賽の河原

賽の河原

明暁に向かいて その3

明治七年九月

 コンコン、コンコン

 千鶴が縁側の廊下で床を叩くと、猫が飛んでくる。滑り込むように千鶴の膝にすり寄って嬉しそうに膝の上に乗っかる。尻尾をゆっくり振ってはおろし振ってはおろし、「早く、はやく」と催促する。

 九月に入って、斎藤は紺色の制服を毎日着用するようになった。朝礼で予定報告を署員全員の前でするため、上着をきっちり着たいと言っている。家に夕餉を食べに来る斎藤の部下二人は、紺のズボンに白い半袖のシャツ一枚で涼しそうな装い。二人に聞くと、斎藤はこの厳しい残暑の中でも滅多に上着を脱ぐこともなく汗一つ流さずに涼しい顔をしていると言う。

 斎藤の制服の手入れで困っているのが猫の毛だった。なにをどうしてなのか、衣紋かけに下げておいた制服が、翌朝になると猫の毛だらけになっている。夜中に総司が飛びついて遊んでいるのであろうと、斎藤は笑っているが、毎朝手ぬぐいで払っても綺麗にとることが出来ない。

 隣家のお夏に洋服の手入れの仕方を教わることができた。埃や塵落としに刷毛をかけてから吊るすといいそうだ。洋服用の刷毛は日本橋の江戸屋で売っているという。千鶴は、翌日に子供を連れて日本橋に出かけた。洋服刷毛は猪の毛で出来た立派なものが手に入った。それよりもっと固い毛で出来た小さな刷子を猫用に買った。今までは千鶴の使っていた古い櫛を使って時々梳かしてた。猫の毛は柔らかいので、斗南の颯や青葉のように刷子で梳かしてあげたいと千鶴は思っていた。

 案の定、猫を刷毛で梳かしてやると気持ちよさそうにじっとしていた。それ以来毎日縁側で、梳きが日課になっている。最近は床を刷子で叩く音で飛んでやってきて、膝に乗っかるようになった。

「沖田さん、今日もいいお天気ですね」

 そういいながら、千鶴は頭から尻尾まで丁寧にゆっくりと按摩をするように刷子を動かす。総司は目を瞑ってじっとしている。肩から前脚の先にかけてゆっくりと、次に脇腹を。総司は四肢を完全に伸ばしている。首から顎にかけて梳かすと、微笑むように口角を上げてゴロゴロと喉を鳴らす。

「本当に気持ち良さそうですね」

 千鶴はクスクス笑いながら、何度も首から顎にかけて刷子をかけた。最後に頭のてっぺんから尻尾までゆっくり撫でると、総司は膝から降りてさっと走って行ってしまった。

「行ってらっしゃい」

 千鶴は、中庭の向こうに消えて行った総司を見送ると、刷子に残った総司の毛を綺麗に集めた。それをいつもの紙の袋に仕舞って夕飯の支度にかかった。

 夕方早くに斎藤が帰宅した。夕飯を早くに済ませて、珍しく親子三人で風呂に入った。 掴まり立ちをするようになった坊やは湯船でも動き回り、一緒に遊んでいる内にすっかり長湯になった。風呂上がりに千鶴は冷酒を用意した。隣家のお夏から貰った山葵漬けと、朝早くに来る行商から買った蒲鉾を一緒に出すと。斎藤は、珍しいな美味いと言って喜んだ。翌日は久しぶりの非番でゆっくりできる。千鶴は子供を寝かし片付けを済ませて居間に戻って来た。丁度、猫も夕餉を済ませて身繕いを済ませ、千鶴の膝に乗っかった。千鶴は総司を優しく撫でながら、もうすっかり朝晩は涼しくなったから、そろそろ衣替えの準備を始めないと話した。

「でも、東京は暖かいから、もう少し先でいいかしら」
「霜や雪が降るのがもっと先だなんて不思議」
黙って、酒を飲む斎藤の側で、独りで話しては笑っていた。

「あ、お髭が抜けましたね、沖田さん」

 千鶴は総司の髭を膳の上に置いた。そして膝から猫を下ろすと、戸棚から小さな漆の物入れを持って来た。紅い併せの四角い容器は、会津に留まった間に照姫のお付きの従女から貰った物。元々は菓子が入っていたらしい。千鶴は小さな容器の蓋を開けると、総司の髭をその中に仕舞った。

「髭を集めているのか」

 斎藤は、お猪口に口をつけながら、不思議そうに膝の入れ物を眺めている。

「はい、もう、十八本目です」

 千鶴は嬉しそうに答える。蓋を開けて猫の髭を見せながら。最近は身体もひとまわり大きくなって、お髭も長くなって立派になったと、長さの違う髭を並べている。斎藤は、千鶴の奇妙な癖に思わず笑みが溢れた。

