剣術仕合

剣術仕合

明暁にむかいて その8

明治八年二月

 朝からやたらと猫の総司が足元に絡みついてくる。

「なんだ」

 斎藤は、濃紺紬つむぎの袷に帯を回した時に帯の端に飛び掛かってくる総司をかわしながら呟いた。袴を履いてこれから浅草へ向かう。途中の本郷で部下二人と合流して乗合い馬車に乗る予定だった。千鶴が斎藤の背後から外套トンビを羽織らせた。斎藤は玄関に向かい靴を履いた。帯刀して道着の入った風呂敷を千鶴から受け取ると玄関を出た。総司がうらめしそうに上がり口まできて、半分睨むような表情をして黙っている。

「今夜、相手をしてやる」

 総司にじゃれあう約束をして斎藤は家を出た。千鶴は、お昼にはお屋敷に着くように出向きますので、そう言って門で斎藤を見送った。それから、千鶴は家事と弁当の準備に取りかかった。
本郷真砂町の四つ辻で斎藤は部下と待ち合わせた。二人とも袴に外套を羽織り、鳥打帽を被っている。二人とも斎藤同様、足元は黒い編み上げ革靴を履いている。年若い二人は一見すると書生のように見えた。「おはようございます」と元気に挨拶する部下を従えて、御茶ノ水坂を下って乗合馬車の停留所に向かった。

 浅草には旧松前藩の藩屋敷が残っていた。旧幕府の藩屋敷の殆どが政府に買い上げられ新政府機関として使われているが、旧松前藩の藩屋敷は青森県管轄のまま取り壊されることもなく今に至っている。そこに新八が現在の青森県の北海道開拓使入札手続きの用を兼ねて滞在していた。警視庁剣術試合を控える今、空いている時間は出来るだけ稽古をしたい。それも、新八が手合わせしてくれるのは願ったり叶ったりだった。斎藤は久しぶりに新八と剣を交えるのを楽しみにしていた。

 藩邸に着くと、道着姿の新八が出迎えた。斎藤は部下の天野と津島を新八に紹介した。新八は、「よく来た。今日は思う存分手合わせ願おう」そう言って、ガハハハと笑った。斎藤達は、道着に着替えて早速稽古を始めた。身体が温まったところで、直ぐに試合形式で津島から新八と打ち合った。新八は、体型も構えも剣筋も斎藤にそっくりな津島に心の中で舌打ちした。左構えであるだけでなく、隙のない剣捌きは見所があった。こいつは真剣でもいけると心中で新八は思った。そして、手合わせ全体を通して津島の真っ直ぐな気質を読み取って好感を持った。

 天野は長身を生かした剣捌きだった。力の出しどころが微妙にずれているのが気になった。そこを注意すると、すぐに修正する。頭の回転の早い奴だ。面白い。この手足の長さを使わない手はない。動きもいい。新八は始終笑顔で天野の剣を受けた。天野の方は、新八に跳ね返される力が今まで手合わせした誰よりも強くて、驚きの連続だった。主任が一番強いと思っていたが、この人も強い。大木みたいにどうやっても動かせない。どうする。ずっと天野は考え続けて居る内に手合わせが終わった。礼の後、汗を拭いながら新八が笑った。

「考えるのは結構だが、腹に力入れてがむしゃらに行くのも肝心だ」

 そう言って、新八は傍らの薬罐の口からそのまま水をぐびぐびと飲んだ。天野は腹の内をそのまま見透かされていた事に茫然とした。おっかない。この人は主任と同じ剣豪だ。それも本物の。新八に水を勧められて、天野は別の薬罐から湯飲みに水を注いで飲みまくった。既に目の前では、斎藤と津島が手合わせを始めていた。

「藤田の一番弟子か。昔は、あいつの剣筋を真似る奴が沢山いたが、ここまでそっくりなのは始めてだ」

 新八は笑ってじっと斎藤と津島の手合わせを見ていた。天野は新八の話す様子から、斎藤を古くから知る人物だと思った。おそらく同じ道場仲間か。天野は目の前の試合を見ながらずっと考えていた。斎藤は、いつも通り容赦ない剣捌きで津島を追い込んで行く。津島は力一杯で受け返しているが、次ぎの一手に繋げることが出来ないで居る。新八は微笑みながら、立ち合いを眺めていた。

