船徳

船徳

明暁に向かいて その44(番外編)

明治十一年七月

 新盆を迎えるというお多佳に呼ばれて、千鶴は午後から子供たちを連れて向島を訪れていた。

 久しぶりに会ったお多佳は、涼し気な藤色の絽の着物に麻の桔梗模様の帯を合せ、深い碧の硝子の飾り帯留めをつけていた。子供が庭で遊ぶのを、ゆっくりと二人で縁側に腰かけて眺め、その間赤ん坊は大人しく、ずっと昼寝をしていた。陽が傾きかけた頃に、土方と斎藤が一緒に帰って来た。

 そして、その直後に天野がおさよを伴って現れた。

「どうも、ご無沙汰しております」

 そう言って笑いながら座敷に上がって来た天野は、土方に会釈して挨拶した。おさよは、既に、前掛けをつけてお勝手で、お多佳の手伝いを始めていた。千鶴は、子供をあやしながら、配膳を手伝った。間もなく、皆で揃って膳の前について、冷酒の入った硝子の徳利が配られると、男たちは早速呑み始めた。

「俺の家は武州多摩で、昔から盆は八月に迎える。だが、お多佳は新盆で迎えるっていうもんだからな。急に呼び立ててすまなかった」

 土方は、久しぶりに皆を呼べて良かったと笑っている。天野は土方とお多佳に招待の礼を言って、天野の叔父が足の調子が思わしくないから本所の家で休んでいることを報告した。土方は、「湿毒か?」と天野の叔父の足の様子について尋ねた。

「いえね、夏負けでございますよ。観音様の縁日に出掛けまして。今日はもう歩けないからって。西村さんと女将さんに、どうぞよろしくと申しておりました」

 千鶴は子供に匙でおかゆを食べさせながら、土方と天野の話を聞いていた。おさよがお勝手から戻って、天野の隣に座わりお多佳も席について、和やかに全員で食事を始めた。

「私が戦役から戻って初めての功徳日でございましたから。叔父が随分と張り切りましてね、朝から本所を発ちまして」

 天野は数日前の非番の日に、四万六千日のお参りに行った話を始めた。同じ週末、斎藤は津島と巡察で観音様にお参りしたことを思い出していた。馬で向かった上野浅草界隈は、猛烈な暑さと人出だった。

「本所から山ノ福の渡しで山の宿町まで出ましてね。陽も上がって、日陰もない」

「あの日は、本当にうだるような暑さで」

 そこで天野は持っていた硝子のお猪口を一気に煽るように飲むと、隣のおさよに「なっ、あの日は、溶けちまうように暑かった」と頷くように笑いかけた。おさよは、頷きながら天野に給仕をして、隣の豊誠の皿の上の魚の身を丁寧にほぐしていた。

「朝早くから、おさよは髪結いに行って、縞の絽の着物を着ましてね。帯も女将さんから頂いたのを締めて、そりゃあ涼し気で粋な様子でね」

「別嬪なおさよを連れて、観音様の帰りに鰻でも食べて帰ろうなんて、言ってましてね」

 今日のおさよは、縞ではない露草色の涼し気な絽の着物を纏っていた。おさよはいつもこざっぱりとした装いだ。昔からお多佳の色見立てで着るものを選んできたおさよは、嫁入りした後もお多佳から習った着こなしで所帯臭さを一切感じさせない。

「それが、山の宿の道に影がないものですから、叔父貴の奴、もう乗り合いに乗るのは暑いから嫌だと言い出しまして」

「叔父は、この近くに知り合いの船宿があるから、舟で今戸から観音様に出よう。それじゃなきゃ、動かねえって我儘を云い始めましてね」

 おさよが叔父様の言う通りにしましょうと云うんで、そのまま船宿に立ち寄ったんですが、四万六千日だ、宿の舟も船頭も出払っちまっている。船宿の女将は、叔父貴と懇意にしている様子で、座敷に案内して冷たい麦湯と濡らした手拭でもてなしてくれまして。

 そこで一息ついていたら、艀に繋がる廊下で一人、船頭らしい若衆の姿が見えたんですよ。叔父貴が煙管を吹かして、ぽんとやると女将を呼んで尋ねた。

「女将、あそこの兄さんに一丁、浅草まで頼めないかい」

 女将は、廊下を覗いて、「あれでございますか、あれは、ちょいとね……」と言葉を濁す。「一丁頼むよ、女将」「この暑さだ、ここから川伝いに観音さんまで出られれば、昼までにはお参りを済ませられる」、なんて叔父貴は上手に頼みこみましてね。

