
閉塞成冬から春昼
明暁に向かいて その38
明治十年十二月
十二月の中旬を過ぎた頃、東京に初雪が降った。例年になく、毎日厳しい寒さが続いている。
斎藤は剣術指南と騎馬巡察、週に二回の夜行巡察をこなすようになっていた。斎藤が帰還した十月の終わりからほぼ二ヶ月が経つ。千鶴の膨らんだお腹は普通に立っていても目立つようになった。一時期毎日のように通いで手伝いに来ていたおさよは、料亭と向島の家で新年を迎える準備で忙しく、週に二日、日中に千鶴の用使いに通って来るようになっていた。
「今日はゆっくりしておくとよい」
これが斎藤の口癖だった。千鶴がお勝手の土間に下りることも気に入らない様子で。「台所は冷える」「風邪を引いたらどうする」と嫌がる。今朝もお風呂場で残り湯を使って洗濯していた千鶴のところに、一度玄関先まで出たのにわざわざ引き返して来て、「風呂場は冷えるから洗濯は控えろ」と戸口に立って難しい顔をしていた。
千鶴は立ち上がって溜息をついた。前掛けで濡れた手を拭うと戸口に掛けている斎藤の手をとった。
「はじめさんの手の方が、よっぽど冷えていらっしゃいます」
そう言って千鶴は斎藤の手をさすって温めた。憮然とする斎藤の手をそのまま自分の首筋にあてがうと、「ほら」と云って微笑んだ。
「温かいでしょ?わたしの身体はいつもより熱を持っていて、とても暖かいんです」
千鶴は斎藤のもう一つの手を取って微笑みながら斎藤に近づくと、自分の襟元から斎藤の手を懐に入れた。「はじめさんの手、冷たくて気持ちいい」と笑っている。
たなごころに柔らかなあたたかい肌
確かに体温が高い
「熱がでているではないか」
ほぐれるように温まった手で千鶴の柔らかい乳房に触れながら、斎藤は千鶴を抱き寄せた。腕の中の千鶴は、まだくすくすと笑い続けている。
「熱がでているのは普通です。子がお腹にいると。少し熱がでるものです」
斎藤は千鶴を抱きしめたまま、そのこめかみに自分の頬をあてた。熱い、熱を帯びている。でもこれは初めて耳にしたことではなかった。斗南に居る間も同じことを千鶴は言っていた。極寒の北の地。囲炉裏の火も絶えるほど物資が乏しい冬の日々。千鶴は豊誠を身ごもっていた。台所で真水に手をつける千鶴に、土間に下りることを禁じた斎藤は、子がお腹にいるから十分に温かいと訴える千鶴の言う事を聞かなかった。
「これは普通の事です。調子が悪いわけではありません」
微笑みながら顔を上げた千鶴は、斎藤の制服の襟を正して、制服のベルトに挟んである皮の手袋を取ると、それを自分の懐に入れて温めた。
「さあ、はじめさん。お出かけが遅くなってしまいます」
「私は大丈夫です。陽が高くなったら、今日はおさよちゃんが来てくれますし」
千鶴は斎藤を促すように玄関先に出た。懐で温めた手袋を、靴を履き終わった斎藤の手にはめてその上から擦って温めた。斎藤は千鶴を抱きしめると、「無理はするな」と呟いた。千鶴は「はい」と返事をして微笑んだ。大きなお腹を二人で挟むように微笑み合う。気が付くと、玄関先に総司が出て来て、大あくびをしていた。
「ねえ。寒いからいい加減、玄関閉めて欲しいんだけど」
総司は、上り口で恨めしそうに二人を睨んでいた。斎藤は、総司に「千鶴と子を頼む」と笑いながら声を掛けると「行って参る」と云って踵を返して、走って行ってしまった。
洗濯物を済ませて干し終わった頃におさよが現れた。暮れの買い出しに辻のやっちゃ場まで、子供を連れて三人で出掛けた。大つごもりを過ごすまでの食材。乾物はもう全部揃っている。年が明けたら、向島で正月を過ごすことになっていた。斎藤は三十日の朝が仕事納め。斎藤の部下の天野は本所の実家の叔父の世話があるからと、去年のように一緒に年越しが出来ないと報せて来た。津島も仕事納めの後は帰省する予定だった。親子三人きりの年越し。斎藤は千鶴が年の瀬をゆっくり過ごせることを優先した。
のんびりと年越しの準備を進めていたある日、お夏がいい昆布が手に入ったからと診療所の縁側に現れた。千鶴は、ちょうど腰をかけて休もうとしていたところで、居間でお夏にお茶を煎れて出した。
「具合はどうだい?」
お夏は尋ねるとゆっくりとせり出したお腹を抱えるように腰かける千鶴に笑いかけた。
「はい、お陰様で。ここのところ急に大きくなってきて」
千鶴はお腹をさすりながら答えた。お夏は「そうかい、そうかい」と嬉しそうに微笑むと、煎れたてのお茶を飲んで一息ついた。
「あれから天野さん、何か言っていたかい?」
お夏は千鶴に訊ねた。千鶴は、「いいえ、なにも」と答えた。
「なんだかねえ。小津屋のご主人も奥さんも、こっちが伺っても「いいお話で」としか言わなくてね」
お夏は、手に持った湯飲みをじっと見つめながら考えこんでいる。
「肝心の娘が嫁に行きたいのかどうか……」
お夏がそう呟いたのを聞いて、「じゃあ、お返事はまだ?」と千鶴は訊ね返した。お夏は、「そうなんだよ」と云って湯飲みをお膳に置いた。
「もう、暮れも押し迫るのにね。来年までこのままかしらねえ」
小さく溜息をついたお夏は、自分の進めた見合い話がうまく進んでいないのを気にしているようだった。
「はじめさんも、気にされていて。天野さんにどうするのかと訊いてるみたいです」
千鶴は湯飲みに再びお茶を注いでお夏に差し出した。
「それで、天野さんはなんだって?」
お夏は湯飲みに手を伸ばしながら尋ねた。
「それが、天野さんは『何もしようがございません』と答えるだけらしくて」
天野は、あのお見合いの日以来、馬を返しに来てもおさよを送ったまま下宿に戻るようになった。千鶴はお夏に、「天野さん、先週は湯治場へ叔父御さんを迎えに行くからと急に仕事を休んだらしくて」と話した。
「その週はずっと、虎ノ門署に出勤しなくてずっと休まれたそうです」
千鶴はお夏に甘納豆の入ったお皿を差し出した。
「天野はふさぎ込んでおるって、昨日もはじめさんが……」
「天野さんが皆を笑わせないから。署内が静まり返っているらしくて」
千鶴が心配そうに語るのを、お夏が「そうなのかい」と悲しそうな表情になった。
