永井少佐の家

永井少佐の家

明暁に向かいて その18

明治八年九月

 先月に引き続き陸軍少佐永井盛弘の監視を続けていた。

 少佐の動向は、特に変わった様子はなく、毎日ほぼ同じ場所で軍務をこなしていた。午前中に青山練兵所での剣術稽古、砲術訓練、午後は警視庁との合同巡察、半蔵門にある陸軍大病院に立ち寄り、事務次官室での執務。毎日ほぼ定時に陸軍省を後にして真っ直ぐ自宅に戻る。

 九月に入って一週目が過ぎたある朝、練兵所の稽古に永井少佐の姿が見えなかった。いつもの側近二人も非番で欠席。斎藤は永井が欠席した理由を、練兵所に問い合わせた。事務方は、「兵部へ休養許可願いがでています。本日自宅待機でございます」と兵簿帳を確かめながら答えた。斎藤は、永井の自宅へ念の為に偵察に出掛けていった。

 青山通りから一歩裏側に入った所に永井少佐の自宅があった。立派な門構えの家屋で、南側に廻ると生け垣から中庭と母屋の縁側がよく見渡せる。下女がいつものように、洗濯物を大量に干している姿が見えた。物干しには、男物の着物の他、女物の寝間着や下着も干されていた。所帯は大人四名。下女は、年の頃は十六ぐらいだろうか。いつも甲斐甲斐しく動き回る少女の姿は、斎藤に京時代の千鶴を思い出させた。

 庭から見る限り、母屋の居間には誰の姿も見えなかった。永井達は外出中。斎藤は、しまったと思った。ちょうど二日前に鍛冶橋に呼び出され、永井少佐の動向を更に詳しく調べる必要があると言われた。永井の所属する兵部に、永井が軍給の前借りを申し出たらしい。故郷への仕送りが理由であったが、大いにあやしいと川路大警視は訝った。

 送金先が国元、使途が軍資金だとしたら。

 金の受け取り先もだが、金を借りた永井の動きを監視する必要があっど。

 軍務を休み、側近二名と姿を消した永井の動きが気になる。斎藤は、事前に休養許可願がでている情報を得られなかったのが手抜かりだったと後悔した。すると、大通りから土埃を上げて馬車が曲がり角から入ってきた。斎藤は、咄嗟に半間先の路地に身を隠した。馬車は幌を半分だけ掲げてあった、前の席に永井少佐と女の姿が見えた。門の前で馬車が停まると、背後の席から永井の側近の歩兵が二人、着物に袴姿で急いで降り立つと、荷物を持って足早に玄関に向かった。

「奥様のお帰いだ」

 玄関を開けて、側近が叫ぶ声が聞こえた。下女が返事をして走っていく。馬車から、永井が女を抱えて降りた。

 長着に首に包帯を巻いた青白い顔の小さな女。

 真っ黒な髪を下ろしたまま肩で一つにまとめてあった。女は具合が悪そうに、そのまま抱えられて玄関の中に入っていった。永井たちは居間の前の縁側を通り、奥の間に移動したようだった。その間も、側近の歩兵二人が荷物を馬車から運び入れていた。おそらく永井の女房は具合が悪くて自宅以外の場所で療養していたか。斎藤は思い当たる節があった。永井は半蔵門の陸軍大病院へ、ほぼ毎日のように立ち寄っていた。兵部事務次官の仕事の一部だと思っていたが、女房が入院していたのかも知れぬと思った。

 退院して自宅に戻った女房。

 さっきの様子では容態は重篤なようだった。斎藤は、陸軍の馬車がまた来た道を戻って行くのを確かめると、再び生け垣から家の中の様子を伺った。下女は、昼餉を準備して永井達に給仕をすると、奥の間に食事を運んで行った。永井は、下女のあとに続き奥の間に行ったまま戻ってこない。部下の二人は、昼餉の後に外出した。斎藤は若い二人を尾行した。歩兵達は近くの市場に出向き、野菜を買い求めると、今度は道の反対側に出向き、普通の民家に入っていく。斎藤は、永井の側近が、この民家の女主から鶏の卵を譲ってもらっているのを確かめた。

