築地河岸御用聞(表語り)

築地河岸御用聞(表語り)

明暁に向かいて その39

明治十一年卯月


「なにを騒いでおる」

 斎藤の声が廊下に響いた。

 虎ノ門署の受付窓口に繋がる部屋の前で、巡査が群がって騒いでいるのが会議室まで聞こえていた。斎藤の叱責の声で、前に倣って直立した三等巡査たちは「すみません」と深く頭を下げた。一番端に天野二等巡査が立っていた。斎藤が天野を睨みつけると、天野は頭を下げた後に説明を始めた。

「津島二等巡査の客人が来署しているのを見物していました」

 客人。津島の客人がどうした、と斎藤が尋ねると。

「こいつらが、別嬪が受け付けに来ていると騒いでいるので、確認をしに」

 天野は真顔で答えているが、ちらちらと隣に並ぶ三等巡査たちを見ながら合図を送っていた。

「何の確認だ。お前らの騒ぐ声が、会議部屋まで聞こえていたぞ」

 斎藤は厳しく叱責すると、任務に戻れと巡査たちを解散させた。天野は数人の巡査とその瞬間、受付の戸口を開けて、隙間から津島の客人を確かめた。斎藤が咎めると、天野は一目散に部下の巡査を連れて逃げて行った。斎藤は溜息をついた、そして受付の戸を開けて中に入った。
 受付の待合に立つ津島の背中が見えた、その前に若い女の姿が見えた。女は女学校の生徒のような恰好をしていた。大きな風呂敷包を抱えた女は、深く頭を下げると署の玄関に向かって出て行った。津島はそれを見送るように玄関口に向かった。
 しばらく玄関口に立っていた津島が女を追って署の門口から出て行くのが見えた。斎藤が来署記録を見てみると、【杉山ユキ】と書かれてあった。住所は戸越村三番地。北品川のあの一帯は旧弘前藩屋敷がある。斎藤は巡察で回った戸越の武家屋敷のある通りを思い出した。
 斎藤は一旦受付をでて、執務室に向かった。廊下の窓の傍に天野と三等巡査が群がり窓から津島の出て行った先を争うように確認して騒いでいた。斎藤は、「いい加減にせぬか」と天野達を叱責して廊下から追いたてた。
 午後の巡察の時間に、津島は署に戻って来た。斎藤の部屋に入室した津島は、無断で外出したことを謝ると、以前道案内をした士族が面会に来て、再び署の外で道案内が必要だったと説明した。斎藤は、津島に外出報告書の提出はする必要ないと云って巡察任務に戻るように指示した。津島は「はい」と返事をして頭を下げてから部屋を下がった。

 その日の午後は、斎藤と天野で騎馬巡察をする当番だった。築地の釆女が原の馬場に出て馬を停めると、天野と徒歩で河岸沿いを巡察した。天野は、今月の頭に祝言を挙げたばかりの新婚で、二言目には、「わたしの嫁は」とおさよ自慢が止まらない。それは、斎藤に対しては全く遠慮がない様子で、惚気るというどころではなかった。

「主任の奥さんも、めんこさにかけては天下一品でございますが、うちのおさよも負けちゃあいません」

「今朝も、【切り火】を忘れたからと玄関をでて追いかけて来ましてね」
「いまどき、あんな験担ぎをする嫁がいるんですね」と云って、ぐほほほと独りで悦んでいる。

「可愛いったらありゃあしません」

 天野は満面の笑顔で正に人生の春を謳歌していた。斎藤は、ずっと微笑みながら天野の嫁自慢を聞いていたが、ふと思い出したように今朝、署に現れた津島の客人について天野に尋ねた。

「津島は道案内をしたと云っておったが、なにかあったのか?」

 天野はさっきの美人の客人でございますかと答えた。あれは、先月北品川で起きた事故の怪我人だそうでございますよ。唐木橋で起きた荷車の暴走です。天野は、やはりある程度事情を知っているようだった。

「騎馬巡察中に起きた事故だったそうで、今日現れた娘は、暴走した荷車に接触して怪我をしたそうです。津島は、現場の怪我人を病院に送る手配をしたそうですが、さっきの娘は、足を挫いただけだからと断ってその場から帰ったと」

 斎藤は、その事故については報告書を読んだだけだった。荷車を引いた牛が突然暴れ出し、近隣の商店の店先を倒壊させて、通行人も巻き込まれて数人が怪我をした。牛は取り押さえられ、荷車の主は通行証を没収されている。

 天野は立ち止まって斎藤を見下ろすように眺めた。

「これは、ここだけの話」

 天野は斎藤にそっと耳打ちするように近づくと、小さな声で話を始めた。

「目明し情報でございます」

 誰も周りで話を聞く者もいないのに、天野は随分と勿体をつけている。

「親方、これはあっしと親方だけの話にしておくんなさいましよ」

 天野はきょろきょろと辺りを警戒している。築地の河岸に立ってはいるが、周りに人は殆どおらず、斎藤には天野がここまで辺りを警戒する意味がわからない。だが、天野は完全に築地河岸の御用聞きになったかのように話始めた。

「これは、あたしの勘でございますが、あれは津島の【これ】じゃねえかと」

 天野は斎藤に胸の前で隠すようにして右手の小指を立てて見せた。親方、あの女の身元。あっしが洗い出しますので、と天野は目を細めて斎藤に報告をした。

「身元はわかっておる。来署記録に名前と住所が書いてあった」

 斎藤がそう云うと、天野は飛び上がるように驚いた。

「親方、さすが親方でございます。そんで、あの女は何者なんです」

「戸越村に住む、【杉山ユキ】住所から旧弘前藩の士族であろう」

 天野はぱーっと表情が明るくなった、急いで懐から警察手帳を取り出して、矢立で書き込みをしている。

「旧弘前藩と【杉山ゆき】と。住所は戸越村」

「親方、」

 天野は嬉しそうに顔をあげて斎藤を見ると、「わたしの目論んだ通り、あれは津軽のお姫さんです」と云った。

「たぶんで、ございますよ。まだハッキリとはわかりません」

 天野は目を細めて顎をなでながら腕を組んだ。

「親方、わたしの心の十手にかけて、突き止めてみせます」

 斎藤は、鼻から抜けるように笑いながら歩き始めた。

「もう名前も住所も判っておる。津島の知り合いなら直接津島に訊ねれば済むことであろう」

 天野は、斎藤に追いつきながら、「それは駄目でございます。主任」と大声で反対した。

「これはわたしと主任の隠密捜査でございます」

 天野はねだるように斎藤の顔を覗き込んで、「こっそり調べましょう、ね、親方」と必死で誘いかけて来た。

「なにゆえ隠密に調べる必要がある。あの女学生が津島の女だとしても余計な詮索は無用だ」

「津島の奴、なんかこそこそしてやがんですよね」

 天野は芝居小屋の通りを見回しながら、「あれが昔の許嫁だとしたら、なんでまたってこってす」

「なんだ許嫁とは」

 斎藤が天野に聞き返した。

「津島の許嫁でございますよ。亡くなった親父さんの上役の娘」

 斎藤は薄っすらとした記憶を辿っていた。確か、以前津島の親御が他界した時に縁談の話があった。破談になったと本人が言っていたが……。

「譜代の名家の娘です。一千石のお姫さんで、確か戸越に大屋敷を構えているって」

 天野が思い出すように話をしている。

「津島のやつ、親父さんの弔いの席で、先方に縁談を断ったそうですから」

「その断った相手が今日、署に来ていたのか?」

 斎藤が切り返すように訊ねた。天野は、首を傾げながら「その相手かどうかわかんないですけどね」と応えている。

「ただの憶測でものを云うな」

 斎藤がぴしゃりと天野に云うと、丁度通りの突き当りに着いたので、引き返すように反対側の通りにでた。陽の光が眩しい。

「どのような相手にしろ、津島はあの客人の道案内に心を砕いている様子だった。同郷のよしみかもしれぬ」

 道案内

 確かに。巡査の任務の大きな部分だ。帝都は区画整理が目まぐるしく、長く同じ土地に暮らすものでも路頭に迷う事がある。天野も巡察中に増上寺の裏道で迷った老婆の道案内をして、赤坂永坂まで背負って歩いて行った。老婆には感謝され、後日、この老婆から鍛冶橋の川路大警視閣下宛てに直接礼状が届き、川路は大いに喜んだ。天野邦保二等巡査には表彰点が付いたと虎ノ門署に報告があった。