「天野さんには悪い事をしたかねえ」
お夏は、なんとか先方様に早い内にまた返事を貰えるように頼んでみると言って帰って行った。
*******
明治十年十二月三十日
仕事納めの日、斎藤と一緒に天野と津島が診療所に挨拶にやって来た。
千鶴は、朝から手伝いに来ていたおさよと昼餉を用意していた。久しぶりに居間に上がった天野はゆっくりと動く千鶴を見て、庭掃除の手伝いに来ると言い出した。千鶴は天野の申し出に感謝した。
「有難うございます。一通りの片付けは、おさよちゃんが手伝ってくれたお陰で、もう済んでいます。今年はゆっくりしようと思って。はじめさんも正月三が日がお休みなので」
今日は皆さんと揃って、我が家のお正月みたいなものです。戦役もあって。こうして皆さんと無事に年末を迎えられることが本当に嬉しい。一年、お疲れ様でございました。はじめさんの傍にお二人が居て下さることが、どんなに心強かったか。天野さんと津島さんには本当に感謝しています。
千鶴は畳に両手をついて深々と頭を下げて礼を言った。
天野と津島も診療所に戻って来られたのが嬉しいと言って笑った。それから皆で食卓を囲んで夕方近くまで語り合った。おさよが帰る支度を始めると、天野が送って行くといって席を立ち、津島も一緒に帰って行った。
「天野さん、お元気そうでした」
斎藤がお勝手で片付けを手伝っていると、千鶴がそう言ってお茶を煎れる準備を始めた。斎藤は頷いていたが、居間に二人で戻って腰を掛けると、「あいつは、隠して居るが、相当堪えておる」と呟いた。
「本所の叔父御の具合が悪いらしい。湯治先で動けなくなっているのを、一緒に湯に浸かって丸三日足を擦り続けて、ようやく動かせるようになったそうだ」
千鶴は驚いた。湿毒でそこまで悪くなっているとは……。千鶴は天野が気の毒になった。千鶴は縁談が進まない事を気に病んでいるのかと思ったと話した。
「それもある。だが雑司ヶ谷の親御が進めたとしたら、天野はあの娘を貰い受けるだろう」
斎藤はお茶を啜りながら、そう話した。千鶴は「それでは、あのお嬢さんは天野さんの許へ嫁ぎたいって言っているのですか?」と訊き返した。
「いや、それはわからん」
斎藤はぼそっと答えた。千鶴は口を開けたまま、溜息をついた。
「天野は話が進めば嫁に貰うだろう」
斎藤は全てを分かっているように話す。千鶴は些か疑問だった。
「あちらは意思表示もないのに。このまま進むんでしょうか?」
斎藤はお茶を飲む手を止めた。千鶴は、どんなに親が勧める縁談でも、本人にその気がないのを無理矢理では、と首を傾げている。
「その気がない……、小津屋の娘はその気がないのか?」
斎藤が尋ねた。「無理矢理の話なのか?」と千鶴に問いただした。千鶴は、わかりませんと云って首を振った。「でも親が勝手に決めた相手に無理矢理嫁がされるのは嫌です」と真顔で答えた。
私は絶対嫌でした。
千鶴は自分の事を言っているようだった。斎藤は、その昔、千鶴の父親の雪村鋼道が、西国の風間に無理矢理娘を娶らせようとした事を思い出した。
「天野は、あの娘を無理矢理に嫁に貰おうとは思っとらん」
斎藤がきっぱりと言い放った。「お夏さんが進める話を天野は無碍に断ることが出来ぬだけだ」
「あれは、義理堅い男だ。気に沿わぬ相手でも、自分では断らずに娶るつもりでいる」
斎藤のこの言葉に千鶴は何も言えないでいた。気に沿わぬ相手……。そんな、義理の為にだなんて。
「正月が明けて、まだ先方ははっきりとした返事をしてこなければ、俺はもう一度天野の意思を確かめて、先方と話をつけて来る」
斎藤はそう言って黙ってしまった。千鶴は、天野の優しさを思った。相手を気に入る、気に入らないではなく、話が進むことに責任を感じているのだろう。あのお見合いの席での、思い切った申し出も、天野の優しさの上のことだろう。きっと、お夏さんやはじめさんにも責任を感じていて……。
いつもお道化て、人を笑わせるのが大好きなのに。そんなにも思い詰めてしまわれて……。
千鶴は天野の事が気の毒で仕方がなかった。そして、全てを斎藤が取り仕切ると言ってくれていることに安堵した。
*****
明治十一年正月
年が明けて元旦の午後、斎藤一家は向島の土方の家を訪問した。
広間のお膳には豪華な御節が並び、新しい玩具まで用意された居間で子供はおさよに相手をされて思い切り遊び回った。千鶴たち一家は親戚の家に居るような、温かなもてなしを受けた。客間には千鶴の為にふかふかの真綿布団が用意されていた。陽が暮れると、子供は土方とお多佳の許で休み始め、千鶴は客間の布団の上で横になったまま斎藤に優しく腰を擦られていた。斎藤が帰還してから、ずっと眠る前に労わられる幸せなひと時。千鶴はいつの間にか気持ちよく眠りについた。翌朝は快晴で、朝から天野と津島が土方に呼ばれて、新年の挨拶に現れた。二人とも、実家でよい年を迎えたと報告すると、お多佳が用意した御節をよばれ、「本当の正月が来た」と悦んだ。
それから皆で、牛嶋神社まで初詣に出掛けた。お多佳が用意した明るい山吹の紬を着たおさよは、薄く化粧を施し、余所行きの羽織を纏って玄関から出て来た。天野は嬉しそうにその華やかな姿を眺めた。
「西村さん、お多佳さんに主任の奥さん、両手に華どころか、おさよちゃんみたいな向島小町を頭に載っけて。こりゃあ、牛御前さんもびっくりです」
土方は笑いながら頷くと、お多佳と並んで歩いた。お多佳は、紫の総搾りの羽織を纏い、薄紫の大島紬に鼈甲の簪、粋で上品な佇まいは隣を歩く長身の土方と共に道行く人々の目を引いた。お多佳は、界隈で顔が広く、いろんな場所で声を掛けられ新年の挨拶に忙しい。斎藤は千鶴の腰に手を回し、手を引いてゆっくりと歩いた。子供は天野に肩車をされて道の先をどんどんと進んでいた。出店を覗いては、豊誠が指を差して何かをねだっている姿が見えた。その傍をおさよと津島が並んで歩いていた。
土方とお多佳は、おさよが津島と一緒に歩いている姿を眺めては、二人で眼を合せて、なにやら相談をしている様子だった。二人の間では、おさよを津島に娶らせようと決まっているらしく、元旦の夜、おさよが席を外している間にお多佳は翌日に津島を招待してあると耳打ちした。
