春告鳥
明暁にむかいて その7
明治八年二月
警視庁主催の剣術試合が迫る中、斎藤は毎朝の稽古の為に家を暗い内に出ている。斎藤が起きる朝の四時前には、既に朝餉と必要な時には弁当も作って用意してある。千鶴は、今朝も斎藤の支度を手伝いながら、もう洗濯を済ませたから、あとは干すだけだと羽織を引っかけただけで裏庭に出ていった。
朝の四時に洗濯。暗い内に井戸端で一体どうやって、と不思議に思う。千鶴が一旦居間に戻ったので、そんなに早くに済ませて、出掛ける用事でもあるのかと訊ねると、千鶴は嬉しそうに、今日は【貸本屋】の日だと答える。
こんなに朝早くに来るのかと、訊ねると、小石川に来るのは昼過ぎだから、朝の内に神保町まで出て、四つ辻の店まで受け取りに行くと言う。「はじめさんが、出勤された後に坊やを起こして連れて行きます」そう答えながら、自分の出掛ける用意もしている。まだ子供も眠っている。いくらなんでもと思いながら、斎藤は支度を済ませた。
千鶴が貸本を取りに行くと言っているのは、人情本。俗に言う【泣き本】で、それに夢中なのだ。自分で読むだけでなく、近所の女達が集まり、千鶴が朗読する【春告鳥】の会が催される。【春告鳥はるつげどり】は一世を風靡した為永春水の人情本。朗読会の第一作目にちなんで、そう呼ぶようになった。千鶴は、帳面の表紙に【春告鳥】と書いたものを大事にしている。中には自分が読み聞かせた本や、それを聞いた者たちの感想をびっしりと書き綴っている。【春告鳥の会】の場所は、隣家のお夏の家の居間。午後にご近所の女が集まり、千鶴が物語りを読むのを夢中になって聴いては、続きはどうなるのだろうと盛り上がるらしい。皆が喜んでくれるのも嬉しいが、一緒に物語の話に花が咲いて、数時間があっという間に経ってしまうと千鶴は毎回楽しみにしている。
今日の午後も【春告鳥】の会が開かれる。千鶴は、そのためにわざわざ早朝に用事を済ませ、神保町まで本を取りに行くのだ。朗読の前に自分でも読んでおきたい。そう言って笑っている。この入念な準備。斎藤は、千鶴がこうした楽しみを見つけていることは良いことだと思いつつ、いささか夢中に成り具合が激しくて、内心では気持ちが引き気味だった。その【泣き本】なのだが、大体において男女の悲恋を扱った、斎藤からすると、
くだらぬ
お涙頂戴の
いかにも女子が喜びそうな
毎回似たような話ばかり。
どうして斎藤が千鶴の読む本の内容を知っているかというと、毎晩千鶴が物語について熱く語るからだ。本格的に寒さが増してきた昨年の暮れから、毎夜二人で一緒に風呂に入るのが日課になっていた。家風呂があるのは界隈でも珍しく、千鶴の父親が診療所を造った時に井戸から樋で水を引いてあり、毎日風呂を沸かして入る事が出来た。斎藤は無類の風呂好きだった。熱い湯が好みで、斗南の直家でも毎日一番風呂を沸かし、その為の薪の調達に苦心した。元来が派手を好まず、生活も質素な斎藤達夫婦にとって、唯一生活の中での譲らない贅沢だった。さて、この日課となった夫婦水入らずの湯船でのひとときだが、お湯は極めてぬるめのもの。身体や髪を洗ってから、二人でゆっくりと浸かって、その日にあった事などを互いに話す。
最近は毎夜千鶴が夢中になっている人情話を聴くことになっている。物語の主人公は年若い、大棚の小間使いで、若旦那と密かに恋仲。商売が傾きかけた店は借金もかさみ、そこへ、若旦那に日本橋の商家の一人娘との縁談が舞い込む。どこかで、聞いたような話だ。好き合っている男女がその立場から仲を裂かれる。
千鶴は、両目に涙をためながら、若旦那様は、駆け落ちしようって……。まるで自分の事のように鼻をすすり始める。【春告鳥】の皆も、手拭いを片手に千鶴の朗読を聞いているらしい。余程、ご近所の女達も物語の成り行きに入り込んでいるのだろう。だが斎藤は毎回黙って話を聞いている。決して、「それでどうなった」「どうしてそうなのだ」などと相づちや質問はしない。訊こうものなら、千鶴は興奮し始め、収拾がつかなくなる。やぶ蛇。触らぬ神に祟り無しだ。毎晩、内心は「くだらぬ」と思って聴いている千鶴の泣き本物語だが、この後が肝心だった。
千鶴は一通り物語を語った後、必ず、
「はじめさんなら、どうします」
と訊ねる。これが毎回困る。一応、話をちゃんと聴いてはいるが、感想を求められるならともかく、主人公の相方の立場になって考えろとなかば強要される。もちろん、千鶴は完全に主人公になってしまっている。はじめさんが若旦那なら、お家も商売も全てを捨てて、
