空の家

空の家

明暁に向かいて その46(番外編)

明治十二年七月

 梅雨明けをした日曜の朝。

 千鶴が台所に居ると、長男の豊誠がやって来て握り飯を作って欲しいと云った。千鶴が、御櫃のご飯で梅干しの入ったおむすびを握っていると、豊誠は戸棚から竹皮を出してきて、手の上に広げて待っている。千鶴は息子が友達と河原にでも遊びにいくのだろうと思っていた。息子は握り飯を包むと、今度は竹水筒を取り出して、水瓶の水を詰めて欲しいと千鶴に頼んだ。千鶴が水筒を用意している間に、豊誠は部屋に戻ると、小学校の鞄に帳面や教科書を入れ、風呂敷に玩具や着替えを入れて結んだものを背負った。鞄を斜めがけにかけて、木刀の入った袋をもう片方の肩にかけた。千鶴が水筒とおむすびの包みを持って居間に来ると、豊誠はそれを自分の鞄に入れて、玄関に向かった。

 一体、どこに行くんです?  今日学校はお休みですよ。

 千鶴が玄関まで追いかけて、問いただした。

「空の家に行く」

 息子は素足に下駄を履いて、立ち上がった。

「空の家って、向島に? あなた一人で?」

 子供は「うん」と頷いている。「行って参ります」と云って玄関の戸を勢いよく開けた。

「ちょっと、待って。あなた一人で、どうやって行くの?」
「歩いて行く」

 子供は真っすぐ門に向かって、敷石の上を歩いて行こうとした。千鶴は後を追いかけた。

「待って、向島まで歩くって。あなた一人で? とっても遠いのよ。大人の足でも遠いのに」
「乗り合い馬車に乗る」
「乗り合いに子供が一人で乗られません」
「もう大きいから、だいじょうぶ」
「お足、ちょうだい」

 息子が掌を広げて、車代をねだった。千鶴は、待ってと云って。家の中に戻ると、がま口を持って出て来た。

「あなたが、空の家に訪ねて行くこと、土方さんやお多佳さんはご存知なの?」

 子供は「うん」と頷いている。「トシさんと約束した」と言う息子に、千鶴はそれなら、母さまも一緒に付いて行くから、あと一時間待って。そう言って、子供と一緒に家の中に戻った。それから、千鶴は大急ぎで家事を済ませて、下の子供を着替えさせると、息子二人と一緒に乗り合いで向島に向かった。

 馬車を乗り継いで辿り着いた先には、通りから水色の洋館が見えていた。この界隈では珍しい二階家。土方とお多佳の住まう屋敷の敷地に建っている。空に届きそうな風見鶏が回るその家を、「空の家」と呼ぶ様になったのは、豊誠が「おそらいろのいえ」と呼んだから。土方は「空の家」を自分の事務所と会議室として使い、自宅には浴場を造って渡り廊下で繋いだ。

 二か月前の五月の末に、お多佳は無事に女児を産んだ。土方の喜びようは、天地をひっくり返す程で、丁度出来上がったばかりの「空の家」に全ての仕事道具を運び入れて、そこで仕事をするようになった。朝に出勤すると云って家を出るが、三十分おきに、子供の顔を見に母屋にやって来る。

「おい、お多佳。見て見ろ、様子がおかしいぞ」
「これはしゃっくりが出ているんです」
「おい、お多佳、一向に止まらねえ、こいつは病気か」
「お乳を飲んだあと、暫く続く時があるんですよ」
「ひきつけか、まともに息が出来てねえんじゃねえか」
「大丈夫です。息は出来ています。じきに止まりますから」
「おい、お多佳、目をあけたぞ」
「おい、笑ったぞ。俺を見てわらってる」

 美禰子と名付けられた土方とお多佳の娘は、生まれた時から美しい赤ん坊だった。珠のようなとはよく言ったもので、生まれたての赤子は、皆同じように目をつむったまま小さく赤いものだが、美禰子は抜けるように色が白く、鼻筋がとおった小さな鼻孔に、大きな眼を思わせる深い切れ込み、小さな額と愛らしい唇で、時折、目を開けると黒々とした瞳が見えた。土方は片時も娘から離れなかった。

 土方の家の母屋の玄関で挨拶をした、千鶴たち親子はお多佳の歓迎を受けた。豊誠の持ち込んだ大荷物に驚きながらも、丁度乳やりが終わったばかりだと、静かに居間の隅の布団の上で眠る美禰子を見せた。豊誠は、傍に行ってじっと美禰子の顔を覗き込んでいた。

