祝いの桝酒

祝いの桝酒

明暁に向かいて その45(番外編)

明治十一年十月

 暖かな日差しが伸びた午後、突然診療所の門の前に馬車が到着した。

 飛び降りるように、洋装で馬車から降り立ったのは土方だった。手には大きな酒瓶と袋を持って、大股で中庭を横切った。千鶴は奥の間から、昼寝から起きた子供を抱っこして出て来たところで、土方が「よお」と挨拶する声を聞いて、縁側に迎えに立った。

 土方は、御影石の上で靴を脱ぎながら、持っていた酒瓶を縁側に置くと、千鶴から子供を抱き上げて、「よお、剛志。ひさしぶりだな」と笑って頬ずりをした。

「この前はすまなかったな」

 そう言いながら、縁側の廊下に上がった土方は千鶴に謝った。数日前の週末に、向島に一家で招待をされていたのが、直前に土方とお多佳に用事が出来たと断りの電報が届いた。そのまま土方夫妻に会う約束は取りやめになったままだった。千鶴は、夫妻が忙しくしているのだろうと思っていた。

 縁側に置いた、特級の清酒は斎藤が好んで飲んでいる造り酒屋のものだった。土方は、それを居間の膳の上にどんと置くと、どかっとあぐらをかいて座った。

「できた」

 大きな声で、千鶴と子供に満面の笑みで言い放つと、愉快そうに大声で高笑いを始めた。

 千鶴も子供もあっけに取られていると、土方は持って来た袋から、檜で出来た桝を取り出した。祝の文字が焼き印で押されている。千鶴に桝を差し出すと、なみなみと酒を注いだ。

「子が出来た、祝いだ。飲め」

 千鶴はようやく理解した。お多佳さんに赤ちゃんが。千鶴は、なんとか一口お酒を呑み込んで、「おめでとうございます」とお祝いの言葉を口にした。一気に芳醇な香りが鼻に抜ける。

 土方は大きく頷いて、「ありがとうよ」と千鶴に笑いかけた。二口目を一生懸命飲もうとする千鶴に、「あまり無理するな」と笑っている。でも、千鶴は余りに嬉しくて、ひと桝全部飲み干したい気分だった。

 土方さんとお多佳さんにお子さんが
 なんて喜ばしいことでしょう
 はやく、早くはじめさんにも知らせたい。

「おい、無理はするな。よこせ。俺が飲む」

土方は千鶴の手から桝をとると、ぐいっと一気に飲み干した。

「あー、うめえ。こんなにうめえ酒は久しぶりだ」

 大きな声で云った土方は立ち上がると、子供を高く抱き上げてあやし始めた。子供はきゃっきゃっと声を挙げて喜んでいる。

 週末にお前らが来る準備をしていたお多佳が、どうも顔色が悪い。あの日は、横にならせてたんだが、なかなか具合が良くならねえ。秋口から忙しくしていて、疲れが出たんだろうと思って、念の為に今日、医者に診せた。それで、さっき医者に云われたんだ。

 ——今、みつきだ。生まれるのは、来年の夏だ。

 千鶴は、嬉しそうに話す土方をずっと見上げていた。女房は少しつわりが酷いから、今日は入院させることになった。そろそろ一通りの検査が終わるころだ。土方は懐から時計を出して、慌てて縁側で靴を履き始めた。

「邪魔したな。また来る。なあ、坊主」

 そう言って、千鶴に子供を渡すと風と共に去って行った。千鶴はぼーっと午後の光の中に消えて行った土方を眺めていた。お酒が程よく回って、ふわふわとした感覚がする。こんなに嬉しいことがあるだろうか。お二人にお子さんが……。千鶴は、今夜は斎藤が戻ったら、頂いたお酒でお祝いをしようと思った。

 それから一週間後、千鶴は子供を連れて、向島にお多佳に会いに出掛けた。もう病院から戻ったお多佳は体調も安定していて、ゆっくりと過ごしているという。少し、食が進みにくいというお多佳は、ほっそりとして見えたが、その美しさは変わらず輝くようだった。

