凱旋式

凱旋式

明暁に向かいて その37

明治十年十一月四日

 豊後から東京へ戻って一週間後の日曜日、帰還を祝う会が診療所で開かれた。

 朝から土方夫妻が診療所を訪れ、隣家のお夏と娘親子が昼前にやって来た。呼ばれた部下二人は、真砂の下宿を出て徒歩で診療所に向かっていた。津島は一週間ぶりに故郷の津軽から今朝早く東京に戻った。斎藤宅への土産は地元の清酒。津軽より格段に温かい東京は紅葉が美しく、これから向かう診療所で再び主任の奥さんに会えることを半分夢のように感じながら、津島はゆっくりと道を歩いていた。
 隣を歩く天野は三日前から、虎ノ門署に復帰していた。再び、鍛冶橋は翌週から騎馬巡察を再開すると決定したらしく、翌日の月曜日に逓信部に神夷と雲雀を借りに行く必要があると津島に説明した。

「そんで、凱旋式の後は、銀座で宴会よ」

 天野は嬉しそうに話す。翌週の水曜日に、天覧の戦役凱旋式が開かれる。十四署の平田小警部から、二番小隊の宴会幹事を仰せつかったと自慢気に話す天野は、麦酒の飲める店で仲間と大いに呑んで騒ぐぞと笑った。
診療所に向かう道すがら、「お前、奥さんに会って、驚くなよ」と天野が念を押した。「なんでだ」と訊ねる津島に、「なんでもだよ」と天野はぶっきらぼうにそう答えただけだった。

 診療所の玄関に千鶴が出て来た時、津島は心臓が締め付けられるような感覚が走った。奥さんの満面の笑顔。真っ黒な大きな瞳は変わらずに美しくて。津島は、玄関の土間に直立のまま動けなかった。

「無事に西南より帰還しました」

 なんとか声を出して挨拶は出来た。千鶴は、「おかえりなさいませ。無事にご帰還されて、本当によかった」と丁寧に上り口で、床に手をついて挨拶をした。そして、笑顔のまま、天野と津島の手荷物を受け取ると、居間に二人を案内した。
 居間には既にお夏とお夏の娘親子、土方夫妻が座っていた。大きなお膳の上には、豪華なご馳走が並べられ、斎藤が奥の間から出て来て、部下の二人を席に着かせると、土方が乾杯の挨拶をした。 
皆が酒の杯を開ける中、千鶴は中腰のまま、天野と津島に取り皿を配って、そっと立ち上がろうとした。斎藤が急に立ちあがり支えるように千鶴を立たせた。

「大丈夫です、はじめさん。お席についていてください」と千鶴は笑っている。

 斎藤はそれでも千鶴から離れずにお勝手について行った。台所から、別のお皿を持って千鶴が出て来たら、斎藤がそれを取り上げて代わりに運ぼうとするのを、千鶴が「いいです、はじめさん。どうか、お席に座っていてください」と断っている。その背後から、「そうです、旦那様」と別の声が聞こえた。天野と津島は台所に繋がる廊下から、千鶴と一緒に出て来た少女を見た。丸顔で島田を結った、黒目勝ちの瞳の少女。千鶴がくすくすと笑う後ろで、同じように笑っている。
 襷を斜めにかけて、前掛けをした少女は、手際よく料理の入ったお皿をお膳に並べた。そして、空いたお皿をお盆に下げながら、土方の杯に新しくお酒を注いだ。

「おさよ、もう勝手の方はしめえにして、座れ」

 土方は上機嫌で少女に話しかけている。お多佳もその隣で、「さ、ここへ」と席を空けている。おさよと呼ばれている少女は、「はい」と返事をすると、お皿の入ったお盆を下げて席についた。

「はい、おさよちゃん」

 お夏は、手元にあったお猪口を少女に渡して、酒を勧めたが、少女は首を横に振って断った。

「あら、飲めないのかい。じゃあ、ご馳走をお上がり」

 そういって微笑むお夏に素直におさよは頷くと、そっと取り皿に手を伸ばした。天野と津島は一部始終をじっと見ていた。黙っている天野を見て、土方が声を掛けた。

「なんだ、天野はやけに静かじゃねえか。西南で魂抜かれて帰ってきたか?」

 土方は手を伸ばして、天野の杯に酒を注いだ。天野は、「いえいえ、滅相もございません」と笑って杯を受けた。

「そうか、それで豊後はどうだった?」

 土方は天野と津島に向かって尋ねた。

「豊後でございますか。山と海と芋ばかりでございます」
「竹田では山の中、夏の盛りからは海に近い佐伯。どこも芋がよく獲れて、朝昼晩と芋ばかり食ってました」

 土方は、天野の説明を聞いて笑っていた。「戦はどうだったんだ?」と黙っている津島に訊ねた。

「わたしたちの小隊は、先駆部隊になることが多かったです。砲台を扱わないので、間道移動で奇襲をかけることが多かった。薩軍も刀で戦う者が多かったです」

 とつとつと説明をする津島の話を、皆が真顔で聞いていた。土方が、警視徴募隊の戦死者は五十名だと聞いたというと、斎藤が「五十三名です」と訂正した。豊後の地でそのまま埋葬された者が多かったと呟いた。

「俺たちの所属した二番小隊に命を落とした者は出なかった。他の小隊は、竹田の役で全滅しかけた。俺たちは運が良かったです」

 斎藤は、自分が小隊の負傷兵だったと笑顔で話した。「俺が離隊していたひと月、この二人が代わりに半隊を率いて、延岡との県境で立派に闘った」

 斎藤はそう言って微笑みながら部下二人を眺めた。

「薩軍は、延岡から北上してくる可能性が高かった。報国隊という部隊は、薩摩隼人で結成された強い部隊でした。俺らは苦戦しました」

「二番小隊は、宮城の巡査、それも徴募で集まった士族が中心でした。皆、山間での移動をものともせず、よく動き弱音を吐かぬ優秀な巡査です。陸軍とも連携がよく取れていたのが功を奏した」

