第三部 神隠し
薄桜鬼奇譚拾遺集
千鶴がある朝目覚めると、身体が透明になっていた。布団に手をかけても、自分の透き通った手が上布団をすり抜ける。おかしい。
思い切って身体を起こすと、そのまま上布団をすり抜けてしまった。布団の上に座ったまま自分の身体を見てみた。身につけている寝間着ごと一緒に透き通ってしまっている。前日の夜に、山崎が大坂から持ち帰った薬を総司が飲むのを嫌がり、いつもの如く、二人はいがみ合って喧嘩になった。仲裁に入った千鶴は「そんなに飲むのが嫌なら一緒に自分も飲む」と啖呵を切った。山崎は止めたが千鶴は収まりがつかず、総司に薬の入った湯飲みを突きつけると二人の目の前でもう一つの湯飲みに入った薬を一気に飲み干した。総司は「千鶴ちゃんがそこまで云うのなら、今回は折れるよ」と言って仕方なく薬を飲んだ。
薬の効果はてきめんで総司の咳は立ち所に治まった。千鶴は特に何の変化もなかった。山崎が、病のない者にはお茶を飲んだぐらいのものと思って置けば良いと云った。千鶴は安心してそのまま自室に戻って寝間に入った。
これが夕べのこと。普段通りにそのまま眠りについた。そして、朝になって自分の手が透明になっている事に気がついた。透明のまま布団から立ち上がった。手を見ても、足をみても透き通った向こうがそのまま見える。畳の上に立っている足もそうだ。だが力を入れて踏み込むと、畳もすり抜けてそのまま縁の下に行けそうだった。千鶴は、隣の部屋の斎藤に襖越しに呼びかけた。
斎藤さん、斎藤さん、起きていらっしゃいますか。
返事はない。
先に着替えよう。枕元に畳んで置いてある自分の長着を手に取ろうとしたが、指が着物をすり抜けてしまい触ることも出来ない。歯がゆい。お着替えもできないの。千鶴はせめて羽織だけでも羽織ろうと衣紋掛けの下に立って、袖に手をいれたが、壁ごと手がすり抜ける。千鶴は着替えを諦めた。
忍びないが、廊下にでてみよう。
千鶴は思い切って障子をすり抜けて廊下に出てみた。寝間着のままだが仕方がない。辺りを見回すと、向こうの渡り廊下を歩く、井上の姿が見えた。
「井上さん」
大きな声で呼びかけたが、井上は全く聞こえないようだった。身が透明なら、声も透明なのか。誰にも聞いて貰うことが出来ない。千鶴は、だんだん不安になってきた。なんとかしなければ、そう思って井上の向かった台所へ行こうと廊下を曲がった。その瞬間、どんっと誰かにぶつかった。勢いで、尻餅をついた千鶴に、総司が廊下に立って笑っていた。
「あれ、千鶴ちゃん、今ぶつかったよね」
そう言って、総司は千鶴を抱き上げると、「僕が見える?」そう訊ねてきた。
「はい」
「君には見えるんだね。良かった」
総司は小さな子供に高い高いをするように、千鶴を宙に高く持ち上げた。
「君が大丈夫なら他も試さなきゃね」
そう笑った総司は、寝間着姿のままだった。千鶴と同じ裸足で、今さっき寝間から出てきたよう。千鶴は床の上に下ろして貰うと、朝から起きている異変を総司に伝えようとした。だが、総司は、そのまま千鶴の目の前で、斎藤の部屋の障子をすり抜けて中に消えてしまった。
沖田さん。沖田さんも、すり抜けられている。
千鶴は驚きながらも、「斎藤さん、雪村です。私もお邪魔します」そう声を掛けて、障子をすり抜けた。総司は目の前に立っているが、千鶴と同じで、その身体はうっすらとして向こうが透けて見えていた。総司の目の前で、斎藤は着替えをしている所だった。斎藤は腰紐を取った後ろ姿で寝間着を勢いよく脱いだ。そのまま褌を取り始めた。総司は、振り返ると千鶴の目を大きな両手で覆った。
「いいところだけど、お嫁入り前の女の子が見ちゃいけない」
そう千鶴の耳元で総司が囁いている。千鶴は、頬が熱くなってしまった。井戸端で汗を拭うのに褌姿になっている斎藤を何度も見ているが、下帯までとる姿は初めてでどきどきした。沖田さんが隠してくださって助かった。
ねえ、はじめくん。
僕の声聞こえる? ねえ。
総司はそのまま首だけを斎藤に向けて話しかけた。衣擦れの音が聞こえるだけで返事はない。総司は千鶴の顔から手を離すと、斎藤の目の前に立った。
「ねえ、僕の声聞こえてないの?」
そう言って、斎藤の肩に総司は手をかけたが、そのまま手はすり抜けた。斎藤は、着物を着て帯を絞め終わると、畳に座って足袋を履いた。そして、自分の脱いだ寝間着を丁寧に畳んで着物入れに仕舞い、布団を畳んで襟巻きをすると刀を手に持った。
千鶴の傍を通った時に、ふと千鶴の方をじっと見た。千鶴は斎藤さんと呼びかけて笑いかけた。斎藤は、少し考えたような様子だったが、真顔のまま障子を開けて廊下にでた。閉まった障子の傍で千鶴は茫然と立っていた。斎藤さん、こっちを向いていたのに、何も言わずに行ってしまわれた。やはり私の姿は見えなくなっている。斎藤さんは私の声も聞こえていない。物もつかめない。何もできない。
どうしましょう。
沖田さん。どうしましょう。
千鶴は途方に暮れた。総司も斎藤の部屋の真ん中で膝をついてうなだれていた。いつになくしゅんとした総司を見て千鶴は驚いた。沖田さんがこんなにも大人しくなって仕舞われるなんて。千鶴は、座りこんだ総司の前に正座した。
「沖田さん、私は朝目覚めたら、こんな風になっていました。お着替えも出来ず、井上さんに呼びかけても、気づいて貰えなくて」
「僕もだよ。源さんに素通りにされて。でも厠に行ったら、自分の着てるこの寝間着や褌はめくって用を足すことできたよ」
そう言って笑う。どうも寝間着と自分の身は大丈夫みたいだ。みんなから姿が見えない。透明になっている。ねえ、何でだと思う? 僕と君だけ。一晩で透明人間。
もしかして。
もしかして?
もしかして、夕べのお薬?