 ——ほんとうに、夢のようでございます。

 歳三さんの悦びようは、天地がひっくり返ったようで。そう言って、笑うお多佳は本当に幸せそうだった。そして、先日の埋め合わせをしたいというお多佳は、その翌週に斎藤一家、を招待して、お祝いの会を開いた。その席には、天野一家と津島淳之介とその許嫁、杉山ユキも招待された。翌月に祝言を控える二人は、幸せの真っ只中にいるようだった。



*****

 

ちはやぶる

 この向島での席で、杉山ユキは初めて土方とお多佳と顔を合わせた。津島とユキは、天野夫婦とは、既に数度、銀座で食事をしたことがあった。天野は、初めて挨拶をした直後から、駄洒落でユキを笑わせて大いに満足した。歳の近いおさよとユキは直ぐに打ち解けて、以来、おさよは何度か戸越の家にも招待されているという。

 お多佳の手料理も、大方終いになって酒を飲み始めた斎藤たちの傍で、お多佳とおさよが甲斐甲斐しく、膳の片付けをしていた。

「あたしはね、今年は虫の当たり年だって云ってんです」

 そう言った天野は、膳が下がると一度立ち上がって、着物の裾をめくるようにどかっとあぐらをかいて座り直した。かなり酒が回っている様子で声が一段と大きい。

「あんまり怖がるもんですから。叔父貴が、長命寺までわざわざ出向きましてね。住職に頼んでお札を貰って来たんですよ」

 天野の話は、家に出る虫をおさよが大層怖がるという話だった。

 千鶴もユキも虫が怖いのは一緒だ。二人とも他人事ではないという顔で真剣に話を聞いていた。長命寺のご住職がお札を授けて、虫から守ってくださるなら。千鶴もそのお札が欲しいと思った。

「もう、時期も時期でございましょ? 春ならまだしも。こんな蟋蟀が鳴く頃にね」

 天野は半分ぼやきながら、手酌で酒を飲んでいる。天野の話では、春の灌仏会の甘茶を寺で貰って、それで墨を磨って札に虫よけの呪いを書くという。

 ちはやぶる 卯月八日は 吉日よ 神さけ虫を せいばいぞする

 そのお札を上下さかさまに、台所や行灯の傍に貼っておけば、油虫は寄って来ないと云う。千鶴は、懐かしく思い出した。京の屯所に居た頃、井上源三郎が虫よけの「呪い札」だと云って千鶴にくれたことがあった。千鶴は有難く受け取って、自分の部屋の行灯や斎藤の部屋の行灯に貼って回った。確か、斎藤も総司も「迷信だ」といって鼻で笑っていたと思う。それでも、同じようなお札を、偉いご住職が、灌仏会の甘茶で磨った墨で書くということを聞いて、千鶴もユキもありがたい「虫よけ」の方法があるのだと感心した。

「叔父貴の奴、『灌仏会はとっくに過ぎたが、おさよの為ならたとえ火の中、水の中だって』よぼよぼ歩いて長命寺まで出掛けて、偉い坊さんにお札を書いてもらうって張り切りましてね」

 ちはやぶるー 長月十日は 吉日よー、ってなもんで。

 ま、お布施もたんまり払って、お札を授かったんでございます。
でもね、ちょうど持って帰ったその日に、出たんです。

 ごきかぶりの奴がね。

 千鶴もユキもその名を聞いただけで、叫びたくなった。天野は人差し指を二本、長い触角のように、うねうねと動かして豊誠に向かってしゃがみ込んだ。子供は、げらげらと笑っている。千鶴は悲鳴を上げそうになった。虫の角が子供に触れたら駄目。

 死ぬ、それを見ただけで。

「もう、夜更けのことでした。私が寝床で横になってたら、勝手からおさよの叫び声が聞こえましてね」

 刀を持って駆け付けたら、おさよが指さした先の壁にいました。大きなのが。

 そう言って、天野は再び長い触角を動かして、壁に張り付く様子を見せた。千鶴は息を呑んで聞いていた。ユキは胸に手をあてて脅えた顔をしている。隣の津島が手を伸ばして安心させるようにユキの手をとって握りしめた。

