お題『深夜』
壬生の屯所での話。
秋の終わりから、壬生周辺で怪火が出ると噂になった。空から降ってくる天火とも呼ばれて。それが見えると家屋に火がついて燃えてしまう。家が焼けるのは災難だが。天火の落ちる家には病人が出るといわれ、災いの前兆。この噂を新選組が住まう八木邸の主人も嫌がった。天火がでたら、雪駄で仰ぐと良い。そんな言い伝えもあるそうで。東国出身のものが多い新選組の幹部は、世話になっている八木邸の主に頼み込まれ、天火を防ぐために屋根にのぼって番をすることになった。
夜中に怪火の寝ずの番をする。
土方に呼び出された幹部は、巡察に出る者以外で交代で屋根に上がる。明るい内に、梯子を準備しておくこと。寒さ対策に綿入れや布団を屋根の上に置くこと。三人ひと組で、屋根に二人、一人は下で待機。土方はあらかたの説明と指示をして、天火番の順番を書いた紙を屯所の広間に張り出した。
千鶴は、夕餉の残り飯でおむすびを作るように言われた。身体が冷えないように、汁気のものも用意するように。もう冬至も近い師走。夜中にずっと外での番は厳しい。千鶴は身体が温まる夜食を作って、差し入れようと思った。
その日は、斎藤も平助も午後から非番で、寝ずの番の為に昼間に仮眠をとったという。念には念の入れよう。夕餉の後に、広間に集まって、屋根の上で雪駄を手に持って、扇げばいいのか、と平助が即席の怪火踊りを考案して、皆に披露した。お酒は用意されていなかったが、皆は、この怪火を追いやるというなかば迷信じみた事を、何かのお祭りのように思って面白がっているようだった。
最初に、屋根に上がったのは、平助だった。身軽な様子で、梯子をひょいひょいと登って、屋根に降り立つと。新八が、下からはやし立てた。
「よ、魁先生!!」
平助は、「すげー、いい景色。向こうに御所まで見えるぜ」などと大喜びしている。そして、再び【怪火おどり】を披露しておどけてみせた。皆は、手を叩いて喜んだ。次ぎに斎藤も屋根に上がった。確かに、市中が一望出来た。斎藤は、夜空を仰いだ。空も近くなったような。これは良い。朝までずっとこうして空を見上げているのも悪くはない。そんな風に思った。
「お二人とも、寒さは如何ですか? 温かいお茶と甘酒を用意しています」
千鶴が、下から口元に手をあてて叫んでいる。
「おおー、ありがと。千鶴。いま取りに下りていくな」
平助の声が聞こえた。
千鶴は、お盆にお茶と甘酒を用意した。でもこれでは、きっとこぼれてしまう。そうだ、竹水筒に入れて渡そう。千鶴は台所に戻って、竹水筒を持ってくると、お茶と甘酒をそれぞれに詰めて、湯飲みと一緒に風呂敷に包んだものを平助に渡した。半刻が過ぎて、平助と斎藤が一旦下りて、次ぎは、左之助と新八が屋根の上に上がった。二人のはしゃぎ様は更に凄く、雪駄を手に持って、派手に【怪火おどり】を舞って見せた。千鶴は、ケラケラと笑って喜んでいる。それを見て、土方や近藤も、屋根に上がってみようかと言い出した。
「長い夜だ。こうして、皆で交代で番をしていけば、直に朝が来るだろう」
「これだけ、騒がしくしていれば、【天火】も八木の家は避けていくだろうよ」
近藤と土方は笑いながら、最初は難儀に思っていた八木邸からの頼まれ事も、幹部達が楽しんでやっている事に安堵した。
「雪村、屋根の上で飲んだ甘酒は格別だった。礼を言う」
斎藤が千鶴にそう言うと、屋根からの景色の話をした。西の方には、嵐山の稜線が夜空に浮かんで美しかった。空の星もだ。千鶴は、斎藤の話を聞きながら、屋根から見える風景を想像してみた。
「お台所に、すいとんを用意しています。近藤さんが、さっき召し上がってらっしゃいました」
そう言って、斎藤と平助に台所に来てもらうように千鶴が頼んだ。二人は、冷えた身体が温まると喜んで食べていた。ちょうど其所へ、小さな火鉢を抱えて、井上が台所にやってきた。
「これぐらいなら、屋根の上に持っていける。これに炭を用意するよ」
