秋昼後刻

秋昼後刻

明暁に向かいて その43

明治十一年九月

しりとり

 診療所の縁側で総司が仰向けに寝そべったまま膝を立て、そこに赤ん坊をお座りさせている。

 茶色の着物に山袴。京の屯所に居た頃のような恰好だが、髪は短くおろしている。総司は時折、こうやって気まぐれに人の姿で縁側に座ることがあった。千鶴が台所と居間を行ったり来たりしているのを、赤ん坊は目で追いかけているが、総司が持たせる竹の玩具を手に受け取っては、口元に持っていき確かめるように舐めた後床に投げる。総司は、赤ん坊に指の先を掴ませて揺らしては、「はい、どうぞ」と言って、拾った玩具を差し出す。この繰り返しの遊びを赤子は大層喜んだ。縁側の向こうの中庭では、豊誠が木刀を振り回して、猫の坊やとごっこ遊びに興じていた。

 千鶴が昼餉を用意して全員で食べた。赤子は豆腐のあんかけの崩したものを匙でふた口、お粥を小さなお茶碗に半分、冬瓜のすりつぶしも美味しそうに一口食べた後に、たっぷりと乳を飲んだ。食事が終わると、居間の座布団の上で眠った赤子の傍で、いつのまにか総司は猫の姿で丸くなって眠り始めた。千鶴は夕餉の準備をして台所を片付けると、居間で繕いものをした。そして、遠くに長男が庭で遊ぶ声を聞きながら、膝の上に縫物を置いたままうたた寝をし始めた。

 縁側で豊誠の笑い声が聞こえた。

「しーりとーりはじめましょ」

 総司の唄う声。子供が「はじめましょ」と繰り返して笑っている。

 おにわ

 子供の大きな声が聞こえた。千鶴はゆっくりと身体を起こしてそっと縁側を眺めた。縁側には総司と豊誠が二人並んで座っていた。総司は朝と同じ姿で縁側に腰かけて、両腕を後ろについている。庭からの光で、総司の輪郭はぼんやりとして見えた。

 わ、わ、わかめ

 総司がそう答えると。子供は「めだか」と続けた。

「からす」と総司が答えると、子供が「すずめ」とすぐに答えた。

 め、め、めだか

 総司が微笑みながら答えて。「落っこちた」と笑うと。子供はけたたましく笑った。

「僕の負け。はい」

 総司は額にかかった前髪を上げると、子供の前に顔を差し出した。子供は傍にあった小皿から墨を指につけると、ばってんを書いてぐしゃぐしゃと声をたてて笑った。

 次は坊やからと云われて。子供は「しーりとーりはじめましょ」と唄った。総司は「はじめましょ」と続ける。

 つちぐも

 坊やは叫んだ。総司は、「つちぐもー。おっかないなあ」と怖がるふりをすると、途端に坊やは愉快そうに笑った。

「じゃあ、くもきりまる」

 総司が答えると、坊やは嬉しそうに立ち上がって居間の行李の中から絵草子を取り出して、土蜘蛛を退治する源頼光の絵を見せた。

 そうそう、蜘蛛斬丸。頼光の刀。

 坊やは、腰にさした玩具の木刀を抜くと。

「やーやーわれこそは、みなもとのらいこーなるぞ」と見栄をきって振り回し始めた。総司は立ち上がると、「やる?」と答えて縁側に降り立った。庭に出た坊やは、青眼で構えると、「やーっ」と気合をいれて思い切り、総司に突進していった。総司は、楽々と躱すと。両手を襲いかかるように広げて「つちぐもお化けだぞーー」と追いかけ始めた。

 子供は、きゃっきゃと声をたてて逃げ回っている。いつのまにか、猫の坊やも一緒になって走り回り始めた。坊やは、再び「おのれ、つちぐも」と叫んで、総司に斬り付けるように木刀を振って突進していった。