わたしと添い遂げてくださいますか。
真っ黒な瞳は涙に濡れて、湯船の向こう側にもたれたままじっと見詰めてくる。真剣な表情だ。こういう時は、
ああ、全てを捨ててでもお前と一緒になる。
こう答えると千鶴は悦ぶ。水面を揺らし、すぐに膝の上にのってきて、首にすがりついてくる。可愛い。泣き本ごときにこんなにも夢中になって、自分の答えに一喜一憂する千鶴の様子は本当に可愛かった。
これは、旨く行った一件。旨く行かぬ時もある。実を言うと、そういう時の方が多いのだ。
*****
安珍清姫
貸本に夢中になる余り、千鶴は物語の世界に没頭するようになった。貸本屋にすれば、千鶴のように毎週のように何冊も何帖もの物語をむさぼり読むのは上客で、小石川界隈だけでなく東京の中でも千鶴は業者にとれば一番のお得意様であろう。貸本を生業にする者も、元来、読み物が嫌いではなく、あらゆる書画に精通し、版元からどのような本が新しく刷られてなどの情報、古典から最近流行の滑稽本まで、その博識ぶりは並大抵のものではない。そういう者からすると、千鶴のように物語に没頭し、近所の者を集めて読み聞かせをするなど、貸本業冥利に尽きる。「ほんとに、わかっているね、奥さん」そう言って喜んで、どんどんと手元に入る、新しい本、珍しい本を千鶴に紹介した。
いつもの人情本の類いに入るとすれば、そうなのだが、ある日、貸本屋が千鶴に特別に貸し出した絵巻物があった。これは、特別に大大名の奥方様の為にこさえた代物。そういって広げられた絵巻物は【安珍清姫 蛇性の淫】という題。安珍清姫の物語は、娘道成寺などで、知られているが、鐘の中に逃げた安珍を蛇の姿で焼き殺す清姫の怨念じみた話が、美しい錦絵で縁起絵巻として描かれている。素晴らしい代物、奥さんはきっと気に入る。今回は、無料で一週間だけ貸し出します。そう断って、業者は帰っていった。千鶴は、その日の午後は、絵巻物を眺めて、すっかりその美しさと物語の虜になった。
斎藤が、夜帰ってきた時も、千鶴は夕餉の給仕をしながら、昼間に借りた絵巻物の話をずっとしていた。斎藤が膳の前で正座をして食事をする傍で、千鶴が、「ほら、みてください」、「これ、清姫の髪がこんなにも美しくて」などと言って、畳の上に巻物を広げて一生懸命見て貰おうとしている。斎藤は、娘道成寺のような派手な舞いが続く芝居は元から好きではなく、猿楽で観た道成寺の蛇の方が好きだった。なので、特に関心をしめさずに、黙々と飯を食べ続けた。そして、翌日も早いからと風呂に入った。
湯船の中で、千鶴は変わらず安珍清姫の物語を続けている。一時は恋慕い合う仲となったのに、安珍につれなくされた清姫は、安珍を追い掛け、道成寺の鐘の中に逃げ隠れた安珍を愛憎の炎で焼き殺す。大蛇の姿に変化した清姫が、鐘の回りをとぐろを巻いてとり殺す様。千鶴の眼は一段と大きく、瞳は紅く輝いていた。酷い興奮状態。もう完全に道成寺の境内で、炎の中にいるのだろう。斎藤は、いつもの如く、冷静に話を聴いていた。相づちは決してうたず、質問は御法度。
そしていつもの千鶴の問いかけが始まった。
「はじめさんが安珍なら、どうします」
来た。斎藤は思った。だがいつもの悲恋とは違い、清姫は極めて一方的な思いのたけで己の命まで奪う恐ろしい女。それに、今日は疲れた。昼間の陸軍との合同巡察は問題続きで手を焼いている。もう面倒だ。今夜は御免被る。斎藤は投げやりな気分だった。
俺は、坊主ではないからわからぬ。
そうぼそっと答えた時、千鶴は眼を見開いて驚いていた。これは、一番言っては成らぬ答えだった。最悪、千鶴は怒って臍を曲げて、風呂から上がってしまうところだっただろう。 しかし、この夜の千鶴は引き下がった。
「では、御武家様だとしても、清姫が追い掛けてきたら。一度は恋を誓ったんですから」
千鶴は、湯を掬って自分の肩に掛けながら、また訊ねる。
「安珍とて、修行中の身ゆえ、逃げたのであろう」
この答えも悪いものだった。もう斎藤もやけっぱちである。
「それなら、そう仰ってくださればいいじゃ有りませんか。はじめさんは、私と大和の国で一緒に暮らそうといいながら、紀伊へ逃げてしまわれました。私は逢いたくて逢いたくて、ただお傍に居たいのに……」