総司は、頷いた。云ったでしょ、僕飲みたくないって。だって、得体の知れない色してたもん、あれ。苦くはなかったけど、変な味だったし。山崎くんが仕入れたって言ってたお店も今までの心斎橋の薬屋さんじゃない、戎橋のたもとの出店で買ったって。
あの薬で透明に。なんという事だろう。沖田さんの咳は止まったけれど、身体が透明になってしまうなんて。
千鶴は、自分が無理矢理飲ませた事で、こんな事になったと申し訳のない気持ちと後悔で涙が溢れてきた。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。千鶴は両手を畳について頭を下げて総司に謝った。総司は千鶴の肩を持って顔を上げさせると、自分の寝間着の袖で千鶴の涙や鼻水を拭って笑った。透明の二人だけは、互いをすり抜けない。
「謝ることはないよ。あの薬は咳止めになったもの。僕、今朝は具合がすこぶる良い。ただ、透明ってだけでね」
総司はそう言って笑った。
千鶴は、総司の顔色が良いことに気がついて、笑顔になった。それから、総司にお腹がすいていないか、寒くはないかと、いつもの調子で世話を焼き始めた。総司は笑いながら、立ち上がると云った。
「うん、お腹がすいたから台所に行こう」
千鶴が頷くと、総司は千鶴の手を引いて障子をすり抜けて廊下に出た。二人で台所に向かった。
「今朝は暗い内に山崎くんは大坂に行ってしまったよ。近藤さんと伊東さんのお伴だって。透明を治す薬、持って帰って貰わないとね」
総司はそう言って総司は笑った。
台所から、ちょうど皆が大広間に食事を運び終えたところだった。大広間に入ると皆が勢揃いしている。
「あれ、千鶴が居ない。総司はまだ寝ているのか?」
平助が井上に訊ねた。
「今朝は、雪村君は炊事に起きて来なくてね。わたしもおかしいと思って」
「ちょっと、見てきておくれでないかい。もしや、具合が悪くて床に伏せているやもしれん」
心配する井上に促されて、平助は廊下を走っていった。千鶴と総司の前をすり抜けた平助は、やはり全く二人が大広間の入り口に立っている姿は見えていなかった。
試しに、総司と千鶴は幹部のひとりひとりの前に立って手を振ったが、誰も見えていない。斎藤だけが、一瞬なにか気づいたように、二人を睨み返したが、すぐに茶碗を持って、飯を食べ始めた。
ね、千鶴ちゃん。
僕らも食べようよ。
総司に促されて、用意された膳の前に座ったが、やはりお箸を手に取ることもできず。食事をすることを諦めた。
「ねえ、大変、大変。千鶴が部屋にいない。布団もそのままで、厠にもどこにもいない」
平助が、走って戻ってきた。着物も枕元にあるまんま。俺、大浴場も見てくる。そう言って広間を出ていく平助を、斎藤が追いかけた。大浴場。もしや、ゆうべ雪村は風呂で溺れたやも。
浴場の湯船で溺れる。裸のどざえもん。
雪村のそのような姿を誰にも見せてはならぬ。
斎藤は平助を追い越して、廊下を浴場に突進していった。だが、浴場に千鶴の姿はなかった。平助とすのこを一枚一枚裏返して探したが、千鶴はいなかった。
どこだ?
道場、御堂、北集会所の納戸、中庭、華池、阿弥陀堂、ご本堂、あらゆる所を探し回った。
いない。
どこだ、どこに消えた?
平助と斎藤は愕然とした。そしてまた走って広間に向かった。広間に居る。絶対に。
だが、広間には居なかった。左之助達が食事を終えて、総司も部屋にいなかったと土方に報告している所だった。
「総司の姿も見えねえ」
斎藤は驚いた。総司も消えた。具合の悪い総司が。どこに。
土方は、斎藤たちに早く食事を済ませて、全員でもう一度二人を隈無く探すように命じた。大急ぎで食事を終えて、今度は全員で本願寺全体を捜索した。陽が高くなっても、二人は見つからなかった。布団も敷いたまま。まるで、布団から抜け出たように、着替えも置いて。忽然と消えた二人。
「これは総司が仕掛けた悪戯かもしれねえ」
土方は、総司の刀掛けから打刀をとると、柄を持って、天井板を一枚一枚突き始めた。
「あいつの事だ。千鶴を連れて屋根裏に上って、俺等が慌ててるのを上から見ていやがるにちげえねえ」
それを聞いた皆が、自分の刀で天井を突き始めた。左之助は、槍を持ってきて、大広間の高い天井も全て突いて回った。
居ない。
皆が肩を落として土方の部屋に集合した。既に千鶴と総司の部屋の着物入れや行李、文箱など、全て家捜ししてあった。千鶴は着物入れに畳んだ長着と袴しか、着物は持っていない。着物入れに襦袢と洗濯したての晒しが綺麗に丸めて置かれてあった。
——総司はさておき、千鶴が裸同然の格好のまま屯所の外に出てるとは考えられねえ。
土方が眉間に皺をよせて腕を組んだまま考えこんでいる。
「あれじゃねえか。駆け落ち」
新八が膝を叩いて、答えを思いついたように叫んだ。
「駆け落ちー?」
平助が目を丸くしている。
「おお、そうよ」と新八が得意顔で頷く。
「総司が、千鶴ちゃん連れて夜中の内に駆け落ちしたんだ」
「二人で寝間着のままで逃げてるのかよ」
左之助が訝る。
「ちげえよ。恋仲の二人は示し合わせたんだ。事前に駆け落ち用に着物を用意して。縁の下に隠して置いた」
この世の名残、夜も名残り、
死に行く身をたとふれば、
あ、あだしが原の、
新八が、腕を伸ばして見栄を切った。
あ、道の霜ーーー。
みんなが白目を剥いて引いた。千鶴と総司がなんで心中までしなきゃなんねえんだ。平助が怒り出した。
「百歩譲って駆け落ちにしても。あいつら、いつの間にそんな仲になってたんだ。おい、斎藤」
土方が、斎藤に向かって問いただした。
「本願寺に移ってからは具合の悪い総司につきっきりで看病をしてきています」
「看病してるっていっても、山崎とだろ。俺は山崎の方がずっと密に総司についていると思っている。部屋も襖一枚隔ててあるだけだ」
「総司が新選組を捨てて逃げるってのもな。想像もつかねえよ」
平助が二人の駆け落ち説は絶対信じないと言い切った。
「わかんねえぜ、今頃二人で大津あたりの宿にしけ込んでるかもよ。俺等で追いかけるか、な、左之?」
「新八っつあん、いい加減にしろよ。千鶴がそんな事するわけねえだろ」
平助は、げんこつを作って新八に突っかかって行こうとするのを、左之助が立ち上がって後ろから止めた。
「おい、お前等、何を根も葉もねえことで騒いでんだ。ったく」
土方が、呆れ返っている。土方が、おい、みんな良く聞け。そう言って自分に注目させた。
「俺は、千鶴が拐かされたと思っている」
真剣な土方の物言いに。皆が黙った。
「風間だ」
「鬼の連中が夜中に屯所にやってきて千鶴を連れていきやがった」
「やつらの事だ、眠った千鶴をそのまま連れて、一気に屋根の向こうに飛んで消えたとしか思えねえ」
皆が息を呑んで土方の話を聞いている。鬼の連中。
「あいつら、嫌がる千鶴を手籠めにする気かよ」
平助が拳を握りしめて震えだした。
「取り返すぜ。ぜってえ、千鶴を取り返す」
平助が立ち上がった。
「待てよ、鬼が千鶴ちゃんを 浚さらったとしても、なんで一緒に総司も連れて行くんだ?」
新八が、土方に問いかけた。
「ああ、総司は、千鶴が襲われた時に取り返そうと鬼を追いかけた。それか、総司が返す刀で斬りつけた。腕のいいあいつのことだ、鬼の腕の一つや二つ切り落としたに違えねえ」
土方の話を、斎藤は真剣に聞いていた。千鶴を奪い去る鬼に、果敢に向かう総司。
まるで、渡辺綱。いいぞ、総司。
斎藤は、一条戻橋の欄干の上で総司が風間の腕を切り落とす姿を想像した。そして鬼は雪村を諦める。
ええい、覚えておれ。
かならずその腕は取り返しにゆく
雲間に風間が悔しそうに昇りながら消えていく。総司は、鬼の腕と千鶴を抱えてじっと鬼を睨み返す。
——総司、よくやった。見事だ。
「はじめくん、聞いてる?」
平助の声が聞こえた。皆がひとりほくそ笑む斎藤を訝しそうに見ている。
「何、笑ってんのさ。総司が千鶴を取り返しに追い駆けたにせよ。丸腰だぜ。どう思う、はじめくん」
斎藤は驚いた。なんだと。総司は、丸腰で向かったのか。無茶な。無謀だ。どうやって腕を切り落とした?
