神夷

神夷

明暁にむかいて その13

明治八年五月

 診療所の庭へ厩の建て付けが完成した。それは馬を二頭休ませる事ができる立派な簡易厩だった。

 斎藤は朝の青山練兵所での稽古が終わると急いで診療所に戻って食事を済ませた。それから千鶴と子供を連れて、日本橋の逓信省に出向いた。逓信省は現在の郵政省にあたる政府機関。主に伝令を目的として東京の各省を周り通信を行う。伝達手段は伝達夫が徒か馬、馬車を使って行っていた。警視庁は逓信省で管理する馬を数頭、警視庁各部署の通信手段としてで借り受けている。警視総長の川路の指示で、そのうちの一頭を斎藤が借り受け、陸軍練兵所や巡察、鍛冶橋への移動手段として使う許可が下りた。診療所に厩も設けて、馬を停留させる許可もとれた。
 今日は以前からの約束通り逓信部の馬丁主任に面会する。馬の借り受けの手配と、斎藤に貸し出される馬を見に行く事になっていた。斎藤一家が逓信省の受付に行くと、そのまま係りに建屋の裏にある馬場に案内された。そこは、こじんまりとした運動場があり、そばに立派な厩が見えた。馬が二頭、繋がれている姿が見えると、千鶴に抱っこされた豊誠がしきりに手を伸ばして触りに行きたがった。
 斎藤は厩の入り口で馬丁主任に紹介された。口ひげを蓄えた小柄な男で、名前は山形と名乗った。斎藤とは全くの初対面だった。警視庁巡査主任が馬を借り受けに来るとだけ聞いていた山形は、斎藤がいきなり女房と子供を連れて現れたことに驚いていた。

(巡査主任だかなんだか、知らないが。物見遊山のつもりか……)

 山形は、馬を指さし喜ぶ子供と一緒になって笑顔で立っている千鶴に一瞥を投げかけた。

(馬はご行楽ではない)

 内心、山形は不満が募っていた。逓信部の馬を警視庁に貸し出してはいるが、散々酷使されている。

(馬をなんだと思っている)

 毎回警視庁逓信部から戻る馬の状態は悪い。山形が暫く世話をして休ませ、ようやく通常の状態に戻ると再び、警視庁に廻す順番がやってくる。山形はそれが不満だった。二月に警視庁総長の要請で駿馬を一頭、巡査専用に特別に用意するとだけ聞いていた。そして、今日その巡査が自ら馬を見に来て、貸し出しの手続きをとることになっていた。だが、このように女房と子供まで連れて現れる。

(巡査主任だか、なんだか知らぬが)

 山形は斎藤が酷く常識外れな人間にしか思えず残念だった。このような男に馬を貸し出すのか。山形は内心嫌で嫌で堪らなかった。どうせ酷い扱いをする奴だろう。

 憮然とした態度のまま、山形は厩の中に斎藤を案内すると、貸し出す馬を指さした。暗い柵の向こうに一頭の黒い駿馬が見えた。鼻に白い筋が通り、それ以外は艶々とした毛並み、豊かなたてがみ。斎藤は、斗南の青葉を思い出した。凜とした姿は美しく、じっと斎藤を見詰める眼は、好奇心いっぱいの光を覗かせている。

(よい馬だ)

 斎藤は、心の中で馬に話しかけた。

 これからよろしく頼む。

 一瞬、馬が尻尾を左右に揺らしたのが見えた。斎藤は微笑んだ。千鶴は手を伸ばす子供を抱きかかえながら、斎藤の背後から馬の姿を眺めた。もう嬉しくて堪らない。なんて、立派な馬でしょう。大きさは青葉と同じぐらい。それに、あの眼、可愛い。