 皆が、斎藤が珍しくずっと話し続けるのを静かに聞いていた。戦役は、よい部下に恵まれていたから闘ってこられたと斎藤は呟いた。

「よかったじゃねえか」

 土方は満足そうに、斎藤の杯に酒を注いだ。席がしんみりとしたところで、千鶴が皆にお刺身を食べてくださいと勧めた。

「今朝、築地から【名月】の板前長さんが仕入れてくださったんです。この赤貝、とっても珍しいでしょ」

 千鶴が部下たちにそういうと、津島は頷いたが、天野はぶるぶると首を振って断った。

「奥さん、赤貝は、わたし、駄目です」

 千鶴は不思議に思った。あんなにも、お刺身が大好きで、いつも一気に食べてしまわれる天野さんが……。

「丸市尾で、赤貝にあたりましてね」
「そりゃあ、もう。奥さん、あの時は死ぬかと思いました」

「小隊にある【宝丹(ほうたん)】を、全部飲んでやっと腹下しは治まりました」

 天野の話を聞いて、千鶴は「まあ、それは」と驚いていたが、

「もう二度と赤貝コロリはいただきません」
「薩兵よりおっかねえです」

 そう話す天野を見て、千鶴は「じゃあ向こうで具合がお悪かったんですね」と心配そうな表情に変わった。

「赤貝だけです。それ以外は芋食って、屁ばかりこいておりました」

 天野が満面の笑みで「出るわ出るわ。屁の大豊作でございました」と挙手敬礼して報告するので、千鶴は口元に手をあてて大笑いした。お夏やお多佳も笑っている。おさよも、口元に手をあてて肩を震わせながら笑っていた。天野は場が明るく和んだのが嬉しく、調子に乗って、その後は駄洒落冗談の大行進。土方が大声で笑い、お夏は笑い過ぎて苦しいと、目尻を手拭で押さえながら座っていた。
 始終和やかなまま祝いの席が終わった。お夏と娘親子が帰り、お多佳とおさよがお勝手と居間を行き来して片付けをしている。居間に残った土方は、日を改めて【名月】で慰労会を開くと斎藤達に語った。

「内輪だけの席だ。天野たちにも来てもらいたい」

 土方からの招待に、部下二人は舞い上がった。千鶴がようやく席に戻って来た。斎藤が支えるようにして、自分の隣に座らせると。座布団を二重に重ねて千鶴の腰の下に敷いた。

「大丈夫です。はじめさん」

 千鶴は困ったような顔をして笑っている。斎藤は、「こうしておけば安定する」と静かに応えていた。そんな二人の様子を見て、土方が笑った。

「床にも置かねえ扱いだな」

 冷やかすような口調に、千鶴は頬を赤くしながら、「本当に困ってしまいます」と斎藤の横顔を見た。斎藤は無表情のまま、お膳の上のお茶を飲んでいた。

「でえじな身体だ、十分に守ってもらえ」

 土方は微笑んだ。津島は、確信した。奥さんは腹に子が出来た。横目で、千鶴の様子を見てみた。大事そうに手で擦るお腹は確かにふっくらとしている。さっきまで前掛けで見えなったが、こうやって見ると、帯を上に結んでいるのがよくわかった。縞赤の着物に簡易の紐帯。

「はい、最近は少し動くのが判るようになりました」

 千鶴は嬉しそうに土方に答えた。土方は、「お、そうか。今動いているか?」と訊ねた。千鶴は、いいえ、と笑いながら首を振った。

「動いたら報せろ」

 土方は笑顔で、膝に抱いた豊誠に、「お前の弟か妹だ」と話しかけた。豊誠は「うん」と云って笑っている。天野は隣に座る津島を横目で見た。何もない振りを装っているが、悄然としているのが判った。

(相当に参ってるな)

 天野は内心そう思った。後で、仲にでも誘ってやろうと思っていると。勝手から、大きな荷物を持って、お多佳とおさよが出て来た。今日の仕出しはお多佳が用意したものらしく、片付けも終わったからと千鶴に伝えると、土方達は帰る支度を始めた。
 間もなく、馬車が診療所の前に着くと土方はお多佳と荷物を持って門に向かった。千鶴と斎藤は、門まで土方夫婦を見送った。千鶴はおさよを促すと、おさよも身仕舞をして馬車に乗り込んだ。門の外で、馬車が見えなくなるまで千鶴と子供は手を振り続けた。



***

凱旋式

 居間で寛いでいた部下たちは、そろそろ自分たちもお暇しますと身支度を始めた。斎藤は、明日、午前中に逓信省に馬を取りに行くと予定を説明した。津島は、帰還後に初めての出勤になる。巡察当番の再編がされると説明を受けた二人は、陽が落ちる前に診療所を後にした。

 富坂を下って道を渡ろうとする津島に、天野はこのまま乗り合いで浅草に行こうと誘った。津島は、下宿に戻って荷ほどきしたいと断ったが、天野は無理やり津島を乗り合い馬車に乗せると二人で吉原に向かった。
 馬車の中で、天野は診療所の祝いに来ていた【おさよ】は、料亭名月の中居女中で、西村さんの家に住み込みで働いているらしいと津島に説明した。

「笑うとえくぼが出来る。丸顔のめんこい娘っ子だ」

「奥さんが、倒れてからずっと診療所に手伝いに来てるんだとよ」

「奥さんが倒れたのか。いつだ?」

 津島の声が馬車の中で響いた。天野は「大声を出すなよ」と云って、きょろきょろと辺りを見回した。

「いつかは知らねえ。俺らが豊後に行ってる間だ」
「たぶん、子が出来てじゃねえか。今日はぴんぴんしてただろ?」

 天野はそう話すと、津島はじっと考え込んでいるようだった。天野は、鼻歌を歌いながら持っている鞄から小さな紙の包みを取り出した。中を開くと小さな写真が一枚入っていた。

