再会 希望の灯
明暁にむかいて その4
明治七年十月
明治七年十月ある日の朝、雪村診療所に文が届いた、宛先は斎藤一様とあった。差出人は【杉村治備(永倉新八)】住所は北海道松前。封書を受け取った千鶴は、早く斎藤に知らせたくて、いてもたっても居られなくなった。千鶴は、家事を済ませると、子供を連れて、乗り合い馬車に乗って虎ノ門に向かった。
千鶴が署の玄関に着いた時は、まだ斎藤は巡察中で、戻りは夕方になるということだった。千鶴は、大切な知らせがあるからと、署の窓口で斎藤に走り書きを残した。斎藤は、いつもの時間より少し早くに帰ってきた
手紙には、戊辰戦争の後、松前藩に帰参を認められて、今は松前に暮らしていると書いてあった。新政府による旧幕府軍の取締も穏やかになった、恩赦で次々に旧幕府軍の幹部も釈放されている。今月東京に向かうことになった。できれば、新選組の皆を弔いたい。生き残った者たちに連絡をとっている。これから箱館に寄って、新選組の弔いを済ませてから、東京に向かう。
今月半ばには、貴殿を訪ねていく。その時にまた話そう。
斎藤は、手紙を千鶴に読んで聞かせた。千鶴は、永倉が元気でいること、近く再会できることを喜んだ。直ぐに新八に返信を書いた。それから二週間後の夕方、永倉が診療所の玄関に現れた。恰幅がよく洋装で堂々と立つ永倉は、想像していた通りの姿で、千鶴は声をあげて喜んだ。永倉も千鶴が女らしくなったと驚いていた。
千鶴は、新八を家の玄関に案内した、表戸を開けると、廊下の真ん中に総司が座っていた。永倉が玄関に入ると、大きな声を立てて突進してきた。
「おお、猫の出迎えか」
永倉は身を翻して笑うと、上り口に座って靴を脱いだ。猫は、玄関口に座ってじっと笑ったような顔で新八を見ている。それから、居間に招かれた新八を箪笥の上に登って箱座り、見下ろすようにじっと眺めていた。千鶴は、おしぼりやお茶を出しながら、こんなにうれしい事はないと、改めて新八との再会を喜んだ。
間もなく、斎藤が帰宅した。斎藤は、大層喜んだ様子で、「酒を」と千鶴に頼んだが、もう既にお膳には御馳走と酒が綺麗に並べて用意されていた。
新八は旧松前藩の警備組織で剣術指南をしているという、巡察に出ることもあり、新選組の時とあまりやっていることは変わらないと笑っている。
「斎藤、お前と同じで。俺も医者の娘を嫁に貰った」
そう言うと、懐から小さな写真をとりだした。着物姿の美しい女性が椅子に座っている。
「名前は【きね】だ。二年前に祝言をあげた」
千鶴が奥様も上京されたのかと聞いたら、新八は松前で留守をまもっていると笑った。
「ここには今月いっぱい滞在予定だ。公用と私用でな。浅草にある江戸屋敷に寝泊りしている。あそこは、広い道場があっていいぞ。斎藤、手合わせに来ねえか」
斎藤は二つ返事で誘いを受けた。そして、話は剣術のことから、新選組の屯所時代の話になった。
「今思うと、剣術三昧の幸せな日だった。刀を振るって、給金もらえてたんだからな」
「斎藤は、今もそうだろ?市中を見廻って、悪い奴等を捕らえて、刀を振ってるんだろ」
「ああ」
「京と違うのは、馬車が多く走っているぐらいだ。あと、最近は仕込み刀を持つ者が多い」
「ああ、細い棒きれみたいなやつか」
「鍔がない故、刀を合わせた時に、力をかけるとすぐに相手はヘタる。時々敵はそのまま手で受ける、両手がつぶれた状態で捕縛することが多い」
「俺は、サーベルというものを触ったが、あれもなんだな。扱い難そうだ」
「警視庁はサーベルを採用するという話がある。使うとなれば、稽古が必要やもしれぬな」
千鶴は、食事の済んだ二人にお銚子を運んだ。斎藤がこんなに楽しそうに話す姿を見るのは久しぶりだった。剣術の話をすると、目が輝き、活き活きとしだすのは、昔と変わらない。
戊辰の戦では、白河で別れた後に、永倉は靖兵隊を結成し、庄内藩に向かった。米沢に滞在していた時に終戦を迎えたらしい。その後、松前に移って今に至るが、ずっと変名を使って、新選組であることは隠していると言う。戦後は蟄居のまま、明治五年にようやく、旧幕府軍の幹部が恩赦で釈放されたと聞いて、表にでたという。
「俺なりの謹慎だ。近藤さんや土方さんが生きていたら、きっと牢屋に入れられていただろうからな」
新八はしんみりと静かにそういうと。
「今回、上京した用向きはそれだ。近藤さんの墓を建てる。新選組で命を散らした者、命をかけて戦った者をみな一緒に、顕彰する」
「近藤さんが弔われた寺の住職にも文を書いた。箱館には、左之が行って、新選組の遺留品を集めている」
「左之? 左之助も生きているのか」
「おお、肝心の事を話すの忘れてたな。お前に文を書いた後に、俺の松前の家にいきなり左之が現れてよ」
「あいつは、満州からこの夏に引き上げてきた。なんでも、【おろしあ】に行って、樺太を下って海を渡ったってよ。開拓使でも通ったことのねえ土地を馬に乗って走りまわって松前についたって、顔なんか真っ黒だった」
「馬か、それはよい……」
斎藤は、馬で広い場所を駆け回る左之助を心底羨ましく思った。
「それで、左之はどうしているのだ。箱館にまだいるのか」
「ああ、上京するとは言っていたが、まだ江戸屋敷に便りがねえ。こっちに来たら、必ず診療所に来るように言ってある」
「ああ、そうしてくれ。ここは、客間もある、新八も障りがなければ、今夜は泊まって行ってくれ」
斎藤は積もる話が尽きず、夜中を過ぎてもずっと起きて話を続けた。翌日、永倉は浅草の江戸屋敷に戻り、その週末に斎藤は浅草を訪ねて、思う存分永倉と手合わせをした。家に戻って来た時の斎藤は、すぐに風呂を沸かして入った。持ち帰った道着は汗でぐっしょりと濡れていた。食事もとるのも忘れて、日がな二人で手合わせをしていたらしい。
千鶴は、斎藤の背中を流しに風呂場に行くと、肩や脇腹に打撲の跡が見えた。千鶴が直ぐに手当をするから、早く上がれといっても、斎藤は湯船につかったまま笑う。
「大事はない」
「この倍は新八に返してやったから大丈夫だ」
得意顔で、両手で湯を掬い顔をバシャバシャと洗って、「あー、気分が良い」と、呟いている。「童心に還る」とはこのことか。千鶴は、斎藤のご機嫌な様子に微笑みながら風呂場を出た。
******
品川興業硝子製造所
翌週、斎藤は署長に呼び出され、分厚い封筒を渡された、品川村の目黒川沿いにある【品川興業硝子製造所】の登記書類だという。前年に、この製造所の炉から出火し、大火事になった。その後に、工場施設の政府の改めがあり、現在は、大二区小一署で管轄することになった。これを午後に直接届けて欲しいということだった。書類は、政府からの許可証も含まれていて、非常に重要ということだった。斎藤は、巡察の際に、外からしかその建物を見たことがない。広大な土地に立つ西洋式の建物で、巨大な炉がその後ろに建っていた。
「工部省からの許可証だが、うちの署に依頼があったのは、陸軍の山川様からだった。許可証を直接、藤田に持たせて先方に出向くようにと指示があったらしい。山川様からということは、旧会津藩に関係があるやもしれん。少し遠方だが、現場に寄った後は、問題がなければ、そのまま帰宅していい」
田丸はそう斎藤に指示をすると、部屋を出て行った。