 そんなやり取りを廊下の若いのが聞いていたのか、立ち上がって褌を締め直すような塩梅で、張り切りだしましてね。猪牙も一艇残っていたものの筵をはぐって用意し始めた。

「私たちも、すぐに立ち上がって艀に向かいましてね。なにせ最後に残った舟が確保できたんで、これも功徳のあやかりだって」

 それが、女将だけが、おかしな顔して、なんども船頭に念を押してんですよ。

「ちょいと、若旦那。ほんとに大丈夫なんでございましょうね。あたしゃ、知りませんよ。どうなったって」
「いいって、女将。いいから」
「私のことは、徳って呼ぶんだよ。困った奴だね」
「そんなら、徳さん。ほんとに、ほんとに大丈夫なんでございますか」

 二人が囁くような声で押し合っているんでございます。

「この時にね。引き返していりゃあ良かったんです」
「舟なんて乗らずにね、馬車か人力でも呼べば良かったんですよ」

 天野は、皆の顔を一同に眺めながら、大きな声でそう言ってから、隣のおさよに「なあ」と同意を求めた。



******

 

猪牙で小便千両 

 舟には私が先に乗って、おさよの手を引いて舟の真ん中にある椅子に腰かけさせて、それから叔父貴を抱えるように上手く乗せました。

 さあ、行きやしょう、ってなもんで、船頭の「徳さん」が棹を入れましてね。「ふん、はあっ」って大声で踏ん張っているんでございます。何度も。何度もですよ。

 天野は空中に棹を持つように箸を掴んで、踏ん張って船頭の真似をしてみせた。隣のおさよも千鶴もクスクスと笑い始めている。

 ——あたしゃ、冗談かと思いましたよ。

「おい、兄さん。いくら棹を入れても、舟が舫ってあったら、出ようにも出せねえんじゃねえかい?」

 俺は、舟の後ろから縄が艀の杭に舫ってあるのを指さすと、徳さんは「そうでございますね、旦那」って随分と嬉しそうに笑ってこっちに向かって来る。その時に、棹を放したもんだから、棹がそのまま川に流れて行ってしまってね。それを「あー、畜生、流れちまったい」って徳さんは呟いただけだった。舟底をひょいひょいと走ってきて、艀の舫いを解いた。船頭は笑顔で振りかえると、わたしと叔父貴に声を掛けてきましてね。

「お客様、お願いがございます、ここで私が思い切り、艀を手で押しますから、隣にきて一緒に押して貰えますかねえ」

 おかしな事を頼む船頭だ。どこの誰が、舟を出すのに棹を使わないで手で押し出すんだい。そうでございましょ?

「ここで、降りておけばよかったんですよ」

 また天野は大声で言って、「なあ、おさよ」と隣のおさよに同意を求めた。土方がずっと笑いながら、箸を進めて聞いていた。

 

「まあ、お客様。申し訳ございませんね。ほら、これが新しい棹ですよ、徳さん」

 そこに気を利かせて現れたのが女将だ。別の棹を差し出した女将が、なんとか船頭に棹を持たせて、舟を出す事は出来た。陽は高くなってましたが、川の水の上を進んでいると幾分涼しい気もしてくる。叔父貴は、団扇を煽ぎながら「こりゃあいい」と上機嫌だ。おさよも日傘を差して笑っている。水面の光がおさよの可愛い横顔に、こうキラキラっと跳ね返って、舟で揺られてる様子は大層いい風情でございました。

 天野は嬉しそうに、そう話して煮物を口に運んで、「美味いです、これ」とお多佳に笑いかけた。

 女将に押された勢いで流れに乗ったのも束の間、今度は櫓に切り替えた徳さんの様子がおかしい。屁っ放り腰で、櫓を揺らしているだけで、一向に舟が前に進む様子がない。

「あれ、ってなもんです」

 河岸に歩く人の方が、どんどん進んでいるんですから。わたしは、船頭に、櫓の面が水を掻いてないんじゃねえか、って教えてやったんですよ。

「旦那、そうでございました」

 そういって、額に汗をたらたら流している。十篇かそこら、棹入れをやり直して、ようやく舟が動き出した。恐ろしくとろい舟だ。こりゃあ昼までに観音様には辿り着かねえんじゃねえか。そう思い始めたんです。