「これだ。お夏さんが俺の嫁にって」

 そう言って天野は写真を津島に見せた。晴れ着を纏った娘が写っていた。色白で頬がふっくらとしたおとなしそうな様子の女だった。

「雑司ヶ谷で紙の卸をやっている家の次女。歳は十七。どうだ?」

 天野は津島から写真を取り上げると、また紙に包んで鞄に仕舞った。津島は黙ったままだった。

「なんとか言えよ」

 天野は黙っている津島に文句を言うと、津島は、「もう決めたのか?」と訊ねた。

「まだ、決めちゃあいねえさ。まだ会ってもいねえ」

 天野は首元を前から摘まむように掻くと、「今度、叔父貴を連れて雑司ヶ谷に行く」と云った。「その時に顔を合わせる」と天野は、馬車の窓の外を眺めた。津島は、じっと黙ったままだった。

 吉原の仲見世。久しぶりに華やかな宵の町に出た天野は浮かれていた。茶屋に上がり、格子を呼んだ。津島の馴染み【千早】は出払っていると云われた。津島は、残念に思う気持ちとほっとしたような心持ちが半分。千早の許へは、今年の始めに通ったきり。何度も文が届いたが、三度に一度しか返事をしていなかった。今逢ったとしても、釣れない相手にはそっぽを向くだろう。座敷に上がると、千早を思い出す。あの人によく似た女。湯に浸かった姿は白粉もとれて、横顔がもっと似ていた。勝手なものだ。こうして座敷に上がると、面影を追って千早に逢いたいと思ってしまう。

 津島は、代わりに座敷に上がって来た格子に酌をしてもらいながら、ぼんやりと千早のことを考えた。そして、診療所の奥さんの事を想った。

 戦に行って整理をつけた想い
 津軽に戻っている間も
 忘れてしまおうと決心した

 そうするしかない。

 そうするしか



***

おさよ

 夜更けに奥の間から出て来た天野は上機嫌で、座敷で独り酒を飲み続けていた津島を誘って下宿に向かった。

「お前、なんで上がらなかった。あの相方、気に入らなかったか」

 酒臭い息で絡んでくる天野を、津島は引きずるようにして下宿に戻った。

 翌朝、二日酔いだとぐったりしている天野と出勤した津島は、昼前に斎藤と一緒に逓信省に出向いて馬を借り受けた。久しぶりの騎馬巡察。明るい陽射しの午後は暖かくて、品川から築地界隈までを一気に見廻った。斎藤が明るい内に診療所の厩に馬を連れ帰りたいと田丸に申し出て、三時過ぎに津島と退署して小石川に向かった。
 診療所には、千鶴が既に厩の準備をして待っていた。久しぶりに会う雲雀に、頬ずりをして喜んでいる千鶴を見て、津島は自分も一緒に歓待されているような気分になった。斎藤は、馬を繋ぐと、千鶴の手を引いて母屋に戻ってしまった。津島は黙々と独りで馬の世話をした。雲雀の世話が終わって、神夷の蹄鉄の掃除をしていると、厩の戸口に斎藤が再び現れた。

「津島、ご苦労。切りのいいところで母屋に来てもらいたい」

 そう言って斎藤は再び母屋に戻っていった。津島は、蹄鉄の掃除が終わると、手洗い場で手を洗って母屋に向かった。ちょうど、縁側の障子が開けられ、廊下におさよが出て来た。おさよは、深く頭を下げて挨拶をしたので、津島も挨拶を返した。

「津島、すまぬが、乗り合いの停車場までおさよについて行ってやって欲しい」

 斎藤が背後から廊下に出て来た。おさよは、「旦那様、私は帰れますから」と断っている。その背後から千鶴が廊下に出て来た。

「でも、直ぐに陽が暮れて暗くなるから。私が引き留めてしまったばっかりに、遅くなってごめんなさいね」

 千鶴はおさよに謝っていた。おさよは、首を振りながら、そのまま縁側から下りて草履を履くと、風呂敷包みを持って振り返って斎藤達に頭を下げた。そして、津島にも頭を下げて挨拶をすると、門に向かって歩いて行った。津島は、そのままおさよの後を追って行った。
 おさよに追いついた津島は、おさよが持っている荷物を持って黙々と歩いていった。おさよはその後ろをついて行くように歩いた。日暮れは確かに早く、坂下の停車場に着いた時には辺りは暗くなり始めていた。

「ここまで来れば、あとは馬車に乗るだけですので。どうも有難うございました」

 おさよは津島から荷物を受け取ると、頭を下げた。

「馬車が来るまで。ここに居ます」

 津島はぼそっと呟くように応えた。馬車が来るまでの間、二人はじっと黙ったまま、道の向こうを見詰めていた。馬車の灯りが近づき、おさよが馬車に乗ろうとした。

「向島には、御徒町の停留所で吾妻橋方面に向かう馬車に乗り換えれば」

 津島がおさよに教えると、「はい、田原町で名月のお迎えの馬車が来ますので」と応えた。馬車の中で、笑顔で頭を下げているおさよが見えた。黒目勝ちの瞳が、その素直な表情と合わさって。思わず津島は自然に微笑み返した。向島から迎えの馬車が来ると聞いて、津島は安心しながら、診療所に戻った。

 診療所では既に、斎藤が馬の世話を全て終えていた。風呂を沸かしているから、入っていけと斎藤に言われて、津島は子供と一緒に風呂に入った。風呂から上がると、千鶴は子供の着替えをさせながら、夕餉を用意しているからと津島を引き留めた。一家と一緒にとる夕餉。懐かしい日々が戻った気がした。

「明日は、天野が雲雀を迎えにくるのか?」

 斎藤が津島に尋ねると、津島は頷いた。明後日は、凱旋式があるから馬は置いていくつもりだと斎藤は津島に話した。千鶴は、津島に式典にでる制服の準備はできているのかと訊ねた。