 三本連続でとられて津島は項垂れるように試合を終えた。新八は「いい試合だった」と津島を労った。次に新八が斎藤と打ち合った。さっきの受け身とは違い、新八は最初から攻め続ける。木刀が打ち合う音は耳をつんざくようで、その力の入り具合や振るたびに空を切る音の鋭さは真剣試合さながらだった。津島と天野は試合の審判を勤めるのも忘れ、ただ文字通り息を呑んで二人の試合を眺めた。新八が踏み込むと道場の床が揺れる。斎藤の摺り足は獣が爪を研ぐが如く慎重で、一瞬の内に襲撃が始まる緊張感に満ちている。怖い。木刀で殺しあう人たちだ。おっかない。天野と津島は心底縮み上がった。

 互角に見えた闘いだが、粘り強く自分に相手を引き寄せた斎藤が最後に一本をとって勝った。新八は息を切らせながらも礼をすると、「いやー参った」と豪快に笑った。「粘るな、相変わらず」そう言って、斎藤に薬罐を勧めている。斎藤は、正座をして涼しい顔をして水を飲んだ。

「サーベル同士なら、折れている」

 斎藤は隣の新八を見上げながら呟いた。

「ああ、サーベルならな」

 そう言って、新八は笑った。

(真剣なら、新八をかわせるだろうか。巡察中にここまでの技量で打ってくる者がいると厄介だ)

 斎藤はそんな事を考えていた。新八が一旦休憩だと天野達に言うと、二人は厠に向かった。
「なあ、あの人も強いな」

 天野が呟いた。津島は隣で用を足しながら頷いた。

「主任と互角に渡り合う人は初めてだ」

 そういう天野に津島は頷いている。手水場で天野が津島を呼び止めた。天野はおもむろに懐から何かを取り出す。首から提げているお守り袋だ。天野は母親から持たされたお守りを肌身離さず首に掛けている。これは天野によると万能のお守りで、怪我、腹下し、二日酔い等は肌を擦るだけでたちどころに治り、剣術試合や進級試験など何にでも願を掛けると叶うという。天野はお守り袋の蓋を開けて中から小さな紙切れを出した。

 小さく畳まれた紙を丁寧に広げると、天野は陽の光が当たる場所でつぶさに眺めている。津島は天野が何をしているのか気になった。すると天野が急に声を挙げた。

「おい、おい、スケさん」

 天野は津島に手を振って呼び止める。津島が振り返ると、

「肥松」

 天野が囁くように呟いた。不穏な笑顔を見せている。津島は「痩松」と返して、天野に近づいた。

「これ、見てみろよ。主任は【杉村さん】を【しんぱち】って呼んでるだろ」

 天野は、小さな紙切れを津島に見せて指さした。それは天野が書き写した会津藩剣術試合の取組結果だった。細かい字でびっしりと書かれている。

「この【新選組副長助勤二番組組長 永倉新八】ってのが、杉村さんじゃねえか」

 そう言って天野が指し示す場所をじっと眺めた津島は頷いた。

「ああ、確かに【永倉新八】だ。【斎藤一】と対戦している」

「さっきも杉村さんは、主任を古くからよく知っている風なことを言っていた。同じ道場出身みたいな調子で。でもこの【永倉新八】があの人だとしたら、あの人も新選組残党ってことだ」

「肥松」

 津島がそう言って頷いた。「痩松だ、スケさん」そう言いながら、天野は小さな紙を畳んでお守り袋に仕舞った。天野も津島も感慨深いものがあった。最初、自分達の上司が元新選組幹部だったと知った時は衝撃を受けた。その後、津島は天野に誘われて非番の日に天野の叔父を本所の自宅に尋ねて行った。もう隠居をしている天野の叔父は機嫌よく二人を迎え、縁側で暫く話をした。天野はそれとなく、瓦解前の幕政の話から京都守護職の新選組について訊ねた。天野の叔父は、瓦解前の慶応二年に尾張藩京都留守居役のお付きとして上洛した。京には半年の留守居役だったらしく、その頃の洛中の様子をよく覚えているという。

 警備は京都守護職の見廻組と新選組が執り行っていた。脱藩浪人が攘夷をうたって徒党を組んで狼藉を働いていた。辻斬り、盗み、脅し、治安の悪さは当時の江戸の下町より酷い在り様だったという。そんな市中で天野の叔父は、新選組が巡察する姿をよく見かけたらしい。新選組が通ると町民は皆道を開けて、ひそひそと陰口を言って避けていた。手荒なやくざ者。所構わず人を斬っては捉える。新選組はそんな武装集団だった。