斎藤の部下の巡査二人は、斎藤の品川行きを羨ましがった。品川宿には、よい飲み屋があるらしく、最近は、給金が下りたら、二人で 仕事帰りに立ち寄っているらしい。「麦酒」を出す店がお気に入りだといって、斎藤にも一緒に呑みに行きましょうとしきりに誘ってくる。
「主任、今日は品川に用向きで出られるなら、私たちと向こうで落ち合いませんか」
天野が誘ってきた。斎藤は、書類を届けたら早々に帰宅する。そう言って断ると、天野は残念そうな顔をした。
「五一で、五分負けか」
「何だ、五一とは?」
「主任を誘った回数と一緒に呑む回数です」
「それが、どうしたのだ」
「五回誘って、一回来るか、来ないかって話です」
「五分負けとは、なんだ」
「私が五回誘ってそのうち一回でも主任と呑むことができれば、賭けに勝つんですよ」
「なんだ、俺を使っての賭け事か」
斎藤が呆れていると。
「ちなみに、津島は六一で賭けてるんです」
「では、次に俺が呑めば、津島が勝つのか」
「ビイルを一杯奢ることになってんですよ」
「では、賭けをご破算にしてやろう。次回は俺の家に来い。俺の家で呑む。麦酒は出さぬが、清酒のいいのはある」
「お、それはいい、ご破算どころか、主任の家にお邪魔できるなら、願ったり叶ったりだ。な、津島」
津島は、嬉しそうに微笑み頷いている。
「今日は、品川には寄らん。坊主を風呂に入れに帰る」
「坊ちゃんですか」
「ああ、最近歩き出して、妻が大わらわでな」
斎藤は微笑みながら話す。「最近は、腕白になってきた」そう言って、書類を片付けると、制服の上着を羽織って、封筒を風呂敷に包むと部屋を出て行った。
*****
虎ノ門から乗り合い馬車で、品川に出ると、そこから線路沿いに道を上っていった。目黒川の手前の右側に【品川興業硝子製造所】という看板が掛かった大きな門が見えた。門の向こうは、広場になっていた、立派な煉瓦の建物が正面にある。斎藤は、建物の正面入り口から中に入った。重厚な造りの玄関を進むと、【事務室】と書かれた部屋の入口を通って中に進んだ。洋装の眼鏡をかけた男性が斎藤に挨拶した。
「大二区小一署から参りました巡査主任の藤田と申します。工場主任の西村様にご面会を願いたい」
「藤田様ですね。お待ち申し上げておりました」
眼鏡の男は丁寧に挨拶をすると、一度廊下に出て斎藤を奥の部屋に案内した。大きな重厚な戸を開けると、正面の奥に大きな西洋机があり、その向こうの窓際に背の高い洋装の男が立っていた。
「大二区小一署の藤田様をお連れしました」
眼鏡の男がそう言って、斎藤を部屋に入れた。窓際の男は、背中を向けたまま、
「ご苦労」
そう言ったまま、窓の向こうを眺めている。緩い西日が差し込む部屋の窓は、天井近くまであり、重厚な西洋風の深緑の窓掛が掛かっている。
眼鏡の男は斎藤にお辞儀をすると、部屋を出て行った。斎藤は、手に持っていた、風呂敷包みを両手で持つと窓際の男に向かって挨拶した。
「大二区小一署より、書類をお持ちしました」
「……藤田五郎。旧会津藩士……」
窓際の男が呟く声が聞こえた。よく響く聞き覚えのある声。斎藤は、逆光になってよく見えない男の顔を見ようと顔を上げた。
黒々とした髪、深い紫色の瞳、すっと通った鼻筋。振り返り笑いかけるその表情は、新選組の土方歳三そのものだった。
「……副長」
斎藤は、呆然として、持っていた風呂敷を床に落とした。
「まだ、そう呼ぶのか、斎藤」
かつての口調でそう呼ばれた斎藤は、窓に向かって駆け出した。
笑って、斎藤の肩を揺さぶる土方は、昔と変わらず精悍で堂々としていた。
「生きて……、生きておられたのですね」
斎藤はそう尋ねるのがやっとだった。
「ああ、お前の方こそ」
「会津の城が落ちた時に三番組は全員討ち死にしたと聞いていた」
斎藤は言葉が出てこない。大塩で別れた時から、少しも変わっていない。箱館で戦死したと聞かされた時は、土方の元に戻るのに間に合わなかったと愕然とした。自分たちは負けた。
あの日すべてが終わってしまった。
新選組最後の戦いに参加できなかった事は、長年の斎藤の後悔となっていた。
「どうした。幽霊でも見ているみたいだな」
土方は笑っている。足もちゃんと生えてる。そう言って右足を上げて、涙ぐむ斎藤の背中を押して、応接椅子に座らせた。
「蝦夷での戦争の後は、東京に送られた。俺は、大鳥さんと一緒に投獄されてな」
「恩赦で放免になって、日本を出た」
そう言って、土方は斎藤の前に座った。斎藤は、まだ信じられないといった様子で、ずっと土方を見詰めている。
「戻ってきたのは、去年だ。工部省がここで硝子工場を起こしたのを手伝っている」
「先月、大鳥さんから、お前が東京の警視庁で巡査をしていると聞いた」
「七月に斗南より移ってきました」
「そうか、陸軍の山川さんがこっちに戻った時に工部省に現れて、大鳥さんが会ったそうだ」
「大鳥さんも、ご無事なんですね」
「ああ、俺はあの人と日本を出ていた」
斎藤は、戊申戦争後の新政府の厳しい取り締まりや処分の中、土方や大鳥の苦労を思った。表向きは会津藩士として生きる自分も新選組幹部であった経歴は隠している。
「ここでは、殖産興業の顧問という肩書きだ。硝子作りを商売にできるように政府がこの施設を建てた」
斎藤は、思い出したように自分の持ってきた書類を拾うと土方の前においた。登記書類と許可証で、陸軍から預かったと説明をした。土方は書類を確かめると、封筒にまた仕舞って、斎藤に笑いかけた。
「山川さんが、陸軍省に取りに来いと行ってたんだが、俺は日中は表に出ない。顔が割れてるとも思わねえが、いろいろと面倒は避けている」
斎藤は土方が変名を名乗り、新政府の元で働いている境遇を思った。終戦から五年以上絶つが、未だに旧幕府軍幹部の中でも新選組への風当たりは強い。
黙っている斎藤を見詰めて、土方は足を組むと笑った。
「変わらねえな」
副長こそ。斎藤は心の中で答えたが、微笑み返すのがやっとだった。戊辰の戦を生きながらえて、こうして土方さんにまた会うことが叶った。斎藤は、土方が無事に生き延び、目の前に現れた事をようやく実感できた。
「副長、俺は今、小石川に。雪村診療所が自宅です」
「ああ、千鶴と一緒になったと聞いている。今年の一月に診療所の前を通った。誰も住んでいる様子がなくて、残念に思っていた」
みんな生きていて、こんなに嬉しいことはない。
土方は、俯きながらそう呟く。そして、斎藤に近いうちに診療所を訪ねていく。それまでに千鶴に自分が訪ねていくことを話をしておいて欲しい。そう土方は頼んだ。
「じゃねえと、千鶴が腰を抜かさねえとも限らねえ」
優しく笑う土方の横顔は、昔と変わらぬ。斎藤は、近くまた土方と会う約束をして、建屋の外に出た。すっかり陽が落ちて暗くなっていた。
どこをどうやって帰ったのか記憶が無い、斎藤はまるで宙を浮くような足取りで家についた。夢のようだ。副長が生きていた。新八に知らせねば。そう思いながら玄関を開けて、「ただいま戻った」と声をかけた。暗い上がり口に、総司が足と尻尾を揃えて座っていた。翡翠の目だけがきらりと光っている。家はしーんと静かなままで、千鶴が出てくる様子がない。斎藤は訝しく思いながら、刀を上がり口に置くと座って靴を脱いで上がった。
