二つ星

二つ星

慶応二年九月の終わり頃

 平助が屯所で新八と左之助を捜しまわっている。陽が落ちる前に一緒に出掛ける約束をしていたのに、姿が見えない。ぐるぐると廊下を歩き回り、ようやく二人の姿を見つけると、引っ張る様にして、屯所の前から出掛けて行った。

 翌日も、同じ様に三人で出掛けて行った。出掛け先は島原である事は確か。平助に新八と左之助は付き合わされているらしい。

 次の日の夕方、千鶴が広間での食事の後に、近藤と土方に呼ばれて席を立った。膳の片付けは斎藤が買って出た。土方は、平助と新八にも手伝うように言って席を立った。台所で洗い物をする平助は、どこかそわそわと落ち着かぬ。皿を扱う手も、あらぬ方を見ているので危なっかしい。

「どうした、平助。椀が流れていったぞ」

 斎藤が声をかけて我に帰った平助は、おっと、と言って木の椀を取り戻すと、順番に洗っている。

「平助は、もう【千鶴】に逢いたくて逢いたくて、溜まんねえんだよな」

 新八が皿を片付けながら、からかった。

【千鶴】に。斎藤は、隣で頰を赤くする平助を見ながら、洗った皿を手拭いで拭いていた。

「もう、これ片付けたら、直ぐだからな。今日は、左之が奢ってくれるとよ」

 新八は、にんまり笑いながら片付けを進めた。斎藤は、平助達がおそらく島原に呑みに出掛けるのだろうと思った。そこに左之助が現れた。

「もう、終わったか?今日はいつもの時間より早く行った方がいい」 そう言って平助を急かす。

「わかったよ、左之さん。もうちょっとだから」

 焦る平助に、斎藤は「用があるなら片付けはやっておくから行け」と言って、残りの作業を引き受けた。平助は、「本当に?」と喜んで、礼を言うと、作業も途中に新八と勝手口から消えて行った。

「俺は後で追いかける。席を温めておいてくれ」

 門に向かう二人に左之助は声をかけると、台所に戻って斎藤を手伝った。

「平助の奴、島原の娼妓に通い詰めてんだ」

「ゆうべ裏を付けた。今日で馴染みになるんだとさ」

 斎藤は微笑みながら皿を洗っていく。【千鶴】という名の女か。そう思った。

「今月に入ってからだ。平助の奴、島原で千鶴そっくりな妓を見つけた、って大騒ぎして。俺らにも見てくれって誘われて見に行ったら、確かに似てんだ」

 斎藤は手を止めて左之助を見た。左之助は笑いながら、

「ウチの千鶴程別嬪じゃねえが。横顔がな。確かに似ていて気立てもいい、名前も【千鶴】だし。平助の奴、すっかりのぼせ上がっちまって」

 斎藤は、片付けを済ませると、左之助に礼を言った。

「なあ、斎藤。一緒に行かねえか。まだ新八達は、茶屋に上がってる頃だ。【千鶴】の顔見るだけの俺らも付き合いだ、一緒に呑んで。その後残りたければ残りゃあいいし」

 斎藤は、翌日は昼まで非番だった。久しぶりに左之助達と呑みに出掛けるのも悪くない。それに、千鶴に似た女を見て見たいという好奇心もあった。あの平助が馴染を作ったと聞いたのは初めてだった。

****

 斎藤たちが茶屋の座敷で一頻り飲んだ後に、座敷替えになった。平助は嬉しそうに膳を前にして笑っている。障子が開いて、娼妓が挨拶をして入って来た。けわいを施した女は、千鶴ほど大きな瞳ではない。正面からだと少し目が離れていて可愛い女だった。だが、襟を抜いた肩から首の線が細く、平助の前に座った女を横から見ると、確かに長い睫毛や口許などが千鶴を思わせた。

 斎藤は、杯を進めながら、時折、隣の女を眺めた。平助は酌を受けながら、嬉しそうに話し掛けている。ふと、手を伸ばし身体を傾ける仕草が、千鶴に似ている。斎藤は、女の白粉を塗った小さな手を見ていた。女はお銚子から離した左手をふと胸元に持って行った。合わせを押さえた時に、大きく開いた胸元にほくろが見えた。斎藤は、目線を外して杯をぐいっと空けた。

 向かいの席から、左之助が斎藤に笑いかけていた。一部始終を見られていたか。斎藤は、恥ずかしくて段々頰が熱くなって来た。酒のせいもあるが、今夜はおかしい。千鶴に似た女が、こうして平助の相手をしているのも落ち着かぬ。

 そろそろ用意がと、奥の間が整った知らせが来た。新八はとうに自分の相方を決めていた。斎藤は、今夜は帰ると座敷を後にした、左之助も懐から百文だけ取り出すと、此れでと、残りの銭袋ごと新八に投げた。新八は嬉しそうに、「よっ、太っ腹」と言って受け取った銭袋を懐にしまって奥の間に消えて行った。