もう斎藤の頭は、渡部綱(総司)と茨木童子(風間千景)の一騎打ちで頭がいっぱいである。千鶴が消えた衝撃で皆目まともに思考が回っていない。
土方は、じっと考え込んだ。屯所の外に消えたとしたら、捜索の範囲は広い。市中はもちろん、大津やそれとも西に逃げた可能性もある。鬼の奴らだとしたら薩摩だ。千鶴と総司を取り返しに行く。おい、捜索隊を編成するから隊士達を呼べ。
「だが、待て」
ここで伊東の奴らが騒ぎを聞きつけるのも避けなければならねえな。監察方。山崎は、大坂か。島田も尾張に出ている。
土方は、また考えこんだ。仕方ねえ。
「いいか、一両日、俺等で虱潰しに探す。極秘でだ。どんな情報でもいい。皆で見つけてこい。俺は、千鶴と総司の部屋をもう一度くまなく調べる」
こうして幹部はそれぞれ手分けして、秘密裏に千鶴と総司を探す事となった。
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水は偉大
幹部が土方の部屋で姿を消した二人の行方捜査を相談している間、千鶴と総司は、台所でなんとか食事を摂ろうとして必死になっていた。台所で食べられるものを片っ端から見つけては、それを手に取るが全ては、すり抜けて言ってしまう。千鶴は、土間に下りて、へっついの下から、消し炭の上に手を置いた。
「駄目ですね。炭もすり抜けてしまいます」
総司は、千鶴がなんで炭に触るのか。不思議に思ったが、次に千鶴は、地面の土を触った、駄目ですねえ。ぶつぶついろいろな物を試している。
「天狗の隠れ蓑を着た彦一さんが、炭で悪戯してたんですが」
昔話を持ち出し。千鶴は何か手に取れるものを探していた。これもすり抜けてしまうと言いながら、千鶴はいつもの癖で、汚れてもいない手を流しの溜め桶につけて洗おうとした。
「あれ? 沖田さん、来てください」
千鶴の叫び声で総司は慌てて土間を下りていった。すると、千鶴は、濡れた手を上げて、傍にあった湯飲みを掴んだ。手は透明のままだが、湯飲みを持ち上げる事が出来た。
沖田さんも、やってみてください。水に手をつけて、ほら。
手を水で濡らすと、物を触る事が出来る。
これは偉大な発見だった。千鶴は、濡れた手で、お櫃からご飯を取り出し、濡れた手で塩の壺から塩を取り出して、握り飯を作った。濡れた手で、皿に並べると、総司は、濡らした手でおむすびを掴んで食べた。
二人で、笑い合った。お水使えばいいね。お水。お水で、字を書きましょう。
千鶴は溜めた水を指にとると、台所の土壁に書いた。
二人ぶじ
とうめい
くすり
書いても土壁はどんどんと水を吸って、字がぼやけていく。
総司は、みんなのところに言って、水で報せよう。そう言って走り出した。千鶴も手を思い切り水で濡らすと、湯飲みに水を溜めて、それを抱えて総司の後を追い駆けた。
土方の部屋から、皆が捜索の為に出ていった後だった。土方は大きな溜息を付いた後、千鶴の部屋から持ってきた行李の中を調べている。
「いやだ。嫌です。土方さん」
千鶴は、思わず持っていた湯飲みを落としてしまった。畳の上に水といっしょに湯飲みが転がっている。土方はそれに気がつくと、仕方ねえなあ。と舌打ちしながら、手拭いを持ってきて綺麗に拭き取ってしまった。
それから、土方は千鶴の行李の中を物色し始めた。行李の中には、斎藤に買って貰った、端切れや、手拭い。木綿の布地が入っていた。一緒に入っていた文箱には、屯所の中でやりとりした書き置きなど、小さな紙切れも綺麗にまとめてしまってある。土方は、一枚一枚に目を通した。そして、途中から畳に、振り分けるように置いていった。
「なんでえ、ほとんどが斎藤のじゃねえか……」
土方は呟いている。紙の束は、総司や土方、井上の置き書きもあったが、圧倒的に斎藤のものばかり。菓子折りの包み紙を綺麗に伸ばしたものの裏に何かが書かれている。
斎藤さん、巡察お疲れ様です。
近藤さんから、おまんじゅうを頂きました。
お裾分けです。
土方は、手に持って千鶴の美しい手蹟を読んでいる。
——有り難く頂戴候。
紙の端に、斎藤の字で書いてある。
「なんだ、斎藤の返事か」
土方は、それを紙の束の上に置くと、別のに目を通した。
斎藤さん、お勤めお疲れ様です。
今日は井上さんと黒谷に行ってきます。
土方さんが一緒に駕籠を出してくださいました。
南禅寺のお豆腐を買って参ります。
夕餉にお出ししますね。
追伸、私は来月の非番は月の中日です。
相解
来月の非番は巡察表が決まってから報せ候
なんだ。あいつら。非番を一緒にとろうとしてやがったのか。土方は、舌打ちして、別の文を取り出した。
斎藤さん、長着の袖を直しておきました。
襦袢の削襟。
紺に付け替えました。
黒よりこちらが斎藤さんにお似合いです。
私も半襟を薄紅にしました。対の様。
御礼
着心地良く候
二条でこの組紐を見付候
元結いに
あの朴念仁が。どんな顔してこんなの書いてやがんだ。部屋も隣で言葉で済むことだろうが。なにやってんだ。ああ、こそばゆい。土方は、首の横をガリガリと掻きむしった。
お、これは斎藤からか。
雪村 朝餉を置いておく
総司の様子は俺がみておく
ゆっくり休め
斎藤さん、今朝は有り難うございました。
沖田さんは、咳も止まって眠っていらっしゃいます。
夜の巡察からご無事にお戻りになられますよう。
あいつら、毎日文の交換をしているのか。隣の部屋に住んでいながら、じれってえ奴らだ。土方は溜息をついた。
雪村、浴場ではすまなかった。
なんだ、風呂場で何があった。あいつら、いつのまに……。斎藤の野郎、手だしやがったか。これの返事はどこだ。土方は、膝をついて文箱を開けると、また文の山をがさがさと物色し始めた。千鶴は、その前に座って、一生懸命紙の束を集めようとしている。「嫌です。土方さん、見ないで」 千鶴は半べそをかいている。
斎藤さん、
櫛を見つけて頂き有り難うございました。
もう大切なものは浴場には持ち込まないようにします。
櫛? 大切なモノ……。なんだ。あいつら。まるで恋仲じゃねえか。いつの間に。まあ、斎藤がまんざらではねえのには気づいていたが。千鶴、あいつも相当に……。
「若いもん同士か……。ま、そうだろうよ」
土方は独り言ちると、千鶴が斎藤の置き書きに、押し花や落ち葉を貼り付けてあるのを眺めた。土方は、千鶴が大切にしまってあるものを確かめて、改めて総司と「駆け落ち」の線はないなと思った。
千鶴が、見ないで見ないでと半泣きで止めている。もう手も乾いてしまった。もう何も掴むこともできない。総司は機転を利かせて、廊下に出て一番近い手水で両手を濡らすと、土方の部屋の障子を勢いをつけて開け放った。それから、文机を持ち上げると、土方の前に置き直し、硯箱を開けた。土方は、宙に浮く机や独りでに動く硯箱を見て、腰を抜かすぐらい驚いた。千鶴は、総司が字を書くつもりだと解ると、自分も手水で両手を濡らして、墨を磨るのを手伝った。
