何を見ても
明暁に向かいて その19
明治八年七月盛夏
診療所に久しぶりに原田左之助がやってきた。
永代橋の傍に定宿している左之助は、暫く福岡にいっていたと言う。前の筑前国。おそらく不知火と一緒だったのだろう。日焼けした姿は、一層逞しい。土産だと言って、焼酎の大瓶を抱えて玄関に上がった左之助を、斎藤と千鶴は悦んで迎えた。永く顔を見ていなかった左之助とゆっくり話をしたいからと、斎藤は夕方に一度署に戻ったが直ぐに馬を走らせて戻って来た。
千鶴は、張り切ってご馳走を用意した。時折、土方から左之助の近況を聞いていた。土方によると、左之助は西国と東京を頻繁に往来していると言うことだった。
「あの風来坊は、日本狭しと動き回っている」
土方は原田が多忙にしていて、なかなか顔を見せないとぼやいていた。
「いつかこちらに見えると思っていましたが、とてもお忙しいみたいですね」
千鶴は、原田に杯を注ぎながら、食卓を並べると子供を座らせて一緒に食事を始めた。斎藤は、暫く東京に居るのなら、ゆっくり泊まって行って欲しいと笑う。左之助は、永代橋に下宿しているようなものだと笑っていた。また北海道開拓事業の入札が始まったから暫く詰めると真顔になって話を始めた。
「なかなか、入札ってのは巧くいかねえもんだ」
原田は福岡の炭鉱採掘業者が、北海道で採掘が出来るように代理で入札をしているらしい。福岡の炭鉱採掘は古く瓦解前から黒田藩が行っていたが、新しい世の中になって、炭の需要は高まりつつあった。不知火は、炭鉱は宝の山だといって今年に入ってから、福岡の採掘業者と取引を始めた。炭鉱は宝の山。左之助もそう思っていた。新しい世の中の新しい事業。広大な土地が拡がる北海道で、宝の山が掘り当てられれば、北の大地で多くの人々が、暮らすことが叶う。豊かな資源のある広い土地。
それを開拓していけるなら。
左之助は新しい日の本に自分の生き甲斐を見いだしていた。北海道には新八や平助も居る。左之助は事業権の入札を目指し希望に胸が一杯になって再び上京した。だが、東京での実際の入札は思っていたものとは大きく違っていた。
永代橋の傍に建つ【北海道物産売捌所】は、北海道の物産が海路を経て運び込まれ陳列される。ここには、多くの業者が買い付けに来る。食品などは、そのまま晩餐会の食材につかわれ、大きな宴会場が建屋の中に用意されていた。大きな西洋風の建屋は製品倉庫も兼ね備えていた。普段は、芝の増上寺にある北海道開拓使出張所で北海道本庁の庶務が行われているが、開拓事業入札は永代橋の晩餐会用の部屋で行われた。
売捌所には、左之助以外にも炭鉱業者やそれに出資をする者が入札に参加していたが、蓋をあけてみれば事業は全て新政府が行うことに決まっているという。最初から、政府の事業であって。それに技術や資金提供をする業者が選ばれるだけだった。
「結局、薩長の奴らが牛耳ってるってことだ」
それも北海道本庁も開拓事業を動かしているのも薩摩の息のかかる軍人たちだ。そう言って左之助は溜息をつく。だが、この入札が不正なものだと言って目くじらを立てているのも、同じ軍人だ。それがおかしい。そう言って不満そうな表情をしている。
左之助の話をじっと黙って聞いていた斎藤は、顔をあげると左之助を見返した。
「なあ、斎藤。北海道開拓使ってのは政府陸軍だったな。屯田兵に俺は北海道で会ったが、まっとうな軍人が多かった。灌漑作業や農地の開墾しながら、兵役もこなすんだ。北の大地を人が住めるようにな。あれは大変な仕事だ」
「俺は軍人は嫌えだが、北海道の開拓に関わる屯田兵は必要だと思っている」
「だが、今回の入札を妨害しているのはどうも、その同じ陸軍だって話だ」
斎藤は屯田兵について殆ど知識がない、だが土方から共に戊辰の戦を闘った旧幕府軍の榎本武陽が、増上寺にある開拓使仮学校で北海道開拓の人材を育成をしていると聞いていた。屯田兵もその内のものだと認識していた。だが、なにゆえ陸軍が開拓事業を妨害する必要があるのだ。
「政府の事業が気にくわねえって、軍人が動けば、それは謀反を起こすってことだ」
左之助が斎藤の思っている通りのことを呟いた。左之助は、どうもきな臭いと斎藤の目を見詰めた。毎回、入札の度に現れる軍人たちが、建屋の周りを包囲するという。入札には、開拓使長官も現れるが護衛の人数が異常に多く、長官の出入りだけで、小一時間は入札作業が進まないと笑う。
「政府が開拓権を持っている。開拓事業の業者は予め決まっている」
「俺らみてえな、部外業者は黙って指を咥えて見てるしかなくてな。だが、入札自体が無効だという声がそこに来ている軍人の口から出てんだ」
斎藤は驚いた。開拓使は屯田兵が駐屯したことで、失業士族が沢山志願していると聞いていた。その軍人がなにゆえ入植事業を阻止するのだ。
「誰が誰を裁くんだって話だ。陸軍が暴動を起こすのを止めるのは警視庁か?」
左之助は斎藤に訊ねる。斎藤は、そうだと答えた。あらゆる争い事を取り締まるのが警視の役目だ。
「ま、【暴動】ってのは大袈裟かもしれねえがな。毎回、売捌所はものものしい様子だ」
斎藤は合点がいった。左之助が家に着くなり、懐から短銃を取り出して千鶴に預けた。千鶴は、怖々とそれを受け取ると、居間の箪笥の上に載せた。護身用だと言って左之助は笑っていた。入札の場もそうだが、左之助にとって毎日が物騒な生活なのだろう。左之助の身辺。新選組幹部、彰義隊の残党として、確かに追われる身であることは間違いがない。表向きは上野の戦で亡くなった事になっている左之助が、政府の入札に業者として参加しているとは、誰も夢にも思わないだろう。だが、ひとたび暴動に巻き込まれた場合、その身許は危険を伴う。斎藤はその点を危惧していた。
「左之、今度の入札はいつだ?」
斎藤が訊ねた。二日後の朝九時に入札が始まると言う。斎藤は見廻りを兼ねて、一緒に行こうと決めていた。永代橋は、斎藤の属する大二区小一署の管轄ではなかった。だが、単独の任務でなら出向くことは可能であろう。陸軍が政府に逆らうとあらば、川路の耳にもその情報を入れておかなければならぬ。斎藤は、左之助に二日後の入札に自分も同行すると言うと、左之助は頷いた。
「俺は、軍人が大嫌えだ」
宣言するかのように言うと、左之助はぐいっと杯を空けて溜息をついた。
「だんだん開拓事業にも嫌気がさしてきてな」
左之助は、本当は、ただっぴろい大地をただ馬に乗って駆け回っていたいと笑う。そして、斎藤が厩を設えて馬上巡察をしていることを羨ましがった。
「なあ、斎藤。土方さんにも訊ねたんだが、陸軍の取り締まりに警視庁がどれぐらい権限を持っているんだ?」と左之助が真顔で斎藤に訊ねた。
たとえば、入札の不正を取り締まるのに政府のどこが管轄なんだ?
