秘密

秘密

薄桜鬼小品集

 西本願寺に屯所が移って一年が過ぎた頃のこと。

 斎藤は土方への巡察報告を終えて自室に向かう途中、渡り廊下の階段に腰かける平助の背中を見た。その向こうには雪村千鶴が正座して黄表紙を手に持っている。近づくにつれ、千鶴の声が聞こえてきた。

「魚の眼といえる腫物を取る呪のこと」
「うおの目なおらざるに、なめくじをとりて、魚の目の腫物の上へ乗せおくに、治る事奇々妙々の由。ためし見しが無相違いなきと、同僚の語りぬ」
「なめくじか」
「わたし駄目。絶対に触りたくない」
「ずっと乗せておかねえと駄目なのかな」
「そんなことするぐらいなら、切っちゃう。魚の目は焼いた鋏で切れば治るもの」
「それな、次は?」
「いぼをとる呪の事。雷の鳴る時、箒にて、いぼの上を二三遍はき候えば、奇妙にいぼとれ候由。ためし見しに違はざるよし、人のかたりぬ」
「まだあるよ」
「黒胡麻を、いぼの数をかぞへて、土中へ深く埋め置き、胡麻くされ候得ば、いぼも失せ候なり。深く埋うむるは、芽を不出さず、くさらするためなり」
「黒ゴマか。深く埋めればいいのか」
「父さまはいぼを切り取ってた。すぐに血がとまって、数日すれば治ってた」
「呪いがきかなきゃ、切っちまうしかねえよな」

 千鶴がふいに顔を上げた。
「斎藤さん、おかえりなさいませ。巡察お疲れ様です」
「ただいまもどった」
「お、はじめくんが戻る時間か。オレもそろそろ行かねえと」

 平助が刀を持って立ち上がった。午後の巡察に行ってくると、平助はそのまま廊下を表階段に向かって駆けて行った。千鶴も立ち上がって、袴の埃を払うと、自室に向かう斎藤に背後から声をかけた。

「斎藤さん、お部屋にいらっしゃいますか」
「ああ、午後は非番だ」
「それでしたら、お茶をお持ちします」
「たのむ」

 千鶴はパタパタと勝手口に向かって走って行った。

 斎藤が部屋で隊服を脱いで足袋を履き替えていると、千鶴がお茶を運んで来た。小さな小皿に打ちもの菓子が載っている。

「これは昨日、土方さんのお使いで四条に行った時に買ったものです」
「お駄賃だって、少し私にくださったから。よろしければ」
「こんなに小さな細工がしてあって、口に入れると甘く香ばしくて」

 斎藤は千鶴に勧められるままに桔梗をかたどった落雁を口に入れた。確かに甘くてよい風味がする。熱い煎茶を啜り、さらにもう一つ菓子を口に放り込んだ。

「うまい」

 千鶴は満足そうに眼を細めている。斎藤が畳の上に置いた湯呑みをお盆に乗せた千鶴は、そっと脇へ寄せた。二人で向かい合わせに座ったまま、互いに暫く見つめ合った。背筋を伸ばした千鶴は何か言いたげである。斎藤は、何も考えずにただ待った。

「あの、斎藤さん」

 何かを言いかけた千鶴は、そのまま続けられず思案顔をしている。斎藤はただ待った。

「あの……斎藤さんは秘密がありますか」

 斎藤は応えずに黙っている。無表情な様子に、千鶴はどこか居たたまれない心持になって、まごまごと指と指を重ねたり握り絞めたりを繰り返している。

「秘密がどうした」
「どうしたって、秘密は秘密です」
「ひとは誰でも秘密があるものです」

 斎藤がじっと黙っているので、千鶴は一方的に喋り始めた。私にも秘密があります。誰にも言っていない秘密が。斎藤さんもきっと秘密をお持ちでしょう。誰にも言えない、言ってはいけない事。それが秘密です。

 千鶴が真っ黒な大きな眼を真ん丸にして、一生懸命に捲し立てる様子がおかしく、斎藤は心中で笑いが込み上げてきた。だが表向きは表情を一切変えずにいると、千鶴は再び問うてきた。

 ——斎藤さんは秘密がありますか。

「ある」

 斎藤の実直な答え方に、千鶴は安堵した表情を見せた。それまでの緊張が解けて、「わたしもあります」と悦びながら応えた。笑顔になった千鶴は、「誰にもいえない秘密です」と嬉しそうに宣言した。そして畳に手をついて立ち上がると、さっと廊下の障子を閉め始めた。

「秘密に鍵をかけるお呪いがあるんです」

 ぴったりと閉めた障子を背にした千鶴は微笑みながら、「二人で鍵をかけあうんです」と言った。そしておもむろに着物の袂から黄表紙を取り出した。さっき平助と廊下で読んでいたもので、「耳嚢 巻の六」と表紙に書いてある。

