当世巡査気質
明暁に向かいて その40
追跡(表語り)
明治十一年五月
切絵図騒動の後、津島は署長から自宅謹慎を命じられた。
府会議長の杉山直成は、鍛冶橋に津島淳之介二等巡査の素行とそれを指導する虎ノ門署への懲罰を要求した。事がこじれて来たことを感じた斎藤は、津島の自宅謹慎に強く反対したが、署長に「三日間だけだ」と説得されて仕方なく条件をのんだ。
署内で隠し立てをすることも出来なくなっていた。斎藤は署内の巡査を集めて、事の経緯を説明した。斎藤以上に憤っていたのは天野だった。
「じゃあ、なんですか。俺ら巡査が道案内や困った人を助けちゃいけねえってことですか」
「納得がいかない。津島は間違った事はしていない」と天野は同僚の巡査たちと騒ぎ始めた。斎藤は、任務は今まで通り何も変わらないと断言した。そして、津島は三日後に復帰するからと説明した。巡査たちは、暫く不満を口にしていたが集会が解かれて、それぞれの任務に戻って行った。
その夕方、斎藤は天野と診療所に戻った。天野は、そのままの足で真砂に立ち寄り津島の様子を見に行くと言って帰ってしまった。
三日後の金曜日、謹慎が解かれた津島は、出勤して一番に署長室に出向き辞表を提出した。辞意を問いただされた津島は、己に職権乱用なところがあったと謝罪した。
「巡査である自分は、職務で作った地図ば勝手に人に渡してしまいました」
「これ以上署にご迷惑ば掛げる訳にはいきません」
ずっと頭を下げ続ける津島に、署長は辞表を一応は預かるとだけ答え、通常のように任務に就くよう指示した。津島は、同僚と口をきかずに黙々と仕事をこなした。署長室に田丸警部と一緒に呼び出された斎藤は、津島が辞表を提出したと知らされた。
「この件は、保留だ」
署長は斎藤と田丸にそう説明した。杉山直成が太政官に訴えを起こした事を鍛冶橋は目下確認中。今月起きた大久保内務卿閣下の暗殺犯の捜査に鍛冶橋は掛かり切りだった。川路大警視が不在の為、津島二等巡査の処遇については、暫く保留になるという事だった。川路大警視は、清水坂の事件をきっかけに、再び士族反乱の波及が起きるのを防ぐべく、連日陸軍司令官、近衛師団長との評議を重ねていた。斎藤はこの事件について、捜査には一切関わっておらず、鍛冶橋からの定期的呼び出しも事件以来中止にされたまま月は六月に変わろうとしていた。
杉山直成が再び虎ノ門署に乗り込んで来たのは、梅雨の嵐の朝のこと。
「津島はどこだ」
大声で叫ぶ杉山の声を聞きつけて、署内にいた田丸警部が受付に駆け付けた時、既に外の廊下には署内で待機中の巡査が団子のようになって詰めかけていた。
「ユキをどこへやった」
物凄い剣幕で田丸警部に詰め寄る杉山の背後から、天野二等巡査が取り押さえようと迫っていた。田丸警部は杉山の背後に立った天野に「控えろ」と眼で合図を送った。田丸は杉山をなんとか応接室に案内して来署の事情を伺うと伝えた。天野の機転で、すぐに青山練兵所に出向いている斎藤と、神田方面に巡察に出ている津島二等巡査に伝令が送られた。斎藤は豪雨の中を署に戻って杉山に対応した。杉山の話では、杉山ユキが出掛け先の樺山邸から帰宅するはずが、戸越の家には戻らず昨日から行方が分からないという。祝賀会場から先に別の馬車に乗ったことまではわかっている。そう言って、杉山は、「津島を出せ。あの者が関わっている事はわかっている」と再び激昂始めた。
雨の中を急ぎ戻って来た津島は、止める天野達の腕を振り切って応接室に向かった。部屋に入ると、斎藤が杉山の手から守るように間に立って、津島に状況の説明がされた。津島は杉山ユキ失踪の知らせに衝撃を受けた。「娘をどこへやった」と詰め寄る杉山を斎藤が抑えるように刀に手を掛けて牽制していた。
「津島、【杉山ユキ】さんの行方に心当たりはあるか?」
斎藤が真っすぐ杉山の目を見詰めたまま、背後の津島に訊ねた。
「ありません」
「直ちに捜索を開始する。集会室に巡査を集めろ」
「はい」
斎藤は背後に津島の返事を聞くと、田丸警部に視線を送って頷きあった。目の前の杉山は厳しい表情のまま斎藤の背後で津島が退室するのを見詰めていた。
「杉山さん、お嬢さんの行方がわからなくなった状況を詳しく御聞かせください。樺山邸から出た馬車。御者の特定をしたい」
「馬車は樺山さんが用意したものだと思っていた。だが、昨日の夜、そのような馬車を用意した覚えはないと先方から連絡があった」
「さっきの者がユキを連れ去ったのはわかっておる」
再び杉山は津島がユキを誑かし、連れだしたと言って怒りだした。斎藤は、杉山の言い分を聞くだけは聞いた。そして、祝賀会出席者の中に杉山ユキを知る者がいなかったか、もしいる場合、名前をあげて欲しいと言って、田丸と一緒に記録をとり始めた。杉山ユキを直接知る者は、出席者の中に数名いた。斎藤は、杉山に直ちに捜査を開始して、状況は逐一報告すると言って立ち上がった。
「杉山さん、できればご自宅で待機を願いたい。ユキさんがご自宅に戻られる可能性も十分考えられます」
斎藤が頭を下げてそう頼むと、杉山は逡巡していたが、自宅に戻ると言って署を後にした。斎藤は、早速待機中の巡査に手分けをして樺山邸と祝賀会の出席者に聞き込みに行くように指示した。そして、津島に声を掛けて、雨合羽を羽織ると二人で目白の岡崎邸へ向かった。岡崎邸での聞き込みの後は、同じ通りにある広橋邸へ向かった。雨が小降りになった中を歩きながら斎藤は、津島に詳しい状況の説明をした。
「杉山ユキが樺山邸を発ったのが、午後一時過ぎ。自宅に戻っていないと判ったのが午後四時過ぎ。この三時間だ」
「行方をくらます。馬車で移動したとして三時間。帝都からどこに行ける」
「……」
「……越谷宿でしょうか」
津島は陸路で自分の故郷に向かう事を考えていた。斎藤はじっと考え込むような表情で広橋邸の門番に用向きを伝えて、屋敷の玄関に向かって歩いて行った。先に聞き込みをした岡崎邸とは違い、斎藤達は客間に通され、中から出て来た主人の広橋義光と対面した。広橋は杉山ユキの所在が不明になっている事を杉山家から報せを受けて既に知っていた。長女の蓮子が英女学校でユキとは学友だという。昨日開かれた祝賀会に蓮子も出席をしていた、宴席で挨拶をしたのが最後だと話していると広橋は斎藤に説明した。斎藤は警察手帳に記録をとりながらじっと話を聞いていた。廊下に繋がる障子に人影が写り、外から、「蓮子でございます」と声が聞こえた。入ってよいと許可をされると、障子が開かれ、雨上がりの白い光と共に広橋蓮子が部屋に入って来た。薄い若葉色の着物を纏い、桃色と金模様の飾り襟を重ね、なで肩に鶴のような細い首、大きな瞳は憂いを湛えて、美しい額の上には大きくとった廂髪が卵型の顔を覆うように結われていた。津島の正面に座った蓮子は、紹介をされると深々と頭を下げて挨拶をした。
「ユキさんとは、昨日久しぶりにお会いしました」
「女学校をお休みになられて。次の学期にはお戻りになられるかとお聞きしたら、わからないと仰っていました」