だれも取り締まれねえなら、政府なんてあっても意味がねえだろ。
「入札妨害に陸軍が関わって居るとなぜ判った」と斎藤が訊ねると、
入札所に陸軍の軍人が必ず現れている。みんな軍服に制帽、サーベルを下げてな。異常な光景だ。
「先月、北海道は樺太を露西亜に渡したのは知っているだろう?」
左之助が斎藤に杯を注ぎながら、そう訊ねると。斎藤は頷いた。
「それまで、樺太の真ん中辺りで日本兵と露西亜軍がずっと小競り合いを続けていた」
左之助は、膳の上に北海道の地図を描くように指で樺太の位置を斎藤に教えた。千鶴も興味深そうに覗き込んでいた。左之助は話を続けた。
****
左之助の話
俺が去年の夏、内地へ引き返して来た時、【しべりあ】から樺太を通った。日本人の住む村もあるが、露西亜の軍人があちらこちらに駐屯所を設けて居た。ここら辺りで、突然、俺は露西亜兵に銃を向けられてな。そう言って、左之助はお膳に手で書いた樺太の地図の真ん中辺りを指さした。
同行していたのが露西亜語を話す志那人で、清国から大陸を渡る途中だと説明して難を逃れた。樺太はどこも、露西亜人が我が物顔で暮らす場所になっていた。満州の日本軍みてえな振る舞いだ。昔から清国でも噂にはなっていた。
「日本は露西亜とも仲が悪いってな。日本は、清国、朝鮮、露西亜、どの国とも戦をしようと息巻いているが、北海道みてえに何もない所に、お露西亜から寒さに強い兵士や馬が襲って来たらひとたまりもねえだろうよ」
「屯田兵がひかれている」
斎藤が小さな声で呟いた。
「その、屯田兵ってやつだ、俺らの入札を妨害しているのが」
陸軍のお偉いさんが、全て事業入札を牛耳っていやがる。みんな薩長ものだ。
新八の箱館県も黙っちゃいねえ。松前藩の時から漁業を樺太の方の北の海で拡げて来た。だが、樺太が露西亜のものになったら松前の漁場はなくなる。代わりに千島で漁をするのは厄介だ。松前から遠い上に、取引きしている近江までが更に遠い。五月に新八から手紙が届いた。箱館県は、近江から東京の売り捌き所に魚介を持ってくる手続きをしている。その漁業入札も不正にあっている。箱館も必死だ。貧窮しているらしい。
斎藤は、北海道開拓使については殆ど知識がない。遠い蝦夷の地。開拓で新しい生活の地が見つかるのなら、もっと多くの者が移り住めるようになるのだろう。瓦解で多くの士分が禄を失った。奉公先がなくなった武士が、商売を始めるには、新しい世は厳しい。斎藤の暮らす小石川診療所の周りの武家にも、新政府の事業に関われる家とそうではない家がある。同じ旧幕府の御家人でも、土木や治水に関われれば、まだ東京の工事事業の役につけた。武家屋敷がそのまま、政府に買い取られてしまっている場所もある。新しい世の中には、士分の生きる糧となるものは少なかった。
士分が生き長らえる場所。
それが蝦夷であり、北海道だった。北の大地。厳しい土地だと聞いている。斎藤は斗南を思い出した。極寒、不毛、飢餓に苦しんだ日々。開拓のために入植した者には、厳しい生活が待っているのだろう。だが、斗南とは違い、北海道には多くの資源と広大な土地がある。左之助は、これからは炭鉱開発が始まると言う。世の中は、蒸気でモノを動かすようになる。それには、炭が燃料になる。北海道には、掘れば掘るほど炭がざっくざくと出てくる鉱山がある。
宝の山だ。
汗水流して掘り当てた炭を売って、皆が生きていける。炭を買ったものはそれで蒸気でモノを動かして、何でも作る事が出来る。それに炭の輸送には、鉄道が必要だ。北の大地に鉄道を引く必要もでてきた。沢山の人足が必要になる、大きな事業だ。
でっかい船、鉄道、工場。
みんな炭が燃料だ。土方さんのメリヤス工場もだ。織機を蒸気で動かせば、大量に布地が作れる。メリヤス工場を大きく出来るって、土方さんも乗り気でな。
左之助は、嬉しそうに話した。
「土方さんは、蝦夷政府の話はあまりしたがらねえ。だがな、開拓使事業が成功すれば、それこそ土方さんが尽力して起ち上げた【蝦夷共和国】みてえになる。物産も、東京で売り捌く必要なんかなくなる。不知火がいうには、船が蒸気で動くと、日の本だけじゃねえ近隣の国とも取引が出来る。商売は日本国だけじゃねえ、世界中が相手だってな」
斎藤は思った。国が豊かになって強くなるのは政府の方針だ。屯田兵も国を守る為のものであろう。それが、何が不満で事業を滞らせる。
薩長の既得権か。
わからぬ……。
斎藤は二日後の入札までに、鍛冶橋の川路に報告に向かおうと思った。左之助は、一通り話が済んで気持ちがすっきりしたのか、その後は機嫌よく酒を飲んで酔っ払った。そしてその夜は診療所に泊まって翌日に永代町に帰って行った。
****
翌日の夜、斎藤は鍛冶橋の警視庁総長に定例報告に向かった。
大警視川路は開拓事業の入札妨害について、斎藤から報告を受けると、
「露西亜への樺太譲渡は、正式に調印はしちょらん。夏過ぎまでかかっちょう」
入札妨害か不正か、政府の方針に逆らう輩は軍人でも民間人でも検挙する必要があっど。
