猫可愛がり

猫可愛がり

明暁にむかいて その5

明治七年 師走

風とともに

 十二月に入ったある昼過ぎ、玄関で誰かの声がした。千鶴は、お勝手から慌てて表に廻ると、深い灰色の外套チェスターコートに毛織りの襟巻きをまとった土方が立っていた。長身で佇むその姿は、築地の外国人ホテルの前で見かけた西洋人の様だった。千鶴の後を追いかけてきた長男を、土方はすぐに抱きかかえると、

「坊主、会いたかったぜ」

 そう言って笑いながら、手に持っていた土産を千鶴に持たせて、玄関に入って行った。千鶴は、土方の後から家に入ると、居間でさっそく遊び始めた土方と息子の豊誠の姿を眺めた。
 土方は、大きな外套を畳に無造作に投げていた。その懐から、小さな船を取り出した。ブリキで出来た軍艦。黒い船体の底は美しい紅色で、旗や大砲までが綺麗に彩られている。豊誠は、船を持って走り始めた。千鶴は、土方から外套を預かると、刷毛をかけてから衣紋掛けに吊し、お茶の準備をした。

「いつもありがとうございます」

 千鶴は、お土産と子供への贈り物にお礼を言った。居間の廊下を、坊やが猫と一緒に狂ったように走っている。

「お、早ええな。これだけ走れば大したもんだ」

 そう言って、嬉しそうに眺めている。
 千鶴は、最近、子供の相手を猫の総司に任せきり。坊やの腕白ぶりは留まるところがない。これでもかというぐらい動き回る。歩き出したのが夏の終わりで、今は、そこらじゅう走り回るようになった。高い段差も、足が届かなくても、落ちるように飛び降りることもある。尻餅をついて、驚きはするがケロっとして泣くこともない。常に機嫌がいいのは、とても良いことだが。ここに居たかと思うと、一瞬で庭に下りて走り回っていたりする。そんな時に、総司がついているのが頼もしい。
 総司は、危険察知能力が高い。坊やが危ない目にあわないように、先手先手で動くところがあった。だが、二人のじゃれ合いは、時に行き過ぎの時もあった。
 たとえば、廊下での追いかけあい。ケラケラと笑いながら、猫に追い掛けられたり逆に追い掛けたりをして遊ぶのだが。途中、壁の前で止まろうとするときに、床を滑り込む。総司は爪を立てて四つ足で滑り、坊やは二本足で滑るが、同じように爪を当てている。床には、無数の爪痕と傷が出来ていた。
 猫の爪と違って、坊やの爪は柔らかいのに、堅い床を削る。どんな風に動いているのだろう。千鶴は、豊誠の類い希な力を感じていた。怪我をしないのは有り難いが、少々向こう見ずが過ぎるのでは。そんな風に、気苦労ばかりが募ってしまっていた。
 土方は、そんな豊誠を「たいしたもんだ」といって感心する。【男子】と生まれたからには、大柱を倒すぐらい強くならねえと。そんな風に言って、豊誠を焚きつける。それにしても、今日で土方が診療所を訪れるのは何回目だろう。このふた月の間に、十回以上は来ている。仕事の用事のついでに馬車で乗り付ける場合もあれば、今日の様に会社は午後は仕舞いだからと言って、午後をずっと過ごすこともある。そういう日は、斎藤が仕事から戻って一緒に夕餉を食べてから、夜遅くに帰って行く。

 この前も突然「坊主の顔を見に来た」と玄関に現れて、馬車を外に待たせたまま、豊誠を抱き上げた。

「豊誠、今度、品川台場にな。灯台を見に行こう。大きな洋燈があるぞ。俺が造らせたんだ。そこからな、でっけえ船がみえる」

 そうひとしきり話すと、千鶴に豊誠を渡して、

「世話になったな、ちゃんと戸締まりしておけよ」

 そう言って、走るように玄関から消えてしまった事もあった。世話をするもなにも、あっという間の出来事で、お茶の用意どころか、居間に座ってもらう事も叶わないまま。坊やを抱っこしたまま千鶴は風のように去って消えた土方にただ驚いた。

 土方に手土産に貰った最中をお茶と一緒に出して、三人で居間に座って食べた。坊やは、その後土方の膝の上で眠りだした。最近は決まった時間に一刻程、昼寝をするのが日課。千鶴は、そう言って奥の間に布団を敷いて、子供を寝かせようとした。土方が、坊やを抱っこして寝かせると、自分も一緒に昼寝をしたい。そう言って添い寝した。千鶴は、掛け布団を出して土方にかけてから、お勝手に戻った。
 ちょうどその時、玄関で「ただいま戻った」と斎藤の声が聞こえた。千鶴が迎えると、斎藤は刀を渡しながら、午後から非番になったと言う。ここ二ヶ月の間、斎藤は休みなく、勤務時間も一時間は長くなって激務が続いていた。久しぶりに翌日は一日休みだ。そう言って、斎藤は微笑んだ。