そう言って、へっついから炭を移し替えている。斎藤と平助は、火鉢があると、屋根の上でも快適だと感心していた。井上は、二つ持って来たから、屋根に持って行くといいと言って準備すると、平助と斎藤が再び、火鉢を抱えて、外に出ていった。夜長に、これからが大変だ。千鶴はそう思った。そして、井上と一緒にへっついに炭を足して、火をおこし続けた。
天から降ってくる火。
天火は今のところ、八木邸の回りにも見えない。新八と左之助が冷えきった身体で屋根から下りてきて、近藤と土方と交代した。近藤が、市中の景色の良さに、大きな声を上げている。土方も、「大将、あれ見て見ろよ」と別の方を指している。二人のはしゃぎ様は、普段とは違い、まるで童心にかえっているようで、下から眺めている井上が、クスクスと笑っていた。
何度目かの交代の時に、斎藤が千鶴に声をかけた。
「雪村、一緒に上がってみるか」
千鶴は、こっくりと頷いた。自分の部屋から綿入れを着て戻ると。斎藤が梯子の傍で待っていた。新しい炭を入れた火鉢を抱えている。千鶴は斎藤の後に続いて、梯子を登って行った。屋根の上から、差し伸べられた手を取ると、一気に引き上げられて、屋根の上に登れた。屋根瓦はひんやりとしている。家々の屋根が連なる向こうに、明るい市中の町並みが見えた。そして西側には、山の稜線がぼんやりと浮かび上がり、夜空が広がる。
斎藤に手を引かれて、一番天辺の瓦の上でかい巻き布団に包まれた。平助は慣れた風に既に、屋根の上で寝そべっている。斎藤に促されて、そっと横になってみた。頭上の空には目に入りきらない位、星が瞬いている。千鶴はあっけにとられて、暫く何も言えなかった。
「あれが三つ星だ。平家星と源氏星も良く見える」
隣で斎藤が手を伸ばして、空を指す。千鶴は、一段と良く輝く星を見つけて、碧星だと指さした。
「良く知っているな。あっちは五角星だ」
千鶴は、ほんとだ、綺麗な五角形。そう呟いて感心している。こんなに空が近いなんて。凄い。千鶴が夜空を夢中になって眺めている様子を斎藤は微笑みながら眺めていた。
「このような寝ずの番なら、いくらでも出来るな」
斎藤は笑顔で夜空を見上げながら呟く。ほんとうに。寒さで息も凍りそうだけど、それもこうして温かくしていれば。千鶴は持って来たお茶を湯飲みに注ぐと、平助と斎藤に渡した。白い湯気を立てて飲むお茶は温かく、格別だった。
その時、一瞬西の空に一本の筋が通ったのが見えた。一瞬、明るく瞬くように、星が落ちたように見えた。
「流れ星だ。あの方向に今夜はよく見える」
そう言っている内に、もっと高い暗い空でも、星から星の間に、線が走るように流れる星が続けて見えた。千鶴は言葉もでない。一瞬のうちに、星が動いた。なんて綺麗なんだろう。隣の斎藤も、じっと空を眺めている。その瞳は碧く。空に輝く【碧星】のよう。千鶴はうっとりと斎藤の横顔と夜空を眺めた。
屋根の下から、土方の声がして交代だと呼ばれた。千鶴は、斎藤に手を引かれて屋根から無事に下りることが出来た。
地面に下りたってから、平助が、千鶴は【怪火おどり】舞い忘れたなと言って笑っていた。
その後、千鶴は台所で夜食作りや風呂の沸かし直しに忙しくなった。斎藤も平助も、明け方まで番を続けた。千鶴は、途中で井上に促されて、部屋に戻って休んだ。夢の中でも、何度も流星を斎藤とみた。幸せな気分だった。
天火の噂は、歳が改まるとさっぱりと聞こえなくなり。八木邸のおまさからは、「新選組の皆さんが、追い払ってくれたおかげだ」と感謝された。【怪火払い】は、壬生の屯所での楽しい思い出となった。
そして、千鶴は、あの日以来【碧星】を【斎藤さんの星】と心の中で呼ぶようになった。
了
*****
お題『深夜』
屯所に定期的にくる小原女から季節の花を買い求めるようになって一年は過ぎていた。
壬生の屯所で伊東が招き入れ、広間の床の間に花を活けて掛け軸を替えるようになったのがきっかけだった。伊東は、千鶴の活け花の素養を見込んで、小原女から花を仕入れて自由に床の間を飾って貰えればと近藤に頼み込み、屯所内に花や書画を飾る事が千鶴の大切な仕事になった。
小原女は、毎週のように屯所に現れ、千鶴が応対するうちに懇意になっていった。今日も、花と一緒に駕籠に一杯の柚子を持って現れた。八瀬の山里にたわわに実っているという。千鶴は大きな実を手にとって、そのいい香りにうっとりとした。