そう言って、川路は腕を組みながら右手で顎を撫でた。屯田兵は、まだ駐屯して日が浅い。北海道本庁に不穏な動きもない。だが、陸軍が絡んでおるとなっど慎重に事は進めんならん。
斎藤は売捌所での偵察を命じられた。先月に決起された【愛国社】の運動は、集会以来静かになった。政府に初めて立法機関が設立され、内務省を創設した大久保利通の進める政府は参議と各省長官が兼務とされ内務省に影響力が集中していった。そして、依然としてこれに異を唱える者が参議にはまだ存在し続けた。政府への反対分子。士族の既得権の回復を願う者の数は途絶えない。
新しく変わる世の中。
斎藤は斗南への移住後、大番掛かりとして出仕出来た。新しい県政に於いても、自分の役割はなんら変わることがなかった。もし手に仕事がなく、生きる為の糧もない状態になっていれば、自分も屯田兵に志願したであろう。千鶴や子供を斗南に置いて、開拓地で独り。そんな可能性もあったことを思うと、上京し家族と共に一つ屋根の下で暮らし、手に職がある状態は有り難いと思う。俸禄は、慎ましいものだが、十九で生家を出奔してから藩士の身分も貰い、士族として生きて行けることは有り難いことだった。鍛冶橋を出てから、馬車を乗り継いで家に向かいながら、斎藤は自分の境遇や、世の中の変容の事を考えていた。
入札の当日、斎藤は早朝の剣術の稽古を済ませると、虎ノ門を出て永代橋へ向かった。物産売捌所の建物は立派な西洋館で、広い宴会場は「ばんけっとるーむ」と呼ばれていた。後方の席に左之助の姿が見えた。赤茶色のスーツを纏い、髪を後ろに撫でつけた姿は精悍で、立ち上がった時の長身と堂々とした振る舞いは、政府の職員や入札に来ている者の衆目を集めた。斎藤は、部屋の四隅に警備官の姿を確認した。そして、左之助の座る反対側の通路に、軍服姿の男の姿が見えた。永井少佐だった。側近の二人がその背後の壁に直立不動で立っている。
斎藤は、静かに視界の端に永井少佐を留めたまま、入札が終わるまでじっと後方の壁の前で様子を伺った。落札業者は、左之助の炭鉱業者ではなかった。その後、鉄道開設事業の説明が始まり、斎藤は特に落札結果に異論を唱える者が居ないことを確かめると、そっと会場から外に出た。建屋の前には、数台の馬車が停留していた。陸軍省の印がついた馬車を確認すると、建屋を一廻りして様子を伺った。
暫くすると、左之助が建屋から出てきた。予め待ち合わせていた建屋の影で、馬の準備をしながら斎藤は左之助と、二、三言葉を交わした。
今日の落札結果を報せに再び福岡に向かう。
そう言う左之助の少し翳った表情が気になったが、斎藤はまた上京した時に、陸軍の動きについて判ったことを話すと伝えた。それから神夷に跨がると、左之助と別れ、斎藤は永井少佐の乗った馬車を尾行していった。永井少佐と側近が乗った馬車はそのまま市谷の陸軍省に向かった。午後過ぎまで動向を探ったが、事務次官室で執務についているらしく、永井少佐にこれと言った動きは無かった。
斎藤はその日から毎晩、永井少佐が自宅に戻るまで尾行を続けた。永井少佐は青山練兵所の近くに自宅があった。立派な門構えの平屋には妻と下女と側近二名が下宿していた。永井は自宅と市ヶ谷、青山練兵所を行き来する様子しか見せない。軍務の後も、そのまま明るい内に帰宅する生活を続けていた。側近の若い兵士二名の方が、街中へ出掛けて夜遅くに帰ってくるようだった。数日間の尾行で、何ら変わることのない永井の様子を鍛冶橋に報告すると、久しぶりに夜行巡察が終わり、斎藤は診療所に帰宅することが出来た。
千鶴が、左之助から手紙が届いたと斎藤に見せた。
藤田千鶴殿
息災にしているか。
三池に滞在している
北海道の炭鉱事業には参加できなくなったが
三池から海に近い隣の山も掘ることになった
不知火が資金借り入れに奔走している
来月の船で東京に戻る
坊主と旦那に宜しく伝えてくれ
原田左之助
手紙は千鶴宛に書かれたものだった。走り書きの文だが、原田さんは、昔から大きな筆使いでちっとも変わっていらっしゃらないと千鶴は笑っている。
「坊主と旦那さんに、ですって」
原田さんは、本当に子煩悩ですね、と千鶴は斎藤の着替えを手伝いながらクスクスと笑っていた。お盆に戻って来るなら、ゆっくりして貰えると言うと、お膳に軽い夕飯と晩酌の用意を並べ始めた。
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め組の伊佐治
夏の嵐が明けて、東京の暑さも本格的になった。
夜間の巡察には馬は連れて行けないからと、斎藤は夕方に戻って神夷を診療所に停留させてから再び出掛けている。千鶴は、昼間の内に大きな盥に置いた日向水で神夷を水浴びさせた。気持ちよさそうに、じっと首をもたげてじっとしている神夷は、水を拭き取ってやると微笑むような表情で鼻先を千鶴の頬にあてる。坊やは、台の上によじ登って、「かむい、いい子。いい子」と言って嬉しそうに馬の耳の後ろを撫でた。いつも馬の水浴びついでに、そのまま子供も風呂に入れる。今晩も父様は夜行巡察ですよ。そう坊やに話しかけると、「とーたん、おしごと」と子供は答える。最近坊やは、言葉が増えて来た。そうですよ、朝にお戻りになりますよ。そう言って千鶴は笑いかけた。