「この時にね、降りてしまえば良かったんです」

 また大きな声で天野が云うと、隣のおさよも同意するように大きく頷いた。

 そうこうする内に、叔父貴が小便をしたいと言い出した。困ったもんです。徳さんは、船底のどこかに「竹筒」があるから、それで用を足せと言って涼しい顔をしている。おさよが気を利かせて、船底の端に転がっていた竹筒を探してきた。

「心得ておる。わしは舟遊びには嵩じたもんよ」

 叔父貴は、「猪牙の小便千両」と言って若い日々の放蕩を自慢した。徳さんは、「そりゃあ、粋でございますね、旦那」と嬉しそうに応えている。叔父貴はふらふらと立ち上がって、船縁に立つと、前を開いて竹筒をあてがうと小便をする準備をしましてね。

 それが、何を思ったのか徳さん、急に舟を進め出して。機嫌よく舟歌を唄いだしたんですよ。舟が揺れた勢いで、叔父貴が後ろに倒れそうになりましてね。咄嗟に駆け寄ってなんとか支えましたが、叔父貴の小便は止まらない。

「そのうちに舟がぐるぐると河の真ん中で廻り始めましてね」

 舟が揺れるたびに、叔父貴の竹筒の先が揺れるもんですから、あっちこっちに出してるものが飛んでいく。立っていられなくなった叔父貴は、竹筒を持っていられないと叫んだ。その時だ、おさよが顔を背けながら、必死に手を伸ばして竹筒を受け継いだ。

「叔父様、わたしが持ってますから」

 叫ぶおさよは、日傘も放り投げて、着物の袖をまくって竹筒を掴んだ。

「可哀そうったらありゃあしねえ。せっかくの功徳日に、なんでまた訳の分からねえ舟の上で、叔父貴のなにをいれた竹筒をおさよが持って支えてんだって」

 土方が声をたてて笑い出した。斎藤も肩を震わせている。千鶴はずっと、両手で口を覆って笑い続けていた。

 あたしゃ、頭にきましてね。「おい、今すぐ、このぐるぐるを止めやがれ」って、船頭に叫びましたよ。

「この時に降りてしまえば良かったんですよ」

 また大きな声で後悔を語る天野は、グイっと一杯酒を飲んだ。

 ここは、鳴門の渦潮かってぐれえに、堀川にぐるぐると渦が巻く真ん中で、回り続ける猪牙舟。いつの間にか河岸には大勢の人だかりが出来ていた。船頭が器用に舟を廻している。渦の中で、船べりに立つ年寄りが竹筒で必死に用を足している。こりゃ滑稽だってなもんです。

「おい、いい加減にしろ、その櫓を止めろ」

 あたしは船頭の手から櫓を奪った。ようやく舟が旋回するのが止まった。徳さんは、目が回っているようだった。ふらふらになりながら、額から首から異常な量の汗を流している。よく見ると、この徳さん、つるんとした垢ぬけ顔で、船頭をしている割には日焼けもしていない色白な男だった。はあはあと肩で息をしていて、本当に苦しそうだった。

「おい、あんた大丈夫か。徳さん」

 そう言っている内に、背後で人が大声を出しているのが聞こえた。

「あれあれ、岸壁にぶつかるよーー」

 振り返ると、舟はどんどんと岸壁に引き寄せられるように進んでいる。その時には、叔父貴は用を済ませて、おさよは竹筒から手を放して船底にへたりこんでいた。叔父貴は、おさよにしっかり船底に掴まるように叫ぶと、持っていた蝙蝠の先を岸壁に向けて差し出した。叔父貴も侍だ。いくらよぼよぼでも、舟がぶつかって放り出されるぐらいなら、蝙蝠で突っ張ろうと思ったんだろ、踏ん張る叔父貴は、思い切り岸壁に蝙蝠を突き刺した。

「おじさまーーー」

 おさよの声が辺りに響いた。俺は、叔父貴がそのまま蝙蝠を持ったまま船べりから落っこちねえように、叔父貴の腰を持って後ろに引いた。舟はなんとか岸壁に突進せずに跳ね返って川の真ん中に戻っていったが、叔父貴の蝙蝠は岸壁にぶっ刺さったまま。