「おさよに、嫁に行く気はないかときいてみたんです」
お多佳は、微笑みながら千鶴の傍に座って話始めた。
「女将さん、たとえお店が無くなっても。私はずっと女将さんの傍でお仕えしとうございます」
これがおさよの返事だったという。嫁に行くことをどう思うかと問い詰めると、ただ顔を赤くしたまま俯いてしまったらしく、津島の名前を出すと、自分には勿体ない話だからとずっと首を横に振り続けていたとお多佳は話した。
神社の境内に着くと、天野は子供と真っ先に【撫で牛】に願掛けに向かった。叔父の病気治癒の御札を貰ったと嬉しそうに話す天野は、そのまま子供を連れて境内の飴屋に向かった。参拝を終えた斎藤夫婦と土方達は、神社の入り口で皆と落ち合うと一旦斎藤は千鶴を連れて、土方の家に戻ると言った。お多佳も土方と先に家に戻るという。お多佳はおさよに白髭神社の御札を貰ってくるようにと頼んでいた。
津島がおさよに一緒に付いて行くことになった。豊誠を土方が連れて帰ろうとしたが、子供は天野の肩車で散歩をしたいと言い張った。天野は、白髭神社まで坊ちゃんつれて行ってきますと云って、笑顔で坊やを高く持ち上げると、ひょいっと肩車をして道を先に歩きだした。仕方なく、千鶴は天野に子供を頼んでそこで別れた。
白髭神社は大層賑わっていた。境内の石段を登っている間に、天野は津島とおさよを見失ってしまった。参拝を済ませて神社前のお面屋台で、子供にお面を買ってやり待っていたが、津島たちは一向に姿が見えない。お腹が空いたと子供が訴えるので、仕方なく、天野は子供を連れて土方の家に戻った。それから半刻以上経って、ようやく津島とおさよが家に戻って来た。天野にそっくりな男が、子供を連れて墨田川沿いに歩いて行く姿を見かけて、二人で追いかけていたという。寺島の渡しに乗って今戸に向かって行ってしまった天野そっくりな男を、津島とおさよは追いかけようかと河岸で随分悩んだが、一旦家に戻ろうと帰ってきた。
「良かった。坊ちゃんも天野さんも無事に戻られて」
おさよは天野と子供の姿を確かめて、嬉しそうに笑っていた。すっかり遅くなりましたと、食事の準備を手伝い始めたおさよに、千鶴はお茶を煎れて座って休むように勧めた。お盆を持って立とうとした千鶴が一瞬後ろによろめいた。津島が咄嗟に手を出して抱きかかえるように支えた。千鶴の顔が津島の目の前にあった。千鶴の長い睫毛が一瞬津島のこめかみに当たった感触があった。ほぼ鼻と鼻を突き合わせるぐらいの距離で、鼻腔に飛び込んできた甘い香りに一瞬我を忘れて、津島は千鶴を強く抱き寄せた。
「すまぬ、津島」
背後から斎藤の声が聞こえて、腕の中の千鶴は、するりと抱きかかえられて離れて行った。全身が熱い。目の前に見えた奥さんの唇。もう少しで自分の唇と触れそうだった。心臓の鼓動がとてつもなく早くて、その音が皆に聞こえているのではと思った。ゆっくりと顔を上げると、部屋の入口に立った天野がじっと睨むように自分を見ていた。千鶴が斎藤に助けられながら、お膳の前に腰かけているのが見えた。お茶をどうぞという千鶴の声が聞こえて、皆が膳の周りに集まった。津島は、お多佳に言われておさよの隣の席についた。
遅い昼餉は牛鍋だった。
食事を取りながら、臨月に入った千鶴が外出もままならなくなる前に芝居小屋に行こうという話で盛り上がった。天野が「助六」なら私もご相伴仕りたいと笑っている。
「あ、煙管の雨がー、降るようでー」
「よおっ、成田屋」
天野の独り芝居と独り声掛けが始まった。千鶴とおさよは箸を置いて、口を覆って大笑いしている。斎藤は微笑みながら、牛鍋を突いて酒を飲んでいた。日が近い内がいいと、正月明けに女衆だけで、新富座に行くことに決まった。陽が暮れかけた頃、ほろ酔いの天野と津島は、向島を後にした。
天野が牛嶋神社の御札を実家に納めに立ち寄るのに、津島も付き合って一緒に本所に向かった。天野の実家では、叔父が大きな炬燵に半身をつっこんだまま横になっていた。下女が熱燗を用意して、暫く三人で飲んだ。天野の叔父御の足は、常に温めておく必要があるようだった。叔父を奥の間に寝かせてから、天野は津島と下宿に向かった。乗り合いを下りて本郷に続く道を歩きながら、天野は津島におさよを嫁に貰う気があるのかと訊ねた。津島は、ずっと黙っていた。何も応えない津島に、再び天野は尋ねた。
「おまえ、西村さんにおさよちゃんを嫁にどうだって訊かれてたじゃねえか」
津島はそれでもずっと黙ったまま何も答えなかった。しーんと冷える夜の空気の中、二人の歩く草履の音だけが響いている。
「お前あの子の事どう思ってんだ?」
真砂の角を曲がった時に、天野はもう一度訊ねた。津島は前を向いたまま、
「あの子は、確か十八だったな」と呟いた。
「故郷の妹と同じだ」
津島はそう言ってまた黙っている。天野は津島に妹がいるのは知っていた。
「暮れに津軽に戻ったら、妹に縁談の話が来ていた。いつまでも子供だと思っていたのに」
「酒田だ。遠い親戚筋のところへ春になったら嫁に行く」
津島は遠くを見るような表情で喋っている。故郷の妹が嫁ぐのか。天野は、津島の家が兄夫婦の代に変わったと聞いていた。津島はとつとつと話している。母親も隠居し、妹も庄内へ嫁いでいく。津軽に帰っても、自分の居場所はないような気がすると、津島は寂しそうに笑った。
下宿について、そのままそれぞれの部屋に戻った。天野は翌日から仕事始めだった。制服や刀の準備をして、早めに寝床に入った。仰向けになって天井を眺めて、結局津島がおさよを嫁に貰うのかどうかを聞きそびれていたことに気が付いた。
「あいつ、いってえどっちなんだ……」
天野は暗闇で独り言ちした。
(良かった。坊ちゃんも天野さんも無事に戻られて)
昼間、そう言って笑っていたおさよの顔を思い出した。笑うと右の頬にだけ笑窪が出来る。黒目勝ちで丸顔の明るい笑顔。
天野は目を瞑った。じんわりと鳩尾の辺りが温かい。
(あんな笑顔をずっと見てられたら、そりゃあいいよな……)