 天野の叔父は見廻組にも新選組にも直接の面識はなかった。だが士分中心の見廻組に比べ、新選組はその格好からして得たいの知れぬ浪人集団のようだったらしく、道で黒八丈の集団を見かけると、建屋の軒下に避けていたと笑った。江戸より剣の腕の立つものが身分関係なく寄り集められたというのは有名で、かの者達は人を斬る為に寄り集まった者たち。恐ろしい連中だと思ったという。叔父は剣術の腕は決して人に自慢できるものではなかった。上洛中に事無く留守居役を終えられる事をひたすら願っていたと笑った。

「四条大通で新選組の隊士とすれ違った時、皆眼光が鋭くてな。中には大きな槍を肩に抱えて歩いている者もおった。江戸市中にも見廻り役人は居たが、新選組は全く様子が違う。お前は今巡査をやっているが、新政府の巡査とも瓦解直後の邏卒兵とも違う。あの者達は物々しい一筋縄では行かない者だ。だが、洛中全体がそんな様子だった。物騒であった」

 天野と津島は話を聞いて、毎日顔をあわせている斎藤を思った。一筋縄で行かない空気。主任は寡黙でめったに自分の事を語らない。普段は大人しい物静かな人だ。だがひとたび剣を握れば右に出る者はいない。巡察中の目線の鋭さ、冷静な判断、主任は切れ者である。そしておっかない。特に真剣を振るう時はそうだ。最初、先の戦をくぐり抜けた兵つわものゆえの空気と思っていたが、同じ会津藩出身の田丸警部補からは、あのような夜叉のような怖ろしさを感じたことがない。田丸も同じ様に死線をくぐり抜けたと言っているが、決して斬られるような空気ではない。勿論、二人とも戦では人を斬り捨ててきたであろう。でも違う。主任のあの鬼火のような眼光は。天野が斎藤を鬼主任と呼ぶのはそういう斎藤の雰囲気からだった。研ぎ澄まされた精神。胆力。そうだ、刀を振るう時の杉村さんといい、胆が座っている。だから動かせないのだ。

「杉村さんと主任と渡り合えれば、試合には負けない」

 津島が呟いた。「精進するぞ、ヤス」そう言って津島が笑った。どこをどういう運命からか、洟垂れ小僧の俺らがとんでもない人に剣術指南してもらっている。斎藤の剣の強さと胆力。静かでいながら決して内側は冷めてはいない、逆に燃えさかるように熱い。津島も天野も斎藤の剣に対する強い意志に無意識の内に強い信を抱いていた。

 その後も道場に戻って、二人は斎藤と新八から最初の「八双の構え」から間合いの取り方、「青眼の構え」の時の相手の寄せなど、様々な手合いへの対応を細かく教わった。斎藤は、「俺の若い頃はよくこの手をとった」と説明を始めた。居合いで打ち込まない場合は、もっぱら「陰の構え」をとると津島に教えた。右差しの津島には、右半身に隙を見せて相手を誘う方法だと、天野を相手に「脇構え」をして相手の胴を取る方法を繰り返した。どの説明も理に適っていた。そして驚いた事に、実際に動いて見ると全て毎朝の手合わせで何度もやっている動きに繋がった。稽古中の斎藤が攻めてくる剣捌きは、全て最初の構えから計算されているのがよく解った。

 いつの間にか午近くになっていた。道場に人が呼びに来て、稽古を中断して藩屋敷の玄関に全員で向かった。玄関には千鶴が豊誠を連れて来ていた。

「お、千鶴ちゃん。よく来た。ほら、上がった上がった」

 そう言って、永倉は千鶴たちを手招きした。千鶴は手に持った大きな風呂敷包みを斎藤に預けて、子供の草履を脱がせて上がり口に上げると、「大きくなったな、坊主」と言って新八は豊誠を抱き上げた。

 千鶴は客間に通されると新八に挨拶をして、

「朝早くからお稽古されて、さぞお腹が空いていらっしゃるでしょう」

 そう言って、ここでお昼を広げてもいいかと尋ねた。新八がいい、いいと返事をしていると、新八のお付きがお茶を運んで来た。千鶴は、そのまま畳の上に風呂敷を広げて重箱を並べ、皆に取り皿と箸を配った。