最初に筆を持ったが、直ぐに手が乾く。
総司は、指に墨をつけて半紙に文字を書いた。
二人
透明
薬
ここで完全に乾いた。千鶴が後を引き受けた。
とんしょにいます
くすり
やまざきさん
ここまで書いたところで、土方が半紙を手にとって食い入るように読み始めた。
「おい、そこにいるのか。総司、千鶴」
土方は一生懸命宙を見つめて、腕を伸ばして触ろうとするが、千鶴達をすり抜けてしまう。
「はい、おります」
千鶴は、なんとか意思の疎通を図ろうと、持ち上げた筆を畳に落とした。
「なんてこった。お前等は神隠しにでもあったと思った。身体が消えちまったのか?」
土方は、もう一度半紙に目をやった。
「くすり、やまざき……。これは、山崎の薬のことか」
土方は、ちょっと違う方向を向いて、一生懸命話しかけて居る。千鶴は、もう一度 濡れた小指の先で筆を持ち上げると畳に落とした。
「待て、もしかして。お前ら、化けてでてるのか? 新八が言ってたみてえに、心中じゃねえにしても。毒でも飲んで魂だけ屯所に戻ってきたのか」
千鶴は、ぶんぶんと首を振って否定しているが、土方には見えない。総司は廊下に出て手水で濡らした手で、戻ると刀置きから土方の打刀をとると、それを土方の目の前にもってきた。
土方は空中に浮く自分の愛刀に手をかけた。
「お前たち。鬼に斬り殺されたのか」
土方は、真剣な顔で目を瞑った。目尻に涙が光っている。
「よしわかった。俺が仇を討ってやる。成仏しろ」
千鶴はぶんぶん首を振っているが、土方はじっと打刀を持ったままうなだれている。総司が薬を頼んだ半紙を目の前に置いても、土方は全く見てもくれない。
「ねえ、千鶴ちゃん。土方さんは、僕らをお化けと思っちゃったみたい。はじめくんのところに行こう」
千鶴は頷くと、項垂れる土方の事を何度も振り返りながら廊下を斎藤の部屋に向かった。斎藤は部屋にいなかった。綺麗に整理整頓された部屋は文机の上になにもない。まず手を濡らして、硯箱を出さないと。千鶴は、手桶に水を汲んだものを持って来ましょうと提案した。
台所から水桶を運ぶと廊下に置いた。千鶴は自分の部屋に行ったが家捜しで硯箱もない。仕方なく斎藤の部屋で硯箱を探した。水で手を濡らしては、押し入れを開け、戸棚を開け、せっせと探している間に、いつのまにか斎藤が部屋に戻って来ていた。斎藤は部屋が荒らされている事に驚いた。なんとしたことだ、物入れが独りでに動いている。何者だ。斎藤は抜刀した。
「曲者、成敗してくれる」
そう言って宙に斬りかかるが、すべて総司の透明の身体をすり抜けるだけ。だが、斎藤はまるで見えているかのように斬りつけた。最初の内は笑っていた総司も、何度も斬りつけられるのは気に入らないらしく、だんだん真顔になってきた。そして、廊下で手水をつけると、自分の部屋から刀を持ってきて、抜刀した。下段の構え。斎藤は得体の知れない者が総司の刀を操っていると思った。妖術か、悪鬼か。
「やめてください、沖田さんも、斎藤さんも」
千鶴は、大声で泣き叫んで止めているが、その声は総司にしか聞こえない。
斎藤は、真剣で構えた。
「駄目です。駄目ええええ」
千鶴は手水を頭からかぶって、斎藤に体当たりした。斎藤は、いきなり横から、強い力で何かがぶつかってきた衝撃で体勢を崩した。
「悪霊の仕業か」
斎藤は、返す刀で千鶴に向かい斬りつけようとしたが、その太刀を総司が跳ねつけ飛ばした。
「君、全身濡れたまま刀を受けたら、斬られるよ、部屋から逃げて!」
総司は、千鶴の身体を起こすと思い切り廊下に押し飛ばした。そして、刀を下ろして鞘に納めた。千鶴が廊下の奥に逃げたのを確かめると、総司は、廊下の手桶に両手をつけた、そして手桶を持ち上げると、斎藤に向かって思い切り水の入った桶を投げつけた。
「おのれ、悪霊め」
斎藤は、狂ったように刀を振るった。
「だめえええ」
千鶴が泣き叫ぶ。総司は、斎藤をすり抜けた。そのまま総司は千鶴を脇に抱えると、回り階段をずっと走って逃げた。
*********
ミヤコ様
斎藤の追跡を振り切った二人は、華池の大きな御影石の上に座って一息ついた。千鶴は頭から水を被った濡れ鼠のまま。
「君、ほんとに危なっかしかった。もうやっちゃ駄目だよ」
「はじめ君はね、斬るって決めた相手は必ず斬るから」
「それに、はじめ君は、何気に見えてる。僕らのことを気配で」
総司は、ごろんと石の上に仰向けに寝そべった。とりあえず、屯所に僕らが居るって報せたから捜索隊も出さないよ。そう言って、うつらうつらと寝始めた。千鶴は、髪の毛をずっと陽にあてて乾かし続けた。
斎藤は自分の部屋で起きた悪霊の狼藉をすぐに土方に報告しに行った。土方は、自室で起きた奇妙な出来事と考え合わせて、総司と千鶴が成仏出来ずに居ると判断した。そして、斎藤に「今から屯所を留守にする。その間、異変が起きないとも限らない。厳重に注意しろ」と言って、駕籠を呼び急いで出掛けて行った。自室で斎藤は、ずっと帯刀して待機した。再び悪霊が屯所を襲う時には、もう待ったは無しだ。
陽が傾きかけた頃、巡察や、秘密の捜索から平隊士や幹部が屯所に戻ってきた。土方が留守をしているのを知った幹部は、斎藤の部屋に集まった。斎藤は自分の部屋で起きた顛末を皆に話した。
「総司と雪村が神隠しに逢い、悪霊が屯所に取り憑いた」
屯所が危険だ。皆は改めて、自分たちの寝所である屯所が「見えない敵」に狙われている事を胸に留めた。
「悪霊か鬼か知らねえが、ここで怯めば壬生狼って呼ばれた俺等の名が廃れるぜ」
新八はそう言って、部屋に戻って刀の手入れを始めた。左之助も、持っている槍を全部手入れした。平助は、具足を押し入れから引っ張り出して、黴臭さに閉口した。廊下で風にあてて、いつでも付けて出られるように準備した。
午後遅くに土方が屯所に戻って来た。土方の乗って帰ってきた駕籠の後ろに、豪勢な箱駕籠が付いて来て、屯所の表階段の下に止まった。中から、真っ赤な頭巾を被った、背の低い小太りの女が降り立った。土方は女を北集会所の応接間に案内した。女は出されたお茶を飲むと、土方に向かって「では早速に始めさせてもらいましょ」と言った。低いしゃがれ声は、まるで地を這って絞り出されたような。垂れ下がった両頬に刻まれた無数の皺を見て土方は、こいつは齢百を越えているなと思った。老女は真紅の袈裟を纏い、手に大きな水晶の珠を持って立ち上がった。
まず、土方は老女を総司の部屋に案内した。部屋の真ん中に座ると、なにやら老女は懐から人形の紙を取り出して、朱で何かを書いている。土方はその後ろに正座して座った。それから老女は呪文を唱えだした。