「奥さん、ねんじゅ助かっとう」

「ありがとうございもす」

 頭を深く下げて感謝する二人に、女主は、「なんも特別なことは」と首を振って笑っている。この女主も言葉のなまりから薩摩者だという事がわかった。側近達はそのまま自宅に戻った。永井少佐は、女房の看病につききりらしく、その後は中庭で部下二人が木刀で稽古を始め、夕方に永井が居間に現れて、夕餉を食べると、また奥の間に姿を消した。陽が暮れて、永井少佐も部下も外出する様子がないのを確かめて斎藤は鍛冶橋に戻った。



*****

柘榴の実

 翌日、永井少佐は朝稽古に出た後、警視庁との合同巡察に出向き、昼過ぎに一旦自宅に戻った。斎藤はずっと監視を続けていた。永井は数時間自宅で過ごした後に、市ヶ谷の陸軍兵部に向かって夕方まで事務次官室に居た。定時に軍務を終えて、馬車で家に戻った。自宅では、いつもと変わりなく、おそらく奥の間で療養している妻の看病をしているのだろう。下女がくるくると動き回り、すぐ陽が落ちて、部下も家に戻った後は早い時間に家の灯りは消えた。こうした日が暫く続いた。

 月も半ばに近いある日、午過ぎに永井はいつものように自宅に戻った。斎藤は、いつもの生け垣から庭が見渡せる路地でそっと家の様子を伺っていた。昼餉の後に、永井が、木刀を出して素振りを始めた。門の傍の大きな橡の木の枝に縄が結びつけられ、先に木片がぶら下げてある。永井は、その木片を鋭い突きで一撃にする。

 斎藤は、永井の独り稽古に目が釘付けになった。陸軍の中でもかなりの手練れであろう永井は、普段からその技をひけらかすような事はしない。あくまでも実戦で、いつでも使えるように鍛錬しているのであろう。斎藤は、自分の稽古がまだまだ甘かったと反省した。永井のような軍人が徒党を組んで反乱を起こせば。国家の転覆も謀ることができるのだろうか。斎藤はずっとそんな事を考えながら、永井の稽古を見ていた。

 永井が急に剣を振るのを止めた。背後を振り返った永井は、縁側に駆け寄るように向かうと、そこには永井の妻が柱に摑まって立っていた。寝間着に羽織を羽織って、首には包帯が巻かれたままだった。青白い顔は変わらず。永井が手を引いて支えるように縁側に座らせた。

「旦那様、木瓜はもう花が終わってしまいもした」

 ぼんやりと庭先を見詰めて話す声は、力なさげで。永井は労るように一緒に庭を見回す。

「柘榴の実が、大きうなってきてう」

 永井の妻は、永井が指さす先を一生懸命見ようとしているが、よく見えないようだった。永井は妻を抱き上げると、庭に降りたって生け垣の傍にある柘榴の木の枝の下にやって来た。斎藤は、身を隠すようにして息を潜めた。一間先の距離で夫婦が会話をしている。

「もうすぐで食べ頃になう、沢山食くいもって元気になれ」

 微笑みながら柘榴の枝を見上げる妻に、優しく永井が話しかけた。永井の妻は、黒目がちの大きな瞳で、顔色こそ悪いが、器量がよく少女然としていた。歳は千鶴と変わらないだろう。永井に抱きかかえられて縁側に戻った永井の妻は、下女に薬罐にお湯を沸かすように頼んだ。

「旦那様に、お茶を煎れてさしあげたい」

 寝間着のままだが、きっちりと正座をしてお盆の上でお茶の準備を始めた。永井は、縁側に腰をかけて、そんな妻の様子を愛おしそうに見ていた。下女が持ってきた薬罐からお湯を急須に注いで、お茶を煎れた妻は、丁寧な作法でお茶を永井に差し出した。永井は、満足そうにお茶を呑んでいた。すると、妻が突然、咳こみ始めた。発作のように、苦しそうに床に手をついている。永井は、湯飲みを倒したまま妻を支えて抱きかかえると、奥の間に連れていった。