「それにしても別嬪でございました。最初に見つけたのが、巡査二課の矢代の奴で。あいつ、『署の玄関に、女がいる』って大騒ぎしてましてね」

 斎藤は、一部の巡査の品行の悪さに溜息をついた。署の玄関に若いおなごが現れただけで大騒ぎする事が情けなかった。

「来署者を覗き見るなど、品性を疑うような振る舞いをするな。矢代には俺から注意をする」

 天野は「すみません」と謝った。

「でも主任、あの娘が何の目的で今日来署したのか、知りたくないですか」

 斎藤は黙ったまま歩いていた。
 
「知る必要はないだろう。津島から無断で外出した事は報告を受けている」

 天野は、立ち止まって。「親方、」と大声を出した。

「報告が本人からあったんなら、教えてくれてもいいじゃないですか」

 天野は突然憤慨し始めた。斎藤は、以前道案内した士族の道案内が必要だったと云っておったと話した。

「士族の娘の道案内ね」
「どーも、怪しい。あいつ、何をこそこそやってやがんだ」

 天野は納得がいかないようだった。

「ようございます。主任が捜査なさらないのであれば、わたしが引き受けますので」

 斎藤は呆れた。天野はあくまでも隠密捜査をすると決めているようだった。最悪天野は息のかかる三等巡査を巻き込んで来署者を詮索し始めるだろう。

「相分かった。津島が無断で外出することはちゃんと理由を詳細に報告させる。【杉山ユキ】の身元は、俺とお前で洗い出そう」

「あくまでも、隠密だ。ヤス」

 天野の顔がぱーっと明るくなった。「親方、ありがとうございます」と頭を下げて、釆女が原の馬場に向かって走り始めた。

「善は急げでございます、親方。署に帰って、地図で住所を探しましょう」




*****

築地河岸御用聞(裏語り)
明治十一年弥生

 時はひと月遡る。

 三月の終わり、東京に遅い春がやって来た。桜が咲き始め、人々が町にでて浮かれ始めた頃、津島は騎馬巡察で芝口から品川方面を見廻っていた。西南の戦役が終わって、政府はそれまで進めていた橋の建設を打ち止めにしたこともあり、目黒川の河岸は東海方面へ出る通行人や荷馬車で渋滞することが多い。津島は、日中は交通整理の任務についていた。
 いつもの巡察路を通って行くと、道の向こうに土埃が舞って人々の逃げ惑う姿が見えた。津島が馬を走らせて近づくと、唐木橋のたもとで大きな牛が大暴れしていた。牛には、荷車が縄で繋がっていて、荷車は振り回されて、その上に乗っていた米俵が散乱していた。気が荒くなっている牛には角がついており、大きな男が三人がかりで押さえようとしているが、なかなか収まらない。津島は、雲雀に乗ったまま牛に近づいた。雲雀は牛の背後から冷静に近づくと大きな声で嘶いた。津島は馬から飛び降りるように牛の背中に降り立つと、首にひっかけてある手綱を掴んで男たちと一緒に引いた。頭の動きが止まった。角を掴んだ男たちが、牛を押さえつけた。漸く牛の暴走は止まった。
 津島が唐木橋に戻ると、周辺の店は総がかりで片付けを始めていた。茶屋の前の椅子の上で怪我人が四名寝かされていた。既に近くの町医者が駆け付ける手配が取られていた。津島は怪我人の名前の聞き取りをして、矢立を取り出して記録をとった。
 椅子の端に、女の背中が見えた。袴履きの女は御付きの者に介抱されていた。津島が声を掛けると、主人が足に怪我をしていると御付きの女が答えた。津島は俯いている女に、必要なら茶屋の椅子に横になるようにと声を掛けた。女は、「はい」と答え、顔を半分あげて津島の足元を見ながら会釈して礼を言った。津島は驚いた。目の前に座っている怪我人は、津島の知る者だった。

 杉山家のユキ

 津島が以前、故郷の津軽で見合いをした相手。もう二年近く前の事だ。亡き父が存命だった頃に進められた縁談。津島にとっては意に沿わぬ相手だった。三等巡査でも構わぬ。剣術の腕があり、津島の家の者ならば。先方は津島の剣術の腕を見込んだと話を持ち掛けて来た。それ自体は嬉しいことだった。娘を東京にやりたい。そう言われた。杉山の家の事情はよく分からないが、東京で警視庁に勤める津島は杉山家にとって都合のいい相手だったのであろう。縁談については、津島は考えなくもなかった。心に思い描く所帯の様子。そこには常に想い慕う千鶴の姿があった。

 診療所の奥さんの手をとって
 あの笑顔を眺めながら
 生きていきたい

 漠然とした夢だった。津軽の故郷は気持ちの落ち着く場所だった。心のふるさと。だが、帰郷している間は、東京にいる主任の奥さんへの思慕が一段と募る。どんなに良縁を勧められても、相手を目の前にしても、心の中では恋い慕う千鶴への想いが充満してどうしようもなかった。
 故郷で杉山ユキに会ったのは二度。一度は自宅に父親を見舞いに、杉山直実がユキを伴って現れた時。後々知ったのは、これが見合いの席だったことだ。二度目は、父親の本葬の日。津島の兄夫婦と母親が、弔いの後に顔合わせの席を設けた。この時、津島は初めて杉山ユキを正面から眺めた。美しい娘だった。だが、その美しさも清楚な様子も、どこか硝子の向こうにあるような、なんら実感を伴わず。お悔みの言葉を受けたことに礼を伝えただけで終わった。

 その夜、津島は縁談を反故にしてもらうように母親に申し伝えた。

 兄夫婦と母親は烈火の如く怒り、津島は勘当を言い渡された。津島は覚悟を決めた。心に思う千鶴の事だけを胸に連絡船に飛び乗り東京に戻った。

 あれからもう一年半は経つ。津島の家は杉山家とは疎遠にならざるを得なかった。大きな後ろ盾を失ったと、未だに兄と母親には嫌みを言われている。唯一、自分の味方に付いてくれたのは、四つ下の妹だった。妹は故郷の様子を、文に書いてよこし、文末は必ず兄を気遣う言葉で締めくくられていた。妹の文の中に、杉山のユキ様が女学校に上がったと書かれてあったのを覚えていた。目の前の杉山ユキは東京で女学校に通っていたのだろう。西南への従軍が決まった時、津島は妹とのお別れの為に故郷に帰った。戦争に出向く津島を兄夫婦と母親は温かく迎えた。戦役の後は、無事の帰還を喜んだ。西南での手柄は、津島家にとっては名誉なこと。疎遠になった杉山家のことは、家族の中で禁句になっていた。

 津島は杉山ユキの足元にしゃがんで、「失礼」と声をかけると、怪我をしている足の様子を確かめた。娘は一瞬、身を固くして足を引っ込めたが、津島が足袋の上から足首が折れていないか確かめるのをじっと痛みを堪えている様子だった。足元を見たまま、「痛みますか?」と訊ねる津島に、娘は「はい」と返事をした。

「骨は折れだ様子はない。足首ば挫いでおられる」

 津島はそう言って顔を上げた。杉山ユキは津島の顔を見て驚いていた。さっと頬が赤らんで、俯いてしまった。津島は立ち上がって深々と頭を下げた。

「間もなぐ医者が来ます。それまでに、怪我ばされだ状況を教えでぐださい」

 津島はそう言って、矢立を取り出して記録をとった。御付きの者が、品川方面から戸越に向かい道を歩いていたら、暴走する荷車が迫ってきて、お嬢様は避けきれずに転んだと説明した。そう聞いて、杉山ユキが自宅に戻る途中に事故に巻き込まれたことが判った。