「手を洗って来なさい。赤ちゃんに触るのは、清潔な手でね」

 千鶴に促されて、豊誠は手水場に手洗いに走っていった。

「豊誠が、朝からお弁当を持って独りでこちらに歩いて行くっていうものですから、馬車に一人で乗せるのも心配で。私も付いて来てしまいました」

「土方さんは、事務所ですか」
「いいえ、この金曜日から、上海へ行っています」

 団扇で風を送りながら、お多佳は微笑んでいる。土方は商用で香港に立ち寄って、八月のお盆に帰ってくるという。千鶴は驚いた。息子は、土方の留守中に遊びに来ると約束したのだろうか。

「歳三さんは、上海に美禰子を連れて行きたいが、船旅はやり過ごせても、香港で流行病でもかかったら大変だからって」
「出来るだけ早くに戻ってくるからと、云っていました」

 土方は子供が生まれた日から、自分の手で産湯につけ、新しく作った浴場で一番風呂に赤ん坊を入れるのが日課だった。それが出来なくなると残念がって旅立っていったと話すお多佳は、可笑しそうに笑っている。

「わたしも、美禰子の湯あみは完全に歳三さんに頼りきっていたものですから、母子であたふたしてるんです」

 お多佳は、クスクスと嬉しそうに笑っている。居間に戻った豊誠に、水菓子を用意したお多佳は、千鶴に冷たい玉露と葛まんじゅうを出した。下の息子と一緒に、豊誠が中庭で遊び出すと、赤ん坊が目を覚ました。泣き声も女の子らしく、小さな美禰子を千鶴は本当に可愛い赤ちゃんだと感心しながら抱き上げた。お多佳は、初めての子をゆったりと育てている様子だった。これだけ広い屋敷で、お手伝いも雇わずに全てを取り仕切って、こうして自分たちをもてなしてくれる。千鶴は、せめて夕餉の仕度だけでも手伝いたいと申し出た。

「いいえ、ごゆっくりしていって下さいな。歳三さんが居なくて、さみしいと思っていたところです」
「簡単なものですが、是非、藤田さんもお呼びして、夕飯をこちらで」

 千鶴は、斎藤が夕方に馬を連れて帰ってくるから、早めにお暇するというと、お多佳は残念がった。三時を過ぎた頃に、千鶴はそろそろと云って下の子供のおしめを取り換えて帰る支度を始めた。豊誠は、布団に横になっている美禰子を上から覗き込んであやしている。

「さあ、ゆたちゃんも、帰る支度をして」

 千鶴が声を掛けても、豊誠は「帰らない」と振り返って云うだけだった。

「空の家にいる」

 豊誠はこの一点張りで動こうとしない。千鶴は困ってしまった。

「明日は学校です。家に帰りますよ」

 豊誠はずっと首を横に振り続けた。

「学校はどうするの?」
「行かない。読み書き帳面は、『か』をぜんぶ書いてある」

 息子は、学校鞄の中から帳面を出して、「か」行が全部綺麗に書き終えてあるのを見せた。確かに、上手に綺麗に書けていた。

「先生に、見せなくていいの?」
「いい」
「まだ、学校では『え』しかやってない」

 豊誠の話を聞くと、「か」行まで書く事のできる人だけ帳面に書いて、読みの練習をしておくようにと云われたという。千鶴は、「こくご」の読み書きで息子が不自由をしていないことが判って安堵した。

「わたしが、坊ちゃんの読み書きをみましょう」
「坊ちゃんが好きなだけ、ここに居て貰えれば、ようございます」

 お多佳は、千鶴が連れ帰るといっても、坊ちゃんは泊まっていってくださいと云って、千鶴と剛志に馬車を呼んで玄関に送り出した。

「豊誠、明日、父さまにお迎えに来てもらいます。神夷に乗って帰るんですよ。粗相のないようにね」

 豊誠は、ずっと頷いていた。



*****

 

「それで、置いてきたのか」

 夕方、家に戻った斎藤にそう訊かれて、千鶴は頷いた。斎藤は、土方が不在の上に、赤子が生まれて間もないお多佳さんにとっては、迷惑だろうと心配した。

「はい、わたしもそう言ったんですけど……」
「よい、明日の昼間の巡察の時に、向島まで足を伸ばそう。昼過ぎに診療所に連れ戻る」「坊主も、一晩泊まれば、気が済むやもしれん」