「ご馳走だな。こりゃ、正月がまた来たみてえだ」

 新八は、頂きますと手を合わせると早速食べ始めた。部下の二人も、もの凄い勢いでおむすびを頬張った。千鶴は子供に食べさせながら、これから浅草公園に立ち寄ると話した。

「ひょうたん池の傍で【見世物】をやっていると聞いて。孔雀や獏が見られるそうです」

 千鶴は傍らの巾着から、たたんだ紙を広げて新八に見せた。それは浅草公園の見世物興行の引き札で、【赤猫座】と書いてある。「驚きの」、「摩訶不思議、不思議」などと奇妙な字で書かれた文言に、更に奇妙な蛇遣い女や、雷獣のような画が描かれている。

「さすが東京だな。見世物も相当派手にやってるな」

 新八は引き札を斎藤に見せた。最近、神田橋の近くで興行していた見世物小屋が東京府のお達しで閉鎖された。見世物の内容が生きた獣を子供に殺させる残虐なもので、警視庁でも犯罪行為を行うこのような見世物を取り締まることになった。【赤猫座】は斎藤たち大二区小一暑で取り締まる危険興行主の名前の中にはなかったが、浅草という場所を考えると興行の規模は大きいものだと判断出来た。見世物が軽犯罪となることも気をつけなければならないが、大勢の人間が寄り集まる浅草のような場所は、最近スリが横行している。斎藤たちが取り締まる築地地区は、窃盗団の盗み宿が点在していて検挙したスリなどから昼日中に浅草を中心に活動していると情報が入っていた。

 眉間に皺を寄せてじっと引き札を見詰めている斎藤に、千鶴が「どうされました」と尋ねた。【赤猫座】は大丈夫だと思うが、大勢の人出の中に子連れで出掛けるのは気をつけた方が良い、と呟いた。千鶴はひょうたん池の前で、隣家のお夏と娘さん親子と待ち合わせているという。斎藤は千鶴が一人きりでないことに安堵した。
 食事が終わると、斎藤は重箱を自分が持ち帰ると千鶴から風呂敷包みを預かった。千鶴はまだ時間があるからと言って、斎藤たちについて道場を見学しに来た。広い道場に入った豊誠は思い切り走り始めた。それを天野が襲う振りをして追い掛ける。けたたましい声で子供が歓びながら走り回るのを千鶴たちは笑って眺めた。

「立派な道場ですね。永倉さんがこちらで剣術道場をずっと開かれていれば、うちの坊やも指南して貰えるのに。残念です」

「そうだな。今回の県用が済んだら向こうで本格的に剣術指南役に就くことになってる。俺も東京に暮らしてえがな。でもこれからもこっちにちょくちょくは来る。その時に斎藤と坊主と手合わせ出来る」

 新八は微笑んだ。子供が千鶴に向かって「かーたん」と叫んで飛び込んで来ると。千鶴は坊やを抱っこして、「はい、そろそろおいとましますよ」と子供の額の髪を掻き上げた。天野も、その後ろから「そうですか、それでは私も支度します」と笑って持って来た真剣や木刀を仕舞いはじめた。

 皆が、きょとんと天野の支度を見ている。

「浅草公園もひょうたん池にはまだ行ったことないですからねえ」

「楽しみだな」

 嬉しそうに笑う天野に、「お前、稽古は?」と津島が尋ねた。

「稽古は仕舞いだ。今日はこれから奥さんと坊ちゃんの護衛に」

 笑う天野に、津島の頬が一気に赤くなって怒り始めた。

「何を言っている」

 道場の入り口に近いところに立っていた斎藤は無表情で固まっていた。その隣で、新八が肩を揺らして笑っていた。

「こいつは、ほんとに面白え奴だな。気に入った。藤田、お前はこれからひょうたん池へ行け。千鶴ちゃんと坊主の護衛だ。久しぶりの非番だろ」

「そんで、そこの二人。お前等はこれから俺と稽古だ。午後はみっちり絞ってやる」

 そう言ってガハハハと笑った。天野と津島は固まってしまった。

「さあ、お前等木刀をとれ、二人でかかってこい。こてんぱんにしてやる」

 新八は、道場の真ん中に仁王立ちになった。笑う千鶴に、新八は数日したら診療所に尋ねていくから、その時に重箱は返すと言うと、斎藤に向かって「早く行け」と手で追い立てた。