津島は顔を上げて前に座る蓮子を見ていた。随分と大人びた女性だと思った。落ち着いた佇まいで真っすぐに津島の眼を見て話す様子は、女学生というより女当主のような威厳に満ちたものだった。
「警視局が捜索に取り掛かられておる。無事に見つかることを願っていよう」
蓮子の隣で広橋義光は蓮子に諭すように話すと、何か新しく情報があれば虎ノ門署に報せますと云って席を立った。斎藤と津島は深々と礼をして挨拶をして部屋を出た。玄関先で靴を履いて身仕舞を整えているところへ、広橋蓮子が現れた。自ら玄関まで見送りたいと、傍に控える者から番傘を貰って、斎藤と津島の後に続いた。外は、再び小雨が降り出していた。
斎藤は玄関で借りた傘を一旦畳んで、門番の控え所の傘立てに返した。その後に続いて、津島が傘を閉じた所を、背後に立った蓮子が呼び止めて、「わたくしが、傘を直接受け取ります」と声を掛けた。
「どうか、こちらへ」
門番控所の庇の下で、両手で傘を受け取った蓮子は会釈した。そのまま、斎藤は、制帽の上から雨合羽の帽子を羽織るように被って道に出た。津島は、もう一度蓮子に黙礼をしてから、斎藤の背後について歩いていった。昼過ぎに署に戻った斎藤と津島は、聞き込み情報を取り纏めている田丸警部の部屋に向かって報告を済ませた。津島は斎藤の指示で、夕方まで区画整理資料の編纂作業に戻るように言われ部屋から下がった。
「戸越から、杉山ユキの書置きが見つかったと連絡があった」
田丸警部が斎藤と二人きりになると話始めた。杉山ユキの部屋に杉山直成宛ての文と、津軽の実父宛ての手紙があったらしい。「出奔する。どうか行方は探さずにいて欲しい」、短い文章に行き先は書かれておらず、失踪の意思のみが綴られている。ここ数週間、一歩も家の外には出ていなかった杉山ユキがどうやって馬車を用意したのかも判らない。杉山直成は家中を家探ししているそうだ。田丸は溜息をついた。斎藤は、他の聞き込みで得た情報を整理したが、祝賀会場から杉山ユキを乗せて消えた馬車の特定に繋がる情報は一切なかった。
斎藤は、執務室に戻った。丁度、天野が入室と同時に「煙」と合言葉をいいながら執務席に近づいてきた。
「親方、樺山の祝賀会。同じ席で杉山家と北小路家との見合いも執り行われたそうです」
「っていっても、非公式なものだったそうで」
「あの津軽のお姫さんが先方と顔合わせしたそうです」
斎藤は驚いていた。見合いの席からの失踪。天野はずっと手帳を見ながら、相手の殿さんは北小路利栄さん。男爵です、と説明した。
「津軽の姫さんは見合いの相手が気に入らねって、怒って姿を消したってとこでしょうかね」
「ところで、さっき津島の奴が署の門から飛び出して一目散に走っていきましたけど、何かあったんです?」
斎藤は驚いたように顔を上げた。「津島は何処へ向かっていた?」と訊きながら素早く上着をはおり帯刀した。
「たぶん馬車通りでしょ。反対側の通りに横切って走っていきましたから」
「お前もついて参れ」
雨合羽を手に持った斎藤は、急いだ様子で受付係に、今から杉山の件で急ぎ品川方面に捜査に向かうと田丸警部への言伝を頼んだ。外の雨は止んでいた。斎藤は馬車を拾うと、道の先に行く乗り合い馬車を追いかけるように御者に頼んだ。
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追跡(表語り)
恐らく津島の乗った馬車は、芝口往きのもの。新橋へ向かったのか。ステンション。陸蒸気で横浜へ向かうつもりか。だが待て、芝の港に出る可能性もある。船で向かう先は津軽か。斎藤は考えた。杉山ユキは津軽の実父にも出奔の意を伝えている。わざわざ見つかり易い故郷に戻るとは考えられない。馬車は猛烈な勢いで前に行く馬車を追いかけていた。揺れる車内で、隣に座る天野は両手両足を踏ん張りながら、手帳を取り出して頁をめくっては何かを探している様子だった。
「親方、芝からの船は、行先にもよりますが、午後は一時、その後は四時の出航だけですね」
「仙台への連絡船、四国、九州への連絡船。二隻」
「それから、陸蒸気ですと。えーっと、次は一時でございますね」
「ヤス、手分けをしよう。お前は芝の港で津島を探せ。四時まで粘って見つからなければ署に戻ればよい。俺はステンションを張る」
「わかりました。あれですか。津島は杉山ユキと落ち合うって算段ですか」
「それはわからん。今日は目白で津島と一緒に聞き込みをしたが、津島は杉山ユキの行方を知っている様子はなかった。だが、俺の待機命令を無視して署を飛び出したとあらば……」
「じゃ、何か情報が入ったってこってすね」
天野は芝の港へ向かう馬車に乗り換えるために先に馬車を降りる準備を始めた。
「ヤス、俺がもし夕方までに署に戻らなければ、田丸さんに津島を追っているとだけ伝えろ。他言は無用。津島の行方を他の誰かに聞かれたら、下宿に帰ったといっておけばよい」
「合点承知の助。親方、くれぐれも」
「わかっておる」
二人で眼を合せて微笑みあった。天野は刀を手に持つと御者に声を掛けて、品川通りで馬車を止めた。それから身体を折り曲げるようにして頭を下げて馬車の出口をくぐって車から降りて行った。
斎藤を乗せた馬車は、そのまま芝口へ出た。目の前には新橋ステーション。ここに津島が向かっていたとしたら、行先は横浜か。斎藤は周辺を見廻りながら、停車場の中へ入って津島を捜索した。切符売り場の窓口で聞き込みをすると、巡査の制服を着た男が【神奈川】まで三等車の切符を一枚買って乗車した事がわかった。斎藤も切符を買って、出発間際の汽車に乗り込んだ。陸蒸気の三等車両は混雑していた。斎藤が通路をなんとか通って前に進むと、二等車両との間の通路に津島巡査が立っていた。それまで窓から外を眺めていた津島は、通路を歩いて自分に近づく斎藤を認めると生唾を呑み込んだような様子で驚いた後、直立になった。
「どこに向かうのか知らんが、随行する。よいな」
斎藤は津島の前に立って静かに確認した。津島は「はい」と返事をして黙礼した。それから一時間余りの間、二人とも無言のまま窓から外を眺めた。朝の嵐は嘘のように晴れ渡り、湾内の水面は青空が映ってどこまでも碧かった。陸蒸気が【神奈川】停車場に到着したのは午後二時頃。津島は、両足の革靴を脱ぐと、靴底から皮の板をはがした。二枚の皮の間に紙幣が挟まっていた。拾圓札だった。津島は紙幣二枚を丁寧に伸ばして財布に入れると、駅の外に出て二人乗りの人力を一台手配した。人力は東海道をひた走る。途中人力を乗り継いで二時間余りで藤沢に辿り着いた。空気に磯の香りが混じる。斎藤は人力を降りて背伸びをした。津島は茶屋で貰った竹水筒を二本持って、斎藤の前を歩き始めた。
「こごがら江の島さ出ます。日没までになんとが鎌倉さ」
