鬼の郷

鬼の郷

濁りなき心に その22

慶応二年六月 第二次長州征討勃発

 昨年より神戸港で列強軍艦の見張り役をしていた風間は、開国の勅許が下りた後、西国の鬼の里に一旦帰郷していた。

 直後に薩長同盟が成立し、風間達は征長の戦に加担する必要が無くなった。風間は、直ちに西国の鬼の里を新しく移す土地を求め、人間の手の及ばぬ静かな山間を見つけた。風間の統治する西国は一年を通して温暖で肥沃な土地が拡がる。鬼の里は小規模だが、小作農に携わる者からあらゆる職人が存在し、市が立つ豊かな暮らしぶりであった。長く風間家が人間社会と折り合いを付け、租税の軽減など、鬼の一族を守って来た。戦への協力が不要になった事で、薩摩藩の庇護を受ける事なく、人間の干渉のない鬼だけで棲まう里を造る目処が立った。あとは薩摩藩の動向を見極め、薩摩藩に風間家が受けた恩義を尽くし終える必要があった。

 新しい土地を見つけると、風間は鬼の里の大工衆を集め、新しい鬼の郷づくりに取り掛からせた。材木の調達や資材の運搬など、通常の人間の人足では数百人で取り掛る作業を鬼の大工衆は僅か数十人で終えて行く。風間は日中大工たちを指揮し、毎晩遅くまで郷の見取り図を広げて、郷づくりの計画を練り直した。自分が統べる鬼の一族皆が何不自由なく静かに暮らす。夏の内に家屋が出来れば、秋の過ごし易い時期に郷を移せる。風間は計画が此の儘順調に進むよう願っていた。

 こうして風間が郷づくりに奔走する間、天霧は風間の代理として薩摩藩城下や大坂、京に出向き、藩内や幕府の情勢を偵察していた。六月に入って、鬼の里に戻った天霧から、薩摩藩が朝廷で長州藩の赦免工作に取り掛かる準備に掛かったと報告があった。

「朝敵と云われた長州と同盟を結び、次は朝廷工作か。薩摩は国の実権を握る腹積もりにしか見えぬ」

 風間は溜息を吐いた。

「昨今の薩摩の動向をお気に召さないのは、重々承知。しかし幕府軍が劣勢なのは明らかです。諸藩の士気も上がらず、幕府の政は立ち行かぬ故、これ以上戦を長引かせる事は無いでしょう。薩摩藩は参戦しません。ですが藩内の米の蓄えが底をついているようです。我々鬼の里も当面の食料確保が必須かと」

「里の暮らし向きは心配には及ばぬ。人間の世では、戦で物の価値が激しく変わる。だが藩の勘定と我等は無関係だ。其れは絶対に譲らぬ」

「新しい里で、当面作物は育たぬだろう。だが、我々には充分な蓄えと資金がある。人の世から鬼の里はどんな方法を取ってでも守る。よいな」

「はい」

 天霧は頭領の強い意志を汲み取って、静かに返事をした。風間は人の世との完全な分離を目指している。薩摩藩の知行の中で成り立っていた身上から治外へ移るには相当の覚悟が必要。風間は己の身代を削ってでも鬼の一族を護られるお積りだろう。

「神戸に留まっていた英国領事が軍艦を引き連れて薩摩に入りました。薩英条約を結ぶ為です。久光公は、海岸線に砲台を増やされています」

「この地が夷狄から守られているのは良しとする。西洋との交易は此れから盛んになるだろう。不知火は戦を終えたら西洋に行くと言っておったが。奴を介して交易するのも、悪くはない」

 風間は微笑みながら、煙草盆を引き寄せた。煙管に火をつけゆっくりと煙りを燻らせた。

「不知火ですが、小倉口から便りがありました。戦から一旦離れ船を降りると」

「奴は何処に居る」

「馬関に留まっています。戦況は決したそうです」

「不知火の情報では、薩摩藩の後ろ盾で長崎で仕入れた大量の武器が大坂に流れているようです」

「倒幕に備えておるのか」

「はい、公にはされておりませんが」

「朝廷を巻き込んでの戦となると、八瀬の里も黙っては居らんだろう」

「八瀬の里からは、薩摩の動向を報せるようにと」

「フッ、孝明天皇がどう抗おうが、開国は決まった。いずれ幕府は滅びる」

 風間は、三服目を吸うと、煙りを吐き出した。

「洛中の様子は」

「はい、土佐藩の動きが活発です。伏見の土佐藩邸に南雲薫と雪村綱道が出入りしています」

「雪村綱道は薩摩と盟約を結んだのではないのか」

「はい、羅刹の開発を戦に向けて進めるというのが名目。雪村綱道は土佐藩で羅刹の開発を進めて居るようです」

「薩摩は土佐藩と盟約を結ぶ動きも有ります。いずれ雪村綱道が羅刹を薩摩藩に持ち込むでしょう」

 風間は煙管を盆に置いて、暫く開け放った障子の向こうを眺めた後、

「雪村千鶴は」

「綱道の元に居るのか」

「いいえ、西本願寺に。新選組の屯所に暮らしておられます」

「千姫様が定期的に西本願寺に八瀬の遣いを送って、雪村千鶴の様子を伺わせて居るようです」

「雪村の女鬼は、綱道に会っては居らぬのか」

「おそらく」

「南雲薫は、土佐藩士と徒党を組んで洛中や大坂で資金集めをしています。不知火の話では、藩主の山内容堂は幕府擁護にも拘らず、脱藩志士達の勢力に圧され、倒幕に資金が流れていると。雪村綱道が倒幕派に加担しているのは明らかです。 会津藩預かりの新選組には近づく事は無いと思われます」