******

赤猫座見世物

 千鶴と斎藤がひょうたん池に向かうと、大勢の人集りが出来ていて池の傍に近づけない。二人はお夏の姿を必死に探したが全く見つからなかった。千鶴は、もう少し詳しく何処で落ち合うかを決めればよかったと呟くばかりで、そう言っている内に人の流れに押されて斎藤たちはどんどん見世物小屋の入り口へと流されて行った。斎藤が木戸銭を払って列に戻ると間もなく次の開演だという呼び声と共に入り口が大きく開いて、人が流れ込んでいった。よしずに囲まれた入り口からは、想像もつかないぐらい中は広く、囲いの向こうの正面には【生人形】が立っていた。

 地獄太夫
 一休上人

 そう立て札が立っている。煌びやかな着物に身を包んだ絶世の美女が見返るように地面に座る一休上人を見詰めている。二人は生きていうるように見つめ合う。一休上人の顔の皺一本一本がまるで話しかけるような表情で、千鶴は何度も何度も目の前の人形が生きた人間で動き出すのではと思って息を飲んだ。

 順路を辿ると次の仕切りの中には小さな子供が立っているのが見えた。

 支那人のような詰め襟の光沢のある服を着て立っているのは子供ではなく、大人だった。奇妙な小さなその身体はどこか均衡に欠いている。髭をはやしているその男の大きな目は朕犬のように黒く光っていた。笑いもせず、無表情でじっとこちら側を見詰め返してくる様子はぼんやりと灯った照明の中で異様な雰囲気を醸し出していた。男の横には【侏儒こびと】と書いた札が立っていた。斎藤は千鶴の手を引いて、「表に出よう」と耳打ちした。暗がりの中を進むと、左手には間仕切りが続き、「大女」、「蛇女」などといったおどろおどろしい立て札だけが見えた。人々は柵の前に押しよせて大きな壁のようになっていた。

「雷獣が見られるらしい」

 斎藤が少し明るくなった通路で千鶴の腕をとりながら振り返った。坊やは大人しくじっと千鶴に抱っこされたままだった。小屋の表は、柵で仕切られた順路になっていてその向こうに人集りが出来ていた。柵の向こうに今まで見たことがないぐらい大きな獣が座っていた。それは馬より大きく、その首は長く馬とは違い短い頭で、沢山の皺が垂れ下がっている。背中には二つの大きな瘤が山のように並んでいた。千鶴はこのような珍奇な動物を見るのは生まれて初めてだった。立て札には【駱駝らくだ】と書かれていた。口元をもぞもぞと動かす様子は、どこか暢気で滑稽で、垂れた目は優しく千鶴の微笑みを誘った。さっきの小屋の中で見た恐ろしい様子の見世物とは違って、動物たちは興味深く、隣の孔雀の檻では、うっとりとその美しい羽の色に見入った。

 坊やはしきりに手を伸ばして、「これ、これ」と指を差している。最近豊誠は、気に入ったものを指さして千鶴に教えるようになった。隣の大きな檻の中には、虎の姿が見えた。

 大きい

 斎藤も千鶴も驚いた。今まで書画でしか見たことがなかった虎。本物の虎。斯様に大きな生き物であるとは。獣の王者のような。千鶴たちは、その堂々とした威厳のある姿に感動して声も出なかった。

「これー、これー」

 坊やは興奮してずっと指さしている。一生懸命千鶴の腹を蹴るようにして身体を伸ばして柵の向こうに行こうとする。千鶴は坊やを抱き留めるのに必死だった。その間にも背後から人がどんどんと押し寄せてくる。千鶴は坊やが前に立つ人の肩や頭に手をかけるのではないかと冷や冷やした。斎藤が興奮する坊やを抱き留めようと手を伸ばした時に、坊やが前の男の肩を掴むと思い切り自分に引き寄せるようにして、千鶴の胸を蹴って飛び出していった。斎藤が豊誠の足を掴もうとしたが草履に手がかかっただけで坊やは、そのまま前に立つ大人の肩の上をひょいひょいと飛び歩いて最後に柵の向こうに消えてしまった。

 千鶴の叫び声が響いて、辺りはどよめいた。斎藤が人をかき分けて柵の前まで行った時には、坊やは虎の檻に向かってトコトコと走って行き、檻の鉄棒を両手で掴むと軽々とねじ曲げて器用に中に入っていった。