ようやく津島が目的地を口にするようになった。鎌倉か。斎藤は、藤沢は二度目だが、江の島や鎌倉へ向かうのは生まれて初めての事だった。まだ小さかった頃、山口の父親が江の島詣をしたと話してくれたのを覚えている。まだ斎藤が生まれる前、天保の頃だ。父親が何の御用で江の島まで出向いたのかはわからない。だが、海がどこまでも広がり富士が近くに見えたと、まだ幼かった自分に教えてくれた。海を眺めるのが好きなのは、父親譲りだと斎藤は思っていた。
江の島口へは直ぐに辿り着いた。津島は片瀬の浜から島を眺めながら、陽が暮れてしまう、急ぎましょうと海岸沿いの道をひたすら歩き続けた。右手に拡がる海。七里ヶ浜、稲村ケ崎を過ぎると上り坂が続く。息の上がっている津島に追いつくと、斎藤は、海側を指さして大好きな武将、新田義貞の話を始めた。
「俺は黄金の太刀を持ってはおらぬ。刀を投げて海側を通ることが叶えばな」
津島は息が上がったまま頷くのがやっとだった。もう背後に陽が落ち始めている。暗くなるまでになんとか鎌倉に入りたかった。だが、暗闇でどうやって探せばいいのだろう。津島はずっと考え続けていた。夜分に人を尋ねるのは憚られる。同行してくれている主任をこれ以上連れまわすようなことをしてはならない。
「この峠を越せば鎌倉です」
「鎌倉に、おるのだな」
「……」
「はい」
息を切らしながら津島は返事をした。由比ガ浜に着いた時には陽が完全に落ちていた。もう提灯がないと道沿いの民家の表札も見えない。斎藤は、浜に下りる手前の道で一旦足を止めて竹水筒の水を全て飲み切った。そして、一番近くにある民家の玄関に入ると、警視局の者だと自己紹介をして、近くの宿を教えて貰った。漁師小屋を持つ民宿が開いていた。離れのような小屋の座敷に布団が運ばれ、母屋の台所の隣の間に膳が用意されたと呼ばれて、食事を摂った。魚介がふんだんに使われた品々に斎藤は舌鼓を打った。津島は、あまり食事が進まないようだった。
それから裏庭に設えた五右衛門風呂に斎藤と津島は並んで入った。民宿の女将は気を利かせて、冷酒を用意して出してくれた。そのまま小屋に持っていっても良いというので、斎藤は礼を言って、小屋で晩酌した。津島は最初の一杯をグイっと飲んだだけで。その後は、ずっと黙ったまま正座している。斎藤は、「疲れておるだろう。先に休め」と言って津島に横になるように促した。そして、一気に残りの酒を飲み干すと、そのまま自分も布団に横になった。
「波の音を聞きながら眠るのは、斗南に移った頃以来だ」
「……」
「津軽の家は海に近いのか?」
「いいえ、少す離れでます」
「最後に故郷に戻ったのは正月であったな」
「はい」
「故郷では、杉山ユキと懇意にしておったのか?」
「いいえ。会ったのは二度。二度だけです」
「答えたくなければよいが、ひとつ訊きたい」
暗がりで、隣の布団で横になっている斎藤が自分に顔を向けたのが解った。
「なにゆえ、杉山ユキとの縁談を断った」
津島はじっと黙ったままだった。父親が危篤の知らせを聞いて家に戻った時、心の中は診療所の奥さんのことで一杯だった。報われぬ想い。それでも診療所の庭で腕の中に抱いた奥さんの事が忘れられず。再び抱きしめたいとばかり考えていた。狂っている。自分でも解っていた。厳格だった父親が言い残した、「淳之介に杉山家から縁談の話があれば円満に進めるように」、この言葉が重かったにも関わらず、奥さん以外の女の事を考える事を自分に禁じた。
まるで熱に浮かされたように
奥さんのことばかり
今でもあの時と変わらないと自分では思う。だがあの時に杉山ユキとの縁談を反故にしていなければ。ユキの笑顔をずっと前から見る事も叶ったのかなとも思う。でもそれは勝手で無責任な了見だ。
ずっと黙っている津島に、斎藤はそれ以上何も言葉を掛けなかった。地元の名士と言われる津島家が家老格の家との縁談を断るのは勇気のいることだ。津軽のような土地では猶更であろう。この生真面目な男が、家を捨ててでも己の意に沿ったのなら。
だが、春先からの杉山ユキに関する騒動は、傍から見ていても当の二人は相愛であることは瞭然。
東京で再び出逢って慕いあうようになったのか。
それもあり得るだろう。だが、二人の家柄が家柄だけに事は困難にも思えた。男爵家との縁組。譜代とはいえ、瓦解後は没落の一途の杉山家が華族との縁付きにこだわるのもわかる。関係が冷え切った杉山家と津島家が二人の仲を容易に許すとも思えぬ。斎藤は、戸越の杉山直成を思った。杉山ユキの失踪先に津島が向かっていると知ったら、杉山は津島を成敗するだろう。巡査の職を追われるどころか、命が危ない。斎藤はそう思った。
どうかこの隣に眠る男が、その意を遂げて、
再び巡査として復帰できるよう
斎藤はそう願った。それから寝返りを打って眠りに就こうとした。東京の千鶴。今夜は泊まりになると伝えないまま。きっと夜遅くまで心配して待つだろう。まさか、朝家を出たまま由比ガ浜の漁師小屋で津島と布団を並べて眠っているとは思ってもいまい。千鶴は、津島が謹慎処分になった事を心配していた。斎藤はあまり事件の詳細を説明しなかった。明日、事がどう運ぶのかは判らない。だが、津島が探す杉山ユキがこの地に居るのは確かだった。津島が女を見つけてどうするのか。斎藤はそれを見届けようとだけ思った。
帝都からも、津軽からも遠く離れた
この地で
*****
追跡(裏語り)
明治十一年六月
自宅謹慎を言い渡されてから二日目の昼頃、下宿の大家が部屋にやってきて、階下の玄関に客人が来ていると呼びに来た。
寝起きに着替えた長着のまま階下に降りると、下宿の玄関口に千鶴が立っていた。津島は驚いた。千鶴は風呂敷包みを手に持って笑っている。そして、玄関口に腰かけると、跪いて挨拶する津島の前で包みを広げて重箱を渡した。
「お稲荷さんをいっぱい作りすぎてしまったので、津島さんに手伝って貰おうと思って」
蓋を開けると、小さな稲荷寿司に色とりどりの飾りがつけたものが綺麗に並んでいた。二段目には、ずんだ餅と【ねりくり】が入っていた。どちらも津島の好物だった。そういえば、昨日の昼間から何も食べていなかった。虎ノ門署での騒動は、杉山ユキの養父が鍛冶橋に訴え出たことで警視局全体の問題になっていると聞いた。自分の浅慮な行動で、皆に迷惑をかけてしまっている。そして、その事以上に杉山ユキに近づくことを禁じられたことが心に大きな影を落としていた。暗い奈落の底で、津島は巡査を辞めることを考え始めていた。
「津島さん、」
千鶴の優しい声が自分を呼んでいるのにやっと気づいた。覗き込むように顔を傾げた奥さんの顔が近くにあった。津島は、頭を下げて礼を言った。
「どうも。有難ぐ頂ぎます」
千鶴は再び風呂敷に重箱を包み直すとそっと津島に差し出した。そして、「坊やたちが待っているので帰ります」と言って立ち上がった。忙しい中を真砂まで食事を届けてくれた事に胸が温かくなった。優しい気遣いが嬉しい。再び津島は頭を下げて礼を言った。顔を上げた時、ふと千鶴が上り口に近づいて来た。津島の左手を取ると、両手で包み込むように握りしめた。
「元気を出してください。また診療所に立ち寄ってください。ご飯作って待ってますから」