 はじめまして。わたしは藤田の家の者です。
 どうか、主人をよろしくお願いいたします。

 千鶴が笑顔で頭を下げて挨拶するのを、馬は眼だけでじっと眺めると、再び尻尾を揺らした。その様子を、驚いたように馬丁の山形は見詰めると、首を横に何度か振って踵を返した。斎藤は、再び馬丁について厩の外に出ると小さな小屋に入った。そこには机と椅子が置いてあった。周りには、鐙、蹄鉄、鞍、やっとこ、刷毛など、あらゆる馬の道具が並んでいた。千鶴は、斗南の家の土間を思い出した。懐かしい。馬とまた、一緒に過ごせるなんて、こんなに嬉しい事があるのだろうか。

 馬丁は、馬上通行許可証を斎藤に渡した。馬の名前は、神夷(カムイ)と書かれていた。【露西亜】産の馬で、蝦夷を通って東京に来たと説明を受けた。八才馬。まだ十分に若かった。斎藤は、翌週の月曜日に再び出向き、その時に馬を引き取る事になった。馬丁主任は、それならば、鞍と鐙の調整を後でしましょうと一言応えた。
 傍で話を聞いていた千鶴が、斎藤の傍に寄り添って小さな声で【はじめさん】と呼びかけた。斎藤は、千鶴に頷くと、山形に向かって話しかけた。

「山形さん、内の者が、馬の世話の事でお尋ねしたい事があります」

 山形が顔を上げて、千鶴を見た。千鶴は子供を斎藤に預けると、持ってきた巾着鞄から帳面と矢立を取り出した。

「あの、藤田の家の者です」

 再び千鶴は頭を下げて挨拶をした。そして、手に持った帳面を拡げて、山形に質問を始めた。

「逓信部で入手している干し草と同じものを用意したいが、業者から購入が可能か」
「蹄鉄を交換してやれるように、道具を一式借りることは可能か」
「餌はどのようなものを普段あげているのか、牛込に牧草を貰いに行けるが、牧草を食べさせてもよいか」
「馬が疲れている時は、翌日も診療所に留め置いて休ませても大丈夫か」
「鞍は、同じ物を鐙と一緒にもう一式借り受けることが出来るか。前日に使ったものは、必ず一日風通ししてやりたい」

 一気に千鶴が質問を読み上げると、山形はぽかーんと口を開けたまま驚愕の表情をしていた。返事をしない山形を見て、千鶴は様子を伺うように帳面を持ったままじっと返事を待った。

「……もちろん、ですとも」

「鞍と鐙のご用意ぐらい、朝飯前です」

 馬丁は、大きな声で答えた。顔は満面の笑顔になっている。

「蹄鉄は、毎日でも取り替えてやりたいものですが、わたしどもでも、すり減ってしまった時に」
「餌は、わたしが調合したものをやっています。牧草って、牛込の牧場ですか」

 千鶴が頷くと。

「それは、いい!!馬も悦びます」
「干し草は、こちらで扱っている業者がおります。そこに手配して、届けさせましょう」
「もちろんですとも、こちらと同じ餌を私がお届けしますよ」

 千鶴は、良かったといいながら安堵したように斎藤の顔を見上げた。そして、山形に向かって頭を下げてお礼を言うと。

「ほんとうに、何から何までお世話になります。私、心を込めてお世話いたします」

 千鶴の嬉しそうな笑顔に、山形の顔も綻んだ。

「こちらこそ、よろしくお願いします。神夷はいい馬です。立派にお勤めします」

 そう山形は言って、再び斎藤たちを厩に案内した。柵の外に出された神夷を繋ぐと。山形は手際よく鞍と鐙を取り付けた。斎藤は、早速乗馬してみた。鐙の高さを調整して、手綱の調整も終えると、山形は馬場を走ってみるかと斎藤に尋ねた。斎藤は、頷いて、そのまま馬場に出た。