「子供がいる」

「虎の檻にはいったぞ」

 人々が大声で叫んで、辺りは騒然となった。虎は檻の後方に立っていたが、坊やが近づくとゆっくりと頭を向けて前に進んできた。斎藤は柵を乗り越えて中に入って走り出した。既に虎は坊やの伸ばした手にその鼻先を近づけていた。大きな前足が動いた。振り上げた前足の先だけでも坊やの頭ぐらいの大きさだ。襲われる。皆がそう思った瞬間、黒い影が虎の前を横切った。斎藤が虎の檻に手をかけた時には、反対側の檻の入り口が開いて、黒い影が去った後だった。虎の檻から坊やの姿は消えていた。

 斎藤は檻の向こう側に向かって走った。檻の反対側は大きな間仕切りの壁になっていた。その向こう側に出た斎藤はひょうたん池の辺の植木の傍に、男が豊誠を抱えて立っている姿を見た。背の高い男は、長髪を高く結わえて革で出来た黒いフロックコートを着ている。斎藤が近づくと、豊誠は「とーたん」と斎藤に手を伸ばして来た。

「お、父さんか」

 斎藤に向かった男は笑いかけながら子供を渡した。

「助けて貰えた礼を申す」

 斎藤は豊誠を抱きかかえると男に礼を言った。そして正面からその顔を見て、相手が【不知火匡】であることに気づいた。新選組だった頃に闘った相手。生きていたのか。斎藤が警戒をしながらも、改めて挨拶をしようと思っていると、背後から声が聞こえた。

「不知火、そこにいるのか。突然消えたと思ったら、虎の檻の騒ぎはお前か」

 斎藤が振り返ると、そこに原田左之助が立っていた。「左之」と斎藤は驚いて呼びかけた。

「斎藤じゃねえか」

 左之助は驚きながら笑顔で近づいてくると、斎藤の抱えている豊誠を見て「豊誠か、大きくなったな」と頭を撫でた。

「この大将が、虎の檻に入って虎を撫でようとしてな」

 そう言って、不知火は手を伸ばして豊誠の頬を手の甲で撫でた。

「まったく、大した小僧だ。物怖じしねえでよ」

 そう言って、不知火は豊誠の顔を覗き込んで笑った。

「じゃあ、表で騒ぎになってる虎の檻に入った子供ってのは豊誠か!」

 左之助は驚いた顔をしている。表では虎の檻が壊されて危ないとお大騒ぎだ。さっき興行主が出てきて虎を引っ込めた。人食い虎だと、子供が食べられたって皆が叫び回っている。

「ああ、虎は襲うつもりはなさそうだったが、手をかけようとしたからな。とりあえず小僧を檻の外に連れ出した」

 そこへ、千鶴が興行主と一緒に駆けつけてきた。泣き顔で「豊誠」と叫ぶと、子供を抱きしめた。斎藤が虎に襲われる寸前に助けて貰えた。無事だったと千鶴をなだめた。千鶴は斎藤の背後に立つ不知火を見て、一瞬驚いていたが、黒い影が横切った瞬間を思い出し。坊やを助けたのは、目の前の不知火だと気づいた。

「助けていただき有り難うございます」

 そういって深々と頭を下げた。そして、「あの、お怪我はなかったでしょうか?」とそっと尋ねた。不知火は、千鶴を見下ろすと、可笑しそうに笑った。

「怪我はないぜ、雪村のお姫さん」

 千鶴は不知火の隣に左之助が立っていることに驚いて「原田さん」と声を上げた。

「よ、千鶴。久しぶりだな」

 左之助は笑いながら、手を伸ばして豊誠の頭を撫でた。千鶴はやっと笑顔になった。そして、原田は斎藤達に不知火と数日前に上京してきたと話した。不知火は浅草での動物見世興行の仲介をしているという。そして背後に立っていた興行主と、表で起きた事故について確認をした。誰も怪我人は出ていないという事だった。虎は少し気が立っているから、今日は引っ込めておくようにと不知火が注意した。興行主は千鶴と斎藤に騒ぎを謝るとその場を離れた。

 それから斎藤と千鶴は、原田達に案内されて興行裏の動物小屋に連れて行って貰えた。斎藤がしっかりと豊誠を抱えて、今度は動物に向かって子供が暴走していかないように気を付けた。小屋裏の檻の中では【獏】が眠っていた。特別に千鶴たちは、眠っているその奇妙な動物の傍によってその背中を撫でることが出来た。