「昔から、何でも大切に取っておくのが性分だとは思っていたが、猫の髭までとはな……」

 余程可笑しいのか。斎藤の肩が震えている。

「もう、毛の一本もお髭も愛おしくて」

 そう言って笑うと、千鶴は総司の頭から背中を撫でて膝の容器を仕舞い、今度は猫の毛をためた紙袋を持って来て、こんなにふわふわの毛が貯まったから、針刺しか、もっと集めて坊やの綿入りの背当てに仕立てようかと嬉しそうに話す。

「総司は、自分の毛が役に立っているとは、露ほども思ってはいないだろう」

 斎藤はそう言って、縁側で箱座りになって寛ぐ総司を眺めた。猫は話を聞いているかの様にゆっくりと尻尾を動かしている。千鶴は別の容器を沢山持って来て、これは沖田さんの爪、こっちは坊やの爪、これは坊やの髪の毛と、お膳の上に並べて説明し始めた。

「俺の爪まで取ってあるのか」

 斎藤が嬉々として容器を並べる千鶴に驚きながら尋ねると。

「え、はじめさんの? まさか……」

 キョトンとして千鶴は答える。

 斎藤の顔から笑みが消えた。

(俺のは、ないのか)

 酒の酔いが一気に冷めるぐらい、がっくりと来た。庭から秋風が吹いて来た。縁側で総司が口角を上げ目を細めたままじっと座っている。しょんぼりと杯を進める斎藤に千鶴はにっこり笑うと。奥に部屋に行って、桐の箱を大切そうに抱えて来た。

「これは私の秘密の宝箱」

 千鶴はそっと箱を開けて、中の美しい和紙の包みを開けた。中には斎藤の髪の毛と爪のような塊が入っていた。

「これ、はじめさんの手に出来た剣胼胝です」

「京に居た時に、時々私が切り取っていたものを覚えていらっしゃいますか。屯所で切ったのは、此れしか残っていなくて。これは斗南に移ってからの。これは、馬の手綱で出来たもの」

 小さな紙の包みを開けながら、千鶴は嬉しそうに並べる。

「はじめさんは、右手の薬指の付け根にいつも大きなのが出来て。左手は親指と人差し指に。どれも日々精進されている内に出来たもの。はじめさんの強さの証。全部私の大切な宝物です」

 そう言って、包み直した和紙を頰にあてて、うっとりとしている。

 斎藤は驚いた。魚の目になると厄介だからと時々掌の固い皮膚を切り取って貰って居た。千鶴は嫌がりもせずに、丁寧に処置をしてくれていた。あれを取ってあったのか。斎藤は驚いた。戦では、ほぼ着の身着のまま。身につけた荷物は殆どなかった。千鶴はそれでも、本当に大切なものは肌身離さず持ち運んでいたらしい。女子というものは不思議なものだ。千鶴には本当に驚かされる。

「この髪の毛は、斗南で切った時のもの」
「京の頃にはじめさんの長い髪の毛を貰っておけば良かったと今も残念で」
「甲府に向かう時に、断髪した時の皆さんの髪も」
「あの時は、皆で髪を下ろしたからな」
「土方さんなんて、女の私より長くて艶やかな綺麗な髪でした」
「下ろされた髪を欲しいって、言ったら。縁起でもねえ。今生の別れみたいな事言うんじゃねえって怒られました。戦が終わったら、鬘が出来るぐらい、たんまりくれてやるって仰って」

「結局、あれきりでした。近藤さんの遺髪は土方さんがお持ちになって、会津で弔えましたけど。せめて髪の毛でもあれば、といつも思っています」

 斎藤は、千鶴の手を引いて抱きしめた。想いはいつも同じなのだな。斎藤は、戊辰で別れた新選組幹部が今どこで生きているのか、亡くなった土方は蝦夷で弔われたのか、ずっと考えていたことを改めて思い返した。




****

鬼籍のこと

 やれやれ、毎晩、ご馳走様。
 髪の毛や胼胝まで取っとくなんて。よっぽどの物好きだね。
 僕の髪の毛は、姉上が打刀と一緒に大切に持っていてくれてるけどね。

 総司は、むっくりと立ち上がると、ゆっくりと伸びをした。よいしょと言って、抱き合う二人に背中を向けた。右耳の後ろを右側の後ろ脚で掻いた後に、後ろ脚の肉球を舐めた。

 お弔いかあ。どちらにしても、向こう側では知り合いには顔を合わす事になるみたい。

 僕がこっちに喚ばれた時、近藤さんと一緒にいてね。僕らは【賽の河原】でまた会えたんだ。近藤さんが「総司、こっちだ」って手を振って呼んでくれてね。そこには源さんも居たし、山崎くんもいた。源さんが河原に一番乗りだったって。そこは鴨川の川辺みたいなところでね。石っころばかりだけど。ずっと腰掛けて皆んなと話しているのは楽しかったよ。