 いるんでございます。ちはやぶるの文字にこう、張り付くようにね。

「おさよ、下がって居ろ。この客は俺が引き受けた」

 おさよは、怖がりながら寝間に向かって走っていきましてね。俺はごきかぶりの野郎とやり合いました。

 草履の裏で叩きつぶそうってんで、迫った途端に奴さん飛びかかって来ましてね。七転八倒の末、仕留めました。

 そしたら、今度は寝間から叫び声がした。おさよが、「旦那様ーー」って泣いている。俺が駆け付けた時に、廊下に叔父貴も走って来た。何事だって。

「今度は寝間にね。出たんでございます。さっきのよりもう一回り大きいのが」

 千鶴は、卒倒しそうになった。

 寝間の行灯に、ひと際大きな奴がカサコソと音をさせて。お札のちはやふるの文字の上に佇んでいる。おさよは、腰を抜かして尻もちをついていた、わなわなとなりながら、枕を抱えたまま、行灯を指さしていた。

「こんのやろー、よりによっておさよの寝間の傍に、ってんで」

 叔父貴と一緒になって退治しましてね。事なきを得たんですが、「虫よけ」の御札を貰ったその日に、それも「ちはやぶる」の札の上にやっこさんが乗っかるってのが、どう考えてもおかしい。

「叔父貴、これは虫除けじゃねえ、虫寄せの【ちはやぶる】なんじゃねえか。なんで、一晩にこんな大きなごきかぶりが何度も出てくるんだって、つい文句が出てしまって」

 これには叔父貴もえらく憤慨しましてね。「わしの授かった札に、ケチをつける気か」って。もう寝るどころじゃなくなりまして。おさよは「喧嘩は止めてください」って泣き出すし。

「こんなインチキ【ちはやぶる】は剥がしてしまえ」って、わたしも啖呵を切ってしまいまして。

 そうしたら、どうでしょう。札を剥がしに、便所に向かったおさよが、「ぎゃーーー」って声をあげて、廊下を転がるように逃げて来た。

 ——また、出たんでございます。一段と大きいのが。

 もう千鶴は、完全に自失する寸前だった。一晩で三匹も。そんな目に遭ったら、死ぬ。千鶴はおさよが、よく無事でいてくれたと安堵した。天野は、便所の「ちはやぶる」の文字の上に佇む、巨大な客を退治した後、家中の御札を剥がした。

「あったり前です、そのお札。甘茶で字が書かれてる上に、叔父貴が壁に貼るのに酒臭い唾をつけたもんだから」

 寄って来て当然でございます。叔父貴はえらく怒ってましたけど、もうこれ以上はってんで札を竈の火にくべて燃やしましてね。その日は一件落着、叔父貴とわたしら夫婦、それぞれの寝床で休みました。

「以来ね、出るんですよ。わたしの家はね。『ちはやぶる、神さけ虫がよっといで』ってね」

 千鶴はもう駄目だと思った。どんな災難でそんな事が起きるのかと思った。札を剥がした翌日には、巨大な「げじ」が出たと天野は笑っている。手で草履ほどの大きさだといって、皆を驚かした天野は、「げじげじ大権現でがす」と笑っている。逃げ足が速い、韋駄天げじを取り逃がして、わたしも立つ瀬がない。無念そうな顔で、一気に酒を煽った。

「げじなら、よい」

 斎藤が、杯を口から離して微笑んだ。驚いている千鶴に安心させるような視線を送っている。

「げじはよろしいんでございますか?」

 天野が訊ねると、斎藤は「ああ」と頷いた。あの恐ろしい姿の「げじげじ」が、家に出る害虫を退治するよい虫だと教えてくれたのは、京の屯所に暮らしていた頃だったろうか。千鶴は、また懐かしく昔を思い出した。

「げじは、見た目は恐ろしいが、百足より毒も弱く、油虫などを食べて生きておる。足の長い蜘蛛もよい。あれも、家の害虫を退治する。ヤモリと同じだ」

「それほど巨大な主なら、家を守るはずだ」

 斎藤はそう言って微笑んだ。千鶴はそれを聞いて心の底からほっとした。それにしても、おさよは、さぞかし恐ろしい思いをしているのだろうと気の毒で仕方なかった。天野は、斎藤に「そうでございました。それを聞いて安心しました。げじげじ大権現様だって、おさよに云って聞かせます」と礼を言って、再び酒を飲み始めた。