「副長がみえているのか」

 玄関の靴を見て、斎藤は驚いた。「はい」と千鶴は答えた。いま、豊誠と一緒にお昼寝されています。そう言って、静かに居間から奥の間のふすまを開けた。斎藤は、二人が休む姿を見て微笑んだ。千鶴は、斎藤の着替えを持ってくると、居間で着替えを手伝った。それから、お茶の用意をしに台所へ立った。
 着替え終わった斎藤が土間に下りてきて、水瓶から水を汲んで呑むと、湯飲みを流しに置いた。千鶴の腰を抱き寄せ、こめかみに口づけた。耳や首筋にも口づけて抱きしめる。

「休めるか」

 耳元で囁かれた。千鶴は、頷くと茶碗を洗う手を止めた。前掛けで手を拭うと。斎藤に正面を向かされて深く口づけされた。「お茶を」と千鶴が呟いても、斎藤は、「それより休もう」そう言って、千鶴の手を引いていく。千鶴は、斎藤がこういう時は直ぐに情を交わしたいと思って居ることを知っていた。へっついからやかんを下ろした。斎藤はそのまま千鶴を抱きかかえた。微笑みながら前を向く斎藤の腕の中で、千鶴は小さく訊ねた。

「でも、お客様が」

 斎藤は、それを聞いても黙ったまま、廊下を診療所の方に進んでいった。診療所の奥の間のふすまを開けると、きっちりとふすまを閉めた。「冷えるな」 斎藤はそう小さく呟いた。火鉢もなにもない。それどころか此処は、空気孔があけてあるから寒い。斎藤は千鶴を抱きしめた。こうしていると直に温まるか。斎藤は、優しく微笑んだ。
 夫婦で昼間から睦むのは、久しぶりだった。斗南に居た頃は、よく早く帰った斎藤と午後はずっと奥の間に籠もる事があった。東京に移ってからは、こういう時間を持つこと自体がなかった。斎藤は、今日の朝突然午後に非番が貰えて、真っ先に家に帰って千鶴を抱きしめたいと思った。飛んで帰ろう。そして、実際飛ぶように帰ってきた。



***

 優しい時間が過ぎた。二人とも十分に身体は温まっている。着物を半分羽織った状態で、抱きしめ合って快楽と幸福の余韻に浸っていた。もうそろそろ、坊やが目を覚まします。千鶴が斎藤の腕の中で囁く。副長がついておられる。斎藤は、千鶴を抱き寄せて髪の毛に口づけた

 可愛くていけねえ

 千鶴が呟いた。

「いつも土方さんが、仰るんです。帰り際に、坊やを抱きしめた後に」

 そう言って、くすくすと笑う。

 いつだったか、坊やがお昼寝をして。私がお勝手にいると、後ろに土方さんが立っていて。

「俺は豊誠を目の中に入れても痛かあねえ」

 真剣な表情で宣言されて。そのまま上着をさっと羽織って帰ってしまわれたり……。千鶴は、楽しそうに話す。お帰りになる時に必ず、「ちゃんと戸締まりしろよ」って仰るんです。そう言って、クスクス笑い続ける。千鶴は、診療所の玄関も自宅の玄関も昼間はずっと鍵はかけずに開けている。土方が、そのまま玄関から声をかけて上がって来ることもあった。豊誠は、すっかり土方に懐いて、土方の声がすると走り出して、飛びついていく。そして、その後を総司が飛び掛かり、土方に一撃を加えるのを忘れない。
 千鶴は、土方が豊誠に会いにくる様子を斎藤に話し続けた。東京にいる身内。斎藤の実家の山口家は、本郷にあるが。斗南から戻ってから、一度顔を見せただけだ。新選組、旧幕府に加担していたものが身内にいることは、山口の家にとっては、世間には肩身の狭いだけのもので、一番上の兄の様子を見ても、斎藤と千鶴が訪ねて行くことを喜んでいるようには感じなかった。斎藤は、覚悟はしていた。身近に暮らす身内だが、行き来は難しい。そして、親兄弟を亡くし、天涯孤独な千鶴に自分の身内事で寂しい思いをさせるのだけは避けようと思った。幸い、隣人のお夏は、千鶴を実の娘のように、豊誠を孫のように可愛がってくれていた。斎藤は、お夏にいつも感謝していた。土方にも、このように、肉親以上に気をかけてもらえる。斎藤は、息子の幸せを思った。

