
果し合い
明暁に向かいて その21
明治八年十一月
青山練兵所の稽古場に斎藤が出向くと、先に永井少佐が道場に来ていた。
少佐は道場の真ん中で正座をして瞑目している。その後ろに部下の相良と宮崎も正座していた。斎藤は、静かに木刀を持ったまま壁の前に立って待った。
永井少佐は精神統一が済んだのか、眼を開けるとそのまま真っ直ぐに斎藤を見詰めた。僅かに顎を下に下げたのを見た斎藤は、時分も同じように合図を送った。
わかった、受けてたとう。
斎藤は、一歩前へ踏みだし、仕合場の位置へ向かった。永井少佐も立ち上がり位置についた。部下は、審判をするべく二人の間に入って立って待った。
普段の稽古は、この後に始まる。まだ他の歩兵は誰も道場に現れてはいない。三本勝負。仕合う時間は十分にあった。斎藤は、いつもの如く落ち着いていた。
一礼の後、相良の「始め」の声で、勝負が始まった。
互いに青眼の構えで睨み合う。二人は互いに一言も発せず、こうして仕合を始めた。永井少佐は元より斎藤と言葉を交わすことは滅多になかった。少佐は部下の前でも、指示や命令は片言で、無駄口は一切きかない。斎藤は、毎回練兵所には早くに出向いて着替えをして稽古場で歩兵が現れるのを待つ。独りで素振りをして身体を温めておくためだ。歩兵達は決められた時間に遅れることなく集まり、自主的に素振りを始める。その頃に永井少佐も現れるのが常だ。春からもう半年以上経って、斎藤の稽古は練兵所にしっかりと浸透していた。だが今朝は少佐は斎藤を待ち構えていた。部下二人とともに。
最初に撃ってでたのは斎藤だった。
青眼からそのまま突きを入れる。永井少佐は、構えたまま素早く下がった。そして、そのまま二人で睨み合う。次の手。互いに譲り合うことはない。真剣勝負だ。
永井は、踏み込むと同時に八相の構えで迫ってきた。斎藤は、相手の右の脇腹を狙うために身体を低くした。
がら空きだ。
そう思って下段から前に進もうとすると斎藤の右肩に向けて相手が突きを放った。
どちらを向いている。
一瞬そう思った時、既に遅かった。相手は、斎藤の目の前で真正面から再び鋭い突きを放った。
「突き有り」
斎藤は、相手の陰の攻撃を躱せなかった。決して早い動きではないのに、目の前から一瞬相手の木刀が消えたと思った。例の秘術。眼くらませのように、永井少佐の身体の向きが捉えられなくなる。斎藤は、中庭での浚いを思い出した。
「がら空き」に見えたでしょ。
心に声が聞こえる。総司の声だ。耳元に総司が鼻を鳴らす息がした気がした。斎藤は、微笑んだ。不思議と落ち着く。永井少佐は、じっと青眼で睨んでいる。その気迫は、いままでの手合わせでは感じた事がなかった。
左様ならば。
今更ながら、斎藤は心の中で決心した。真剣勝負なら、受けて立とう。いままで幾度となく、挑み、挑まれを繰り返してきたが、木刀というだけで【果たし合い】であることに変わりはない。
果たし合い。
斎藤にとって、これは人生で二回目の経験だった。一度目は、まだうんと若い頃。瓦解前に江戸で果たし合いをした。相手は旗本の嫡男。真剣で人を殺めたのはあれが人生で初めての経験だった。決して忘れることはない。相手にはたった独りで挑んだ。
だが今は違う。そうであろう、総司。
斎藤の心の中の声は、総司に語りかける。
なに、助太刀がいるの?