「冬至にゆず湯に浸かると、病に罹らないと」
小原女は微笑みながら、「いつもおおきに」と挨拶をすると本願寺の門をくぐって帰って行った。千鶴は、沢山の柚子から数個を料理用にとって、残りは大浴場に持って行った。夕方に風呂を炊くときに湯船に柚子の実を浮かべよう。それから、台所に戻って、大根の柚子なますを大量に作った。
その夜は、三条河原で特別に薪能が催されていた。前日に千鶴は斎藤と平助に連れて行って貰った。評判が良く、興業主は三条の大棚の主人で、その前の月に新選組が、不逞浪士の店先での狼藉を取り締まった事に対するお礼として、新選組の隊士に無料で席が用意されていた。近藤は、三条河原の巡察も引き受け、隊士たちに順番に見物も兼ねて向かわせた。
順番に戻る隊士たちは、ゆず湯を喜んで入っていたようだった。千鶴は、自分も後で湯に浸かろうと思いながら、雑務に追われているうちにすっかり夜も遅くなってしまった。今夜は、必ず髪を洗いたかった。小原女が帰り際に、特別に採れた椿油だといって、小さな小瓶を千鶴に渡した。髪が艶々になると。小原女は千鶴が女だと気づいているようだった。いつも優しく微笑みかけながら、小間物をそっと千鶴に渡す。千鶴が御代を渡そうとしても決して受け取ろうとしない。うんと後になって、この小原女は、八瀬の千姫が送っていた事を知るようになるのだが、千鶴は、毎週屯所に現れるこの優しい女を、自分の姉のように慕っていた。
特別に貰った椿油を持って大浴場に向かった時は、もう夜中を過ぎていた。井上に、最後に浴場から柚子を駕籠にあげておけば、翌日に天日干しに出来ると言われていた。浴場の片付けもしてしまおう。千鶴は、そっと浴室に入った。小瓶を落とさないようにしないと。千鶴は、椿油に気をとられて、うっかり脱衣場の引き戸につっかえ棒を渡すのを忘れてしまった。
千鶴は念入りに髪を洗った。米ぬかを流すのに湯桶から何度も湯を掬って流した。そして、用意しておいた小瓶を開けて、溜めた湯の中に垂らした。花の香りのする油をお湯に混ぜて、髪を浸す。いい香り。髪もしっとりとなる。千鶴は、嬉しくて、何度も何度も髪を梳かしては、湯につけてを繰り返した。
夢中になって、髪を全て桶の中に入れてゆっくりと梳かす。千鶴が溜め湯桶の影でしゃがんでいる反対側に、いつもまにか誰かが立って、湯をすくって身体を流しているのに、全く気づいていなかった。
斎藤は、毎晩、羅刹隊士と御堂で打ち合いをしている。山南に許可を得ての鍛錬だが、羅刹隊士三名を相手に思い切り剣をあわせ、最後は体術の闘いのようになる。短い時間だが、毎回汗だくになった。今夜も鍛錬のあと、そのまま浴場に直行した。今日は三条河原の興業で、隊士達は出払っている、一人だけ湯に入りに来ている者がいるな。斎藤は、そう思いながら、かけ湯をすると、大きい湯船に移って、ゆず湯に浸かった。いい湯加減だ。ちょうど湯船の縁に手拭いが置いてあった、斎藤はそれをとって湯に浸して、顔を拭った。
千鶴は湯桶からお湯を掬って、丁寧に髪を流した。しっとりとして手触りが全く違う。嬉しい。自分の髪を触ってなでつけながら、再び湯を掬う。その時、背後から誰かの声が聞こえた。
「ずいぶんと熱心に髪を洗うものだな」
千鶴は心臓が止まるかと思った。その声は斎藤の声だった。千鶴は、ゆっくり振り返った。湯船の中に斎藤の後頭部が見えた。
「宮川達は、大方、興業の後にどこかへ立ち寄って飲み歩いているのだろう。お前は、大楠たちと一緒だと思ったが」
斎藤は、どうも三番組の誰かと話しをしているようだ。千鶴は目線だけ動かして、浴場を見たが、自分と斎藤以外は誰もいない。
「湯には浸からぬのか」
湯気の向こうの斎藤が、首を動かしてこちらを見た。その瞬間、千鶴は叫んだ。
「見ないで」
斎藤は、その声を聞いて驚愕した。溜め桶の隣で、半腰の千鶴が、手に持った桶で身を隠している。斎藤は、慌てて背中を向けた。
なんだ。
雪村だったのか。
「すまぬ、見てはおらぬ」