「昔から歳の行かない者に優しいお方だ。俺等のような若輩の事も。よく面倒をみてくださった」

 斎藤は、江戸に居た頃、土方の地元の日野の道場に出稽古に出た時を思い出していた。稽古の後は、そのまま道場の隣にある佐藤家で泊まって行くよう、土方に誘われた。佐藤家は土方の姉が嫁いだ先で、土方の甥っ子や姪っ子が大勢暮らしていた。稽古の後に、母屋で夕餉を食べた後、土方は甥っ子と相撲をとったり、風呂に入れたりと良く世話をしていた。今も、自分の息子を可愛がっている土方は、あの頃とちっとも変わっていない。
 千鶴は起き上がって、着物を着直した。髪を整えて、斎藤の着付けを手伝った。斎藤は、千鶴の手を引いて廊下に出た。廊下の先に、土方が豊誠を抱いて立っていた。「ほら、おっかさんとおとっつあんだ」 そう言って豊誠を千鶴達に向けた。

「お父つあんとおっかさんは、仲がいいな」

 そう豊誠に話かけている。斎藤は、土方のひやかす様な口調にだんだんと頬を赤らめた。千鶴も、診療所で睦んでいたことを暗に言われているようで、顔から火が出るほど恥ずかしかった。狼狽気味の斎藤は、診療所の空気穴は、外から木戸で閉じておこう。そう言って、渡り廊下から診療所の庭の方に回っていった。千鶴が居間に戻ると、土方が豊誠を抱いて、火鉢にあたり始めた。土方は、「おしめはさっき換えた」と言って、汚れたおしめを奥の部屋に置いてあると千鶴に伝えた。




*****

 それから、斎藤が居間に戻って土方と一緒に寛いだ。土方は、師走の何かと気ぜわしい時期だが、先月来日した英国人の技師が、一旦日本を出て香港に滞在していると言う。板硝子の試作品も順調で、年内の操業はあと数週間で終わる。暫くのんびり出来ると話した。

「相馬は、材料調達担当で日本中を走り回っている」

 土方の話では、相馬は金沢に純度の高い「金」を仕入れに行っていたらしい。今度、金を配合した生地で硝子を造る。そう言って土方は笑った。斎藤は、硝子造りについては、品川興業社で溶炉を外側からしか見たことがない。あの様に大きなものを動かして、ものを造るのは大変な事だと感心しながら話を聞いていた。
 千鶴が夕飯を並べて、早めの夕餉にした。千鶴は、土方にゆっくり泊まっていって貰うようにと頼むと、土方は、「ああ、そうする」と言って、豊誠と一緒にお風呂に入った。お風呂場から、子供のけたたましく笑う声と、土方が、「どうだ、坊主。参ったか」と言って笑う声が聞こえてきた。二人は、随分と長風呂だった。何をどうしたのか。たっぷりと張ったはずの湯船の水が、半分ほどになっていた。坊やに風呂上がりの白湯を呑ませた後、寝かせようとしても興奮してなかなか眠らない。仕方なく、千鶴はずっと子供を抱いて居間で座っていた。
 斎藤は、警視庁が人員募集で苦労をしている話を土方にしていた。新政府は、薩摩長州出身者を優先的に各庁で採用しているが、警視庁はそうは言って居られなくなって来ている。実際、大二区小一署も新規に採用しているのは、旧幕府についた桑名、庄内藩などの士分、中には農民も。剣術の腕もまちまちで、もし、今大きな反乱が東京で起きると、どう統率できるか定かではない。
 土方は、斎藤の話を聞いていた。工部省は陸軍との繋がりが強い。最近は、台湾征討で陸軍も人員を増やした。原田の話では、新政府は朝鮮征討もやろうとしているらしい。そのために満州の北の警備強化もしている。今は、日の本だけじゃねえ、海の向こうでも戦が起きる。なあ、斎藤。

 士族の反乱で国が荒れるのは、俺等も十分見てきた。

 土方は、横になりながら、「何がいってえ、必要か」、そう呟いた。千鶴は、ようやくじっとして眠りそうになっている豊誠を、ずっと背中をゆっくりと優しくとんとんしながら揺らしていた。
 警視庁はここ数ヶ月の間、ずっと品川から芝にかけての巡察を強化していた。船の出入りも多い。港に停泊する軍艦。台場の警備増強。いつでも、戦に備えておく必要があろう。幸いにも、斎藤は優秀な部下に恵まれていた。天野と津島は、鍛錬で腕を上げ、新しく入暑した巡査も出自はまちまちだが、剣や体術の心得があるものが揃っていた。
 千鶴は、立ち上がると、土方に客間に布団を用意してあると伝えて、子供を寝かしに奥の部屋に入った。土方は、俺もそろそろ寝るか。そう言って厠に向かった。
 客間で寝間に入ろうとする土方に、千鶴がふすまの向こうから声をかけた。「湯たんぽをお持ちしました」と部屋に入ると。巾着袋に入った大きな湯湯婆を布団の中に入れた。土方が、横になると。もう一つ、厚い布で包んだ円筒形のものを土方に渡した。