 そう言って、斎藤は夕餉を食べると夜行巡察の為に、再び虎ノ門に向かった。

 千鶴は、下の息子とお風呂に入って、子供を寝かしつけた後、きな粉と黒豆を使った焼き菓子を作って冷ました。それから夕涼みをしながら、斎藤の帰宅を待った。

 翌日、千鶴は斎藤を送り出す時に、焼き菓子を持たせた。

「お乳が良く出るように。きな粉とお豆を使ったお菓子です。日持ちもするからとお多佳さんに伝えてください」

 その日は、朝から気温が高く暑くなりそうだった。神夷が水浴びできるように、日向水を沢山用意しておきますと云って、千鶴は斎藤を送り出した。そして、すぐに向島のお多佳へ電報を打ちに出掛けて行った。

ヒルムカエニイク チチ



****

 

 そして昼過ぎ。

 斎藤は銀座で一緒に巡察していた津島と別れて向島へ向かった。津島は、そのまま昼餉をとりに馬で戸越の自宅へ戻るということだった。

 向島の家の玄関先に、神夷を繋いでおける日陰があるが、この暑さでは大量の水をやらなければならない。斎藤は、とりあえず馬から降りて玄関先でお多佳に挨拶をすると、馬の世話にかかりきりになった。井戸水を汲みに中庭を横切ると、息子が一緒に付いてきて、馬の世話を手伝いだした。

「手伝いはよい。帰る支度をしておけ」

そう言われても、空になった桶を持って次々に水を運んでくる。豊誠は、お多佳から大きな布を借りて来て、冷たい水で搾ると、手際よく馬の顔や首の汗を拭ってやっている。神夷は嬉しそうに尻尾を揺らした。

「父上、鞍をとってあげてくださいな」

 斎藤は、下から見上げる子供の顔をみて思わず微笑んでしまった。こういう頼み方は母親に口調がそっくりだ。暴れ者の悪戯坊主が。斎藤は、独り笑いながら馬の背中から鞍を外してやった。神夷は気持ちよさそうに、台に上った豊誠に背中の汗を拭われている。二人で一通り馬の世話が終わると、再び斎藤は息子に家に帰る支度をしろと命令した。

「帰りません」

 直立不動で答える息子に、斎藤は動かしていた足を止めた。

「母が家で待っておる。空の家にもご迷惑だ」

 子供はじっと口を噤んだまま斎藤を見上げている。斎藤には、ここまで強情に向島に居続けようとする息子の真意を知りたかった。

「なにゆえ、空の家に居たいのだ」
「小石川に帰りたくないのか」

 子供は首を横に振った。前を睨むようにじっと口を真一文字に噤んだまま立っている。

「約束した。トシさんと」

 何の約束だ。ここに泊まる約束か。斎藤が訊いても、子供はじっと前をみたまま黙っている。

 斎藤は、しゃがんで子供の肩に手をかけた。息子と顔と顔をつけ合わすように、しっかり目を見た。豊誠は、汗で前髪が額に張り付いている。

「なにの約束だ」

 息子はじっと斎藤の眼を見詰めていた。深い碧い瞳。そこに自分の姿が映っている。随分と待った。ようやく息子は、話を始めた。



****

 

六月十日 お七夜

 向島の家で、生まれた赤ん坊のお七夜のお祝いに千鶴は子供を連れて訪れていた。

 命名 美禰子

 美しい文字で半紙にかかれた名前を見て、千鶴はその美しい響きや新しさに目の前の小さな赤ちゃんにぴったりの名前だと思った。土方がお多佳と一緒に字画を見て決めたと云っている。

 間もなく、仕事帰りの斎藤や天野が現れると、豪勢な料理が並べられた座敷で、皆で赤ん坊の誕生と命名を祝った。土方は、子供を授かったのは陸奥の七森という山奥にある伝説の泉だと話すと、おさよも天野も関心な様子でずっと聞き入っていた。

「じゃあ、なにですかい。その子宝の泉の水を飲めば、子が出来るって」
「泉に身体ごと浸かるのがいい」
「この世とは思えねえぐらい綺麗な場所だ」
「龍の住まう場所だといわれている」
「山全体が、龍が姿を変えたものだと、住人の間で伝わっている」
「龍の顎門と言われているが、頂上が頭だとして、泉のある場所は龍の腹あたりだ」
「苔が一面に生えていて、ふわふわとして地面が温かくて柔らかい。本当に龍のお腹の上にいるみたいで」