津島のことが羨ましいと思う気持ちに蓋をして、天野はぎゅっと目を瞑って無理やり眠った。
******
翌々日、仕事始めの斎藤と天野は騎馬巡察で築地界隈を見廻った。
昼には、藪蕎麦で卓袱と田楽を食べた。斎藤は、蕎麦を食べ終わると、天野に小津屋との縁談の話はどうなったと訊ねた。天野は「何もございません」と答えた。
「先方の返事を近く、伺いに行こうと思っている」
斎藤は静かに話した。その前に、お前自身、あの娘を嫁に貰う気があるのかと訊かれた。天野は、黙ったままだった。
「お夏さんや先方への義理立ての必要はない」
斎藤はきっぱりとそう言った。
「先方と何の約束事も、結納も交わしてはおらん」
「夫婦になる意思がお前にあるのか」
じっと天野の目を見詰める斎藤の双眸は、厳しいながらも優しさを湛えていた。天野は、首を横に振った。
「もう長く、小津屋の娘さんの事は忘れておりました」
「今は、嫁に貰うことは考えていません」
天野がそう静かに答えるのを、斎藤は「そうか」と云って頷いた。
「それでは、明日。雑司ヶ谷に出向いて、先方にそう伝えて来よう。お夏さんにも俺から伝えるが、お前からも近いうちに小石川に来て、直接お夏さんに断るとよい」
斎藤にそう言われて、天野はお夏に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。「はい」と返事をすると、斎藤は湯飲みに残ったお茶を一気に飲むと、立ち上がった。
「お夏さんは、進まぬ縁談を持ち掛けてしまって、お前に悪かったと云っている。ここできっぱり話をなかった事にすれば、お夏さんもこれ以上気に病むこともない」
斎藤は、だから安心しろと言って微笑んだ。津島は、有難うございますと深々と頭を下げた。どんどんと気分が晴れていく気がした。
*****
明治十一年一月八日
松の内が明けた翌日の昼過ぎ、騎馬巡察に築地にでていた斎藤と津島は、新富座の和泉屋に立ち寄った。ちょうど土方がお多佳と千鶴を連れて昼の懐石をよばれていたところで、お座敷の隅でおさよが豊誠に食事を食べるのを手伝っていた。斎藤たちも一緒に運ばれた膳を食べると、女たちは、わいわいと芝居を観に新富座に向かって行った。おさよから豊誠を預かった土方は、これから靴工場で仕事をした後に、向島に子供を連れ帰ると言う。
「津島、お前に話がある。ちょっといいか?」
斎藤の背後に立っていた津島が頷いた。土方は、子供の手を引いて銀座方面に歩き始め、斎藤と津島はその後に付いていった。銀座煉瓦街の西洋茶屋に入ると、二階の個室に通された。土方は、重厚な造りの椅子に子供と一緒に腰かけると、店の主人に「いつものを」と注文した。間もなく西洋茶が運ばれて来た。土方は手際よく、ポットから器に茶を注ぐと、子供に牛乳と砂糖をたっぷり入れて差し出し。残りを斎藤と津島にすすめた。津島は、斎藤がするのを真似て牛乳を注いでカップに口をつけた。
部屋には大きな真四角の鉄の箱のようなものが置かれて、その中では火が炊かれていた。部屋は暖かく、土方は上着を脱いで寛いでいる。椅子にゆったりと掛けて足を組んだ土方は、ゆっくりと西洋茶のはいったカップと皿を手に持って津島に微笑みかけた。
「前にも訊ねたが、おさよのことだ」
「おさよと所帯を持たねえか?」
津島は、椅子に背筋を伸ばしたまま真っすぐ土方に向き合っていた。土方は、お多佳と相談をして、津島にならおさよを嫁にだしたいと思っていると話した。
「実直で純朴なお前ならと、お多佳は言っていてな」
おさよは、関屋村の百姓の出だ。だが、そこらの武家の女にひけはとらねえ。作法、礼儀、芸事。全て身について居る。お多佳が手を取って教え込んだ。気立てもいい。どこに出しても恥ずかしくねえ娘だ。
「お前が気に入らねえなら、仕方がない。だが、嫁を貰うことを考えているなら、相手にどうだって話だ」
土方はそこまで言って、テーブルのお皿の上にあったビスケットをとって、お茶に浸して食べた。津島はじっと黙ったまま座っていた。斎藤は、静かに土方と同じように菓子を食べていた。暫くの沈黙の後、津島は静かに話し始めた。
「わたしには勿体ない話です」
「……今は巡査の仕事を続けることに精一杯で、所帯を持つことは……」
津島は伏し目がちにテーブルに視線を移すと、暫く考えこんだ。
「考えさせてください」
そう言って津島は頭を下げた。土方は「ああ」と答えた。「お前に押し付けて居る訳じゃねえ。気が進まなければ、いいんだ」と笑った。津島は下を向いたまま、また頭を下げた。テーブルにあったビスケットを全て、豊誠が平らげていたことに気づいた土方は、ビスケットのお代わりを頼むと、もう一杯お茶を飲んで腰を上げた。
「忙しいところを悪かったな。今日は、坊主は家で預かる。千鶴は芝居が終わったら馬車を呼んで診療所に送り届けることになっている」
土方は、斎藤に心配はいらねえといって店を出ると、靴工場に向かって子供と歩き始めた。斎藤と津島は、再び巡察をしながら築地方面に向かった。
*****
雪の夜
一月の中旬が過ぎたある日、どんよりと曇った空から、細雪が降り始めた。朝早くから診療所に手伝いに来たおさよは、あわてて洗濯物を取り入れると、細かいものは火熨斗をあてて乾かし始めた。来月、いよいよ千鶴は産み月に入る。いつも診てもらっている産婆に、早めに生まれてくるかもしれない、いつでもお産できるように準備しておくようにと云われた千鶴は、古くなった浴衣を解いて沢山のおしめを作った。土方からもらった柔らかいメリヤスの生地で産着は縫い終わった。診療所の奥の間をお産の部屋に決めた千鶴は、古い布団を出して積んでおいた。沢山の敷布と大きな盥。新品の晒し。準備は万全だった。
「奥様、どうぞ気持ちをゆったりとお持ちになってお過ごしください。寒い時期に生まれる赤子は強い子に育つといいます」
おさよは、そう言って千鶴を安心させた。おさよは関屋村の家で、小さな弟や妹が生まれた時に女衆として手伝いをしていたという。「大仕事ですから、いまの内にゆっくりとなさって」と笑っている。