総司が首の鈴の音を鳴らしながら、居間に歩いていくのに付いて行った。居間には誰もいない。お膳には夕餉が並べられ、手拭いが被せてあった。台所に灯りもなく誰もいない。奥の間に、子供の寝床に添い寝する千鶴の姿が見えた。湯上がりの浴衣に前掛けをつけたまま眠っている。子供を寝かしつけて一緒に寝てしまったか。斎藤は、千鶴を起こさぬように布団を敷くと、千鶴を抱きかかえて寝かせた。前掛けをとっても、ぐっすり眠っていて起きる様子がない。斎藤は、そのまま着替えて居間に戻った。
総司がお膳の前でじっと座っていた。夕餉待ちか。斎藤は、縁側の総司の食事処から木のお椀を持ってくると、自分の夕飯から。魚の煮付けとご飯を入れて、お膳に置いた。総司は、お膳の上に登って、直ぐに食べ始めた。普段なら、お膳の上に登る総司を払ってしまうが、今夜は許そう。斎藤は、総司と向かい合って夕餉を食べ始めた。
「総司、土方さんが生きておられた」
小さな声で話す斎藤を聞いているのか、聞いていないのか。総司は、木の椀に顔を突っ込んだまま食べ続けている。
「品川の硝子工場だ。ずっと洋行されていたらしい」
「長く投獄されていたそうだ」
総司は一瞬顔を上げて斎藤を見たが、また茶碗に顔を突っ込んだ。斎藤は、もう一つの茶碗に水をいれて、総司の前に置いた。
斎藤は、食事を終えると膳を片付けた。湯飲み茶碗に一杯清酒を入れて居間に戻った。総司は、食事を終えて身繕いを始めていた。縁側の障子に大きな穴が空いていて、そばに障子紙が置いてあった。修理の途中か。坊やが、なんでも振り回すから目が離せない。やんちゃが過ぎるので、つい大きな声で叱ってしまう。毎夕、家に帰ると千鶴が長男の日中の様子を斎藤に話して聞かせる。今日は、遅くなってしまった。坊主を風呂にも入れそびれたな。斎藤は、晩酌しながら、一日の出来事を思い返した。
「このような事があるのだな」
静かに総司に話しかけた。総司は珍しく、斎藤の膝に登って湯飲みの匂いをじっと嗅いでいた。それから斎藤は戸締まりをして風呂に入ると、床に入った。
副長の事は、千鶴に朝話そう
******
翌朝、斎藤はいつもより遅い時間に目覚めた。いかん。斎藤は、慌てて着替えると居間に行った。千鶴は、「ゆうべは、すみませんでした」と謝りながら、朝餉を並べている。
小豆のお粥
沢庵
斎藤は座って粥を食べた。少々物足りぬが、仕方ない。千鶴はほうじ茶を入れながら、「二日酔いには、これが一番です」そう言って、笑っている。そうか、千鶴は昨晩、俺が呑んで帰ったと思っているのか。
「屯所でも、島原で呑んで帰ってらした朝は、粥がいいと皆さんがおっしゃってましたから」
千鶴は斎藤の茶碗におかわりの粥をよそいながら話す。
「お米が足りない時は、小豆を入れたり、粟を足したり。大根を入れたり」
「朝方に土方さんの夢をみました」
「屯所のお台所で。土方さんが『けちけちするな、米が足りなければ、いつでも云って来い』そうおっしゃって、腕を組んで立ってらして」
懐かしくて、小豆があったからお粥を炊いたんです。土方さん、沢庵もお好きでしたから。千鶴が、笑いながら、総司の朝餉に、おかかご飯を並べている。
斎藤は粥をかき込みながら、「副長に会ったことを話し難い」そう思った。絶対に腰を抜かす。坊主の世話に手を焼いている千鶴も心配だ。今晩、仕事から戻ってからゆっくり話そう。そう決めた斎藤は、食べ終わると早々に支度を済ませて、玄関を出た。
総司が、玄関で斎藤に飛びかかってきた。何だ。斎藤は猫を躱して、道に出た。ずっと総司は、走ってついてくる。鈴の音を鳴らしながら、笑った様な表情で斎藤を追い越すと、途中で塀に上がった。何だ、おかしな奴だ。斎藤は、総司を見上げながら、
「今夜戻ってから相手をしてやる」
そう言って、じゃれ合う約束をした。
******
署について道場に行くと、天野が気の入らない鈍い動きで竹刀を振っていた。昨晩は、遅くまで品川で呑んでいたという。
「ゆんべは、不覚でした。私はもう二度と酒はいただきません」
だらだらとした口調で天野が反省している。そんなに呑んだのかと斎藤が津島に尋ねると、
「はい、麦酒は足に来るようで。でも私はなんともありません」
そう言って、津島は木刀で打ち合わせを願い出ると、凄い勢いで打ち込んで来た。斎藤は、津島がめきめきと腕を上げているのを実感した。朝稽古を終えて道着を着替えている時、天野は泥酔して明神橋で動けなくなった、と壁に寄りかかりながら話していた。ふらふらと着替えもおぼつかない。津島に下宿まで負ぶさって帰ったという。斎藤は津島の足腰の強さに感心した。そして、優しく笑いながら部下の二人に云った。
「天野の酒が抜けるまで、うちには誘えぬな。また後日にしよう」
斎藤は、そう言って道場を後にした。津島が残念そうな表情をして溜息をついた。
署長と警部補の田丸に【品川興業社】に書類を無事に届けたと報告した。署長から、区画整理の範疇外だった陸軍の土地一帯が、先月から大二区小一管轄になったと説明を受けた。巡察区域が大幅に広がった。そう言って、斎藤以外の別働隊の隊長も会議室に呼ばれた。
各地での士族反乱が後を絶たない。新政府は船の出入りも監視強化する。大二区小一署は品川台場から芝までの巡査警備の任を仰せつかった。人員が少ない中、巡察範囲が大幅に広がった為、巡察区域と巡察班の新たな編成が必要だった。斎藤は、一日の巡察時間を二時間延ばすことで対応できると応えた。署長は、人員増員を司法省に申し出ると斎藤達に約束して会議が終わった。
斎藤はそれから巡察に出た。二日酔いで足取りの悪い天野をしゃんとさせる為に顔を洗いに行かせ、水をたっぷり飲むように命じた。品川の灯台から芝まで、部下二人と駆け足で廻った。くたくたになって署に戻った時は、午後も遅かった。千鶴から電報が届いていると知らせがあった。
オキヤクアリスグモドレ
斎藤は、仕事を上がると飛んで帰った。玄関に男物の靴が二足と大きな草履が一足。千鶴が飛び出してきて、
「はじめさん、原田さんと平助くんが、永倉さんとお見えになって」
そう言って、斎藤から刀を受け取ると、早く早くとせかして居間に向かった。
「はじめくん、変わんねえー」
平助は開口一言、立ち上がって斎藤の肩を持って破顔した。斎藤は、「平助」と名前をよんだきり言葉にならない。よくぞ、生きていた。平助は、茶色の髪にところどころ白いものが混じっている。短く散切りに刈った頭で、薄浅黄色の目は昔と変わらぬ、茶目っ気のある笑顔で目の前に立っている。元気そうだ。平助。またこうして会えた。斎藤は、目に涙をにじませながら平助に笑い返した。
「久しぶりだな、斎藤」
左之助がその後ろに立って笑っていた。真っ黒に日焼けして一段と逞しい大きな肩幅、ちっとも変わっていない。斎藤は、左之助と平助と肩をぶつけて再会を喜んだ。千鶴は、その側で、涙を前掛けでぬぐいながら笑っている。新八の手を逃れて、千鶴の元に歩こうとする坊やを新八が笑いながら、腰を持って後ろから支えている。
「さあ、皆さん、座ってください。やっと皆さんで揃いました」
そう言って、千鶴は長男を抱っこすると皆を促して、席につかせてお酌を始めた。着替え終わった斎藤が席につくと再会を祝って皆で乾杯した。それから食事を進めた。屯所時代のように、平助、原田や新八と一緒に囲む食卓は、それだけで楽しく、千鶴は夢の様に感じた。
千鶴は傍らに総司の膳を用意した。葱を抜いて小さく切った鰹。おかかご飯、芋の煮物。一緒に食事をする総司の背中を撫でながら、坊やにもご飯を食べさせた。
******
平助の話
「白河で別れて以来だ」