 久しぶりの乗馬だった。性質の良い馬だ。乗りやすい。

 斎藤は、大いに気に入った。外光で見る神夷は、光輝くような黒毛が美しい。そして、斎藤の指示を瞬時に察知するところは、頭の良さを感じさせた。斎藤は、川路に感謝した。そして、この馬を選んだであろう、山形にも感謝した。

 馬場を数周した斎藤がすがすがしい表情で馬と戻って来た時、千鶴は子供と眩しそうに斎藤を見上げた。そして、馬首をさげた馬を愛おしそうに撫でた。馬の睫が、腕に触る。この感触。可愛い。ほんとうに。

 厩に馬を戻した後、斎藤達は再び山形の事務所に戻った。週末の内に、干し草と餌を診療所に届けるという山形に千鶴は自宅までの地図を渡した。そして、手元に持ってきていた、ぼた餅の詰まった折を山形に渡した。
「馬に夢中になってしまって、お渡しするのをすっかり失念していました。ぼた餅です。どうぞ、宜しければ、馬丁のみなさんで、お召し上がりください」

 千鶴がそう言って渡すと、山形は大層喜んで受け取った。




****

神夷

 後日、小石川の雪村診療所に、大きな荷車を引いた馬が二頭現れた。荷台には樽一杯の馬の乾燥餌と干し草、馬の世話道具一式、予備の鞍と鐙、手綱、毛布が積まれていた。馬を引いて来たのは、山形とその助手の若い馬丁の青年で。千鶴は、厩の道具掛けに物を全て仕舞うと、手伝いをしてくれた馬丁の二人を母屋に招き入れた。

 千鶴は客人二人に昼餉を用意していた。丁度、斎藤が診療所に戻り、皆で一緒に食事をした。山形は、斎藤と打ち解けて語らい合っている。山形は、元は庄内藩出身で、馬別当をしている叔父の元に養子になり、ずっと馬の世話をして育ったという。新政府の逓信部の馬丁になって上京したのは二年前。斎藤が旧会津藩士だと聞いて、奥羽者同士の縁を喜んだ。そして、斗南での馬との生活を懐かしそうに話す斎藤夫婦を嬉しそうに眺めた。斎藤が北国で暮らした厩付きの直家は、寒い郷には最適だと笑う。診療所も簡易厩とは聞いていたが、ここまで立派で、至れ尽くせりの状態で、馬にとっては最善の状態だと感心していた。

「こんなに、馬の事を想ってくれる人にお逢いしたのは、初めてですよ、奥さん」
「それに、ここは水がいい。上水をしこたま飲ませてやれるんですから」

 山形は嬉しそうに笑う。千鶴は、はい、と応えて笑った。診療所の井戸水の水質の良さは政府お墨付きで、ご一新前に父親の綱道が清涼な水を診療に使う為に、苦心して井戸を造ったと説明した。

「逓信部の方にどうか、診療所にお立ち寄りくださいと伝えてください。日中は、厩で馬を休ませることもできますし、ここでお水と餌をやることは可能ですから」

 千鶴の親切な言葉に馬丁たちは、痛く感激して重重にお礼を言って帰った行った。そして、翌週に斎藤が、神夷と一緒に診療所に帰って来た。千鶴は、坊やと一緒に馬の世話にいそしんだ。その様子を、総司は最初遠巻きに様子を見ていたが、すぐに馬に慣れたようだった。

 それから、毎週水曜日の朝に、山形が部下と一緒に馬の餌と干し草を届けてくれるようになった。山形を含め、逓信部の馬を使う配達夫から、千鶴は親しみを込めて【小石川の奥さん】と呼ばれるようになった。そして、雪村診療所が逓信部の【小石川すてーしょん】と呼ばれ、馬の一服休憩の場所となった。小石川に立ち寄ると、馬が皆機嫌が良く、すこぶる元気になる。馬を我が子のように可愛がり慈しむ【奥さん】のお陰だと皆が喜んだ。