「医者が来るまで、ここで待機を」と津島が云うと、御付きの女が「先にお屋敷にお嬢様を」と言い出した。

「お屋敷に戻れば、かかりつけのお医者様を呼ぶことが叶います。巡査様、どうか、今すぐ帰れば陽が落ちる前に、医者を呼ぶことも」

 津島は、わかったと返事をした。丁度、警視局医療部と品川署から応援部隊が到着したこともあって、事後処理を品川署に任せることになった。津島は、杉山ユキの御付きの者に屋敷の住所を聞くと、屋敷まで送り届けると云って馬を用意した。

「失礼致す」

 ひと言声を掛けた津島は、ユキを抱えて茶屋の椅子の上に登り、雲雀の鞍の上にユキを腰かけさせた。怪我をした足が鐙に引っかからないように調整すると、鞍の反りかえった場所にユキの手を引いて掴むように伝えた。

「ゆっくりど進みます。この馬は、慎重に動く馬です。ご安心を」

 津島は、そのまま御付きの者をつれて戸越まで馬を引いて歩いた。ユキは緊張した面持ちで、馬上の揺れを怖がっているようだった。途中、桜の枝が垂れ下がる道があった。津島はそれを除けるように馬を進めたが、振り返るとユキは目の前近くに咲く桜の花を嬉しそうに眺めていた。

「美しゅうございます」

 馬の蹄が土を打つ音に交じって、ユキが呟く声が聞こえた。津島はゆっくりと馬を進め、杉山家の屋敷に着いた。御付きの者は、玄関に走って行き「奥様、奥様」と叫んでいる。津島は、玄関先の台の上に娘を馬上から降ろした。もう一度、怪我をした足を確かめると、足首が熱を持って腫れあがってきていた。

「冷やした方がよいでしょう。すぐに医者を」

 ユキは「はい」と返事をした。玄関の奥から、奥様と呼ばれる女が出て来た。今まで面識のない相手だった。会釈をした津島は、【警視局虎ノ門署のものです】と名乗った後、お嬢様が、北品川の唐木橋で起きた事故に巻き込まれて怪我をされたと説明した。驚いた女主人は、奥の間へ、と云って家の者を呼びにやった。ユキは「伯母上、大事はございません」と気丈に返事をしていた。

 ユキは家の者に抱えられて、玄関の奥に消えて行った。女主人がどうか、と云って家の中に上がるように津島に頼んだが、事故の処理があると云って津島は固辞した。

「明日にでも、お医者様の診断結果を聞きにお伺いします。なにか異変があれば、品川署にご報告を」

 そう言って、津島は馬を引いて杉山の屋敷を後にした。


 津島は、翌日の午後、徒歩で杉山の屋敷に出向いた。玄関先に、御付きの者が出て来て、杉山ユキの容態は安定していると伝え聞いた。津島は、怪我を被った方々へは、いずれ事故を起こした荷車の主から賠償金が支払われますと説明し、警視局からの手紙を置いてきた。それから、主治医の構える医院の場所を教えてもらい、診断結果を確かめて事故報告書に記入した。事後処理を品川署が管轄していた為、津島は報告書を提出した後は戸越へ出向くことはなかった。医者の見立てでは、杉山ユキの足の怪我は、全治三週間。中度の捻挫だった。女学校へ通うのに不自由をするだろうが、命に別状はなかった。津軽の実家が疎遠になっている杉山家に自分が近づくことは憚られた。その後、品川地区を巡察で廻っても、戸越の近くで津島は引き返した。

 津島は四月に入ると、ほぼ毎日のように、馬を診療所に返しに行っていた。天野が真砂の下宿を引き払い、居を本所の実家に移していたからだ。診療所では、二月に出産したばかりの千鶴が、赤ん坊の世話に追われている。千鶴は、いつもは紅を引いて、髪を西洋髪にあげていたが、子が生まれてからは、下ろし髪をゆったりと後ろで結んでいた。艶やかな黒髪に真っ白なレースのリボンを結わえて。薄紅の着物を着た千鶴は、まったくの素顔でいつも津島に優しく笑いかける。

「簡単なものしか用意できませんが」

 そう言って、美味しい夕餉を用意して。子供の世話をしながら給仕をしてくれる。津島が箸を進めていると、泣き始めた赤ん坊をあやしながら、少し離れた所で、津島に背中を向けて乳やりをすることもあった。美しい首筋に広げられた襟元からのぞく華奢な肩。その優しい佇まいを見ていると、胸が温かくなった。独りで馬を返しに来た日は、誰にも遠慮することなく恋い慕う人をじっと見つめることが出来た。だが、斎藤が一緒の時は、一緒に子供を抱きかかえ微笑み合う夫婦の姿を目にすることになった。斎藤は乳やりをする千鶴の様子を傍に覗き込みに行き、千鶴の髪をそっと肩から背中にやって、そのまま母子を抱きかかえることもあった。

「ぼうや、とうさまがちゃんと飲んでいるか確かめていますよ」

 そう言ってくすくすと笑う奥さんの声が聞こえてくる。幸せそうな声。夫婦が睦まじく微笑みあう居間で、自分はただの空気のような存在だった。しーんと寂しさが募る。食事を終え、礼を言ってそっと席を立って下宿に帰った。


 四月の中旬過ぎ、津島は虎ノ門署の執務室で受付係から呼び出しを受けた。

「受付に【杉山様】がご面会にお見えになっています」

 受付係は、津島の前に歩いてそう伝えると、受付口に繋がる戸を開けて津島を通した。受付の待合に、杉山ユキが立っていた。津島を見ると、丁寧に頭を下げて挨拶した。

「津島様、ご無沙汰をしております」

 津島も頭を下げて丁寧に挨拶した。ユキは、袴着に髪の後ろを背中に下ろし、前髪と横の髪を結い上げた頭に大きなリボンを結んでいた。大きな風呂敷包を抱えて立っている姿は、女学校の学生らしく、学校帰りに署に立ち寄ったようだった。

「わたくし、助けて頂いたお礼も言わずに。その節は、有難うございました」

 深々と頭を下げて礼を言うユキに、津島は「もう怪我のほうは、よぐなられたのですね」と訊ねた。

「はい、お陰様で」

 そう言ってユキは笑顔になった。「荷車の主から謝罪と賠償金の方は、」と津島が訊ね掛けたら、ユキは「品川署の方からご連絡を受けて、家のものが手配にあたっております」と答えた。

 津島は、頷いたきり何も言う事がないという表情でずっと立っていた。互いに沈黙し、だた立ち尽くすだけ。ユキは、暫く足元の床を見詰めていたが、顔を上げて荷物を抱きしめ直した。

「それでは、津島様」

 そう思い切って呼びかけたユキは、「ごきげんよう」と挨拶した。

 目を合せずに、そのまま頭を下げると、娘は踵を返すように玄関に向かった。津島は見送りに玄関までついて行った。その時、津島は初めて、ユキが御付きの者もなく独りでいることに気づいた。

「虎ノ門は、初めて歩きました。ここから戸越は西でございますね」

 微笑みながら津島にそう訊ねたユキは、太陽を見上げて門に向かって歩き始めた。確かに、戸越はここから西の方面にある。そう思いながらユキが歩いている後ろ姿を見ていると、ユキは門を出た所で、きょろきょろと辺りを見回して、馬車通りにでる道とは逆方向に歩いて行ってしまった。
 津島は、玄関の階段を駆け下りて門の外に走って行った。先を歩くユキを呼び止めて、何処に向かっているのかと訊ねた。ユキは「馬車通りに出ようと思っている」と答えた。