見上げるように下から覗き込む千鶴の瞳は、きらきらと輝いていた。温かな手。千鶴は会釈をするとそのまま急ぎ足で道に出て帰っていった。部屋に戻って、稲荷寿司を食べた。ずんだ餅を食べて、【ねりくり】も食べた。これは、西南の戦役中に現地で食べておいしかったと診療所で話をしたら、奥さんが作り方を教えてくれというので、主任と天野で覚えている限りを説明した。興味深そうに聞いていた奥さんは、後日見事に同じ物を再現して見せた。
ふかした薩摩芋をすり鉢で潰したところに
茹でたお餅をまぜて
丸めて、きな粉をまぶしました。
これ、冷えても柔らかいままで、お砂糖は殆ど使っていないのに十分に甘い。
斎藤も天野も美味い美味いと言って悦んで食べた。奥さんは嬉しそうに笑っていた。それからは、時々、おさつが手に入ったと云っては、振る舞ってくれている。奥さんの気遣いに心が温まる。津島は手を併せて千鶴に礼を言った。そして、自分のやるべき事をしっかりと考えた。
巡査を辞めよう。
これで全てが片付く。
虎ノ門署にも杉山家にも迷惑をかけずに済む。
下宿を引き払い、津軽に戻ろう
一度心を決めると早かった。文机で辞表をしたため、制服を綺麗にして謹慎後に出勤する準備をした。
*******
追跡(裏語り)
二日後、虎ノ門署に出勤して辞表を提出した。一度、辞表を出すと気持ちが吹っ切れた。
署長も田丸警部も主任も、留意するようにと云ったまま。鍛冶橋の処分を待っているようだった。これはこれで都合が良かった。区画整理資料の編纂には少なくとも数週間はかかる。処分保留の間に精力的に事務方の仕事を手伝った。同僚の天野達は、最初は腫物を触るかのような扱いで接してきたが、次第に定時で帰る自分を引き留めることもなくなった。毎日が静かに過ぎた。診療所では、いつも奥さんが優しい笑顔で待っている。雲雀の世話も、診療所で過ごす時間もあと僅かだと思うと、一瞬一瞬を大切にしたいと思った。奥さんが、赤ん坊の首が座ってきたと話すので、一度抱っこをさせて貰った。思ったより赤ん坊は重くて、屈託なく笑うその笑顔にこんなに可愛い赤子がいるのかと驚いた。小さな存在に愛情がいっぱい詰まっている。そんな感触がした。
六月に入って本格的に梅雨空が続くようになった朝、神田で巡察中に部下が至急署に戻るようにと知らせて来た。嫌な予感がした。案の定、虎ノ門署に杉山直成が現れていた。天野が行くなと腕を掴んで止めるが、こればかりは仕方がない。斬られる覚悟で、応接部屋に入った。
杉山ユキが行方不明
一体何が起きた。外出先で事故にでもあったか。事件に巻き込まれたのか。耳鳴りがする。目の前で、杉山さんが叫んでいる。
「直ちに捜索を開始する。集会室に巡査を集めろ」
主任の声が響いた。自分は返事をして捜索の準備を始めた。雨の中を歩きながら、ずっと杉山ユキの事を考えていた。「暫くは外には出られない。憂憂」と文にあった。外出できることを祈っている。あれは五月の中旬頃だったか。あの後、家の外にでて行方知れずに。津島は自分の責任を感じた。聞き込み先では、津島の知らないユキの姿を知ることが出来た気がした。
華族の祝賀会。
男爵家との午餐会
英女学校の学友
ユキの友達だという広橋蓮子は大人の女性だった。時折十代の少女然とした様子を見せるユキとは違って、自分より年上の姉のような。女学校を休んでいるユキが早く学校に戻って来ることを願っていると言っていた。広橋家の玄関で、雨降りにもかかわらず、蓮子自らが見送りに出て来た。華やかな着物姿で、門の外まで出て来た蓮子は、津島から傘を受け取りたいと門番所の庇に身を引いた。そこで、傘を渡した時に、そっと自分の左手に小さな文が手渡された。蓮子は小柄な女だ。大きく結った庇髪の下で、印象的な瞳が津島を見上げていた。驚いていた自分に一瞬口角をあげて微笑んだような表情を見せると、
「それでは、津島様。ごきげんよう」
会釈をして挨拶した。津島は、手に持った文を上着の内ポケットに素早く仕舞いながら、頭を下げて挨拶した。前を歩き始めた主任は、自分が蓮子から文を受け取ったことに気づいていないようだった。早く、早く署に戻りたい。受け取った文に目を通さねば。
署に戻ってから、主任に事務方の作業をしながら署内で待機しろと指示を受けた。部屋を出て便所に向かい、蓮子から受け取った文を開いた。
津島様
由季さんはわたくしが雪ノ下の別邸にかくまっております。
杉山の家を出て自由に生きるため 。
どうか由季さんを救ってくださいますよう。
お願い申し上げます。
蓮子
鎌倉雪ノ下村一番地 薔薇邸
杉山ユキは鎌倉雪ノ下という場所にいるのか。薔薇邸。さっきの広橋蓮子が宴席会場から手引きをしてユキを馬車で運んだ。ユキの姿が見えない事を杉山家で把握した頃には、既にユキは、東京を離れていたのだろう。津島は、事務方の部屋に戻って、そっと鎌倉雪ノ下村の場所を調べた。幸運な事に署の資料室には瓦解後の市町村の編纂地図が残っていた。神奈川県鎌倉村。この地は郡政として区画が割り振られる。雪ノ下村は藤沢から鎌倉に入れば直ぐに見つかる。津島は自分の警察手帳に必要な情報を書き込むと、蓮子の手紙を胸ポケットにしまって署を後にした。外出許可を取らずに出るのは忍びないが、仕方がない。時間がない。鎌倉へ向かわねば、鎌倉へ。
*******
いざ鎌倉(表語り)
明治十一年六月
斎藤達が由比ガ浜に泊まった翌朝は朝から快晴だった。
早朝に小屋から出て行った津島を、斎藤は海岸まで追いかけて行った。大漁旗をたなびかせた船が湾内を覆い尽くすように浮かんでいた。夜明けとともに漁に出て行く船を堤の上に立った津島が眺めていた。それから津島は海沿いの道を歩いて、砂浜に降り立った。後に続いた斎藤は津島と一緒に暫く波打ち際を歩いてから宿に戻った。磯の香りのする味噌汁に鯵の塩焼きと香のもの。斎藤は食欲旺盛でご飯をお代わりした。津島は静かに食べ終わると、身支度を始めた。
「これがら雪ノ下に向がいます。途中電信局があるので、そごがら署さ電文ば送ります」
津島は雪ノ下の場所を尋ねながら歩くつもりらしかった。斎藤が宿の女将に支払いを済ませて、道行も教えて貰った。浜から川沿いに若宮大路を上っていけばよい。途中電信局にも出られるという事だった。
斎藤は虎ノ門署に極短い電文を送った。津島と鎌倉で捜索中。診療所にも同じ電文を送った。
鎌倉は平日にもかかわらず、人出が多く賑わっていた。まるで縁日のような人込みに斎藤も津島も驚きながら、道行く人や商店主に【薔薇邸】の場所を尋ねて歩いた。ひっそりとした裏通りを山に向かって歩いて行った高台に広橋の別邸があった。
立派な門構えの洋館には、大きな煙突が見えた。薔薇邸と言われているように庭には沢山の薔薇の花が咲き誇っていた。門は開け放たれていた。斎藤と津島は門をくぐって、邸宅に近づいた。大きな丸い門のように石が積まれた玄関には、箱馬車が停めつけてあった。御者に挨拶をすると、玄関に通された。