そう言って酒を酌みかわして笑う平助は、雪が本格的に積もる前に蝦夷に渡ったと話を始めた。白石城では、山南が羅刹隊を率いて立て籠もっていたらしい。山南は独りで仙台入りした平助に好意的で、本丸の羅刹本陣に平助を迎え入れ、羅刹隊で一緒に戦おうと誘って来た。蝦夷に渡る船の手配をした平助を山南は引き留める事無く、羅刹の薬と武器、仙台藩兵の制服一式を行李に詰めたものを荷車に用意して、平助を送り出した。山南は、新政府軍が仙台城下を占拠する前に羅刹隊はここで討ち果てる。「私が、新選組に報いる唯一の道です」そう一言だけ残して、城の門を閉じた。平助はそう言うと、山南さんは、俺らを裏切ってなかった。そう言って涙ぐんだ。
蝦夷では、土方さんたちが本陣を置く五稜郭で、一緒に戦った。桑名藩や松江藩からも加わった隊士で、新選組は百六十名。隊を四隊に大きく分けて、一つの隊を更に第一と第二部部隊に。どの部隊も若い奴らばっかで。連戦連勝だった。土方さん、みんなから信頼されてた。でも、宮古湾を失敗してから、戦況が悪くなった。榎本さんが総大将だったけど、春先に新政府軍から降伏勧告が来た時に、徹底抗戦するって土方さん達は決めていて。
五月に入って、いよいよ新政府軍が攻めてくるってなった前の晩、俺は土方さんに呼び出された。本陣を離れて湯ノ川に移れって。俺は、仙台藩士扱いで新選組には名前を連ねていない。そう言われた。羅刹の薬を蝦夷政府の隠れ家に移せと。そう指示された。蝦夷開発部が建てた館が湯ノ川の上流にあった。そこに土方さんの部下二名と一緒に羅刹の薬を運んだ。土方さんの元に戻った時は、土方さんは衝鋒隊、伝習隊を率いて、五稜郭を出て千代ヶ岡台場で陣を構えていた。
斎藤も含め、皆で箱館の戦の詳細を食い入るように聞いた。
陽が昇ってから最初の砲撃で、幕府軍は敵の大きな軍艦を撃沈したんだ。そのとき、俺ら、幸先いいことをすげー喜んで。土方さんが、南側の台場にいる相馬の率いる一番部隊を援護しに一気に進むぞって声上げて。
大野さんって、蝦夷で新選組に入った人が先頭になって、先陣きって。一本木関門で敵兵を押し返した。土方さん、この時馬に乗ったんだ。俺らの後ろから、「我、この柵にありて退く者は斬る」って、すっげー大きい声で叫んで、刀を抜いて。俺らも、おおーって刀抜いて、走って進もうとした。そのとき、西側の七重ヶ浜から敵兵が走る音が聞こえて、土方さんにそっちも守るように知らせに引き返した。それから、関門で前からと西側の浜からも来る敵兵と一騎打ち。でも七重方面の浜はすぐに取り返した。
土方さんは、馬で敵を蹴散らすは、俺らも死にものぐるいでさ。敵兵がどんどん下がって、箱館山に向けて退いて行って。そしたら、右手の弁天台場に火が上がってるのが見えて、大野さんが間に合わなかったのがわかった。それでも土方さんは、「援護に向かえ」って。
平助は、お膳に土方隊と弁天台場、一本木関門、箱館山と五稜郭の場所をわかるように箸置きを置いて説明した。
その時に敵陣が銃を構える音が聞こえたんだ。羅刹になると、草を揺らす音も聞こえるかんな。俺は、馬に乗った土方さんがやばいと思って、すぐに追いかけた。砲撃の音と一緒に土方さんは撃たれて落馬した。土方さんを千代ヶ岡台場側の山の中に連れて行って隠れた。腹を撃たれて弾は貫通してた。土方さん、飯もろくに食ってねえから、どんどん冷たくなるし。俺は、本陣に戻る道を探して、陽が落ちるまでずっと移動した。
土方さんは、「五稜郭へ、本陣へ戻れ」そう言ったきり、気を失っちまって。夜になってようやく力が出てきて、土方さん抱えて五稜郭へ向かった。でも五稜郭は敵陣に囲まれて入れない。新政府軍の旗しか見えないから、土方さんを連れてなんとか湯ノ川の隠れ家に逃げた。そこには、薬もあって。開拓使の熊さんっていう下男が土方さんを一通り介抱してくれた。熊さんの話では、五稜郭に白旗が見えたら、蝦夷政府の敗戦だから、そうなったら熊さんは元々暮らしていた山に逃げて隠れろって、新政府には、蝦夷政府との関わりはないと言い張ればいい。それが榎本さんからの指示だったんだ。
そして、土方さんは意識を戻さないまま。六日目の朝に、五稜郭に白旗が上がったと熊さんが教えてくれた。熊さんが隠れ家を離れる時に、馬を置いて行ってくれた。荷車に土方さんを載せて俺は夜になってから移動した。医者に見せないと、土方さん死んじまうからな。
五稜郭に辿り付く前に、街道で新政府軍に捕まった。俺も土方さんも仙台藩兵の格好で、持っている荷物はみな、仙台藩の印がついていた。早くに新政府軍に降伏していた仙台藩が、一部蝦夷で、新政府軍の援護に参加していたらしい。俺らは、その兵だと思われて、すぐに病院に運ばれた。その時、土方さんは【新仙台藩士、名無し某】、そう寝台に書かれてた。俺は怪我をしていないが、日中は調子が悪い。土方さんの収容された箱館医学所は、新政府、旧幕府軍の兵士がみな、一緒に介抱されていた。新政府が、取り調べに来ても、顔の検分まではしないで、戸の入り口に墨で確認済みの×印が書かれるだけだった。
土方さんは、ずっと【名無し某】のままだった。
気がついた土方さんは、敗戦って聞いて涙を流して悔しがった。俺に、五稜郭へ連れて行けって、刀を貸せって凄え顔でにらむ。夜になったら動くとだけ云って、医学所の外を調べた。五稜郭は開城して、もう新政府が占拠してた。旧幕府軍は湯ノ川に移動。負傷者も全て湯ノ川に集められていた。怪我の状態の酷い者から優先的に介抱されて、江戸に戻されている。俺は、土方さんを湯ノ川に連れて行くことにした。
それから、湯ノ川の旧幕府軍収容所に着くまで、丸四日かかった。土方さんは、この時が一番、死にかけていたと思う。収容所で土方さんは、手当を受けた。榎本さんには、俺は直接会うことが出来なかった。でもオレが最後に大鳥さんに会った時、【土方歳三は、一本木関門で戦死した】そう記録されている。いま、ここにいる男は、旧仙台藩出身の蝦夷政府役人、横田忠典。政府で私の補佐についていた。
「これで、土方君を生かすことが出来る」
そう言って、大鳥さんは俺に、蝦夷政府軍の名簿に藤堂平助の名前はない。君は、新仙台藩士だと名乗れば、罪に問われることはない。そう云って、収容所から解放された。俺は、土方さんの無事だけを確かめた。土方さんは翌週の船で、江戸に搬送されてった。大鳥さんは、江戸で沙汰を待つことになるが、きっと生き抜く。そう約束してくれた。
俺は、土方さんを載せた船が箱館を出たのを見送って、湯ノ川を遡って行った。例の隠れ家に俺の羅刹の薬が隠してあった。あれさえあれば生きていける。それから蝦夷開拓部の邸は、ずっと放置されていた。山に熊さんを訪ねたら、快く俺を匿ってくれた。それ以来、俺は上湯ノ川にいる。
最近は政府の開拓使がまたやってきて、俺も熊さんと開拓使の人たちの世話をしている。ありがたい事に給金も下りる。湯ノ川はいいところだ。羅刹の毒も、どんどん身体から抜けて行ったように感じている。箱館の戦の終わりには、羅刹から元の髪の色に戻るのに時間がかかるようになった。それ以外は、悪いところはない。吸血衝動も起こらない。薬は、ほとんど飲むこともないが、気休めにはなっている。
俺は、京で一回死んでるからな。
今こうしてみんなと酒を酌み交わすのは、でっけえ「おまけ」みてえなもんだ。だから、嬉しくて仕方がない。生きててよかった。羅刹になってでもな。