千鶴は、小さな声でしょんぼりと湯船の向こうで足を抱えて座っている。悲しそうな姿だ。千鶴のこの様な姿は、ずっと昔、まだ戊辰の戦の頃にも見た気がする。
私には、何処にも行くあてがありませんから
これは綱道さんを亡くした後、千鶴に従軍する必要はないと言った時、「自分は天涯孤独の身の上、新選組を離れたら行き場がない」そう言って、福良の本陣の一室で寂しそうに座っていた。昔を思い出した斎藤は、目の前の千鶴の手を引いて自分に引き寄せた。
「ああ、それは解っている。仏門の俺が、世間で嫁御をもらい受けるのが出来ぬのなら、どこか遠くに二人で暮らせる場所を探そう」
千鶴は斎藤の瞳を見ながら、両目から大粒の涙をぽろぽろと流した。
「それも叶わぬのなら、お前の起こした炎に焼かれてしまうのもよい。一緒に死出の旅にでよう」
千鶴はこっくりと頷くと、斎藤の胸に頬を寄せてうっとりとしている。斎藤は答えながら、ふと原田左之助の事を思い出していた。左之助は、女の扱いでは屯所で一番長けていた。酒の席で、郭の女や、店子の娘、いろんな女との馴れ初めや、付き合いの話を新八や平助にねだられて話をしていた。この左之助の【女談義】は、平助に言わせると、学ぶところが多く、直ぐに市中の女に使える。簡単に言うと、女をどう悦ばせるかの手ほどきだった。斎藤は、時々だが左之助との酒の席で、耳年増に話だけは聴いていた。その当時、自分は決して左之助のように、女子に向かって【歯の浮くような】口上は絶対無理だと思っていた。だが今夜は言えた。清姫の千鶴に。
自分に身を寄せて、幸せそうにしている千鶴の肩に、湯をかけてやりながら、そういえば、左之助は西国から戻る頃だなと思った。新八から便りが来て、今週上京するとは聞いている。部下も一緒に、剣術の稽古をしたいと文を書いて送ったら、新八は大層喜んで、浅草の元藩屋敷の道場で週末の朝から待っていると返信が来た。
千鶴は、ずっと夢見心地で斎藤にもたれ掛かっている。長い睫は涙に濡れて、鼻先はほんのり紅い。少女のように泣く千鶴は、それでいて、大人の色香も兼ねあわせている。素直に可愛い。たまらぬ。毎晩【人情話】尽くめで辟易しながらも、いい返しをした事で、千鶴がうっとりと自分に寄り添う姿を見られるのは、斎藤の喜びだった。難問を解いた後の褒美のような。実際、斎藤が物語の主人公の相手を勤めて良い答えを出した後、千鶴は別人のようだった。
【泣き本】の主人公達は皆、概して悲恋に溺れ、その結末は悲惨だ。だが千鶴は、物語が悲惨であれば悲惨であるほど夢中になるようだった。
嫉妬、駆け落ち、心中、放火、盗み、人を殺め、親兄弟や親友でさえ裏切る。
二人で仲良く幸せにつつがなく暮らす事より、世間に背き、自分たちで命を絶って、来世で一緒になることを誓い合う。これが命題だ。この激しい熱情に千鶴は一番惹かれているようだった。京の屯所で一緒に暮らしだした千鶴ともう十年以上共に居るが、千鶴の中にこの様な激しい一面が有ることを斎藤は知らなかった。千鶴は破滅的な恋を好む。これは大きな発見だった。そして、物語の中で、破滅的な終焉を迎えた後の千鶴の変化は斎藤のみが知ることになる。
うっとりとする千鶴を促して、風呂から上がり、二人で床に入る。斎藤はほぼ毎晩千鶴と情を交わすのだが、今夜のように安珍と清姫が共に炎に焼かれて果ててしまった後の千鶴は、床で思い切り乱れる。それは、艶めかしいを通り越して、淫乱極まりなく。いままで味わったことのない快楽と悦びとめくるめく迸りが自分の中にも千鶴にも沸き立つようだった。新しい境地。これでもか、これでもか、と斎藤は己が精を千鶴の中に解き放ってしまう。気づくと、外は白んで来ていた。
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土方さんのお嫁さん
【春告鳥】と貸本に夢中な千鶴だったが、土方から呼び出される機会も多かった。メリヤス工場の仕事は順調で、靴下以外にも紳士物の肌着を近く商品化することが決まったらしい。斎藤は見本で貰った下着を快適に身につけている。千鶴はその内の一枚に、自分で腹の部分に裏布をあてて袋にして、そこに煎って温めた小豆をいれた小さな袋を入れて懐炉代わりにしたものを作った。これは土方の腹部の古傷を温める為に、千鶴が苦心したもので、品川まで出来上がった物を坊やを連れて持って行った。