 そして、小石川界隈で雪村診療所は、「馬がいる場所」として知れ渡り、小さな子供や隣町のお年寄りまで見物に訪れるようになった。千鶴は、診療所の庭に簡易の長椅子を置いた。人々がそこで座って休み、馬を眺めて楽しんだ。

 中でも、神夷は人気者だった。真っ黒な毛並みはどこか、特別な様子でその美しさは皆を魅了した。そして、その性質の良さも。

 ある日、子供がケラケラと笑う声が聞こえたので、厩に行ってみると、総司が馬の背中に飛び登っていた。暫く、バランスをとるように馬の背中をいったり来たりするのを、坊やがゲラゲラと笑って下から眺めていた。総司は、自分でよいと思う場所を見つけたのか、尻尾をふわふわとさせながら、ゆっくりと座り、前足と後ろ足をゆっくりと畳んで箱座りになった。それは、総司が一番寛ぐ場所での座り方だった。総司は、眼を細めて口角を上げて、気に入ったという表情をしていた。馬は、背中の総司を全く構っていないようだった。

 神夷は、背中に猫が乗ろうが、気にしない大らかな性質のようだった。

 もう少し坊やが大きくなったら。はじめさんに神夷に乗せてもらおう。

 千鶴は、坊やと一緒に馬の顔を撫でた、坊やの頬に馬の睫が当たり、坊やがきゃっきゃと歓びの声をあげている。馬の尻尾がずっと機嫌が良さそうに揺れて、優しい瞳で千鶴を見返している。

 千鶴は愛おしい気持ちで一杯になり、この新しい友に頷き微笑みかけた。




*****

津島の機嫌

 斎藤の夜の巡察がない夕方に、診療所に斎藤の部下の巡査二名が尋ねてきた。診療所の厩の玄関から、入って来た二人は、馬を眺めて。「でかいなあ」としきりに感心していた。

 縁側に出てきた斎藤が、勝手口で千鶴の差し出した人参を受け取ると、それを桶に入れて馬の傍に来た。縁側に裸足で降り立った長男が斎藤を追い掛けてきた。斎藤が部下に、野菜をあげてみるかと桶を見せている。部下の天野が人参を手にとって、馬の口元に持っていき馬が人参を食みだすと、うわっと言って手を引っ込めた。

「どうした、怖いのか?」

 斎藤が笑いながら、天野に訊くと。天野は苦笑いして頷いていた。自分より大きな生き物は、恐ろしいですよと言って笑う。もう一人の部下の津島は、駆けだしてきた坊やを抱っこすると、馬の傍に行って二人で野菜をあげ始めた。津島は馬に手慣れた様子だった。幼少の時から実家の家裏に牛や馬が飼われていたらしい。津島は斎藤が騎馬巡査を行い、自宅に厩まで持っている事を内心羨ましく思っていた。

 千鶴が夕餉の用意が出来たと呼ぶ声が聞こえた。皆で居間に移動した。千鶴は、津島から坊やを受け取ると、お礼を言って、子供の手足を洗いに井戸端へ連れて行った。表の通りに馬車が着く音が聞こえて、土方が門をくぐってくるのが見えた。子供がまた裸足で駆けだそうとするので、背後から抱き上げて土方の元へ駆けて行った。土方は大きな荷物を持っていたが、子供を抱きかかえると、荷物を千鶴に渡して玄関に上がって行った。
 久しぶりに土方が診療所に顔を出した。メリヤス工場が本格的に稼働を始め、【大量生産】の目途がたったと笑う。ずっと向島の工場に籠もりっきりだと、少し疲れた表情を見せた。千鶴は、土方の上着を受け取ると、大きな荷物の包みを土方に渡した。

「これは、【たをる】だ。馬用に作った。四半反はある。吸湿性が良くて丈夫だ」

 千鶴は、包みを開けて大きな布地を見て喜んだ。柔らかくて馬の身体を拭うのに最適だった。神夷はよく汗をかく、身体が黒い分、陽の光で身体が焼けるように熱くなる。診療所に戻った馬に、たっぷりと水を与えて、濡らした大布で、全身を拭いてやると神夷は気持ちよさそうに眼を細めた。土方の工場で作られた、この大布は仕上げに身体を拭くのに最適だろう。