「天野さんの制服は、この前、綻んだ場所は繕って火熨斗をかけたんです。もし、津島さんのも必要なら明日持ってきてください」

 千鶴が、津島の制服の準備を申し出たことに津島は礼を言って頭を下げた。こういった気遣いも昔とちっとも変わらない。

「主人は、人出が凄いだろうから凱旋式は観に来るなっていうんです。でも私、坊やと必ず行きますので」

 津島に向かって大きな目をくるくるとさせて話す。奥さんの、この表情が好きだ。津島は自然と頬が綻んだ。自分まで嬉しくなってくる。本当に温かい人だ。津島は、じっと千鶴を見詰めた。何も変わらない。このままでいい。このまま心の中でずっと想っていよう。

 大好きなこの人を

 決して忘れることはできない



******

天覧日本隊整列式

明治十年十一月七日

 朝から快晴でどこまでも青空が広がっていた。千鶴は子供を余所行きの着物に着替えさせ、お弁当を風呂敷に包んで用意した。間もなく、玄関におさよが顕れた。おさよは紅葉をあしらった小紋に同じえんじ色の羽織を羽織っていた。草履も華やかな色草履で洒落ている。千鶴は、家に着くなりお勝手に立って、ぱたぱたと台所の片付けを手伝うおさよに、「せっかくの着物が汚れてしまうから」と居間で子供と待って貰うように頼んだ。
 千鶴は自分も余所行きの羽織を羽織ると、鏡の前の引き出しから紅のはいった容器と刷毛を持ってきておさよの前に座った。

「さ、これをつけて」

 千鶴は、おさよを上に向かせると筆で紅を極薄く引いた。おさよは普段は化粧をしていないが、こうして桃色の唇に紅を引くと一気に娘らしくなった。千鶴に懐紙をそっと唇に当てられたおさよは、恥ずかしそうに瞳を伏せた。

「今日は天子様もお見えになるおめでたい日。これぐらい着飾ってもちっとも恥ずかしくありません」

 微笑みながら千鶴はそう云うと、自分も紅を塗り直して支度をした。そして戸締りを済ませて子供とおさよと一緒に診療所を後にした。

 乗り合い馬車は、飯田町を廻って番町へ出た。道に大勢の人が出ているため馬車が進まず、千鶴はおさよと御堀の傍で馬車から下りた。英女子学校の女生徒が行列を造って、道を歩いていた。千鶴はその後に続いて子供の手をひいて半蔵門に向かって歩いて行った。御門の前では、紙で出来た日章旗を配っていた。子供から大人まで、大勢の人が係りに誘導されて吹上御庭に向かって歩いている。眩しいぐらいの光の中、千鶴はおさよと庭内の見学用に引かれた沿道の最前列に立つことができた。

 間もなく、整列式の開始を知らせる空砲の音が鳴った。はじめさんは、警視隊の一員として、吹上御庭の奥で天子様よりお言葉を賜って、戦役尽力の労をねぎらわれている。立派に国を守った警視官。これほどの誉れはないだろう。庭内の通路際で、今か今かと待っている大勢の人たち。最初に陸軍熊本鎮台、東京鎮台、広島鎮台、大坂鎮台、名古屋鎮台、仙台鎮台の行進が始まった。その後、真っ白な制服の近衛兵の行進。白馬に跨った近衛大将は大層立派で沿道の皆が旗を振って大いに沸いた。

 そして、碧い警視隊の制服が庭の奥に見えた。千鶴は子供に「父さまですよ」と云って抱き上げた。警視庁鼓笛隊の勇ましい喇叭の音が響いた。警笛が鳴って挙手敬礼をした警視隊が沿道の向こうで整列したのが見えた。【警視隊別働第三旅団】と掲げられた旗。その後に川路大警視が騎馬で隊を率いて行進した。カイザル髭に、銀モールの立派な制服を纏った立派な姿。その後に、熊本籠城警視隊、植木口警視隊、豊後口警視隊と旗が見えた。

「豊後口。ほら父さまの部隊」

 千鶴は最後に掲げられた旗を指さした。行進が近づいてきた。旗には【豊後口警視徴募隊】と書かれてあった。

「あれです。はじめさんの部隊」

 千鶴はおさよに報せると、行進が近づいてくるのを心待ちにした。二等巡査の天野が二番小隊の旗頭を務めているのが見えた。まっすぐに腰に旗軸を据えて歩く姿は大層立派だった。千鶴は子供の持っている日章旗を大きく降って、「天野さん」と声を掛けた。

 旗を持った天野は、最前列に立つ千鶴の姿を見つけると右手で挙手敬礼をした。にっこりと笑った天野は、おさよにも笑いかけていた。その後ろに、背の高い指揮長らしい小警部、そして斎藤の姿が見えた。

 眩しいぐらいの立派な姿。誇らしげにまっすぐと背筋を伸ばして歩く斎藤は、蒼紺に銀モールが三本引かれた制服。深く被った制帽の庇の下に碧い瞳が見えた。堂々とした姿は、傍の小警部に引けを取らず、その立派な姿に千鶴は旗を振るのも忘れてうっとりと見詰めていた。

 はじめさん
 ほんとうにご立派です。

 心の中で呼びかける。腕の中の子供が、「あ、とうさま!!」と千鶴の手から離れて、沿道に飛び降りると、一気に駆け寄って行った。斎藤は、息子を片手で高く抱きかかえると、前を向いて、数間先まで一緒に行進した。子供も一緒になって挙手敬礼をしている姿は、沿道の人を大いに沸かせた。斎藤は、駆け寄った係員に子供を渡すと、千鶴の方を振り返り笑顔で頷いた。千鶴も大きく頷きかえして、係員の許に走って行った。その後をおさよが荷物を抱えて追いかけるように走った。ちょうど後続の二番小隊の最後尾を行進していた津島がその一部始終を見ていた。係員に何度も頭を下げて、子供を抱きかかえた千鶴は、再び傍を通る行進を眺めながら、沿道に戻っている。千鶴は振り返り際、津島の姿を認めると、「津島さん」と呼びかけて笑顔で大きく旗を振った。津島は嬉しかった。笑顔で挙手敬礼を返した。千鶴の隣に立つおさよの姿も眼に入った。旗を振る娘の華やかな笑顔。奥さんの御伴におさよが来ているなら、この人出でも心配はないだろう。津島はそんな事を考えながら、行進を続けた。