「お客様でございます」
御者が家の中の者に呼びかけると、女中のような女が出て来て斎藤と津島を招き入れた。応接間のような部屋で腰かけて待つように言われた二人は、家の窓の向こうに海が見えるのを確認した。間もなく、奥の間から広橋蓮子が杉山ユキを伴って部屋に入って来た。ユキは、髪を束髪に結い上げていた。蓮子ほどではないが、庇髪を結った姿は、以前より大人びて見えた。ユキは白っぽい単衣にレースの半襟を合せて、柔らかい薄い黄色の帯を締めていた。
「藤田様、津島様、遠路わざわざ足を運んでくださって有難うございます」
蓮子が挨拶をすると、その後ろでユキも深々と頭を下げた。その時、女中が西洋茶を運んで来た。皆でテーブルの前に腰かけて、お茶を飲んだ。
「わたくし、先ほど到着したばかりなのです。今朝は五時に新橋を出発して参りました」
「昨日、目白の宅へお二人がお見えになった時、丁度こちらへ向かう準備をしておりました」
蓮子は微笑みながらそう話した。ここにユキを招待したのは、家に閉じ込められて学校にも行けなくなったユキに同情したためだという。
「家と家の繋がりの為に、女性は存在するものではありません」
蓮子はつんとした表情で津島と斎藤を見た。津島は、ユキの男爵家との縁組の事を思った。
「わたくしたち女性は、己の意思を持っております。いくら養父といえ、実の父とはいえ、それをねじ伏せることはできません。よくて、ユキさん」
蓮子は雄弁に語り、ユキはその隣で静かに頷いていた。斎藤は、蓮子が非常に進歩的な人間だと思った。おなごがここまで強い言葉で話すのを斎藤は初めて聞いた。そして、この蓮子の協力でユキは戸越の屋敷から出奔する事が叶ったのだろうと思った。だが、いつまでだ。いつまで戸越の家から逃げ隠れるのだ。鎌倉にそう長逗留は出来まい。
「ご存知だと思いますが、杉山さんはユキさんの捜索願を出しておられる」
「いずれ、この場所も見つかってユキさんは連れ戻される。時間の問題です」
斎藤は冷静に話をした。
「それはございません。ユキさんは戸越の家には戻らないと決めています」
「戻らずに、どこへ」
突然津島がユキに話しかけた。「どごが行ぎだい場所があるのですか」
ユキは津島の眼を見詰めたままじっと動かない。目にはうっすらと涙が溢れて来たように見えた。
「どごが行ぎだい場所があるだば、わたしがお連れします」
津島は背筋を伸ばしたままそう言い放った。ユキは何も答えないまま、ずっと津島の瞳を見詰めていた。二人が見つめ合ったままじっとしているので、蓮子は斎藤を見るとそっと腰を上げた。そして、窓辺までゆっくりと歩いていった。
「ねえ、ユキさん。今日はお散歩日和ですわ」
「津島様をお庭にご案内さしあげてはいかがかしら」
女中に頼んで出窓の窓を開けてもらった蓮子は振り返ってユキに笑いかけた。じっと固まったまま動かない二人に、もう一度蓮子は話しかけた。
「嵐の後に、新しい薔薇が咲き始めましたの。さあ」
蓮子はユキを促すと、津島を連れて廊下の向こうに連れて行った。そして、独りで戻ってくると、斎藤に窓から良い風が入りますと云って笑いかけた。
「藤田様、わたくしが昨日、目白の家で嘘をつきました事をどうぞお許し願います」
斎藤が立ちあがって窓辺に立つと、蓮子は頭を下げて謝罪した。女学校で唯一の友人であるユキと学校で会えなくなったのが、途方もなく寂しくて、と蓮子は話した。
「わたくしの父は、杉山の叔父様と懇意にしております。北小路家とも。私がしたことが表沙汰になりましたら、わたくしも……広橋の家を出る事になるでしょう」
「それも致し方ありません」
蓮子は己の覚悟を話した。窓の向こうに、ユキが津島と一緒に庭を横切る姿が見えた。二人は海の見える場所を目指しているようだった。少し高い台になっている庭の端に歩いて行くのが見えた。
****
いざ鎌倉(裏語り)
明治十一年六月
芝生が途絶えた地面に小さな水たまりが出来ていた。
海の見える小径。振り返ると、石が積まれた端で立ち往生する小さな草履の先が見えた。差し出した手に小さな指先が触れた。水溜まりを跨いで前に進むと、ユキの見上げた顔に明るい陽の光が反射したように見えた。木の枝に切り取られたように見える海。暫く二人で眺め続けた。
「海はうんと先にあるそうです」
「こんなにも近くに見えますのに」
ユキは眩しそうに目を細めながら微笑んでいた。
「徒歩で三十分もかかりません」
「昨夜は浜の傍で宿ばとりました」
津島がそう話すのをユキは少し驚いたような表情で聞いていた。
「波の音ば聞ぎながら、潮の香りがする小屋で」
「一晩中、貴方の事ば考えでました」
「津軽での縁談のことも……」
ユキの視線を感じながらも顔を上げられない。自分は一体どうすればいいのだろう。
「縁談を断られた時、わたくし、」
ユキはそう言ったまま、言葉を続けるのを躊躇しているようだった。
「……津島様を羨ましく思いました」
「東京にいらっしゃる津島様は、きっと自由でいらっしゃって……」
ユキは隣で真っ直ぐと前を向いていた。その長い睫毛と瞳は遠くの海よりもっと遠くを眺めているようで、微笑んでいるような表情をただじっと見つめているしかなかった。
「家名や体面は、とても大切だとはわかってはいるのです」
「でも、杉山という名が何なのでしょう」
津軽にいても、東京にいても、わたくしはわたくしであることに変わりはないのに……。
(そうだ。そのとおりだ……)
そう心の中で返事をしたが、己の口からは何も言葉を発せない。目の前の哀しそうな横顔をただじっと見つめることしか出来ない。
「蓮さまは、自由に生きることが大切だと仰います」
「でも同時にわたくしには責任があります。叔父はわたくしの後ろ盾となって女学校にも通わせてくれました」
「叔父や津軽の父を裏切ることはできません」
今朝、東京に電文を送りました。
明日東京に戻ります
ユキの言葉には覚悟を決めた響きがあった。一歩前へ出たユキには陽の光が当たって、透けるような肌に長い睫毛が薄い茶色に輝いている。胸が締め付けられる。こんなにも近くにいるのに、あの海より遠くに感じる。
「縁談ば断わったごど後悔してる」
思わず、心の中の言葉が口から出てしまった。ユキの驚いた顔が目の前にあった。振り返るように自分を真っ直ぐ見詰める瞳。
「貴方ともっと早ぐがら……」
「一緒になっていれば」
こんな事を今更言っても。心の中でそう思っても止まらない。
「行ぎだい場所、どごへども連れでいぐごどが出来るのに」
言葉が続かなくなってからも二人で見つめ合い続けた。心地よい風が吹く中をいつまでも。ユキの瞳はきらきらと光っていた。涙が溢れて来ているのか。ゆっくりと伏せるように長い睫毛が下りて影が出来た。それからユキは自分の傍をすり抜けるように、木の枝の向こうの小径を引き返し始めた。木が茂った小径は少し薄暗くて、再び水溜まりで足止めになった場所で、ユキを追い越して手を引いて芝生の道に出た。握った指先は、一瞬で自分の手から離れた。小さな小指が最後に自分の小指と触れ合った。