 下女が名前を呼ばれて廊下を走る音が聞こえた。その後、居間も庭もしーんと静まり返っていた。玄関から、下女が飛び出していった。小一時間経った頃だろうか、大通りから人力が入ってきた。二人乗りの人力には、洋装の男が一人、傍らには永井の家の下女が乗っていた。人力から降り立った男には見覚えがあった、早稲田欄疇らんちゅう医院の青山胤道たねみちだった。

 青山は足早に永井の家の玄関に入っていった。斎藤は、青山が永井の妻の主治医だった事に驚いた。青山は、松本良順が建てた西洋式医学病院の医師長で、松本が陸軍軍医総監になってからは、実質的に蘭鋳医院を切り盛りしている。松本良順同様、西洋医学の知識が豊富で、独逸に長く洋行していて、西洋式の医術を実践していた。おそらく陸軍本病院の松本からの紹介で、青山が主治医になったのか。東京に医者は星の数ほどいる中で、自分たちの良く知る青山と松本がこうして、偵察先の永井少佐の家族を診察している偶然を不思議に思いながら、斎藤は、じっと家の中の様子を伺っていた。

 青山医師は、一時間ほどで永井の妻の診察を終えて再び人力車で帰って行った。永井は、結局その日は終日在宅し、妻の看病をしていたようだった。斎藤は、そのまま日暮れになってから、鍛冶橋に行って報告をしてから帰宅した。



****

早稲田欄疇医院

 斎藤は翌日の日中に、早稲田の蘭疇医院に出向いた。病院は、早稲田穴八幡宮の向かいにある二階建ての西洋式建物で、緑の中に建つ真っ白な洋館は道の遠くからも非常に目立つていた。界隈は自然が豊かで静かな環境だった。青山医師に面会を申し出た斎藤は、そのまま診療室の中に青山が居るので入って行くように言われた。

 青山は洋装に白い上着を着ていた。斎藤は、挨拶を済ませると、今日は診察ではなく警視庁の調査のために来たと面会の目的を話した。青山は、愛くるしい顔をしていて随分と若々しく見えるが、顎髭を蓄えて居る分落ち着いて見えた。ずっと斎藤の話を聞いていた青山は、膝に手を置いたまま話を始めた。

「私が診ている患者について、警視庁に話をしなければならない」

 青山は、斎藤に訊ねられた事を確認した。斎藤は、「そうです、先生」と答えた。

「でも実際、あなた方が追われているのは、患者の夫である永井少佐なんですね」

 青山は、丁寧に確認を続けていく。斎藤は、そうだと答えた。

「藤田さん、警視庁が調査されている意向は解りました」

 青山は、一旦そう答えると。暫く考え込むような表情をした。机の方に身体を向けて椅子に座り、頭を抱えるような姿勢でじっと考えている。そして、ようやく考えがまとまった様子で、斎藤に向き直った。

「藤田さん、私が永井少佐の妻である【永井チカ】さんについて、その病状を貴方に教える事はできません」

「この国はまだ、法も整っていない。私は医者として患者の私的な事を、他人に教えることはできないのです」

 斎藤は、青山の云っている事が理解が出来なかった。政府によって設けられた警視庁は、御上である。その命令を一介の医師が拒む。法が整わぬ。一体、この医師は何が言いたいのであろう。