 天覧の整列式は、正午には無事に終了した。千鶴は沿道を大勢の人と一緒に歩いて虎ノ門に出た。千鶴は久しぶりに虎ノ門署に立ち寄り、田丸に挨拶をしに行った。署の玄関口で、おさよは豊誠を遊ばせながら、千鶴を待っていた。お腹が空いたという子供に、お母さまと一緒にお弁当を頂きましょうと話をしていると、玄関から天野が顔を出した。

「誰かと思ったら、坊ちゃんとおさよちゃんでしたか」

 天野は既に制服の襟を開いて、制帽も脱いでいた。深く挨拶をするおさよに、用向きを尋ねた天野は、「今しがた奥さまが奥の部屋に通された」と聞いて合点がいった。天野の後ろには、いつのまにか巡査の制服を着た者たちが沢山押寄せて来ていた。

 あれが、天野の嫁っ子が?
 ちがう、半隊長の奥方だっぺ

 ちがうちがう、藤田半隊長の奥方はこいな風な髪をゆってだど

 皆が先を争うように玄関口に群がって騒ぎ立てるのを、天野が振り返って「なんだ、おまえらは。失敬千万な」と両手を広げて押し返した。

「こちらは、俺が世話になっている【おさよさん】、そんでこちらは、半隊長のご子息だ」

 二番小隊の宮城班の面々は好奇心旺盛な目でおさよと子供を見詰めると、次々に頭を下げて挨拶をした。おさよは恥ずかしそうに、深く頭を下げて挨拶をした。丁度背後に津島が奥の部屋から出て来て、おさよに会釈した。

「主任の奥さんは、奥の会議室で田丸さんと面会中だ」

 津島はぼそっと天野達に報せると、巡査たちは、ガヤガヤと声を立てて会議室に向かって走っていった。津島もその後を追うように廊下の奥に消えて行った。天野は、「仕方のねえ奴らだ」と云って笑いながら、おさよと子供を署の玄関の中へ招き入れた。

「外は寒いでしょう。ここに掛けて待っていれば」

 そう言って、大きな火鉢のある待合の椅子におさよを座らせた。礼を言って頭を下げるおさよの傍で、子供はお腹が空いたと訴えた。おさよは巾着から小さな紙包みに入った飴玉を取り出すと、子供の口に放り込んだ。そんな二人の様子を天野はじっと観察していた。間もなく、千鶴が廊下の奥から田丸と一緒に戻って来た。その後ろに斎藤、そしてその後ろにわらわらと二番小隊の巡査が付いて来ていた。

 待合で斎藤に会釈をするおさよの許から、子供は千鶴に駆け寄った。千鶴は子供を抱きかかえると、再び田丸と背後の巡査たちに挨拶をして、玄関に向かった。斎藤は、玄関口で息子を千鶴から受け取るとそのまま千鶴の手を引いて階段を下りるのを手伝った。二番小隊の巡査たちは、その様子を見て目を丸くしていた。

 手を引いで歩いでるぞ
 あいなに大事そうに

 あの半隊長が……、あいな顔で

 皆が囁くように言い合っていた。署の門で、会釈をして帰って行った千鶴たちを見送った二番小隊は、その後の宴会の間も

「藤田半隊長にはあいな綺麗な奥方が、」
「おさよって娘っ子もめんこがった」

 ずっと感心し続けた。


*******

十二月の大安の日

 十一月も終わり頃、昼間におさよと一緒に昼餉の用意をしていた千鶴は、中庭に隣家のお夏が来て自分の名前を呼んでいる声を聞いた。

「千鶴ちゃん、忙しいところを悪いね。私はこれから娘の家に泊まりに出掛けるもんでね。もし、天野さんが見えたら、来月の始めの大安の日に先方に伺うと伝えておくれでないかい」

 お夏は、既に出掛ける格好をしていて、三日後に戻るからと急いで行ってしまった。それから夕方に斎藤が天野と診療所に戻って来た。斎藤は、天野におさよを乗り合い馬車の停留所まで送るようにと頼んだ。おさよを送って戻って来た天野は、いつものように風呂に入ってから夕餉を斎藤たちと一緒に食べた。酒を出された天野は、その前にと云って背筋を伸ばして正座し直した。

「主任、今日はお願いがございまして」

 いつもと違いかしこまった様子で話す天野に、斎藤も杯を置いて話を聞いた。

「わたしの叔父貴が、ここのところ具合を悪くしてまして」

 天野は、本所の実家に暮らす叔父が【湿毒】で歩くのにも不自由し始めたと説明を始めた。千鶴は、酒の肴を並べていたが、手を止めて座って話を聞いていた。

「いえ、今度、叔父貴を連れて先方と会うつもりでしたが、叔父貴が箱根に湯治に出ると言い出しましてね」

 天野は微笑みながら話す。千鶴は、急にお夏からの伝言を思い出した。うっかりとしていました。そう言って、天野の話を遮ると、「お夏さんが、来月初めの大安の日にって、天野さんに伝えてって言われてたんです」と失念していたことを詫び始めた。