一方で斎藤は、三田の演説館の近く増上寺の開拓使出張所の門前に向かった。連日、永井少佐が出張所を訪れ、長官に面会を願い出ている。門番からの聞き込みで、斎藤は永井少佐が今日も増上寺に現れると思った。案の定、門前には陸軍の馬車が停まっていた。陽が完全に落ちた。永井少佐は建屋から出てくると馬車に乗り込み移動を始めた。馬車は青山方面ではなく、そのまま築地方面へ向かった。斎藤も小型の馬車で後を追った。
陸軍の馬車の行った先は、永代橋のたもと。物産売捌所だった。洋館の玄関が開くと、中から洋燈の灯りが漏れて周りは明るくなった。斎藤は隅田川側に建屋を廻ると、ちょうど宴会部屋(ばんけっとるーむ)の窓が明るい。永井少佐はここで会合かと思われた。その時に、斎藤の馬車の馬丁がもう馬は出せないので引き上げると言いだした。確かに、小型の馬車には提灯が装備されていなかった。移動手段を考えている内に、再び玄関前が騒がしくなった。建屋の中から人が五名。それぞれの馬車に乗って移動を始めた。三台の馬車はどれも、陸軍のものだった。斎藤は、走って追い掛けた。途中、人力が併走を始めて斎藤を誘ってくる。渡りに舟だ。斎藤は、人力に飛び乗って、前を走る馬車を追い掛けるように頼むと、ようやく上がった息を整えることが出来た。
斎藤を載せた人力は、驚くぐらいの早さで走る。車夫は細い身体だが、人並み外れた健脚だった。斎藤は感心した。それも、全速力で駆けながら、背後の斎藤に話しかけてくる余裕もあった。
「旦那、この道ですと、行き先は柳橋でやんすね」
隅田川の河岸を走りながら、車夫は話した。売捌所の玄関では、従者が「長官」と呼びかける声も聞こえた。開拓庁の長官か。永井少佐は柳橋で会合。長官と談合か。そんな事を考えていた。
「旦那、江戸川を越えますぜ。よろしいございますか?」
車夫が訊ねて来た。もう柳橋を渡りはじめていた。目の前の馬車は、停まる様子はない。斎藤は、行けるところまで追い掛けてくれと頼んだ。
「合点、承知の助でござい」
意気のいい車夫である。どことなく喋り言葉が天野に似ている。明るいお調子者で江戸の下町育ち。この辺りは、天野の実家に近い界隈だ。この車夫もこの辺りの地理に詳しいのだろう。斎藤は、柳橋の向こうだと行き先は、浅草かと訊ねた。
「両国、浅草、右岸ですと本所、向島」
「向島まで、あっしの領分でさあ」
向島まで。そこまでこの勢いで走れるのか。斎藤は驚いた。世に己は韋駄天の生まれ変わりとうたう者は多くいるが、ここまで走る男に斎藤は生まれて初めて出逢った。目の前に大きな橋が見えてきた。馬車は、そのまま橋を渡って川の右岸に出た。
斎藤は、車夫が人力をゆっくり進め始めたのに気がついた。馬車もゆっくりと進んでいる。丁度、大通りから右手に入る路地に馬車は大きく旋回して曲がって行った。人力は、一旦道の手前で停まった。
「旦那、このまま道に入っていけますが。馬車に気づかれるのがマズいようでしたらここで」
そう振り返りながら話す。あの道は、そのまま「名月」に突き当たります。そう車夫は話した。
「料亭、名月。この辺りでは一番大きな料亭でございましてね。門前に大きな松の木があるので、すぐお判りになります」
斎藤は頷いた。名月には、まだ春先の寒い時期に土方に連れられて来た。土方馴染みの割烹高級料亭。もう半年ぶりぐらいか。斎藤は、人力から降りながら、道の向こうの小路地を眺めた。懐から財布を取り出し、紙幣を車夫に渡すと、あまりの高額に釣り銭がないと車夫は慌てだした。
「釣りはとっておいてもらってよい。助かった」
斎藤が、そう言って打刀を腰に指すと、車夫は頭を下げて礼を言った。
「またの御用の時は、いつでもお呼びください。あっし、め組の伊佐治です」
「め組、十番組なら向島か」
「ええ、築地からこの辺りまでたむろしてございます」
そういって、伊佐治は自分の半被の背中を見せた。紺地に白く丸に『め』と書かれていた。斎藤は頷くと、そのまま道を横切って、名月に向かった。馬車廻しに廻ると、陸軍の馬車ともう一台警視庁の馬車が停まっていた。箱形の立派な馬車は大警視専用のもの。川路大警視がきているのか。斎藤は驚いた。
玄関に回り、女将を呼んで貰った。名月の女将は、土方の懇意で名は多佳と言う。上がり口に立つ斎藤を見ると、「まあ、藤田様、ようこそおいで下さいました。さあ、どうぞ」と言って刀を受け取ると斎藤を案内して廊下を前に進んで行った。
斎藤の通された部屋は、以前千鶴と食事をした部屋だった。膳が用意された前に座った斎藤は、やっと声を出すことが出来た。
「女将、今日は巡察の用で参った。ここで、会合が開かれている」
斎藤が話すのを静かに聞きながら、女将はお酒を運んできた仲居を下がらせた。
「はい、会合はどこのお座敷でも開かれております」
伏せ見がちの様子で女将は答えると。
「偵察の御用向きでございましたら、ご用件をお聞きしてからでないと、私どもも、ご案内は出来かねます」
斎藤は頷いた。陸軍省の永井少佐を追っている。ここに開拓使庁の長官と来て会合しているはずだ。そう話す斎藤に、女将は静かに頷いた。