 千鶴が嬉しそうに斎藤と顔を合わせてそう説明すると、おさよは「まあ、」と言って言葉が続かないようだった。

「俺らも行くか、おさよ」

 突然、天野が大声でおさよに云うと。おさよは、頷きながら恥ずかしそうに下を向いている。

「いえね、わたしたちも励んでいるんですが、一向に」
「な、おさよ」

 恥ずかしがるおさよに、天野は「おさよみてえな、めんこい子供でもできた暁にはね」

 ——日本橋から逆立ちして、銀座まで歩いてもようございます。

 土方は、杯を持ったまま笑っている。「そんなもんじゃねえよ」と言ってぐいっと煽るように飲むと、

「俺は、そこから飛び上がって、月を一周して戻って来た」

 そういって、高笑いをしている。千鶴は土方の嬉しそうな笑顔を見て、同じように笑っていた。天野は「参りました。おめでとうございます」と言って、土方の傍に行って並々と酒を注いで笑った。

 斎藤は、天野とおさよが子を望んでいる事を初めて知った。仲睦まじい二人に子が出来たら、本所の家もさらに賑やかになるだろう。両親のいない天野とおさよは、同居している天野の叔父と向島の土方夫妻が親代わりのようなものだ。互いが縁の身の上は、自分と千鶴と似ていると思っていた。二人の間に子を成せば、おさよも更に幸せになる。目の前で、仲睦まじく並んで座る若い二人を眺めながら、斎藤は天野に盆休みがとれるように手配をしてやろうと思っていた。

 和やかな祝いの席は、夜遅くまで開かれた。千鶴は、それから、時折おさよと交代で向島に足を運んで、家事を手伝った。土方が娘を可愛がる様子を見ているのが楽しくて、ついつい長居をしてしまう。そして、夜に診療所に戻った斎藤にその様子を報告するのが常になっていた。

 お七夜から数週間経った午後、学校から戻った豊誠を連れて「空の家」に向かった千鶴は、お多佳と炊事場で夕餉の仕度をしていた。

 居間で大人しく眠っている美禰子の傍に、中庭で遊び終わった豊誠が戻った。弟の剛志は、隣の部屋で昼寝をしていた。美禰子は、豊誠が顔を覗き込むのに気付いたように、ゆっくりと眼を開けた。

 真っ黒な瞳がじっと見つめる。

 豊誠は胸をぎゅっと掴まれたような感覚がした。

 気づくと、赤ん坊の額に唇を押し付けていた。美禰子は微笑みながら、手と足を揺らしている。顔を離した豊誠の眼をじっと見つめたまま笑いかけた。豊誠は、その可愛い右頬に口づけた。左頬にも。ずっと豊誠の顔に笑いかける美禰子に、もっとしたいと思った。

 小さな小さな口。可愛い美禰子。

 そっと口づけた。

 顔を上げると、美禰子はじっと応えるようにゆっくりと瞬きをした。豊誠はそっとその前髪を撫でた。

「起きてるか」

 急に廊下から声が聞こえた。豊誠は、起き上がった。土方が笑いながら、赤ん坊を抱き上げて豊誠の前に胡坐をかいて座った。

 土方は自分の膝の上に大事そうに赤ん坊を抱えて、小さな手を握りながら、赤ん坊に話しかけている。

「そうか、おとっつあんがわかるか」
「美禰子、早く大きくなれ」

 赤ん坊はじっと土方の顔を見詰めている。豊誠は正座したまま、二人を見ていた。

「坊主、こいつは、俺の宝だ」
「俺の命だ」

 わかるか? この世で一番大切なもんだ。

 豊誠は頷いた。

「お前に頼みがある」

 ——美禰子を守ってやって欲しい。

 誰にも、触れさせちゃあならねえ。いいな。

 これは、お前と俺の、男と男の約束だ。
 わかるか? 男と男の約束。そうだ、絶対に破ってはならねえ。いいな。

 豊誠は頷いた。

 そう言って、暫くの間、土方は美禰子をあやしてから、再び廊下を渡って空の家に戻って行った。豊誠は、布団に戻された美禰子をじっと眺めた。もう一度、誰も見ていない事を確かめてから、美禰子にそっと口づけた。