「おい、徳さん。引き返せ。叔父貴の宝物の蝙蝠だ。あれがねえと、杖がわりに歩く事もできねえ」

 俺は振り返ったが、徳さんは、うまく櫓で水を掴めたのか、綺麗にすいすいと舟を前に進め始めた。

「やっと、進み始めました。もう二度と引き返しません」

 涼しい顔で、「はあっ」「あらよっ」と意気のいい声をあげている。いい気なもんだ。

 ところが、その勢いもあっという間にまた止まった。櫓で水をどうやってもかけねえ。終いには櫓の先を完全に水から上げて、徳さんは首を傾げている。

「おい、いい加減にしろよ。早く舟を進めねえと、陽が暮れちまう」
「俺等はな、観音様のお参りに行くんだ」
「はい、それはわかってございます」
「さっきのぐるぐるの最中に、棹を流してしまいまして」

 徳さんは流石に悪いと思ったのか、舟を出せないと謝りだした。

「棹がねえと、出せないのか」
「はい、たぶん」
「多分ってなんだ。他にやりようがねえのか」
「はい、やりようもなにもさっぱりわかりません」

 そこに、河岸から誰かが声を掛けて来た。

「あれ、やっぱり若旦那だ。どうされました。そんなところで」

 見ると、船宿の法被を着た若い衆が岸壁の上から声を張り上げている。徳さんの顔がぱーっと明るくなった。

「いいところに来てくれた。お前たち、わたしゃ、駄目だ。猪牙ぐらい漕げると思ってたけど、これが限界だよ」

 そういって、ふんぞり返るように座り込んでしまった。

「わかりやした。そこでお待ちください、今縄を投げますので。直ぐに別の舟を進めて棹をお貸ししましょう。若旦那、お怪我はございませんか」

「いいよ、もう。あたしゃ、もう駄目だ。もう一歩も漕げないよ」

 徳さんは、若い衆に説得されても一向に動こうとしない。俺もおさよも叔父貴も開いた口が塞がらない。この若旦那。船頭ではないのか。そうこうしている内に、縄が投げられて、若い衆に引っ張られて縄梯子の近くまで舟が寄せられた。

「わたしは、おさよを抱えてね、舟から降りて、腰まで水に浸かってなんとか梯子におさよを登らせましてね」

「叔父貴を背負って梯子を必死によじ登りましたよ」

 おさよは、あの綺麗に結い上げた鬢が乱れ髪になって、帯も崩れちまってる。

「旦那様、命あるまま河岸に上がれました」って涙顔になっている。

 叔父貴は着物の裾を絞っていたが、面倒になったのか尻まくりをした。皺々の尻が丸出しのとんでもねえ恰好だ。私も濡れた着物を一旦脱いで、搾ってからようやく観音さんにお参りに向かいましたよ。

「大変だったな」

 斎藤が労いの言葉をかけた。大笑いしていた土方もおさよに「とんだ四万六千日だったな、おさよ」と声を掛けた。おさよは「はい」と笑顔で応えた。

「わたしらが降りた後、徳さんは船宿から迎えの舟が来るまで、猪牙の上で伸びていたそうです」



*****

 

後の功徳

 ——叔父貴の我儘で始まった猪牙舟騒動ですが、続きがありましてね。

 天野はそう言って、話にまだ続きがあると、食事を終えた後に再び話始めた。

「あの後、船宿からはお代を返しに女将が家までやって来まして。ずっと平謝りしてましたよ」

 あの「徳さん」ですが。本当は【磯谷徳兵衛】というのが本名でございます。船頭ではなくて、うちの店の者でもないのでございます。そういって、船頭のように見せてしまったことをひたすら詫びて帰って行きまして。私もおさよも、船頭じゃない徳兵衛さんに出逢ったのが運の尽きだなんていって笑っていたんですよ。

 この前、本所の家にこの徳兵衛さんが現れましてね。

「ごめんくださいまし。こちらは、天野様のご自宅でしょうか、ってんで。表にでたら、そこには随分と立派な身なりをした【徳さん】が立っていて」

 髭もあたって、髪も綺麗に刈られて。着物も立派な紋付でございますよ。風呂敷包をかかえた番頭を連れて、かしこまって玄関で謝罪をしたんでございます。

「わたくし、日本橋の海苔問屋守本の磯谷徳兵衛と申します。先だっては、大変皆々様にご迷惑をおかけいたしまして、申し訳ございませんでした」

 平身低頭して謝り続け、叔父貴が失くした蝙蝠の代わりにって、新品の蝙蝠を差し出しましてね。この徳さん。あの日本橋大棚の若旦那だったんでございますよ。放蕩で、船宿に入り浸り、ご実家からは勘当されたも同然で。そこで、私らが客として徳さんの舟に乗ったのが、あの功徳日の出来事です。この放蕩者の徳さん。流石に、船頭になる才覚がないと思ったらしくて、あの日の夜に女将に説得されて、ほぼ半年ぶりに家出していたご実家に戻られたそうです。