「瓶に厚いお湯を入れてあります。これをお腹に」

土方は、一瞬千鶴の顔をじっと見た。

「温めるのが一番です」

 千鶴は微笑むと、布団を土方の背中にかけた。土方は、身体を横にしたままうずくまるような体勢で横になった。千鶴から受け取った小さな湯湯婆を腹部にあてていると、じんわりと温かくて気持ちいい。

「いい具合だ。ありがとうよ」
「背中を向けたままで、すまねえ」
「寒いとな。古傷が痛む……」

 千鶴は、土方の背後から「ごゆっくりしてください」と言って、行灯の灯りを消そうとした。

「……ずっと、見ていやがる」

 背後で、土方の声がした。振り返ると、総司が畳の向こうで翡翠色の目を光らせて座っていた。口元は笑っているかのように。長い尻尾は、時折揺れて。機嫌がいいときの様に、そっと前足の前に揃えた。

「こいつは、総司そっくりだな」

「はい」

 千鶴は、笑顔で総司を眺めた。そっくりと言うより、沖田さんです。そう言って、総司を見ると、猫はゆっくりと瞬きをして、「そうだ」という表情をした。千鶴は行灯を消した。土方の横顔は優しく笑っているように見えた。「おやすみなさい」と千鶴は、小さな声で囁くように挨拶をして部屋を後にした。
 千鶴が片付けを済ませると、斎藤は湯に入ろうと千鶴を誘った。湯船のお湯が少ないので、二人で入るのに都合が良かった。斎藤は、湯船で千鶴を後ろから抱き寄せると、明日は非番だからゆっくり出来ると呟いた。千鶴は、斎藤が久しぶりに家でのんびりと休める事を喜んだ。初めて東京で迎える冬は、厳冬の斗南からは天国のように感じている。千鶴は年の瀬を迎えるのが楽しみだと斎藤にもたれかかった。
 東京は暖かくていいですね、そう言って笑うと思い出したように、土方が古傷が痛むと言っていたと、斎藤に話した。斎藤は、副長は、歩かれる時も左側を庇うようにされている。おそらく、戦で受けた傷のせいだろう。そう呟いた、千鶴も気づいていた。横になる時は、決して仰向けにならない。左側を下にしないと横になれないようだった。よほど、深い傷を負われて。斎藤は、千鶴に古傷によい薬や食べ物はないかと訊ねた。

「そうですね。身体が温まるものがいいと思います。お灸もいいです」

 そう言うと、明日の朝、お灸をしましょうと言った。「ああ」と斎藤は背後で返事をして千鶴を抱きしめ肩に口づけた。千鶴は目を閉じると、そのまま斎藤の優しい愛撫に身をゆだねていった。




******

鬼の霍乱

 翌朝、土方は朝餉の後、仕事があるからと言って支度をすると早々に診療所を後にした。帰り際に土方は、玄関に見送った斎藤達の前で靴を履くと、もう一度豊誠を抱き上げた。暫く抱きしめると。千鶴に子供を渡しながら、

 可愛過ぎて、いけねぇ。

 そう呟いて、「ここでいい。戸締まりをちゃんとしろよ」と言って、戸を開けると颯爽と外に消えていった。斎藤と千鶴は、暫く二人で肩を揺らして笑った。その後、名台詞『可愛過ぎていけねえ』が、斎藤達夫婦の間で大流行となった。

 だが、この日を境に土方はぱったりと診療所に姿を現さなくなった。

 一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、年の瀬も近くなり。千鶴は、音沙汰のない土方を心配し始めた。斎藤は、朝餉の時に、巡察のついでに品川興業社に立ち寄ろうと言って出勤した。午後の巡察ついでに土方を訪ねたが工場に土方は不在だった。事務所の者に聞くと、体調を崩して自宅で療養中だという。斎藤は、仕事の後に土方の自宅を訪ねた。御殿山にある、立派な西洋風の屋敷に土方は暮らしていた。玄関で声をかけると、中から着物姿の老年の女が出てきた。

「旦那様は、お風邪をお召しで」

 そう言って、斎藤を土方の休む部屋に案内した。土方は、酷い咳をしながら、悪い風邪にかかっちまった。そう言って、「坊主は元気か?」と訊いた。斎藤は、元気ですと答えると。それならいい。そう言って笑った。随分と顔色が悪い。やつれておられる。内心、斎藤は、土方の様態に驚いた。家には、さっきの女中しかおらず、閑散として寒々しい。

