鬼谷

鬼谷

薄桜鬼小品集

 日出ずる処、大和国は太平の世なり。人界は元号を明治と変え、西国の鬼の郷は予てより待ちわびた東国の姫を頭領の后と迎えたり。

「何を見ている」

 座敷の御簾の向こうで、濡れ縁に立った千鶴は背後から抱きしめられた。共に白絹の寝間着を纏った二人は、庭の暗闇の向こうを眺めた。

「今夜は風が強くて。竹があのように撓んでいます」
「眠れないのか」

 西国の鬼の郷の棟梁、風間千景は妻の艶やかな黒髪に唇を埋めるように口づけると、そのまま千鶴を抱きあげて、褥に連れて行った。

「嵐が来るのでしょうか?」
「ああ、近いかもな」

 身体を横たえて風間の胸に手をあてたまま千鶴は怯えたように見上げてくる。風間は、肱をたてて枕にしながら腕の中に抱きかかえるように千鶴の腰を引きよせた。

「案ずるでない。稲光も雷もこの郷には落ちぬ」

 優しい夫の声は千鶴を落ち着かせるように響いた。緑濃き郷は一年を通し温暖で、屋敷の壁は美しく編まれた蔀と御簾で仕切られている。白木の柱、無垢の床に寛ぐ室には青々とした畳張り。どんなに強い雨が降っても、屋敷の中に雨が吹き付けることはない。

「天霧さんが、月変わりに北の屋敷に移ると仰っていました」
「ああ、まだこの屋敷も完成はしておらん」
「わたし、こちらの棟にやっと慣れましたのに」
「金神が塞がるゆえ、仕方がない」

 髪を優しく撫でながら風間は呟くように言うと、千鶴の額の生え際に口づけた。

「方忌み。天霧さんが秋にもう一度と」

 千鶴は鬼の郷が全ての方位や古くからの風習に従い成り立っている事を少しずつ知るようになった。この平和で静かな場所は三年前に以前の郷から移ったと聞いている。集落の造成。治水や灌漑の工事。全て、棟梁である風間が指揮をとって進めて来ている。人の世から完全に隔絶しているとはいえ、風間は日向国一体の県政にも目を光らせ、対外折衝もこなす。

 千鶴は風間の身の回りの世話をもっとしたいと思っているが、下女や天霧がほとんどの仕事をこなし、唯一、夕餉の仕度と給仕と着替えを手伝えるだけである。日中、風間が屋敷の外で仕事をしている間、千鶴は洗濯も掃除も下女が済ませてしまう為、時間を持て余した。

「北の棟に書庫がございますゆえ、ご案内いたしましょう」

 天霧がある日、千鶴を風間家伝来の書物が所蔵されている書庫に連れて行った。以来、古い絵巻物や伝承など、千鶴の知らない鬼の世界の事が細やかに記された鑑を千鶴は貪るように読んでいる。

 鬼は人がこの世に生まれる前から存在した。
 遥か太古、天と地が分かれる前。
 神や仏とともに鬼神は善悪なるものを統べた。

 千鶴は人の世に育った為、人と鬼の違いは己の身の特性以外には、風間の強靭な力や風に乗って思うままに移動が出来ることぐらいしか知らない。自分が鬼であることは、この郷に来てから次第に自覚していっている。婚礼の儀式で風間と祝詞を上げた時に、互いに鬼の姿で手を取り合い見つめ合った瞬間は忘れない。自身の本当の姿。

 異形の姿。

 千鶴は小さな時に見た御伽草子の鬼の姿を思い出す。鮮やかな色刷りの草子には、赤や緑、碧の鬼が描かれていた。金の角を生やし、口は耳まで裂けて大きな牙を剥き。人を捕まえて食らう。酒呑童子は都より若い娘を浚い、その生き血を吸った。恐ろしい妖魔。

 千鶴は温かい風間の腕の中で、伏ていた瞳を上げて夫の顔を眺めた。優しく微笑む風間。その丹精な顔立ちと深紅の瞳、勿論、口元に牙はない。笑うと白い美しい歯が綺麗に並んでいるのが見える。じっと自分の顔を見詰める千鶴に風間は顔を近づけ、深く口づけた。今宵、我妻はなかなか寝付けぬようだ。嵐の前触れに落ち着かぬのか。度々の方違えに疲れた様子も見せている。

