泣き止んだ後

泣き止んだ後

慶応元年夏

 不審な音が聞こえたのは、風呂場からだった。

 大きな物音、微かに千鶴の悲鳴も聞こえた。斎藤は、それまで廊下の端の柱に寄りかかっていたが、飛び出すように浴場の引き戸に手を掛けた。戸は中から閉められていて開かない。

「雪村、どうした」

 斎藤は戸を拳で叩きながら問いかけた。戸の向こうから、くぐもったような声が聞こえた。斎藤は、足で思い切り引き戸を蹴り破った。引き戸の向こうには、簀の子が重なるように積みあがっている。一体何事だ。脱衣所は土間で古い簀の子が敷き詰めてある。それが剥がされたかのように、積みあがっていた。薄暗い中、部屋の壁の傍で千鶴が蹲っているのが見えた。

 そっと立ち上がった千鶴は、風呂上りの濡れ髪のまま、羽織った浴衣の裾まくりをしている。いつも袴姿しかみていない斎藤にとって、着物の裾をまくり上げて、太腿が丸出しになっている千鶴の姿に言葉が出て来ない。袖もまくり上げて、心なしか襟元も大きく開いた様子は、半裸とも見えた。動けないでいる斎藤に、千鶴が「……が、見つからなくて……」と呟く声が聞こえた。ようやく、千鶴の膝小僧が泥だらけなのに気が付いた。さっき、戸を蹴破った時に見えたのは、千鶴が蹲った姿だったのか。尻をこちらに向けて。それにしても、何が起きたのだ。

「何が見つからぬ」

 斎藤が尋ねると、千鶴は再び背中を向けて土間に膝まずいた。

「櫛がみつからなくて。簀の子の間に落としてしまったみたいで」
「暗くてよく見えなくて」

「どの辺りだ」
「たぶん、この辺りか。でも溝の中には無くて」
「溝に落としたのか」
「わかりません」
「簀の子を剥がした時に、何かが落ちるような音がしたので」
「どこからその音が聞こえたのだ」
「わかりません。でも土間の上のような気がして」

 斎藤は、柱の上にある蝋燭を手に取って、溝の中を見てみたが、どこにも櫛は見つからなかった。

「大きなものか」
「いえ、小さな丸い櫛です。桜の花の」
「あの櫛です」

 失せものは、つい先日、四条の小間物屋で斎藤が千鶴に買ってやったものだった。髪に飾る丸い櫛。黄楊の色なら、溝にあれば直ぐに目につくはず。

「見えぬな。この暗がりでは」

 千鶴はその間も、別の簀の子を剥がして、その下を覗きこんでいた。

「明日の朝に探せばよい。今夜は遅い。この後に夜の巡察の者が風呂場を使う」

 斎藤はそう言いながら、積みあがった簀の子を戻していった。千鶴は諦めがつかないように、きょろきょろと探しまわっている。斎藤は、もう一度汚れた足を風呂場で流してくるように云うと、蹴破った引き戸を直しがてら廊下に出た。千鶴が風呂場に入っていく音が聞こえた。その直後だった、再び、大きな物音がした。

 何事だ。雪村。

 斎藤は引き戸を開けると、再び、千鶴が簀の子を持ち上げていた。相変わらず、浴衣を裾まくりにしている。もう少しで尻が見えそうな様子でしゃがみ込む姿を目にして斎藤は驚いた。四つん這いのまま振り返った千鶴は、「やっぱり、溝に落ちてしまった気がして」といって斎藤の顔を見た。ドキリとした。太もももふくらはぎも尻も、女のもの。斎藤は生唾を呑み込んだ。