「裏に川路大警視の馬車も駐めてあった。もし、手数でなければ、わたしが今、永井少佐を追ってここに来ていることを伝言頼みたい」
斎藤が頼むと、女将は速やかに部屋を出ていった。間もなく、女将は川路を伴って斎藤の待つ部屋に現れた。斎藤は、立ち上がって敬礼した。
「ええ、ええ、そんな畏まらんで」
そう言った川路はどっかと斎藤の前に胡座を掻いた。
「よう来た。今、黒田どんと永井と飲みよっと。二人が喧嘩を始めるのを止めるんがおいの役目。永井は、おそろしか剣幕で、樺太を露西亜に渡すんは反対じゃと、屯田兵が一揆を起こすと捲し立てとっ」
「黒田どんは、黙って聞いちょお。永井は、必要であれば、今から戦をすると抜かしよる」
そう言って川路は、手に持った団扇で首元をバタバタと扇いだ。
露西亜も朝鮮も清国にも日の本は負けちょらん。日本の領土を露西亜にとられるとは大和国の恥じゃと。
斎藤は黙って川路の話を聞いていた。永井少佐は戦も辞さない。兵を挙げる気か。陸軍省で永井の息のかかる兵士は一握りだろう。せいぜい十数名。斎藤は、永井の周りの側近たちの顔を思い浮かべていた。
「私はここで待機でしょうか。永井少佐を取り押さえる必要があれば、今すぐにでも」
斎藤は、傍らの刀に手をかけた。川路は、「よか、よか。まだよか」と言って笑う。それから、おもむろに立ち上がると、斎藤に笑いかけた。
「女将に、隣の座敷を用意させた。そこで話だけは聞いておくとよか」
「わしが、【清正公の徳のため】言うたら、斬ればよか」
「じゃっどん、それは最後の最後んこつ。今夜は何も起きん」
酔っ払ったような口調の川路だが、目は真剣だった。斎藤は、「承知」と返事をした。
川路が部屋を出ていった後、斎藤は、川路達が会合する座敷のとなりの部屋に案内された。壁に立てかけてある調度を移動させると、土壁に聞き耳用の穴が空いてあった。女将は、静かにそこに斎藤を案内した。
お膳には、酒と肴。料理も並べられた。膳の隣を見ると、部屋から、裏通りまでの動線が簡単に描かれた紙が置いてあった。何か事が起きた時を想定してあった。斎藤は、その紙を眺めながら名月が政府要人の会合が行われる場所という噂に合点が行った。女将は、いろんな修羅場を見てきたのであろう。警察官とはいえ、斎藤の用件を聞いた上で、偵察の為の案内をした。場合によっては、このお多佳の判断で、座敷に上がることも叶わぬのやもしれぬ。斎藤は、そう思った。
それから、数時間。斎藤はじっと隣の部屋の声に聞き耳を立てた。永井少佐は、普段の物静かさを保ったまま。だが、日の本を守る為と言うと。
「おいは何だってすうとも」
「留め立てはせんで貰いたい」
声を荒げる場面もあった。黒田長官は、「そうか、そうか」とよく響く声で相槌を打っていた。
「永井が、国を守る意思が強かこつは、おいが一番ようわかっちょ」
黒田のこの一言で、永井は大人しくなった。その後は、和やかな宴席のようになった。【清正公】の合い言葉。それどころか、川路の声は全くと言ってよいぐらい聞こえなかった。
会合がお開きになった。斎藤は、川路の指示があるまで部屋で待機していた。女将が現れて、川路からの伝言で馬車を一台呼んであるので、今日の偵察は終えて良しと言われた。斎藤は、深夜遅くに帰宅した。
*****
ほおずきの笛
診療所に再び左之助が現れたのは、月の半ば。
暑い昼下がりに、四万六千日で買ったとほおづきの鉢を持って現れた。斎藤が夕方に戻ると伝えると、暫く東京に居るからゆっくりしたいと左之助は縁側の廊下で足を伸ばして腰掛けた。
ちょうど縁側に盥にためた水を掬って子供が水遊びをしていた。水鉄砲で跳ね逃げる総司に水をかけて笑っている。千鶴は、冷やした麦湯を入れて縁側で一緒に座って話をした。
「ほおずき、有り難うございます。久しぶりです。去年は戻ったばかりで、庭に鉢植えを置くこともしていなくて」
千鶴は、嬉しそうに縁側に置いた鉢植えから、ひとつ実をとった。丁寧に外側を開いて、人形を作った。
小さなお盆を持ってくると、器用にそれを立たせた。小さな茄子に楊枝を指して、お馬も作った。名前を呼ばれた子供と猫の総司が縁側に戻って来た。千鶴は濡れ縁によじ登って来た二人の濡れた身体を拭うと、麦湯を飲ませた。
「かーたん、これなに?」
豊誠は立ったままおしめを替えられながら、小さなお盆の上の人形を指さした。
「お人形ですよ。ほおずき人形。これは坊や。となりが沖田さん」
子供はしゃがんで興味深そうに、眺めていた。千鶴は、胡瓜をもってきてお馬を作った。
「なに、ちてんの?」
子供が不思議そうに眺めている。
「お馬さんを作ってるの。これは神夷」
お盆に、ほおずき人形と猫と馬が並んだ。豊誠は大層悦んだ。左之助の膝にちょこんと腰掛けて、器用に小さな湯飲みで麦湯を飲んでいる。千鶴は、ほおずきをもう一つ鉢からとると、外皮から実を取り出して、実の中身を湯飲みに空けた。子供も猫も不思議そうに眺めている。千鶴は、小さな実に空気を入れて膨らますと、口に含んで、きゅーっと弾けるような音を立てた。
「ぼうやちょうだい」