 天野が暮らす、本所の屋敷周りは長屋が密集している。水はけが悪いこともあるのだろうと土方が話した。土方は製靴工場を移動させる土地を探した時に、本所の地所を沢山巡って調査したという。「流通はいい、人流れもいい、住んでる人間もいい」と言われた天野は照れ笑いをした。

「だが、水が悪い。あれが不思議だ。政府が本所にいい水を引く事業を起こすように動いてるそうだが、暫くかかる」

「上水道が出来たら、本所は暮らしやすくなるだろう」

 土方の話を聞いて、座敷に戻ってきたおさよは喜んでいた。

 ——よい水で生活できたら、きっと叔父様の足もよくなります。ね、旦那様。

 そう言って、天野に微笑んでいる。天野は、おさよは一にも二にも「叔父様、叔父様」で困りもんでございますと笑っているが、心の底から嬉しそうにおさよを見詰め、夫婦二人で微笑みあっている姿は、幸福そのものだった。千鶴も斎藤も土方もお多佳も、本所の家は毎日が賑やかで楽しいものだろうと思った。そして、お多佳は天野に嫁いだおさよが幸せな事に心から安堵した。



*****

 

明治四年十一月大安吉日

 戸越三番地、津軽屋敷にて、津島淳之介と杉山ユキの祝言がとりおこなわれた。

 斎藤は黒紋付袴、千鶴も黒紋付に金の帯を絞めて、髪は久しぶりに結い上げた。下の子供にも余所行きの着物を着せて、馬車で戸越に向かった。長男の豊誠は、前日から向島に預けていた。今日は、夫婦になって二度目の仲人役。杉山家には来賓客も多く、お披露目の宴会は、津軽屋敷の大広間を使って執り行われる。天野と一緒におさよが参列するから、千鶴は祝言の間に、隣の間で子供の世話をおさよに頼むことが出来た。

 白無垢に角帽子を被ったユキが、控えの部屋から実の母親に手を引かれて入って来た。皆がユキの美しい姿に溜息をついて、厳かに祝言が執り行われた。津島家の席には、津軽から母親、兄夫婦が参列していた。そして、虎ノ門署の署長、上司警部の田丸、同僚を代表して天野、第二暑から平田警部補、同じく豊後口警視第二小隊の本城充之進と佐藤常吉の姿もあった。

 祝言の後は、屋敷の玄関に栗毛の駿馬が見事に飾り付けられ、ユキを乗せた馬を津島が引いて、近隣の地所をお披露目の為に歩いた。皆が行列になって、津軽の年寄衆が「高砂」を謡いながら玄関を出た。沿道に見物に来ている人々に祝い菓子が配られた。今日用意された馬は、結婚の祝いに杉山直成が贈ったもので、騎馬巡察に使う許可も貰っていた。津島が貰い受けた日に細かな雨が降っていたことから、馬は「時雨」と名付けられた。

 近隣の者は、津軽屋敷の若殿様は馬に乗る立派な巡査様だと噂した。休みの日に、津島がユキを連れて、二人で馬に跨り地所をゆっくりと散歩する姿を見かけた者たちは、お殿様と呼んでいる杉山直成と区別するために、津軽屋敷の「馬方さま」と呼ぶようになった。

 馬でのお披露目が終わると、再び屋敷の大広間で祝いの宴会が開かれた。ユキは、黒地の見事な色打掛姿で、始終笑顔を見せていた。宴は始終和やかに進み、午後も遅く過ぎた頃にお開きとなった。千鶴は、隣の部屋でずっと剛志の世話をしてくれたおさよに感謝した。