 斎藤は、何のことだか状況が把握できないでいた。そのまま黙って、千鶴と天野のやり取りを聞いていた。

「来月の大安の日でございますか……」

 天野は薄っすらと笑いながら繰り返している。千鶴は暦を持ってきて、二週目の日曜日だと見せている。

「それでは、その日に主任、お願いいたします」

 天野は頭を下げた。斎藤は、「なにをだ」と訊ねた。

「いえね、わたしは見合う事になってましてね」

「雑司ヶ谷の小津屋という紙問屋の娘と、その……」

 天野はそこまで話して、ぐふっと俯いて照れ笑いを始めた。斎藤はじっと黙ってその様子を見詰めている。

「嫁を貰おうと思っているんです」

 意を決めたように、いきなり顔を上げた天野は真顔で白状した。

 斎藤は驚いた。天野が縁談を進めていたのか。問い詰めると、お夏の紹介で、雑司ヶ谷の紙問屋の娘と見合いをする席に、体調の悪い叔父の代わりに斎藤に出て欲しいという事だった。千鶴は、「やっぱり。そうでしたか」と嬉しそうに笑っている。

「相分かった」

 斎藤は即答した。その隣で、千鶴も「もし先方さまが良ければ、私も行きます」と言い出した。

「はじめさんだけだと、互いに黙ったままで進まないといけませんから」

 千鶴は余りにも的を射たことを言うので、天野は有難うございますと何度も頭を下げた。斎藤は憮然としていた。「誰も進めないとは言ってはおらぬ」と呟くと臍を曲げたように黙ってしまった。千鶴は、いじけたように杯を進める斎藤に凭れ掛かるように座って酌をした。

「それでは来月九日の日曜日。詳しい時間が判ったら、ここから馬車を呼んで参りましょう」

 千鶴はそう言って、暦に印をつけた。


*****

名月でのもてなし

明治十年十二月

 月が明けて直ぐに、向島料亭名月にて宴席が設けられた。土方のもてなしで呼ばれた斎藤たちは、久しぶりに名月の座敷に上がった。女将のお多佳は、東京の味を目指したと言って、旬の野菜を使った一品一品を並べた。斎藤も部下たちも舌鼓を打って喜んだ。
 おさよが給仕の合間に豊誠の相手をしている間、千鶴はゆっくりと食事をとることが出来た。食事が一通り出終わると、座敷に三味を持った地方が上がり、お多佳が舞いをひとさし披露した。豊誠が拍手をしている事に感激したお多佳は、深くお辞儀を返すと「さあ」と両手を広げて駆け寄る子供を抱きしめて喜んだ。その後は、ゆっくりと酒を飲んで土方たちは語らった。

「今日は従軍の労いもあるが、ここはいずれ近い内に閉めようと思っていてな」

 土方が、料亭名月の板前長が昼間からやっている店を始めたことを話した。今戸橋のたもとにある割烹で、夜も吉原へ向かう客で大層賑わっているという。国庫が厳しい今は、政府の役人も高級料亭で宴席を設けることもなく、お多佳は店を開ける機会が無くなって来たと説明した。

「時代の移り変わりでございます」

 お多佳は微笑みながら話すが、美しい瞳は寂しそうな影を湛えていた。こうして、お座敷がある内に、皆さんをもてなすことが出来た事が嬉しいと感慨深そうに座敷を見回した。天野と津島は今晩の宴への招待に感謝した。自分たちでは分不相応で、名月の敷居を跨ぐことは叶わないと言って笑っていると、土方が「ところで、」と話しを遮った。

「天野と津島は、いい相手がいるのか?」

 土方の低い声が響いた。突然の質問に、それまでへらへらと笑っていた天野が「へっ?」と動きが止まった。微笑みながら二人を眺める土方は、もう一度「いい仲の女がいるのか?」と訊ねた。天野は「いい仲ですか?」と聞き返している。

「ああ、誰か決まった相手がいるかってこった」

 天野が漸く合点がいった表情をした。津島はじっと黙ったまま動かない。津島は自分の事を主任の奥さんが見ていると思った。なんとなく、いや、しっかりと、顔の左半分に奥さんの視線を感じた。

「天野には、縁談の話があります」

 斎藤の声が響いた。斎藤が次の日曜日に雑司ヶ谷で見合いの席があることを話すと、天野は後頭部に手をあてて照れ始めた。土方は、そうかと一言呟くと、津島の方を向いた。

「津島、お前はどうだ?」

 土方に訊ねられた津島はじっと黙ったままだった。斎藤が助け船をだすように、「確か、戦役に出る前に故郷で縁談の話があると聞いていたが」と代わりに応えた。

「その話はなくなりました」

 津島は無表情のまま静かに答えた。土方が、もう一度、「いい相手がいるのか」と尋ねると。津島は首を横に振った。「嫁を貰う事は考えたことがあるのか」と土方が尋ねると。

「わたしには相手がおりません」と津島は朴訥と答えた。

「うちのおさよを嫁に貰う気はねえか?」

 土方が津島に単刀直入に尋ねた。土方が突然、おさよを嫁にと言い出して、斎藤も千鶴も驚いた。津島は、まったく表情を変えないままじっとしている。さっきからずっと、津島は千鶴の視線を感じていた。

 沈黙と静けさの中。廊下で膳がぶつかるような音がして、パタパタと音が聞こえた。お多佳が、障子を開けて様子を見に行った。廊下にはお酒の肴の膳が置いたままになっていた。お多佳は、ゆっくりとそれを部屋に運ぶと、斎藤達の前に並べた。

「歳三さん、何もそんな急に勧めなくても。廊下で聞いていたおさよが驚いて部屋に入ってしまったじゃありませんか」

 お多佳が、土方を諫めた。津島も内心で驚いていた。おさよを嫁に。急な話で頭が回らない。隣の天野が口をぽかんと開けたまま津島の横顔を見ていた。いってえ、何が起きている。おさよちゃんと津島が夫婦に。

 夫婦になるって……。

 天野は、鳩尾あたりに思い切り氷の塊を突きつけられたような感覚が走っていた。



***


 宴の後、千鶴たちは馬車を呼んでもらった。天野と津島は、乗り合いを乗り継いで帰ると言って、先に料亭を後にした。玄関口で土方夫婦が二人を見送ったが、最後までおさよは女中控えの部屋から出てこなかった。馬車が来るまでの間、座敷で土方とお多佳がおさよの話を斎藤達に話した。