 千鶴は、ずっと覗き込んでいたが、やはり見つからないと言って立ち上がった。

「斎藤さん、どうされました」

 気づくと、千鶴が心配そうに顔を覗き込んでくる。斎藤は焦った。

「見つからないものをいくら覗き込んでも……」

 眼を千鶴から逸らそうとしたが、どうしても裾まくりをしている足から目が離せない。千鶴は更に傍に近づいて斎藤の顔を下から覗き込む。

「溝に落ちたのなら、流れていったか。鼠が齧って持っていったのであろう」

 焦っている事を気づかれるのが嫌で、口から出まかせを云った。その瞬間、背後で千鶴の声がした。「わっ」という大きな声。振り返ると、千鶴は両手で顔を覆って泣き始めた。斎藤は飛び上がる程驚いた。堰を切ったかのように、千鶴は大声をあげて泣いている。泣き声の合間に「大切な櫛が流れていった」「鼠が食べちゃった」「大切な櫛なのに」「どうして鼠は食べてしまったの」と誰に訊いているのか、わーんわーんと大声でしゃくり上げて泣き叫んでいる。斎藤は茫然とした。一体、どうしたのだ。千鶴は広げた手拭を顔に当てたままずっと泣き続けた。

「泣き止め。鼠が食べたと決まったわけではない」

 こう云うのがやっとだった。千鶴は首を横にぶんぶんと振って。「だって鼠がかじって持ってったって仰ったじゃないですか」と再びわーんと更に大きな声をあげて泣いている。斎藤は、オロオロとし始めた。

「泣き止まぬか。喩え話だ。鼠は櫛を持って行かぬ」

 千鶴は苦しそうにしゃくりあげながら、「鼠じゃなければ」「誰が」「持って行って」「しまうの」と繰り返している。もう顔は涙でぐしゃぐしゃになっている。どうしたものか。どうやったら泣き止む。斎藤は途方に暮れた。その時だった、廊下の向こうに人が歩いてくる音がした。まずい。誰かがくる。風呂場に向かって来る者。巡察を終えた者たちか。

 斎藤は、千鶴を見た。下ろし髪で浴衣。裾まくりをして泣きじゃくる雪村を誰にも見せてはならん。斎藤は、千鶴の手を持って引き寄せると、そのまま抱き上げて脱衣所から飛び出した。廊下を人が来る方とは逆に走って暗がりの角に飛び込み、壁の向こうに身を隠した。直後に、隊士たちが渡り廊下を走って浴場に駆け込む声が聞こえた。間一髪。もう少しでかち合う所だった。


*****

千鶴の部屋へ


 隊士たちの声を聞いて、巡察を終えて風呂場にいるのが九番組の連中だと判った。三木三郎が一緒だ。斎藤は安堵の溜息が出た。ここの所、三木は千鶴の身辺を嗅ぎまわる様子を見せていた。副長付の小姓である千鶴は、厳密には新選組隊士ではない客人ということになっていた。三木の身内でもある、総長役の伊東が千鶴を気に入り、自分の小姓にしたいと希望申し入れがあったと土方からも聞いている。伊東は千鶴が女であることを気づいているのやもしれぬ。警戒するに越したことはない。

 斎藤は、千鶴の口元を手で覆っていた。千鶴はずっとしゃくり上げるのが止まらない様子で、斎藤の腕の中で小さく震えていた。困ったことに、風呂場の廊下には、風呂に入り切らない隊士たちが、順番を待つ為にたむろして騒いでいる。どうしたものか。人が途切れぬ廊下をどのように千鶴を連れて屯所に戻れよう。

 これが九番組でなければ。さほど問題にはならぬ。そう考えあぐねていた斎藤は、そのまま廊下の欄干をくぐって浴場の建屋の裏に廻って、境内を横切って屯所に戻ろうと思った。背に腹は代えられぬ。時間がない。

 斎藤は千鶴を廊下の端に立たせて、欄干を跨ぐと、千鶴に背中を向けて負ぶさるように告げた。千鶴はまだ、ぐすぐすと泣き続けている。斎藤は困ったが、無理にでも連れ帰らねばと思った。

「いい加減にせぬか。屯所に戻る。早く背中に掴まれ」

 千鶴は、泣き止まぬまま、欄干に足をかけた。斎藤が振り返った時に、裸足の足が欄干にかかるのが見えた。細い足首が月明かりに青く浮かび上がる。斎藤は見てはいけないものを見た気がしたが、そのまま手を後ろに伸ばして千鶴を背中に受け止めた。素直に斎藤の背中におぶさった千鶴は斎藤の両肩に掴まった。斎藤は千鶴の膝頭を両腕で組み込むように固定すると、素早く走り始めた。裸足の足裏に砂利が食い込む。痛むが仕方あるまい。