目の前の老女は、洛中でも有名な陰陽師。黒谷のお奉行に屯所の異変を報告したら、上京に強力な術師がいると紹介された。宮中の除霊も仰せつかっているという。土方はその足で、陰陽師の住まう御殿に向かった。まるで神社のような朱色の建物の中から、真紅の袈裟に真紅の弁天帽子を被った「ミヤコ様」が現れた。土方は得体の知れないモノに出会った気がした。
——胡散臭え。今までで生きた中で一番、胡散臭い奴だ。だが、この婆さんに総司と千鶴を成仏させてもらわねえと。
ミヤコ様は、呪文を唱え続けている。そこへ、総司と千鶴が部屋に戻ってきた。土方の真剣な顔と珍妙な老婆の様子を見て、総司はおもわず吹き出した。
「土方さんは、どうやら本気で、僕と千鶴ちゃんを成仏させるみたいだよ」
千鶴は、自分が薬を飲んだことで、とんでもないことになったと改めて、事の大きさに困惑した。総司は、興味深そうにミヤコ様の傍に座って、置いてある道具を見て回っている。
「これってさ、本当に幽霊とかだったら効くのかもね」
総司は千鶴といっしょに大広間に行った。そこには、早めの夕餉が用意されていた。千鶴と総司の膳も用意されているが、茶碗のご飯に箸が立ててあった。千鶴は、口をあんぐりと開けて見ている。そんな。私も沖田さんも死んでいないのに。陰膳ならいざ知らず。皆さん、早まり過ぎです。千鶴の眉は八の字になって、今にも泣きそうな顔をしている。総司は、そろそろ台所が空くからと千鶴と一緒に夕餉を食べに向かった。
総司と千鶴は、お腹がいっぱいになると。再び、ミヤコ様のお祓いを見に行った。ミヤコ様は、千鶴の部屋に移動していた。総司は良い考えがあると言って、西側の納戸から大きな銅鑼どらを廊下に出した。それは、本願寺の法要で使う巨大なもので。木の枠の台座には四隅に車がついていた。総司は、千鶴を台座の上に立たせて、銅鑼の枠に摑まらせた。
「行くよ」
総司は思い切り床を蹴って、廊下を走った。二人の乗った銅鑼は、一直線の廊下を猛烈な早さで滑って行く。丁度食事を終えた幹部が廊下に出たとき、独りでに爆走する銅鑼を見て仰天した。
「いってえ、何だ」
銅鑼は、新八たちの前を勢いよく過ぎると、ちょうど角でぴたりと止まった。そしてゆっくりと方向転換すると、また独りでに滑り出した。
「おい、また出たぞ。斎藤、俺等も今、見た。銅鑼お化けだ!!」
「待てよ、槍を取ってくる」
左之助が走り出した。平助も掛けだしている。
「みんな、気をつけろ。廊下の向こうに集合だ」
皆がそれぞれの武器を取りに走っている間に、総司は千鶴の部屋の前で車を停めると。千鶴に耳を塞ぐように言った。そして、思い切り廊下で銅鑼を叩いた。途端に、土方が障子を勢いよく開けて、怒鳴りつけてきた。その隙に、総司は銅鑼を部屋の中へ入れた。そして、ミヤコ様の隣で、思い切り銅鑼を叩いた。土方も千鶴も耳を塞いで、やめろー、やめてと叫んでいるが、総司は興に入って眼が爛々と輝いている。もう、いつもの沖田さんだ、止まらない。そう千鶴は思った。
ミヤコ様は動じない様子で、ずっと呪文を唱えている。総司は、ずっと銅鑼を叩き続けた。その騒ぎを聞いて、幹部の皆が駆けつけた。皆、刀を構えて、「銅鑼お化けはここだ!」と大声で叫んでいる。総司は、皆に取り囲まれたが、軽々と皆をすり抜けた。幹部達は、部屋の真ん中に座するミヤコ様を見て驚愕した。なんだ、これも化け物か。新八たちは身構えた。
「お前等、邪魔をすんじゃねえ」
土方が、中に割って入った。こちらは、陰陽師のミヤコ様だ。千鶴の魂を成仏させて貰っている。早口で、説明する土方を見て、斎藤は衝撃を受けた。
——雪村を成仏。雪村は死んだのか。
斎藤は、目の前が真っ暗になった。奈落の底に落ちていく。顔色を失って茫然とする斎藤の前で、千鶴が首をぶんぶんと振っている。違います。斎藤さん、わたし、死んでなどいません。
皆が、言葉を失って茫然としていると。総司は、どこから持って来たのか、今度は竹鉄砲で水を皆にかけ始めた。なんだなんだ。皆が、宙に浮く竹鉄砲を刀で払うが、鉄砲は、すいすいとそれを躱すと、平助の鉢金を付けた頭をぽんと叩いた。
「痛え、何しやがんだ」
平助が飛びあがって、水鉄砲に掴みかかった。ひょいっと水鉄砲は、廊下にでると、また水桶で水を独りでにためると、皆に水を掛けてきた。勢いよく飛び出す水は、どんどんミヤコ様の袈裟や、弁天帽も濡らしていく。
ミヤコ様が水晶玉を持ち上げて、なにやら呪文を唱えた。水晶玉はミヤコ様の掌から宙に浮いてどんどんと上に登り、大きくなっていく。空中にくるくる回る玉は、急に総司めがけて飛んできた。総司は、玉を竹鉄砲で打ち付けると、玉は今度は畳を転がって、総司に突進していった。皆が、水晶玉を驚きながら眼で追い、後ずさっている。総司は、転がる玉を飛びあがってやり過ごすと、千鶴の前に立って庇った。ミヤコ様は、次に懐から白い小さな紙を取り出すとそれに息を吹きかけた。
無数の小さな紙は紙吹雪のように舞い部屋中を満たした。そして、舞い立った紙は急に同じ方向に向かって飛び始めた。小さな紙が固まってまるで、剣のようである。それは、部屋を凄い勢いで横切ると、総司と千鶴に向かって行った。総司は、千鶴を庇って紙の剣を思い切り、肩に受けた。すり抜ける筈なのに、ぐさりと刺さる。
「沖田さん」
千鶴が叫んだ。総司は、笑いながら紙の剣を左手で掴んで畳に投げた。紙はまた紙吹雪になって舞い始めた。総司は、千鶴を廊下に逃げるように押し出した。そして警戒しながら、後ろに後ずさった。紙吹雪は、今度は小さな無数の苦無のような形になって飛んできた。その時、千鶴が、総司の前に立った。
千鶴の髪は銀色で眼は金色に変わっていた。全身から光を放った千鶴は、向かって来る苦無の大群を一瞬で留めた。苦無は、再び小さな紙に変わって音も立てずに廊下の床の上に落ちていった。
皆が茫然と見ている。千鶴の放った光だけが廊下を明るく照らした。これが、悪霊の放つ光か。だが、様子が違うぞ。土方が、その光に向かって叫んだ。
「千鶴の魂か。お前が無念なのはようく解った。俺等が、必ず仇はとってやる。お前をやったのは誰だ!!」
千鶴は、私は生きています。薬を見つけてください。身体が元にもどるように。
そう言って、大きな目から涙をぽろぽろと流した。肩を震わせている間に、だんだんと千鶴の髪も瞳も元に戻った。土方達は、だんだんと消えていった光をじっと見ると。まるで、千鶴の魂が消えてしまったように感じて、廊下に出てへなへなと床に座りこんでしまった。
「ちづるー-」
平助が、消えて行った光に向かって泣きそうな声でそう呼ぶと、ガクッと肩を落とした。境内に強い風が吹き付けて来た。廊下を覆っていた無数の白い紙は、風に舞って庭の向こうに飛んで行った。千鶴は土方達の前に座ったまま、両手で顔を覆って泣き続けている。その背後から、総司が静かに声を掛けた。
千鶴ちゃん、静かな場所で皆に文を書こう。ちゃんと筆で。行くよ。