「戸越に向かわれるなら、反対です」

 津島は、懐から地図を出して広げてみせた。ユキは地図を興味深そうに眺めている。津島は今自分たちが立っている場所はここですと虎ノ門署の角を指さすと、外堀り沿いの道をなぞりながら、ここに乗り合い馬車の停留所があると説明した。ユキは、津島が歩く後をついてきた。津島は、道の反対側に渡って、そこから暫く歩いた所にある停車場で立ち止まった。

「ここから乗り合いに乗れば、品川通りに出ます。そこで、荏原村方面の乗り合いに乗りかえれば、戸越に着きます」

 ユキはずっと頷いていた。乗り合い馬車が近づいて来た。ユキは嬉しそうに笑って、津島にお礼を言った。

「ありがとうございます。津島様、乗り合い馬車にわたくし生まれて初めて乗ります」

 津島は驚いた。ユキはそわそわと嬉しそうに馬車が近づくのを待っている。津島は、念のために乗り合いの運賃を用意しているのかと訊ねた。

「一区間、十銭です」

 津島が教えると、ユキは、がま口を鞄から取り出して、中から金貨を取り出して見せた。五円硬貨だけでは、乗り合いでは御釣りが用意できないといって乗車を断られる。津島は、ズボンのポケットから小銭入れを取り出すと、五十銭硬貨をユキに持たせた。ユキは、「津島様、ではこちらを」と云って自分の持っている金貨を差し出す。津島は首を振って受け取らなかった。馬車の入り口が開いた、乗り込むユキを不安に思った津島は自分も一緒に乗り込んだ。ユキは驚いていたが、津島が戸越まで送って行きますと云うと、安堵したような表情になった。

 二人で乗り合いの一番後ろの席に座った。ユキは乗り合いに乗り込む人々や、窓の外を眺めては嬉しそうに微笑んでいた。東京に来て、初めて独りで町を歩いた。そう言って、嬉しそうに風呂敷包を抱えて笑っている。津島は、ユキが無謀過ぎると思った。ユキは、女学校へは人力を出してもらえるのですが、それ以外の道行きはなかなか覚える機会がございませんと残念そうに言った。

「津島様も切絵図をお持ちなのですね」

 ユキは戸越の藩屋敷周りの切絵図を鞄から取り出した。津島は図を確かめたが、描かれた時期からもう十年は過ぎている。区画も建物も様変わりしていて切絵図としては機能していなかった。津島は、これでは道に迷われても仕方がありませんと云った。津島は自分の切絵図をみせながら、

「これは、わたしが書き込みをしたものです。多少見にくいですが、ほぼ目印になる建物や通りはわかるようになっています」

 ユキは感心して眺めていた。

「それにしても、東京は毎日が縁日のようでございます」

 ユキは人出の多さに、圧倒されてしまうと笑っている。目に入るものが多すぎて、つい道を間違えてしまう。角に立つたびにどっちに行けばよいのかわからず、足がすくんでしまってと溜息をついた。

 無理もない。自分が初めて上京した時は、まだ東京はのんびりとしていた。区画整理がここ数年で進み、街はその風景ごと変わってきている。馬車や人力が行き交い、道を歩くにも余所見はしていられない。故郷の津軽に比べると帝都の雑踏は確かに「毎日が縁日」であるかのように見えるだろう。

 間もなく乗り合い馬車は品川通りに着いた。津島は馬車を降りると、今度は道の反対側の角を曲がってもう一つの乗り合いの停留所に歩いて行った。乗り換えの馬車は直ぐに来た。ユキは手慣れた様子で馬車に乗り込んだ。戸越通りには直ぐに着いた。二人で六銭を払って馬車を降りると、津島は通りを杉山の屋敷まで歩いてユキを送って行った。葉桜の下を歩きながら、ユキは津島に話しかけた。

 唐木橋の事故の日は、桜が咲き始めていて。

「津軽を思い出していました。大川の河岸に咲く桜に似て」

 怪我をいたしましたのは、わたくしが悪いのです。
 河岸に咲いていた桜に見とれて、よそ見をして歩いておりました。

 津島は頷いた。こんなにも沢山の事を話す娘なのだなと思った。桜の木を見上げる横顔には、木洩れ日がさしている。津軽で会った頃の印象とは違って見えた。ユキは、自分の妹より確か年齢では一つ下だったな、そんなことを考えながら歩いていると、道の先に杉山の屋敷が見えて来た、玄関にユキの御付きの女がきょろきょろとしながら立っていて、主人の姿を見つけると、「お嬢様」と叫んで駆け寄って来た。

「一体、どこに行かれていたのですか」
「戻って来た人力が空っぽで、わたくしは生きた心地がしませんでした」

 捲し立てるように起こっている御付きの者に、ユキは謝ると、津島に屋敷に上がってもらうように頼んできた。津島は署に急いで戻る必要があるからと断った。ユキは、「津島様、お借りしたお金、急ぎ用意します」と云って、玄関の中に入って行った。

 津島は御付きの者に、お金のことはいいですと断って、急いで署に戻らなければならないのでと云って走って去った。馬車を乗り継ぎ、なんとか午後の巡察の時間には虎ノ門署に戻ることが出来た。



*******

隠密捜査(表語り)

明治十一年皐月

 戸越村三番地。広大な土地を所有する旧弘前藩中屋敷。ここが【杉山ユキ】の住まいだった。斎藤は区画整理資料の写しから、世帯主が【杉山直成】であることを調べた。弘前藩杉山家は歴代家老を担う名家。天野が虎ノ門署に現れた女学生を「津軽のお姫様」だと云っているのは大方そうであろう。

 斎藤は津島二等巡査を呼び出して、数日前の無断外出について尋問した。津島は、三月に起きた唐木橋での事故について説明し、事故の被害者が面会に来て、道が不案内だった為戸越村の自宅まで送り届けた事を報告した。

「ちゃんと許可をとって外出すべきでした。すみません」

 改めて頭を下げて謝罪する津島に斎藤は、事故の被害者が面会に来た用向きを尋ねた。津島は「それは、」と云ったきり言葉に詰まったように黙ってしまった。

「挨拶をしていなかったと。事故の日に、自宅まで送り届けた礼を言いに面会に」

 とつとつと話す津島を斎藤はじっと見つめていた。津島が特に何かを隠し立てしている様子はない。斎藤は、「そうか」と言って、唐木橋の事故の被害者への賠償はどうなっていると訊ねた。津島は、示談賠償は品川署が処理をしている。品川署に確認をしなければ判らないと答えた。斎藤は、「それならばよい」と応えて、それ以上は追及せずに津島を下がらせた。

 斎藤は鍛冶橋を訪れた際、北品川で起きた事故についての示談調書の写しを閲覧した。事故の被害者の中に【杉山ユキ】の名があった。事故で負った怪我は、「中度の捻挫」「全治三週間」と記録されており、被害への賠償手続中の項目に丸がついていた。津島が助けた被害者が、怪我が治ってから直接礼を言いに虎ノ門署に面会に来た。その通りなのだろうと思った。

 斎藤が津島の供述の裏を取っている間、天野は騎馬巡察をするついでに戸越村に出向いていた。三番地に建つ大きな屋敷は、この界隈で「津軽さま」と呼ばれている旧弘前藩津軽家の屋敷だった。この奥にある大きな集落、荏原村まで周りには広大な田畑が広がっている。これらの地所も全て「津軽さま」所有であると、畑作業をする百姓からの聞き込みで判った。

「とてつもなく広れえ……な」

 天野は畑のあぜ道を馬で器用に歩きながら周りを眺めた。杉山家は藩主ではないが、家老を務めた名家。ご一新後は青森県大参事を務めている。戸越村の「津軽さま」は、杉山家本家、当主は【杉山直成】、東京府県会の議長を務めていた。