「医者に診て貰っているのですか?」

 斎藤は、土方に尋ねた。土方は首を振った。「ただの風邪だ。寝てれば治る」、そう言ったかと思うと、咳の発作が起きて、苦しそうにしている。斎藤は、土方の背中をさすった。千鶴が居たら、すぐに部屋を温めて、介抱しだすだろう。こんな事ならば、千鶴を連れてくれば良かった。斎藤は、後悔した。
 一旦部屋を出て、女中に声をかけた。女中は、上着を着て外に出ようとしていた。「今日はこれで」、と言って、頭を下げて玄関を出ようとする。通いの女中なのか。斎藤は愕然とした。千鶴を呼ぶにしても、ここでは勝手がわからぬ。それならば、小石川に来て貰ったほうがよい。そう判断した斎藤は、部屋に戻って、土方に馬車の手配をしてくるからと声をかけた。
 それから、半時ほどで馬車が着いた、断る土方をなんとか説得して上着を着せ、馬車に乗せた。病人には酷だが、四半刻で診療所にたどり着くだろう。斎藤は、自分の外套トンビマントを脱いで、横たわる土方にかけた。有り難いことに、その日は曇り空で風のない、比較的温かな夜だった。斎藤に支えられて、馬車を降りた土方は、ふらふらと歩き、なんとか家の中に入る事が出来た。熱もあり、咳が酷い。玄関で土方を迎えた千鶴は、驚いていたが、直ぐに客間に布団を敷いて、土方を寝かせた。湯湯婆と火鉢を用意して、部屋を温めた。大根湯をを呑ませて。濡れ手拭いで額を冷やす。土方は、「悪いな」「すまねえ」と繰り返し言っては、咳込み、苦しそうだった。
 千鶴は、こんなになるまで。そうお思いながら涙目になった。戊申の戦で足を怪我をした時以外、土方が床に伏せているのを千鶴はみた事がなかった。土方は、新選組幹部の中でも身体はとびきり丈夫で、松本良順も太鼓判を押していた。若い頃に労咳に罹っても、自宅で寝て直した。そう自慢していた。あんなに丈夫な土方さんが。千鶴は、しっかり養生して貰おうと思った。そして診療所から、薬草を持って来て薬の調合を始めた。

麻黄(まおう)
杏仁(きょうにん)
桂枝(けいし)
甘草(かんぞう)

 これを、三、三、三、一の割合で。麻黄からゆっくりと。薬研で砕いて行く。千鶴は、京の屯所で山崎烝から手ほどきを受けた、咳嗽 (がいそう)に効く麻黄湯を作った。これは、総司にも良く飲ませていた。あの熱だと、きっと体中が痛いはずだ。横になってもお辛いにちがいない。
 薬が出来ると、薬罐で煎じた。冷ましてから吸い飲みに移し替えて、土方に飲ませた。白葱を手拭いに巻いたものを首に結んで、その上から大きな晒しで首を蓋した。暫くすると発汗するだろう。どんどん、白湯も飲ませないと。咳を出し切らないと。治らない。
 千鶴は、ずっと土方についていた。薬が効き始めたのか、土方は眠り始めた。行灯の油が切れないように、注ぎ足して。千鶴は、子供の様子を見に行った。斎藤が、風呂から子供を上げて、居間に座っていた。必要なら早稲田の青山先生を呼びに行く。斎藤がそう言ったが、家に十分薬草もあるから、大丈夫だと千鶴は返事した。今晩は、ずっとついているので、はじめさんは坊やと休んでください。そう言って、再び奥の間に千鶴は戻った。
 翌朝になって、少し熱は下がった。幸い、水分をとったり薬を飲んだりは苦もなく出来ている。食欲はないらしい。土方は、重湯を数口飲んで。眠りたいと言った。豊誠がふすまを叩いて部屋に入りたがるので、千鶴は抱っこをして土方に会わせた。
「坊主か」
 そう言って、咳込んだ。うつるといけないから。豊誠を向こうに連れて行けという。千鶴は、嫌がる子供を居間に連れて行ったが、後追いをしてくる。千鶴は、坊やをおんぶして、羽織を着た。もうこうしておくしかない。土方の元へ戻って、豊誠は大丈夫だからと背中に話しかけた。土方の返事はなく、そっと覗いてみると、眠り始めたようだった。
 その日、一日土方は眠り続けた。夕方になっても熱はあったが、容態は安定していた。咳の発作は収まって来ている。続けて眠れている。額を冷やし続けよう。千鶴は朝方まで、ずっと傍につき、そのまま畳の上で横になった。
 翌朝、土方の熱は下がっていた。千鶴は、ほっとした。ひとまず、これで。後は体力の回復だ。土方は、「腹が減った」と言った。千鶴は、お粥と茶碗蒸しを用意して食べさせた。咳がまだ続いているので、【竹茹温胆湯】を煎じて飲ませた。豊誠が土方の布団に乗っかりたがる。千鶴は、土方の古傷に障りがないように、気をつけた。
 食事が入ると、土方はみるみる回復してきた。顔色も徐々に戻り、咳も空咳に変わってきた。仕事から戻った斎藤に、快方に向かっていると玄関で告げると、斎藤はほっとした表情で、笑顔になった。
 それから二日後に、土方は床から起き上がった。日中は、ゆっくりと居間で寛ぎ、子供と一緒に昼寝をする。相馬が見舞いにやってきて、硝子造りと操業の様子を聞くと、土方は必要な書類を持ってくるようにと細かく指示していた。千鶴は、土方に年内はゆっくり養生するようにと頼んでいた。土方は、素直に千鶴の言うことを聞いた。自宅には戻らずに、ずっと暫く滞在してもらうよう斎藤からも説得してもらった。土方は、時折訪れる相馬に指示を出し、居間で短い時間仕事をした。豊誠が邪魔をしないように、半刻ほど居間から遠ざけるが、土方は豊誠が書類を振り回そうが、破ろうが気にしていないようだった。
 年末が差し迫ったある夕方、帰宅した斎藤と一緒に、部下の巡査二人が診療所に立ち寄った。二人はその日が仕事納めで、部下の一人、津島淳之介は、正月明けまで故郷の弘前に帰省するという。千鶴は、夕餉を用意して、皆で居間で食べた。その後、いつもの様に晩酌が始まった。土方は、豊誠を抱っこしたまま酒は飲まずに、斎藤達につきあっていた。