「ありがとうございます。こんなに柔らかくて大きくて、丈夫な布地があると助かります」

 千鶴は嬉しそうに布地を畳むと、土方に夕餉の席に着いてもらって、皆で食事をした。翌日が非番の部下二人に千鶴は酒を勧めた。食事が終わった後も、みなが晩酌しながら寛いでいる。土方は、坊やを連れて風呂場へ行ってしまった。この様子だと、土方は客間で泊まっていかれるだろう。そう思って、千鶴は客間に布団を用意した。
 風呂から上がった土方は、浴衣姿のまま坊やを膝に載せて居間で寛いでいた。天野が、千鶴に「奥さん」とよびかけ、傍らに置いてあった大きな風呂敷包みを渡した。

「いつも助かります」

 そう言って頭を下げている。その様子を津島が驚いたように見ていた。千鶴が風呂敷を拡げると、中には、天野の普段着や制服のシャツ、中にはズボン下のような下着も見えた。靴下もある。千鶴は一枚一枚拡げては、裏表を返して確かめるような仕草をしている。天野は「あ、それはここです。えーっと、これはここに、穴が」と説明していた。どうも、天野は千鶴に洋服や着物の綻びを修繕してもらっているようだった。津島は驚いた。こんなに沢山、いつも頼んでいるのか。

 千鶴が取り出していたのは、メリヤス地のズボン下で、千鶴は股の部分が破れて穴があいた箇所を表に返したり、裏から覗きこんで確認していた。

(あんなものまで……)

 津島は天野の図々しさに呆れた。いくら親切にして貰えるからって、奥さんに繕いものを頼むなんて。それも、あんな猿股まがいのものを、よくも。

 津島は怒りがこみあげてきた。千鶴は、「ここは、はじめさんのも、いつも穴が空いてしまうんですよ」と天野に話している。そして、奥の間から裁縫箱を持ってくると、中から紙きれを取り出した。

「土方さん、ズボン下ですが、これが私が使っている型紙です」

 そう言って、細長い菱形の紙を土方に見せた。天野の綻びた下着を土方に見せると、「この部分」にと説明して、型紙を穴の上に重ねるように置いてみせた。

「この形に布を当ててるんです。丁度、動く時にここが一番摩擦するみたいで、布地が薄くなる部分です。ここに二重にこの形の当て布をしておくと、丈夫になります」

「あと、はじめさんは馬に乗るようになって、さらに股の内側が擦り切れるようになってきました」

 千鶴は、こちらがはじめさんの下着、こっちが天野さんの当て布の型紙。そう言って、型紙を並べた。土方は、この型紙を貰って帰っていいかと千鶴に訊ねた。すぐに、下着の改良にとりかかると笑った。千鶴は、微笑むと。天野に向かって笑いかけた。

「天野さん、もっと丈夫な下着がこれから出来上がってきますよ。それまでは、こうして当て布をしてしのぎましょう」

 天野は「ありがとうございます。感謝してございます」と言って頭を下げている。それでも、隣の津島は納得が行かなかった。

(なにを考えているんだ。天野は)

 腹が立って仕方がない津島は、ずっと憮然としたままだった。




****

津島の機嫌

 陽がすっかり落ちて、晩酌も進んでいた。土方は、坊主を寝かせると言ったまま奥の間から戻ってこない。きっと一緒に眠って仕舞われたのだろうと、千鶴は子供の隣に布団を敷いて、土方に横になってもらった。