斎藤は、頷いた。皆がそうだと云って頷いた。左之助が、平助の肩に手をかけた。そして、新八が尋ねた。
「それじゃあ、土方さんは箱館で死んでなくて、江戸に怪我したまま送られたんだな」
平助が頷き、左之助が土方の遺留品は一切、箱館には見つからなかったと話した。
「副長は生きておられる」
斎藤が顔を上げて、呟いた。皆が手を止めて斎藤を見た。
「俺は、副長に昨日お会いした」
皆が、持っている杯を落とす位驚いた。千鶴は、口を開けたまま言葉が出てこない。
「品川興業社という硝子をつくる会社の顧問をしている。蝦夷の戦の後、東京で牢屋に入っていたらしい。恩赦で放免になって、ずっと洋行しておられた」
「大鳥さんと政府の工部省に勤めている」
「土方さんが、生きて新政府に」
皆が驚いていた。よく生きていた。近藤さんみたいに捕まったら打ち首だっただろうに。皆がそう言って感心した。
「出自は隠しておられる。【西村義三】そう名乗っておられる」
千鶴は、総司を抱えて涙を流して喜んでいた。総司はむずがりながら、逃げようと暴れているが、千鶴は放さない。ぽろぽろと流れる涙は、総司の額の上に落ちて、総司は迷惑そうに声をたてているが、千鶴は気づいていない。
「すまぬ、直ぐに話すつもりが機を逃した」
そう言って、斎藤は千鶴の髪を優しく撫でた。千鶴は、頷いていた。昨日、遅く帰られたのは、土方さんに会われて。いつもより言葉が少ない斎藤は、余程疲れていると思っていた。大切な事柄を、千鶴以上に大切に扱う斎藤の性分を千鶴はよく解っていた。本当に。土方さんが生きていらっしゃるなんて。こんな嬉しい事があるのだろうか。嗚咽しながら、千鶴は暫く肩を震わせていた。
千鶴に抱かれた総司は、諦めたようにじっとして斎藤の顔を見詰めていた。千鶴の傍らで座布団の上に寝かされた長男の隣に、千鶴は猫をそっと置くと、前掛けで涙をぬぐって、台所に酒の肴を作りに向かった。
***
それから週末まで平助と左之助が診療所に滞在することになった。千鶴は翌日にでも品川に土方を訪ねて行きたがったが、斎藤が週末に土方を家に招待するよう連絡すると云ったので、それまで我慢することになった。それからの数日間、千鶴は毎日ご馳走を作って皆を持てなした。左之助は、江戸は変わったと云っては方々を歩き回り、平助は家で坊やの子守を引き受け、千鶴は買い物や家事にいそしみ、夕方に日が傾きかけてから、平助が左之助と出かけるのを見送った。
斎藤が仕事から戻ると、左之助と平助が戻り、時折新八も加わった。夕餉を皆で囲み晩酌する。屯所の生活のようで、千鶴は懐かしかった。
新八が松本良順と面会が叶い、慰霊碑建立に賛同を得たと話した。松本から旧会津藩主松平容保公にも話が通してあるという。容保公は、新選組幹部が無事に生き延び、このような機会が得られる事を、涙を流して喜んでおられたという。斎藤は、まだ上京してから、容保公へのお目通りが叶っていないことを残念に思った。陸軍の山川も、長く熊本鎮台に士族反乱鎮圧の任で赴いていて、東京を離れていた。六月に戻ったが、斎藤が上京した時には入れ替わりに、山川は今度は会津へ反乱鎮圧で負った怪我の療養に出たまま、会う機会を逃していた。
そして、土曜の夕方。ようやく雪村診療所に土方が現れた。断る土方に、斎藤が仕事帰りに品川に迎えに走った。皆が玄関に押し寄せ、大歓待を受けた土方は、平助の姿に驚いた。そして、よく生きていたと涙を流して喜んだ。そして、土方が連れてきた人影が玄関の後ろに見えた。
「ご無沙汰しております」
そう言って頭を下げたのは、相馬主計だった。皆が驚いた。相馬こそ、左之助達が箱館からずっと行方を探してきた隊士だった。
皆が、玄関に雪崩れ込むように相馬を囲んだ。土方が、相馬は俺と一緒だ。そう言って、相馬の背中を押して皆の前に立たせた。千鶴は、箱館で投降した後、自ら命を絶ったと聞いていた相馬が無事に生きていることに、声を上げて泣いて喜んだ。
居間にぎっしりと皆が揃った。斎藤が着替えて、席につくと改めて皆で互いに無沙汰の挨拶をしあった。
「副長、長男の【豊誠(ゆたか)】です」
斎藤は、千鶴の抱く長男の頭を撫でながら紹介した。
「字は【豊】に【誠】、豊は副長の諱から戴きました。【とよまさ】とも読みます」
土方は、千鶴から長男を渡され、抱き上げた。俺の名を名付けたか。高く抱き上げられた【豊誠ゆたか】は笑いながら土方を見下ろして、手を広げたり握ったりしている。土方は、子供を強く抱きしめた。
「俺みたいな者の名前……」
土方はそう呟いたまま、泣いているように見えた。
みんなが、坊主は、【ゆたか】か。いい名前だ、そう言って坊やの抱っこのし合いになった。人見知りをせず、人から人へ渡され、高い高いをされて、子供は大きな笑い声を立てて喜んだ。その様子を、箪笥の上で、総司が箱座りで微笑むように眺めていた。
千鶴が皆に杯を配って、新八が乾杯の音頭をとった。
「皆が生きていることに乾杯」
千鶴は、どんどん食事を作っては、居間に運んだ。
鯛の塩焼き
野菜の炊き合わせ
しめ鯖
しらすと椎茸のしんじょ
豆腐の田楽
青菜の煮浸し
栗の炊きこみご飯
皆が、屯所時代を思い出す。そう言って千鶴の作った献立を楽しんだ。一通り食べ終わると、千鶴は熱い燗にした酒を用意した。斎藤の好きな酒の肴も出した。
胡桃と小女子の佃煮
蒲鉾
山葵漬け
皆がゆっくりと寛いだ。斎藤は、会津が降伏した後の話をとつとつと話した。越後高田での謹慎生活。その間、千鶴が会津の妙国寺で、松平照姫様と謹慎生活を共にした事。その後、会津藩士として斗南へ千鶴を連れて移住し、大番格として重用された事。度々の飢饉で、藩の暮らし向きは厳しかったが、五戸の生活は、子供も産まれて慎ましくも幸せだったと。今年、警視庁に採用されたのは、新政府が旧会津藩士を登用し始めたのがきっかけだった。寒さや飢えから千鶴と子を守りたい、刀を振るって国の役目になるならと、一大決心して東京に戻った。
俺は旧会津藩士、藤田五郎です。
大殿より賜ったこの姓に恥じぬよう
そう思って生きています。
斎藤は、土方に自分の決心を報告するように語った。土方は、斎藤をじっと見つめて深く頷き微笑した。
「はじめくんは、変わらねえな」
平助がそう言って笑った。
「そうだ。斎藤ほど頑固で忠義に厚い奴はいねえな」
新八が感心した。
「会津の城が落ちたって米沢で聞いた時に、新選組は全員討死にって聞いて、その夜、俺は酒を手向けたんだ」
新八が、しんみりと呟いた。夏に松本良順に連絡を取った時に、斎藤と千鶴が生きているって文に書いてあった。千鶴ちゃんを嫁に貰って、東京の雪村診療所に暮らしてるって聞いて、跳び上がって喜んだ。新八の話に、皆がそうだそうだと頷いた。
互いに話が尽きぬ。千鶴は、左之助の腕の中でぐっすりと眠っている坊やを抱き上げると、奥の間の布団に寝かせに行った。
********
左之助の話
俺は、白河で斎藤達と別れた後、一旦江戸に戻って彰義隊に入って将軍様を守って闘った。上野での戦いで、殆どの隊士が死んでそのまま隊は解散。終戦後は新政府の取り締まりを逃れて、満州に渡った。
満州では、日本から移り住んだ者たちで、小さな街が出来ていた。治安が悪く、現地の自警団に入って街を守った。「露西亜」からも人が流入して、自警団がどんどん大きくなった。最初は槍を使っていたが、北の国境付近を警備する騎馬部隊を率いるようになった。