「ずっと、ご機嫌でした。剛志坊っちゃんは、よく食べて良く眠っています」

 千鶴は、すやすやと眠っている子供を綿入りのおくるみで優しく包むようにして抱き上げた。馬車を用意してもらった千鶴は、おさよと一緒に乗り込んだ。斎藤と天野は、仙台から来た本田と佐藤、平田警部補とこれから銀座で食事をすると云って、屋敷の玄関で別れた。

「旦那様は、西南のご戦友に会うのをとても楽しみにされていました」
「生死を共にした、魂の友だって」

馬車の中で、そう話すおさよの言葉に、千鶴も斎藤が嬉しそうに小隊の部下たちと語り合っていた姿を思い出していた。

「はじめさんも、西南の半年は、瓦解の頃のように濃厚な夏だったって言っています」
「皆さん、ご無事に戻られて。こんなおめでたい日が迎えられて」
「天野さんもおさよちゃんと一緒になれたし」
「今年は嬉しい事が沢山」

 千鶴は、そう言いながら馬車の外を眺めた。慶びの日に嬉しい気持ちで一杯だが、同時にずっと心にぽっかりと穴があいているのは確かだ。

 秋の始まりに、猫の沖田さんを見送った。

 この寂しさは、ずっとずっと埋まらないだろうと静かに思う。

 ——沖田さん、津島さんが晴れてお嫁さんをお貰いになりました。

 いつも、心で話しかける。

 ——沖田さん、秋も深まってきました。今日猫の坊やは、鵜飼さん宅に里帰りしています。

 総司の声は聞こえないが、ずっと見守って貰えていると千鶴は強く信じていた。

 千鶴は、おさよを本所に送ってから、向島へ向かい。長男を引き戸って、夜に診療所に戻った。間もなく、斎藤が戻って来た。久しぶりの豊後口二番小隊の部下たちとの再会で、斎藤はずっと機嫌が良かった。床についてから、「仲人の大役を終えて、ほっとした」と千鶴が云うと、斎藤はずっと労いの言葉と共に千鶴を優しく愛撫しながら、眠りについた。



*****

 

明治十二年春

 新しく年が明けてから、あっという間に時間が経った。

 斎藤と千鶴の長男、藤田豊誠はかぞえで六歳。この春から小学校尋常科に通うことになった。午前中に手習いをして、午後一時に帰ってくる。その間、診療所の中で、千鶴は下の子供と猫の坊やと過ごした。剛志は、満一歳を過ぎて、よちよちと歩き出し、最近は転びながらも達者な足取りで猫と追っかけあいをして遊んでいる。

 二番目の息子の剛志。その力強さは既に鬼の片鱗を見せているが、兄の豊誠ほど向こう見ずな様子はない。それでも、やんちゃ坊主な部分はあった。千鶴が叱ると、猫の坊やと一緒に雷に打たれたように目を真ん丸にする。千鶴は、総司と豊誠という強烈な先例があるせいか、二番目の子供に対して、幾分落ち着いて接することが出来た。周りの皆が、千鶴にそっくりだという剛志の真っ黒な大きな瞳。それが一段と真ん丸となって、見詰めかえしてくる表情が愛くるしくて、千鶴は、つい叱ることを忘れて笑いが込み上げてしまう。千鶴は、剛志を溺愛した。千鶴が下の子に甘い事に、斎藤は早くから気づいていて、内心呆れながらも父親として二人の子供を公平に厳しく躾けた。

 剛志の名づけ親の土方は、「こいつは、どっしりと構えた堂々としたところがある」と云って、物怖じしないところがいいと可愛がった。そういう土方にも、もうすぐ子が生まれてくる。お多佳の経過は順調で、もう臨月に入った。最近は、おさよがずっと通いでお多佳の世話をしているらしく、土方は待ち遠しくて仕方がないと云っている。

 四月の午後に、土方が相馬主計を連れて、ふらりと診療所に現れた。もう一年近く、顔を見てなかった相馬は、「ご無沙汰しております」と挨拶をして、居間に上がった。久しぶりに会う相馬は、また背が伸びて逞しくなったように感じた。日焼けをした顔で、ずっと北は北海道から南は九州まで、資材調達の仕事で駆けまわっていたという。