土方は、千鶴の見せた懐炉入れ付きの下着を痛く喜んだ。さっそく【テーラー】に試作品を作らせる。そう言って、千鶴と豊誠を連れて、向島の【名月】に昼餉を食べに連れて行ってくれた。名月は、夕方に座敷を開く店だが。土方が行くと、女将のお多佳は、特別に料理を用意して待っていた。千鶴と豊誠の来訪を歓迎して、仲居の少女おさよが座敷の隅で坊やの相手をしてくれた。
土方は、メリヤスの話をお多佳にもしているようで、お多佳は【テーラーの喜一さん】と懇意のようだった。【テーラー】とは、洋服を仕立てる職人の事で、喜一さんは、横浜で英国紳士御用達の洋服作りをする優秀な腕の職人さんだそうだ。土方は、いつも仕立ての素晴らしいスーツを纏っているが、土方の身につけている物は、英国滞在中に買い求めたものは極一部で、シャツからコートに至るまで、喜一さんに仕立てさせているらしい。日本一の腕の職人だという。実際、お多佳も先月土方に連れられて、横浜まで工房を訪ねたらしい。
「お多佳は、洋装は好まないが。生地の色味などは、注文が厳しい」
土方は、自分の新しいシャツを仕立てる生地を選ぶ時のお多佳の審美眼を褒め称えていた。千鶴は二人の話を聞きながら、二人は本当に洋服の好みが似通っているのか、二人で横浜まで汽車で向かわれたのだろうか、二人で道を歩いていると、さぞかし美しいご夫婦に見られる事だろうと想像していた。千鶴の勝手な想像で、土方とお多佳は恋仲。もしや、もうご夫婦同然なのかも。そんな風に思い込んでいた。
お昼を食べた後、土方は、豊誠もいることだし、このまま午後は硝子工場には戻らないで散歩しようと、向島からのんびり浅草に向かって歩いた。土方は、今度横浜から喜一を東京に呼ぶつもりだが、その前に、一度横浜の工房に一緒に行かないかと千鶴を誘ってきた。丸一日の外出になるから、豊誠を連れて。大変なら、お多佳とおさよをお伴に横浜のホテルに一泊してもいい。そんな提案をしてきた。
斎藤が剣術試合を控える中、一日家を空ける事は無理だった。けれども、土方の誘いはとても嬉しいものだった。やはり、お多佳さんを伴って遠出をされる仲。千鶴は、お多佳の話がでた時に、思い切って土方に尋ねてみた。
「土方さんは、お多佳さんを奥様にお貰いでしょうか」
土方は、豊誠を肩車しながら歩いていたが、ずっと黙って前を向いたままだった。
「お多佳か。あれは、旦那もちだ」
千鶴は驚いた。元々、深川の芸妓だと聞いていたが、その様なお相手がいるなんて。千鶴は衝撃を受けた。この様に、土方さんが信頼して慕う女性がいるのに、世の中は旨くいかないものだ。
しゅんとする千鶴を見て土方は笑った。
「お多佳は、芸妓に成る前は、旗本の御息女でな。瓦解前に家が取りつぶしになった。芸事に秀でていたから、十五で芸子の修行にでた」
「あれは、武家の女だ」
そのような身の上だったのか。お多佳のどこか凜としたところが、土方の話を聞いて解った気がした。そのような女性だからこそ、土方さんも気に入られているのだろう。
「私は、お二人がお似合いなので、ご一緒になられたら良いと思っていました」
千鶴は素直に思って居るとおりの事を土方に話した。土方は、微笑んでいた。
「お多佳はいい女だ」
そう言って暫く黙って歩いている。千鶴は、午後の柔らかい日差しの中で、隣の土方を振り仰いだ。
「だが俺は、他人様のもんに手を出すほど、困っちゃあいねえよ」
そう言って笑った。土方が女に引く手数多なのは今に始まった事ではない。京の屯所に暮らした時も、島原や祇園から毎日のように付け文が届いていた。井上さんの話では、掃いて捨てるほどの恋文で、「トシさんの、モテ男振りは洛中一番だよ」とよく笑いながら教えてくれていた。確かに、今でも大層女性にはおモテになるだろう。でも、お多佳さんの事は本当に残念。
しょんぼりする千鶴に、土方が豊誠を肩から下ろしながら言った。
「俺が、女房を貰うとすれば」
「千鶴、お前がもう一人いたら、考えてもいいな」
そう言って笑った。
「えーーー」
千鶴は心の中で大声を上げてしまった。だが、口が開いただけで声が出てこない。それ程吃驚した。
(土方さんが、私をお嫁に)
どうしましょう。どうしましょう。
千鶴はなんと答えていいのか解らなかった。じんわりと頬が熱くなってきた。あー、なんだか気恥ずかしい。土方さんの様な方から、お嫁にだなんて。
独り赤面する千鶴を見て、土方は、ハハハハと声を上げて笑った。