****

 

「それで、置いてきたんですか?」

 小石川に戻った斎藤に、千鶴が呆れながら尋ねた。斎藤は「ああ」と答えた。向島で昼餉をご馳走になったという斎藤は、暫く休んだら署に戻るという。

「土方さんが洋行から戻るまで、坊主は空の家だ」

 千鶴は、ぽかんと口をあけたまま、斎藤が麦湯を飲むのを見ている。

「お多佳さんが言っていた。玄関に誰かが訪ねて来ると、坊主が応対に出て行くそうだ」

「用聞きを達者にやっているらしい。玄関に来る者によっては、「大人をだしてくれ」と言われても、自分が家を守る者だといって、引き下がらん」

 斎藤は、微笑みながら千鶴にお多佳から聞いた話を全て話した。

 玄関に近い場所に布団を敷いて木刀を枕元に置いて寝ているらしい。悪者が来たら、成敗するから安心しろといって、戸締りも豊誠がするそうだ。お多佳さんは、こんなに頼もしくて安心して暮らしたことはないといって感心していた。

「手習いも日中は時間を決めてやっているらしい。おさよに見て貰って「は」行まで進んでおる」

 豊誠が居たいだけ、居て貰えればいい。お多佳さんはそう言って、俺の非番の日に家族で空の家に来て欲しいと招待された。坊主には、朝の素振り十を十回と言ってある。

「そんな、もう学校は夏休みに入りますからいいですけど。土方さんがお戻りになるまで帰って来ないなんて」
「わたし、明日迎えに行って参ります」

「帰らぬだろう。坊主は強情だ。誰に似たものか、あれはきかん気が強い」

 斎藤は、からかうような顔をして千鶴を見下ろしている。千鶴は心外だった。きかん気が強い? 私に似てるって。まあ、酷い。

「強情なのは、はじめさんにそっくりじゃありませんか」

 いつになく癇癪を起した様子で、千鶴は新しい靴下を乱暴に斎藤に履かせた。斎藤は肩を震わせて笑っている。千鶴は、斎藤が出掛けるのに玄関先で靴を履いている間も、虫の居所が悪いままだった。

「迎えに行くのは、週明けで良いだろう。その頃には坊主の気も済む。家やお前が恋しくなっているやもしれん」

 ようやく千鶴の表情が和らいだ。千鶴が抱いている子供の頭に手を伸ばして、ぐしゃぐしゃと撫でたついでに、千鶴の顔を引き寄せて口づけた。

「行ってまいる。帰りは遅くなる」

そう言って、斎藤は、玄関の門を出て行った。



*****

 

 その後三日間斎藤に止められていたが、千鶴はどうしても我慢ができなくなって、土曜日の朝、向島に出向いた。

 空の家の母屋の玄関には、大きな馬車が停まっていて、千鶴が門に入ると御者が馬車から大きな荷物を下ろして玄関の中に運び入れていた。玄関から挨拶をすると、家の中から歓声が聞こえている。

「おはようございます。御免ください、藤田です」

 千鶴が挨拶すると、御者が家の奥に向かって大声で「お客様がお見えですよ」と代わりに呼んでくれた。走って出てきたのは、豊誠だった。頭に麦わらで出来た帽子をかぶっている。豊誠は上り口で、弟の剛志を抱き上げると、草履を脱がせて居間に向かった。

「まあ、千鶴さんが見えたの。丁度良かった」

 そう言って、お多佳は剛志を抱き上げると、廊下に出て来た。千鶴は挨拶をしながら居間に上がった。座敷には沢山の布や洋服、玩具が広げられていて、その向こうに土方が娘を抱いて座っていた。

「土方さん、お戻りになられたのですね。おかえりなさい」
「ああ、今朝一番の船で着いた」
「香港行きはとり止めだ。酷い病が流行っているらしい」
「向こうへ行く船が欠航になってな。直ぐに帰国することにした」
「もう、ここを離れることはねえ。今回の洋行でわかった。こいつとお多佳を置いて、もうどこも行かねえよ」

 そう言って、土方は腕の中の娘に「おとっつあんは、どこにも行かねえ。毎日、美禰子の顔をみないとな」と優しく話しかけていた。豊誠は、部屋に広げられたお土産を次々に開いては、「これはなに?」と喜んでいる。頭に被っている麦わら帽子は、上海の土産で、現地にある英国学校の生徒が被っているものと同じものだという。