「名士どころか、【津軽さま】のお姫様だ」

 天野は、津島に面会しに現れた美人の女学生が【津軽の姫】であることは特定した。津島の元許嫁だった譜代家老の娘と同一人物なのかは判らない。だが、事故の被害者が【津軽さま】の縁者であることと、津島は無関係ではないだろう。津島家も地元では名士である。

 杉山ユキが虎ノ門署に現れたあの日、天野が津島に「えれえ美人を追いかけていたな」と鎌をかけてみたが、津島は黙ったままだった。三等巡査の矢代が「あんな上玉が署に現れるなんて」と騒いでいると、津島は気分を害したらしく部屋を出て行った。巡察前に便所で、「あの客人は誰だ?」ともう一度訊くと、「唐木橋の事故の被害者だと」そっけなく答えて、津島は外に出て行った。

 天野が巡察から戻って夕方の報告後、斎藤の執務室に入って行った。

「煙」

 会釈をしたままぼそっと呼びかけた天野に、

「浅間」

 と斎藤は答えた。

「雪」

 目を細めながら天野が呼びかけると、

「富士」

 と斎藤はよく響く声で応えた。

「花」

「吉野」

 と天野と交互にやり取りをした後、漸く天野は斎藤の傍に近づいて、「親方、」と声をかけた。

「この合言葉は、毎回やらねばならぬのか?」

 斎藤は呆れながら天野に訊ねた。天野は、「はい」と答えた。斎藤は溜息をついて椅子の背もたれに背中をつけると、天野が戸越村三番地周辺を確認してきたと話し始めた。

「杉山直成府会議長の娘。【津軽さまの姫さん】です」

 とんでもねえ広さの地所で、あの家のことを津島は知らねえ筈はないと思いますと答えた。津軽の地元でも大参事ですからね。そう言って天野は、「ただの事故の被害者ではございません」と宣言した。

「津軽のお姫さんだから、親身になって助けたってのが理由でしょ」

 天野は斎藤が思っている通りのことを話した。斎藤からは、直接津島から北品川の事故について報告があった事。事故被害の示談調書も調べたが特に津島は隠し立てしている様子はないと語った。

「事故の被害については示談進行中だ」
「同郷のよしみで、津軽は助けたのだろう。被害者が礼を言いに来た。帰りに見送った」

 それだけのことだ、と斎藤は結論付けた。

「それじゃあ、私はあの姫さんが、津島の【許嫁】かどうか洗ってみます」

 天野はそう言うとにっこりと笑った。

「まだこれを続けるのか?」

 斎藤は、もう捜査はよいであろうと打ち切るつもりでいると云ったが、天野は「何を言ってるんでございます、親方」と怒り出した。

「これからでございます。本題は」

 天野は斎藤の机に両手をついて、「あの姫さんが【許嫁】だとしたら、津島はとんでもねえことになります。実家の親兄弟に勘当されかけたんですから」


 斎藤は勢いよく捲し立てる天野の顔をじっと見つめていた。勘当されかけた。一体なんのことだ。

「津島の奴、相手の姫さんを気に入らねえって断って、お袋さんと兄貴が怒髪天だったって」

 どっちにしろ、津島が袖にした女があの姫さんなら、どうすんだって話でございますよ。

 斎藤は「そうか」と頷いた。天野は「そうでございましょ?」と言って説得が叶ったことにほっとしたようだった。そして、合言葉の【雪と富士】は【ユキ】と重なって混乱するから割愛しましょうと提案した。合言葉自体を割愛すればどうだと斎藤が提案したら、天野は「それは駄目でございます」とキッパリと断って部屋を出て行った。



******

隠密捜査(裏語り)

明治十一年皐月

 五月に入って直ぐの頃のこと。

 津島は、巡察に出る時間以外を資料編纂作業に充てている。夏に廃止される大区小区制に向けて、昔の郡村町制度の復活に伴い区画整理と地図作成資料が急務だった。警視局の事務方だけでは、作業が間に合わず、巡察任務の合間に事務作業を行うことが奨励されていた。この作業には特別な手当と鍛冶橋からの表彰点がつく、斎藤も作業に勤しむ部下と共にこの業務に熱心にあたっていた。
 津島は、地図作成に夢中になっていた。自分が巡察で調べてきた地域を旧来の地図や切絵図と照らし合わせて改訂をしていく。出来上がった地図に薄い半紙を重ねて写しを作り、紙を貼り合わせて自分の巡察用に作った。この時、津島は品川地区周辺と帝都全体の地図の写しも作った。これがあれば、道に迷うことはない。津島は、いつか杉山ユキが持っていた旧い切絵図を思い出していた。新しい地図。だが、これを杉山ユキに見せる機会はなかった。津島は地図を畳んだものを自分の執務席の引き出しに仕舞ったまま、続けて区画整理の資料作りに取り掛かった。
 仕事帰りに何度か天野と部下の巡査に銀座に呑みに行こうと誘われた。馬を診療所に連れて行く日は断ったが、あまりにしつこく誘われるので付き合った。麦酒を出す店で、天野は勢いよく酒を飲むと、「津島、あれから別嬪の被害者に会ってるのか?」と大声で皆の前で質問された。その途端、三等巡査の矢代が「あの美人女学生ですか」と騒ぎ始めた。どこまでも詮索好きな奴らだ。津島は呆れた。何を訊かれても答えるつもりはなかった。

「そんじゃあ、俺はこの辺で」

 さんざん大声で騒いだ天野は、急に席を立つと上着を着直して一円紙幣をひらひらと振ってから机の上に置いて、「恋女房が待ってるから、帰る」と嬉しそうに笑って席を離れた。津島も金をテーブルに置いて一緒に席を立って天野と一緒に店を出た。
 本所に向かう馬車に乗る天野とは道の角で別れた。天野は別れ際に、「お前は、あれか。破談になった故郷の縁談のあと、そういった話はねえのか?」と突然津島に訊ねた。津島は首を横に振った。

「そうか」
「嫁を貰うのはいいぞ」

 天野は停留所に向かいながら、津島に笑いかけた。津島は「ああ」と微笑みながら応えた。天野は道を暫く行ってから、もう一度振り返った。通りの向こうに渡った津島の背中は、独りぽつんとしていた。



****


 受付から面会に「杉山様」が見えていると呼び出されたのは、それから数日後のことだった。

 津島は受付に立つ杉山ユキの後ろ姿を見た。女学校の袴着に今日は髪を編んだものを丸く垂らして根本を白いレースのリボンで止めてある。その髪型は、診療所の主任の奥さんとよく似ていた。振り返ったユキは頭を深々と下げて挨拶した。津島も同じように挨拶を返すと、ユキは笑顔で、

「先日はどうも有難うございました」

 と再び頭を下げて礼を述べると、懐から懐紙の包みを取り出し津島に差し出した。

「お借りしていた馬車代です。この前はお急ぎでお帰りになられたと。お返しするのが遅くなって申し訳ございません」

 津島は「いいえ」と言って首を横に振った。ユキは微笑みながら、津島の顔を見上げていた。以前は、決して目線を上にあげることがなかった。真っ直ぐ見詰めてくる瞳は、窓からの光線で薄い茶色に光り、その双眸を覆う睫毛も光りを反射している。明るい笑顔を津島は正面から初めて見た。それはどこか活発そうで、何かを話しかけられるような気がした津島は、遠慮なく笑い返した。

「わたくし、あれから二度、乗り合いに乗ってみました。品川から新橋まで」

 嬉しそうに報告するユキに、津島は頷いて応えた。「独りで」と付け足すように言うユキは、幼子が自分のしていることを褒めてもらいたくて報告するようで、津島は思わず頬が綻んだ。

「それは随分冒険ばされましたね」

 自分でもするするとこんな気の利いた言葉が出てくるのが不思議だった。天野が人と上手く話すのをいつも羨ましく思っていたが、ユキを前にすると自然とそんな言葉が出て来た。