「それにしても、見事に物がありませんね」

 もう一人の部下の天野が居間を見回す。坊やが、なんでも振り回すので、子供の手の届く高さのものは、全て片付けられていた。斎藤の刀も、壁の高いところに刀掛けを作り付けていた。天野や津島の刀も玄関で受け取ると、千鶴は、居間の箪笥の上に置いていた。

「前から気になっていたんですが、随分と立派な薙刀ですね」

 天野は、居間の壁の桟に掛けられた薙刀を指さしながら尋ねた。

「主任は薙刀も振られるのですか」

「いや、あれは妻のものだ」

 津島が驚いたような顔をして見上げた。

「へえ、奥さんが薙刀を」

「ああ、会津に居た頃にな」

「これは、松平照姫様から賜ったものだ。うちの家宝だ」

「へえ-、お姫様からですか」

 天野は、立ち上がって近くに寄って、じっと眺めている。千鶴が、熱燗を台所から持って来ると、天野が尋ねた。

「奥さん、薙刀をたしなまれるそうですね。わたしは、長物は生まれてから持った事がないのです」

 千鶴は、笑って。少し、習っただけです。そう答えた。

「ちょっと、持たせて貰ってもよろしいでしょうか」

 天野は、千鶴に尋ねた。千鶴はどうぞと返事をして、空いたお皿を片付けた。天野は桟から、薙刀を下ろすと、袋を取って刃先を眺めた。刃は洋燈の灯りを反射して輝いている。天野は、薙刀を振ってみたくなった。斎藤と千鶴に断って、中庭に降りて構えた。

「へえ、いい感じですね」

 天野は、しきりに感心している。豊誠は、土方の膝から降り、一気に走って縁側にでると、後ろ向きにぶら下がるように縁側から下に尻餅をついて降りた。

「あれ、坊ちゃん。坊ちゃんも、触ってみます?」

 長身の天野の膝にしがみついた豊誠に、半腰になってしゃがみながら、そっと薙刀の柄を持たせた。

 ブゥン!!

 空を切るような音がしたと思うと、ドサッという大きな音と呻き声が中庭に響いた。天野が半間先の植木の根っこに頭を下に逆さになって倒れている。斎藤が、咄嗟に縁側に走ったが、その横から、紅い影が走って横切り、庭に降り立つと、子供を抱き上げて薙刀を奪い、片手で宙をクルッと回すと地面に立てて安定させた。
 庭に降り立った斎藤に、振り返って子供と薙刀を渡したのは千鶴だった。そして、植木の下で呻いている天野に駆け寄ると、素早く助け起こした。

「お怪我はありませんか?」

 一瞬の出来事で、天野は何が起きたのか解っていない。ただ、急に薙刀を持った腕から身体ごと宙に放り投げられた。

「イテてて」

 頭と背中を思い切りぶつけて痛い。千鶴に寄りかかりながら、なんとか縁側に上がった。呆然とする津島の元に、天野は這うように戻るとそのまま胡座をかいて、ぶつけたところをさすっていた。千鶴が灯りの下で、天野の後頭部や首、背中の打撲を確かめると、薬を持って来て、湿布をした。

「すみません。坊やが何でも振り回してしまって」

 千鶴は、ずっと謝り続けている。斎藤は、薙刀を仕舞って。千鶴と目を合わせた。

(どうしましょう、はじめさん……)