 斎藤は青山の意を解さないままであったが、青山は、穏やかな表情のまま話を続けた。

「警視庁は、永井少佐を追っておられるのであれば、私は、私が知る限りの【永井少佐】について貴方にお話をします」

 青山の誠実な表情に、斎藤は「お願いしたい」と頼んだ。青山は斎藤に頷くと、「では」と前置きを置いて話を始めた。

「私が永井少佐にお会いしたのは、先月初旬。陸軍大病院の松本先生から、診て貰いたい患者がいると云うことで、半蔵門に出向いた時です」

「患者は、永井少佐の奥方です。今年に入ってから、大病院に入院していました。隔離病棟です」

 斎藤は、【隔離病棟】と聞いて顔を上げた。

「永井少佐は、二年前まで北海道に駐屯されていて。主に樺太に居られた。勿論、奥方も同行して」

「樺太から戻られてから、奥方は具合が悪くなったと云って、大病院に入院した。担当は松本先生で、先生が自ら診られていた」

 青山は、暫く間をあけてから意を決したように話し始めた。

「端的に申し上げると、一向に病状は好転しない。非常に難しい病気です」

「松本先生から、私に外科的な手術が出来るか診て欲しいと連絡があったのが、七月の事です」

 青山は、真っ直ぐ斎藤の正面に座って、両膝に手を置いて話を続けた。

「私は、大病院に出向き診察をしました。手術は無理です。でも、もし経過をみるなら此処での入院を勧めました」

「ここは、新しい施設で、大病院より行き届いた治療ができます」

 青山は、ここで話を一旦止めた。斎藤に「藤田さん」と呼びかけ、自分が永井少佐にお会いしたのは、その話をするためでした、と話した。陸軍大病院は政府施設。軍人である永井少佐のご家族が利用されても、治療費、入院費はほぼ無償です。ですが、此処は違う。私設の病院です。治療費、入院費が嵩みます。

「永井少佐は、金に糸目はつけない。妻をよろしくお頼み申すと頭を下げられた」

「今月の頭に、一旦大病院を出られて、自宅に奥方は戻られた。此処へ転院する前に、ご自宅に戻りたいと患者本人が希望されたのです。わたしは、いつでも往診に出ることを条件に、松本先生から患者の退院許可を貰いました」

「此処に入院されることに?」

 斎藤が訊ねると、青山は頷いた。来週、隔離病棟の準備ができ次第入院してもらいます。そういう青山の【隔離病棟】という言葉が、また斎藤の心にひっかかる。昨日の、永井の妻の突然の発作。咳と昏倒。

 青山は、斎藤がずっと黙ったままでいるのを眺めていた。そして、机の上の前の棚から、書類が紐とじされたものを出した。

「すでに、永井少佐から現金で入院の内金を貰っている」

 青山は、書類を確認しながら話をした。斎藤は永井が軍給を前借りしたのは、蘭疇医院への支払いの為だと理解した。決して反乱の為の軍資金ではないのであろう。

「永井少佐は、良識的で。妻想いの立派な軍人とお見受けしています。私の印象と、私の知る限りの永井少佐は以上です」

 青山は、微笑んだまま話を終えた。斎藤は、黙っていた。どうしても【隔離病棟】という言葉がひっかかる。喉の手前まで、それを訊ねたいのをじっと堪えた。青山は、そんな斎藤をじっと見詰めると。

「私は、ここへの入院より国元へ戻って静養されることを永井少佐におすすめしています。鹿児島は気候も温暖だ。清涼な空気と静かな環境で療養されれば、きっと良くなる」

 青山は希望を物語るかのように力づよく話す。

「チカさんは労咳です。胸もそうだが、頸部。首に【るいれき】が出来ている」

 青山は、そのままの勢いで話を続けている。自分の首の耳から肩の部分を指して、説明を始めた。

【労咳】と聞いて、斎藤は衝撃を受けた。やはり、そうなのか。黙り続ける斎藤に、いつの間にか青山は、永井少佐の妻の細かな病状の説明を始めていた。

「蘭学では【ケレイル】と呼びます。数珠のように沢山連なって」

「手術で切り取ることが出来ない病です。切り取ると、【るいれき】の中の労咳の毒が全身に拡がる」

 青山は、首を振って残念そうな表情をした。施す手立てがないのか。斎藤は愕然とした。青山の話では、施設が新しい分、【るいれき】の痛みや、胸の苦しさを幾分軽減することが出来ると言う。それを永井は一番望んでいるようだった。

 斎藤は、よく解りましたと深々と頭を下げて、捜査に強力してくれた青山に礼を言った。青山は、「藤田さん、私は患者の秘密を守ることができなかった」と溜息をついていたが、精一杯治療には尽くす所存だと斎藤に語った。斎藤は、青山の目を見た。