「はい」

 嬉しそうに素直に返事をするユキは、年相応の少女らしい雰囲気だった。津島はふと、地図の写しのことを思い出した。ユキに待合の椅子に掛けて待っていてくださいと頼むと、急いで執務席に向かって走っていった。受付から廊下に出ると、天野と巡査がわらわらと蜘蛛の子を散らしたように廊下を走っていく後ろ姿が見えた。津島は自分の机の引き出しから地図の写しを持って再び受付に向かい、ユキに新しい地図を作ったからと言って渡した。ユキはその場で地図を広げて見て、殊の外喜んだ。津島がどうぞお持ち帰りくださいと云うと、何度も「大切に致します」と言って礼を言った。
 虎ノ門署の玄関前には、御付きの者と人力が待っていた。津島は御付きの者にも会釈をして、ユキを見送った。ユキは日傘を差して「津島様、ではごきげんよう」と人力の上から会釈をした。日傘の持ち手には、髪と同じように白いレースのリボンが結んである。その様子は、どこか懐かしさを感じさせるもので、津島は主任の奥さんがいつもレースのリボンを好んで結んでいた事を思い出した。ユキは門の外で見送る津島に、人力から顔を出してもう一度会釈した。津島も会釈を返した。
 津島が署の玄関の階段を上がると、廊下の窓の前で天野達がたむろしていた。冷やかすような視線を感じたが、無視して執務席に戻った。天野がやって来て、「あの女学生、何の用向きだって?」と訊かれた。天野は暇な奴だ。矢代も、そのほかの奴らもそうだ。津島は好奇な目線で自分を覗き込む天野やほかの同僚を不愉快に感じてずっと無視しつづけた。

「おい、なんで何度もお前に会いに来てんだ?あの被害者は」

 机の上の物差しで、天野は脇腹を突いてくる。津島は耐えきれなかった。天野の手から物差しを取り上げて思い切り睨みつけた。

「道案内をしたことの礼に来ただけだ」

 天野は「ふうーん。それにしても、熱心なもんだな。あれは、知り合いか?」と訊きながら、津島の机に腰かけた。津島は、机上に広げた資料を尻で踏みつけられるのが嫌だったので、天野を押しのけるようにして机の上を片付けた。天野は、「なんだよ、随分とご機嫌斜めだな」と絡み始めた。津島は何も答えず、地図の改訂作業に再び取り掛かった。天野はその様子を暫く眺めていたが、諦めたように席を離れて部屋から出て行った。津島はほっとした。天野たちに詮索されるのは難儀だが、今日、杉山ユキに地図を手渡すことが出来て良かった。あれがあれば、路頭に迷うことはないだろう。都会の雑踏でも、人の波にのまれて、足がすくむことはなくなる。

 津島はユキが地図を片手に快活に道を歩く姿を想像した。




******

切絵図騒動(表語り)

明治十一年皐月

 五月も末の頃、虎ノ門署前に大きな馬車が乗り入れて来た。川路大警視専用の箱馬車並みに重厚な造りで、御者の身なりも良かった。足台を差し出した御者が馬車の戸を開けると、中からステッキをもった大柄な洋装の紳士が降り立った。顔が厳めしく、大きな立派なカイザル髭を右手の先で触ると、紳士は大股でずかずかと署の階段を上がった。

「御免、ここに津島淳之介二等巡査はいるか」

 受付で大きな声で尋ねる男に、受付係は名前を伺いたいと申し伝えた。

「杉山だ。杉山直成。今日はここに勤める津島という者に話があって来た」

 尊大に構えて捲し立てる面会者に、受付係は慌てながら、津島巡査は巡察中で戻りは午後だと伝えると、代わりの者をと大声で呼びつけるので、受付係は田丸警部に対応を頼んだ。

 田丸警部は、受付で杉山の姿を見て驚いた。杉山直成。その昔、小野派一刀流の剣術道場で交流試合をした相手だった。杉山は江戸住まいの弘前藩士で、会津に居た田丸は年に一度、大きな交流仕合いで江戸に出向いた時に剣を交えた。江戸の道場を代表する剣豪。その眼光の鋭さから「鷹の杉山」と異名をとっていた。田丸は恐縮した。瓦解前に弘前藩家老格であった雲の上のような存在。そして、剣術にかけても自分は指先で手首を捻られるように太刀打ちできなかった。

 そのような相手である杉山を目の前にして、既に田丸は委縮していた。用件は苦情であることは直ぐに察した。応接室に杉山を案内して、恭しく要件を伺うと答えると、杉山は津島という二等巡査が、娘をたぶらかしておる。けしからんといきなり怒り出した。

「なにもわしが判らぬと思って」
「そいつが新しい切絵図などを渡したばかりに、娘がうろうろと町を歩き回るようになった」

「どこの馬の骨かと思ったら、津島の家の者だというではないか」
「よくものこのこと杉山の家の門をくぐれたものだ」

 田丸警部はずっと杉山の苦情を聞いていたが、まったく状況が把握できない。受付係がそっと持ち寄った杉山の名刺を覗き見て、杉山が現在は府会議長をつとめる議員であることがわかった。この議員の娘に津島は何をしでかしたのだ。田丸は途方に暮れた。田丸はもう一度丁寧に頼み込み、杉山から順を追って事情の聞き取りを行った。

 津島巡査が唐木橋の事故で怪我をした杉山の令嬢ユキを助けた。
 令嬢ユキが津島巡査が渡した地図を持って、独りで出歩くようになった。
 津島家と杉山家は津軽で絶交中。
 津島巡査は令嬢ユキをたぶらかしている。
 津島巡査は令嬢ユキを傷物にした。

 唐木橋の事故に津島が巡察中で関わったのは田丸警部も把握していた。だが、その後事後処理は品川の管轄で、虎ノ門署は一切関わっていない。目の前の杉山議員が憤る津島の素行については、田丸は何のことだかさっぱりわからなかった。とりあえず、巡察中の津島に急ぎ署に戻るように伝令を送った。だが、巡察先を特定するだけでも小一時間はかかるだろう。田丸は、津島が戻るまでの間、差支えなければ、もう少し事情を詳しく教えて貰いたいと杉山に申し出た。その時だった、受付係が部屋に入ってきて「津島巡査の代わりに藤田警部補がお戻りに」と耳打ちしてきた。田丸は藁にもすがる想いで斎藤を部屋に連れて来るよう受付係に頼んだ。

 斎藤は部屋に入ると、応接椅子に座る杉山に丁寧に頭を下げて自己紹介をした。田丸から事情を伝え聞いた斎藤は、天野から聞いていた事柄通り、目の前の杉山直成は、津島が以前縁談を断った杉山家の者だということが解った。

「わたしが、津島二等巡査の行動について責任を持っております。お話を詳しくお伺い願えますでしょうか」

 斎藤が静かにそう云うと、田丸はほっとしたような表情で頷いた。ユキは、津軽の弟夫婦から養女にした大切な娘。華族との縁談を控えている。津島という巡査に新しい地図を貰ったと言って独り歩きを始めたのがここひと月で起きた事。娘に問い詰めると、その巡査は以前縁談を反故にされた津軽の津島だというではないか。冗談ではない。杉山の家に泥を塗る様な真似をしておきながら、その上娘をたぶらかすなど。

斎藤は鼻息荒く捲し立てる目の前の杉山議員の話を聞いて、まさにこれが、天野が本題だと云っていたことだと思い知った。


******


「杉山さん、そちらの事情はお伺いしました。津島の責任者として、今回の事柄について明確に判っていることは、津島がお嬢さんを助けた事です」

 斎藤は、背筋を伸ばしたまま静かに話始めた。唐木橋の事故の状況。怪我人だったお嬢さんを家に送り届けた事。品川署が事後処理を管轄するため、事故報告書を提出するために杉山家のかかりつけ医に診断書を取りに行ったこと。