芝生の庭を少し歩いたユキは、振り仰ぐように小さな路を眺めると。
「わたくし、あの海の見える小径を歩いたことを。一生忘れません」
津島の瞳を見上げるように見つめてそう言った。
*********
こころで感じるとおりに(表語り)
明治十一年七月
梅雨も明けて一気に東京に暑い夏がやって来た。太政官布告で郡区町村編制法が敷かれ、それまでの大区小区制は廃止された。住所表記の変更など、斎藤たちは警視局資料の編纂作業に追われている。今日は午後の巡察の日。騎馬で芝方面を見廻る。早めに昼食をとった津島と騎馬で炎天下の通りに出た。
沿道には人は殆ど歩いていない。道の向こうに陽炎が揺れていた。二日前は四万六千日の縁日で賑わう上野浅草を巡察した。隣で馬をつけている津島は、その日も斎藤と一緒に巡察に出ていた。ほおずき市で、ほおずきの鉢を買ったものを二人で診療所に持ち帰った。千鶴は子供と大喜びして、皆で冷やした素麺を食べて縁側で涼んでから津島は帰って行った。千鶴は、津島がどこか寂しそうで、心配だといつも言っていた。元気がない。はじめさんが、覇気を失くされた時みたいだと。斎藤は、千鶴には津島と杉山ユキの話をしなかった。全ては天野との隠密捜査。六月の鎌倉以来、虎ノ門署には杉山直成が現れることも、杉山ユキが訪れることもなくなった。津島の辞表は署長の元で保留にされたまま。鍛冶橋も処分を下す様子はなかった。だが、津島は斎藤には口頭で、七月いっぱいで辞職すると伝えていた。斎藤は、留意するようにと云ったまま承諾はしていなかった。
鎌倉の件は、杉山ユキが自らの意思で東京に戻り一件落着した。ユキの失踪は、表向きには隠されて、男爵との縁談も進んでいると天野が目明し情報だと報告してきた。津島は、杉山ユキの事を一切口にはせず、黙々と任務をこなしている。過去に縁談を断った事が仇となって、巡査の職を追われる。斎藤は納得していなかった。杉山直成が太政官に提訴した津島への処分も取り下げられていない。
品川の通りに出た時に、一旦二人で馬を降りた。木陰で馬に水を飲ませて休ませた。津島は水飲み場で顔を洗った時に、手拭と一緒に何か白いものを手に持っていた。斎藤が、神夷の鞍を整えていると、津島が雲雀に跨いで、通りを反対方向に馬を進め始めた。最初はゆっくりと歩を進めていたのが、だんだんと馳歩に切り替えて行ったのが見えた。斎藤は何か異変が起きたのだと思い、急いで神夷に跨ると雲雀を追いかけて行った。
津島の乗った雲雀は、品川通りから唐木橋のたもとを過ぎ、戸越村の通りを進んでいく。戸越村三番地の杉山の屋敷の前で、馬を降りた津島が門をくぐっていく姿が見えた。斎藤は屋敷の前で馬を止めて、津島の後を追って門の中に入っていった。津島は玄関から、既に中に通されたようで、何処にも姿が見えなかった。
「御免、虎ノ門署から参った」
大きな声で家の中に声を掛けても誰も応えない。斎藤は、嫌な予感がした。玄関口には津島の脱いだ靴は見えなかった。直ぐに玄関から出て、庭に廻り込んだ。中庭のようなものが見えたが、その向こうに母屋が繋がっているのか、そこに人の気配があった。斎藤は、走って行った。何度か棟の角を廊下づたいに行った奥に大きな庭があった。綺麗に砂利がしきつめられ、白壁の塀まで松の老木が植わっているだけの白州のような。そこに津島が頭を深く下げている姿が見えた。縁側の上には、着物姿の杉山直成が立っていた。
「突然、お約束もせずに訪ねた事をお許し願います」
「杉山さんにお願いがあって参りました」
津島は深々と頭をさげると、一歩前へ出て杉山の当主を見上げた。
「ユキさんをわたしの嫁御にください」
津島は、砂利の上に正座をして「どうか、お願いします」と頭を地面に擦り付けるように下げて懇願した。
「それはならん。ユキの嫁ぎ先は決まっておる」
「ここは貴様の来るところではない、帰れ」
縁側の上から見下ろす杉山は、「誰の許可でここへ参った」と鼻息荒く怒り出した。津島は、「帰りません。お許しを貰うまでは」と引き下がらない。斎藤は、建屋の影からその様子を見ていた。杉山は「誰かおらぬのか」と大声で、家の中の者を呼び始めた。だが、家中はしーんとしていて、誰も返事をする者が居なかった。痺れを切らした杉山は、床の間にあった刀置きから打刀を掴んで縁側に出て来た。柄に手を掛けて、刀を抜いた瞬間、斎藤が前に飛び出した。
「杉山さん、お収めください」
津島の前に躍り出るように立った斎藤が鯉口を切った音が響いた。津島は、目の前にある斎藤の革靴を見詰めたまま動けない。
「藤田と申したな。今回は、わしは引かん。その者が退かぬのなら、叩き斬ってやる」
杉山はそのまま縁側から下り立った。その時だった、廊下の向こうから、「叔父上」と叫ぶ杉山ユキの声が聞こえた。真っ青な顔をして、廊下を走って来たユキは、刀を抜こうと低く構える警視官の制服を見て、その前に立つ杉山が剣を抜いている事にただならぬ空気を感じた。そして、柱に掴まって庭を見てみると、庭に両手をついて座り込む制服姿の津島が見えた。
「下がっておれ。無礼者が屋敷に押し入りよった」
「貴様から叩き斬ってやる」
斎藤は杉山が振り上げた腕を両手で掴んでいた。「おやめください」とにじり寄りながら、頼む斎藤は、大柄な杉山が振り下ろす剣の下、全身で相手を突っぱねるように立っていた。
「屋敷の中といえ、私闘は禁じられている。刀で殺傷となれば裏沙汰では済まされません」
斎藤は冷静に、杉山を止め立てた。帯刀が許されぬ今、刀での斬り合いは勿論禁じられている。杉山のような東京府の議会員である公人が、そのような事件を起こすことは考えられなかった。杉山は、一歩後ろへ下がり刀を降ろした。斎藤は頭を下げた。
「勝負とあらば、私が相手をします」
顔を上げた斎藤は、真顔で下から杉山を睨みつけた。その背後で驚いたような顔をして津島が腰を上げかけた。
「真剣勝負でも構いません。私はこの者の責任者です」
斎藤の瞳は碧く光っていた。そのかわり。そう言って杉山の前に一歩出た。
「勝負に勝ったら、この者への処分訴えを一切取り下げて貰いたい」
「それと」
斎藤はまだ続けた。
「この者が今日、願い出たお嬢さんとの婚姻の許可も貰いたい」
斎藤はそう言って頭を下げた。津島は背後で立ち上がり、事の成り行きを見ていた。縁側の柱にしがみつく様に立っているユキが震えながら自分を見ている。ようやく、事の経緯がわかったのか、ユキが「おやめになってください」と叫んだ。
「叔父上、藤田様、どうか」
ユキは、両手を縁側について懇願していたが、縁側から下に降り立って杉山に駆け寄った。杉山はユキの止める手を振り払った。「下がっておれ。表に出てくるでない」とユキに部屋に戻るように押し返している。ユキは斎藤に向かって、「藤田様、おやめになってください」と頼んだ。
このようなことを。どうして……。