総司の皮肉な笑い顔が浮かぶ。ああ、と応える斎藤の背後に総司が立っている気がした。
その瞬間、相手が撃って出てきた。青眼から鋭い突きを放つ。正面から斎藤の眉間を真っ直ぐに突くように、連続して剣先が迫る。斎藤は、左右に躱した。低い構えで相手の脇腹に入る。だが逆だ。相手に動きが読まれている。斎藤は、脇構えにして思い切り木刀を引きながら、反対側から相手の足を狙って撃った。
少佐は逃げきれなかった。打突が低すぎる。少佐はそのまま体勢を崩して膝をついた。斎藤は、すかさず上段から面をとった。
「面有り」
もう剣術の仕合いではない。喧嘩だ。そう斎藤は思った。どんな手を使ってでも勝たなければならぬ。秘剣も秘術もない。
戦とおなじ
そう思いながら、位置についた。再び青眼に構えた。永井少佐の息が上がっているのがわかった。力いっぱいの打ち合い。斎藤は、自分の利き腕側に思い切り引いた構えを取った。
陽の構え。
相手からは背後にまわった木刀は見えず。斎藤の右足と右肩が完全に防御のない型のまま。喧嘩では一番不利であろう。だが斎藤はそのまま待った。
永井が再び、一歩踏み込み撃って出た。思い切り振りかぶり上段から面を取ろうとした瞬間、斎藤は、左足を内側から相手と交差するように左側に踏み込むと、そのまま左から笠懸けに相手にぶつかっていった。
「胴あり」
永井の腰から反対側の脇にかけて強い衝撃を与えた斎藤は、そのまま流れるようにすり抜けた。「斬った」と思った。真剣ならば、そうだ。
「勝負あり」
宮崎が斎藤に手を上げて、勝負の結果を報せると。永井少佐と斎藤は離れて、互いに位置に戻って一礼した。
永井少佐は、深く頭をさげたままなかなか頭を上げない。最敬礼。肩で息をしながら。斎藤はじっと立って待った。頭を上げた永井は一瞬微かに微笑んだように見えた。そして再び、永井少佐は深く頭を下げた。
「ありがとうございもした」
よく響く声で、そう礼を云うと、永井は場を離れた。永井の部下二人も声を揃えて、
「藤田先生、ありがとうございもした」と深く頭を下げていた。
廊下から歩兵達が次々に道場に入って来た。来た者から素振りを始め、全員が揃うと、それぞれの組に分かれて打ち合いを始めた。暫くの後、永井少佐も戻って、担当の組の指南をしていた。
斎藤の組が一通り手合わせが終わった頃、道場の出口から永井少佐が部下二人を連れて出て行くのが見えた。木刀を持ったまま着替え場に向かった三人は、稽古を終えた様子だった。斎藤は、もう一人の指南掛を呼ぶと、手合わせをもう一度各自済ませてから稽古を終えるように頼んだ。斎藤は着替え場に走った。
そこに永井少佐と部下の姿はなかった。
既に制服も荷物もなく、三人は稽古場から出てどこかに移動していた。しまったと斎藤は思った。慌てて自分の制服と刀を持つと、建屋の外に出た。
馬車置き場で、永井少佐と部下の二人が馬車に乗り込む姿が見えた。真っ白な陸軍の礼服を来ている。大礼服。今日は、特に陸軍の式典などはない筈だ。何用であのような格好をしている。斎藤は妙な胸騒ぎがした。そのまま馬車置き場の建屋の横に駐めていた神夷の元へ走った。
「主任、お疲れ様です」
斎藤の姿をみた天野が声を掛けてきた。天野は、今日は騎馬巡察への付き添い訓練の日だった。天野が借り受けているのは、栗毛の駿馬。斎藤の剣術指南の間に、天野は虎ノ門から移動して待機していた。道着姿の斎藤が急いだ様子で馬に跨がるのを見て驚いた天野は、「いくぞ天野、ついて来い」と斎藤に云われて、慌てて自分も馬に跨がった。
斎藤は門を出た途端、馬の腹を蹴って駆けだした。天野は焦った。
「主任、お待ちになってください」
必死で、斎藤がやったように馬の脇腹を蹴ったが、並足からなかなか駆け出さない。
「おい、頼むから。行っとくれ!!」
なんとか手綱で合図を送って、ようやく馬は早く進み始めた。
****
内務省太政官代
斎藤は、道の先を行く陸軍の馬車を追っていた。赤坂見附を過ぎお堀端の御門を越え、永田町横丁通りをずっと進む。のんびりと進む馬車の後を並足で進む斎藤に、ようやく天野が追いついた。行き先はおそらく陸軍大病院か。