「お嬢さんが、そのひと月後に直接訪問されたのは、津島に家に送り届けて貰った礼を言うためだったと聞いています」

 斎藤は、お嬢さんの来署日はこちらで記録にあるので調べればわかると説明した。その際、お嬢さんが戸越のご自宅に戻るのに道が不案内だった為、津島は送り届けています。士族、平民、華族を問わず、国民が道に迷っていれば案内し助けるのが巡査の役目。

「津島は任務を全うしています。なんら、非難を受けることではございません」

 斎藤はしっかりと杉山の目を見詰めてそう云うと。杉山は目に力を込めて睨み返した。

「娘に押し付けた【切絵図】のことはどうしてくれる」

 怒りを込めた声で相手に詰め寄られた。斎藤は津島が熱心に地図作成をしていることを知っていた。丁寧で美しい製図を描き手跡もわかりやすいと評判で、区画整理資料の編纂業務で虎ノ門署の表彰点が上がり続けているのは、津島の力に寄るところが多い。杉山が迷惑だと言っている【切絵図】も地図の出来としてはとても良いもので、杉山ユキがそれを頼りに独りで町に出掛けることも叶うのだろう。

「道案内としてお渡しした地図を、お嬢様がどう利用されるかは、」

 斎藤はここで言葉が詰まった。責任がないとは言ってはおれぬ。年頃の娘が独りで出歩くことを禁じる家は杉山の家だけではないだろう。帝都は物騒だ。親が心配するのはわかる。その時だった、部屋の戸を叩く音がした。

「津島二等巡査です」

 津島の声が聞こえた。田丸が「入れ」と声を掛けると、津島が入って来た。

「ただいま巡察から戻りました。面会者がお見えになっていると」

 津島がそう言ったところで、おもむろに杉山直成が立ち上がった。

 銀色の光が宙を舞った。斎藤が咄嗟に背後から杉山が振り上げた刀を持った手首を掴んで背後にねじり上げた。

「貴様、そこに直れ」

 両腕を掴まれた杉山は戸口で怯むように下がった津島を睨みつけた。

「よくも娘をたぶらかしおって。津島の分際で」

 杉山議員は鼻息荒く、そう言い放つと、斎藤が押さえつける腕を振り切ろうとしている。

「放せ」

 杉山は斎藤の右手を振り切った瞬間、再び津島に斬りかかろうとした。その瞬間、斎藤が津島の腰刀を抜いて、そのまま振り返るように杉山に刃を向けた。真剣の切っ先は、杉山の眉間の先で静止している。杉山は息を止めたまま振り上げた刀をとめて微動だにしない。

「お収めください」

 斎藤は鋭く光る瞳で杉山に静かに言い渡した。杉山の喉がゆっくりと唾をのみこむ動きをしたのが見えた。斎藤の切っ先は、寸分も動くことなく、いつでも一撃を加えることが可能だった。杉山は仕込み刀を持った腕を降ろすと、ステッキの鞘に仕舞った。津島は目の前に起きていることが何なのか解らない。だが、斎藤が自分の前で刀をおろすと後ろ手を伸ばしたので、自分の腰の鞘を抜いて渡した。斎藤は刀を仕舞うと。振り返り、津島に前に出るように命令した。

「こちらは、【杉山ユキ】さんのご尊父、杉山直成さんだ」

「津島二等巡査でございます」

 津島は頭を下げた。心臓が喉から飛び出してきそうだった。それより今しがた斬りつけられた事が現実に起きているとは思えない。これは夢だろうか。悪い夢をみている。そう思いたい。

 応接椅子の傍で、おどおどとしている田丸警部補が「杉山様、どうかご着席願います」と頭を下げていた。杉山は睨みつけるように津島を見下ろしていたが、ゆっくりと踵を返して応接椅子に腰かけた。

「津島、杉山さんは、お前がお嬢さんをたぶらかしておると言っておられる」
「杉山ユキさんに【切絵図】を渡したのか?」と斎藤は訊ねた。津島は、「はい、渡しました」と答えた。

「余計な事をしおって。貴様のせいで、娘は家内の目を盗んで屋敷から抜け出すようになった」

 杉山は大声で津島を叱責した。津島は驚いたような表情になった。ずっと俯いて項垂れたまま何も答えられないでいる。

「貴様は津軽で縁談を断ったそうだな。お前の父親は物分かりのいい男だった。自分の身分を弁えておった。津軽の分家でユキの縁談を進めているときいて、東京で勤めておる者ならとわしは反対せんかった」

 津島は顔の色を失くしていた。実家の兄や母親が【面目が立たない】と言って怒っていたことが今更身に染みる。

「婚姻の約束を反故にされたと聞いて、ユキを養女にすることに決めた。津軽で恥を忍んで生きるぐらいであれば」
「ユキは女学校にも通っておる。華族との縁談も決まっておる」

 貴様のような余計な虫が付く事が、わしが一番恐れていたことだ。津島の家の者が、何の恨みがあってそのような……。

 杉山は無念だという風に膝の上で両手の拳を握りしめた。津島は、何も言葉が浮かんでこない。ユキに縁談が決まっている。津島の家の分際で。確かに、巡査の任務として道案内はしても、地図を渡した事は行き過ぎだった。それを頼りに、独り歩きをすることを家族は心配もするだろう。それもユキのような家では……。

 津島は自分の行動が浅はかだったと反省した。同時に、快活に笑い町を歩くユキの姿が忘れられない……。


 ユキには外出を禁じておる。
 女学校も婚姻の準備で通う事もない。
 これ以上娘をたぶらかすなら
 職権乱用で貴様を太政官に訴える

 杉山は息巻いていた。津島は小さくなったまま立ち尽くしていた。斎藤は、ずっと黙ったまま杉山の前に座っていたが、

「お言葉を返すようですが、津島はお嬢さんを誑かそうなどとは」
「さっきお伝えした通り、この者は巡査の任務を全うしたまで。職権乱用で訴えられるのは意外千万。恨むらくは、道案内の地図を完全に否定されていることです」

「我々、警視局は夏の区画制度の改正に全力を注いでいます。制度変更で国民が混乱しないように、地図作りはその為のものです」

「杉山さんもそれはご存知の筈」

 斎藤の深い碧色の瞳の光は真っすぐと杉山を射貫くように向けられていた。田丸はその隣でおどおどと杉山の顔を見上げては、雄弁な斎藤の意向も十分過ぎるほど理解が出来て、一緒に頷くしかない。

 杉山は暫く考えていたが、「では、二度と娘に近づくな」と津島を睨みつけた。津島は項垂れたままだった。杉山は立ち上がり、斎藤と田丸に向かって一礼した。そして、ステッキを掴むとずかずかと部屋から出て行った。田丸が追いかけて玄関先まで見送ったが、最後まで杉山は不機嫌な表情のままだった。

 部屋に残された津島に斎藤は打刀を持たせた。項垂れたままの津島は、深々と頭を下げた。

「始末書を提出します」

 小さな声で斎藤にそう言う津島は、ずっと床を見詰めたままだった。斎藤は、「その必要はない」とだけ答えた。一点だけ、と斎藤は断って津島に確認した。

「先方の娘を、独り歩きさせる目的で地図を渡したのか?」

 津島は首を横に振った。

「ユキさんが持っていた品川周辺の切絵図は、瓦解の頃のものでした。新しい地図があると、道に迷わない」

「板屋野とここは違います。帝都の雑踏で、足がすぐんで動けなくなるのはわたしも経験がある」

「そうか。わかった」と斎藤は頷いた。「道案内で地図を渡したことが仇になったのは残念だ」と呟くと、斎藤は津島の肩に手を置いた。

「このことは俺から署長や鍛冶橋に報告をしておく」

 そう言う斎藤に、津島は「始末書を書いて提出します。お手を煩わせてすみません」と再び謝った。




******

切絵図騒動(裏語り)