 心を入れ替えて、家業を継いでいく決心をされたとかで。

「今日、持って来た土産の海苔は、守本屋総本店のです」

「私たちで食べきれないぐらい頂きましたので」

 おさよが笑顔で、千鶴にも持って帰って欲しいと風呂敷から包をとりだして差し出した。千鶴は礼を言って喜んだ。

「本当に上等な海苔で、頂くのが楽しみです。有難うございます」

 そう言って、お多佳も喜んだ。天野は、「布団に出来るぐらいしっかりした、いい海苔でございます」と自慢して、皆を笑わせた。

「観音様は、やっぱり功徳を授けてくださいました。以来、この徳さんと飲みに行く間柄になりましてね」

 気のいい男でございましてね。おさよのことも、常磐津が上手いって一緒になって、二人でいい声で歌うんでございます。

「守本屋の先代様は、私が深川で芸子に出ていた頃は、大変お世話になりました。粋なお方で、それでいて堅実でご立派な旦那様でした。若旦那の放蕩の噂を時々は聞いていましたが、そうでしたか。あの先代様の後をお継ぎになる方なら、きっと確かな方でございましょう」

 お多佳はそういいながら、団扇でゆっくりと天野たちに風を送りながら微笑んだ。



*****

 

 向島でのお盆の後、里帰りしていた津島が署に現れた。斎藤から、津島が思い切って杉山ユキとの婚姻を杉山直成に申し出たことを聞いていた天野は、久しぶりに会った津島が清々しい様子でいる事に安堵した。

 あんなに魂の抜け殻のようになって意気消沈としていた津島がいつもの津島になって戻って来た。惚れた女と添う幸せは天野が一番よく知っていた。一時は巡査を辞めて、東京を去る決心までしていた津島と、これからも一緒に働くことができるのが嬉しかった。

「お前が里帰りしている間、主任一家と向島で盆休みを過ごした」
「来月、主任は長く盆休みを取られる」
「虎ノ門で働き始めてから、初めての長期の休みだそうだ」
「それから、向島の女将さんも八月に東京を暫く留守にするそうだ」
「なんでも、西村さんと陸奥の五戸に行くらしい」

 津島は、来月に入ると斎藤の家も、土方の家も忙しいのだなと思った。故郷の津軽で、正式に杉山ユキとの婚姻の許しを貰えた。これから戸越の津軽屋敷へ正式な挨拶に向かう。来月の盆明けには、津軽から兄夫婦が上京して、結納を執り行うことが決まっていた。全てが夢のような気がするぐらい津島は幸福だった。

 津軽屋敷での決闘のこと。主任には感謝してもしきれない。

 津島は、虎ノ門署で青山練兵所から戻った斎藤と久しぶりに顔を合わせて、津軽で婚姻の許しを杉山ユキの実家からもらえたことを報告した。近く、正式な申し込みをしに戸越へ向かうという津島は、ここ数か月の間見せた事のない笑顔で、斎藤に深く感謝の気持ちを伝えて頭を下げた。

 この後、月が替わってお盆休みの後に、杉山家と津島家の結納が執り行われた。そして九月に入ってから、斎藤と千鶴に祝言の仲人になって貰えたらと津島から打ち明けられた。これは杉山直成が、自身の市議会関係者に仲人は頼まないという決心からだった。斎藤も千鶴も喜んで引き受けた。その数日後、津島は初めて杉山ユキを伴って、診療所に現れた。



****

 

ユキとの対面

 千鶴は、玄関にあらわれた津島が背後に立つ杉山ユキを紹介した時、ユキの美しさに目を奪われた。その髪型からだろうか、まだ少女の面影を残す様子が見えた。ユキは、金糸雀色の着物を纏い、髪を後ろで纏めてマーガレイトに結って白いレースのリボンをつけていた。

「はじめまして、杉山ユキと申します」
「はじめまして。ユキさん。藤田千鶴と申します」

 ユキは診療所の母屋や中庭を案内されて、好奇心旺盛な様子で眺めていた。ユキはこれから津島と戸越の屋敷で暮らす事が決まっていたが、いつも心の中で津島と二人きりの所帯を夢見ていた。診療所の様子はユキの理想の家のような気がした。温かく、全て必要なものが揃っているような。目の前で優しく赤ん坊を抱いて微笑む千鶴は、本当に美しかった。