「なんだ、その面は。俺みてえなモン、御免被るってか?」
千鶴は首を振ったが、土方はそのまま笑って済ませてしまった。丁度、馬車引きが道の脇にたむろしていて、それに乗って千鶴は小石川まで豊誠と送ってもらって家に戻った。
夕飯の支度をしながら、さっきの土方の発言を思い出し、千鶴はじんわりと実感が沸いてきた。
「いやだーーー。土方さんったら」
また赤面。白菜を水洗いしながら思い切り振り回していた。野菜から飛び散った水が、天井まで濡らしてしまっている事に千鶴は全く気づいていなかった。
*******
俺は困らぬ
斎藤は、いつもより遅く帰って来た。玄関で出迎えると、陸軍との合同巡察は、当初考えていた程全ての巡察地域を網羅出来て居ないという。珍しく溜息を付きながら、上がり口に座り靴を脱ぐ斎藤の背中を見ながら、随分とお疲れの様子だと千鶴は心配になった。
大寒の夜。身体が温まるようにと、千鶴は粕汁に紅鮭をいれたものを作っておいた。斎藤は紅鮭が大好きで、喜んで食べた。千鶴は総司にも、紅鮭のほぐし身と冷や飯を混ぜたものを食べさせた。斎藤は翌日も朝稽古があるから早くに休みたいと、先に風呂に入った。千鶴は、片付けを早く済ませて、風呂場に向かった。
千鶴は、昼間に土方の所へ、メリヤス下着を持っていった話をした。その後、名月に昼餉を食べに行って、土方に横浜のテーラーさんの工房に行こうと誘われた。でも、断った。斎藤は黙って話を聞いていた。
「土方さんに、お多佳さんを奥様にお貰いにならないのですか、って訊いたんです」
「そしたら、お多佳さんは旦那様がおありだって。はじめさんご存じでした?」
斎藤は首を横に振った。
「あんなにお似合いなのに、一緒になれないなんて……」
千鶴が溜息をついている。まるで、人情話だ。好き合う土方とお多佳が仲を裂かれている。そんな風に千鶴は話す。
「芸妓が、身請けされる話はよくある。お多佳さんも、芸妓だった頃に身請けされたのであろう」
斎藤はそう話しながら思った。確かに、お多佳ほどの器量なら当たり前の話だろう。どういった経緯で、【料亭名月】の女将になったのかは知らないが、器量、教養、品格、何をとっても申し分のない女将であることには間違いがない。最近になって知ったが、【料亭名月】は政府関係者、陸軍の要人が利用する料亭で、様々な会合も開かれている。その様な店を切り盛りするのは、余程の手腕や財力、人脈が必要だろう。お多佳の旦那もそれ相応の地位を持った男に違いない。
斎藤が黙ったままでいると、千鶴は、思い出したように向島から土方と散歩をして帰った話をした。土方に、女房を貰うとしたら、お前がもうひとり居たらと言われたと嬉しそうに話した。
「私がもう一人いたら、ですって」
千鶴は、口元に両手を持って行って、ふふふふと笑っている。
「ねえ、はじめさん。私がもうひとりいたら、どうします」
斎藤は、なんと答えればいいかさっぱり解らなかった。副長が、千鶴を女房に欲しい。もう一人の千鶴を貰いたい?なんだ。嬉しそうに。
「もう一人の私が、土方さんのお嫁さんになったら、どうします」
千鶴は湯船の水面を右手で撫でながら、頬を上気させて尋ねてくる。
知らぬ。
斎藤は、ぼそっと一言呟いた。千鶴は、この問いかけがどれ程、斎藤の神経を逆撫でしているか全く気づいていない。いつもの【泣き本】のくだらぬ話では、引き裂かれた男女がどうするかだ。それも全て、絵空事。本に書かれた作り話。なのに、なんだ。副長を持ち出し副長の嫁に行くだと。何を言っている。
「御殿山に」
そう言いながら、斎藤は湯から上がった。凄い勢いで風呂場の戸を開けると、
「行きたければ行くがいい。豊誠も大層懐いて可愛がって貰えている」
最悪の返し。自分でも解っていても、斎藤は止められなかった。
「俺はひとつも困らぬ」
これを捨て台詞に、ぴしゃりと戸を閉めてしまった。身体もまともに拭かずに、斎藤は浴衣を羽織ると部屋に向かった。
湯船に独り取り残された千鶴は、茫然としていた。
行きたければ、行くがいい
俺はひとつも困らぬ
斎藤の言葉が胸に突き刺さった。独りになった風呂場は寒い。なんと言うことをしてしまったのだろう。はじめさんは、怒ってしまわれた。
千鶴は涙が溢れて来た。自分はなんて愚かなのだろう。いくらなんでも、余所の人のところにお嫁にいったらなんて、そんな事を訊くなんて……。
千鶴は、ずっと湯船のお湯が冷め切るまで、膝を抱えて泣き続けた。