 総司は、両手を上げたまま脇腹を撃たれて。「うわ、やられた」と苦しむ振りをした。膝をついてしゃがむと、猫の坊やが駆け寄って抱き着く様に凭れ掛かっている。

「どうだ、参ったか」

 絵草子の頼光さながらの見栄をきって踏ん張って立つ前で、総司が「恐れ入りました」と首をうなだれた。猫の坊やが心配そうに総司の首にぶらさがるようになって、にゃーにゃーと鳴いている。総司は、猫の坊やを抱きかかえると。

「坊やの頼光は、強いね。つちぐも退散」と縁側にひょいひょいと逃げ帰った。

 坊やは満足そうに、腰に木刀を戻すと縁側に総司を追いかけるように戻って腰かけた。

「僕の負け。はい」

 総司は、今度は右の頬を差し出した。坊やは墨でばってんをつけて、けらけらと笑っている。

「こうやってね、闘っていくんだ」

「きっと強くなる。君の父上みたいに」

 総司はそう云うと大きな手で坊やの頭を撫でた。

 気が付くと、千鶴は赤ん坊の傍で突っ伏すような態勢で眠っていた。赤ん坊は小さな声をたてて泣いていた。おしめが濡れているようだった。千鶴は赤子のおしめを替えて乳をあげた。機嫌がよくなった子供を抱っこして背中をとんとんとしながら、総司を見ると、総司は縁側に近い敷物の上で丸くなって眠っていた。よくみると、総司の小さな額に黒い墨がついている。千鶴は、総司が坊やと遊んでいたのは夢ではなかったと思いほっとした。微笑みかけながら、総司の額から背中にかけてそっと優しく撫でると、縁側から下りて坊やを探しに母屋の向こうに廻った。

 子供は、物干しの傍で猫の坊やとビードロ玉を転がして遊んでいた。千鶴は、赤ん坊を背負って洗濯物を取り入れると、台所で夕餉の支度にとりかかった。「母上」と呼び掛けられた千鶴は、お勝手の入り口に立つ坊やが手のひらいっぱいの野草を持っている姿を見た。診療所の庭一面に咲いている、はこべの若葉。子供は千鶴が摘んで、料理に使うのを覚えていた。千鶴は「ありがとう」と礼を言って、夕餉のお味噌汁に入れましょうと笑った。



*****

お習字

 秋の日の午後のこと。

 縁側の敷物の上に、紙を置いて正座をした豊誠は筆を持たされていた。

 ひらがなの【い】の手習い。正面には胡坐をかいた総司が猫の坊やを膝に載せて、紙の上に豊誠が筆を動かすのを見ていた。ひととおり、紙の下まで書くと、坊やは余白に大きな円を描いた。その中に筆の先で点を二つ勢いよく打った。その下に【一】と書いて右に払った。千鶴は、赤子を抱っこしながら、居間に立って息子の様子を眺めていた。子供は、筆に墨を付け直すことなく、勢いよく円の真ん中に筆を立てた。ぐりぐりと押し込むように全身の力をこめて点を打った。そして、筆を上げると、その隣に筆を押し込むように立てて穿った。満足そうに筆を置くと、紙を持ち上げて総司に見せた。

「それ、だーれ?」

「ちちうえ」

 坊やは嬉しそうに笑っている。豊誠の描く似顔絵。必ず紙に穴がふたつ開く。鼻の孔らしい。次に子供は、総司の顔も描いた。総司は「へえ、よく似てるね」と感心していた。そして自分も筆をとって、新しい紙に何かを書き始めた。猫の坊やは、豊誠と総司の間に綺麗に背筋を伸ばして座って、ずっと尻尾を揺ら揺らとしながら総司の筆の動きを眺めていた。

 真剣な横顔。

 千鶴は総司の筆を持つ姿を懐かしく眺めていた。京の屯所では、総司は桐の立派な文箱を持っていた。美しい硯と筆。江戸を出る時に姉上に持たされたと言って、とても大切にしていた。総司は達筆で、用途によってさまざまな字を使い分けた。真似字も得意で、千鶴の手跡を真似て悪戯をされたこともあった。総司は、あの頃と同じように、ぴんと背筋を伸ばし、さらさらと美しい文字を書いた。