泣き崩れるように縁側に突っ伏したユキに津島が駆け寄ろうとすると、杉山が剣を鞘ごと遮るように前に出して止めた。津島は、「刀を抜かれるのであれば、わたしを」と叫んだ。その瞬間、斎藤が「下がれ」と叫ぶ声が聞こえた。肩に置かれた手で離れるように言われた津島は斎藤の眼を見た。両眼に焔が立つような光を放っていた。真剣勝負の前の気迫。津島は固唾を飲んだ。斎藤は、両手の手袋をゆっくりと取り外して津島に渡した。制服の袖口をゆっくりとたくし上げ、シャツの袖口の釦を取るとゆっくりと腕まくりをした。逞しい腕が見えた。脇差をベルトから抜いて津島に渡した。
「お前を仇持ちにはさせぬ」
真剣な表情でそっと津島に伝えると、小さく頷くように首を動かした。津島は脇差を両手で受け取って頭を下げた。斎藤は、ベルトを締め直して打刀を腰に差した。何度か、腕を振り上げて上着の動きやすさを確認した。それから両手で額から髪を後ろに梳かしつけるように整え、襟元を正した。深呼吸をするように息をつくと、ゆっくりと庭の真ん中に向かって歩いて行った。
杉山は、瞑目をしながら庭の真ん中に立っていた。無言のまま、斎藤からの勝負の申し出を受けた杉山は、一刀両断で斎藤も杉山も成敗しようと考えていた。瓦解で没落の一途をたどる杉山家。家名を守る為、当主として家だけは途絶えさせてはならぬと思い生きて来た。幼き頃から利発で有望な姪のユキを可愛がり、娘同然に成長を見守って来た。剣の強い男ならと津島の次男との縁組には反対せずにいた。だが、津島の当主が亡くなった時に話を反故にしてきた。面目が丸つぶれ。落ちぶれた家だと見限られた。津軽の分家の落胆は酷く、杉山は、ユキを東京の女学校に入れるように学長に自ら掛け合った。十七での異例の入学が認められたのは、この春先のこと。学業も優秀で、活き活きとしているユキは杉山の自慢だった。すぐに名家である北小路の嫡男との縁談の話が舞い込んだ。昨年叙男爵位とされた若き貴公子。近衛連隊の副隊長として西南の戦役でも戦功をあげている。娘の相手には申し分はない。
この光輝く道を行く娘に、影を落とす者。杉山から見た津島はそんな存在だった。立派な二等巡査で剣術の腕が立ち、西南戦役の警視隊の功労者。品行方正で、なにより津軽出身の若者ということ。本来なら娘を娶る相手として不服はない。だが、ここまで拗れた相手に、今更大切なユキを差し出す訳にはいかなかった。そして、武士であらば、果し合いの勝負は受けて立たねばならぬ。
斎藤は位置に立って精神統一をしていた。天野が目明しヤスになって仕入れた情報に、杉山直成、「體楽道場の鷹」、というのがあった。津軽伝を継承する小野派一刀流の免許皆伝を持ち、その剣術の腕は一刀流では江戸で一番とも謳われた。
「親方、田丸の旦那から仕入れた情報です」
「鷹の杉山、って恐れられた凄腕らしいです。今じゃ仕込み剣を持って歩き回ってますが、瓦解前なんて町野大警部ともやり合って勝ったそうですから」
天野が話す町野大警部とは、旧会津藩士の町野主水大警部のことだった。会津藩の筆頭剣術指南役。その腕は何度か手合わせをした斎藤も良く知っていた。江戸の一刀流で一番と云われた相手と剣を交える機会。相手に不足はない。そう思った。
ほんと、また変な勝負をふっかけたもんだね。
ふいに総司の声が聞こえた。総司、傍にいるのか。斎藤は心の中で総司の気配を感じた。
せっかく、木陰で気持ちよく昼寝してたのに。急に殺気立つんだもん。
眼も覚めるよ。
斎藤は近くで欠伸をする猫の総司の姿が見えるようだった。
負けられぬ勝負だ。
せいぜい頑張って。助太刀が必要なら僕がついてるよ。
総司が右手の肉球を舐める姿が見えるようだった。両手を頭の後ろにやって、呆れるような仕草をしながらも、勝負を真剣に見極めるような目線。人の総司が傍に立っている。斎藤はそう思った。
万が一のときは、頼む。
斎藤は背中に立った総司にそう言った。
やれやれ、僕ははじめ君の骨も、あの子の骨も拾うのはまっぴらごめんさ。
眼をゆっくり開けた。白州のような地面は陽炎で揺れていた。炎天下の下、地面からの熱気で相手の姿もちらちらと揺れているように見えた。青眼にかまえる切っ先が光を反射している。相手の踏み出した足先が微妙に右ににじり動くのが見えた。
*****
こころで感じる通りに(裏語り)
明治十一年六月
鎌倉から東京に戻るまでの道行はあっという間だった。昼過ぎに雪ノ下を発ち、まだ陽のある内に新橋に辿り着いた。帰りの道すがら、隣に座る斎藤は一切何も言わなかった。新橋ステーションから虎ノ門署に戻り、二人で署長と田丸警部に報告を済ませて家路についた。真砂の下宿の部屋に着いて、ようやく東京に戻った実感が湧いた。制服を脱いで着替えた時にポケットから白いハンカチを取り出した。レースで縁取られた真っ白なハンカチーフ。行灯をつけていない部屋でぼんやりと白く浮かび上がっている。鎌倉の薔薇邸の庭で、海の見える小径を歩いた後に手洗い場でそっとユキに手渡された。
「女学校で習った刺繍を刺してあります。【ワイ】は、ユキの【y】です」
ハンカチーフの表面に白い糸で【y】の文字が縫い取られていた。手を拭った後に畳み直して返そうとしても、「どうぞ、御持ちになって……」と言ってそのまま俯いてしまった。ユキは涙を流していたと思う。不甲斐ない自分。逃げ出したいと思っているユキを、何処にも連れだせないまま。
あのまま、雪ノ下の広橋邸を発って戻って来た。手の中に残ったのは、このユキのハンカチーフだけ。津島は文机の前に正座して、ずっと目の前に畳んで置いたハンカチを眺めていた。真っ白な【y】の字。甘い花のような香りがするのは、ユキの残り香だった。優しい匂い。もうどんなに後悔しても、時を巻き戻すことはできないだろう。ユキが覚悟を決めて東京に戻るように、自分も己の行く道を進まなければならない。
それからは毎日を耐えた。雨が降る外を見ても、夕方の晴れ間に美しい夕日が見えても、一向に気分が晴れない。診療所の奥さんは、いつも自分の好物を用意して優しく笑顔で接してくれる。今日も、いいと断っても、お灸を据えて差し上げたいと云われ、足三里に灸をされた。坊ちゃんが、「熱くない?」「足燃えてるの?」としきりに訊ねてきた。「熱いのが気持ちいい」と答えると、不思議そうな顔で座っていた。最近は、診療所に行くと坊ちゃんに絵草子を読み聞かせることが多い。少しずつ字を覚え始めているらしく、ひらがなを指さして、【い】と大きな声で叫ぶ。
坊っちゃんは頼光が大好きだった。土蜘蛛を退治したいと真顔で話す。力の強い坊っちゃんならと相撲の相手をするが、まだ小さいのに本当に力が強くて困った。診療所のひと時は、心の暗い影を少し忘れる事ができる時間だった。帰り際に赤ん坊を抱いて会釈する奥さんは、いつものように優しくて。ぽっかりと空いた心の穴をより一層強く感じながら家路についた。