千鶴の膝に登って、ほおずきの実を食べたいとねだる。千鶴は、食べ物じゃなくて、「ほおずきの笛です」と笑って、実に空気を入れ直す。坊やは欲しいほしい、くれろというので、口に放り込むと、直ぐに吐き出した。驚いた顔をしていたのが泣き顔になっている。
「ほおずきはお薬みたいな味でしょ。食べ物じゃありません」
そう言って、子供の涎と口の中を笑いながら手拭いで拭き取った。もう一つ、ほおずき笛を作ると、こうして音を鳴らすの、と言って音をたててみせた。子供は千鶴の膝の上で、耳元に聞こえる不思議な音にケラケラと声をたてて笑った。総司は、耳の後ろを後ろ足で掻いた後に、湯飲みの中に入ったほおずきの中身の匂いを嗅いだが、ふん、っと不満そうな声を上げてから、縁側の端に戻ってゆっくりと横になり出した。
「坊主は、今年三歳か?」
ずっと子供と千鶴の様子を眺めていた左之助が訊ねた。
「はい、この七月で満ふたつになりました」
「言葉を喋るようになると、一段と可愛いよな」
そう言って、再び自分の膝の上に座った子供の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。
「はい、何をみても、これはなんだと訊ねて来るので、困りものです」
そう言って笑う千鶴は、団扇で左之助と子供と猫をゆっくりと扇いだ。左之助は、そのまま縁側で猫と子供と一緒に横になった。暑い昼下がりだったが、陽が下がってくるにつれて涼しい風が入るようになった。千鶴は奥から駕籠枕を用意した。坊やには、たをるを頭に敷いた。左之助が、ぐっすりと眠っているのでその間に夕餉の支度をたっぷりと用意した。
*****
花に喩えれば
斎藤は夕方に部下二人と一緒に帰って来た。左之助が訪ねて来たことに喜んで、とっておきの清酒を取り出した。部下二人も左之助との再会を喜んだ。
皆で膳を囲んで食事を始めた。左之助が、福岡の炭鉱事業を拡大するために鉱山の持ち主との交渉で忙しかったと話した。ひとつき丸々山の中。久しぶりの下界だと笑った。
「開拓使事業の入札は全て終わったみたいだな」
斎藤が北海道開拓事業の話をすると、左之助は、ああと返事をした。
「陸軍の妨害工作も表向きは無かったことになっている。あの後は特に動きもない」
静かに話す斎藤の話を、千鶴も斎藤の部下二人も何の事かは解らずに聞いていた。
「そうか、鎮台が動いてなければ、何もねえんだろうよ」
そう言って、左之助は溜息をついた。
「こっちに戻る時に、長崎と鹿児島を廻った。港だけだがな」
「志布志湾だ。薩摩の砲台がずらっと並んでいた。数が尋常じゃねえな」
左之助は、隣に座る天野と津島の杯に酒を注ぎながら話を続けた。
「不知火の案内で、桜島まで廻ったんだが、あれだな軍事にかけては、鹿児島は長州より強靭だ」
「それに産業も盛んだ。でっけえ紡績工場もみた。土方さんが面倒見ている向島の紡績工場の三倍はある。あれをみたら、土方さんのことだ、借金増やしてでも東京にでかい工場を建てようとするだろうよ」
微笑みながら左之助は話しているが、鹿児島県の資金力、軍事力には正直驚いたという。暗に、瓦解の時のことを言っているのか。薩摩は軍事、その資金力を楯に幕府に立ち向かった。今も変わらぬだろう。西国が諸外国から攻められても十分に応戦出来る。薩摩は瓦解前より武備には長けていた。
斎藤が鹿児島の様子を頭に描いている一方で、千鶴は左之助の話を聞いて心配になった。
借金を増やしてでもって……、
土方さんのメリヤス工場……。
ほぼ一ヶ月前、突然土方が診療所に顔を見せた事があった。水菓子を持って現れ、縁側で子供と一緒に食べると、「世話になった。戸締まりをしておけ」といつもの調子で早々に帰ってしまわれた。目の下に隈ができて、疲れた様子だった。ほとんど千鶴とは口はきかず、坊やと話しては声をあげて笑っていたが、ふと翳りをみせるような様子が気になっていた。
土方さんは、決して弱音を吐かない方。
はじめさんとおなじぐらい。
京の屯所でも、江戸に戻ってからも、どんな状況でもご自身で解決しようとされていた。表には出さず。
決して、表には出さず……。
千鶴がぼんやりと考え事をしている様子が気になったのか、左之助が千鶴に話しかけた。
「千鶴、その髪。似合ってるじゃねえか」
千鶴は、顔を上げると微笑む左之助に笑いかけた。
「ありがとうございます」
「長崎で、洋髪を結った女を見かけたが、異人の髪だけのものだと思っていた。千鶴みてえに、造りのいい様子だと着物にも似合ってみえる。自分で結ってんのか」
千鶴は、左之助に促されて、よく見えるように横顔や後ろも皆に見せた。
「可愛いじゃねえか。リボンをつける女は東京で見かけるが、千鶴がやると西洋かぶれにみえねえな」
恥ずかしそうにしながらも、千鶴は嬉しそうに右手でうなじから髪を撫で上げて髪型を整える。そんな仕草を、津島はぼーっと見惚れていた。
「なあ、お前等もそう思うだろう?」
そう話を振られた天野は、「ええ、そりゃあもう。大騒ぎです」と調子づいた。
「奥さんがお綺麗なのは、今に始まったことではありません」