 お昼の膳を並べた時に、外から長男の豊誠が帰って来た。

「ただいま戻りました」

 そう言って、中庭の縁側から家に上がった豊誠は、千鶴に「津島さんのお嫁さんのユキさん」を紹介されて、「こんにちは」と挨拶した。一緒に帰ってきた胡桃色の毛の猫も、「ぼうや」だと紹介されたユキは、猫と少年の仲睦まじい様子に思わず頬が綻んだ。

 大きなお膳に並べられた沢山の小鉢と色とりどりのお料理にユキは目を見張った。戸越の伯母上の料理は素晴らしいが、藤田様の奥様は盛り付けも彩りも本当に美しい。ユキは勧められるままに、津島と一緒に箸を進めた。豊誠は、津島にどこに遊びに行ってきたのかと質問されて、河原まで行って来たと答えた。最近、豊誠は家の外でも遊ぶようになった。いつも猫の坊やが相伴する。近所の子供も混じる場合もあるが、家まで風のような速さで駆けっこをする時は、猫の坊やと一緒でないと物足りない。今日もそうやって走って帰ったと笑っている。

 食事の後は、ゆっくりとお茶を飲んで語らった。豊誠は絵草子を持ってきて、ユキに読み聞かせてもらい大層喜んだ。千鶴が目を放した隙に、豊誠はユキの膝の上に座って、左手を伸ばして、ユキの耳たぶに触れていた。息子の恍惚とした表情。

 ——こいつは綺麗どころの耳にしゃぶりつくのが悪い癖だ。

 土方がいつも笑っている豊誠の癖。生まれつきのものなのだろう。このまま暴走して、耳に口をつけるような事をしたら、きっとユキは驚くだろう。そう思った千鶴は、豊誠におやつを用意したからと声を掛けた。「うん」と返事をした豊誠は、それでもユキの耳から手を離さなかった。

 おやつのお饅頭に手を伸ばした豊誠は、ユキの膝の上から降りようとしなかった。

「豊誠、お行儀が悪いですよ。お膳の前にちゃんと正座しなさい」

 千鶴が咎めると、「はい」と返事をして息子は正座をしておやつを食べた。白湯を飲んだ後は、再びユキの膝の上に乗って離れない。ユキはずっと豊誠の髪を撫でたり、時折頬に口づけたりして嬉しそうに笑っていた。そんな二人を津島淳之介は、ほほえましい様子で眺めていた。豊誠は、遠慮なくユキの目の前に立って両手でユキの両耳の耳たぶを触り続けた。暴走しまくっている息子の危険を感じた千鶴は、「これ、おやめなさい」と声をかけて注意した。ユキはくすくすと笑っている。

「豊誠坊っちゃんは、お耳がお好き?」

 ユキが尋ねると、子供は「うん」と嬉しそうに応えた。そしてすかさずユキの耳にしゃぶりついた。千鶴が「豊誠」と声を荒げた瞬間、津島がそっと豊誠を抱き上げた。津島は内心複雑だった。子供のする事とはいえ、耳に口づけるのは先を越されたような気がした。そして、そんな悋気をこんな小さな子供に感じている自分が情けなかった。

「ユキさん、ごめんなさい。息子は、耳に触れるのが赤ん坊の頃からの癖で」

 そう言いながら、千鶴は手拭を差し出して謝った。豊誠はそこ吹く風で、今度は津島の耳を触っていた。本当に、おかしな癖だ。千鶴は苦笑いをして、立ったまま耳を触られている津島と抱っこされて微笑んでいる息子を見上げていた。

「奥様、奥様の髪に結われているレース。とても素敵です。このような細かな美しい模様のものは、わたくし見たことがありません」

ユキは、千鶴の美しい横顔や黒々とした髪に結われたレースを眺めながら呟いた。

「これは舶来のものです。仏蘭西の刺繍を施したものだそうで。わたしの一番気に入っているものです」
「わたくしも刺繍を学校で習っていますが、こんなに細かな美しいレースはなかなか出来ません」
「刺繍。私も習ってみたいです。これは「ちゅーるれーす」というものだそうです」
「英学校では、イギリス人の先生が刺繍を教えて下さいます。チュールレースの刺し方をわたくし教わってみます」
「素敵。ユキさん、いつか私に教えてくださいませんか。わたし、自分でレースが作れたら、どんなに楽しいでしょう」
「はい、是非」