午後早くに、斎藤が天野と一緒に馬を連れて帰って来た。今日は神田から上野方面の巡察だったらしく、昼過ぎに雪が積もり始めた為、巡察を切り上げた。斎藤は、神夷と雲雀を逓信部でなく、診療所の厩に停留させると決めた。今年は、極寒の日が続いているため、年明けに逓信部の山形が、いつもの倍の量の干し草を診療所に届けてくれていた。
「今日の午後は、厩の防寒作業をする」
斎藤は、昼餉を食べている間、天野に作業の説明をしていた。
干し草の塊を壁一面に積む。
炭を起こして火鉢に入れる。糞尿路の掃除。大掛かりだ。
天野はずっと頷いていた。千鶴は、天野に着替えの作務衣を用意していた。それから夕方までかかって斎藤たちは厩の整備作業に追われた。汗だくで戻った二人に熱い風呂を沸かして入ってもらうと、千鶴は早めの夕餉を用意した。外の雪は本降りとなっていた。しんしんと降り積もる雪を雨戸の隙間から眺めた千鶴は、総司と坊やの為に湯たんぽを作って、敷物の上に置いて、毛布をかけた。総司親子は簡易炬燵の中でぬくぬくと昼寝をしている。その傍で豊誠は絵草子を熱心に眺めていた。子供は字を読めないが、描かれている武将の絵が気に入っているらしく。源頼光と四天王が土蜘蛛退治をしている場面をなんども繰り返し頁をめくっていた。
食卓に全員が並ぶと、斎藤は天野に今日はこのまま診療所に泊まっていけと云った。翌日の天気にもよるが、晴れたら昼から騎馬巡察、このまま雪が解けなければ徒歩で出勤の予定だった。天野は「お言葉に甘えて」といって頭を下げた。おさよも今夜は、こちらでお世話になると云って笑った。天野はこの雪の中、おさよが向島に戻る必要がないとわかって安堵した。
夕餉を食べ終えた後は、晩酌となった。千鶴が子供を風呂に入れるといい、斎藤も一緒に再び風呂に入った。その間、居間で独り酒を飲む傍で、おさよがお酌をした。
「奥様が、風呂場で足を滑らせるといけないって、ご主人が必ず手を引いて入られるそうです」
おさよが、斎藤が千鶴を大事にしている様子を微笑みながら話す。
「いつも、『腹帯をはじめさんに締めて貰うと、ずっと緩まなくて心地がいい』とおっしゃっています」
天野は、おさよの話に耳を傾けていた。そう言えば、時折主任が、「今日は早く帰る。帯を締める故な」と呟きながら帰っていくのを何度か耳にした。
(腹帯か、奥さんのことだとは思ったけどな……)
天野は、酔いが回っている頭でぼんやりと考えていた。目の前のおさよは、天野にお酌をしながらも、ぱたぱたと片付けを続けている。いつの間にか診療所の奥の間も、火鉢に炭が起こされ、天野の布団も準備されていた。子供が湯から上がってくると、おさよは手際よく着替えさせて、二人で追っかけあいをするように奥の間に入って行った。その後、斎藤が千鶴の手を引いて、奥の間に行ってしまった。居間に戻って来たおさよは、再び天野にお酌をして、火鉢の炭をつついて火を起こした。
「もう奥様はお休みになられます。すぐに旦那様はこちらへ」
そういいながら、火鉢の傍で温めた半纏を天野の背中に掛けると再びお勝手に消えて行った。あったかい……。天野は「ありがとう」とおさよが消えて行った廊下に向かって呟いた。
その後、天野は居間に戻った斎藤と酒を酌み交わし、すっかり深酒になった。夜更けに診療所の奥の間に横になりに行った天野は、布団の枕元に水差しと湯飲みが載ったお盆が置いてあることに気が付いた。どこまでも気が利いている。天野は冷たい水を飲んで一息ついた。
布団には、火熨斗を布に包んだものが入っていて温かい。天野は行灯の灯を消して、布団にもぐった。
それから数刻して、天野は厠に行きたくて目が覚めた。水を飲み過ぎたか。ここまで深酒すると、翌日仕事中も酒が残る。天野は厠に向かった。外は、凍るような寒さだった。震えながら、手水場で手洗いをして縁側に飛び移った。そのまま廊下を診療所に行こうとすると、母屋の廊下が明るくなっているのが見えた。
天野が覗いた時、居間の廊下の雨戸が開いているのが見えた。ちょうど、お風呂場の戸口から、誰かがしゃがみながら後ろ向きに出て来た。おさよだった。浴衣姿で裸足のまま脱衣所の床を拭いているようだった。風呂場からの湯気を逃すのに、雨戸を開けているようだった。
おさよは天野が見ているのに気づかぬ様子で、風呂場からでてくると、膝をついたまま廊下から外を眺めていた。青白い光の当たった横顔は、昼間に見る時より随分と大人びて見えた。
暫くそうやっていて冷えてきたのか、おさよは自分の両手に息を吐いて温めた。それから雨戸をしめようとしたが、戸口が引っかかっているのか、なかなか閉めることができない。立ち上がったり、しゃがんだりを繰り返しているおさよに、天野は近づいていった。手前の雨戸をずらして、桟の溝に戸をはめ直して戸締りをした。おさよは、廊下に膝をついたまま天野に囁くように礼を言った。暗い廊下で、互いの顔がはっきりとは見えない。
「雪が綺麗でした」
そう呟くおさよの声がした。天野は、一度閉めた雨戸をまた少し開けた。目の前には一面に真っ白な中庭が見えた。しーんと静かな中に、月明かりが反射して煌めくような雪の表面が浮かび上がっていた。暫くの間、二人で覗き込むように雪景色を眺めた。
見下ろすようにおさよを見ると、吐く息が白くなっている。
「湯冷めするといけねえ」
天野は自分が話しかける息が、酒臭いのが気になった。おさよは「はい」と素直に返事をした。天野は雨戸を閉めると、暗闇の中でおさよの声が聞こえた。
「おやすみなさいませ」
おさよの浴衣を着た後ろ姿が見えた。振り返りながら、もういちど頭をさげた姿に天野は頷くと、自分も診療所の布団の中に戻った。
じんわりとしたぬくもりに
心がほぐれながら
青白く浮かんだおさよの横顔が目に焼き付いて離れない
同時にどこか心にぽっかりと穴が空いたような
天野は頭を抱えて寝返りを打った。
無理矢理目を瞑って、布団を頭から被った。