千鶴は、総司に手を引かれて、土方達の元を離れた。総司が向かった先は、北集会所の北側。伊東の部屋だった。伊東は大坂に行って留守中。ここなら、誰も来ない。文机に硯箱も出ている。待ってて井戸から水運んでくるから。
総司は、まだしゃくりあげている千鶴を座らせると、桶に水を持って来た。二人で丁寧に墨を磨って、文を書いた。
幹部の皆様
昨日の夜に飲んだ薬で私と沖田さんの身体は透明になってしまいました。
声を出しても皆さんに聞こえていないようです。
身体が透明で、物を触っても全てがすり抜けます。
水を触ると、物を持てます。
山崎さんに、元に戻す薬を用意して貰ってください。
私たちは、屯所にいます。
沖田さんも私も生きています。
銅鑼を叩いてごめんなさい。
沖田さんはお元気です。
雪村千鶴
千鶴が筆を置いて、手紙を畳んで袂にしまうと。総司が、「しっ」と言って、静かにするように千鶴に注意した。障子の向こうに人影が見えた。千鶴と総司は、灯りを灯さずに部屋にいた。廊下の人影が、すーっと障子を開けて入って来た。見知らぬ男が二人。千鶴と総司は、障子の影に二人で息を凝らして座っていた。
男達は、手に書物を持っていた。青い月明かりの入る部屋で、書庫に本を戻している。二人は、本棚の影でじっと立ったまま。
「誓うか」
「はい、誓います」
そう言う二人の声が響いた。
男達は、ふと千鶴達の傍の文机を見ると、二人で、半紙と筆を取り出した。
「ご宝印ではないが」
片方の男がそう言った、男を千鶴は見かけた事があった。名前は知らないが。確か五番組の隊士だった。その隣に座る年若な隊士は、確か、二番組の吉岡さん。
尊皇攘夷に我が命をかける
互いの約を此処に誓う
総司は、胡座をかいて肘に顎をのせて笑いながら二人を見ている。
「起請文だ」
男達は眼を見合わすと、腰の脇差を抜き袖をめくって腕の内側を斬った。垂れ下がる血を指にとり半紙の上に起請を書き綴った。千鶴は眼を丸くして口に手をやって驚愕の表情をしている、すさまじい男二人の誓いの姿に震え始めた。男二人は起請文を書き終えると、今度は、着物を脱いで半身になって抱き合うと、互いの腕の傷をこすり合わせ始めた。千鶴は、そこで総司に両目を塞がれた。
「千鶴ちゃん、そのまま眼を瞑ってて。ここを出よう」
総司はそう言うと、千鶴の眼を塞いだまま、そっと千鶴を立ち上がらせると、千鶴の手をひいて障子の外に出た。二人で足早に廊下を歩いて、渡り廊下に出た。
「とんでもない人たちの、とんでもないもの見ちゃったね」
総司は笑っている。あの人達、伊東さんに傾倒か。透明になっていると、間者には最適かもね。隣の千鶴は、身体がまだ震えている。総司は、千鶴の手をとると、斎藤の部屋に向かった。もう千鶴の部屋から、「ミヤコ様」も退散したようだった。幹部も解散になったのか、静かだ。斎藤は、部屋に独りでいた。文机の前に正座している。文机の上には千鶴の櫛が置いてあった。桜模様のついた斎藤が贈った櫛。
千鶴達が伊東の部屋に行って手紙をしたためていた間、土方たちは、除霊を終えたミヤコ様を見送り、引き続き千鶴達を消した下手人を捕まえようと相談した。その後、斎藤を呼び出した土方が、千鶴の行李の中に大切に仕舞ってあったと、斎藤に櫛を渡した。
「千鶴の形見だ」
斎藤は、その櫛を受け取って部屋に戻った。
——雪村、余程無念なのか。
斎藤はじっとその櫛を見詰めていた。その隣で、悲しそうにしている千鶴に、総司は、今晩はもうここで休もう。そう言って、斎藤の傍で二人で畳に丸くなって眠った。斎藤は、いつまで起きていたのだろう。総司と千鶴が朝に目覚めた時には、もう部屋には居なかった。
*******
千鶴の声
総司たちが斎藤の部屋を出たとき、幹部の皆は広間で会議をしていた。集まりは極一部の幹部だけだが、物々しい軍議になっていた。
「ミヤコ様は、昨日暴れ回る総司の霊を追い払った。千鶴の部屋に鬼の姿を見たらしい。『大層力の強い鬼』一筋縄ではいかねえと言っていた」
「総司と千鶴を拐かしたのは、鬼の連中だ。あいつらの洛中の潜伏先の大方の目途はついている。四条井筒屋、薩摩藩邸。監察方を昨日の夜から、二人偵察に向かわせている。俺等は精鋭部隊で日没と共に井筒屋へ向かう」
「討ってでる」
皆は、黒八丈の隊服を着て、真剣に土方の話を聞いている。平助は鉢金をつけて手足に篭手や膝当てまで付けている。その隣で斎藤も正座していた。殺気。静かだが、真剣な表情はいつもの優しい斎藤とは違う、研ぎ澄まされた神経がただ其所に佇んでいるような。戦に出られる時みたいだ。池田屋の夜。千鶴は、斎藤が殆ど口をきかずに、黙々と準備をして玄関に向かった時を思い出した。千鶴は、昨日したためた文の事はすっかり忘れてしまっていた。そこへ総司が、湯飲みに水を汲んだものを袖にかくして部屋に入って来た。
「ねえ、千鶴ちゃん」
総司は、胡座をかいて千鶴を呼び寄せた。
「これで、はじめ君の首をこそばせてみて」
そっと、袖の湯飲みを千鶴に渡した。はじめくん、首が弱いからさ。そう言って、片目を瞑った。緊迫した空気の中、総司は随分と暢気な様子で皆を見回して笑っている。千鶴は、言われるままに、指の先に水を付けると、そっと斎藤の傍に座って、首をそっと触ってみた。斎藤は、びくっと後ろに仰け反るような仕草を見せた。そして、驚いたように宙を見ている。総司は、くすくす笑うと。
「もう一度、やってみて。今度は反対側から」
千鶴は、言われるままに触ると、またびくっと斎藤は肩をゆらして驚いた。土方が、部隊編成が書かれた紙を手に隊士の名前を読み上げている。幹部は真剣な表情で土方の方を見ている。
「こんどはさ、首に水を付けて、息を吹きかけてごらんよ」
総司は、斎藤をからかい続けている。千鶴は少し躊躇したが、ふーっと息を吹きかけた。総司から見ると、千鶴がそのまま斎藤に口付けでもして行きそうな格好。そして、斎藤は、息を吹きかけられているのに感じ行っているのか、だんだんと頬が紅くなり、じっと固まったまま耳まで真っ赤になった。
総司は、お腹を抱えて笑っている。千鶴はだんだんと自分も恥ずかしくなってきた。
「沖田さん、私、【いけない事】しているみたいで」
千鶴も、頬を赤らめているのを見て、総司は、「いけないこと」だよ。といって更に笑っている。あー、おかしい。はじめくんのこういうところ、最高だよ。
「ね、千鶴ちゃん、今度は頬に口付けてごらんよ」
総司がそう言うと、千鶴は、顔を真っ赤にして、「そんなこと、出来ません!!」と怒った。
その時、千鶴の放った声が皆に聞こえた。「出来ません」の「せん」という声だけが、部屋に響いた。
「今、千鶴の声がした」
平助がそう言って、きょろきょろと辺りを見渡した。左之助が、立ち上がると障子を開けて廊下を確かめた。
「誰もいねえ。俺も聞こえたぜ。千鶴の声だった」