暮らし向きは、自由で安定していた。部下八十名と大連の海辺の駐屯所で暮らした。やがて日本人の街は、日本の軍組織が支配するようになった。どんどん日本から軍人が大陸に渡って来て、戊辰で闘った薩長の軍人が街を占拠するようになった。去年の終わりに俺の騎馬部隊に日本軍の将校がやって来て、軍組織に加わるように要請があったが。俺は軍隊に入ることを断った。
春の雪解けを待って、駐屯所を出奔して「露西亜」に向かった。騎馬部隊の部下に露西亜出自のものが居た。その二人を連れて「シベリヤ」を北上した。凍土が続く平原は果てしない。このまま地の果てまで、ひたすら馬を走らせようと思った。
左之助は、そう言って、遠くを見詰めるような表情で笑った。
東の果てで、樺太行きの船に乗った。そこは日本の北の果ての果て。そう思うと、日本に戻りたくなった。里心が起きた自分に驚いた。今更と自分でも思ったが、日本に戻ることに決めた。樺太では、新政府の開拓使に出会った。旧幕府軍の士族だと名乗る男で。箱館戦争を生き延び、新政府の開拓使として働いている。その男から江戸が東京に変わり、日の本は変わったと聞いた。新政府が北海道を開拓して、新しい産業を生み出そうとしている。そんな話を聞いた。
樺太から海を渡って稚内に。満州の部下は樺太に留まった。俺は独りで、南を目指した。
終戦後に、新八が松前藩に帰参になったと聞いていた俺は、松前に新八を探しに行った。この夏は、ずっと北海道を馬でかけずり回っている内に過ぎた。樺太で出会った開拓使の伝手があって、箱館で新選組の遺留品を探す事が出来た。そこで平助にも会えた。
世間は広いように見えて、小せえもんだ。な、平助。あの広い蝦夷で、新選組の仲間にこうしてまた会えたんだ。
「左之さん、蝦夷はいいところだよな。開拓使の仕事は大変だけど、左之さんみてえな人が来たら、ぜってえ助かる。俺、誘ってんだ。な、左之さん」
そう笑いかける平助に、左之助は、微笑み返した。
土方が左之助に満州に戻らないのかと尋ねた。左之助は、首を横に振った。
「俺は、大陸は好きだ。広くて、でかくて、地面がずっと繋がっているのがいい。また海の向こうに渡ってみたいというのはある。だが、今の満州は日本の軍隊の国になっている。軍隊は性に合わねえ。俺は清国は好きだ。清国人もな」
そういいながら、左之助は杯を傾けた。
「土方さんも、ずっと日本を出ていたって。大陸に?」
「ああ、俺は着いた先は、『英吉利』だ」
「あそこも日の本と同じ島国だ。『倫敦』が都でな。俺は、大鳥さんの秘書官って役回りだった。洋行は殖産興業の視察っていうのが名目だ。向こうで、大工場の造り方や走らせ方を調査した」
皆が、土方が「えぎりす」まで出向いていたことに驚きながら話を聞いた。
******
土方の話
箱館で鉄砲に撃たれて戦線を離脱したまま終戦を迎えた。俺は戦死したことになっていた。
あとで聞いた話だが、新選組局長には、相馬が任命されていた。敗戦を知ったのは、降伏の調印も全て済んだ後だった。情けねえ。部下に全てを押しつけて、死にきれねえまま怪我人として江戸に送られた。辰の口訊問所の牢屋に投獄された。俺は、旧仙台藩士で、蝦夷共和国の陸軍奉行付きと云う肩書きで大鳥さんの刑に準ずるという沙汰だった。
打ち首は覚悟していた。俺の代わりに新選組局長として、詮議を受けた相馬は、同じ訊問所に収監されていたが、厳しい処遇で、一切接触ができねえまま。軍務局の役人は全て薩長の連中で、新選組の取り締まりは厳しいものだった。
薩摩と繋がりのあった、伊東甲子太郎暗殺の罪で、相馬は流刑を言い渡された。投獄されて二年目のことだ。
俺は相馬が島送りになった事をそれから一年後に知った。牢獄の中で、俺は大鳥さんとは接触できた。大鳥さんの話では、幕府要人は刑死は逃れた。あの頃は、新政府の刑法自体が、まだ出来てなかった。ずっと牢屋に入ったままになるという事だった。
蝦夷政府の総裁の榎本さんは牢屋の棟が違っていた。大鳥さんの話では、相馬は流刑地では謹慎蟄居扱いになり、辰の口より生活に自由がある。榎本さんが、新選組の罪を背負った相馬を救出する為に尽力して大島送りになった。そう聞いた。
相馬は、頷きながら話を聞いているが、その表情は暗く陰っている。千鶴は、相馬の悲しそうな瞳が気になった。大塩で別れた時は、笑顔で峠に繋がる道を手を振って進んでいった。あの姿をよく覚えている。あの頃の相馬の、明るい輝くような瞳はどこにもなく、今はただ深く沈み込んでいるように見えた。
「俺は、大島で放免になったも同然です。皆が獄中にいた時に」
そう云ったきり、相馬は溜息をつくように俯いてじっとしている。左之助が、手を伸ばして相馬の肩に手を置いた。左之助の労うようなその優しい仕草を見て、千鶴は少しほっとした。
明治五年に恩赦で旧幕府軍要人が放免となった時、大鳥は新政府の工部省への就任を申し渡された。新選組への取り締まりは以前厳しいままだった、土方の身を案じた大鳥は、そのまま自分の秘書官として殖産興業視察団に土方を変名を使って登録して船に乗せたという。大鳥は、語学指南を辰の口訊問所で行っていた。訊問所の新政府職員と一緒に収監されている囚人も皆、大鳥に学んだ。大鳥は土方にも、英語の辞書を書き写す作業を頼んでいた。
「これが今は役立っている。倫敦に船が到着するまでの間、大鳥さんから英語の手ほどきも受けた」
皆が静かに話しを聞くのを、微笑みながら土方は話を続けた。
英吉利は島国だが、産業ってのがある。大きな工場で大量に物を造って商売にしてる強い国だ。日の本もこれから同じようになる。
商売か……。
皆が、そう呟いた。まさか、あの土方歳三が商売の話をするとは、それもなんだか解らないが、とてつもなく大きな話をしている。
「なんだ、お前ら。胡散臭そうな顔で見るんじゃねーよ」
そう言って笑うと、土方は杯をぐいっと空けた。
「俺は、硝子作りを日本で成功させたい。いろいろ試してるが、まだ巧く作れねえ」
硝子かあ……。
皆が、また呟いた。あの土方歳三が職人みたいな事を言い出すとは。それもなんだか解らないが、とてつもなく大きな夢の話をしている。
「来月、英吉利から職人がやって来る。そいつから日本の職人が硝子作りを習うんだ」
土方の隣で、相馬が頷いた。
「相馬と俺で、その職人の世話もする。これから忙しくなる」
土方が相馬に向かって微笑む。
「じゃあ、相馬は土方さんと一緒に品川興業にいるのか」と左之助が尋ねた。
「ああ、相馬は東京に戻ってから、工部省に勤めている」
左之助の隣で、頷く相馬を皆が感心して眺めた。
「相馬は、学があって利口だったもんな。近藤さんが、よく褒めてたよ」
そう言って、平助は微笑んだ。それにしても、土方さんが外国語習って洋行してるって、新選組に居た時からは想像もつかねーよ。そう言って平助は、畳に仰向けに寝転がって、ゲラゲラと笑い出した。
「俺さあ、蝦夷で大鳥さんと【ブリュネ】さんが外国語で喋ってる時、土方さんは、普通にずっと日本語で話してて、どうやって通じてんのか、ほんと不思議だったんだ。ほんと、土方さんには適わねー」
皆が、それぞれ京時代の日々を思い出していた。明治の世になって、生き残ったものが必死に今を生きている。