 浴場の建屋の裏を廻って、渡り廊下に出た。だが、そこにも平隊士が涼むようにたむろしている。まずい。ここも通れぬ。斎藤は足音を消しながら、廊下から離れた。再び浴場の建屋の裏手に廻って、今度は阿弥陀堂の裏に回った。人影はない。このまま、阿弥陀堂を回り込んで南側の廊下の下に出よう。斎藤は、静かに千鶴を背負ったまま歩き続けた。背中の千鶴が時折、鼻をすする音がした。まだ泣き止んでおらぬのか。

 それにしても。一体。斎藤は、一歩一歩進みながら考えた。夜遅くに片付けを終えた千鶴が風呂に入るのを見張っていた。千鶴が風呂場で櫛を失くした。大切な櫛だといって泣いている。だが失くしたものは仕方がない。それにしても、何故、ここまで泣くことがあるのだ。鼠に齧られたことがそんなに悔しいのか。櫛が必要なら、また市中で代わりのものを買えばよい。

 阿弥陀堂をぐるりと回って、屯所との渡り廊下に出ようとしたら、夜間見廻りの隊士の姿が見えた。斎藤は、隊士に気づかれぬように、さらに廊下を迂回するために、阿弥陀堂の裏に戻ってから、裏の小堂の影を通って屯所の裏手に出た。ほぼ半刻ほどかかって、千鶴の部屋の前に辿り着いた。廊下に下ろした千鶴は、裾まくりをしたまま。顔は涙で腫れあがっている。斎藤は手拭を出して、千鶴の汚れた膝小僧を拭ってやった。足首を掴んで足の裏も拭いてやった。まだ泣き止まずにいる千鶴は、まるで幼子のようだ。

「朝に風呂場で失せものは俺が探しておく。もう泣くな」

 千鶴の部屋の障子を開けて、千鶴を押し込むように中にいれて障子を閉めた。それから、廊下を急いで伊東の部屋に向かった。伊東からの呼び出しの用件は、翌朝大坂に遊説に出掛ける御伴につくようにという事だった。

「今回は、篠原くんと斎藤くんに随行願います」
「朝一番に屯所を出て、雨が降らないうちに舟で」

 斎藤は「承知」と答えて、部屋を下がった。大坂遊説は二日行い、屯所に戻るのは三日後。斎藤は、部屋に戻る振りをして、土方の部屋に報告に向かった。遊説の内容、大坂での伊東の行動。全て監視し、篠原からも情報を聞き出す。これが土方からの指示だった。問題はないだろう。篠原は斎藤に対して、完全に警戒を解いていた。篠原には同志だと思われている。斎藤は、土方に「心得ました」と答えて部屋を後にした。

 千鶴の部屋の前を通った時、そっと障子を開けて様子を確かめた。部屋の奥の布団に千鶴が背中を向けて寝静まっている姿が見えたので、斎藤はそのまま静かに障子を閉めた。翌朝、まだ暗い内に、蝋燭を持って浴場の脱衣場に行って、千鶴の失くした櫛を探した。脱衣の棚の周りを中心にしゃがんで見てみると、棚板と土間の間につげ櫛が挟まっているのが見えた。簀の子の隙間から落ちて、ここに嵌まりこんだのだろう。

 斎藤は、櫛についた汚れを落とすと懐に仕舞って部屋に戻った。千鶴に一筆文を書いて、そっと千鶴の部屋の中に入って櫛と一緒に置いておいた。千鶴は、静かに眠っている様子だった。身体を横にして丸くなって。手には櫛入れを握っていた。夕べ、泣き止まぬまま櫛入れを持って眠りについたか。斎藤は、そっと部屋を出て伊東達と屯所を出発した。


****

翌朝のこと


 千鶴が目覚めた時、文机の上に桜のつげ櫛が置いてあった。

 ——雪村、浴場ではすまなかった。

 斎藤の一筆書き。斎藤さん、見つけて下さった。千鶴は、つげ櫛と文を手に持って抱きしめるように胸に当てて感謝した。ありがとうございます。嬉しくて、涙がぽろぽろと零れた。大切な。私の大切な宝物。千鶴は立ち上がって、斎藤の部屋の襖に呼びかけた。