 □いん〇〇△こじ

 坊やに書いてみせたお手本は、四角と丸、三角が混じった四文字。【ん】は初めて習う字だった。子供は、総司に筆を持たされて、お手本に沿って、四角を描いた。上手にかかれた□で紙はいっぱいになった。子供は夢中に描く。【い】【ん】【こ】【し】と字も習って、払いも上々。濁点の付け方も完璧。総司に上手だと褒められて、豊誠は夢中になって練習した。

 紙は、四角と丸と三角だらけになった。四角いん丸丸三角こじ。その上から、何度も総司が子供の筆に手を添えて練習。豊誠は、「しかくいんまるまるさんかくこじ」と唱えながら、しっかりと書けるようになった。不思議な手習い。千鶴は、まだ文字を覚え始めた長男に、総司が覚えやすい方法で字を教えているのだろうと思った。半分遊びながら、絵を描く様に。千鶴は総司に坊やたちを任せた。そして、赤子をおんぶして、洗濯ものを取り入れに母屋の西側に出ていった。

 暫くすると、中庭で坊やが二人駆けっこをして遊んでいる姿が見えた。縁側には、手習いの紙が綺麗に重ねられて、文鎮が載っていた。硯と筆を揃えたまま。その向こうの居間の敷物の上で総司が丸くなってすやすやと眠っていた。夕方になっても総司は目覚める様子がなく、秋風が障るのが心配になった千鶴は、毛糸で編んだひざ掛けを持ってきて総司を覆うように掛けた。結局総司は、そのまま夕餉も食べずに眠り続け、夜更けに仕事から戻った斎藤が総司を子供の布団の上に移動させた。


****

中庭での手合わせ

「総司はずっと眠っておるな」

 午前中非番で家にいた斎藤が居間の敷物の上で眠る総司を眺めて呟いた。千鶴の編んだ毛糸のひざ掛けと鹿の皮の敷物の間で、日がな眠るのが総司の日常となっていた。気まぐれに起きてきては、赤ん坊と戯れ。豊誠と猫の坊やが庭で走りまわるのを眺めている。

「ねえ、これ噛むのが面倒」

 一度、千鶴が出した「煮干しの混ぜご飯」を見て、うんざりしたように云うと、総司はごろんと横になった。千鶴は赤ん坊に用意していたお粥にしらすを混ぜたものを木のお茶碗に出した。総司はぺろりとそれを食べて満足そうに毛繕いした。千鶴は、その日以来、赤ん坊と同じ物を総司に出すようになった。

 彼岸の夜は、総司の希望で煮奴にカレイの煮つけを用意した。斎藤は早めに風呂に入って、総司との手合わせを楽しんだ。千鶴は、赤ん坊と先に布団で横になった。

「戸越での稽古。この前観に行ったよ」

 ひととおり手合わせを終えた総司が縁側に腰かけて呟いた。陰の構えで攻めた方が優利かも。総司は、杉山の剣筋の事を話しているようだった。

「来ておったのなら、一緒に」

「いいよ、あのひと、本気で仕返ししてくるから」

 総司は杉山の事を話しているようだった。

「あんな風に稽古つけてる人って、最近はいないんじゃない」

「いくら広い東京でも、木刀を本気で振ってる人なんてさ」

「お玉が池、九段、下谷の練武館……」

「僕が覗いた場所は、どこもね、ちょっと下火」

 総司は寂しそうに呟いた。ねえ、はじめくん。骨のある子たちをさ、鍛錬して手合わせして。闘いに備えてやれてたあの頃って、強くなれたよ。ほんとに。

 総司は懐かしそうな表情をして、じっと空を見上げた。半月にうっすらと雲がたなびいて、雲間に星が見えていた。斎藤も総司もずっと長く黙ったまま、夜空を見上げていた。

「はじめくん、もうそろそろ僕戻らなきゃ」

 近いんだ。

 総司のこの言葉を聞いて、斎藤はやはりと思った。鳩尾から丹田にかけて衝撃を受けたように、何も言葉がでてこない。ずっと、この時がくることを。内心は解ってはいた。それでも堪える。