「陸軍の馬車を追っている。行き先は半蔵門かもしれん」
斎藤が、天野に振り返ってそう伝えた。馬車は、しかし皇城のお堀に着くと、半蔵門側には行かずに、反対の桜田門に向かった。 斎藤は、そのまま馬車の後を進んだ。丸の内か。馬車は広い道に出ると速度を早めた。大礼服で向かう先、この先ならば内務省太政官代。斎藤は抜き差しならぬ事態になる気がした。前の馬車を睨むような表情で馬を走らせていると、天野が馬を必死につけて追い掛けて来る。
馬車は日比谷御門の前を堀沿いに左へ旋回して、八代州河岸を北へ走って行く。やはり、内務省か。斎藤は思った。大手御門を過ぎたところで、斎藤は隣に馬をつけた天野に指示を出した。
「天野、鍛冶橋に伝令を頼みたい」
「内務省太政官代に永井少佐が正装で向かったと。川路さんに伝えろ」
天野は、頷きながら「はい、川路さんって、あの川路さんで?」と聞き返した。
「ああ、大警視閣下だ」
斎藤がそう言うと、「はっ、」と天野は返事をした。
「鍛冶橋の門衛に、『大一小二区の藤田巡査の伝令を大警視に』といえば通る。行け」
えっ、行けって。天野は一瞬そう思った。斎藤は、「急げ」と声を掛けてくる。「頼んだぞ」と云うと、手綱を打って斎藤は早駆けを始め、あっという間に遠くに行ってしまった。
あれー、主任。
天野は呆気にとられていた。馬の手綱を引いて一旦止まると、よいしょと反対方向に馬首を向くように指示した。馬の鼻息は荒く、不機嫌な様子で仕方なさそうに方向転換した。
「よしと。お前さんにしちゃ不本意だろうが、事は急ぎだ。走っとくれ」
天野は、何度も脇腹を蹴って頼み込んだ。馬は、不機嫌な溜息を吐いたが、何度目かの手綱の合図でようやく走り出した。天野はまだ、全速力で馬を走らせたことがない。軽早足がやっとだ。それでも、人間が走るよりは早かった。尻が擦れて痛いが、仕方あるめえ。天野は必死だった。
なんとか鍛冶橋に辿りついた。警視庁本庁建屋。門番に藤田巡査の伝令をと伝えると。そのまま大警視の部屋に通された。天野は緊張して、背中に嫌な汗が一気に吹き出た。目の前に大警視が立っている。
鯰おやじ。
天野が川路大警視につけたあだ名。本庁の朝礼で遠目に見る川路は、いつも薄いカイザル髭をたくわえ、後ろに手を組んでふんぞりかえって立つ。その姿が鯰を思わせるからだ。大警視に倣ってか、警視庁の警部から巡査に至るまで、みな髭を伸ばすものが多い。【鯰ひげ】は警察官の制服のようなもので、髭をたくわえれば多少人間は偉くなるものなのか、姿で相手を制圧するような態度を皆が見せていた。
一度、天野は斎藤に訊ねたことがあった。
主任はどうして、髭をお蓄えにならないんです?
斎藤は黙ったまま微笑んでいた。応えるにも値しない質問だったからだろうか。それでも、天野はしつこく訊ねた。
「お生やしになられては如何でしょう?主任はお若くみられる。鯰髭でも生やせば、年相応にお見えになると思いますが」
苦言ともとれる物言いに、斎藤は黙ったまま微笑むと。
「妻が嫌がる」と一言だけ応えた。
そうか、奥さんが髭をお嫌いなのかと天野は思った。それなら仕方がない。それ以上天野は斎藤に髭を生やすことをすすめなかった。そんな事を一瞬の内に思い出していると、川路大警視は天野を見ながら右手で髭の先を撫でていた。
「大警視閣下に藤田巡査より伝令がございます」
天野は直立不動で、斎藤の伝言を伝えた。川路は頷きながら聞くと、「伝令ご苦労」とだけ応えた。下がって良いと言われた天野は敬礼をしてから川路の部屋を出た。廊下を歩きながら、背中の冷や汗で制服がぐっしょり濡れているのを感じた。馬に跨がり、取り合えず門を出た。また大手町に行こうか、虎ノ門に戻ろうか。こんな事なら、主任に指示を仰いでおくべきだった。川路大警視閣下からは何も言われなかった。
大警視閣下
何を考えてるのかわからねえ……。
あの鯰おやじ
川路との対面を反芻しながら、天野は馬を歩かせていたが、やはり大手町の斎藤の元に戻ろうと決心した。そして、馬に頼み込んで脇腹を蹴ると、なんとか早足が出来た。尻の皮がめくれそうだが仕方あるめえ。主任、待ってておくんなせえ。そう願いながら、ひたすら手綱にしがみついて道を急いだ。