「雪村綱道が何方に付こうが些事に過ぎぬ」

「だが、喩え相手が人間で有ろうと、二心で身を翻すは以ての外。奴の所業は目に余る」

「雪村綱道は南雲家と雪村家の再興を目指しているのかもしれません。東国を追われたのは、天保の飢饉で幕府が米の作付けの為に東国を灌漑開拓しようとしたのが原因。雪村の里は、古より豊かな水源地で、幕府は雪村家に土地を差し出すよう迫ったといいます」

「雪村の里はどうなったのだ」

「焼討ちにあったまま荒廃しております。しかし、水源は灌漑開拓される事なく仙台藩田村家が護っていると」

「譜代か」

「古より田村家は雪村家と東国を治めて来ました。関ヶ原以降、雪村家は田村家の庇護の元に隠遁したと。十二年前の焼討ちは、田村家との結界が解かれた夜に起きたと聞いています」

「田村の鬼塚か」

「はい、昨年東国に出向いた折、結界を通って雪村の里に行きましたが、田村の鬼塚の結界は非常に強いものでした」

 風間は雪村の里を想った。豊かな水源に恵まれ、静かに暮らしていた鬼の一族。しかし人間に突然襲われ滅んだ。鬼塚の結界でも守れぬとは。風間は溜息をついた。失われ、荒廃した里か。だが雪村家が再興すれば、元に戻す事も叶うだろう。

 其れにしても、解せぬ。雪村綱道は新選組の元に千鶴が身を寄せている事を知らぬとは思えぬ。何故、千鶴を捨て置く。

「我等の郷の結界も強いものを張る故、心配には及ばぬ」

 風間は天霧に顔を向けると、静かに告げた。

「雪村千鶴は、新しき郷に迎え入れる」

 天霧は、一瞬間を置いた後、「承知しました」と返事をした。風間が雪村千鶴を娶るつもりでいる事に内心驚き、同時に悦ばしい気持ちになった。さて、此れから、東国の姫君を迎える準備もせねば。 先ずは上洛して、雪村千鶴の安否をこの目で確かめよう。天霧は、自ずから部屋を急ぎ辞す様子を見せた。

「どうした、未だ退がれとは言ってはおらぬ」

「はい」

 天霧は一礼して顔を上げた。

「今宵は、付き合え」

 風間はそう言うと、従女に酒を用意させた。

 其れから風間は、天霧と供に杯を空けた。風間は新しき鬼の郷の見取り図を拡げて見せ、山奥の湧水から、田畠や集落の家屋への用水路を整えている様子を説明し始めた。風間がこの様に熱心に物事を語るのは珍しい。普段、面には見せないが、郷造りが余程悲願なのだろう。
こうして天霧は、機嫌の良い風間と、久し振りに明け方近くまで語り合った。



***

鬼の郷

慶応二年七月から九月

 この翌月の七月二十日、大坂城で家茂将軍は病死した。

 総大将の突然の死亡で、長州の戦から幕府諸藩は撤退していき、喪が明らかにされた翌八月に孝明天皇より長州征討の停戦の勅命が下った。長州征討の失敗は幕藩体制の揺らぎを世に知らせる事となった。薩摩藩は朝廷内で新たな日の本を目指す改革派の公家と画策して列参会議を開いた。此れに対抗して、徳川宗家を継承した一橋慶喜が京都守護職の松平容保の協力の元、孝明天皇の後ろ盾で朝廷内【攘夷佐幕政策】派として力を掌握。これにより薩摩藩の朝廷工作は難航した。風間は洛中と朝廷内の偵察の為、再び京に召喚される事となった。

 九月を目処にしていた新しき郷造りの計画が頓挫した事に風間は苛立ちを覚えた。上洛を十月まで先延ばし、天霧の反対も聞かず、風間は馬関に留まる不知火の様子を見に下関に出向いた。不知火は、長崎から蘭方医を連れて戻って来たところで、小倉口の戦線から労咳を患って離脱した腹心の友、高杉の療養の世話をしていた。
 いつもとは違う不知火の翳りのある表情に風間は多くを尋ねる事は無かった。高台にある不知火が隠れ棲む庵の近くに、小さな小屋が見えた。【東行庵】と看板が建てられ、其処で高杉が床に伏せていると言う。人間は労咳の様な死病に罹ると脆い。鬼は人間に巣食う病を敏感に感じる事がある。特に死が近い者は一目で判る。

「まだ此処の戦火は消えた訳じゃねえ」

 軍艦が見える海を見下ろし不知火は呟いた。

「長州の罷免の為に朝廷工作が進んでいると聞く。天霧と此れから上洛する」

 風間は静かに言った。

「朝廷の動向は、こっちでも偵察に行く様に言われてるがな。暫く俺は動けそうもねえ」

「既に幕府は張子の虎同様。日の本の政権を狙って薩摩も長州も動く。だが、我等西国の鬼の一族はそこまで付き合うつもりはない」

「近いうちに新しき郷へ一族を移す」

 風間は初めて不知火に自分の決心を語った。不知火は驚きの表情を見せた。そして、静かに微笑むとまた眼下の海を見ながら呟いた。

「何処に居ても、俺は気が向いたら訪ねて行く」

「フッ。風来坊の如くか」風間は笑った。

「困った時は、式鬼を送れ。必ず手を貸す」

 風間はそう言うと、不知火に背を向けて元来た道にむかった。

「我等鬼は一度発した言葉は決して違えぬ」

 背中越しに呟くと、頷く不知火の元から風間は一瞬で姿を消した。

 不知火は暫く海を眺めた後、ゆっくりと【東行庵】に向かって歩いて行った。




 つづく

→次話 濁りなき心に その23

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