 土方の作る靴は、国内の製皮業者をほぼ網羅している。軍に下ろしている編上げ靴の紐は、京の組紐職人が手仕事で仕上げるもので、耐久性、美しさ、頑丈という評判で、英国からも受注があるらしく、相馬の調達部が仲介をしている。相馬がひとりいれば、仕事のできる事務方十人分の仕事が片付くと、土方がいつも言っているように、工部省からも相馬は人望が厚い。最近は大鳥と共に政府主催の工業振興会で、勉強会の講師もしている。

 そんな相馬は、土方と仕事の報告を一通りしながら食事をしていた。忙しそうな相馬は、今夜は久しぶりに自宅に戻れると云って嬉しそうにしていた。千鶴は食事を終えた土方たちに、お茶を煎れた。そして、子供が、独楽がないと探しているので、一緒になって探し始めた。

 居間の端に置いてある行李の中をひっくり返して探した子供は、「ない、ない」と云って、診療所の方に走って行った。千鶴は、「おかしい、さっきこの辺に、紅いものが落ちてた気がしたんだけど……」と呟いている。相馬は、土方と話しながら、その背後で探し物をしている千鶴の姿をずっと眺めていた。

「ゆたちゃん、もうお布団に入ってくださいな。明日も学校ですよ」

 千鶴が子供を促して、奥の部屋に子供を寝かせに向かった。暫くして、千鶴は奥の間から戻って来て、再び探し物を始めた。

「さっきも、独楽が転がったような音がしてたのに……」

 四つん這いになって居間の端から端までうろちょろしている。

「おかしいわね。さっきから、音がしてるのに」

 呟きながら、物入れを空けたり、押し入れを空けたりしている。

 あれ、……、あれ?と相馬の背後で、千鶴が呟く声が聞こえた。

「音は聞こえる。声はすれども……」

 ——姿はみえぬ。

 背後で、相馬の声が聞こえた。千鶴が振り返ると、相馬は首をこっちに向けてじっと千鶴の顔を見詰めて、おどけたような表情を見せた。二人で眼を合せたまま。

「ほんに貴方は屁のような」

 声を揃えて言うと、二人で思い切り噴き出して大笑いした。相馬は、畳に腕をついて笑い。千鶴は、お腹を抱えて崩れるような態勢で笑っている。二人が狂ったように大笑いする姿を土方が目を丸くして眺めていた。

「あー、お腹が痛い。懐かしいね、相馬君」

 相馬は頷きながら、目尻の涙を拭っている。

「銀じいさん、懐かしい」

 ほんと、懐かしい。と千鶴は繰り返しては笑いが止まらないようだった。二人は、「銀じいさん」を思い出して笑っているようだった。

「銀じいさん、お元気ですよ。京で会ってきました」

 相馬が座り直して千鶴に応えている。千鶴は、着物の袖で涙を拭いながら、「ほんとに?」と興奮した声で尋ねている。

「はい、御年八十一。お元気に本願寺の傍にお住まいです」
「もう、ご隠居されて。風呂焚きはお孫さんの代が勤めていらっしゃいますよ」

銀じいさんは、新選組が西本願寺に屯所を構えていた頃の、風呂焚き人夫だった。人柄のいい老人で、四六時中独り言をいっていた。火の周りの用心のために、常に一人確認をする。相馬と野村は、屯所内の雑務の合間にこの銀じいさんに悪戯をしかける事に、青春をかけていた。二人で銀爺さんの道具にこっそり紐をつけて、ひとりでに動く仕掛けで驚かせたり……。人のいい銀爺さんは、「あれ、はて」といって毎回慌てる。その姿が滑稽で、相馬と野村は、千鶴を呼びに走って、銀爺さんが驚く姿を見せては喜んでいた。

 銀じいさんの口癖が、「はて、声がすれども姿はみえぬ」だった。探し物をしてうろうろとする姿は、大層滑稽で可愛らしくて、千鶴は相馬たちと壁の影でいつも笑いを堪えていた。そんな屯所での日々。あの銀爺さんが、お元気に隠居されているなんて。