 津島は、千鶴とユキがずっと話し込んでいる様子を廊下で子供と一緒に遊びながら眺めていた。どうも千鶴とユキは気が合う様だ。ユキも髪にリボンを飾る。奥さんもだ。レース、リボン。女子同士、こんな風に奥さんとも打ち解けて。今日はユキを診療所に連れて来て良かったと思った。津島は満足だった。



*****

 

千鶴の憂い

 九月も半ばに差し掛かり、日中も過ごしやすい陽気になってきた。

 昼に診療所に戻った斎藤は、今日は戸越には行かず、夜の巡察まで家で休むといって制服を脱いで居間で寛いでいた。居間の敷物に、ずっと総司も眠り続けていた。赤ん坊は、午後にまとまった時間で昼寝をするのが日課になっていた。いつもはその間に、猛烈に家事を済ませようと動き回る千鶴だが、久しぶりに斎藤が日中に家にいるのが嬉しく、新しく仕立てようとしている斎藤の着物の丈を確かめたり、津島の祝言のお祝いをどうしようかと相談したり、冷やしたぜんざいを用意してゆっくりと居間で過ごした。

 お茶を飲んだ斎藤は千鶴の手をひいて、抱き寄せた。首元に口づけて、右手は腰から尻にかけて優しく愛撫を始める。斎藤は優しく千鶴の顎に唇で触ると頬や耳に口づけた。居間で口づけ合うのは日常のことで、子供たちが昼寝をしているとそのまま事に及ぶこともある。今も、下の子供は、奥の間で静かに眠っていた。上の豊誠は、廊下から部屋に入ってくると、居間の端に置いてある行李を開けて、中の玩具を物色していた。

 斎藤が千鶴の唇に自分の唇を合せて、腰を強く抱き寄せた。もう斎藤の伏せた瞳には、情を欲しがる光が見えていた。千鶴は斎藤の腕を解くように顔を背けて離れた。

「どうした」

 斎藤は顔を上げて、不思議そうに千鶴を見ている。今まで、斎藤の腕の中からこの様に逃れて離れて行くようなことはなかった。千鶴は、襟もとを整えながら、居間の隅にいる長男に目をやった。豊誠は背を向けたまま、玩具を取り出して遊び始めていた。

「子供がいます」

 小さな囁くような声で千鶴は斎藤に答えた。斎藤は振り返って、部屋の隅で遊ぶ長男の姿をみた。なんだ。子供か。子がいるのが駄目なのか。もう一度、千鶴をみた。決まり悪そうな様子でじっと正座している千鶴に、「なにゆえ、駄目なのだ」という目線を向けた。

 千鶴は斎藤の手を引いて、診療所の奥の間に向かった。襖を全て閉め切ると、千鶴は自分から斎藤の腕に飛び込むように抱きついた。

「子供が見ていませんから。思う存分」

 斎藤は千鶴がそう言い終わる前に千鶴を畳に押し倒していた。深く口づけあった後に、斎藤は改めて、子供が見ている事のなにが駄目なのかと尋ねた。千鶴は、斎藤の瞳を見て、身体を起こすと数日前に起きた出来事を語り始めた。

 ——お夏さんのとこの、通子ちゃんが遊びに来たんです。

 ずっと、朝から庭で豊誠と遊んで、お昼を一緒に食べて、今度は二人で玩具を出して奥の間で遊んでいたんです。私は、坊やにお乳をやって、お夏さんとお松ちゃんと居間でお喋りしてたんです。

 そしたら、急に通子ちゃんの「もー」って大きな叫び声が聞こえて。

 何事かと思って、奥の間を覗いたら、部屋の隅で通子ちゃんが真っ赤な顔して座りこんでいて。豊誠が四つん這いになってたんです。ただならぬ様子でした。

「どうしたの? 通子ちゃん」

 私が訊いたら、通子ちゃんはプイっと横を向いて、「ゆたちゃんが、口をつけてきたの」って真っ赤な顔をして怒っていて。豊誠は、通子ちゃんの口元に口づけたんです。

「それも無理矢理に、部屋の隅に追い込んで迫ったらしくて」

 千鶴は困った様子で息子の狼藉を斎藤に報告した。豊誠と隣家のお夏の孫の通子は年も同じで、赤子の頃から行き来してきていた。最近になってご近所の子供とも遊ぶようになった豊誠だが、それまでは一緒に遊ぶ唯一の子供はこの通子だけだった。二人は馬が合い、仲違いをすることもなかった。