七月に入ってからの事だった。天野が突然下宿に現れた。夕立に濡れた着流し姿に高下駄を履いていた。えれえ雨だったと、着物の裾を尻まくりにして走ってきたらしく、部屋の前の廊下で濡れた足のまま、褌の前が見えて醜い有様だった。手拭を放り投げると、久しぶりに一杯やろうといって、酒瓶を振ってみせた。二人で、部屋で飲んだ。ほとんどの話が、天野の嫁自慢と惚気話だった。
「おさよのやつ、洗濯物を畳みながら長唄を歌うんだが。すげえいい声してんだ」
「あんまりいい声だから、俺もびっくりしたのって」
「まだ小さい時に、深川で常磐津のお師匠さんが、筋がいいからって月謝もとらずに教え込んだっていうじゃねえか」
「おさよの唄聞きながら、晩酌してると、本当に気持ちよく酔っぱらえるぞ」
「この前も、雨上がりの道を爺さんが杖ついてよぼよぼ歩いてんだ。おら、爺さん、そんな風に歩いてたら、馬車に轢かれちまうよって声をかけたら」
「そのよぼよぼ爺さん、うちの叔父貴だったんだ」
「俺もびっくりしたよ。なんでも朝から出掛けて長命寺の桜餅を買って来たって」
「菓子の包みを提灯みたいにぶら下げて、上機嫌よ」
「叔父貴、随分遠くまで出かけたもんだ。なんの御用だい?って聞いたら」
「なあに、おさよが長命寺の桜餅が好物だっていうもんだから」
「叔父貴。するってえとなにかい?うちのおさよの為に向島くんだりまで歩いて?」
「あたぼうよ、もう足が棒のようだ、ほれ、おぶれ」
この糞熱い中、叔父貴を背負って帰った。叔父貴とおさよへの土産の桜餅をな。
「そうしたら、叔父貴の野郎。餅を二個っきりしか買ってきやがらなかった」
「おさよや、お茶をいれておくれ、って猫撫声よ」
「けち臭い、親父だぜ。っとにまったっく」
天野は身体を横たえたまま湯飲みに入った酒をグイっと飲み干した。
「でもおさよは、俺に席に座って欲しいっていって餅を食べてくださいって笑うんだ」
「遠慮はいらん、おさよの為にワシが買って来たんだって叔父貴が茶々いれやがる」
「おさよはそれならって。楊枝でほんの小さく切ったのを口に運んで、ああ美味しい。叔父様ありがとうございますって笑うんだ」
「叔父貴はそうかそうかって鼻の下伸ばしてな」
おさよは残りを俺のところに持ってきて「旦那様、お口を開けてください」って餅を放り込んで、懐紙で俺の口まで拭って。
「叔父様がわざわざ向島まで行って買ってきてくださったから、余計に美味しく感じます」って笑うえくぼの出る顔が、【飛び切り可愛い】って話よ」
おさよ可愛い、おさよは最高の嫁。もう天野の独壇場だった。津島は胡坐をかいたまま、ずっと幸せそうな天野の話を聞いていた。おさよとの縁談はこの冬から春にかけての出来事か。もうずっと前の事のような気がした。天野は、ふと津島の文机の上を見た。ユキのハンカチーフが置いたままになっていた。そのまま起き上がった天野は、後ろ手について足を伸ばして座った。
「なあ、戸越の姫さん、九月に結納式だってよ【宗秩寮】の事務方が発表してたぜ」
華族との縁談ってなんだな、新聞にまで載るんだな。天野は感心していた。津島は息が止まりそうだった。鳩尾に思い切り砂袋をぶつけられたような。自分が座っている畳の底が抜けて真っ暗な地の底に落ちて行くような気がした。結納式。男爵家に嫁ぐのか。
鎌倉の陽の光の下のユキの横顔を思い出す。光に透けそうな白い肌に薄い茶色の睫毛。哀しそうな横顔。しっかりと眼をみつめて見上げて来た笑顔。少しだけ触れた指先。白いハンカチーフ、【y】はユキのワイ……。何もかも、もう手が届かなくなる。雲の上のような世界で、きっとそれでも行ってみたいと望んだ場所に、あの人は行くことをずっと……。
顔色を失くしたままじっとしている津島を、天野は心配そうに見ていた。
「なあ、俺の経験だとよ。相手と約束を交わさない内は、話はないも同然だ」
「これは主任も言ってた。結納をかわしておらん内は、いつでもご破算にできる」
「それが縁談ってもんよ」
天野は自分の意に沿わない相手と結婚しなくて良かったと心底思っていると豪語した。惚れたおさよを嫁に貰って、こんなに幸せなことはない。人間、旨くできてんだ。惚れた腫れたは、どうしようもねえ。要はここ。そう言って、津島の胸をぽんっと叩くように押した。
「ここで感じる通りに動けば、おのずと道は開くってもんだ」
そう言って、天野は再びおさよは可愛い、飛びっきりの嫁だと再び自慢を始めた。津島は、今更ユキが縁談を反故にすることは決してないと思った。だが自分の心はどうだろう。胸の気持ちは。
後悔ばかりだ
ユキをさらって逃げればよかった
あのまま小田原まで人力を乗り継いで
西に向かう船に乗ることも可能だった。
大坂、神戸、大分、薩摩には警視局が新しい駐屯所を置いている。
戦役で荒れた鹿児島を黒江小警部が警備されている。
巡査の仕事につければ、ユキを養っていけるだろう。
温暖な鹿児島で慎ましく二人で暮らすことが。
だがもう遅い。戸越の屋敷の中で、もうユキは外に出ることを諦めているのかもしれない。どうやって連れ出すことが。自分は巡査を辞職する身。なんの後ろ盾もない。手元にあるのは僅かな貯金だけ。そんな自分の元に誰が好き好んで……、ついて来るだろう。
夏の嵐が二日続いた後、急激に気温が上がった。暑さの中で、馬は疲れやすい。特に神夷は身体が黒い分、陽の光に長く当たることを主任は避けていた。奥さんが日向水を用意して待つ診療所で、水浴びをさせてやると雲雀も神夷も喜んだ。雲雀も神夷も、津島の気持ちが沈んでいるのを知っているかのように、励ますように鼻先や尻尾で背中や肩を叩いてくる。馬の眼は、いつも津島の心をじっと見つめてくる。優しい瞳。何もかも知っているぞという顔をして、鼻先で頬を小突かれることもあった。
主任もそうだった。ずっと黙っている。でも何もかも知っているのはわかる。田丸警部も署長も、ただ何も言わずに、信頼を寄せてくれている。それが有難かった。暑い日中に、神田方面の巡察に出掛けた。京屋の時計塔。見上げると白い陽の光に霞んで見えた。人出が多い。上野から浅草に向かうと更に人混みで道が塞がれていた。四万六千日。縁日に集う人々。馬を降りて、木陰で休ませた。主任がほおずきの鉢を買って来た。
「妻は朝顔とほおずきが大好きでな」
そう言って器用に馬の鞍に植木鉢を結びつけた。四万六千日の功徳。自分も受けられるだろうか。御利益がもし、自分のたった一つの願いを叶えてくれるものなら。そんな風に思いながら、主任を待たせて自分も参拝してほおずきの鉢を買った。
夏の昼間の熱い風は、草の匂いを跳ね返す。
別の日に、騎馬で巡察に出た品川通りの水飲み場で、ふと胸に強い焦燥が走った。
——ここで感じる通りに動けば、おのずと道は開くってもんだ
天野の言葉を思い出す。胸のポケットには白いハンカチーフが入っていた。ユキの【y】。これはもう自分の中の記号だった。もう決して開けることのない鍵。でもそれを開いて連れ出したい、外の世界へ自分が連れて行く。どこへでも。
気づくと、品川通りから戸越に向かって馬を走らせていた。
つづく
→次話 明暁に向かいて その41へ
(2019.03.29)