「なにゆえ、打って来ぬ」

 斎藤が静かに訊ねた。木刀を構えたからには、打ち合う。手合わせの礼儀だ。斎藤の声が諭すように響いた。津島は頷いた。再び互いに下がって構えた。左側に肩を引いて、津島は陰の構えで左足を後ろに引いた。青眼で構える斎藤は、じっと津島を睨んでいる。津島は斎藤の木刀の先から目をそらした。同時に斎藤の瞳からも。己の動きは全て把握されている。頭で考えている事もすべてだろう。それでも、構えたからには打って出ねば。

 打ち合わねば

 津島は再び瞑目した。主任が動けば空気が動く。その瞬間を狙おう。自分の脇に引いた刀は、そのまま振り切る。

 振り切る

 一瞬だった。主任が飛びかかってくるのがわかった。一撃で倒される。だがその前に、先に出る。出なければ撃たれる。津島はそう思いながらも自分の身に引き付ける瞬間を思い描いた。主任の剣は鋭い。でも一撃を身に引き寄せて、躱しながら先に出れば。

 先に出られさえすれば

 そう考えた瞬間身体が左に引いた。自分の懐に斎藤の木刀が入ってくるのが判った。次の一手までの隙。その一瞬の隙に打つ。

 打つ

 津島は右足を踏み込んで左から逆袈裟懸けに振り上げた。斎藤の下がった時の木刀と己の木刀がぶつかった。斎藤の木刀が跳ね上がった瞬間を津島は見逃さなかった。思い切り手が伸ばせる限り突いた。相手の胴を突いた感触があった。斎藤はそのまま飛び跳ねるように後ろに下がった。

 低く構えた斎藤が突進してきた時、自分は出遅れた。態勢を整えようとしたその隙に思い切り脳天を撃たれた。激痛。目から火花が出た。自分の両膝が地面に落ちたのがわかった。

 津島さん

 千鶴の声が遠くに聞こえた。優しい手が肩に触った。甘い匂いがする。奥さん、奥さんの香りだ。そう思ったまま気を失った。




*****

明治十年 元旦


 津島が目覚めた時、診療所の奥の間の布団の上に横たわっていた。隣には天野が大鼾をかいている。薄暗い奥の間の入り口の戸の隙間から明るい光が射していた。もう陽が高いのか。
津島は起き上がった。目を開いて、上を見ると額の上部に痛みを感じた。手を当てると大きな瘤が出来ていた。昨夜、中庭で主任に面をとられた。脳天を勝ち割られるような痛み。あのまま自失した。酒に酔っていたせいもあるだろう。だが、情けない。

 津島は廊下に出て厠に向かった。外はまだ夜明けで薄暗かった。明け六つ頃だろう。津島は顔を洗いに井戸端に行くと、母屋のお勝手から炊事をする音と窓から煙が上がっているのが見えた。もう奥さんが起きている。津島は、顔を洗って奥の間に戻ると、着物に着替えた。千鶴が用意したメリヤス地の足袋を履くと暖かかった。

 津島は天野を起こした。天野は、体中が痛いと言いながら起き上がると、津島の具合はどうだと訊ねた。ゆんべ、お前、年明け早々に主任に面を撃たれて伸びたんだぜ。

「大丈夫かよ?でも主任、驚いてたんだぜ。ほろ酔いでやり合ったが、最後は本気で掛からないと負けるところだった。津島は腕を上げた。突きの一手を撃てるようになっているってさ」

 主任が褒めてた。そう言って天野は厠に行って顔を洗って来た。天野が着替えながら、

「でも、主任は怒髪天だったな。まさか、木刀で折檻されながら新年を迎えるとは思わなかったな」

 そう言って、自分も瘤が出来たといって頭を見せてきた。

「お前が、奥さんに馴れ馴れしくするからだ」

 津島は天野の瘤が出来た所を叩いた。「いてえ」と天野が声をあげた。それから、二人で奥の間の布団を片付けて、居間に向かった。もう既にお膳に御節が並べられ、元旦のお祝いの準備が整っていた。お勝手に向かった天野と津島は、台所の流しの前で寝間着姿の斎藤が背後から千鶴を抱きしめている姿を見た。二人は、睦みあいながら、先にお屠蘇(とそ)を用意しようなどと相談しあっている。斎藤が甘えるように千鶴の肩に顎を乗せて、時々千鶴の首に口づけをしている。天野と津島は見てはいけないものを見てしまった気がした。幸い、へっついで火にかけた鉄瓶がしゅんしゅんと音を立てていて、二人の気配を斎藤も千鶴も気づいていなかった。斎藤の部下はゆっくりと後ずさりして廊下を診療所に戻っていった。