「子供のしたことであろう……」

 斎藤は、無邪気な子供の所業だといって聞き流そうとした。だが、千鶴は「私もそう思います」、といいつつ、「でも、はじめさん、わたし心配で」と話を続けた。

「豊誠は、通子ちゃんのことが大好きなんだと思います」
「それで、大好きな通子ちゃんに触れたいっておもったんだと」
「それでも、あんな風に嫌がる通子ちゃんに、無理矢理ってどうかと思って……」

 部屋の隅に追いやって襲い掛かる豊誠が、なんとも……。

 そこで千鶴は黙ってしまった。斎藤のことをずっと見つめている。なんだ、坊主の所業は俺を真似てると云いたいのか。確かに、俺も千鶴に襲い掛かるような事をしてしまう。だが家の中でだけだ。

「わたし、思ったんです。子供たちは見ているんじゃないかって」
「その、私がはじめさんと睦む姿を……」
「当たり前のように思っていて、自分も好きな相手にしていい事だと思っているんじゃないかと」
「なにも、乱暴をしようとしているんじゃないですよ。豊誠は、きっと通子ちゃんが大好きなんです」
「大好きな通子ちゃんに口づけたくなってしまって、どうしようもなかったんだと思うんですけど」

 千鶴は意を決したように斎藤の眼を見詰めて、話し出した。

「はじめさん、子供の目の前で睦むのは控えましょう。豊誠が私たちと同じことをするのは、ちょっと困ってしまいます」

 斎藤は驚いた。千鶴からの提案は、単純に受け入れがたい。理屈では解るが、もう当たり前のようになっている夫婦の触れあいを今更止めるなど、自分に出来るのだろうか。

 黙っている斎藤の顔をじっと覗き込むようにして千鶴は顔を近づけると、「よろしいですか?」と確認してきた。斎藤は不本意だが、頷くしかなかった。居間で千鶴に触れてはならぬのなら、いま直ぐここで触れたい。斎藤は千鶴の手を引いて、強く抱きしめた。千鶴は斎藤の激しい口づけや愛撫に応えて、二人の時を過ごした。

 この日以来、斎藤の試練の日々が始まった。居間や奥の間、お勝手でも、千鶴を抱きしめられない。我慢、我慢の連続。これは、思った以上に苦痛だった。苦痛どころか、地獄の苦しみだ。これは、なんの苦行だ。禁断症状に耐えられぬ。斎藤は、常にどこか誰の目の見えない場所で千鶴と二人きりで居たいと思うようになった。子の目、子供の見ている事がなんだ。

 ——子供に見られて、なにの不都合があるか。

 目の前の千鶴は美しい、可愛い。あのうなじに口づけて千鶴の匂いを嗅ぐと全身が幸福感に包まれる。あれをなくして、どうやって一日が過ごせる。

 斎藤は無性に腹が立った。何を遠慮する必要がある。千鶴を嫁に貰ってから、我慢をしなくてよくなった幸福をずっと享受し続け、その恩恵を受けた。結果、可愛い子供を二人も授かったのだ。

 何が、悪い?
 いったい、何が悪いのだ。

 斎藤は、もう辞めたと決めた。なにも子の前で、裸で睦む姿を見せているわけではない。俺は我慢せん。千鶴に触れる。お前たちの母にこれからも触れるぞ。母は、父の大切なおなごゆえな。

 斎藤は居間で遊ぶ長男と次男の前に立って、心中で己の決心を語り掛けた。

 そこに、千鶴がお勝手から居間に入ってきた。斎藤は駆け寄って千鶴を強く抱きしめた。愛おしい者の両方の頬を優しく手で持ち上げるようにして、深く口づけた。なんどもなんども向きをかえて口づける。千鶴は、じっと斎藤に応え続けた。

 いつのまにか、子供が二人で一緒に夫婦の足元に抱き着いてきていた。嬉しそうに口づけ合う二人を下から見上げる二人は、「ちゅっ」と言って、千鶴の着物の膝に口づけて笑っていた。斎藤は、二人の息子を抱き上げた、二人の頬に思い切り口づけて笑った。斎藤が声を上げて笑うのは本当に珍しい。千鶴も一緒に笑顔になった、二人で子供を挟むように抱き合い、ずっと何度も口づけあった。

 得も言われぬ満ち足りた気持ちの中で、千鶴の憂いはもう跡形もなく消えてしまっていた。




つづく

→次話 明暁に向かいて その45

(2019.09.01)

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