*****
翌朝、天野は玄関先の雪を集めて小さな雪だるまを作った。朝餉の前に、起き出した子供ともう一つ中庭に雪だるまを作った。植木の上に積もった綺麗な雪を集めて来た二人に、おさよは南天の実とゆずり葉を取って来て、雪兎を作って千鶴を喜ばせた。その間、天野と坊やは二人で雪合戦をして思い切り遊んだ。総司親子は、敷物の上の炬燵から一向に出てこない。千鶴が毛布をめくると、総司は眠そうな目で恨めしそうに睨み、坊やはすやすやと仰向けになって両手両足を伸ばして眠っていた。千鶴は、くすくすと笑いながら「お邪魔しました」と再び毛布を掛けておいた。
雪まみれになった天野と子供が部屋に戻ってきて、着替えを済ませると、皆で朝餉を食べた。朝日がでて、温かいのですぐに雪は解けそうだった。斎藤は、午後に馬で出ると天野に告げた。それから斎藤と天野は厩周りの雪掻きと、馬の世話をして昼餉を食べると出掛ける準備をした。
「おさよ、今日はもう向島に戻るとよい。停留所まで送って行こう」
斎藤は、おさよを馬に乗せると言い出した。おさよは「いいです。旦那様。私、馬になんて乗れません」と云って首を横に振った。千鶴は自分の袴を出してきて。跨らなくても、横に腰かければ、坂道を雪どけ道を歩くより安全だからといった。
おさよは千鶴に袴を履かされ、肩掛けを頭から被るように巻かれて表に出た。神夷と雲雀が門口に並ぶと、斎藤が足台を持って来て登った。おさよが呼ばれて、斎藤が手を引いたが。天野が、「乗せるなら雲雀の方が、背中が低いから」と提案しておさよを抱えて雲雀に乗せた。恐々と震えているおさよを見て、天野は意を決したように自分もおさよの背後から鞍に跨った。
「この方が、安定している。おさよちゃん、ここに掴まるといい」
そう言って、鞍の前の反りかえった部分にもう一本手綱を回して掴まらせると、背後から包み込むように手綱をとった。おさよは、頷いたまま緊張した表情で千鶴に会釈した。千鶴はおさよの荷物を、斎藤に渡した。
「お気をつけて。天野さん、よろしくお願いします」
千鶴が天野におさよを頼んで、斎藤たちはゆっくりと雪の残る道を下っていった。
坂下の乗り合い馬車の停車場には長蛇の列が出来ていた。乗り合いは時間通りに動いていないらしく、斎藤は、おさよをそのまま向島まで送って行くことに決めた。ちょうど、帰りに神田、上野地区を巡察できる。天野は頷くと、おさよの態勢が安定するように自分に引き寄せた。おさよは、ずっと身を固くして緊張していたようだったが、天野が時折、冗談を言って笑わせているうちに、首を左右に向けて景色を楽しむようになった。ゆっくりと歩を進めながら、吾妻橋を渡ると、おさよはいつも馬車からみる眺めとは違うといって悦んだ。
土方の家に着いた斎藤は、お多佳に声をかけた。天野はゆっくりとおさよを抱えて馬から降ろすと、おさよは頬を赤くしながら頭を下げた。お多佳はおさよが馬に乗って帰ってきたことに大層驚いていたが、雪の積もる中をどうも有難うございますと斎藤達に礼を言った。
再び馬の背中に乗った斎藤たちに、おさよとお多佳は何度も頭を下げていた。
「初めて馬上移動した者にしては、怖がらずにいたな」
斎藤は、おさよが気丈に馬に乗っていたことを褒めた。天野は「はい」と返事をした。自分の腕の中でおさよは、景色を楽しんでいたと笑った。
「それは頼もしい。妻もそうであった。最初は怖がっておったが、直ぐに乗馬をするようになった」
斎藤は懐かしそうにそう云うと、手綱を引いて早歩に切り替えた、天野も斎藤に追いつき午後は二人で広い範囲を騎馬巡察して帰った。
*****
明治十一年二月
千鶴は産み月に入った。月の十日も過ぎる頃には、厳しかった寒さも陽の明るさの中に幾分か緩んで来た。最近は、毎日おさよが診療所に足を運ぶようになっていた。
斎藤は、津島が診療所に立ち寄る日にはおさよを向島まで送っていくように頼んだ。土方から縁談の話を進められている津島は、返事をまだしていないようだった。斎藤は、津島とおさよとの話には干渉しないようにしていた。天野の見合いの時のように、自分が関わると、旨く行く話も進まないような気がしていた。
後で知った事だったが、津島がおさよを送って行くとお多佳は津島を土方が戻るまで引き留める日もあったという。傍から見ていると、おさよを憎からず思っているように見える津島に、内心お多佳はやきもきとしていた。だが、朴訥で物静かな津島の人柄を思うと、あまり強く話を進めることは敢えてしなかった。土方は、さらに余裕を持って二人を眺めていた。
「あの斎藤だって、千鶴と夫婦になった」
夜、寝間の中で土方は斎藤と千鶴の馴初めをお多佳に話してお多佳を安心させた。
ある日、天野が夜の巡察から下宿に戻った時に、津島がちょうど外から帰って来た。早番でとっくに退署していた津島が制服のまま戻って来た事を天野は訝った。津島は、酒が入っているようだった。天野は津島を銭湯に誘った。冷えた身体が風呂で十分に温まって下宿まで気持ちよく歩いていた。津島からふと、今日は向島に乗り合いでおさよを送って行き、向島の家で夕餉を食べて帰って来たと聞いて、天野は衝撃を受けた。
「お前はおさよちゃんと縁談が進んでるのか?」
天野が訊ねたが、津島は考え事をしているようにずっと黙っていた。天野は、返事をしない津島を横目で見て、それ以上何も言えなかった。向島の夫婦が進める縁談なら、進まない筈はない。天野は鳩尾に暗い大きな穴が空いたような気がした。
それから天野は、津島が向島に出向いているのが気になって仕方がなかった。下宿に戻ると、津島の部屋の前で声をかけて部屋を覗いた。その日、津島は部屋で横になっていた。何かを後ろに隠した様子の津島を問い詰めると、手には銀の髪飾りを持っていた。天野は絶句した。
「戦から戻ってから、何度も奥さんに返そうと思っているが、まだ返せていない」
起き上がって思い詰めたように俯く津島に、天野は何も言えないでいた。こいつは主任の奥さんのことをまだ……。どうしようもない奴。
「風呂に行くぞ」