*****
合同巡察
翌朝、斎藤が朝起きると、既に千鶴は起き出した後だった。夕べは互いに背中を向けて眠った。居間に行くと、お膳に朝食が既に用意されていた。いつもは給仕をしにお勝手から戻ってくるのに、斎藤が席についても千鶴は居間に来る様子がない。斎藤は、自分でお櫃から飯をよそって食べた。火鉢の上に湯の沸いた薬罐がのっていたが、自分でお茶を入れる気にもなれず、台所に行って、水瓶から水を汲んで呑んだ。台所にも千鶴はいなかった。
斎藤は、部屋に戻って着替えを済ませ支度をすると居間に戻った。縁側から外を見ると、井戸端で既に豊誠を背負った千鶴が洗濯を始めていた。顔を合わせたくないのか。勝手にしろ。斎藤は、また機嫌が悪くなった。火鉢の前の敷物の上で、猫の総司が前足を揃えて背筋を伸ばして座っていた。大きく欠伸をすると、前足を伸ばして思い切り伸びをして、斎藤の顔を見ながら、「ふん」と鼻を鳴らした。
「なに、喧嘩でもしたの」
まるでそう言っているかのように、総司は少し呆れた様子だった。斎藤は、仕方なく、総司に向かって。
「では、行ってくる」
挨拶をすると、靴を履いて玄関を出た。きーんと冷たい空気で、耳や鼻が凍えそうだ。斎藤は、白い息を吐きながら、駈け足で署に向かった。
朝稽古は、部下の天野と津島との三人きり。斎藤は、ひたすら二人と打ち合った。二時間、片時も休みなく。部下二人が、最後は息が上がり、膝をつくほど疲労困憊になっても、斎藤は容赦しなかった。怖い。おっかない。天野と津島は震え上がった。斎藤の両瞳には、青い炎が立っていた。鬼だ。鬼主任。鉄仮面の鬼主任。さんざんしごかれた二人は、稽古の終わりの礼をすると、そのまま床の上で仰向けに倒れて暫く起き上がれなかった。
その後の巡察中のこと、決められた巡察地域を終日かかっても回りきれていない現状を解決する為、斎藤は、隊を更に細かく二部隊に分けることにした。その説明をしたとき、陸軍の歩兵からどよめきがあった。おおよそ、軍に就くものが、命令に対して声を上げるなど。斎藤は内心思ったが、ぐっと堪えた。隊を分ける為に、名前を読み上げたら返答をして、一歩前に出るように言ったが、歩兵は皆、返事もせずに動かない。
「もう一度、名前を読み上げる」
斎藤は、静かにそう言って読み上げた。漸く、一人一人前に出た。そして、斎藤の組の前に斎藤が並んで、出発の号令を掛けた。一番前に並ぶ歩兵が全く動かない為、その後ろの天野が、先に前へ進み出て、行進を始めた。斎藤は、心の中で溜息をついた。自分が上に立つのが余程不満と見える。しかし、斎藤は決して声を荒げず、行進を続けた。
「藤田主任。私が、隊の殿を勤めます。許可を願います」
大きな声を挙げたのが、天野だった。斎藤は頷くと、早速天野が走って隊列の最後尾についた、そして、動かずにいる歩兵二人の背中を思い切り前に両手で押した。
「貴様、誰の命令でそげなこつしよっとか」
振り返りざま、歩兵が天野の腕を取った。
天野は、何も言わずに黙って相手を睨み返している。
「おはんら、会津っぽの下の巡察など、誰が出る」
「俺は、本所っ子で、気が短けえ。お前等、いい加減にしやがれ!!」
体格では、天野が頭ひとつ大きい。上から睨み返すように凄む天野に、二人の歩兵は黙った。
そこに閃光が走った。斎藤が刀を抜いて、歩兵の顎下に付けた。
「隊を乱す者はそこに直れ」
歩兵は生唾を呑んで、天野の腕から手を離した。三人とも直立不動でまっすぐ前を向く。少しでも動いたら、刃先が上を向いている。斬られる。
「本日巡察地域を全て回る。動かぬのなら任務不履行で、貴様等を斬るまで」
斎藤は、じっと歩兵を見詰めた。顔の表情筋が一つも動かない無表情な顔に、眼光だけが碧く光る。焔。鬼火のような。
斬られる。
歩兵は縮み上がった。既に、顔から血の気は失せている。薩摩隼人は胆力が備わっていると思っていたが。このざまか。斎藤は内心で舌打ちした。一瞬で刀を引くと、鞘に納めた。
「隊に戻れ、築地に直行する」
斎藤が隊列の先頭に立ち、再び号令を掛けた。天野を殿に、動かなかった歩兵が歩きだした。その日は分隊にして、ようやく巡察地域を回ることが出来た。だが、斎藤達の巡察した築地地区は混沌としていた。通りを廻っただけでは、建屋の中の様子、死角、怪しげな宿、何も洗い出しはできない。外国人居留地域だったこの地域は治外法権。それゆえ、政府の眼も行き届いていない。斎藤は、部隊の人数がもっと必要だと思った。