 ずっと、俺が望んだまま。共に。

 共に戦え続けるものだと思っていた。総司。斎藤は総司を見ると、その輪郭はうっすらとして見えた。まるで霞みがかかったように。

「千鶴ちゃんにはね、眠っている間に挨拶をしておこうと思う」

 あの子が一番めそめそしそう。

 総司は微笑みながらずっと夜空を見上げている。さみしそうな横顔。

「甲羅屋敷の試衛場で、はじめて会うた日から」

「ずっと共に、ずっとそれが続いていると思っていた」

「……、俺はあんたを引き留めてしまっておった……」

「総司、礼を言う」

 ありがとう。

 総司は頷いていた。やりたいことは全てやり終えたよと笑う総司は、満足そうな様子で後ろ手について、また夜空を見上げた。

「近藤さんがね、褒めてくれた」

「有為無常は世の理、その中で後悔せぬように生きるのが武士の務めだって」

「それを全うした僕は、尊敬に値するって」

 近藤さんがそこまで褒めてくれたのって、初めてでさ。

 嬉しいよ。

 待ってくれてるんだ。向こうで。

 僕は近藤さんのご相伴ならどこでもって言ってある。

「ねえ、はじめくん。僕はこうしてここに留まっちゃったけど。また、別の命になって戻って来ることもあるらしいから」

 会えるよ、きっと。どこかでね。

 総司は涙ぐむ斎藤に笑いかけた。「泣いてるの?はじめくん。嘘でしょ」と俯く斎藤の顔を覗き込んで笑った。

 それから、最後の手合わせをした。思う存分に。総司の翡翠の瞳は剣を振るたびに輝いていた。



*******

永日

 翌朝、斎藤が出勤するときに、珍しく総司が玄関先に見送りに出て来た。

「それじゃあ、またね、はじめくん」

 そういって口角を上げた総司の顔を、斎藤は振り返って見つめ返した。総司はフワフワの尻尾を揺らすと、そのまま前に持ってきて綺麗に前足の前に揃えた。斎藤は微笑み返した。

「ああ、またな。総司、また会おう」

 それは斎藤が総司に声をかけた最後の言葉になった。

 それから総司は、鯵のほぐし身を混ぜたお粥を一口食べると、水を飲んで縁側で横になった。日が高くなって、温かい陽射しが射す縁側で総司はずっと眠り続けた。子供を遊ばせながら、千鶴は家事を終えると、ずっと眠り続ける総司をひと撫でした。

「それじゃあ、ちづるちゃん」

 ふと、総司の声が聞こえたような気がした。空耳。総司が話しかけてくるときは、人の姿になったり、驚かしたりする時。千鶴はきょろきょろと辺りを見回した。縁側に陽が陰ってきたのが気になって、千鶴はひざ掛けを持ってきて、総司の上にそっと掛けておいた。

 夕方、縁側で総司が動かなくなっているのに気付いた。

 まるで眠るように、静かに。

 冷たくなった体は、抱えるとくったりとして

 その亡骸は軽いのに総司の存在そのもののように大きな重さに感じた。

 止め止めもなく流れる涙が総司の毛の上に落ちて行く。

 豊誠も堪えた涙がぽろぽろと頬を伝って流れていた。

 千鶴は、籐の籠の中に毛糸の膝かけに包んだ総司をそっと寝かせた。

 居間で、総司を眺めながら赤子に食事をたべさせて乳やりをした。

 夕暮れ時に斎藤が戻った時、豊誠は総司の籠の傍で泣きつかれて眠っていた。子供たちを奥の間に寝かせて、千鶴は斎藤の腕に抱かれたままずっと二人で総司の話をして夜を明かした。