****
斎藤が太政官代の門に入っていった永井少佐の乗った馬車を追って門をくぐろうとすると、門衛に留められた。懐から警察手帳を出して、陸軍の馬車を追って来たと伝えると、門内から数名の衛兵が出てきて斎藤に馬から下りるように命じた。
斎藤は、陸軍の兵部少佐が太政官に用向きがあると面会を求め、内務卿に危害を加える可能性が在ることを手短に伝えると、事情を呑み込んだ衛兵が斎藤を連れて太政官部屋に案内致すと応えた。斎藤は神夷を門近くの停留場へ繋いで貰うように門衛に頼んで、急いで憲兵について行った。
内務卿部屋には既に永井少佐とその部下が通されているという。憲兵は、その部屋の扉口で斎藤に小さな声で耳打ちをした。
「中に内務卿の護衛が二名常駐しています。ここで我々は待機。今のところ異変はない」
斎藤は頷いた。部屋の中は静かで、扉に耳をつけると中で会話がするのが薄らと聞こえた。
緊迫した様子で衛兵が部屋の中を伺っていた。部屋の中からは、「大久保先生」と呼びかける永井少佐のよく響く声が聞こえた。
「おいの意志は変わりもはん。こん嘆願書を参議ご一同にお目通し願いもす」
嘆願書。
斎藤は永井少佐が陸軍省か内務卿へ申し立てをした事を知った。謀反の前の警告か。ここで事を起こす気やもしれん。斎藤は、腰の刀に手をかけてじっと待機した。隣の衛兵もサーベルに手をかけている。いざとなれば、部屋の扉を叩き壊してでも中に入って、内務卿閣下をお護りする。もうひとりの衛兵にも、囁くように指示をしているのが聞こえた。
部屋の中は静かだった。もう一人の男の声が聞こえた。よく響く低音。内務卿閣下の声か。「これはお預かりいたす」そうはっきり聞こえた。直後に、永井少佐が礼をいう声が聞こえた。部下二人が声をそろえて「ありがとうございもす」という大きな声も聞こえた。斎藤達は、廊下の影に移動して身を隠した。
部屋の扉が開くと、「失礼いたします」と深く頭を下げて永井少佐達が出てきた。太政官の護衛がその後ろについて、そのまま廊下を歩いて行くのが見えた。永井達が去った後の内務卿の部屋は静かで、衛兵が中に入って、内務卿閣下の無事を確かめると、斎藤に異変はなしと伝えた。斎藤は、そのまま衛兵と再び門に向かった。ちょうど天野が馬と共に戻って門の外で馬から下りたところだった。まだ陸軍の馬車は門内に待機したままだった。永井少佐は事務方に立ち寄っていると衛兵から報告があった。斎藤は、門の影で待機したいと門番に許可をとって、天野と一緒に馬を連れて、門衛控えの建屋の影に隠れた。
「鍛冶橋への伝令は終えました」
「相解った。ご苦労だった」
天野は斎藤の様子を見ながら、まだ事が続いているのだと察知した。斎藤は、建屋の影でおもむろに道着を制服に着替え始めた。剣術の稽古の途中で、永井少佐が練兵所を出たのを追い掛けてきたと手短に説明があった。斎藤は道着を袋に詰めると、馬の鞍に結びつけた。それから制帽を被り、手袋をつけた。
「永井少佐とその側近二名を尾行する」
斎藤は天野に静かに伝えた。再び永井少佐達を乗せた馬車が門を出て行くのを確かめると、斎藤と天野は馬を走らせて追い掛けた。永井達は市ヶ谷の陸軍省に向かった。馬車を下りた三人は、本部建屋にそのまま直行した。永井少佐が「辞職願を提出しに参った」と大きな声で、事務方に伝えているのを斎藤と天野は廊下の影で聞いた。そのまま永井達は、兵部本部の部屋に通されて暫く出てこなかった。
嘆願書を太政官に提出後、兵部を辞職。
この後はなんだ。
斎藤は天野と廊下に待機しながら考えた。謀反を起こすにしては唐突過ぎる気がした。動いているのは、永井少佐を含めてたったの三名。部下の相良と宮崎。三人で何をする気だ……。斎藤には永井がこの場で反乱を起こすとしたら、陸軍卿を楯に内務省への嘆願を訴える。卿を殺めて自刃するやもと思った。
このまま踏み込むか、
様子をみるか。
鍛冶橋の指示を待つか。
いや、鍛冶橋は指示をしないだろう。
このような事態でも、川路さんは動く様子を見せない。でなければ、天野が伝令に行った時点で何かしらの指示が在るはずだ。