 誠実で優しい眼差し。

 心から患者を想い、人命を救うことを志す強い意志。

 斎藤は、敬服した。

 そして、青山が望むように、永井少佐の妻の病状が良くなることを心から願った。



*****

何よりも

 斎藤は、早稲田に出向いた帰りにそのまま鍛冶橋へ戻り、川路大警視に蘭疇病院で聞いた話を報告した。

「細君の入院か…・・・」

 川路は腕を組んだまま、そう呟くと、「よう調べた」と斎藤を労った。そして、永井少佐の監視は、再び続行するようにと指示を出した。

「永井は国元へ送金しとる情報もある」

 髭を指で撫でながら、川路は考え込むような表情をした。斎藤は、日没まで永井の監視をすると云って、立ち上がった。川路は、永井が家にいるのを確かめたら、今日の任務は終えて帰宅するよう、斎藤に指示をした。斎藤は鍛冶橋を後にして青山に立ち寄ってから、日暮れ前に家に着いた。

 馬は移動が多くて疲れた様子だった。千鶴が、鞍と鐙を取り払い、汗を拭き取って、刷毛がけをして美味しい草を上げると、神夷は尾を揺らして喜んだ。着替えをした斎藤は、箪笥の上で箱座りをして居眠る総司を捕まえると、嫌がる総司の首を触診して、腫れ物や【るいれき】が出来ていないか調べた。総司は、思い切り抵抗して、斎藤の腕から逃れると、居間の端で尻尾を立てて構えた。

「一体、なに?」

 怒ったような顔で斎藤を睨む。斎藤は、「総司、具合は大丈夫か」と逆に訊ねた。総司は、「ふん」と鼻を鳴らして、怒ったように中庭に飛び出し、そのまま夜の闇の向こうに消えて行った。斎藤は、猫の総司が再び【労咳】にだけは罹ってほしくないと思った。絶対にならぬ。わかったな。総司。



***

 久しぶりに家族全員での夕餉の後に、親子三人で一緒に湯舟に浸かった。今日は、千鶴は子供を連れて、牛込まで歩いて【みるくすたんど】に行って来たと云う。

「坊やと絞りたての牛乳を呑んで。私は、そこに置いてある新聞を読んできました」

 千鶴は嬉しそうに話す。坊やは、口の周りに白い輪が出来て、「おいしいね」って云って飲んだんですよ。大きな牛を見て、牧草も譲って貰って帰って来ました。千鶴が話す傍で、子供が湯舟のお湯で遊んでいた。千鶴は、新聞の広告に出ていた【あんぱん】が美味しそうで、食べてみたいと思ったと笑っている。

「こんど、銀座に出てみます。甘くて、ふんわりと、いい香りがするそうです」

 ね、っと子供と言い合って笑っている千鶴を見て、斎藤は永井の妻を思い出した。目の前の千鶴は健やかで元気だ。極寒の斗南で、もし千鶴が大病を患っていたら。そんな事を想像した。そして、千鶴と子供がこうして壮健で、笑顔でいることが何よりも尊いことだと思った。

 決して外には見せぬが、斎藤の心の内に、監視対象である永井に対して、少なからず気の毒な想いが芽生えたのは、この九月の出来事が最初だった。

 その後、斎藤はずっと永井少佐の偵察を続けた。合同巡察も陸軍省への移動も特に斎藤は姿を隠す必要はなかった。警視庁の用向きが必ず用意されていて、丸の内、市ヶ谷、竹橋の近衛隊の駐屯所にも出入りが自由に出来た。永井少佐は夕方早くに軍務を終えて、早稲田の欄疇医院へ妻の面会に行く。永井少佐が出向かない時は、代理で部下の歩兵が病院へ行っていた。

 一度、歩兵が剣術指南の後、着替え場で話をしているのを聞く機会があった。

「奥様は、先生が【ぱっち】をお召しにならんと怒っていなさる」

「おいが、先生に履いてくださいと頼みう」

「よか、おいが話す」

 どうも、【ぱっち】とは股引のことを云っているようだった。永井少佐の妻は、少佐が股引を履かずに居ることを気に病んでいるらしく、「旦那様がお風邪をひいてしまわれる」と病院に面会に行く度に部下達は念を押されると話していた。

 夫の身を案じている少佐の妻の様子が思い浮かぶ。

 己の事よりも、なによりも少佐の身体が気になるのだろう。

 斎藤は、目の前の若い部下たちが少佐を先生と呼んで慕う姿を良く目にした。歳は、二十歳前後。自分の部下と同じぐらいだ。この二人も剣術の稽古には熱心で剣筋もよい。二人とも上背はないが、体躯はしっかりとして、よく鍛錬されていた。