 千鶴が困った表情を見せた。斎藤は、「案ずるな」と目で合図を送ったが、千鶴の曇った表情は晴れないままだった。一部始終を見ていた津島は、ただ呆然としていた。坊ちゃんは、流石主任の息子だ。剣士の血を引いているのだろう。齢ひとつで長物を振り回す。でも、さっきの紅い影は。あれは、本当に奥さんだったのだろうか。あの様に、素早く動く人を見たことがない。酒が回り過ぎて、俺は幻影を見たのだろうか……。
 じっと考え込む津島の隣で、土方は、膝の上の豊誠の頭を撫でていた。「坊主、お前は大したもんだ」、そう言って、満足そうに笑っていた。




******

千仞の谷

 天野と津島が帰ったあと、千鶴は子供を寝かしつけた。土方もそろそろ休むと言って、客間に戻っていった。千鶴は、居間の片付けをしながら、斎藤に豊誠の【力】のことを話した。

「鬼の力が、あんなに小さな子供にも宿っています」
「ああ」
「坊やが、力を持て余してしまっているのが、心配で。乱暴な振る舞いをしないかと」

 千鶴は涙目になっている。「大事はない」斎藤はそう言って、千鶴を引き寄せて抱きしめた。無理もなかろう。初めての子で、自分も戸惑うことが多い。豊誠は確かに、類い希な力を持っている。おそらく、利き腕は左。さっきも左手で軽々と長物を振るった。握力は、大人以上。よい剣士になる。斎藤は、息子の可能性を無限大のように感じた。物事の良い方に目を向ける。今回は、千鶴よりそれが叶っている斎藤だった。
 翌朝、斎藤は仕事納めに出掛けた。千鶴は、お正月を迎える準備を本格的に初めて、朝から家中の大掃除に忙しい。今年は、特別に暖かいと隣のお夏が言っていた。中庭はぽかぽかと小春日和のようで、土方は、縁側に座って猫と追いかけっこをしている子供を眺めていた。 千鶴が、塵を集めたものを庭で燃やそうと中庭に出てきたとき、持っていた塵取りを思い切り地面に落としてしまった。庭の黐もちの木の上に豊誠が登っている。その先に総司が居て、枝の先に、つま先立ちで立って振り返っている。子供はキャハキャハと声を立てて、どんどん枝の先につたって行く。枝は大きくしなって、次の瞬間、坊やは落ちたと思った。千鶴は、走り寄ろうとしたが、既に枝の下に土方が立っていた。豊誠は、枝に両手でぶら下がっていた。きょとんとしたまま、ぶらーんと揺れている。

「たいしたもんだ、坊主。そのまま飛び降りて来い」

 そう言って、土方は手を伸ばすと、総司が思い切り枝をしならせて飛び降りた。猫は何回転か宙で身をひねると、地面に四つ足で音もなく降り立った。総司が飛びあがった瞬間、坊やは、上に枝が飛びあがったのと同時に投げ飛ばされるように宙に飛ぶと、一回転して真下に落ちてきた。土方は、それを受け止めると、大笑いした。

「うまく、降りてきたな」

 そう言って、子供の頭をぐしゃぐしゃっと撫でて、大笑いしている。千鶴は、そのまま地面にへたりこんでしまった。土方は、縁側に腰掛けると、膝に子供を座らせて、その両手を確かめた。「この手は、大きくなる。もっと太い枝にも掴まれるようになる」そう言って、両手で小さな手を挟んで大事そうにさすった。

「そんなとこでへたり込んでねえで、こっちへ来てみろ」

 千鶴は、縁側の土方の元へ歩いていった。坊主が木の上から掴んできた蔓だ。記念に取っとけ。そう言って、ちいさな葉をつけた蔓の切れ端を千鶴に渡した。土方は、その後も午後まで子供を遊ばせた。合間に、障子の張り替えも手伝い。午後には、奥の間で一緒の布団で子供と一緒に昼寝をした。
 千鶴は、土方から渡された、蔓の切れ端を和紙に包んだ。筆で、日付と「豊誠、初めてモチの木に登る」 そう書いておいた。
 夕方遅くに斎藤が仕事を終えて帰ってきた。今年はこれで最後。暮れの休みに入った。千鶴は、「お疲れ様でした」と玄関の上がり口で頭を下げて労った。斎藤は、着替えを済ますと、長い昼寝から起きてきた土方と一緒に居間で寛いだ。二人で遅めの夕餉を晩酌をしながら食べた。
 斎藤は土方に、今日特別に主任以上が呼び出され大きな軍議があったと話した。東京鎮台に東北から歩兵が加わり陸軍が大幅に人員を増やす。警視庁も年明けに巡査が増員される。斎藤たちの大二区小一署は、別働隊として、陸軍と合同で都を警備する。陸軍との連携が強化される流れだと土方に話した。土方は、じっと斎藤の話を聞いていた。戦に備えてか。まだまだ国が落ち着かない。戦になったら、硝子工場の溶炉は武器造りに利用されるようになるだろう。工部省からのお達しがでたら、硝子造りは終いだ。