「洋装でも着物でも合うもんだ。それを被って尋常科に通え」

 土方から言われて、豊誠はこっくりと頷いている。荷物の中には上等な金巾やレースもあった、また横浜のテーラーに洋服を作らせると云って、子供用にも布地を仕入れたと云って見せてくれた。千鶴は、美しいレース糸に目が釘付けになった。なんて綺麗なんでしょう。亜麻色、銀、白。どれも素敵なものばかり。

「これは、千鶴、全部お前のだ。荷物になるが持っていくといい」

 土方にそう言われて、千鶴は歓喜の声をあげた。ひとしきり、珍しい数々の土産物を眺めていると、いつの間にか、お多佳が昼餉を広間に用意していた。土方は、上海に製靴用牛革の確保のために交渉に向かったが、夏前に牛疫が出た為に輸入ができなくなったと話した。香港ではコレラと風邪が流行っていて大勢の死人が出ているという。

「洋行も命がけだ。日の本に牛疫、風邪、コロリが持ち込まれちゃあ、たまったもんじゃねえ。政府は検疫を強化するって、工部省にもお達しが出たところだ」
「秋口に、横浜に坊主たちを連れて出掛ける予定だが、疫病が流行っていたら取りやめだ」

「横浜から、仕立屋を東京に呼ぶこともできる」
「今回、上海は物騒な様子だった。女房や子供は連れてはいけねえ土地だ」

 千鶴は、じっと土方の話を聞いていた。何度も洋行をしている土方がそう思うなら最もだろうと思った。

「向こうで原田に会った。付き合いをしている乙仲業者が不知火と取引をしていて。偶然、会合をしていた志那料理屋に現れた」

 千鶴は驚いて言葉も出て来ない。原田さん。上海にいらしたんですか。

「昨日の夜だ、船に乗る前で少ししか話せなかったが、あいつも近く帰国するらしい。もう三年以上、諸国巡りをしていたと云っていた。元気そうだった」

「私が最後に便りを貰ったのは、暹羅からでした。戦役の前だから、もう三年経ちます。お手紙には、不知火さんと商用で南の国を廻っていらっしゃると」

「そうか、上海では不知火にも会った。原田は不知火と商売をしているようだ」
「そうですか。不知火さんも。もうお二人には私も長くお会いしていません。戻っていらしたら、是非診療所に立ち寄ってもらえるよう伝えてください」

 土方は、「ああ」と返事をした。今回は、商用は上手く行かなかったが、原田と不知火に会えたから上海まで足を運んでよかったと思っていると満足そうに笑った。

「豊誠、この家を守ってくれたそうだな。ありがとう」

 土方は、箸をお膳に置いて、しっかりと頭を下げて礼を云った。豊誠は満足そうに「はい」と返事をした。

「家に帰ってきたら、玄関は閉じられている。中庭に声を掛けたら、木刀を持ってこいつが飛びかかって来た」

土方は笑っている。お多佳もくすくすと笑っている。

「豊誠さんは、朝の素振りをしてたもんですから。押し入りが来たなら成敗するつもりだったんでしょう」
「それはもう。歳三さんが留守の間、美禰子とわたしをしっかり守ってくださいました」
「どんなに安心していられたか」

 土方は、じっと豊誠を眺めていた。

「てえしたもんだ。なあ、坊主。俺も大安心だ」

 豊誠はそう言われて、嬉しそうにご飯を食べていた。

「私は豊誠さんを金輪際子供扱いはいたしません。歳三さんと同じように頼ることに致しました」

「家に男が居るのと居ないのとでは、こうも違うものかと。男のお子さんが二人もいらっしゃる千鶴さんが羨ましゅうございます」

「美禰子とわたしは、本当に豊誠さんに守ってもらいました。これからもどうぞよしなに、ね、豊誠さん」

 赤子を抱いたお多佳が豊誠に頼むのを、豊誠は嬉しそうに「はい」と返事をしていた。千鶴はその様子をみて嬉しい気持ちと、同時に空の家では随分と大人びて見える息子を不思議に思う気持ちで眺めていた。いつも斎藤が、坊主は向島ではよく躾けられていて驚くと云っているが、本当にそうだと思う。この春から尋常科へ通い始めて、息子は外の世界をどんどんと知って大きくなっている。頼もしく思うと同時に少し寂しくもあった。お多佳が、豊誠を大人扱いすると宣言した事もあって、お多佳から「坊ちゃん」とも呼ばれなくなった息子が、急に自分の手を離れて行ったかのように感じた。