 永井少佐が自宅に遅く帰ると、早くに病院の面会から戻っていた部下は入れ替わるように、外に出掛けて行った。この二人の出向く先は、銀座。ずっと大通りをぶらぶらと歩き、飲み屋に入って麦酒を飲んで帰る。特に陸軍の歩兵仲間や他の者と接触する様子はなかった。二人の夜の活動は、純粋に出歩くだけが目的であやしい様子はない。斎藤は偵察したとおり、その事を大警視川路に報告した。



****

永井少佐の部下

 九月の下旬、もう朝晩は冷えるようになってきた。

 斎藤は夜行巡察を終えて、家路に着いた。二人乗りの馬車を虎ノ門から拾って家路に向かった。時刻は夜中をとっくに過ぎていた。水道橋を渡る時に、ふと橋のたもとに人が転がっているのが見えた。そのまま馬車は通り過ぎようとしたが、斎藤は御者に車を停めさせると、車を降りてカンテラを借りた。橋のたもとに戻ると、そこに人が二人折り重なるようになって倒れていた。

 斎藤が近づいて照らすと、黒い洋装の男が二人、帽子を被っている。制服? 斎藤は、男達の着ている制服に見覚えがあった。自分と全く同じもので、腰のベルトまでそっくりだった。斎藤は、上に重なった男の肩を持って仰向けにさせた。顔を見ると、部下の天野邦保巡査だった。身体は体温があって、息もしている。だが、おそろしく酒臭い。そして、その下に身体を横にしてうずくまっていたのは、津島巡査だった。

「おい、目を覚ませ。なにゆえ、こんな所で眠りこけている」

 斎藤は、二人を揺り起こした。だが、二人とも完全に正体をなくしている。酷い泥酔状態。まったく起きる様子がない二人を、御者に頼んで一緒に抱えて馬車に運んだ。三人を載せた馬車は、進む早さも遅く、斎藤は仕方なく部下を連れたまま診療所に向かった。酔った二人を玄関に運ぶと、斎藤は御者に手間賃を渡して帰らせた。

 幸いなことに千鶴がまだ起きていた。二人で、部下を診療所の奥の間に運んで布団に寝かせた。千鶴は、制服にお酒が溢れているみたいです、と云って。部下から脱がした制服を風呂場に持っていって、洗濯を始めた。斎藤は、千鶴に悪いと思ったが、自分も睡魔に勝てず、先に布団に横になった。

 翌朝、千鶴は既に早くから起きて斎藤達の朝餉の準備をしていた。制服も半乾きだけれど、火熨斗をかければ十分に乾くと云って笑っている。斎藤は、まだ診療所の二人が朝寝をしていると知ると、鋭い表情で診療所の廊下に向かった。

「いつまで、眠っている」

「そこに直れ」

 斎藤が大声で部下を叱る声が聞こえた。それまで、居間で総司とじゃれあっていた子供の動きが止まった。それから総司と坊やはそっと診療所の廊下の様子を見に行った。その瞬間、斎藤の恫喝する声が響いてきた。

「なにを考えておる!!」

 びりびりっと雷で撃たれたかのように、坊やの全身が震えた。その隣で総司も耳がぺたんと後ろに倒れた。猫と子供は直立不動になって廊下に立っていた。

「夕べ水道橋のたもとで、お前達は倒れていた。俺が通りかからなければ道ばたで野垂れ死んでいたぞ」

「制服で腰に刀を指す者が、あのような無様な姿でいることが、俺は信じられぬ」

「一体、どういうことだ。なにゆえあの様な時間に、あの場所で倒れるような事になった」

 斎藤が、ここまで声を荒げるのは珍しい。余程、頭に来ているのだろう。千鶴は、部下達の様子が気になったが、診療所から斎藤の大声が止んだ様子だったので、そのまま朝餉の支度を続けた。