「主任、ここんとこ。俺達は日中の巡察を築地、夜間は銀座を廻っています」

 天野が斎藤に話しかけた。

「賭場の数が、ここ半年で十件も増えています。築地は、刃物を忍ばせている流れ者も多く物騒です」

 斎藤はじっと話を訊いていた。確かに、築地は夜間も人出が途絶えない。しかし銀座とは違い、暗い路地や運河が多く、死角が多かった。斎藤が夜行巡察をしている界隈は、昼間に天野達が近づいても様子を確かめるが難しいのではと思った。

(だが昼間なら、安全か)

 斎藤は、部下の見廻り任務が滞っていないのを確かめて安堵した。政治結社の暗躍の情報は、天野達の耳には入っていないようだった。

(近々、三田の演説館で予定されている結社演説)

 愛国公党の演説を行う為に、築地界隈がその活動拠点となって人が集まっている。政府に謀反を起こす準備。それは極秘の情報だった。斎藤は、陸軍の永井少佐が結社の中心人物と通じ合っている事を確信していた。

(あと、ひと月の内に、動きがあるだろう)

 斎藤は、騎馬で頻繁に青山の練兵場と築地を行き来して永井を監視した。永井の側近二名が、毎週水曜の夜に築地に向かっていた。日没後、斎藤は徒で尾行をして監視をしている。警視庁総長の川路には、警戒をするように言われていた。天野と津島の日中の巡察の様子を聞く限り、部下達は築地の愛国公党の隠れ家の場所は特定出来ていないようだった。

 話題は斎藤の騎馬巡察から馬の話に変わっていった。津島が機会があれば、自分も乗馬を習ってみたいと言い出した。ここのところの忙しさで時間を作るのが難しいが、馬も過ごしやすくなる夏の終わりに稽古をつけるのが可能になるというと、津島は喜んだ。天野も、「私も御相伴したい」と言い出した。

「鉄道馬車が走るようになって、馬は時代遅れかもしれないが、乗れるに超したことはない。馬はよい」 

 微笑みながら馬の話を続ける斎藤に部下二人はずっと耳を傾けていた。




*****

 斎藤と天野に気づかれないようにしながら、津島はずっと千鶴を眺めていた。千鶴は、お膳から離れたところに座り、裁縫箱を置いて繕い物をしている。天野の制服のシャツの綻びを直した後は、靴下の修繕を始めた。時々、針山から針を選んでは、新しい糸を通したり、ふと横を通り過ぎる猫に気づいて、そっと左手で優しく背中を撫でたりしている。

 優しく微笑む横顔
 唇
 首筋
 うなじの後れ毛

 斎藤達が気づかないのを良いことに、津島は盗み見るように眺めていた。奥さん本人も自分が見ている事を気づいていないだろう。時々、奥さんは主任の馬の話に微笑んだり、クスクスと笑ったりしている。嬉しそうだ。

 ほんとうに嬉しそうだ。
 可愛くて、綺麗で。

 津島は、胸苦しさを感じる。こうして主任の家で逢える人は、決して手が届かない。だが、心で想うだけはいいだろう。いつもそんな風に自分を納得させている。胸苦しさはいつもの事だ。そんな事を考えていると、千鶴の様子が変わったのに気づいた。じっとしたまま、だんだんと瞼がゆっくりと下がっては、上がり、下がっては上がりを繰り返している。手元の動きも止まっている。
 津島は、そっと胡座をかき直して体勢を変える振りをして千鶴を覗き込んだ。千鶴は、足を崩して座り、着物の裾が持ち上がって、ふくらはぎが見えていた。足袋の足が揃えられていて、どう均衡をとっているのか、崩れる様子もなく座ったまま居眠ってしまったようだった。

 真っ白な肌、すらっと細い足首。

 津島は固まってしまった。だが、無理矢理眼を別の方向に移した。見ちゃいけない。そう思った時だった、斎藤が膳から立ち上がった。そして、千鶴の傍にしゃがむと、そっと千鶴の手から繕い物と針をとって裁縫箱に戻した。それから千鶴の背中から腕を廻して、そっと抱えて持ち上げた。足を持ち上げる時に、再び美しいふくらはぎが見えた。それは津島が眼をそらす間もなく見えてしまった。そして、さらに驚くことが起きた。