 ——秘密に鍵をかける呪い。秘め事を教えた時に、相手の瞳に己の姿を映し御座すれば、心の内に鍵掛候由。永遠に秘される事也。

 千鶴が開いた黄表紙にそう書かれてあった。千鶴は斎藤の目の前まで近づいてくると背筋を伸ばして正座した。口元を手で隠して少し咳払いをすると、「わたしからお話します」と唐突に話し始めた。

*****

千鶴の秘密

 わたしがまだ小さかった時。家の近所に「川口屋」という一文菓子屋がありました。麦こがしが美味しくて、よく買いに行っていました。ある日、父さまから貰った一文を握って、ひとりきりで川口屋に行った時に、お店にいつもいるお婆さんが居なくて。

「おばあさん、麦こがしをくださいな」

 なんど呼んでも返事がない。だから私は、店先にあった麦こがしのはいった袋を台からとって、お店の奥に行って、上り口に一文銭を置きました。

「おばあさん、一文置いたよ」
「おばあさん、わたし麦こがしを持って行くから」

 それでも返事がない。私は困ってしまって、何度も一文銭を置いた事を上り口から中に伝えました。

「おばあさん、わたし持ってかえるね」
「おばあさん、ほんとうにわたし麦こがし持ってっちゃうから」

 そう言って右手でお菓子の入った袋を握りしめて、左手で上り口に置いた一文を手に取ったんです。

「わたし、おあしを持って帰っちゃうから」

 何度も念を押しながら、お店の外にでて、もう一度大きな声で、「わたし、ほんとうに持って行くから」と言っても、誰も返事をしてくれない。

「だから、そのままお足を払わずにお家に帰っちゃったんです」
「家で麦こがしを食べて、持ち帰った一文銭は見つかってはならないと引き出しにしまいました」
「盗んじゃったんです、わたし。川口屋さんから麦こがし」
「その後も、一文をお店に返せずに、ずっと」

「いくつの時だ」

 斎藤が初めて口をきいた。

「五つぐらいです。初めて一人きりで一文菓子を買いに行った日のことです。よーく覚えています」
「わたしは盗人です。お足を持ち帰ったことを、父さまにもお隣に住んでいるお夏さんにも、誰にも言えなくて。一文銭もずっと隠し続けて今も江戸の家にあります」
「誰にもいえない秘密です。初めて人に話しました」

 千鶴は静かにそう言うと、ふうっと深く息を吐いてから放心したような表情で斎藤の顔を見た。暫しの静寂。斎藤は表情を変えずにじっと膝に手を置いたまま座っている。千鶴は何も言えずにじっと待った。

「鍵を掛ければよいのか」

 おもむろに斎藤が尋ねた。千鶴は大きく首を縦に振って頷いた。そして、斎藤に近づいて瞳を覗き込んだ。紺碧の双眸に、自分の姿が映る。千鶴は正座したまま心中で秘密が永遠に秘するようにと願った。

「これでよいのか」

 暫くして斎藤が静かに尋ねた。千鶴はこっくりと頷いた。鍵がかかった。これで大丈夫。千鶴は緊張が解けて、ほっと一息ついた。胸のあたりのわだかまりが無くなったような。心持ちが軽くなった気がした。同時に斎藤の膝の上に置いていた自分の右手に気が付いて、さっと引っ込めた。いざるようにして後ろに下がると、丁寧に頭を下げて礼を言った。

「ありがとうございます」

 顔を上げた千鶴は、嬉しそうな笑顔を見せた。そして、そのままじっと正座して、斎藤の顔を見詰めていた。沈黙の後、「あの」と千鶴が首を傾げた。

「次は、斎藤さんの番です」

 千鶴は、「話せ」とでもいうように顎を持ち上げる仕草を見せた。斎藤は考えた。己の秘密。

「童の頃の秘密か……」

 斎藤の尋ねるようなひと言に、千鶴は「はい」と頷いた。斎藤は一息おいてから話を始めた。

*****

斎藤の秘密

 俺が数えで九つぐらいの時、友が神隠しにあった。

 同じ弓町に暮らす甚吉とは、いつも一緒に遊んでいた。櫻木神社の境内で、あの日も近所の者たちと隠れ鬼をして遊んでおった。俺が鬼で、皆が境内のあちこちに隠れた。

「お社の脇に大きな札入れがあって、隣に落ち葉を入れる大きな木箱があった。雨避けの蓋が屋根のようにかけてある。背丈より高い木箱の中に隠れるには、少々骨が折れた」

 斎藤は懐かしそうな表情で話を続けた。

「鬼の俺は皆を捕まえたが、甚吉だけは見つからぬ。落ち葉入れの木箱の蓋には、近くの大木の枝にひっかけた縄が結び付けてある。それを引っ張れば、うまく重い蓋でも動かすことが出来た。俺は縄を引いて木箱の中を覗くと、甚吉が中に隠れていた」