慌ててそう言ったが、何が何だか訳がわからぬ。では、さっき溜め桶の所に座って髪を洗ってたのは、あれは雪村。目にしてしまった。
「目に入ったが、見てはおらぬ……」
訳がわからぬまま言い訳だけは、口から出てしまう。
暫く、沈黙が走った。心の臓が早く動きすぎて、どうしていいのか解らない。
「……てぬぐいを」
千鶴の声が背後から聞こえた。
「手拭いをください」
千鶴の声は震えているようだった。手拭い。そうか、手拭いか。斎藤は、手に持っている手拭いを渡そうと湯から出したが、どうやって渡す。絞って、背後に投げるのか。斎藤は、手拭いを絞った。
「振り返らないで」
すぐ近くに千鶴の声が聞こえた。斎藤は飛び上がりそうになった。背後にいる。斎藤は、手を後ろに伸ばした。千鶴は斎藤の手から手拭いを取った。斎藤は、左腕で目を覆った。
「すまぬ。他意はない。決して目を開けぬ。先に上がる。邪魔をして悪かった」
そう言って、斎藤が立ち上がると、千鶴は悲鳴を上げた。斎藤が裸で目の前に立っているのに驚いているようだ。
「すまん」
振り返ると、千鶴は手拭いを両手で押さえて、身体を隠して立っていた。
「見ないでーーーーーー」
千鶴の泣き声が聞こえた。斎藤は、思い切り湯船に身を沈めた。
「すまん」
「私が上がります。斎藤さんは、目をつぶっていてください」
千鶴は、そう言うとずっと背中を入り口に向けてゆっくりと後ずさりながら引き戸まであるいた。そして、戸をあけて向こうに消えていった。
斎藤は、しばらくずっと目を瞑ったままじっとしていた。無音。雪村は、去ったのか……。
その時、引き戸がからからと開く音がした。湯気の向こうに、浴衣を着た千鶴が立っていた。目を左手で覆っている。
「斎藤さん、手拭い。もしお持ちでないなら、これを。使い古しですが」
そう言って、湯船の縁にそっと畳んだ手拭いを置いた。千鶴はきびすをかえすと、戸口に戻った。
「お風呂を終わられましたら、教えてください。部屋にいます。柚子を片付けたいので」
背中を向けたまま、そう話す。斎藤は、ぼーっと千鶴の後ろ姿を見ていた。湯気の向こうに立つ千鶴は。腰の辺りが女らしく、下ろした髪が艶々に光って美しかった。
「わかった。だが、これを片付けるだけなら、俺がやっておく……が」
千鶴は、小さな声で、「お願いします」と言うと。足早に浴室から出ていった。
再び静かになって、ようやく斎藤は落ち着いた。なんという事だ。まさか、雪村が入っているとは。泣いていた。驚いていた。斎藤は、確かめもせずに、勝手に湯に入ったことを後悔した。雪村は浴場を片付けるつもりで、夜中に湯に入ったのだろう。そう思い反省していると、湯船の縁においてある手拭いが目に入った。斎藤はそれを手に取ると、花のようないい香りがした。
心の臓の鼓動が再び早まった。さっきの千鶴の姿の一部始終を思い出してしまう。いけないと思っても、身体の線を反芻してしまい。肌がちらついて落ち着かない。斎藤は、立ち上がって、柚子を掴むとどんどん駕籠に入れていった。ぶんぶんと頭を振った。
何を考えておるのだ。
一通り柚子の実を集めると、湯からあがった。そして良い香りのする手拭いで身体を拭った。拭いながら、この手拭いは雪村のものだと思うと気恥ずかしくなった。雪村の使った手拭い。また匂いを嗅いでみた。ほんのり柚子の香りもする。
何をしておるのだ。
自分のしていることに己で呆れながら、浴場を後にした。部屋に戻ると、千鶴の部屋の灯りは消えていた。斎藤は廊下に、柚子の入った駕籠を置いて、自分も部屋に入った。寝床で明け方まで、千鶴の姿を思い出しては打ち消しを繰り返した。
翌朝、改めて斎藤は千鶴に謝った。千鶴は、頬を赤くして。浴場の戸を開けたままにしておいたのが悪かったと謝った。千鶴からは、手拭いと同じいい香りが漂っていて、斎藤は、再び心の臓の鼓動が早まり、それが千鶴にまで聞こえているような気がして、内心焦った。
しばらく、食事のたびに大根の柚子なますが出て。柚子の香りがするたびに深夜の風呂場でのことを思い出し、斎藤はひとりで赤面した。
了
(2017.12.26)