 千鶴と相馬が楽しそうに話しているのを、じっと土方は眺めていた。結局、独楽は診療所の奥で、猫が転がして音を立てていることが判った。探し物が見つかったと喜ぶ千鶴に、相馬はそろそろと云って、腰を上げた。

「あと、もう少しではじめさんが戻るのに」

 千鶴は相馬を引き留めたが、相馬はそのまま挨拶をして、見送りはいいですと云って、縁側から靴を履いて門に向かった。土方と二人で、相馬を見送った。もう陽が暮れて空が紫色になっている中を、相馬は手を振りながら坂を下っていった。中庭の真ん中で、ずっと土方が立っている。千鶴は、縁側に戻らない土方に背後から声を掛けた。

 土方は千鶴の声が聞こえている様子だが、じっと向こうをむいたまま動かない。

「土方さん、」

 千鶴が声を掛けると、土方は少し俯く様に背後の千鶴に囁いた。

「ありがとう。千鶴」

 千鶴は、もう一度草履を履いて、土方の傍に近づいた。土方の頬には涙が伝っていた。千鶴は驚いた。

「あいつが、あんな風に笑うのを。久しぶりに見た」
「相馬は、笑わなくなっちまってな」

 微笑む土方は、ずっと夜空を見上げていた。

 俺が日本に戻って、相馬を見つけた時。死人みてえな顔をしていた。相馬は、島から東京に戻ってから、なんども詰め腹をしようとして、死にきれねえままだったそうだ。あいつの女房に俺は泣きつかれた。どうか、死なせないで欲しいってな。

 工部省の仕事を一緒にやろうと誘って、とにかく仕事をさせた。あいつは、人一倍責任感の強い男だ。仕事を半ばで放り出すような事は絶対にしない。頼んだ仕事は、どんな事をしてでも、期限通りにやり遂げる。仕事がある間は、死のうとはしないだろう。俺はそう信じた。

 ——ちょうど今ぐれえの時期だ。宮古湾の戦で、野村が死んだ。

 あの日以来、相馬は笑わなくなった。

 箱館の戦で、相馬は最後まで。最後まで闘った。俺が死に体だった時も蝦夷政府の要人として、全てを引き受けた。

 さっき、お前と笑った相馬は。昔のままだった。
失くしちゃいねえ。あいつは失くしてなかった。

土方の肩は震えていた。千鶴の眼から涙が溢れた。

 どれ程の想いで。ずっと傍で見守って来られていたのだろう。千鶴は、震える土方の背中を見ながら、相馬の輝くような瞳を思い出していた。京に居た頃も、先の戦の間も。いつもキラキラとして、背筋を伸ばしてすっくと立つ相馬の姿を。

 どんな困難な時も、歯を食いしばって逆境に立ち向かう。幹部の皆さんのように……。

 土方は、さっきお腹を抱えて笑う相馬を見て、初めて大丈夫だと思った。そう言って、繰り返し千鶴に感謝の言葉を伝えた。千鶴は、首を横に振り続けた。

「きっと、もっと以前から大丈夫だった筈です。相馬君は、土方さんと同じぐらい強い」

 ——誠の武士ですから。

 土方はようやく身体をこっちに向けて、千鶴に頷いた。こんな風に、土方さんが涙を流されるのは……。近藤さんを亡くされた時しか見たことが無い。千鶴は土方の想いが余程の事だろうと思った。責任感の強いのは、土方さんも同じ。今まで、どれ程の思いを抱えて、戊辰の戦から、いいえ、それよりもっと以前、京で新選組を率いていらした頃からずっと……。

 土方が微笑む姿に、千鶴は頷いて笑いかけた。

 紫の深い色。土方の瞳は、昔と変わらないまま。千鶴はそう思った。相馬君も。そして、はじめさんも。強い志をもって生きて行かれる。きっとこれからも。

 千鶴は、土方を促して居間にもどった。二人で互いに黙ったまま、ずっと縁側から向こうの庭を眺めた。温かい春の夜。

 それから間もなく、斎藤が仕事から戻って来た。土方は、お多佳が待っているからと言って、斎藤と入れ違いに向島に帰って行った。



つづく

→次話 明暁に向かいて その46




(2019.10.11)

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