 ちょうど日暮れ時で、一緒に遊んでいた者の母御が迎えに来た。「夕餉の刻だから、皆早く家にかえれ」と言われて皆が家路についた。俺が家に帰って夕餉を終えて暫くすると、家の戸を叩く音がした。母親が戸口に出ると、近所の者が石橋の甚吉が行方知れずになっていると云う。昼間に遊びに行ったきり家に帰ってこない。一緒に遊んだ子供たちの家を尋ねて歩いたが誰も行方を知らないという。

「はじめ、甚吉っちゃんが家に戻ってないってよ。おまえ、一緒に遊んでいたんだろ」

 母親に訊かれて、俺は甚吉と神社で隠れ鬼をして遊んだと答えた。

「一緒に帰ったのかい?」

 俺は首を横に振った。母親に、別の友達の母御に「家に帰れ」と言われて直ぐに帰ったと答えた。

「独りで走って帰ってきた」
「甚吉っちゃんは一緒じゃなかったのかい」
「ううん」
「最後におまえが甚吉っちゃんを見たのはいつだい」
「神社の中、木箱の中に甚吉が隠れていた」

 何度も母親に「神社だね。木箱の中だね」と念を押された俺は頷くしかなかった。近所中の人達が夜半までかかって探したが、甚吉は見つからなかった。神社の木箱の中も確かめたが中は空っぽで、甚吉はそのまま行方しれずになった。甚吉の母御が、半狂乱のようになって近所中を探し回っていた姿を俺は見た。俺はその後も甚吉の母御の姿を見る度に、夕暮れ時の神社の木箱のことを思い出した。

「あの日、俺は神社を出る時、後ろを振り返った。木箱の蓋が大きく揺れていた。大木に引っ掛けた縄がずるずると動き、その先を引っ張る甚吉の姿を一瞬見た気がした」

 ——甚吉は身を翻すように境内の向こうに消えた。家とは全く反対方向の杜の奥へ隠れ鬼でもしているかのように。

「俺はその事を誰にも言わなかった。甚吉がなにゆえ家とは逆の方向に駆けて行ったのかわからず、己の記憶がただおかしくなっているような気もした」

 斎藤はそれから黙ったまま、何も言わなくなった。碧い双眸は哀しそうな様子で伏見がちに畳を見詰めている。千鶴は斎藤に近づいていった。斎藤の膝に置かれた手の上に自分の手を重ねるようにして、下から斎藤の顔を覗き込んだ。

「鍵を掛けてください、斎藤さん」

 斎藤は「鍵を……」と言いかけた。顔を上げた斎藤の目の前に千鶴は顔を寄せると、しっかりと斎藤の両目の瞳を見詰めた。斎藤は真剣な表情をしている。全く動かない斎藤に、千鶴は痺れを切らしたように更に近づいて、両手を斎藤の胸に置いて自分の瞳を覗き込んでもらうように顔を近づけた。

「おい、斎藤。いるか」

 その時、障子の向こうから誰かの声がした。障子が勢いよく開いて、明るい光が廊下から射した。そこには原田左之助が立っていた。

「わるい、取り込み中だったか」

 原田は口を開けたまま何もいわずに踵を返すと、廊下をすたすたと表階段に向けて歩いて行った。斎藤は咄嗟に立ち上がって、物凄い勢いで原田を追い駆けていった。

「左之、待て」

 斎藤が背後から呼びかけても、左之助は足を止めずにどんどん歩いていく。漸く追いついた斎藤は左之助の肩に手をかけて強引にふりかえさせると、「なに用だ」と叫んだ。左之助は、薄っすらと微笑むような表情で斎藤の顔を見た。まるでからかうように、両の眉毛を上にあげている。

「用があって来たのだろう。用件を言え」

 斎藤は掴みかかる勢いで尋ねた。

「今日の夜の巡察当番が変更になったのか訊きたかっただけだ。勝手口に行けば、源さんが居るだろうから、今から行って確かめる」
「変更にはなっておらん。今晩は六番組と十番組が当番だ」
「それならいい。ありがとうよ」