****

 天野達は、下着姿で二日酔いの酒臭い息のまま。肩を落とし、昨日の夜の話を始めた。

「ゆんべは、署を出た後に二人で飲みに出たんです。銀座の【びあほーる】に寄って麦酒を飲んで」

 天野が説明をする隣で、津島が俯きがちに頷いている。

「そうしたら、同じ店に陸軍の奴らが居て。俺と津島に因縁をふっかけて来るもんで」

「私たちは、無視しましたよ。相手は酔ってましたしね」

 天野はそう言って、真剣な顔で斎藤を見上げた。

「ですが、『兵部は警視庁の巡査ごとき、片手で足りもす』って、私の肩を突くもんですから」

「私もね、頭にきまして」

 斎藤は、その様子が目に浮かぶようだった。天野は本所育ちで、喧嘩っ早い。江戸者は、何故か解らぬが異郷の言葉のなまりが頭にくるらしく、言葉を解さぬ怒りは、直ぐに殴る蹴るの喧嘩に繋がる。火事と喧嘩は江戸の華というが、明治の世になってもそれは変わっていない。

「それでも、わたしは堪えました」

 きっぱりと天野はそう言って。「堪えました。主任」そう繰り返して、そのまま口を一文字に結んだ。隣の津島が、「喧嘩はしません。私たちは制服も着て、帯刀もしていた」と話を始めた。

「兵部第一部隊の【相良】と【宮崎】が兵部の奴らを止めて。その場は収まったと思っていたら、向こうの大将が麦酒の店で会うたんじゃ、酒で勝負だと云って」

 正座の膝の上で拳を握りしめて話す津島に、斎藤はそのまま黙って話を続けさせた。

「麦酒の樽を飲み干した方が勝ちという事になって……」

「どこまで、飲めたのかも解らぬまま、互いに酔っ払ったままで。店も終うから勝負はお預けだと」

 斎藤は、夜中まで歩兵たちと樽を空けるほど飲んだ二人がその後、途中までは陸軍の者と一緒に陸軍省まで戻ったのは覚えていると話すのを聞いた。互いに罵倒しながらも、殴り合いまでにはならず、陸軍兵部第一部隊の【相良と宮崎】に先導されて、道を前には進めたらしい。

 斎藤は、大体の事情は解ったと話を止めた。陸軍の歩兵と警視庁の巡査の折り合いは、相変わらず悪いまま。それは、合同巡察の部隊によってまちまちだが、天野達の喧嘩の仲裁に入った【相良と宮崎】は永井少佐の側近の部下で、永井の家に下宿している歩兵だった。

 喧嘩の代わりに酒で勝負か。

 薩摩の連中らしい。

 斎藤はそう思った。永井の部下も余程の酒豪なのだろう。陸軍歩兵と巡査が街中で乱闘など、もってのほかだ。日頃から折り合いの悪い若い連中が、街中で騒ぎを起こすぐらいなら、酒飲み勝負で決着をつけた方が良いと判断してのことだろう。だが、どうだ。二人は、制服を着たまま、橋の上で昏倒していた。あのまま馬車に轢き殺されていたかもしれない。悪党に腰に差している刀を抜かれて、刺される場合もある。斎藤は、自分が二人を見つけたから良かったと、溜息をついて一言そう言うと。朝の支度をしろと二人に命じた。

 千鶴は、しゅんとしている二人を心配そうに見詰めると、「七分がゆだから、食べられるだけ食べてください」と云って給仕を始めた。二日酔いの二人には、千鶴が差し出す、冷たい水、梅干しや柔らかい青菜のお浸しが有り難くて仕方がなかった。

 千鶴は最後に、黒い丸薬を二粒ずつ飲むように云って、湯飲みを用意した。

「黒丸です。日本橋の薬問屋で、二日酔いに効くお薬だって」

 部下の二人は言われるままにそれを飲むと、千鶴が火熨斗をかけた制服を着て、斎藤と一緒に出勤して行った。斎藤は、半蔵門で部下と分かれて、そのまま青山練兵所へ向かった。道場の稽古に、件の【相良と宮崎】が来ていた。二人ともいつもと変わらず。酒に酔いつぶれた天野と津島とは対照的で、普段より一層切れの良い動きを見せた。稽古をつけながら、喧嘩の仲裁をした目の前の歩兵二人に、斎藤は心の中で静かに礼を伝えた。




つづく

→次話 明暁に向かいて その19




(2018.07.10)

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