「明日は非番だ。皆で弔おう」

「お庭に埋めて欲しいって。沖田さんが仰っていました」

「夢の中で、冗談のように。僕は猫だから化けてでるって」

「総司なら、悪戯にそうするだろう」

「麻布の寺にも参ろう」

「そうですね。元はあのお寺にいらしたんですから」

「坊主は、死に目に会えたのか」

「いいえ、声を聞いたのは私だけで、豊誠は庭で猫の坊やと遊んでいました」

「坊やには、暇を告げてあるって沖田さん仰ってました」

「そうじ、眠ったままもう起きないの?って何度も」

「子供ながらに、よく解っておるのだろう。あれは、一番密に総司と暮らしておった。赤子の頃から以心伝心で」

「わたし、沖田さんには感謝してもしきれません」

「ずっと守ってくださいましたから」

「はじめさんが戦役にでている間も。わたしと坊やたちを」

「ああ、総司は、皆を守っておった」

「やり残したことは全てやり終えたと」

「満足しておるのだろう。そんな顔をしておる」

 口角を上げたまま微笑むような表情で眠る総司の顔をみて、斎藤と千鶴は微笑んだ。陽が昇り始めた頃、千鶴は庭から萩の花を摘んで籠に入れた。遅い朝食を皆で食べた。子供は言葉少ないまま。斎藤は、庭の一角に深い穴を掘った。子供も一緒に土を掬い上げて手伝った。その間、千鶴は総司にブラシ掛けをしてふわふわの毛の束を鋏でそっと切り取った。紙に包んだ胡桃色の毛束を仏壇に供えて、もう一度庭から沢山の花を摘んで籠の中を一杯にした。花に囲まれた総司の顔は安らかで。千鶴は何度もその額や頬を撫でた。涙が溢れて止まらない。

 三人で庭に総司を埋めた後、線香を手向けた。いつも総司が使っていた木のお椀に水を入れて供えた。猫の坊やも傍でその様子をじっと見つめている。千鶴は坊やを抱きかかえると、優しく頭から背中を撫でた。

「お父様からあなたのことは、くれぐれもと」

 千鶴の腕の中で、猫の坊やはじっと撫でられるままになっていた。昼前に麻布の専称寺に総司の毛の束を持って家族全員で出向いた。住職は、快く毛の束を墓中に納める事を承諾し、流転の話を分かり易く聞かせてくれた。

 生きとし生けるものは全て死に

 生まれ変わって

 永遠に流れていく

 際限なく

 おわりがなくいつも変って行く

 この説法は、総司と別れたばかりの斎藤たちの心を落ち着かせ癒すものだった。別れは悲しい。生きるものは皆死に、生まれ変わる。永遠に終わりはなく移り変わっていく。

 ひとところにとどまらず、すべてが永遠に流れていく

 だからこそ、今が大切。変わって行くからこそ、この刹那を大切に。

 住職の話は悲しみに沈む千鶴たちの心に染みわたった。

 それから斎藤達は、総司と沖田家の墓に参ってから診療所に戻って来た。



*****

□いん〇〇△こじ

 総司のいない日常は、どこかがらんとしていた。

 秋風の中にふと、総司のふわふわのしっぽが揺れている様子が思い浮かぶ。そんな時は、いつものように、中庭を横切ってふらっと帰ってくるのではと、総司の姿を探してしまう。

 赤ん坊の成長は早くて、居間の畳の上で達者にお座りをして、傍を通る猫の坊やの尻尾に手をのばしたり、豊誠が家の中を駆け回るのを目で追いかけて、けらけらと笑ったりしている。少し目を離すと、いつの間にか這って部屋の隅に行くこともあった。子供たちの世話で一日があっという間に過ぎる。遊びまわる子供たちの笑い声。心にぽっかり空いた穴に、子供たちの笑い声が優しく響く。悲愁に沈む気持ちを慰めてくれるように。