 斎藤と左之助は大門を出て、ゆっくりと屯所に歩いて行った。

「なかなか似てるよな。いつか、千鶴が丸髷に結って紅を引いた時を想わせる。さっきの【千鶴】は大坂の新地から最近移ってきたらしい。旦那も付いてねえみたいだし、気に入ったから、早いうちにって平助が張り切ってんだ」

「平助は囲うつもりなのか」

「さあな、今夜でやっと馴染みだ。これから決めるんだろう」

 幹部は屯所の外に別宅を持つ事を許されているが、近藤以外で別宅を構える隊士を斎藤は知らなかった。

 斎藤は、廓に上がる事はあっても馴染は居なかった。女に情を感じると、新選組の務めに障る気がしていた。一歩、屯所の外に出ると明日をも知れぬ身。そんな己が女を囲う事はない。

 左之助に表階段で呑み直そうと誘われたが、斎藤は断った。そのまま、部屋に入って眠った。隣の千鶴の部屋も灯りは消えていた。

 斎藤は夢を見た。

 小綺麗な座敷で夕餉を食べていた。台所から千鶴がお銚子を盆に載せて入ってきた。いつもの千鶴だが、女の格好で髪を下ろし、浴衣を着ている。お酌をしながら、「今日もお務めご苦労様です」と言って、斎藤に微笑みかける。そうだ、ここは俺の別宅だ。中堂寺南町にある。斎藤は杯を受けた。千鶴は微笑みながら、給仕をしていた。部屋は、ぼんやりと薄暗い。

 斎藤さん、私には星が二つあるんです。

 いつの間にか、場面は変わっていた。月明かりだけが部屋を照らす座敷で、斎藤は、千鶴の目を見た。さっきまで、降ろした髪だったのが、丸髷に結って、口許には紅が引いてある。

 浴衣の襟は抜かれ、斎藤の前に足を崩して座っている千鶴は、艶な様子で、斎藤は首筋から肩、胸、腰、足と目線を移して行った。裸足の足先は小さく、踝と細い足首が見えた。

 胸の真ん中に。

 そう言って、千鶴は胸を小さな手で押さえた。

 知っている。

 夢の中の斎藤は応えた。

 長い針でこの星を突いたみたいに、背中の同じ場所にもう一つ。

 そう言って千鶴は、斎藤に背中を向ける。ゆっくりと襟を拡げて、肩から浴衣を降ろすと、背中の肩甲骨の間にほくろが見えた。

 二つ目の星

 千鶴は俯き気味にじっと動かない。頸から美しい首筋になだらかな肩、脇から背中にかけて華奢な線。

 気がつくと、手を伸ばして首筋に触れていた、背中の星を間近に見た。本当だ、同じ場所にくっきりと。

 斎藤は千鶴の反対側を覗こうとした、もう一つの星。だが、目の前の千鶴を動かそうとしても何故か手が届かない。肩の向こうに視線をやるが、見えるのはその向こうの障子や畳。

 何故……。

 艶かしい千鶴の肩も触れると柔らかいが、此方を向かせようとすると摺り抜けてしまう。

 千鶴の微笑む横顔がだんだん見えなくなる、見たい。見なくてはならん。

 もう一つの星

 斎藤は手を宙を掴むように伸ばしたまま目覚めた。

 障子の外は白んでいる。明け六つか。それにしても、さっきの夢は。斎藤は、手に残った千鶴の感触、首筋や肩、背中のほくろを鮮明に思い返した。酷く興奮している自分に狼狽した。雪村を相手に、なんと不埒な。自分でも呆れたが、身体は正直に反応してしまっている。

 いかん。早く鎮めねば。

 斎藤は、刀を取ると、道場に向かった。御堂に行けば、羅刹隊士に手合わせを願えるが、今は精神を統一したい。足早に歩いたが、夢の場面が頭から離れぬ。

 斎藤は井戸水を頭からかぶった。冷たい。丁度良い、ええい、もっとかぶれ。何度も頭から身を冷やした。それから道場で、剣を振り続けた。

 陽が上り、ようやく屯所の隊士が起き出した頃、斎藤は一通りの自分の稽古は終えた。やっと己を取り戻した。斎藤は、自信を持って、隊士に朝稽古をつけたが、流石に、朝餉の席で千鶴に挨拶をされて笑顔を向けられた時は、内心狼狽した。

 平助の【千鶴】を見てしまった故。斎藤は、自分の前日の行動が軽々しかったと自分を諌めた。別宅で雪村を囲う夢など。俺は阿呆か。

 日中は隊務に勤しみ、自分の愚かさを忘れようとした。その日は中秋の名月。昼間に、八瀬の葵が美しい花と芒を屯所に届けた。千鶴は、大広間に芒を飾ると、里芋を炊いて、お団子を飾った。夜になって、月が上がると、千鶴は、表階段でお月見をしているからと皆を呼んでまわった。