皆がざわついた、全員がはっきりと千鶴の声を聞いたと頷いた。
「【せん】って、あの【お千】って名の嬢ちゃんの事じゃねえか。市中で知り合った千鶴の友達だ。輪違屋の君菊さんとも懇意だぜ。土方さんの言う様に、千鶴の魂がここに居るとして、【お千】の名を呼んだんじゃねえか」
左之助が、土方に向かってそう話すのを聞きながら、斎藤は、千鶴の気配を感じていた。さっき、自分に触れたのは、雪村だ。傍にいる。見えないが。斎藤は、じんわりと身の内が温かくなった。そして、さっきの接触の事を皆に話そうかどうか、迷った。言い出せないで居る内に、土方は、【お千】が手がかりだと、左之助と新八に今すぐ、島原に出向いて、事情を話してお千を屯所に連れてくるよう指示した。二人は、直ぐに広間を後にした。
驚いたのは、千鶴と総司だ。自分たちの声が相手に聞こえた。大声で叫ぶといいのか。そう判った二人は、大声で土方と斎藤に向かって叫んだが、やはり聞こえないようだった。千鶴は、ふと、自分の寝間着の袂に何か入っていると気がついた。ゆうべ、沖田さんと書いた文。すっかり忘れていた。
千鶴は、手水をとって手紙を取り出すと、土方の前にそっと差し出した。土方は、畳の上で、独りでに自分に向かってくる、紙を見て驚いた。そして、手に取って読んで、おい、みんな見てみろ、と大きな声で叫んだ。
「あいつらは、死んでねえ。透明になっちまったんだとよ」
土方は、辺りを見回した。
「おい、千鶴、総司。ここに居るんだろ。居る場所で、なんでもいい、モノを振り回せ」
千鶴は、床の間の一輪挿しを持ち上げた。皆が、床の間に押し寄せて来た。
平助が手を伸ばして、千鶴に触っているが、すり抜けてしまっている。
「千鶴、ここだよな、ここに居るんだよな」
平助は、確かめるように訊ねてくる。千鶴は、そうだよ。ここだよ、と言って笑っている。斎藤が、総司をすり抜けて、千鶴の真ん前に正座した。
「雪村、無事でなによりだ」
まるで、千鶴が見えているかのように話しかける。千鶴は、眼から大粒の涙をぽろぽろとこぼして、はい、と笑って返事した。
「ったく、なんでまた身体が消えるような薬なんて飲んだんだ。山崎は今日戻る。直ぐに薬を用意させるから、安心しろ」
土方が、そう言って総司たちに笑いかけた。
****
終章 いまのうちに
仇討ちが打ち止めになった。精鋭部隊編成で、予定を全て中止にしていた土方は、昨日からの緊張が解けた。そのまま左之助たちが戻るのを待とうと、大広間で遅い朝餉をとった。総司は、退屈そうに畳に横になっている。いつの間にか、斎藤が紙と硯箱を用意して、墨を摺ると、手桶に水を溜めたものを文机の傍において千鶴に傍に来るように宙に話しかけた。
「昨日、俺の部屋に居たのは雪村と総司か?」
斎藤の質問に千鶴は筆を机に落とした。
「……。俺は二人に斬りかかってしまったのだな。すまぬ」
斎藤は、正座したまま膝に手を置いて頭を深く下げた。ぞっとした。真剣で雪村に斬りつけるなど。 しゅんとする斎藤を見て、千鶴は、手水をつけると筆をとった。
謝らないでください。
斎藤さんに文を書こうと硯箱を探していました
勝手にお部屋に入って、ごめんなさい。
斎藤は、動く筆と千鶴の手蹟を眺めながら、そこに千鶴が座っている姿が見えるような気がした。平助が、「なんで千鶴まで薬を飲んだんだ? なんの薬だ?」と立て続けに質問している。千鶴は、夕べからの経緯を書き綴った。
真剣な表情で文机を覗き込む平助や土方に、総司が背後から負ぶさったり、もたれ掛かっている。千鶴が総司を見ると、総司は斎藤に背中から抱きつき肩に顎を置いて笑っている。
ねえ、千鶴ちゃん、透明な内に普段出来ないことやっておこうよ。
そう言って、今度は、土方の上に覆い被さって、顔を覗いている。手を伸ばして、指に墨を付けると、土方の口の周りに泥棒髭を書いた。千鶴は、あっけに取られていた。土方は、全く気づいていない。総司は、手を伸ばして、平助にも髭を書いた。総司が、次に、斎藤にも髭を書こうと手を伸ばしたのを千鶴は払いのけた。
「いけません」
また「せん」と声が響いた。その時に、大広間の障子が開いて、左之助たちが、お千を連れて部屋に入って来た。
「千鶴ちゃん」
お千がそう叫んで、千鶴に駆け寄って手をとった。千鶴は、お千がまるで自分の事を見えているかのように振る舞うのに驚いた。
「お千ちゃん、私が見えるの?」
「ええ、千鶴ちゃん」
お千は笑いかける。
「千鶴ちゃんが神隠しに遭ったって聞いて、飛んできたの。よかった無事で」
千鶴は総司と同じように自分に普通に触れるお千も、同じように薬を飲んだ透明人間かと思い、お千ちゃんも薬を飲んで透明なのかと、心配そうに問い掛けた。お千は、透明になる薬は飲んでいない。私は大丈夫だと応えた。
「お千ちゃん。よかった。無事で」
千鶴が逆にお千の無事を喜ぶ姿を見て、お千は千鶴の両手を持って微笑みかけた。
「ほんとに、千鶴が見えてんのか?」
土方は驚いた。昨日のミヤコ様といい。このお千って女といい。見える奴には見えるってことか。
「ええ、見えています。千鶴ちゃんは、ここで笑っています」
と言って、千姫は泥棒髯の土方を見て肩を震わせ千鶴と目を合わすと、二人で笑い出した。
「なんだ、千鶴は生きてここに居るのか?」
やっと状況を把握した左之助と新八が傍にやってきて座った。
「山崎くんの薬を飲んだら、身体が透明になっちまったんだってさ」
髭づらの平助が説明する。新八も左之助も、墨で髭を書かれた平助達を見て笑い出した。
「総司の奴。透明になって、好き放題やってやがんな。おい、総司。どこだ?」
きょろきょろする新八の膝に頭を載せて総司は笑いながら「ここ、ここ」と言って寝そべっている。伸ばした足は、土方の肩の上に載せて。本当に、好き放題やっている。千鶴は、総司を呆れながら眺めていた。
井上が気を利かせて、皆にお茶を運んできた。和やかに、土方が事の顛末をお千に説明すると。
「最近、おかしな薬が大坂に出回っていると聞いています」
「西洋や清国から。市中で売られている薬草にも出所が怪しいものがあると」
千姫が、もし解毒の薬草がみつからなければ、心当たりがあるから、すぐに島原に報せて欲しいと土方に頼んだ。土方を含め、幹部は皆、お千の申し出に痛く感謝した。
そこへ、山崎が屯所に戻って来た。皆が、大広間に山崎を呼び出し。二日前に総司と千鶴の飲んだ薬に付いて問い質した。山崎は、酷く驚いた様子だった。直ぐに、解毒剤を準備します。そう言って走って部屋に戻っていった。
山崎が大坂で買い求めた新薬。それと一緒に、症状緩和の薬草も買っていた。効き目を押さえることで、それに付随する反作用を抑える。山崎は、分量を間違えないように慎重に薬を準備した。
身体が消える。そんな作用が。