 左之助は、再び前を向いて歩こうとしたが、首だけを斎藤に向けて謝った。

「さっきは悪かった。不躾にいきなり障子をあけちまって」
「千鶴が待ってんだろ?」
「雪村は待ってはおらぬ」

 斎藤は一段と大きな声で否定した。

「言っておくが、俺等はあんたが思っているような事はなにもしておらぬ」
「あんたは誤解している」

 左之助が歩を止めた。

「誤解も何も、俺が野暮だったことは確かだ。取り込み中だったんだろ」
「と、と、取り込んではおらぬ、俺等はただ」
「俺が目にしたことは、誰にも言わねえよ」

 左之助は鼻から抜けるような音をたてて笑った。

「秘密は守る。そら、千鶴が待ってんだろ。俺はもう行く」

 左之助は真面目な顔をして言うが、どこか冷やかすような目線を向けて来る。斎藤は自分の紅くなった頬をしっかりと見られている事を自覚していた。狼狽していると思われている。秘密を守ると云われても……。俺はなにも秘密など……。いや待て、確かに秘密だ。雪村と秘密の鍵の途中であった。茫然と立ち尽くす斎藤を置いて、左之助は微笑みながら廊下を歩いて行ってしまった。

 斎藤が自室に戻ると、千鶴は部屋の真ん中で静かに座っていた。斎藤が障子を閉めるのを待っているようだ。再び二人で膝と膝をつけ合せるように向かい合った。千鶴は、「斎藤さん」と呼びかけて、斎藤の両手を手に取った。

「鍵かけは必要ありません」
「斎藤さんが話して下さった事、わたし誰にも言いません」

 千鶴は心配そうな表情で斎藤を見上げた。

「お友達の甚吉さんが行方しれずになったのは、斎藤さんのせいではありません。斎藤さんは悪くありません」

 温かな千鶴の小さな手は、しっかりと斎藤の手を包み込むように握りしめ、千鶴はその大きな黒い瞳で慈しむように斎藤の瞳を覗き込んでいる。斎藤は、不思議と何か解き放たれるような心持がして、喉からとつとつと言葉がついて出てきた。

「話は終わってはおらぬ。俺は甚吉を見つけた。あの神社の日から何年も後にな」

千鶴は口を開けたまま言葉が出てこない。

「甚吉は辻芸の軽業師になっておった。幼い時より身が軽かった甚吉は篭脱けを通りで見せていた」
「辻芸一座と旅回りをしてたつきを立てていた」

 甚吉と再会したのは偶然だった。甚吉は見物客の中にいる俺に気付き、声を掛けてきた。俺は心底驚いたと同時に甚吉が生きて目の前に現れたことを殊の外嬉しく思った。元服していた俺は、久しぶりの再会を祝うために品川の煮売り屋で甚吉と酒を飲んだ。話は甚吉が突然櫻木神社で行方がわからなくなったあの日の事になった。

 ——神隠しではない。俺は逃げたんだ。おとっつあんの折檻が怖くて。

 甚吉の父親は酒癖が大層悪く、毎晩酒に酔った勢いで甚吉を殴ったり蹴ったりしていたそうだ。甚吉は夜になるのが心底嫌だったという。あの日甚吉は家には二度と戻らないつもりで木箱から出て逃げた。路頭に迷っているところに、辻芸人の一座に拾われて軽業を覚え、旅回りをするようになったという。他人の家の事情とはわからぬものだ。甚吉がそんな目に遭っていることなど、俺や俺の親は知る由もなかった。

 甚吉が無事に生きていること。それを俺は甚吉の母御に知らせなかった。甚吉が神隠しに遭ってから間もなく、甚吉の父親は亡くなり母御は弓町を出て箪笥町の親戚の元へ身を寄せていた。俺は今も、甚吉の名を呼んで探し回っていた母御の姿を思い出す。甚吉が家を疎んじて逃げ出したと今更伝えても、お袋様は悲しむだけだろう。俺は全てを秘密にした。甚吉が生きていること。あの日、甚吉が何もかもを捨てて逃げたことを俺は誰にも言わぬと心に誓った。

 話し終わった斎藤は、ゆっくりと千鶴に近づいて、その大きな瞳を覗き込んだ。千鶴の長い睫毛が小刻みに揺れているかのように見えた瞬間、大粒の涙がぽろぽろと零れるように流れ出た。きらきらと光る瞳に己の姿が映っている。斎藤はそっと左手の掌で千鶴の頬に触れると、親指で涙を拭った。千鶴の小さな口元から震えるようにむせび泣く息が漏れた。涙が流れる美しい瞳の中に己の影が映ったのが見えた。どうか秘密がこれからも守られるよう。自然と心の中でそう願うことが出来た。千鶴の手は変わらずに斎藤の膝の上の右手を優しく握り、斎藤はそのぬくもりを十分に感じ取ったと思うまで、ずっと黙ったままでいた。

「鍵はかかった。礼をいう」

 最後にそう伝えた時、頬の涙は既に乾いていて、千鶴は優しく微笑んでいた。

 

(2021/09/13)


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