新八が、新選組慰霊碑を近藤が収監されていた板橋滝野川に建てる話をした。皆が、賛同した。資金はこれから集めると、新八が決心を語った。斎藤も千鶴と相談済みで、東京で中心になって動くと約束した。左之助は、これから京と大坂に向かい、島田魁にも会いに行くという。新八は、一旦松前に戻り、年明けに東京に戻ると話した。
土方は、御殿山に家があり。相馬は、目黒に暮らしていると話した。土方が、相馬は妻帯で夫婦仲が良すぎて、つきあいが悪いと皆の前でからかった。相馬は、頬を赤くしていたが、皆が、あの軽鴨だった相馬がな、と笑った。千鶴は、相馬に是非、奥様を連れて遊びに来てくれと相馬に笑いかけた。微笑み返す相馬は、優しい表情だった。大塩で別れた頃の、面影が戻ったように見えた。
立派な馬車を呼んだ土方は、皆に挨拶すると相馬と一緒に馬車に乗り込んだ。翌週に松前に戻る新八とは翌年に会う約束をした。
****
洋燈
それから11月の初旬に、平助が上湯ノ川に戻る前日に皆が診療所に集まった。土方は、手土産に【洋燈】を持って診療所にやってきた。
千鶴は、生まれて初めて【洋燈】を手にとった。大きな真鍮の傘に、綺麗な丸い硝子が台座に載っている。千鶴は洋燈を日の光にかざして縁側で喜んで眺めた。
「その硝子の火屋は、うちの職人が吹いた。日の本一の腕の職人だ。生地も最高級の硝子を使った。綺麗だろ」
千鶴は、水色かかった美しい硝子をうっとりと眺めた。本当に、綺麗。斎藤は、一緒に台座も眺めて、天井に吊せるように、大工に金具を梁につけようと言って、千鶴を喜ばせた。千鶴は、土方に礼を言って、点灯式をするといって聞かない。斎藤は、千鶴のはしゃぎように、笑いながら、明日にでも大工に家へ来て貰おうと心に決めた。
長い昼寝から目覚めた平助が居間に出てきて、皆で食事をした。夜も更けて、千鶴が子供を寝かしに奥の間に入った時。土方が、斎藤に尋ねた。
「斎藤、お前の身体の調子はどうだ」
いきなりの質問に、斎藤は一瞬戸惑った。
「調子はいいです」
「すっかり聞きそびれていたが、お前は変若水を飲んで羅刹になっていたな。羅刹の症状は、平助はいまも昼夜逆転の生活みてえだが、平助みたいに薬を飲んでいるのか」
「羅刹の症状はでていません。俺が羅刹になったのは、会津が降伏した時が最後です。その後は、発作が時折起きましたが、日中動けなくなるほどではありません」
「越後高田では、室内蟄居で殆ど陽の光にあたらず。それで生き延びる事が出来ました。斗南では、清涼な水を飲んでいるおかげで、発作は殆どないまま。一度、白岩の雪村の郷の湧き水を飲んで、その日を境に発作は止まりました」
「湧き水を飲んでから、陽の光に灼かれることはなくなりました」
「副長、雪村の湧き水の成分には、羅刹の毒を薄める力があるそうです。雪村綱道は湧き水の成分を使って、羅刹の薬を調合していた。平助の飲んでいる薬も雪村の郷の鉱物が含まれているそうです」
「そうか、じゃあ綱道さんの薬もあながち悪いもんじゃ、なかったんだな」
「はい、夏に斗南からこちらに戻った時に、診療所で綱道さんの残した羅刹の文献を見つけました。それを松本良順先生に見て貰いました。今は書類を先生に預かって貰っています。羅刹の症状を押さえる薬は、それを使えば造ることが出来るそうです」
「俺は、薬は持ってるが、殆ど飲んでねえな。不思議と、命が縮まるどころか、年々羅刹の毒が薄まってる」
平助は、そう呟く。
「俺もそうだ、平助。俺が住んでいた斗南の五戸は、よい水が流れる土地だ。千鶴と源流の【龍の顎門】と呼ばれる場所に行った。そこの湧き水で俺は生まれ変わった。それまで、自分は羅刹だと思っていた。普段から夜目が利いて物音が何里も先の微かな音でも聞こえたが、そういった特性が消えた。発作は一切起きなくなった。吸血衝動も」
「東京に戻ってからも。巡察中に、今まで数回、本気で相手を制圧しなければならない事があった。羅刹に変わろうと思ったが、もう以前の様に姿が変わることも羅刹の力が出る事もなくなった」
「五戸の山の湧き水は、雪村の郷の湧き水同様、不思議な力があると思う」
「へぇー、はじめくん、俺も行ってみてえ」
「平助も行くといい。あそこは生きかえる。俺は泉に浸かっただけで十年も二十年も若返ったような気がした」
「ほんとかよ、はじめくん。俺行かなきゃ」
「五戸か、もう雪深いだろう」
そう土方が尋ねた。
「はい、十月には初雪でどっかり降ります。雪解けは、早くて四月。いい場所です。あんなに美しい場所はない」
斎藤は、遠いまなざしで龍が横たわると言い伝えられている神秘的な場所を思い出した。
「平助、俺が連れて行ってやる。春に湯ノ川から出てこい」
土方が、平助に向かって行った。
「俺も、行きてえな」
左之助が胡座をかきながら呟いた。土方達は、三人で来年の春に五戸に行く計画を立て始めた。暫く黙っていた斎藤が、口をきいた。
「平助、もしだ」
斎藤が、真剣な顔で平助を見詰める。
「もし、好いたおなごが居るなら、一緒に行け」
突然の、斎藤の発言にみんなが顔を見合わせた。ちょうど千鶴が子供を寝かし終えて、居間に戻ってきた。火鉢を突いて火をおこしてから、席についた。
「なんだよ、いきなり。はじめくん」
「あの湧き水。【龍の顎門】は子宝を授かる言い伝えがある。俺と千鶴も、豊誠を授かった」
「へえ、そうか。子宝かあ」
平助は笑った。そして、ちょっと照れくさそうに、上湯ノ川に一緒に暮らす娘がいると話だした。熊さんの姪っ子で、互いに好き合っているが、自分が羅刹だから、夫婦になるのは諦めていると言う。
「【おまつ】っていうんだ。じゃあ、連れていく」
「そうか、平助、おまつさんとまだ祝言挙げてねえのか」
左之助が、平助をからかった。平助は、鼻の下を照れくさそうにこすって笑っていた。千鶴は、懐かしい【龍の顎門】に平助達が春に行く計画を立てていると知って喜んだ。
「副長も、局長も、どうか連れ合いを」
そう呟く斎藤に、土方と左之助は顔を見合わせてから溜息をついた。
「俺は、連れ合いはいねえよ」
土方がそう言うと、左之助も「俺もだ」と続けた。
「なんだ、原田。お前が嫁の一人もいねえって、不思議だな」
土方は手酌でお猪口に酒を注いで一気にあおった。
「ああ、俺は独りもんだ」
そう言って、笑った左之助は、どこか寂しそうな目をして、千鶴を眺めてから両目をゆっくりと伏せた。優しそうな原田の微笑みは、昔とちっとも変わらない。でも、どうしてだろう。東京に戻られてからも、原田さんは一度もゆっくりとなさらない。千鶴は、原田に微笑み返しながらも、心の中で左之助の寂しそうな瞳が気になった。
その夜は、明け方まで皆で語り合った。翌朝、平助は芝から箱館行きの船に乗って帰った行った。左之助は、そのあと千鶴と子供と一緒に小石川に戻った。背の高い左之助に肩車をされて、坊やは大喜びだった。
「坊主は、ほんとによく笑って可愛いな。俺のとこの坊主も人見知りしなかったが、豊誠は、ぐずりもしねえ」
そう言って笑う。やはり、そうか。千鶴は思った。だが、笑って頷き返すだけにした。
家に着く頃に、坊やはぐっすりと眠り、そのまま布団に寝かされた。千鶴は、左之助にお茶を入れて、初めて東京で冬を迎えるが、斗南よりずっと温かくて過ごし易そうだと話した。
「斗南は、北海道とはまた違った寒さらしいな。満州も寒いぜ。俺の住んでた国境は、夏の間にいっぱい雨が降って秋には氷りつく。だが、海から離れると広い森があって綺麗な場所だ。内陸は、地平線までずっと野原が続く」