 源さんが時々あちら側に喚ばれるから、河は渡らずに留まっているっていうから。誰に喚ばれるのって訊いたら。日野の実家だって云うんだ。

「あちら側でお念仏を唱えてわたしの戒名を読むだろ、そうすると明るいところに吸い込まれて行くんだよ。気がつくとあちら側だ。私は兄やその子供達の所へちょくちょく行っているよ」
「へえ、お念仏かあ。じゃあ、戒名読まれないと駄目ってこと。それまで此処で待ってればいいの」
「そうだな。俺は、暢んびりやっているぞ、総司。月命日にはつねのところとお孝と交互にな」
「お妾さんが沢山いると、大変ですね」
「じゃあ僕も河は渡らずに、此処に居ますよ。知り合いも見つかるかもしれないし、身体も楽だしね」
「そうか、総司。具合が良いと聞いて、此れほど嬉しい事はない。俺は総司が元気でいてくれれば、もう言う事はない。どうだい、源さん。此処で、宴会でも開きたいが」
「勇さん、あんまり大っぴらには無理だよ。騒ぐと赤鬼が来て厄介だ」
「何、赤鬼って。河原の番でもしてるの?」
「ああ、河を渡る船着場に立っていて、順番待ちを見張っている。鬼に睨まれると、あちら側から喚ばれても動けなくてね。困ったもんだよ」
「へえ、どこの鬼も厄介だね。僕は、こうして腰掛けて近藤さん達と喋っているだけで十分ですよ」
「そうか、総司。あれ、山崎くんが居ないな」
「烝くんは、船着場に偵察に向かったよ。そろそろ新しいのが出るからね」
「なに新しいのって?」
「閻魔帳だよ。帳面に新しい名前が書き加えられる。知り合いの名前がないか、烝くんが確認しに行ってくれているんだ」
「我々は鬼籍に入いる。あちら側も新しい世の中になったが、まだまだ新政府も落ち着かぬようだ。今は東京と呼ばれている江戸でも斬り合いが絶えないらしい」
「ねえ、土方さんやはじめくんは北に向かったって、戦はまだ続いてるんでしょ?」
「ああ、トシは島田くん達と蝦夷に渡った。蝦夷で新しい幕府を建てたが、そこも新政府軍が攻めてな」
「じゃあ、まだ皆んな戦ってるの? 土方さんやはじめくんも」
「ああ、俺は何度か、蝦夷のトシの所へ喚ばれて行ったがな。トシは蝦夷の陸軍奉行並になって立派に戦っていた。直接、言葉は交わせなかったが、『近藤さん、見ててくれよ』としきりに言ってな」
「山南さんは、この前河原に現れてね。私や勇さんに頭を深々と下げて、急いで河を渡って行った」
「へえ、山南さんもか。じゃあ、平助は? 新八さんや左之さんは」
「平助は蝦夷でトシと一緒に戦って居た。相馬くんと一緒に最前線に出ていた。永倉君や原田君は蝦夷には居なかった」
「はじめくんは?」
「斎藤くんもだ。少なくともトシの部隊にはな。もしかしたら、別の戦に出ているやもしれん」
「お、山崎くんが帰って来た。どうだった?」
「はい、野村利三郎が新たに」
 皆が、暗い顔になった。近藤が、野村くんはトシの部隊だと呟く。

「野村くんが河原に着いたら、詳しく様子を聞こう」

 その後、河原に現れた野村から、宮古湾での戦の話を聞いた。土方の率いる部隊で幕府軍の旗艦で敵船に乗りこんだが、野村は銃に撃たれてしまったという。土方は、銃部隊も携えて箱館で果敢に戦っている。城は守れる。きっぱりと頷きながらそう言って笑っている。

「城って、箱館にお城があるの」
「はい、五稜郭です。蝦夷政府の司令部で本陣を構えました」
「そうか、戦況はどうだ。最近は、トシも忙しいようで、喚ばれてあちら側に行く事もなくてな」
「戦況は一進一退です。遊撃隊も苦戦を強いられているようで。ですが、我々の士気は落ちていません」
「そうか、今回の鬼籍改めでは、野村くんが入ることになったが、他はみな頑張っているみたいだ。我々は、何も出来ぬが、此処で皆の無事と奮戦を祈るしかないな」