そういって、手の杯をぐいと空けると。
「立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花ってね」
千鶴が、笑いながらも恥ずかしそうにしていると。
「そうだよな、津島」とぼーっとしている津島の背中を叩いた。津島は、酒を杯からこぼしそうになって咽せた。
千鶴は心配そうに津島の傍によると、背中をやさしく擦りながら手拭いを渡した。津島はみるみる顔が紅くなっていった。千鶴は、空いた皿を集めながらクスクスと笑い始めた。
「はじめさんは、私が西洋髪に結って家に居ても、なんにも仰らなくて」
急に千鶴が自分の話を始めたので、斎藤は口にあてた杯を止めて千鶴を見詰め返した。
「二日たっても何も仰らないので、私もしびれを切らしてしまって。自分から訊いたんです」
新しい髪型にしました。如何ですか?って。
千鶴は、左之助と部下二人に向かって笑いながら話す。
「そうしたら、はじめさん。『それは、縁起物かなにかか?』ってきょとんとされて」
「注連縄を真似たのか?って真顔で仰って」
千鶴はクスクスと肩を振るわせて笑っていた。
「頭の後ろに茅の輪を作るのが流行っておるのか?って」
あまりに可笑しくて、大笑いしてしまいました。千鶴はそう言って笑う。千鶴は長い前髪をねじりながら顔の横で編んだものを綺麗に後ろで輪にしてまとめていた。髪結いにやり方を教わったと言って、自分でも結えるようになったと嬉しそうに話す。
「女の髪を注連縄ってのは、ねえよな」
左之助も肩を震わせて笑っている。天野も大笑いしていた。津島は、意外そうな顔をしている斎藤の顔を見ている。憮然として、そのまま斎藤は杯を空けて手酌で飲もうとしたのを、千鶴が寄り添うように杓をする。そのまま寄りかかるように座って斎藤から離れない。憮然としている斎藤の横顔を愛おしそうに眺めると、また部下達の顔をみて、くすっと笑いかけた。
「女を花に喩えるってのは。京に居た頃の千鶴は、いつも笑顔だった。俺らが浮かねえ気分の時も千鶴の笑顔をみると元気がでたもんだ」
日向に咲く蒲公英みてえにな。優しくて可愛いかった。
左之助は、立て板に水のように千鶴を褒めまくる。千鶴は恥ずかしそうに笑っていた。
「確かに、奥さんの笑顔は、見ているこっちまで楽しくなります。向日葵。今日も坂の途中に咲いてましたが、あの花にも似ていらっしゃる。なっ」
また天野は津島の肩を小突いた。そして、小さな声で耳打ちした。
「お前も、ほら、奥さんを花に喩えてみろ」
津島は、そう言われて千鶴を見た。いつもの綺麗な顔で笑いかけられ、また耳まで紅くなった。「おい、云えよ、なんか」と隣の天野が脇腹を小突いてくる。津島の心の臓が早く打ち始めた。
「奥さんは……、すずらん……みたいだ」
「津軽では、皐月に鈴蘭が咲きます。そこら一面に」
「綺麗で、めんごくで、甘い匂いがして……」
朴訥と呟くように話す津島に、千鶴は嬉しいですとお礼を言った。津島も頭を下げて、紅い顔を紛らわせるように杯を続けて飲んだ。
「千鶴を花に見立てたことはねえのか?」
左之助が斎藤に矛先を向けると、斎藤はじっと黙ったままだった。
「ない」
ぼそっと答えた斎藤の隣で千鶴は、お膳の上のお皿を下げ始めていた。
「……だが、花に限らず、何かを見たら千鶴を思い出す。思い出すというか、そこに姿が見える気がする」
斎藤がじっと考えるような表情で、ぼそぼそと話始めた。
「道を歩いていて、そこに菫が咲いていたら千鶴を想う。木陰に木漏れ日が指しているのを見ると千鶴がそこに笑っているような気がする。さっきも、江戸川の水面に夕日が映ってきらきらと光っていた。俺は千鶴がそこにいるような気がした」
千鶴は、いつの間にか動かしていた手を止めて、斎藤を見ていた。
「風が吹いても、雨をみても想う。なぜかは判らぬが。昔からだ」
ぼそぼそと話し続ける斎藤の隣で、千鶴は俯いてしまっていた。
「はじめさんは……こうやってふいに……こんな風なこと仰るんです」
そういって、ポロポロと涙をこぼした。着物の袖で顔を覆っている千鶴に、左之助が笑いかけた。
「上手や愛想を云わねえのが、旦那のいいところだ。な、千鶴」
「ええ、ほんとうに」
千鶴は、そう言いながら、笑って目尻を袖で押さえている。そんな千鶴を左之助が笑いながら、残った酒を一気に飲み干した。そして、立ち上がって身支度を始めた。
「なあ、天野も津島も、今夜は暇か?」
左之助は、座っている斎藤の部下二人に、「俺は夕涼みに出るが、一緒に行かねえか」と誘った。天野も津島も二つ返事で相伴するといいだした。
「ありがとうよ、千鶴。馳走になったな。暫く永代橋にいる。また来る」
そう挨拶すると、玄関まで見送る斎藤達夫婦に暇を告げて、左之助と天野と津島は帰っていった。
***
小石川から、そのまま言問通りを根津に向かって、夕風にふかれながら三人はゆっくりと歩いていた。
「あの二人にはあてられ通しだな」
左之助が斎藤の部下二人に話しかける。ほろ酔いの天野は、そうなんですよ、と云って笑っている。
「あそこまでのおしどり夫婦に逢ったことありませんよ」