 ゆっくりと千鶴を持ち上げた斎藤は、洋燈の灯りの下でじっと千鶴の顔を眺めていた。慈しむように微笑む表情は、愛おしそうな様子。斎藤は、千鶴のこめかみにそっと口づけた。一度唇を離すと、額の生え際に再び口づけた。津島は全身の血が一気に顔に集まったような感覚になった。真っ赤になったまま身体が動かない。そして、心の臓が飛び出すように早く打ち始めた。狼狽する津島を余所に、斎藤はゆっくりと千鶴を奥の間に運んで消えていった。もう、寝かしているのか、襖は閉められていてみえない。

 ずっと斎藤は帰ってこなかった。天野が津島に、「おい、そろそろおいとましようぜ」と言って立ち上がった。そして、上着を持つと襖の向こうに声を掛けた。

 「主任、わたしたちそろそろおいとま致します」
 「ご馳走をどうも有り難うございました」

 襖の向こうから、斎藤の「ああ、いま行く」という声が聞こえた。

 「いいです。私たちは、縁側から厩を廻って帰りますので」

 天野は、斎藤の「相分かった。気をつけて帰れ」という声を聞いて、そのまま津島と一緒に縁側から靴を履いて診療所を後にした。天野はほろ酔いで気分がいい、と呟く。ずっと津島は無言だった。菊坂に曲がらずに通りをずっと歩いて行く津島を天野は呼び止めた。

「おい、どこ行くんだよ」

 天野の大声を聞いたまま、津島はどんどん歩いていった。天野は走って追い掛けてきて、津島の肩に手を掛けた。「家はこっちだって」という天野を見た津島は、

「今日は、帰らん」そう一言呟いて、また歩き続ける。
「どこ行くんだ? 今から仲か?」
「ああ」

 津島は、気のない様子で答える。天野は、おい、こんな遅い時間だと、いいのは居ないぜ。そう言って、引き留めようとする。

「千早に逢いにいくのか?」
「ああ」
「約束してあんのか?」そう訊ねる天野に、津島は首を振った。
「じゃあ、駄目じゃねえか」そう言う天野は、ずっと付いて歩いてくる。
「行っても、馴染みに逢えねえのに、行くのかよ」

 天野は呆れている。津島は、「逢えなくてもいい」そう言ったきり、黙々と歩き続けた。

「金はあんのかよ?」と心配する天野。
「一晩明かすぐらいはある」

 そう言って、本郷通りに出てどんどんと上って行く。天野は仕方なく自分も付き合うと言って付いていった。半刻以上歩いて着いた吉原の仲見世は賑わっていた。郭に上がると、津島の顔をみた女将が今夜は生憎千早は出払っていると告げた。津島は座敷に上がると、朝まで居るとだけ伝え憮然としたまま呑み続けた。天野の相方はすぐに現れた。無言のままの津島が気になったが、天野は奥の間に移った。

 朝になって、天野が津島を迎えに行くと、座敷にも奥の間にも津島は居なかった。下男から津島は馴染みの自部屋に移ったと聞いた。階下に下りると、「そうだねえ。いい人と自部屋に籠もったら、昼過ぎまでかかるだろうから」そういって女将が笑うので、そんな特別扱いが羨ましくてならなかった。先に帰るとだけ伝言して、天野は郭を後にした。

「なんだよ、さんざん不機嫌だったくせに。お楽しみで結構なこったい!!」

 吉原の大門を出てから、天野は、道ばたの石ころを思い切り蹴飛ばすと、「あーあ」と乗り合い馬車に乗る小銭も残っていない財布を眺めて溜息をついた。




 つづく

→次話 明暁に向かいて その14




(2018.04.30)

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