*****

鮒の甘露煮

 午後に、下の息子の昼寝から目覚めた後。千鶴は馬車を呼んでもらって、沢山のお土産を載せて診療所に戻った。翌日は日曜日だったこともあって、朝から豊誠は近所の子供と遊びに家を出たまま昼近くまで戻らなかった。河原から帰った豊誠は、魚籠に小さな鮒をいっぱい詰めて帰って来た。

「母上、魚を沢山とってきた」
「まあ、こんなに沢山」

 驚いた千鶴は、こんなに、どこで魚籠まで用意していたのと驚いた。子供の話を聞くと、江戸川で鮒が大量に泳いでいて、掴み放題だったという。大人が何人も居て、即席で魚籠を作って配っていたらしく、人だかりで河原が大騒ぎだったと笑っている。

「僕は、五十五匹掴まえた。重吾は三十二。芳ちゃんは二十八匹」
「母上、これ焼いて」
「焼魚にするより、甘露煮にしましょう」
「かんろに?」
「甘辛く、お醤油で煮るの」
「父さまも大好きだから」

 子供は、自分が獲った魚を夕餉に食べられることが嬉しそうだった。夕方早くに帰った斎藤は、息子から江戸川の話を聞くと、わざわざ馬に乗って河原まで見に行った。陽が落ちかける時間なのに、まだ人だかりが続いていた。川面に溢れかえる程の魚が動いている様子を確かめた斎藤は、念のために川の上流に馬を走らせた。川沿いの運河の支流にある軍用工場の近くまで来ると、対岸からぐるりと周辺を見廻った。最近、軍用工場の建屋が新しくなったとは聞いていた。むせ返るような湿度。水蒸気が出ている建屋の排水口を見ると、熱い湯が川の支流に流れ出ているのがみえた。

 この熱い水で魚が集まったのか。

 斎藤は、ゆっくりと河を下りながら水面に跳ね返る魚の銀色の背中を眺めた。昔、自分が子供の頃、この川は長閑な流れで至る所に葦の林の河原があった。土手から簡単な釣り糸を垂らして、鮒を釣って遊んだものだ。

 今は河岸がどんどんと石積みに代わっている。橋も沢山架けられた。上流にいつのまにか、沢山の工場が立ち並んでいる。東京になって、この辺りは大きく変わった。斎藤は、懐かしい江戸の頃の風景と眼の前の河原の変化を確かめながら、ゆっくりと家に戻った。食卓には、鮒の甘露煮が大鉢に盛りつけられてあった。

「母上、明日も河原に行く」

 魚を食べながら、子供は張り切ってそう宣言した。非番の斎藤も一緒に行こうと言い出した。

「僕、百匹捕まえてくる」
「お前が百匹なら、父は三百だ」
「さんびゃく」
「十が十回で百だ」
「その百が三回で三百」

 子供は指を折って数えているが、さっぱりわからないと首を傾げている。千鶴は、百は十が十回と教えても、豊誠は百が世界で一番おおきい数だと言い張る。くすくすと千鶴は笑っていた。斎藤が大真面目に一番大きい数を獲ったら勝ちだと息子に教えた。

 翌日の午後、親子で河原に向かった二人は、大きな魚籠に三杯分の鮒を持ち帰った。

「母上、僕、沢山。百と五十匹」
「父上は、もーっと」

 井戸端で手足を洗う斎藤の元へ行くと、膝下を沢山傷つけて、擦り剥いていた。千鶴が駆け寄ると、「大事はない」の一点張りで汲んだ井戸水で血と泥を流している。一方、息子は無傷な様子だった。

「転ばれたんですか?」

 千鶴がしゃがんで手拭で、傷口を押さえながら尋ねた。

「一番魚が集まる堰まで、河原伝いに上って行った」
「千匹は居た」
「投網で全部掬いとりたい程だ」

 斎藤の瞳はいつもの深い碧い輝き。息子の豊誠と同じように満足そうに微笑んでいる。千鶴が、子供をそんなところまで連れて行かれたんですか、と尋ねると。斎藤は首を振って笑った。坊主には河原の上から魚籠を投げてもらった。千鶴は、「まあ」と言って笑い出した。