明治十一年皐月

 虎ノ門署の津島宛に文が届いたのは五月の中旬頃のこと。

 差出人は「杉山ユキ」と書かれていた。津島は執務席で誰も周りに居ないのを確かめてから、封を開いた。文には【新改訂地図】へのお礼が書かれてあった。女学校がない日に、品川の海まで行ってみたこと。津軽の海と違って海原は穏やかで凪いでいたこと。銀座にある時計台を見に行ってみたい。煉瓦の通りは女学校のお友達が西洋のようだと言っていた。

 津島様は銀座もご巡察されるのですか

 追伸のように質問が書いてあった。津島は、返信を書いた。渡した地図が道案内にお役にたてているなら嬉しい。自分は銀座を巡察している。時計台なら同じ京屋の時計塔が神田にもある。銀座の時計台塔も見事だが、神田の時計塔の方がひと回り大きくて美しい。乗り合い馬車から良く見えると書いた。差出人には、自分の名前を書かずに「虎ノ門署」とだけ書いておいた。
 杉山ユキからの返信は直ぐに届いた。神田の時計塔を見られる乗り合い馬車は何処で乗ることができるのでしょうか。女学校が休みで、竹橋に行くこともなくなった。品川通りに咲く躑躅が見事な事。花を摘んで押し花にした事。忙しい津島を気遣う言葉もしたためられていた。
 津島は返信を書いた。神田の時計塔には一度御徒町まで出なければならない。馬車の乗り換えが三回必要。私が巡察に行くときにご案内しましょう。津島は自分の巡察予定表を調べて、翌週の月曜の午前中に、品川通りの停留所でユキと待ち合わせをしましょうと書いて送った。
 ユキからの返信は、桃色の便せんに躑躅の花の押し花が挟んであった。「津島様、悦んで。楽しみにいたし候。由季」と書かれてあった。毎回、ユキの便せんから優しい甘い香の薫りが漂っている。津島は、手紙を執務席の引き出しには仕舞わず下宿に持ち帰った。



 五月十六日の月曜。津島は品川通りの停車場で杉山ユキと待ち合わせて、そのまま馬車を乗り継ぎ神田に向かった。京屋の時計塔を眺めた後、銀座の煉瓦街に移動した。ユキは西洋髪を結い、淡い黄色の袷を着ていた。糸とりどりの葦の模様が描かれた着物は華やかで、桃色の色草履と合わせた籐籠の巾着を持っていた。白粉をはたいた顔は、一層色白で薄く紅をひいた口元は明るい桃色をしていた。日差しを避けるように右手に持った日傘を傾けては辺りをきょろきょろと見物して喜んだ。

 少し昼には早かったが、以前斎藤に誘われて行った藪蕎麦の暖簾を、ユキを伴ってくぐった。ユキは生まれて初めて蕎麦屋に入ったと店を見回して喜んでいた。運ばれてきた盛り蕎麦を食べながら、「美味でございます」と大喜びしている。その内に店は昼の客で満席になった。津島は通りを出ると、「巡察まであと一時間あります」と言って、煉瓦街の反対側に歩いていって、西洋茶屋へ入った。土方に連れられて入った時と同じように、二階の部屋に案内をしてもらって、二人で西洋茶を飲んだ。

「ここは、西洋のようでございます」
「わたくし、西洋には言った事がございません。でもここはそのような場所だとおもいます」

 目をくるくるとさせて周りを感心して眺めている様子は、年相応な様子で微笑ましい。津島は窓の外を眺めながら、この辺りは一番西洋らしい場所かもしれませんと答えた。お茶を飲み終わった後は、二人で銀座の通りを歩いてから乗り合いで品川通りに向かった。戸越往きの乗り合いにユキが乗ったのを見届けてから、津島は巡察を始めた。その日は夜間巡察もあった。長い一日だったが、充実した日だった。

 それから二日後、再びユキから虎ノ門署に礼状が届いた。時計塔を見ることが出来て嬉しかった喜喜。初めて蕎麦屋に入った事。西洋茶を飲んだこと。嬉嬉。とても楽しい時間だったと書いてあった。暫くは外には出られない。憂憂。また銀座の時計塔を見に行けますように。祈祈。由季

 嬉嬉。憂憂。祈祈。このような言葉を津島は初めて知った。妹の手紙にはこのような言葉は書かれていたことがなかった。女学生の文の書き方なのか。でも文字や行間からユキが喜んだり、心配したり、祈っている様子がわかる。津島は微笑みながら文を畳んで懐にしまった。気づくと、自分の背後に天野が立っていた。天野は、無表情を装っているが何かを探る様な目線を向けて来ているようにも見えた。相変わらず、詮索好きな奴だ。天野は、「お前、なにをニヤニヤしてんだ。ニヤニヤ病にでもかかったか?」と顔を覗き込んできた。

 煩煩

 頭にこの二文字が浮かんだ。ふっと自分でも可笑しくて笑ってしまった。

「なにが可笑しいんだ?おい、」

 天野は自分の顔を見て笑った津島が気に入らないようだった。「なにもない」と答えた津島に。思い出し笑いか?気色の悪い奴だな。おまえ、気持ち悪いぞ、とずっと悪態をつき続けた。津島は天野の言いたいままにさせておいた。


 翌日の夕方、久しぶりに診療所に雲雀を返しに行った。千鶴は、庭で植木の水やりをしていた。久しぶりに会った千鶴は、髪をいつもの下ろし髪ではなく、後ろに一つにまとめた所から編んだ髪で、輪に作った根本にリボンを停めていた。薄紅の単衣に白い前掛けをかけて、津島が雲雀を引いて厩に入ると、「ご苦労様です」と声を掛けて来た。

 いつも通りに風呂と夕餉を用意した千鶴は、「今日は暑いですね」と言って、お膳の前で食事をする津島に団扇をやさしく煽いで風を送った。津島は、千鶴の横顔をみながら、

「奥さん、奥さんの結っている髪、名前はあるのですか」

 と訊ねてみた。千鶴は「はい」と答えた。

「【まがれいと】っていうんです」

 まがれいと。えげれす髪です。そういって髪に手をやって後れ毛を直しながら答えた。「まがれいと、ですか」と云ったまま、黙ってまた箸を進めている津島に、千鶴は微笑みかけた。津島が自分から話しかけてくることは珍しい。いつも物静かに、食事を済ませて挨拶をして帰って行く。千鶴は、津島が下宿に仲良しだった天野が居ない事を寂しく思っていないかと心配だった。斎藤にそれを言っても、斎藤は「あいつらは署では毎日顔を合わせておる」と答えたきり。

 津島も天野も区画整理資料の準備に忙しくしておる。

 そう聞いて千鶴は安心した。津島にまた今度ゆっくりと天野さんと夕餉を食べに来てくださいと声を掛けた。津島は微笑みながら「はい」と頷いて帰って行った。


 五月の終わりに、津島は、朝から騎馬巡察をしていた。芝口から銀座、築地と周り、午後はそのまま上野と神田も廻る。略式の制服でも馬で駆けていると汗ばむぐらいの陽気だった。道行く人々も、もう単衣や洋装の半袖姿。津島は、神田で道を歩く女学生の姿を見かけた。

 まがれいとにリボン

 津島は杉山ユキを思い出した。そう言えば、暫く学校が休みだと文に書いてあった。外出もできないとも。ちょうど京屋の時計塔の前を通っていた。津島はまたユキが眺めに行きたいと言っていたのは、銀座の時計塔だったかと文に書いてあった言葉を思い出しながら馬を進めた。

 署に戻ったのは夕方近く。

 受付で、面会者が応接室でまっている。
 田丸警部と藤田警部補が応対されている。
 早く、急いで向かわれるよう

 そうせかされて、応接室に向かった。
 部屋に入った直後だった、いきなり洋装の男に刀で斬りかかられた。


 男の名は杉山直成。ユキの養父であることが、その直後に判明した。


 二度と娘に近づくな


 突き刺さるようなその言葉に自分の足元から何もかもが崩れていくような

 そんな感覚が走っていた



つづく

→次話 明暁に向かいて その40




(2019.03.29)

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