 それまでに、板硝子を成功させねえと。大量生産のめども。

 やらねばならない事が山積みだった。いつまでも寝てはいられない。年明けに炉に火を入れたら、ずっと走り続けよう。土方は心に決めた。ここ一年が勝負だ。

「斎藤、お前の部隊の規模は。大きいのか」

「いえ、俺を含めて二十名。普段の巡察は五人ずつ四隊に分けて出ています。合同部隊は、大きくても、五十名を部隊長二名の編成で。警部補と主任、陸軍は少佐がつきます」

 土方は戊申の頃を思い出した。斎藤は、三番組隊士を中心に少数先鋭部隊を率いて、幕府軍伝習隊と行動を共にした。陸軍と斎藤は、問題なくやっていくだろう。土方は、斎藤を眺めた。こいつはずっと戦い続けている。警視庁も、政府も、陸軍も、こいつの中では違いはねえ。自分の義に。それに従っている。

 本当に大した奴だ。

 二人は夜遅くまで晩酌した。千鶴は、子供を寝かしてから、斎藤と二人でまた湯に浸かった。ぬるめのお湯にゆっくり浸かりながら、千鶴は昼間の出来事を斎藤に話した。斎藤は、庭にへたり込む千鶴の姿が目に浮かぶようだった。

「土方さんは、心配はいらねぇ。こいつは、俺の見込んだ男だ。随分、桁外れなところがあるが、これからだ。そう言って笑ってらして」

 ふくれ面をして千鶴が話す。斎藤は優しく微笑んだ。背後から千鶴の顔を覗き込んで。

「心配なのは、よくわかる」そう呟いた。

 ——虎は千仞の谷に我が子を突き落とす

「副長は、豊誠を【猫可愛がり】されてる訳ではない。少々危険な目にあっても、強くなって行くのを見守っておられるのだろう」

「俺もそうだ。男親はそんなものかも知れぬ」

 斎藤は、そう言って遠い昔を思い出した。まだ江戸の試衛館に通い出した頃、土方と一緒に伝馬の道場に出稽古にでた帰りに、同じ事を言った。

 お前は、俺の見込んだ男だ。

 当時は、剣術の事を言われたと思って嬉しかった。その後、壬生の浪士組に入隊を希望して尋ねた時も、同じ事を言われた。

 全面の信頼。

 土方が自分に寄せてくれる信頼は、斎藤自身の中に自信と強さを。自分の芯を揺らぎのないものにしてくれた。同じものを、副長は息子にも寄せてくれている。嬉しい。こんなに嬉しいことはない。

「虎だなんて……。向こう見ずなのは沖田さんで十分です」

 千鶴は、まだふて腐れている。斎藤は、笑った。母親の千鶴は、きっと心配を止めないだろう。自分はそんな千鶴を世話しよう。幸い、総司が傍に付いてくれている。本当の危険があれば、総司の事だ。先に動いて、助けるだろう。

「猫が千仞の谷にか、ちょうど良い」

 そう言って斎藤は笑った。そして頬を膨らます千鶴を抱きしめ、額や、頬、唇に口づけた。千鶴は斎藤の首に腕を回して微笑んでいる。機嫌は良くなったか。斎藤は、千鶴の首筋や体中に口づけ、思い切り可愛がった。

 翌日は、大晦日。斎藤は、大掃除を手伝った。千鶴は、ずっと炊事場に立ち、お節の準備をした。開け放たれた居間で土方は、豊誠と猫を遊ばせながら、流石に冷えると言って、外套を着たまま家の中を行ったり来たりしていた。土方は咳も治まって、全快している。午後は、お夏の家の庭でご近所に住まう世帯で共同の餅つきが催された。斎藤達は蒸した餅米を蒸籠せいろごと持って出掛けて行った。戻ってから、特別に丸餅を作って並べた。元旦には『京のお雑煮』を作りますね。そう言って、千鶴は張り切っている。

 いい年の瀬だ。斎藤は、居間で寛ぐ土方を見て思った。新年が明けたら、明神様に詣でよう。正月が明けたら、新八が上京する。左之助も西から戻ってくる。また賑やかになる。千鶴が、年越し蕎麦ができましたよとお膳に並べ始めた。総司と豊誠が廊下を突進して、思い切り滑り込んでくるのを、斎藤と土方は笑いながら眺めた。

つづく

→次話 明暁に向かいて その6




(2017.11.01)

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