分隊の統制。それが課題だ。
夕方、署に戻った斎藤は、手短に警部補の田丸に巡察地域を網羅できた、明日以降も分隊体勢でまわると報告した。そして、暗くなった表に再び出て帰りの乗合馬車の停留所に向かった。馬車に乗り込むと斎藤の後に部下が乗り込んできた。いつもは、皇城沿いの丸の内回りに乗る天野と津島が、半蔵門回りの馬車に乗るのは珍しい。
「今夜は、主任を見送って、本郷に帰ります。二人で早足訓練です」
「見送り?何故、俺を見送る必要がある。早足であれば、半蔵門で下りて、そこから始めればよい」
「なんだか、つれないですね。主任」
天野が不満そうな声を出す。
「護衛いたします」
津島が真剣な顔で、ぼそっと呟く。斎藤は、急に二人の部下が自分を護衛するなどと言い出すのが不思議でならなかった。馬車は、あっという間に半蔵門を過ぎた。飯田橋を渡った所で、斎藤は下りる準備をした。
「このまま乗って行けば、御茶ノ水橋の停車場に停まる」
斎藤は、そう言うと。二人は頷いた。だが、斎藤は次の停車場でも降りなかった。
「おい、旨い蕎麦を食いたくないか」
「ええ、腹は空いています」
「今夜は俺につきあえ」
珍しく、斎藤から部下二人を誘った。天野と津島は目を合わせて笑い合った。
斎藤達は御茶ノ水で馬車を降りると、そのまま聖橋を渡って、明神さまに向かった。その裏手に、【出羽や】がある。
「主人が庄内藩の元士族で、板蕎麦を出す」
斎藤がそう言いながら、こっちだと道の角を曲がった。
「へえ、板蕎麦ですか。俺は食ったことがないな」
天野が呟く。
「地酒のいいものを置いている」
斎藤は、独りで仕事帰りにひっかけて帰ることもあるという。
「ここで蕎麦を食べて、ご自宅でもお食事なさるんでしょ?」
天野が尋ねると、斎藤はそっけなく「ああ」と答える。
「主任は大食漢ですな。細面でいらっしゃるのに。どこに食べたものは行ってしまうんでしょうね」
天野は、不思議そうに話す。三人が【出羽や】の暖簾をくぐると、主人が温かく迎えてくれた。蕎麦焼酎を三人で一合ずつ呑んだ。斎藤は、蕎麦がきを注文した。天野たちには、油で揚げたもの。斎藤には、蕎麦猪口に入った、練りそばがきをだしてもらった。
「俺は、これを本山葵と醤油で食べるのが好きだ」
斎藤は、そばがきで焼酎がすすんでいる。天野達は、そばがきの揚げ団子が出汁に浸かっているものを食べて舌鼓した。
「美味い」
津島が、一言呟いて喜んでいる。蕎麦焼酎の、そば湯割りも美味い。何を食べても美味い。二人は満足しながら、最後に大きな板蕎麦を三人で平らげた。
「ご馳走様でした」
もう既に、千鳥足の天野を支えながら津島が挨拶をして、本郷に向かって行く。斎藤は、もう片側から天野を支えて一緒に歩いて行った。二人は、大丈夫ですから、大丈夫ですからと言っているが、酒に強い津島も今夜は足元が怪しい。斎藤は、早朝の稽古を思い出した。余程、疲れが溜まっているのだろう。
「俺は、本郷で育った。弓町に家がある」
斎藤は、部下に初めて自分がどこで育ったかの話をした。
「ここらは目を瞑ってでも歩ける。十八まで暮らした」
珍しい。主任が自分の事を語る事は滅多にないことだ。部下の二人はじっと黙って聞いた。そうか、本郷の人か。山の手の士族か。それじゃあ、本郷を出て、十八で上洛されたのか。そんな事を酔っ払った緩い頭で、二人の部下はぐるぐると考えていた。
斎藤に下宿の玄関先まで送って貰った。天野と津島は無事に引き戸を開けて中に入った。
「気をつけて帰れ」
斎藤は、笑顔で二人を見届けた。昼間の合同巡察での陸軍歩兵とのやりとりについて、別の部隊に配属された津島は知らなかった。巡察の後に署に戻った二人は、【肥松痩松】の合い言葉で、いつもの如く、便所で二人で陸軍兵とのいざこざの報告をしあうと、やはり先の戦の恨み辛みは消えていないと、二人で納得した。そして、主任を護衛しようと二人で盛り上がった。
だが、自分達が護衛するといったのに、斎藤に夕飯と酒をご馳走になり、挙げ句に下宿先に送り届けてもらった。天野と津島は、玄関の戸口で「気をつけて部屋に戻るように」とまで言われた。うわばみの斎藤は、全く酔っ払った様子はなく、颯爽と夜の暗闇に消えて行った。
「情けねえ。おい、津島、俺ら、主任を守るどころか、逆に守られてるぞ」