「馬に乗ってらしたって、はじめさんが」
「ああ、モンゴル馬だ、ちっせえがよく走る。斎藤は、斗南で馬廻役だったってな」
「はい、五戸では、直家の土間がそのまま厩に。馬二頭と一緒に暮らしていたんです」
「俺と斎藤は、会津藩の調練で騎馬訓練を一番気に入っていた。中将様が馬好きだったからな。俺らみたいな下々の者まで、馬に乗るようになった」
「私も、はじめさんに手ほどきを受けて、斗南で馬に乗っていました。今は、本当に二頭の馬が恋しくて、夢に見てしまうほど」
「そうか、千鶴もいつか満州で馬に乗るといい。斎藤と一緒にな」
「はい、広い平原を駈歩してみたい」
千鶴は、縁側に出て洗濯物を取り入れてきた。寛ぐ左之助の隣で、洗濯物をたたんでいると、坊やの小さな着物を畳む千鶴の手元を見て左之助が呟いた。
「うちの坊主は、二歳半だった」
左之助は、千鶴に満州で結婚して家庭を持っていたと話した。
「満州では、俺は大連に自分の家を持ってたんだが、女房は、日中は集落の集会所で炊き出しみたいな事をやってたんだ」
「家のない流れ者みたいなのが町中にいて。清国は、集落でそういう者も面倒を見る」
「年末に、そこで【はしか】が流行した。坊主が罹って熱を出して六日目にあっけなく逝っちまった。その後を追うように、女房がはしかで死んだ」
左之助は、懐から小さな写真を千鶴に見せた。
「おまさと息子の茂だ」
志那人のような帽子を被った小さな男の子を抱いた、綺麗な女性が写っていた。
日本軍の病院は、軍人優先だった。同じ日本人なのに、彼奴ら女子供を後回しにしやがる。
千鶴は、なんと言葉をかけていいか解らなかった。小さな男の子。二歳半。坊やより一つ大きい、この小さな男の子が流行病であっけなく。なんて悲しいことだろう。
「おまさは、おれと同じ伊予出身の女で。大坂から身を売られて、満州に流れ着いた」
「苦労を苦労と思わねえ。気立てのいい、いい女で」
「駐屯所の前から、晴れた日に浜の向こうに浮かぶ朝鮮半島を日本だと思い込んでいた」
「晴れると、俺を呼びに来る。『日本がみえました』って」
「俺が、あれは日本じゃねえ、別の国だっていっても。日本って思っているからいいんだ。海からでも故郷が見えるのは嬉しいと笑っていた」
亡くなる前に、どうか海から日本が見える場所に、おそばに茂と埋めてくれって。それが最後の言葉だった
「お墓は、満州なんですね」
「ああ、女房が好きだった浜が見える高台に墓は立てた。日本が見える方角に向けて」
「骨と髪の毛は一部俺は肌身離さず持っている。シベリヤも樺太も全部、茂とおまさと一緒に旅した。ずっとそばに置いている」
千鶴は、目尻から涙がぽろぽろと零れた。家族を亡くされて。どのような覚悟で満州を引き上げたのだろう。優しい左之助が。こんなにも悲しい思いをしていたとは。
それから、左之助は年明けまでもう一度西国を廻ってから、いずれは北海道に行こうと思っていると話をした。自分は、広い場所で馬に乗って新しい土地を見つけて行くような仕事が向いている。そう語って笑った。手始めは箱館から、松前に寄って北上する。そう決めていると千鶴に話した。
翌々日に、左之助は荷物を持って旅立った。暫くは日の本にいるから。また来る。そう言って、坊やを思い切り高い高いをして笑わせ頬ずりして、玄関をでた。門の塀の上で総司も左之助を見送った。千鶴は左之助の広い背中を見ながら、どうか、ご無事で。必ず、年明けには戻ってください。そう叫んだ。左之助は、わかったという様に、大きく手を振って去っていった。
夕方に戻った斎藤に、左之助が京に再び向かったと伝えた。斎藤は、皆が居なくなったがらんとした居間に座った。総司が箪笥から下りて、火鉢の傍の敷物の上で丸くなっている。千鶴は、夕飯を並べると、【洋燈】を点灯する日に、皆を家に呼びたいと言いだした。
「お夏さんがお孫さんにもみせたいって、土方さんに、相馬くん、田丸様、天野さんと津島さんもお呼びしましょう」
「ああ」
斎藤は、生返事をしたが、実際、それだけの人が集まってこの部屋に入りきるだろうか心配だった。でも、千鶴が喜ぶなら。そう思って、翌週に皆を招待することにした。大工が梁にランプ掛けを丁寧に取り付けた。
千鶴は石油を灯油売りから買ってきた。行灯の菜種油よりうんと手頃で、その値段の違いに驚いた。洋燈に使うというと、灯油売りは驚いていた。輸入商にしか、西洋ランプなんて代物は手に入らない。
千鶴は、土方の工場で造られた、美しい硝子の火屋ほやを手拭いで息を吹きかけて綺麗に磨いた。
斎藤が、仕事の後、上司の田丸警部補、部下の巡査二人を連れて家に着いたとき、玄関にはところ狭しと靴や草履が並んでいた。居間には、ご近所中の人が座っていて、その後ろに土方が胡座をかいて豊誠を膝に乗せていた。猫の総司は、箪笥の上のいつもの場所で箱座りして高みの見物。斎藤は、皆に挨拶をすると、千鶴が用意した洋燈の油入れに油を注して火を灯した。皆が、首を伸ばして光りが灯る様子を眺めた。それから斎藤は洋燈を天井の梁にひっかけた。明るい光が部屋中を灯した。皆が拍手をして、喜んだ。
千鶴は余所行きの着物に一番大事にしている帯を締めていた。丸髷に結った髪には、斎藤が贈った簪と櫛を飾っている。ほんのりと白粉をつけて、紅をさした千鶴はランプの灯りの下で一段と美しかった。皆に食事を用意しているからと、どんどんお盆に皿や鉢を乗せて運んでくる。お夏以外の近所の人たちは、乾杯だけをして、挨拶をして帰って行った。
改めて、斎藤は自分の勤める警視庁の上司や部下をお夏に紹介した。それから、土方と相馬を皆に紹介した。斎藤は、土方と相馬を旧い仲間とだけ説明した。斎藤の上司の田丸は、戊辰の戦で土方を見かけていたが、目の前の端正な顔の紳士が、元新選組局長土方だとは気づいていないようだった。もし、気づいても田丸なら、事情をすぐに察するだろうと斎藤は思っていた。相馬に関しても同じだった。
お夏は、斎藤が戻る前にすでに千鶴から土方を紹介されて挨拶を済ませていた。お夏は、甲府での戦の後、再び江戸を千鶴が離れる時に、一度土方には会っている。土方は、幕府の要人のように、立派な身なりで現れ、雪村千鶴が留守の間、診療所の敷地、建屋の維持をお夏に頼んでいた。その時、金百両を包んだものを、置いていったという。お夏は千鶴が新選組に関わりを持っている事を知ってはいたが、あまり深い事情は知らず、今、土方が政府に自分の出自を隠している事も気づいていない。お夏は土方のことを、自分の娘の様に思っている千鶴が大変お世話になった立派な人だという認識だった。
明るい灯りの下、笑いかける美しい千鶴に、斎藤の部下の天野は、奥さんは今日は一段と「めんげぇ」「きりょーいい」と褒め称えた。田丸も一緒になって「んだべ、んだべ」と笑っている。津島も隣で頷いていたが、千鶴に笑顔を向けられると、目を合わせられず頬を赤らめた。
皆で和やかに食事をした。初めて、ランプを灯した夜は、斎藤達夫婦にとって特別な夜になった。皆が集い語らう、心温まる、そんなひととき。
目の前の土方と相馬が笑う姿を眺めながら、斎藤は頭上の灯りを新しい時代の【希望の光】そのもののように感じた。
つづく
→次話 明暁に向かいて その5へ
(2017.10.21)