 表階段には、膳が置かれ、芒と秋桜が美しく飾られていた。お銚子に、酒の肴、里芋の煮物。お月見団子もあると、千鶴は張り切ってお酌をしている。幹部の皆が集まり、涼しい風に吹かれて、月を愛でて楽しんだ。斎藤は、酒を飲みながら、西本願寺に移転してから屯所で花見などを催す事も無かったと、ここ一年の忙しさを思い返していた。

「あの星、あれは何でしょうね」

 千鶴が話し掛けてきた。斎藤は、千鶴が指をさす夜空の先を見上げた。

「お月様が明るいので、見え難いですが、その横に見える星が、二つ綺麗に並んでいて」

「二つ星でしょうか」

 千鶴は、一生懸命斎藤に場所を教えようと、斎藤の肩に頰を寄せてしきりに、あれですと指を指す。千鶴から湯上りのいい香りが漂う。斎藤は妙な既視感を感じた。

 二つの星

 斎藤は今朝の夢を思い出した。肩に寄り掛かかる千鶴の瞳を見て、心の臓が早く動き出した。同時に千鶴の着物の胸の合わせも見えてしまった。この向こうに、本当にほくろがあるのだろうか。

 千鶴は黙っている斎藤の顔を覗き込み、不思議そうにしている。

「私の目の錯覚でしょうか。お星様が二つあるように見えたんですけど」

 斎藤は、己が不埒な想像を千鶴に知られたような気がして頰が赤くなった。心臓の鼓動は早く打って、酒の回りも早い。

「すまぬ、雪村」

 斎藤は一言謝ると、立ち上がった。宴の礼を言って足早に廊下の向こうに立ち去った斎藤を千鶴はキョトンとしたまま見詰めていた。

 斎藤は、その夜も千鶴の夢を見た。また同じように、千鶴は女の格好だった。星が二つ。千鶴はさっきと同じように夜空を指差すが、斎藤はその指先より、千鶴の胸のほくろが見たくてたまらない。

 着物の合わせに置いた千鶴の手を取ろうと手を伸ばすが、何故か届かぬ。千鶴は微笑んだまま、星が二つと繰り返す。だから、俺は見たいのだ。

 見たい

 そう叫ぶ自分の声を聞きながら、がばっと起き上がった。大きな声をたててしまった。なんと不埒な夢を。雪村を相手にあのような狼藉を。斎藤はまた道場に向かった。今朝は、御堂に行って、羅刹隊と思い切り手合わせをした。

 その日は丸一日中、会津藩調練所へ出掛けていた為、斎藤が戻ったのは夜遅くだった。日中に千鶴との接触が無かったからか、例の夢を見ることは無く平穏に朝を迎えた。斎藤は安堵した。

 翌日の夕方。酷く落ち込む様子の元気の無い平助に廊下で会った。夕餉の席でも、殆ど食事も喉を通らず。そんな平助を心配した千鶴は、小さなお結びならと、梅干しの握り飯を作って、部屋に持って行った。平助は千鶴の気遣いに感謝した。

「千鶴、やっぱ、千鶴が一番だ」

 そう言って笑って、お結びを美味そうに食べた。千鶴は元気が出た様子の平助に安堵した。数日後に、斎藤は左之助から平助の様子がおかしい理由を聞いた。平助は、【千鶴】の馴染になってその後も毎日通ったが、五日目に揚屋の女将から、五条の大店の旦那から身請け話を持ち込まれた。そう言って別の妓をあてがわれたという。【千鶴】はその後直ぐに落籍された。平助の夢破れたり。左之助と新八は、平助の落ち込み様に酷く同情して、それから連日呑みに連れ出しているという。

 斎藤は平助の【千鶴】が落籍かれて島原から居なくなったと聞いて、少し残念な様な安堵した様な奇妙な心持ちがした。あの日以来、千鶴の出てくる夢は見なくなった。ここ数日の熱に浮かされた様な己の顛末を内心情けなく、同時にそんな風になった原因もさっぱり解らず、ただ無節操な自分に厭気がさした。

 そんな斎藤の葛藤を露程も知らず、千鶴は斎藤の側で毎日忙しく動き回った。斎藤も隊務や伊東派の間者働きで忙しく、この秋の月夜前後、「二つ星」に浮かされた出来事を、次第に忘れて行った。

 斎藤と千鶴は後に夫婦となるが、それはずっと先の話で。夫婦となって、初めて斎藤は二つ星を確かめる事が出来た。千鶴の肌には、二つ星は無かった。斎藤は、在りもしないものに何故、夢にまで見て苦しんだのか。京の屯所時代、自分は相当千鶴に惚れ込んでいたのだなと、以前の自分を懐かしく思い返す事になるが、そんな未来を今は知る由も無い。ただ、互いを強く想いあっているもの、本人たちは全く自覚がなく、脇で左之助がそんな二人に気付いて微笑んでいる、そんな西本願寺での日々だった。







(2017.07.08)

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