天野は津島を誘って銭湯に向かった。熱い湯に浸かってさっぱりとした後に、居酒屋で一杯呑んで帰った。以前の天野なら、「奥さんの事はさっぱり忘れて、いい娘を嫁に貰え」と云えただろう。だが、天野は喉に塊がつかえたように、冗談も何も出てこない。二人でただ黙ったまま、夜道を下宿に戻ってそのまま其々の部屋に戻った。
天野はそれから悶々とした数日を過ごした。
そして、ある朝、下宿の洗面所で顔を洗う津島のところへ現れた天野は意を決して宣言した。
「お前が貰わねえなら、俺が貰う」
津島は、突然背後から大声が聞こえて、顔を上げて振り返った。濡れた顔を手拭で拭うと。背後に立つ天野が真顔で、「おさよちゃんのことだ」と云った。
津島は黙ったまま小さく頷いた。天野は冗談を言っているのではないことが判った。天野は津島の横で勢いよく顔をバシャバシャと洗うと、髭を当たり始めた。津島は、先に出勤するとぼそっと言うと、そのまま支度をして下宿を出た。
それからの天野の行動は早かった。午前中の巡察が終わると、その足で向島に出向いた。ちょうど、土方が在宅中で、突然玄関先に現れた天野に何事だと玄関先に出て来た。天野は突然の訪問を詫びた後、おさよちゃんを嫁に貰いたいから来ましたと挨拶した。お多佳も土方も口が開いたまま言葉が出て来ない。
「とりあえず、上がれ」
土方は、天野を居間にあげると、お多佳はお茶を煎れて天野に差し出し、自分も土方の隣に座った。天野は背筋をぴんと伸ばしたまま、「今日、伺ったのはさっき言いました通り、おさよちゃんを嫁に貰いたくて」と話した。
「わたしは、おさよちゃんに惚れています」
「あの子と添えるなら、こんなに嬉しいことはありません」
土方とお多佳は黙ったまま聞いていたが、土方が天野に「縁談があるって話はどうなってんだ」と問いかけると、「破談になりました」と答えた。土方は、「それで」と天野に続きを促した。
「西村さんたちが、津島との縁談を進められているのも知っています」
津島は、いい奴です。あいつが娶るなら、諦めようと思っていました。でも、おさよちゃんに会ってる内に、私は津島にも誰にも渡したくないと思うようになりました。
「自分勝手なのは百も承知です」
「お願いします。おさよちゃんを私にください」
天野は畳に手をついて頼んだ。土方はお多佳と眼を合せた。お多佳は、「どうぞ天野さん、お顔をお上げになって」と云って微笑んだ。
土方は暫く腕を組んで考えこんでいた。津島との縁談は、進めちゃいるが返事はハッキリとない。そこに天野が「くれ」と乗り込んで来た。津島と天野、津島と天野。おさよを、どっちにやればいいんだ。
「おさよは両親とも死に別れて、私が親代わりのようなもの。どうぞ、大事にしてやってください」
お多佳は、畳に両手をつくと深々と頭を下げた。土方は驚いた。お多佳があっさり天野にやっちまうって返事をした。顔を上げたお多佳が嬉しそうに微笑んでいる横顔をみて、土方も頷いた。
「急な話だが、そんなとこだ」
土方は切り返すように天野に返事をした。お多佳が、今晩にでもおさよに私から話をしますと天野に話すと、天野は急に顔を赤くして俯いた。
「でも、おさよちゃんが津島と一緒になりたいのなら諦めます」
天野は顔をあげると、「そうなったら、わたしの事なんてうっちゃってやって、二人の事進めてください」といって再び頭を下げた。お多佳は、そんな事にはなりませんという風に首を横にふりながら微笑んでいた。土方は笑いながら、いい話があったところを悪いが、もう仕事にでかけなくちゃあならねえと云って腰を上げた。
天野も土方と一緒に向島の家を後にした。道の角で梅の花がほころんでいるのが見えた。メリヤス工場に向かう土方と別れ、天野は晴れやかな気分で、吾妻橋の方へ向かって速足で歩いて行った。
天野の申し込みは、その晩お多佳からおさよに伝えられた。おさよは、顔を赤くして俯いたままだったが、お多佳から「真剣に心を寄せられて、一緒になるのは幸せなことだから」といわれると、瞳から涙をポトリと落として頷いた。お優しい天野さんの許なら喜んでと返事をしたおさよは、両手をとって喜ぶお多佳に涙顔で大きく頷いて微笑んだ。
翌日には、天野の下宿へ土方とお多佳から電報が届いた。
コウバイホコロブホンジヨヘアイサツウカガイタシ
天野は飛び上がって喜んだ。そのまま津島の部屋に向かい、「お前には悪いが、おさよちゃんは俺が貰うことになった」と宣言した。津島は「そうか」と返事をしたきり、目の前で大喜びする天野を眺めていた。故郷の妹も天野も良縁に恵まれて。そうか……。もうすぐ診療所でも、奥さんに子が生まれてくる。津島は、自分の周りに春が訪れることを思った。
それから数日が過ぎたある朝、津島と天野が虎ノ門署に出勤すると、珍しく、朝礼の途中で斎藤が遅刻をして来た。巡察の準備が始まると、斎藤は津島に声をかけて二人で逓信部に預けている馬を取りに玄関に向かった。
巡察に出る天野と玄関口であった斎藤は、天野に明日も馬は逓信部に置くと伝えた。
「主任、なにか芝口で御用ですか?」と訊ねた。毎日、馬を逓信部に預けるのは移動の手間がかかる。何か、芝方面で厄介事が起きているのかと天野は訊ねた。
「いや、診療所に馬を置くのを控えたいだけだ」
斎藤は答えた。
「妻が今朝がた、産気づいてな。神夷は、千鶴に何かが起きていると心配して落ち着かぬ」
津島は驚いた。奥さんは無事だろうか。斎藤は平静を装っているが、巡察を終えたら直ぐに家に帰ろうとするだろうと思った。天野は、「いよいよですね」と笑っている。無事にお子さんがお生まれになるように、金毘羅さんに願掛けてきましょうと云って巡察に出掛けて行った。
千鶴は、斎藤達が心配する中、診療所の奥の間であっという間にお産がすすみ、産婆が到着して三十分もしないうちに元気な男の子を生んだ。前日から泊まりがけで来ていたおさよが、苦しむ千鶴を励まし、腰を擦りつづけていた。おさよは大鍋でお湯を大量に沸かして、赤子が生まれる準備をほぼ完ぺきに進めていた。隣のお夏に頼んで、電報を打ってもらいお多佳も駆け付けた。斎藤が午後早くに家に戻った時には、産婆は帰った後で、千鶴は息子と一緒に診療所の奥の間で横になったまま休んでいた。