 それから、野村は近藤と流山で別れた後からの経緯を皆に話した。近藤は流山で敵に投降した事を総司に話したがらなかったので、総司は野村の話を息を呑んで聴いていた。

 会津へ向かった野村は、相馬とずっと行動を共にしていた。その後、斎藤と千鶴と別れて、土方について仙台、蝦夷へと北上。蝦夷の冬を五稜郭で過ごして戦の準備をしていた。ある日、一旦別行動を取っていた平助が現れたという。

「はじめくんと千鶴ちゃんは会津に残って、平助は蝦夷に渡ったんだね」
「はい、我々の本陣に。城から羅刹の薬を仙台藩からくすねたって、仙台藩士の隊服や武器も持って」
「俺は羅刹だから夜目が効く。斥候部隊に、あと斬り込み隊長も引き受ける」
「そう言って、本陣の納屋に昼間は篭っていました。羅刹の薬は一生分ある。だが、お前らは絶対に変若水は飲むなよ。羅刹はオレ一人で十分だって」
「そうか。平助は、そう言ってたんだな」

 近藤が、悲しそうな表情をした。

「俺と相馬で藤堂さんに言われた通り、土方さんの持っていた変若水を処分しました」
「あれが新選組最後の変若水です」
「ふうん、土方さんも変若水持ってたんだね」
「ああ、伏見奉行所が攻められる前日の夜に、幹部の皆に変若水が配られたんだよ。私は、敵に撃たれて、直ぐにこっちに来てしまったから、変若水を飲む機会はなくてね」
「飲まずにいられたのは良き事だ。源さん」

 近藤が井上の肩に手をかけて笑った。

 其れから、ずっと賽の河原で僕らは座り込んで話をしていた。こちらの時間と向こうじゃ、どうも進み方が違うみたい。僕らは時々改まる閻魔帳を見に行き、皆の無事を祈っていた。

 野村くんが現れてから、とんと誰も来なくなった。戦はとっくに終わったってね。幕府軍が降伏。僕らはずっと賽の河原に座っていたよ。その間、源さんが数回、近藤さんも数回、あちら側に喚ばれて行った。

 僕は、姉上のところに二回行って来たよ。東京にね。喚ばれている間は、ただ側にいるだけなんだけど、姉上は相変わらず。僕の命日には僕の好きな物をいっぱい用意してくれている。何度目かのお盆に久し振りに名前が喚ばれて、明るいところに吸い込まれた。行った先は、僕の菩提寺。僕は今の僕に。

 猫の総司は起き上がると縁側の縁から庭に降り立った。千鶴はお膳の上を片付けている。斎藤は、畳に横になってぼんやりと総司を見ていた。

——なに、はじめくん。土方さんや皆んなはどうしてるかって。

 さあね、少なくとも閻魔帳には載っていない。賽の河原にも来ていないよ。土方さんなんて、しぶとく生きてるんじゃないの。近藤さんを放って蝦夷まで行ったんだからさ。

 山崎くんから聞いたら、鬼籍は【沙汰が下ったら】また書き改められる。閻魔様が三途の河の向こうで待っていて、生きてた時の罪のお裁きがあるんだって。僕は、散々人を斬ったから、どんな御沙汰が下るかは大体想像つくけどね。

 そういえば、はじめくんと新選組で一番人を斬ってるのは僕達だね、ってよく言ってたけど。

 近藤さんも源さんも毎年お盆は行ったり来たりで忙しいって。でも今回、僕はお盆が過ぎても河原には戻らなかった。

 猫は庭の真ん中で、斎藤に振り返った。月明かりが明るく、丁度斎藤から見た角度で、総司の眼孔が翡翠色に反射している。口角を上げて笑う様に。

 千鶴ちゃんとはじめくんの側に居たいからね。二人とも相変わらず、聡いのか鈍感なのか。僕が見ててあげる。

 尻尾を持ち上げた後にゆっくりと降ろした。

 此処での生活は、屯所にいる時みたいで楽しいよ。ただ、刀が振るえないってだけで。今の身体はすこぶる調子いいけど、出来れば人間の身体に入って、はじめくんと立ち合いたい。

 総司は正面を向いて、斎藤に首を伸ばす様に覗き込んだ。

 ねえ、はじめくん。坊やの中に入ってみようか。それか、時々来るはじめくんの部下。あの大きい人だと手足長いから有利だけど、もう一人のはじめくんに似てる子。あの子の方がもっとやれる気がする。

 坊やが剣を取るのは、いつだろうね。あの子は強くなるよ。

 総司は、思い切って斎藤に話しかけてみた。口から出たのは「にゃー」という声だけ。あれ、今夜は駄目か。満月じゃないものね。総司は笑った。斎藤が起き上がって、自分をじっと見詰めている。

 なに? どれだけ、こちら側に居られるんだって。

 さあね。




 つづく

→次話 明暁に向かいて その4




(2017.10.05)

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