「千景さん、人は昔から鬼を忌み嫌うのはどうしてでしょう」
「郷に来てから、ずっと不思議です」
「こんなにも静かで穏やかな、このような暮らしをしているのに……」
「鬼の郷と聞いて、赤鬼や青鬼が暮らす場所だと思っておったか」

 優しい声で風間が尋ねると、千鶴はくすくすと笑い出した。

「いいえ、でももしかしたら、郷の境界には赤鬼さんが門番をしているのではと思っていました」

 風間は鼻先で笑うような音をたてている。

「今宵、我妻はなかなか寝付けぬようだ」

 風間は、枕を脇にやると、千鶴を抱きよせて腕枕をした。

「伽をしてやろう」

 甘い風間の声が千鶴の耳元をくすぐった。

 

****

鬼谷に落ちて鬼となる

 若狭、近江の国境に近い熊川というところに、蜂谷孫太郎という男がおった。

 家は裕福で栄えていたため、稼業には一切気を掛けず。儒学を好み、片端の書物を読んでは、奢り昂って周りの者を蔑み、あまつさえ仏法をそしり、善悪因果のことわり、地獄浄土の説を笑って、鬼神幽霊の話を聞いては、頭から信じることがなかった。

 この男、妻子を持ったが顧みず、湯水のように金を使い、放逸無慚なる事ばかりを云う。周りの者は「鬼孫太郎」と名付けて、変わり者として扱った。

 ある時、敦賀に孫太郎は所用で独り赴いた。

 用は済んだが、すっかり夜も更けて家に戻ることもできぬ。兵乱の合戦の後、北の河原にはそこかしこに人骨が乱れ散ったあとがあった。立ち寄る宿もみつからぬ。仕方なく、北の山際にあった林の木の根に身体を横たえて休んだ。

 狐火が光り、夕風が冷たく、心細く感じて目を開けると、小雨が降り始め、稲光り閃き雷が鳴り始めた。ふと見ると、地面に横たわっていた屍が七体、むっくりと起き上がって襲ってきた。孫太郎は木の上によじ登って難を逃れた。

 雨が止むと、月が出て空が明るくなった。

 すると、遠くから走る者の姿が見えた。夜叉だ。身体は蒼く、角が生えて口は大きく髪は乱れ。木の下の屍を捕まえて頭を瓜に齧りつく如く喰らい始めた。

 千鶴は怖さに身をすくめるようにして風間の懐に頬をつけて抱きついてきた。

 一通り、屍を食らった夜叉は、木の根を枕に高鼾をかいて眠り始めた。孫太郎は、そっと木から下りて逃げたが、直ぐに夜叉は追いかけて来た。山の麓に古寺があった。駆け込んだ孫太郎は、お堂の大仏に「助けてくれ」と祈って木像の後ろに廻った。

 大仏の背中には穴が開いていて、その中に入って隠れた。夜叉は姿を消した孫太郎を諦めて元来た道を引き返して行った。大仏はすっくと立ちあがって、笑いながらお腹を叩いた。

「夜叉は、この者を取り逃がしたが、我は夜食をもうけた」

 満足そうにお堂の外に出た大仏は、境内の石につまずいて転び身体が割れてしまった。中から外に出た孫太郎は、真っ二つに割れた木像の大仏に向かい。

「俺を食らおうとして、禍い其の身に当たる。仏が人を助けたのが馬鹿の骨頂」

 そう言って、大仏を嘲笑った。そして古寺より出でて東に向かった。野中に灯が見えて、近づくと、人が集まっている影が見えた。首無しの者、手足無の者、赤裸で並んでいる。化け物の酒宴。肝を冷やした孫太郎が逃げると、一同が追いかけてきた。どこまでも追いかけてくる妖怪。西の空に月が傾く頃、大きな石に躓いて、孫太郎は穴に落ちて行った。

 腕の中の千鶴を見てみると、目を爛爛とさせてじっと話を聞いている。眠るどころか、話に夢中になっているようだ。風間は話を続けた。

 落ちた穴は深く、いつまでたっても底には当たらない。百丈も落ちた頃だろうか、ようやくついた場所は、生臭い空気の流れ、温かい風が吹いていた。

 そこは鬼の集まり棲む所。ある者は、髪が赤く金色の角を生やし、ある者は青い髪を生やして背中に鳥の翼がついている。嘴に牙の生えたもの、牛の頭や獣の面に身体が紅色をしている者。孫太郎を見つけた鬼たちは、鬼の国に禍する者だとひっ捕らえて鎖をつないで、鬼の王のもとへ引き摺っていった。