斎藤は安堵した。小さな新しい命。優しく抱きかかえた赤子は、睫毛が長くて微笑むような表情で眼をつぶっていた。横になったまま千鶴が微笑んでいる。
「生まれた時は、力強く泣いていました。豊誠にとても似ています」
両手を力いっぱい握りしめて。そう言って千鶴は、喜ぶ斎藤の顔を眺めた。玄関先が騒がしくなり、土方が駆け込んで来た。豊誠を抱きかかえると、生まれたばかりの赤ん坊を眺めて感嘆の声を上げた。
「堂々としたいい赤子じゃねえか」
そう言って、斎藤から子供を受け取ると嬉しそうに抱きかかえた。お多佳と二人で愛おしそうに眺めては、「おい、目を開けねえのか」などと話しかけている。千鶴と斎藤は、土方の悦び様を見て目を見合わせて微笑んだ。
*****
沐浴仙人
産後、千鶴は翌々日には床上げして、母屋の奥の間で赤ん坊と過ごすようになった。お多佳とおさよが毎日交代で診療所に来て、家事や豊誠の世話をしている。千鶴は、ゆっくりと赤ん坊の世話に専念することが出来た。
暖かい陽射しが縁側から居間に入ってくる午後、お多佳は大鍋にお湯を沸かした。ちょうど三時を回った時に、玄関先に土方の馬車が到着した。土方は、鞄持ちの【中田】という男と大荷物を馬車から降ろすと、そのまま居間にやって来た。大きな敷物を居間に広げて、お多佳と一緒に、大きな盥を居間に運んできて、中にお湯を張った。土方は、それから助手の中田に、火鉢の炭を起こして部屋をもっと温めろと指示をして、腕まくりを始めた。
奥の間から千鶴が子供を抱いてくると、土方は「起きてるか?」と張り切った声をあげた。千鶴は首を横に振って、火鉢のそばの敷物の上でゆっくりと赤子を寝かせた。おくるみから赤子を出すと、そっと一番上の産着を脱がせた。土方が、「さあ来い」といって赤ん坊を優しく抱き上げた。
「どうだ、坊主。気持ちいいだろう」
土方は、部屋の真ん中に置いた盥に赤ん坊をつけて湯あみさせた。赤子の小さな手にお湯で濡らした晒しをかけるように、お多佳が手伝った。子供は眠ったまま気持ちよさそうに足を伸ばしている。
「そうか、そんなに気持ちがいいか」
土方は、嬉しそうに声をかけながら、お湯に浸した晒しで赤ん坊の頭を拭っている。大きな手でささえられた子供は、じっと目を瞑ったまま微笑むような表情をしている。
「笑っていやがる、そうか、気持ちがいいだろう」
土方は手際よく、お湯から子供を上げると、お多佳に用意させたふかふかのメリヤスタオルで子供を包んだ。髪や身体をやさしく抑えて拭き取ると、お多佳がおしめをつけて新しい産着に着替えさせた。土方は抱き上げると、おくるみに包んで、じっと顔を覗き込んだ。
「こいつは大物になる。堂々として逞しい男になるぞ」
土方は、千鶴が乳やりを始めたのを見届けると、中田に促されて居間を片付け始めた。そして、時計が三時四十分を指すと玄関の馬車に乗り込んだ。
「明日も三時だ」
大きな声でそう叫んで、風と共に立ち去って行った。土方は、毎日、午後三時きっかりに現れて、赤ん坊を湯あみさせて風のように帰って行った。お夏は、土方のことを【沐浴仙人】と呼ぶようになった。
「ほんとうに、仙人様のようだよ。可笑しいねえ」と笑っている。
土方の沐浴は、温かくなるまで居間を使い、次第にお風呂を沸かして赤ん坊と一緒に入るようになった。斎藤が、父親の俺より土方さんの方が赤子に触れておると笑っている。本当にそうだった。向島の夫婦は、子供たちを自分たちの子供のように可愛がっていた。
子が生まれてひと月が経った大安吉日に、本所の天野の屋敷で、天野とおさよの結納式が執り行われた。斎藤夫婦が仲人となった席で、天野は大いに喜び照れながら、冗談を言って皆を笑わせた。天野の叔父は足の具合も良く、少しずつ歩けるようになっているという事だった。終始和やかな雰囲気で卯月の大安に祝言を挙げることが決まった。
*****
春昼
三月のお彼岸も近い頃、千鶴は乳やりを終えて子供を寝かして一緒にまどろんでいた。
縁側にまどろむように丸くなった猫の総司の傍に背中を向けて座る総司の姿が見えた。そして中庭には近藤の姿が現れた。
「総司、無沙汰だったな」
前に進んでくる近藤は、笑顔で昔とちっとも変わらない。千鶴は起き上がると、縁側に出て挨拶をした。
「やあ、雪村君。ここに来るまでに、桜並木を通って来た」
近藤は、肩に載った桜の花弁を手に取ると、千鶴に渡した。もう桜が咲き始めているのかしら。そんな風に思いながら笑顔で花弁を受け取った。近藤の大きなごつごつとした手。
お茶を煎れて縁側に座った総司と近藤に差し出した。
「こうやって戻って来られるのも、幽世のうつろいがあればこそか」
近藤は、感慨深そうに呟いた。
「そうですね」
総司は微笑んでいる。
「近藤さん、最近、僕は夢ばかりみていて、眠っているのか起きているのか。自分でもわからない」
近藤は、眉をあげるような表情で総司に振り返った。
「もう近い気がします」
総司がそう伝えると、「そうか」と近藤は頷いた。近藤は、お茶を飲み終わると身仕舞を整え始めた。千鶴は奇妙な既視感に見舞われた。春昼の出来事。いつかも……。
「近藤さん、お待ちになってください。もうすぐはじめさんが戻られます。どうか夕餉を一緒に」
「雪村君、美味しいお茶をご馳走になった。有難う」
白い光に近藤が包まれ始めた。
「総司、今まで本当によくやった。武士は悔いを残さず。思い残すことなくしっかりとな」
総司は素直に「はい、近藤さん」と微笑んでいる。大きな手で頭を撫でられている表情は幼い子供のようで。口角をあげて見上げるように微笑む総司は、「近い内に」と呟いた。近藤は「ああ」と微笑みながら光に溶けていく。
「雪村君、総司が世話になった。ありがとう……」
はい、近藤さん。そう答える自分の声も白い光に消えていくようだった。春昼の光。
まどろみのなかに
ありがとうございました。
いつも守ってくださって。
見守ってくださって
千鶴は桜の花弁を手に握りしめたままそっと眠りについた。
つづく
→次話 明暁に向かいて その39へ
(2019.03.23)