 斎藤は、総司との鍛錬が出来なくなった分を補うかのように、頻繁に戸越の津軽屋敷へ出向いている。休みの日に道着を持って出掛けて行く斎藤を千鶴は、どこか懐かしい気持ちで送りだしていた。斎藤は生傷が絶えなくなった。風呂場で赤く腫れあがった肩や、脇腹の黒ずんだ痕を見て、手当てをするからと慌てても、「大事はない」の一言で片づける。風呂上がりに膏薬を用意して、居間で待っていると斎藤は仕方なさそうな様子で手当てをされた。

「手当てを早くすると、この様に黒ずんで痕が残ることはないのに」

 千鶴は小言を言いながら、次に道場稽古から帰ったら必ず打ち傷は見せるように斎藤に約束させた。

「はじめさんは昔からそうです。屯所に暮らした頃から。我慢強いのは構いません。ですが、怪我をされたら手当てを受けるのは、当たり前の事です」

 千鶴は諭すような調子でそう言った後に、包帯や晒しを片付けながら急に思い出したようにくすくすと笑い出した。

「屯所に居た頃、はじめさんや相馬君は怪我をしてる事を隠すのを知っていました」

「平助くんは、怪我をしたと直ぐにみせに来て、永倉さんは、大怪我をしていても大丈夫だって笑ってらして。原田さんは、「悪いが、ちょっと診てくれ」って申し訳なさそうにいつも」

「沖田さんは向こう傷だって自慢げに。皆さん、ほんとに違っていて、当時はとても不思議でした」

「怪我をすることを武士の恥だと思っていらっしゃる隊士さんも大勢いて。はじめさんと相馬君は中でも一番頑なでした」

「どうすれば手当てをさせて貰えるのだろうと、いつも悩んでいました」

「土方さんにお願いして、はじめさんを説得してもらったの、覚えていらっしゃいますか?」

「それでも大事はございませんの一点張りで。土方さんも呆れていらっしゃいました」

 千鶴はくすくすと笑いながら手当道具を胸に抱く様に持って物入れに仕舞うと、行灯を消して斎藤と一緒に布団に入った。剣術の鍛錬をされるはじめさんは、屯所に居た頃のようです。そっとそう言って微笑むように目を瞑った千鶴を斎藤は抱きしめた。

 翌日の朝、斎藤は中庭で素振りをして、息子の豊誠に稽古をつけた。土方から貰った大きな木刀をぶんぶんと振り回す子供に、構えと足の踏み込みを何度も根気よく教えた斎藤は、稽古の後に総司の埋められた場所に息子と一緒に手を併せてから居間に戻って来た。

 中庭の朝稽古はそれからずっと続いている。まだ小さな息子が、自分で起き上がって顔を洗い、木刀を持って中庭にでる姿は父親に瓜二つで、台所の窓から二人の稽古の様子を見ながら朝餉の用意をするのが千鶴の楽しみになった。

 沖田さん、ご覧になっていらっしゃいますか。

 こんな風にいつも語りかける。以前は心の中に聞こえた総司の声が聞こえない。それでも、いつも語り掛ける。ずっと。これからも、ずっと。

 斎藤が夜行巡察で家を空けた夜。千鶴は子供と一緒にお風呂に入った。赤ん坊に乳やりをしている間、豊誠は絵草子を開いてひらがなを読んでいた。抱っこをされている間にぐっすり眠った赤ん坊を布団に寝かせると、千鶴は隣の布団に横になった長男に絵草子を読み聞かせた。大好きな土蜘蛛退治の物語。何度繰り返し読んでも、まだ聴きたがる。読み終えた後、まだ目をあけたまま嬉しそうに微笑む息子に「おやすみ」と千鶴は言って灯りを消した。子供の肩に布団を掛け直そうとしたとき、ふと何か固いものが手に当たった。暗がりでよく見ると、それは土方から貰った木刀だった。