山崎は、自分のしてしまった事の重大さに、身が縮むような思いがした。すまない。本当に済まないことをしてしまった。
***
山崎が薬を煎じている間。近藤が、表階段から「総司、総司」と大声で叫びながら大広間に駆け込んできた。息を切らせた近藤は、羽織の紐も結ばずにはだけたまま、足袋も紺と白のちぐはぐで、無茶苦茶な格好だった。その後を、相馬と野村が追い駆けて来た。
「総司が斬られたと聞いた。どこだ。どこに寝かせている、部屋か」
そう言って立っている近藤の足元で、総司は小さな子供のように近藤の膝にしがみついて笑っている。
「斬られてませんよ」
そう言って、笑いながら近藤を見上げている。
「近藤さん、総司は無事だ。生きてこの部屋にいる」
泥棒髭の土方が笑いながら腕を組んでいる。二日前に飲んだ薬で、透明になってしまったんだとよ。昨日から大騒ぎだ。近藤は、茫然としながらも、総司が生きていると聞いて、笑顔が戻った。
「雪村くんもか。二人が神隠しにあって、斬られたと聞いたが、無事か」
近藤は、大きな声でそう言って千鶴の無事を確かめると、わはははと笑いだした。
「いや、慌てたぞ。家に着いたら、相馬が駆け込んできて、屯所が大変だと言うんで。そのまま走ってきた」
そう言って、胡座をかいて座ると、皆から詳しく事の顛末を聞いた。総司は、その間も、近藤の膝枕で暢気に自分の話を聞いていた。そこへ、薬の準備が出来たと、お盆に丼を二つ載せて山崎が大広間にやってきた。
お盆の前に、千鶴と総司は座った。
「ねえ、千鶴ちゃん、今のうちに、やりたいことやっときなよ」
総司が千鶴に笑いかける。
「土方さんに、あっかんべーしても今は怒られないよ」
千鶴は、クスクスと笑っている。
「もう一度銅鑼に乗りたいです」
千鶴はそう言って、肩を震わせて、クスクスと笑っている。
「あれね、楽しかったね」
総司も笑った。
「ほら、はじめくん。そばにいるよ。ぎゅーっとしておいでよ。僕、眼を瞑っててあげるからさ」
総司は、千鶴の背中を押した。千鶴は恥ずかしそうにしながらも、斎藤の膝に手を載せて、斎藤の顔を真っ正面から見詰めた。紺碧の瞳は、深い色をたたえて、優しく自分を見詰め返している。千鶴の心は震えた。
斎藤さん、今戻ります。
そう話しかけるのがやっとだった。斎藤は、まるで聞こえているかのように、微かに微笑んだように見えた。
千鶴は振り返って総司を見た。総司は薄眼をあけて笑っている。それから二人で、手水をとると丼を持ち上げてゆっくりと薬を飲み干した。皆は、宙に浮かぶ二つの丼をじっと息を呑んで眺めていた。
お盆に戻った空っぽの丼鉢の前に、暫くすると、ぼんやりと千鶴と総司の輪郭が浮かび上がってきた。皆がどよめいた。ゆっくりとゆっくりと、輪郭がはっきりとしてきた。二人は笑顔で皆をじっと見ている。
斎藤が立ち上がって、自分の黒八丈を脱ぐと、千鶴の背中から掛けて身体を包んだ。千鶴は、自分が寝間着のまま、裸足でいる事に気づいて、恥ずかしくなった。
「ありがとうございます」
千鶴の礼を言う声が部屋に響くと、皆が「おおっ」と声を上げて喜んだ。次第に、髪の毛、顔の色、全てがはっきりと元に戻って来た。千鶴は、おそるおそる前に手を伸ばした。斎藤がその手を取った。
「斎藤さん」
「もう大丈夫だ。こうやって触れている。普段と変わらぬ」
見つめ合う二人に、皆が気恥ずかしくなりながらも、元に戻った。良かった良かったと笑顔になった。
「総司、千鶴。具合はどうだ。腹が減ってねえか」
土方が訊ねると、二人は首を横に振った。
「何か欲しいものはねえか」
二人は、声を揃えて「ありません」と笑顔で答えた。元に戻ったからそれだけでいい。土方は、そうか。そう言って笑顔になった。
千鶴は、斎藤と繋いだ手を離さなかった。平助が、「どさくさに紛れて、はじめくん、何ずっと繋いでんのさ」と怒ったが。斎藤も、ずっと手離さなかった。斎藤は、千鶴の手を引いて立ち上がらせると、
「副長、一旦雪村を着替えに部屋に戻らせます。報告はその後に」
そう言って、斎藤と千鶴は千姫と一緒に大広間から出ていった。
大広間に残った総司は、近藤達に昨日からの出来事を全て詳しく話して聞かせた。千鶴と忍び込んだ、伊東の部屋で目撃した隊士二人の起請文の事も。この報告が、後に斎藤の伊東派への密偵の任務に繋がっていくが、皆は衆道の場に千鶴が居合わせた事を酷く心配していた。
「千鶴、驚いてたろ」
左之助が心配そうに訊ねる。
「うん、ずっと震えてた」
「そりゃ、そんな起請の瞬間なんて、俺が見ても驚くよ」
平助が髭面のまま、ふくれっ面をしている。
「ミヤコ様もね」
総司が笑ったら、皆が「あれなー」といって爆笑した。あの顛末も詳しく近藤に説明すると、近藤は上京に有名な陰陽師が居るとは聞いていたが、本当だったのだなと感心していた。そして、総司が無事だったことが嬉しい。雪村君も恐ろしい思いをさせて可哀想だが、無事で何よりだ。そう言って、総司の頭をぐしゃぐしゃと撫で回した。
総司は、山崎の薬は咳には良く効いた。そう言って、山崎に礼を言った。近藤は、夕方に黒谷に出向く予定を変更して、その日は夜まで屯所で過ごした。着替え終わった千鶴と、大広間に現れた斎藤は、千姫が千鶴の無事を祝いたいと、仕出しの手配をしに島原へ戻ったと報告した。
そして、日が暮れた頃に大広間で小さな宴が開かれた。豪勢な膳が並べられ、酒も振る舞われた。千姫と一緒に呼ばれた君菊は、挨拶をすると。土方の隣に座って、微笑みながら、そっと手拭いを出して、土方の顔の墨を拭った。妖艶な君菊の仕草に、土方は嫌がる様子もなくじっとしていたが、「綺麗に消えましたえ」そう君菊に言われたとたん、総司を追い駆け始めた。
泥棒髭の平助は、朝までずっと髭面のまま気持ちよく酔っ払い笑って過ごした。
千鶴は、夜更けに君菊と千姫を境内で見送った。二人は、千鶴が屯所で大切に守られて居る様子をしっかり確認できて安心して帰っていった。
神隠し騒動は、その後日々の生活の中で皆の記憶から薄れて行った。屯所での奇妙な出来事、それを覆い隠してしまうぐらい、世の中はめまぐるしく動いていった。そして、千鶴がふと父親の事で寂しそうな表情をしていると。総司や平助が、納戸から大きな銅鑼を出してきて、千鶴を乗せて、回り廊下を疾走して笑わせた。これを見た相馬や野村が大層羨ましがった。二人はどこからか、もう一台駒付きの銅鑼を調達して来て一緒に走った。
千鶴の屈託の無い笑い声は、殺伐とした屯所を、なごやかで温かいものに変え、皆を幸せな気分にした。そして間もなく、土方の留守中を狙い、「銅鑼乗り競争」が密かに催されるようになった。北集会所の回廊下一周を二人ひと組で競い合う。
これには、斎藤や左之助達も参加した。幹部はもとより皆負けん気が強く毎回白熱した競争になった。
了
(2017.10.10)