「母上、父上はこうしてね」

 子供が忍者みたいに、河原を上って行ったと四つん這いになって真似をしている。千鶴はその光景が思い浮かぶようだった。昔から、勝負事になると熱中するはじめさん。普段の静かな様子からは想像がつかなくて。いつも原田さんが、とんだ負けず嫌いだと、驚いて笑っていらした……。千鶴は屯所での日々を思い出していた。幹部の皆さんとの徒競争。腕相撲、銅鑼乗り競争も。本当に懐かしい。

 斎藤は、縁側で千鶴に足の傷の手当を受けると。魚は自分が圧倒的に多く捕まえたと千鶴に自慢した。

 ——これで面目が立つ。

 満足そうに呟く斎藤の顔を見て、千鶴はクスクスと笑っている。小さな息子に張りあう事が可笑しくて堪らない。豊誠も、はじめさんも、有難うございます。美味しい甘露煮を沢山作りますね。お夏さんや、空の家にお裾分けしましょう。きっと喜ばれます。千鶴はそう言って、台所に夕餉の仕度に向かった。

 間もなく、尋常小学校は夏休みを迎えて、豊誠は朝から夕方まで思う存分遊ぶ毎日を過ごした。空の家にも、独りで行きたがるので、少しずつ乗り合い馬車に乗って向島まで行く練習を始めた。



****

 

旧盆 白河、雪村の郷にて

 お盆の休みに、雪村の郷へ向かった斎藤一家は。久しぶりに鬼の郷の空気を満喫して過ごした。ちょうど、八瀬の千姫から式鬼が届き、翌年の皐月に豊誠の五十五夜の儀式を執り行いたいという申し出があった。早朝に、母屋の中庭に艶やかに咲いた白百合から朝露が零れ、それが千姫からの美しい文字に変わった。

 千鶴ちゃん、

 ご無沙汰しています。
 五十五夜の儀式の事は、日の本の鬼が集まってずっと長く相談していた事。
 豊誠ちゃんに、是非東国の鬼として儀式を受けて欲しい。
 成鬼として国の内外に知らせる大切な儀式。
 人間の世界では元服。でもそれよりもっと、厳粛なものなの。

 東国を統べる者として、「強き善き鬼」に棟梁になって貰いたい。
 これは鬼の一族が一番望んでいることです。
 とても大きな責任を伴う事に変わりありません。

 儀式は雪村の郷で執り行うことで準備を進めたいです。
 でももし、千鶴ちゃんと御主人が反対するなら
 この話はなかったことに。

 お返事を待っています。

 千鶴は斎藤にこの申し出のことを相談した。斎藤は、豊誠の意思を確認しようと云って、「東国の鬼の棟梁」となる気があるかと訊くと。「はい」と息子は二つ返事で承諾した。念の為に、「鬼の棟梁」の意味が解っているのかと千鶴が尋ねると、「僕はこの国のあるじ」といって本人は納得している様子を見せた。千鶴は、子供が「国の主」という言葉を使う事に驚いた。まだ小さな、こんなに小さな子供が元服をするなんて。子供が急激に大人になってしまう事を受け入れられないでいる千鶴をよそに、父親の斎藤は、冷静な声で「相分かった」と了解した。

 郷の中を所狭しと駆け回る息子。昼餉の後に、森の向こうに再び消えて行く後ろ姿を眺めていた千鶴の傍に、斎藤が近づいて隣に立った。

「子が育つのは、思いのほか早いものだな」

 そう呟いた斎藤の横顔は、微笑みの中に感慨と少しの寂しさを湛えていた。千鶴の顔を上から見つめた斎藤は、優しく微笑みながら千鶴の肩をそっと抱き寄せた。斎藤の腕の中に寄りかかりながら、「そうですね」と千鶴は応えた。

 ——きっと、大きな者となる。それでも俺等の子であることに変わりはない。

 東国の主に。斎藤から発せられる言葉は、殊の外、重い響きが感じられた。自分たちの子が、このような大きな宿命の下に生まれて来た。傍で見守り自分たちの庇護のもと、大切に育てよう。そんな静かな覚悟が無言の内に千鶴に伝わった。ゆっくりと頷く千鶴の髪に斎藤は優しく口づけて、二人で、いつまでも目の前に拡がる森の緑に見入っていた。



つづく

→次話 明暁に向かいて その47




(2019/10/31)

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