「お前は人間の分際で、その短い舌で鬼、神、幽霊なしと言って、我らを蔑ろにし、恥を与えた悪戯者」

「みだりに鬼神を侮るとは何事ぞ」

 鬼の王大いに怒りて、部下のものに孫太郎を散々に打擲するように申し付けた。

 鬼たちは、孫太郎の頭と足を持って思い切り引っ張り、細い棒にして地面に突き刺した。ゆらゆらと揺れる孫太郎は棹のようだと大いに鬼達は笑った。次に鬼は棒をこね回して、今度は頭と足をぎゅっと押し付けて平たいずんぐりとした横長の孫太郎にした。むぐむぐと蟹のように動く孫太郎をを見て鬼達は手を打って大いに笑った。

 千鶴もくすくすと笑っている。

 鬼の中の長老が、「この者、鬼神は居ないと嘘ぶいておったが、この様に辱めを受けて、少しは反省しただろう」そう言って情けをかけて、孫太郎の身体をさっと揺すると、孫太郎は元の身体に戻った。

 長老は、「不憫じゃ、さらば元の人間の世に返してやろう」とまで言う。

 鬼達は、「この者をこのまま返す訳にはいかない、餞別を与えてやろう」と云った。

 ——吾ら鬼は律儀にて、客人にはその去り際に餞をする。

 風間はそう千鶴に言って聞かせた。黒い大きな瞳をゆっくりと瞬くように千鶴は頷いた。素直でよい。風間は再び千鶴に口づけた。

 或る鬼、「我は、雲道を分ける角をやろう」
 或る鬼、「我は、風をうそぶく嘴を与えん」
 或る鬼、「我は、朱に乱れし髪を譲らん」
 或る鬼、「我は、碧に輝く眼を与えん」

 そう言って、孫太郎の顔に大きな目玉を埋め込んだ。そして鬼達に送られて、鬼谷を出れば、孫太郎は我が家に向かって雲道を掻き分け、風をうそぶき、真っ赤な髪を振り乱し、青く光る眼をして、その姿は恐ろしい鬼となった。

 熊川の家に戻れば、妻も下人も恐れおののいた。

「かくかくしかじか、この様な異形の姿になった。だが心は努々変わらず」

 そう説明しても、妻はこの有り様は情けなく悲しいと言って、経帷子を孫太郎の頭から掛けてしまった。子供は怖がり泣き逃げ、周りの者は好奇の目で嘲り笑う。

 孫太郎は、部屋の戸を閉じ誰にも会わず、物も食わず、物思いに煩い終に空しくなった。

 残された家の者は、仏事を執り行ったが、その時だけ元の孫太郎の幻が現れて、家の周りを彷徨う姿を見たという。

 千鶴は腕の中で、じっと考えに耽っているようだった。風間は、そっと千鶴の髪に口づけて、夜着を引き寄せて千鶴に掛けた。

「それでは、孫太郎さんの姿は、鬼谷の鬼のお餞別なんですね」
「ああ、人が鬼の姿だと思うのは、鬼が作り上げたものやもしれん」
「人が恐れて、心の中で作ってしまった姿だと思っていました」

「孫太郎さんは、きっと鬼神を信じるようにはなったんでしょう」

 風間は「さあな」とためらうような調子で小さく溜息をついた。人の世も鬼の世も愚かな者は愚かで変わらぬと、よく風間は慨然として嘆息するが、もし孫太郎が鬼の郷に現れたら、風間は鬼谷の長老のように情けをかけて、元の姿に戻すのではないか。千鶴はそんな風に思った。

「今宵の伽は終いだ」

 風間はそう言って、千鶴を抱き寄せた。外の風の音よりも、耳に響く風間の声に心地良さを感じながら、その大きな胸に包まれゆっくりと千鶴は愛撫に身を委ねていった。

 

参考文献 鬼谷におちて鬼となる「江戸怪談集 上」高田衛編・校注

(2020/08/28)

コメントは受け付けていません。
テキストのコピーはできません。