「ま、主任はともかく。奥さんが出来た人ですから」
天野は、自分で話しながら笑っている。な、っと肩を小突かれてもずっと津島は黙っていた。
「千鶴は、まだほんの子供の頃から、俺らと一緒に暮らすようなったってのは話したよな」
「その頃からの仲だ。二人はまだ若えが、もう十年は連れ添ってる」
「……あれだけ惚れあって、ずっと一緒にいられるってのは幸せだ」
津島は、左之助の話をずっと黙って聞いていた。主任と奥さんの昔を知る人から、二人の深い仲を聞かされるというのは、胸苦しいを通り越して、ただひたすらに辛い。
どうやっても手に届かない人
そう思うが、手が届くような気がするのも確かだった。たとえば、さっきも手を伸ばせば触れられる。いけないとは思いつつ、心の中でいつもそうなった時の覚悟を決めていた。
どうにか
なにがどうにかだ
もう一人の自分が己を諫める。なにがどうにかだ。そんなこと、無理に決まっているだろう。
津島は、左之助と天野が二人で、前を歩く後ろにただ黙って付いていった。
****
左之助の馴染み
それから浅草の仲見世で、茶屋に上がった。
最初に襖を開けて挨拶した女。左之助の馴染みは、随分と年増のとうの立った女だった。最初、斎藤の部下二人は、この遊女を【遣り手婆】と思い、いつまでたっても座敷から下がらないので不思議に思っていた。
そうこうしている内に、津島の馴染みが現れた。
千早
千鶴に似た女
左之助は永倉新八から吉原に千鶴に似た格子が居て、津島の馴染みだとは聞いていた。だが、ここまでそっくりだとは。ふっと溜息が出るように笑いが漏れた。
千早は津島に惚れこんでいるようだった。媚態をつくり艶を売るのが遊女のならいだが、本気の女が垣間見える。普通遊女の意気地でそれを見せないものだが、千早は違っていた。どこか素人のような。そんな風情が余計に千鶴を思わせた。
唯一違っているのは、声か。
少し、低い掠れた声。
左之助は自分の相手とずっと話込んでいた。天野と津島がそれぞれの相方と奥の間に移っても、酒のおかわりを頼み、三味を持たせ唄をうたわせた。遊女に三味を弾かせるのもおかしな話だ。だが、この夜の左之助の相方は、かなりの手練れ。その唄声はしっとりと、疲れ切った左之助の心を和ませた。
***
翌朝、奥の間から天野が欠伸をしながら座敷に戻ってきた。
そこで驚く光景を目にした。
座敷の窓辺にもたれ掛かった左之助に、ゆんべの年増が膝枕をして貰ったまま眠りこんでいた。優しく、その背中をさすってやりながら。天野に目配せすると、そこに朝餉が用意されてるから待っててくれと言う。天野は、茶漬けを食べてから畳に横になって左之助を待った。
「まあ、左之さん、起こしてくれてもいいじゃありませんか」
そんな風な話し声が聞こえた。年増の女は、恥ずかしそうに身仕舞いを正すと、左之助をつれて朝餉の席に案内した。そして、天野にも両手をついて深々と挨拶をして座敷を下がっていった。朝の光の中でみた女は、とうは立っているが、俯いたその顔は品が良く美しかった。暫くすると津島が座敷に戻って来た。座敷の廊下まで、千早がもっと居て欲しいとせがんでいる声が聞こえた。津島は、また来るの繰り返し。つれなくされた千早は、「必ずでございんすよ」と念を押している。
一部始終が聞こえていた。左之助も天野も、色男の津島を冷やかすように見た。津島は、黙ったままお茶漬けをかき込むと、天野に今すぐ、虎ノ門に向かわないと遅刻だと言ってすっくと立ち上がった。左之助が勘定を払って、三人で郭を後にした。
左之助と道で別れた後、乗合馬車の停留所まで歩きながら、天野が津島に左之助と年増の遊女の話をした。
昔の馴染みって言ってたけど。
あれ、元の上役の馴染みだってよ。
「上役ってことは、新選組か」
津島がそう訊ねたのを、違うと天野が遮った。
「原田さんは、彰義隊だってよ。あの相方は、上野で戦って死んだ彰義隊長の馴染みの芸妓だったっていうぜ」
瓦解で身を落として、遊女になったって。
女の意気地だけで生きている
いい女だ。
そう言ってたぜ。あの婆さんのこと。
一晩中、褥には行かねえで、話をしてたって。あの人は、凄いな。
津島は天野がしきりに感心するのを聞いていた。
「なんてったって、その気になりゃあ、一晩で四人廻せるんだからよ」
そう言いながら、四人だぜ、四人、と指を四本たてて津島の目の前に突きつけた。
津島はずっと話を黙って聞いていた。
馴染みの女。
自分も、馴染みの千早に逢いたいのか、千早を抱きたいのかもよく判らない。逢うと、可愛いと思う。だがそれだけだ。手に触れても、何をしても許される。
許される
それだけの相手
津島は、ずっと乗合馬車の窓から外を眺めた。朝の光、道行く人々。お堀端の緑。
何をみてもあの人を想う
俺もそうだ。
津島は深く溜息を付くと、ずっと、斎藤が昨夜話した言葉を心の中で繰り返した。
何を見ても姿が見える
何を見ても千鶴を想う
そこで笑っている気がする
昔からだ
つづく
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(2018.08.30)