「斎藤さん、」
「斎藤さん、おはようございます」

 襖の向こうはしーんと静かなまま。千鶴は再び大きな声で呼びかけたが、返事はなかった。失礼しますと断って、襖を開けると斎藤の姿はなく。布団も片付けてあった。千鶴は、斎藤が道場に居ると思って。急いで着物に着替えて、顔を洗ってから道場に向かったが、斎藤の姿はなく、台所にも広間にもどこにも居なかった。朝餉の仕度をして、広間に幹部が集まった時に、初めて斎藤が大坂に御用で出掛けて行ったと知らされた。千鶴は部屋に戻ってから、斎藤に櫛を見つけてもらった礼を文にしたためた。

 斎藤さん、ありがとうございます。
 もう大切な櫛を浴場には持っていかないようにします。

 それから、千鶴は櫛を懐から取り出すとその美しい桜の花弁を指でなぞるように優しく撫でた。私の宝物。そっと結い上げた髪を梳かしてみた。そしてちりめんの櫛入れに綺麗に入れると、懐の心の臓の上に挟むように仕舞った。なんとも言えない、幸せな気分。自然に頬が綻ぶ。

 良かった。鼠に食べられなくって。

 千鶴はくすくすと独りで笑いながら、立ち上がると、洗濯をしに井戸端へ向かった。


*****

それから三日後


 それから、三日後の夕方近くに斎藤が大坂から戻って来た。

 伊東は、秋から西国方面に遊説に出る事を計画していた。既に土佐藩、芸州藩には根回しが済んでいるようだった。 伊東は【勤王攘夷論】と名売った遊説を行い、同志を募る。驚いた事に遊説先で配る論証まで準備をしている事が判った。斎藤は、夜を待たずに土方に報告しようと廊下を急いだ。だが、廊下で会った相馬と野村から、土方は朝から黒谷に出掛けていて夜まで戻らないと聞いた。斎藤は、そのまま自室に向かったが、途中総司の部屋の前を通った時に、部屋で寝ていた総司に呼び止められた。

 障子が開け放たれたままの総司の部屋は、風が通って涼しい。

「大阪に行ってたんじゃないの」
「今さっき戻った」
「ふーん」

「具合はどうだ?」
「変わらずさ」
「はじめくんは?」
「俺も変わらぬ」

「隠さなくてもいいよ」
「なんのことだ」

 総司の眼は光っている。斎藤は、平静を装いながら心中では警戒していた。

「僕は誰にも言わないから。安心しなよ。はじめくん」
「あんたが何のことを云っているのかわからん」

 総司の肩は震えていた。笑いをこらえている。なんだ。なにが可笑しい。

「三日前の夜の事だよ」

 三日前。なんだ。

  総司は、布団から起きると斎藤の耳にそっと囁く声で耳打ちした。

「よ、ば、い」

 ——夜這いしたでしょ。知ってるんだから。

「な、なにを言っている」

 斎藤は声を荒げた。

「誰も見てないと思って。あの子の部屋で、夜更けにこっそり事に及んでたんでしょ」
「僕見たよ、廊下で泣いてるあの子の寝間着の裾めくって」
「足首つかんで、」

 斎藤は衝撃で声が出て来ない。総司、あんたは見てたのか。

「泣いてたじゃない、千鶴ちゃん」
「あんな大胆なこと」
「はじめくんも隅に置けないね」

「あれは違う。総司、誤解だ」
「何が違うのさ」

 総司は、布団で胡坐をかいたままからかうような表情で斎藤を見ていた。斎藤は、事の一部始終を総司に話して聞かせた。総司は途中でごろんと布団に横になって、腕枕をして半分ニヤニヤしながら聞いている。

「それで、あの子を負ぶって境内の中練り歩いてたの?」
「それはご苦労さま」

 総司は肩を震わせて笑っている。そんなに可笑しいことか。斎藤は思った。

「はい、それじゃあ四文」
 総司は掌を広げて金をせびった。
「何が四文だ」
「口止め料さ」
「はじめくんが千鶴ちゃんに櫛を贈って、風呂場で千鶴ちゃん泣かした」
「はい、」