「獏は夢を食べる動物と言われています。獏のみる夢を、獏は自分で食べるんでしょうか」

 千鶴が飼育員に尋ねると、異人らしいその男は千鶴の質問がわからないようだった。不知火が、外国語でその男に話すと、飼育員は笑って千鶴に何かを話しかけた。

「奴さんは仲間同士で夢を食べあうんだってよ」

 不知火が飼育員の言ったことを千鶴に教えてくれた。千鶴は笑顔で飼育員と不知火に頷いた。そして目の前の鼻が垂れ下がった豚のような不思議な生き物を興味深そうに眺めた。坊やはしゃがんでじっと獏のゆっくりと上下するお腹を見詰めていた。

「夢を食べる不思議な動物ですよ。坊やの怖い夢もこの【獏さん】が食べてくださいますよ」

 そう言って千鶴は坊やを抱きかかえた。

 左之助と不知火が見世物の出口まで斎藤達を送ってくれた。左之助は、ずっと西国を不知火といっしょに「漫遊」していたという。ずっと不知火に警戒をといていない斎藤の様子をみた左之助は、そっと斎藤に話をした。

「不知火とは江戸で出会った。上野の戦の後、土佐藩の羅刹隊が北に向かうのを彼奴が食い止めた」
「俺らは一緒に闘ってな」

「以来ずっと付き合いが続いている。腐れ縁みてえなもんだ」

 左之助はそう言って笑った。斎藤に左之助は「西国で見てきた事で話したい事が山ほどある。この興行は数日で終わるから、その後に診療所に顔を出すつもりだ」と言った。斎藤は左之助と再び会う約束をした。千鶴は、改めて不知火と左之助に礼を言うと、二人とも是非小石川の自宅に来てくださいと伝えてその日は別れた。




*******

麻布署予選会

 麻布暑にて剣術試合の予選が行われた。斎藤が会場に行って驚いたのが、陸軍から元斗南藩の家老、山川浩中尉と合同巡察を共にしている永井盛宏少尉が来賓として来ていた。そして更に驚いたのが、来賓席の真ん中に大警視の川路利良閣下が座っていた。精悍とした体躯でカイゼル髭を蓄え堂々とした姿は衆目を引いた。斎藤は予選を勝ち抜いた者が最後の決勝戦の会場で川路に会うことになると思っていた。

 大警視である川路は元薩摩藩の軍人。斎藤にとって川路は新選組として闘った薩摩藩の象徴のような存在だった。川路との直接の面識はない。先の戦でもおそらく、剣を交えたことも無かっただろう。だが一年前、警視庁への採用の話を元斗南藩大参事の山川浩から打診された時、新しく発足された警視庁の長に立つ川路利良についてたっぷりと話を聞かされた。

 禁門の変で功を上げた薩摩藩の軍師
 元陸軍大将西郷隆盛閣下の信が厚い

 鳥羽伏見の戦では、石清水八幡宮の戦での功労
 浅川の戦での武功
 戦上手の誉れ高く
 現内務卿大久保閣下の右腕

 薩摩隼人で新政府への忠心厚く国家形成への意欲は目を見張る。捕らわれた旧幕府要人への恩赦を訴え、優秀な人材が国に必要と説き、国を警備する人材として旧東軍の士族を積極的に登用すると宣言した。山川によると非常に進歩的で思慮深い、信に足る人物という事だった。会津の戦を一緒に闘った山川がそう言うのならと人物は認めたが、斎藤は新選組に身を置いた者として薩摩藩には内心複雑な気持ちを抱いていた。瓦解前後の薩摩藩の政治的な動きに会津藩も新選組も翻弄された。昨日まで会津藩と共に並んでいた薩摩藩に、翌日には鉄砲を向けられた。そんな印象だ。非情な、苦渋を呑まされた相手。

 斎藤は警視庁巡査採用の打診をされた時、かつての敵の元で働くことに抵抗はないかと山川から問われた。山川自身、逆賊のそしりを受けた屈辱は決して忘れていないという。だが、新しい国家の為尽力することは武士の志と合致するだろうと諭された。斎藤は熟考した。そして刀を振るって家族を守れるならと、斗南を離れ東京に移住する決心をした。

 新政府、新しい国。自分は巡査としてその首都を守っている。その使命はけっして怠ることはない。だが、それは薩摩藩の作る新しい政府のためではなかった。自分は一介の巡査だ。治安を守るためには刀も振るう。必要であれば人を斬ろう。それは瓦解前と変わらぬ。正義をひけらかすつもりは毛頭ない。己の義。それだけは通す。己の剣技でそれを証明する。斎藤は自分が属する警視庁を新政府が創設したものという認識より、己の義を証明する場所と考えていた。己の存在意義。昔から変わらぬ。新選組を経て旧会津藩士として生きる己の道。