「ああ、俺は焼酎、三合目までは記憶がある……」
津島の返事は、全く的を得ていない。
下宿の階段を這うように昇りながら、二人でしきりに反省しあった。
*****
二世の契り
家に着いたときは、もう夜の十時を過ぎていた。玄関に入っても、総司も千鶴も出てくる様子はなかった。もう、子供と先に休んだか。斎藤は、刀を腰から抜くと、上がり口に置いて、靴を脱いだ。
居間には、洋燈が煌々と灯っていた。お膳に斎藤の夕餉が並べられ、その上に手拭いが掛けてある。千鶴が、斎藤の座布団に突っ伏すように座ったままじっとしている。斎藤は、外套トンビを脱ぐと畳に置いて、千鶴の肩の下に腕を回して、こちら側に顔を向けた。千鶴は眠っていた。目も鼻も赤いまま、涙で睫も耳も髪の毛も濡れている。斎藤の座布団に涙の池が出来ていた。両手を胸にあてているが、その手には古い櫛を二つ持っていた。
一つは黄楊櫛に桜の花弁が描かれたもの
もうひとつは、漆の細工もの
どれも斎藤が千鶴に買い与えたものだった。
桜の樿櫛は、京の屯所時代に、小間物屋で本人が気に入ったようだったので買った。
漆の櫛は、戊辰の戦の最中に、互いの気持ちを確かめた後に贈った。
黄楊櫛は刃が二本欠けている。だが、千鶴はこれは後生大事にすると言って、ずっと宝箱にしまっている。漆の櫛は、自分がもう独りきりではない記念の品。斎藤の傍にずっと居られる。贈った時、そう言って笑っていた。
斎藤は、千鶴の頬やこめかみを撫でて、まだ乾いていない涙を拭き取った。濡れた睫の横顔を見ると、京の屯所時代の千鶴を思い出す。滅多に涙を見せなかったが、幼子のように泣きじゃくる事があった。泣き疲れた顔はあの頃と、変わらぬ。守ってやりたい。
だが、どうだ。この様に自分が泣かせてどうする。
斎藤は胡座をかくと千鶴を抱き上げた。髪の毛まで涙で濡れている。何度も拭ってやる。
この家から出ていけなどとよく言えたものだ。天涯孤独な千鶴に、自分は残酷な仕打ちをした。時を戻せるなら、夕べの風呂場に戻したい。そう思って、じっと千鶴の顔を眺め、反省した。
すまぬ。
たとえ千度謝っても許しては貰えぬか。斎藤は、千鶴を寝間に寝かしに行こうと思って立ち上がりかけた。すると、千鶴がゆっくりと目を開けた。一瞬、斎藤の顔を見て驚いた顔をしたが、直ぐに鼻をすすって鳴き始めた。涙がぽろぽろと溢れてきた。
すまぬ、遅くなった。
斎藤が、涙を指で拭いながら静かに言うと、千鶴は斎藤にすがりついて泣き出した。
もう、戻っていらっしゃらないかと
そう言うと、堪えていた声を上げて、わんわんと泣き出した。
斎藤は、ずっと千鶴の髪を撫で続けた。ひとしきり泣くと、千鶴は落ち着いた。夕飯を食べるか、お風呂になさいますかとしゃくり上げながら尋ねてきた。もう遅いから、湯に浸かって休みたいと斎藤は答えた。千鶴は風呂を炊いて、直ぐに片付けを済ませた。
二人で、温かい湯に浸かった。背後から千鶴を抱きしめながら、今日は、部下二人と同じ馬車で帰った。御茶ノ水まで出て、明神さまの裏の【出羽や】で板蕎麦を食べた事、久しぶりに本郷を歩きたくなって遠回りして帰ったことを話した。いつもは、一方的に千鶴が物語を語るのに、今夜は逆だ。斎藤がよく話す。千鶴は、ずっと頷いて話を聴いている。
斎藤は、千鶴の肩に湯をかけてやりながら、腰に腕を回して自分に更に引き寄せて抱きしめた。
「夕べは、すまなかった」
千鶴がもう一人居ても、どこにもやりたくない。
もう一人の千鶴も娶りたい。
千鶴をひとり嫁にできただけでも自分には過ぎている。それでも、二人目の千鶴も傍にいてほしい。
百人いたら百人とずっと添い遂げたい。我が儘かもしれぬが、誰にも渡すつもりはない。
ここまで、言ったところで、千鶴が振り返って斎藤に口づけて来た。斎藤も深く返す。二人で抱きしめあって、何度も何度も口づけあった。沸かした湯は熱く、二人で直ぐに上せそうになった。湯から上がると、床に移った。
千鶴の全身は、上気した桜色で美しかった。
愛おしさは、ひとしおで
腕に抱く歓びと抱かれる幸福を
互いに感謝せずにはいられない
決して離れぬ
ずっと一緒に
生まれ変わっても
そう約束した
二世の契り
二人は一つに融け合い、ずっと朝まで抱きしめあった。
つづく
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(2017.11.01)