 元旦早々、お熱いこってい

 天野が不貞腐れている。津島は鳩尾を思い切り殴られたような衝撃を受けていた。畳の上で仰向けに大の字に寝そべった天野が、

「俺も嫁が欲しい」

 そう呟いた。津島もその隣に両手を枕にして寝転んだ。

「お前が嫁を貰って下宿を出たら。俺はここに下宿したいと本気で思ってんだ」

 天野は天井を見たまま、ぼんやりと話している。

「雲雀を連れて出勤するのも、預けにくるのも。ここで暮らせば、真砂町まで帰らずに済む」

「だが、主任夫婦があんな風に仲睦まじいとな。目のやり場に困る」

 そう言って笑った。

「俺は、嫁は貰わん。下宿を出ることはない」

 津島が呟いた。天野は驚いた。津島の父親が亡くなる前に縁談が本決まりになったと聞いていた。喪が明けるのを待たずに春先に祝言だと思っていた。

「なんだ、縁談はご破算か?」

 天野が首を津島に向けて訊ねた。津島はじっと天井を見たまま黙っている。天野が「もう結納やなんかを済ませて来たんだろう」と訊いているが、津島は何も答えなかった。いくら尋ねても応えないので、天野は痺れを切らして津島の脇腹を小突いた。

「おい、辛気小君。答えろよ」

「父上の弔いの時に、先方には断った」

 津島は静かに呟いた。母上も兄上も先方に面目が立たない。立場を弁えろと言って呆れられた。

「津軽には勘当されたも同然だ。父上の法事にも戻らなかった」

 ぽつぽつと話す津軽は、既に覚悟を決めているようだった。だが天野は解らない。親が決めた縁談にしても、相手の家柄は申し分なく、おまけに美人で気立てが良いときている。年も十七。持参金に品川の戸越に大きな屋敷までついて。そんないい条件の縁談は聞いたことがなかった。それも津島の剣術の腕を見込まれてのことだった。

「おまえ、相手のお姫さんの何が気にくわねえんだ」

 天野が尋ねても、津島は黙ったまま何も答えない。

「わかった。実際に会ってみたら【おかちめんこ】だったか?」

 天野が身体を横にして津島の顔を覗き込んだ。津島は「おい」と脇腹を突かれると首を横に振った。

「綺麗な娘だ」

 ぼそっと答えた津島に、「綺麗なんだろ?どんなだ。可愛いい女か?」

「わからん」と言う津島に。「なんだ、わかんねえって。目は大きいのか?」

「普通だ。小さくも大きくもない」

 天野は、目は普通なのか、じゃっ、なんだ。切れ長か、としつこく尋ねてくる。もっと細かく教えろ。そう言って、脇腹を突いてくる。

「切れ長といえばそうだろう」と津島が応えると。天野は、そうかあ、じゃあ主任の奥さんとは違って目は普通で切れ長の美人なんだな。鼻はどうだ?団子鼻か?しつこく天野が質問する。津島は、「わからん、普通だ」とばかり応えるが、鼻筋は通って、唇は紅を差していて小さかったと判ると、天野は「てえした美人じゃねえか。なんで嫁に貰わねえんだ?」としつこく尋ねられた。津島は、天野が元縁談相手の外見を、奥さんを引き合いに出して確認する度に、津島の心臓の鼓動は早くなった。親が勧める娘が、もし奥さんに似た娘なら。自分は一緒になっただろうか。その手を取って、抱きしめてみたいと思うのだろうかとぼんやりと考えた。だが、それはあれと同じ感覚だろうと思う。

 吉原で千早を抱くときと
 ただ欲をぶつけた時の後ろめたさと
 千早を可哀そうだと思う気持ちと
 己を面倒だと思う暗い
 奈落に落ちるような

 そしてその真逆にある感覚を思い出した。優しい奥さんの空気を嗅ぐときのあの高揚感。あの人の声を聞いて、くるくると変わる表情を眺めている時の、あの幸せな気持ち。傍にいるだけでそれだけで嬉しい。手を握ったり抱きしめたりはしてみたいけど、それが出来なくてもいい。

 今は、傍にいてそっと見ているだけで
 それでいい

 でも抱きしめたい。いつかのように。離したくない。ずっと。

「おい、津島、なにぼーっとしてんだ。主任がお呼びだ。挨拶しに行くぞ」

 気が付くと、廊下に続く戸を開けたところで天野が立っていた。いつの間にか、羽織まで着てパリッとしていた。津島は慌てて起きて、着物と髪を整えた。居間に行くと、斎藤も千鶴も子供も真新しい着物を着て清々しい様子で座っていた。新年の挨拶をする千鶴は、薄く化粧をして洋髪にリボンをつけていた。美しい笑顔。今、このひとときを……。

「今年もどうぞよろしくお願いします」

 そう互いに挨拶し合えるひとときの幸福を津島は心の中で噛み締めていた。




つづく

→次話 明暁に向かいて その30





(2018.12.01)

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