 剣術の試合は必ず勝つ。これは斎藤の中の矜持。そう思って試合に臨んだ。

 斎藤は順当に勝ち進んだ。上司の田丸は準決勝まで進んだが敗れた。斎藤の部下二人の内、天野は準々決勝で破れ、津島が二十代の部で優勝した。斎藤と津島が鍛冶橋での決勝戦への出場権を得た。全試合をじっと見詰めていた大警視や山川たちは予選会の終わりに、鍛冶橋庁舎での決勝試合での奮戦を楽しみにしていると挨拶をして帰っていった。

 その夜、斎藤の家に部下が立ち寄った。新八も来て皆で予選の結果を祝った。新八が開口一番に、先日の藩屋敷の道場稽古の後の話を始めた。あの後、新八はこってりと稽古で部下二人を絞り、ねぎらいに吉原に繰り出したらしい。

「仲に出て。若衆二人に本物の茶屋遊びをな」

 新八は上機嫌で千鶴のお酌を受けながら話す。

「味合わせてやりたくて」

 そう言って、一気に杯を空けて豪快に笑う。部下の二人も千鶴のお酌を受けて杯を進めている。斎藤は部下から道場稽古の後の話は聞いていなかったので、少し驚きながら天野と津島を眺めた。天野は、あの日は浅草三昧だったなあ、と嬉しそうに笑っている。津島は、酒が回っているのか頬を赤くして黙って呑んでいる。

「それにしても何だな。吉原は、一昔前とはだいぶ変わった」

「貴来楼に上がったんだが。仲見世は閑散としちまってたな。なじみの花魁がまだ居たからよかったものの」

 そういいながら、千鶴が台所に下がるのを横目で見届けてから、新八は斎藤にひそめた声で耳打ちした。

「それがよ、千鶴ちゃんに似た子がいたんだ」

 な、と言って新八は津島の背中を叩いた。津島は持っていたお猪口から酒をこぼして咽せた。顔が真っ赤になっている。

「格子にしちゃあ、上玉だったよな。名前は【千早】目が黒目がちで大きくてな」

 話しかけられている津島の狼狽の仕方を見ていると、どうもその【千早】が津島の相方だったようだ。

「ほら、いつか島原で千鶴ちゃんが花魁の格好しただろ。あれだ。あれにそっくりだ」

 斎藤は新八の話を聞いて、京の新選組時代の出来事を思い出した。角屋での薩摩藩浪士の密偵騒動。千鶴は花魁に身をやつして、自分は護衛についた。あの時の千鶴は目を見張る美しさだった。斎藤は杯に口をつけながら、懐かしくあの夜の事を思い出した。

「さっき聞いたら、津島はあれっきり裏もかえしてねえって言うじゃねえか。勿体ねえ」

 新八は残念そうに言うと。

「決勝試合に勝ったら【千早】のとこに行こう。いいか、今度は馴染みになるんだ。俺がつきあってやる」

 新八は津島の肩に手をかけて自分に引き寄せた。「万事、俺にまかせておけ」そう言って、真っ赤になっている津島の身体をガハハハと笑って揺らした。天野はその隣で、「わたしも御相伴つかまつります」などと調子の良いことを言っている。斎藤は今日の津島の試合の様子を見て鍛冶橋での決勝戦は勝てると思った。このまま稽古に精進して二人で挑む。その後の褒美に郭に上がりたければ、吉原なと品川なと上がりたいだけ上がらせてやろうと思った。
 千鶴が新しい料理を運んで来て、吉原の話は中断された。終始新八が場を盛り上げて、その日の夜のお祝いは陽気で楽しいものになった。斎藤は酔いつぶれた新八達を客間に寝かせると、子供を寝かしつけた千鶴とゆっくり風呂に入った。湯船で千鶴を抱きしめて、斎藤はようやく試合で昂ぶっていた気分が落ち着いた。

 鍛冶橋庁舎での決戦まであと十日。斎藤は千鶴のぬくもりを感じながらも、昼間に会った川路大警視の自分を射るような目線をずっと思い出していた。




 つづく

→次話 明暁に向かいて その9




(2018.01.05)

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