「おさよは私が芸子に上がる前、まだわたくしの家があった頃にずっと勤めてくださった周五郎さんの孫娘です」

 おさよは向島のずっと先、関屋村の出身だとういう。お多佳の家が取り潰しになった際、最後の最後までお多佳の傍に下男として付いたのが周五郎。深川の揚屋に入った時にも一緒に働き、暫くして周五郎は病で亡くなったとお多佳は話した。その頃に孫のおさよを揚屋の奉公にという話があって、十にもならないおさよがお多佳の身の廻りの世話を始めたのが九年前。禿として素質があるからと、揚屋の女将からも気に入られていたが、お多佳が身請けされた時に、おさよを連れて行くという条件で前の主人が引き取ったという。

「ひととおりのことは、全て身に付けております。どこに出しても恥ずかしくない娘でございます」

 お多佳は背筋を伸ばしてそう云うと、このまま自分の傍に置いたままなのは可哀そうだからと斎藤と千鶴に話した。

「今年で十八。あの子は娘盛りでございます。私みたいな者の傍にいるより、良縁を見つけて幸せになってもらいたくて」

 お多佳は、心からそう願っているのだろう。自分の妹や娘のようだという。かと言って、手放したくないとはいつまでも言ってもいられませんと微笑んだ。

「日野の親戚筋に、おさよを嫁に出す事も考えたが、お前の部下二人は立派な巡査だ。二人とも人柄も悪くはねえ。そう思ってな」

 土方は天野か津島のどちらかなら、おさよを嫁にやってもいいと言って笑っている。お多佳はその隣で、「津島さんも、困っていらしてたじゃありませんか。急に話を持ち掛けるなんて」と小言を言っている。

「なんだ、縁は異なものって云うだろ。津島は大人しい性質だ。仏頂面は、こいつに倣ってんだろ」

 土方はそう言いながら、斎藤に水を向けた。斎藤は、自分が仏頂面と土方に言われて、苦笑いのような表情に変わると。

「急な話で本人は驚いていたようです。津島は生真面目な男です。故郷の縁談も立ち消えということであれば、このまま進めてもよい話だと思います」

 千鶴は驚いた。はじめさんも土方さんも、乗り気でいらっしゃる。確かに、おさよちゃんと津島さんはお似合いの夫婦になるかもしれない。二人はもう何度も診療所で顔も合わしている。それにしても、天野さんも津島さんも、本当にご無事に戻られて。その上、よい縁談の話があって。良い事尽くし。千鶴は二人の事を思って嬉しくなった。お多佳も斎藤が話に乗り気なことを喜んでいた。

 間もなく馬車が到着したと報せが来た。門の外まで土方夫妻に見送られたが、その時になってようやく、おさよが出て来て俯きがちのまま恥ずかしそうに千鶴たちの乗った馬車を見送った。


******

天野のお見合い

明治十年十二月九日 大安吉日

 朝から診療所に現れた天野は千鶴が用意した真っ白な新しいシャツに正装用の制服を纏い髪も綺麗に刈り込まれていた。

 千鶴はお腹が隠れるように、留袖にゆったりとした袴をはいていた。これに余所行きの羽織を羽織った。斎藤は、紺紬の羽織袴を身に着けた。子供は前日に向島に預けていた。お夏が診療所にやって来て、大きな四人乗りの馬車で雑司ヶ谷の小津家の屋敷に向かった。車中で天野はずっと緊張した様子だった。いつものお道化た様子は一切見せず、ずっと黙ったまま馬車の外の景色を見ている。

「この前年が明けたと思ったら、もう師走でございますよ。この時期はせわしないですが、こうやって、見合いの席があれば、春が待ち遠しいものでございます」

 お夏は、ずっと斎藤に向かって話しかけている。斎藤は、微笑みながら相槌を打っていて、時々馬車が揺れると、千鶴を庇うように自分に引き寄せていた。天野は、向かいの席からぼんやりと二人の様子を見ていた。相変わらず、仲睦まじくいらっしゃる。結構なこった。こうして、自分も嫁の手をとって出掛けるようになるのか……。天野はぼんやりとそんな事を考えていた。

 雑司ヶ谷には直ぐに到着した。広い通りに面した大きな店構えの家で、天野は自分の本所の屋敷と吊り合いは取れないんじゃないかと内心思った。奥の座敷に通された天野達四人は、店の主人の小津安之進の前に座って互いに挨拶を交わした。

 正面に座る主人は、顔が馬のように長かった。馬どころか、へちまだ。天野はそう思った。瓜実顔が妙に間延びして、こんなに長い顔の親の子供なら、胡瓜が出て来てもおかしくないと思った。その間、お夏が挨拶をかわし、斎藤が丁寧に千鶴と一緒に紹介をされて挨拶をしていた。天野は自分の名前を呼ばれると、しっかりと両手を畳につけて挨拶をした。

「ご立派な。二等巡査であられると」

 へちま主人が答えた。声もどことなく、瓜っぽく。素っ頓狂な声ではないが、妙に甲高い。天野は「はい」と答えて頭を下げた。すると、障子が開いて見合いの相手が母親に連れられて入って来た。逆光でよく見えないが、華やかな振袖を纏った娘が衣擦れの音と共に目の前の座布団の前に座った。
 天野はちらりと眼をあげて相手を見てみた。写真で見た通り、色白のしもっぷくれの大人しそうな女だった。その隣に座った母親は、同じく色白で顔が楕円を横にしたような。まるで蕪が丸髷の鬘をかぶっているようで。自分の亡き母上が「蕪菁(ぶせい)、かぶら、すずな。みんな一緒でございます」と唄うように教えてくれたのを思い出した。

 この蕪母(かぶらはは)に似て色白、これはいい。そんで、ぷっくらした顔立ちかあ……。天野は段々と遠慮を忘れて、チラチラと相手の様子を確かめた。

「邦保(くにやす)さんは西南の戦で、武功をたてられて」

 お夏は笑顔で、天野がどれだけ立派な巡査であるかと褒め称えている。

 武功でございますか?わたしは、屁のぶーーーーこうでございます!!