「ははうえ、これから土ぐも退治にいってまいります」

 坊やの眼がきらきらと暗がりに光っているのが見えた。

「木刀を持って?」

 千鶴が尋ねると、子供は頷いた。

「そうじを呼んだから」

「沖田さんを?」

 子供は頷くと、布団から手を出して空中を指さした。

「しかくいんまるまるさんかくこじ」

 指先で宙に四角や三角を書きながら繰り返すように呟いた。

「こうやって呼ぶと、そうじがくる」

 千鶴は驚いた。子供は目を瞑ったまま微笑んでいる。子供が下ろした手を千鶴は握った。温かい。そのまま布団の中へ仕舞うと、上掛けを掛け直した。子供は眠りについたようだった。おでこにかかった前髪をそっと掻き上げるように撫でて、千鶴はそっと額に口づけた。

「母上、ぼく、ははうえを守る」

「総司と約束したから……」

 目を瞑ったまま子供は呟いた。夢を見ながら話しているのか。微笑むような表情で。千鶴は頷いた。目から涙が零れる。千鶴は眠りについた子供の満足そうな顔を眺めてから立ち上がった。物入れから仕舞っておいた子供の手習いの紙を取り出して、居間に持って行った。

 行灯を再び灯して一枚一枚、子供と総司が書いた習字の紙を読んでみた。

 ▢いん〇〇△こじ

 四角院円々三角居士。沖田さんの戒名。こんな風に。坊やに教えて下さっていた。

 期永日之時候

 恐々謹言

 紙の端に達筆な文字でそう書かれてあった。えいじつのときをごしそうろう。沖田さんの文字。あの日、真剣な横顔でこうしてお別れの言葉を……。千鶴は紙を胸に抱きしめた。沖田さん、沖田さん。

 ありがとうございました。

 いつも寄り添って

 いつも守ってくださって

 ▢いん〇〇△こじ

 これからは、私も。お話したいときに呼び掛けます。

 どうか、いつかゆっくりと春の日にお戻りになった時に

 沖田さんの大好きな鰈かれいの煮つけを用意して待っています。

 千鶴は、総司の手跡をそのまま仏壇に立てるようにして手を併せた。

 翌日、巡察から戻った斎藤に総司の別れの言葉を見せた。斎藤は涙を流す千鶴を優しく抱きしめて宥めた。それから、陽が高くなると診療所の並びに住む植木屋の長次郎の家を訪ねて行って、小さな御影石を注文して帰って来た。翌々日、長次郎が中庭に石を持ってやってきた。ちょうど昼に戻った斎藤がそれを受け取り、庭の一角にある総司の墓の上に丁寧に積み上げた。

 四角の土台に丸い石、その上に三角の屋根のように置かれた石は、小さな灯篭のようだった。子供たちを呼んで、墓石を見せた。

 四角院円々三角居士

 総司の戒名通りの墓だ。そう言って斎藤が線香を手向け、子供たちは庭で花を摘んで供えた。皆で手を併せて総司に話しかけた。

 随分、立派じゃない。

 どこからか総司の声が聞こえたような気がした。斎藤は微笑んだ。

 診療所の庭の一角。小さな灯篭。そこは神聖な場所になった。斎藤たちは、「総司塚」と呼んで、稽古の後は必ず手を併せた。子供たちは皆、剣術の道に進んだ。大切な試合の前には必ずこの神聖な場所で必勝を祈った。

 一家と共に暮らし寄り添い

 守り続けてくれている友

 剣聖の魂

 気まぐれで悪戯好きで、翡翠色の瞳をした胡桃色の総司

 幕末から明治にかけての動乱の時代を

 勇敢に闘い生き抜いた

 斎藤と千鶴の子供たち、その子供たち、そしてその子供たちに

 その後もずっとそう語り伝えられ、総司塚は守られていった。




→次話 明暁に向かいて その44 番外編




(2019.04.20)

コメントは受け付けていません。
テキストのコピーはできません。