 納得が行かなかったが、斎藤は銭入れから四文を取り出して、総司に渡した。

「はい、じゃあまた四文」
「何がだ」
「口止め料」
「はじめくんが、風呂場から千鶴ちゃんを負ぶって連れ出して、寝間着の裾めくって足首触ってた」
「はい、」

 突き出された掌に、仕方なく斎藤は四文を載せた。

「仕方ないよね。足首触ってたの。僕はっきり見てたんだから」
「夜這いを疑われても、何も言えないよ」
「なっ、何を言っている」
「はい、四文」

 僕は誰にも何も言わない。千鶴ちゃんが朝方近くまで布団の中で泣いてたことも。

「はじめくんに、操を奪われてね」
「あんたは何をいっている」
「言いがかりも、いい加減にしろ」

 斎藤は大声でそう云うと総司はくっくっくっとさも可笑しそうに笑っている。俺をからかいおって。

「いいよ。十二文で手を打ってあげる。僕の口は堅いから」

「雪村は、大事な櫛を失くしたのが悲しくて泣いていた」
「布団で櫛入れを握ったまま泣き寝入りしていただけだ」
「確かに俺は過ぎた事を云って、雪村を泣かしたかもしれん」
「他意はない」
「だが俺は、雪村に対して不埒なことは」

「なに、不埒な事って?」

 総司は完全に面白がっている。揶揄するような顔。翡翠色の眼が狡猾に光っている。いかん。総司がこうなると、本当に性質が悪い。

「壁に耳あり襖に目ありってね」
「はじめくん、わかってる? 屯所で僕に隠し立ては出来ないってこと」
「みんな、お見通しなんだから」

 総司はそう言って微笑んだ。じっと見つめて来る目。全てを見透かされておるのか。一瞬、斎藤は、土方の命で間者仕事をしている事を総司は知っているのでは、と思った。総司は敏い。とっくに気づいていて、知らぬ振りをしているのやも。

(きっとそうであろう)

 見つめ合う瞳で、互いに感じ合う。斎藤は、肯定も否定もしなかった。

「総司、顔色がよくないようだ。今日も一日暑かった。よく休め」

 斎藤はそう云うと、立ち上がった。総司は、「はじめくんもね」そう言って、素直に伸びをして仰向けになった。斎藤は、微笑みながら総司の様子を見ると、廊下を自分の部屋に向かって歩いて行った。


***


 昼過ぎからずっと、台所で用事をしていた千鶴は夕餉の準備をしにやって来た相馬と野村から、斎藤達が大坂から戻ったと知らされた。

「ってことで。先輩、今夜は二膳増えます」
「はい」

 千鶴の返事は明るく響く。千鶴は、鼻歌交じりにお茶を煎れる準備をし、手際よく夕餉の仕度をして、襷を取ると軽やかな足取りで台所を出て行った。夕闇迫る廊下の向こうから、静かに歩いてくる影。いつもの歩き方。黒い着物に白い足袋。斎藤さんだ。

「おかえりなさいませ」

 足早に近づいた千鶴に、「ただいま戻った」と斎藤は挨拶を返した。

「お茶の準備をしています。お召し上がりになりますか」
「いや、よい。そろそろ夕餉の時間であろう」
「はい」

 雪村、土産だ。そう言って、斎藤は袖から小さな包みを取り出して渡した。どんぐり飴。色とりどりの大きな飴が袋の中に入っていた。千鶴はお礼を言った。

「斎藤さん、大坂に行かれた朝。私の櫛を見つけて下さって、ありがとうございました」

 斎藤は、微笑みながら頷いた。脱衣棚の板と土間の間に挟まっていたと知らせると、千鶴は櫛を失くした夜は、ちゃんと見えていなかったと改めて謝った。

「斎藤さん、さぞやお疲れでしょう。もう夕餉の仕度は出来ています」

 広間で待っています。千鶴は、そう言って台所に戻ろうとした。ふと、斎藤が部屋に戻ろうとしないでじっと立っているのに気付いた。ずっと微笑んだまま自分の顔を見ている斎藤を千鶴は見詰め返した。


「あんたは笑っているほうがいい」


 優しく笑いかける斎藤の一言に、なんとも言えぬ嬉しい気持ちが胸に拡がる。

「はい」

 千鶴は、大きな笑顔で頷きながら返事をすると再び台所に向かって走って行った。








(2019.07.07)

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