 これは、先だっての診療所の帰還祝いの席で披露した駄洒落。あの時は、制服の上着を尻まくりしてお道化てみせた。土方が「やめろ、何処までも無作法だな、おまえは」と口では怒りながら、豪快に笑っていた。

 まさか、ここで尻まくりはできねえな。

「帝都を守るために、馬に乗って巡察されてる姿は、それはもうご立派で、」

 お夏の褒め称えは止まらない。いい加減、自分でも恥ずかしいです。お夏さん。もう、おやめになっておくんなさい。

 やめでぐれ
 やめでぐれ
 やめでぐれーーーーーー

 これは、西南で宮城班の連中がよく叫んでいた。いつもの天野の揶揄や悪戯に、宮城の連中はよく付き合ってくれたもんだ。天野は居心地の悪さから、豊後での夏の日々を思い出していた。命をかけて闘い、仲間と笑い、飲み、語り合った濃厚な日々。あの頃は、東京に帰還して嫁を貰う事を夢見ていた。

 そんで、目の前の嫁だ

 大人しそうな娘はじっと俯いたまま、無表情だった。ちいさな瞳に鼻も口もあるのかないのか分からない程小さくて。羽二重餅が着物を着たみたいな。ぴくりとも動かない。

「ほんとうに望みます以上の良縁で。おほほほほほ」

 蕪母が笑っている。へちま父が嬉しそうに頷いている。自分の左隣に座っている主任の奥さんもずっと笑顔だ。その向こうの。あれ、主任。主任はいつも通りの仏頂面か。あれ、笑ってるのか。あれはあの人にしては百万両の笑顔だ。少なくともそのつもりだ、当人は。

「天野は、状況に敏く、懐の大きな男です。部下として人として私は彼を信頼しています」

 斎藤のよく通る声が実直に響く。あれ、主任。主任まで褒め殺しでございますか。そんなこと仰っても、なにも出やしませんよ。だんだんと天野はやけっぱちな気分になってきた。

「あの、ちょっとごめんなすって。皆さん」

 皆が和やかに話しているのを遮るように天野が顔を上げて止めた。

「今日は私の為にこんな席を設けてもらって有難うございます。私は、今しがたの紹介とは、似ても似つかぬ有様でして。南町奉行に末番同心として勤めた下級武士の家の者です。給金は月七円。家は本所。大きな屋敷ではございません。両親とも他界してまして、足の不自由な叔父がおります。巡査の仕事は昼夜家を空けることも多い。それでも、来てくれるのでしたら」

「贅沢はさせてはやれないかもしれません。でも、私に添ってもらえるなら、後生大事に笑って暮らせるようにします」

 そう言って、天野は前に座る娘に向かって頭を下げた。

 その場はしーんと静まり返った。斎藤も千鶴もじっと天野の目の前に座る娘が何か返事をするものと思って待っていたが。娘はじっと下を向いたまま動かない。何も反応がないまま時間だけが過ぎた。千鶴は、何か言おうと口を開けたが、隣に座る斎藤から「何もいうな」という空気を強く感じた。斎藤を横目でみると、まっすぐに背筋を伸ばしたまま目の前のへちま主人のことも、蕪母のことも、羽二重餅娘のことも見ている様子はなかった。座禅を組んでいるような、全くの無心状態。千鶴は夫を見倣って、じっと黙ったまま座っていた。

 とうとうお夏が痺れを切らしてしまった。

「まあ、ここで直ぐに返事をというのも酷なお話。今日はこのへんにして、また後日にでも。お嬢様のお返事をお聞かせ願えれば」

 お夏は恭しい態度で丁寧に頭を下げた。千鶴と斎藤も一緒に頭を下げた。天野は、じっと正座したままだった。相手は自分の声も聞こえていないのか。緊張して顔も上げられないのか。一体なにが起きているのか判らなかった。お見合いの席はそこでお開きになった。娘は、母親に促されて、畳に手をついて頭を下げた後に座敷から部屋に戻って行った。天野もお夏も斎藤夫婦も最初から最後まで、相手の発する声を聞かないままだった。

 へちま主人と蕪母が店先までお夏たちを見送りに出て来た。天野は深く頭を下げて、店を後にした。帰りの馬車の中で、

「随分と大人しい娘さんだった」
「世間擦れしていない」
「色白でもち肌だった」

 お夏はずっと独りで話し続けた。天野は黙っていたが、小石川に馬車が着いて、お夏が馬車を降りるのを手伝うと、千鶴たち夫婦に深々と頭を下げた。

「本日は、私の為に見合いの席に出て下さって有難うございました」

 いつになく真顔で頭を下げて、お夏にも礼を云うと、踵を返して坂を下って行った。斎藤は馬車を再び出発させると、直ぐに道を行く天野に追いついた。

「真砂まで送ってやる、乗れ」

 斎藤が窓から顔を出して天野を誘ったが、天野は「いえ、結構でございます」と顔をまっすぐ向けたまま坂を足早に下りている。いつもの天野とは違い、真顔のままで歩く様子がおかしい。斎藤は馬車を止めた。そして、先を行く天野の背後から声を掛けた。

「気に入らぬのなら、俺が雑司ヶ谷に出向いて断ってやろう」

 天野は振り返って、首を横に振ると、深々と頭を下げた。それから踵を返すように坂を駆け下りて行った。斎藤は、馬車を再び進めさせた。天野は余程早く駆けていったのか、坂下を通り過ぎた時には、通りのどこにも姿が見えなくなっていた。





つづく

→次話 明暁に向かいて その38







(2019.03.04)

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