斎藤は緊迫した空気を感じながらも、気持ちは落ち着いていた。
泳がせる。
この機でも、泳がせるつもりか。
いつも事を決めると、性急に事を進める川路が何の動きも見せない。斎藤は、しっかりと永井少佐の動向を見据えて報告することに集中しようと決めた。
「今まで、大変お世話になりもした」
部屋の中から永井少佐の声が聞こえた。直後に扉が開き、永井少佐と側近二名が最敬礼で挨拶をして部屋を下がるのが見えた。三人は、そのまま足早に馬車へ向かうとそのまま馬車に乗り込み、市ヶ谷を後にした。斎藤と天野は後を追った。天野は、斎藤に指南されながら「早足」から「早駆け」をするようになった。
「けつの皮が擦り切れます」
斎藤の背後から天野の叫ぶ声が聞こえた。斎藤は笑顔になりながら馬を走らせた。永井たちを乗せた馬車は、青山練兵所に向かった。馬車を下りた一行は、そのまま練兵所の門衛に挨拶をして徒歩で去っていった。三人とも礼服のまま、ゆっくりと青山の永井少佐の家に向かった。斎藤と天野は、そっと後を徒歩で尾行した。
永井少佐の家では、ぱたぱたと動き回るいつもの下女の姿が見えた。昼餉の準備をしているらしく、勝手口から炊事をする音が聞こえていた。もう午を過ぎていた。
その日は暖かい小春日和で、縁側から母屋の居間の様子を伺うことができた。永井達は、着替えて食事を終えた後、大掃除を始めた。居間に大きな行李が沢山ならんでいるのが見えた。
荷造り。家を引き払うのか。
斎藤は、陸軍を辞職した永井達がどこへ移動する準備をしているのかを確かめようと思った。その時、隣に立っている天野の腹の虫が思い切り音を立てるのが聞こえた。
「すみません。主任。もう腹が減って限界です」
そう呟く天野に斎藤は声をかけた。
「この近くに良い丼ものを出す店がある。うまい親子丼が食える」
斎藤はそう言って、ゆっくりと通りに向かって歩き出した。「飯のあとに、馬を引き取って署に戻る」そう話す斎藤に、天野は、「私、是非大盛りで」と喜び走り始めた。
主任、親子丼はこちらでございますか?
通りを指さしながら笑う天野を斎藤も追い掛けた。
*****
その日の夕方斎藤は鍛冶橋へ報告に向かった。川路は斎藤に「ようやった」と一日の働きを労った。川路が自分の部下を内務省へ送った時、既に永井少佐と側近は市ヶ谷に向かっていた。その後、太政官の大久保内務卿閣下から川路に報せがきた。永井少佐が内務卿へ差し出したものは、ロシアへの樺太譲渡契約の取下げ嘆願書だった。
永井少佐は、職を辞して訴えた。
川路はこれからも三人の動向を監視するようにと斎藤に指示した。
斎藤は、青山の自宅を引き払う準備をしている永井達を監視した。永井が陸軍省に辞職願を提出してから五日後に、永井は妻と一緒に鹿児島行きの船に乗って芝から旅立った。下女と宮崎も一緒に付き添う姿を確かめた。独り残った部下の相良は、青山の家の片付けをしていた。そこに門の前に人力が一台走って来た。斎藤は驚いた。人力には川路大警視が乗っていたからだ。
川路は、斎藤が自分を見ているのに気づいているのか、一瞬生け垣の外を一瞥したように見えた。そして、門の中に入ると、「御免」と大きい声で中に呼びかけた。
ちょうど中庭でくず物の整理をしていた相良は、「川路先生」と呼びかけてその突然の訪問に驚きの声をあげていた。
川路は、腰の刀をとって縁側に腰かけた。
相良は盆に載せた茶を運ぶと恭しく川路に差し出した。
「喜一郎、おはんは戻って、なにをすうつもりだ?」
湯飲みを口に運びながら、川路は優しく相良に話しかけた。
「おいは、戻ったら。皆房村のほうの開墾を致しもす」
「村の境は、土地が荒れて。あそこをなんとかせんもはん」
相良と川路が親しげに話す様子を斎藤は見ていた。薩摩者同士、互いをよく知っている様子だった。
川路は、相良に東京に残って警視庁に入るように勧めた。相良は有り難いが、国に帰って考えたいと答えた。川路は、「そうか、そうか」と頷くと、故郷の直実どんに、よろしゅっつゆっごと」と笑って、
そうしたら、元気でな。気をつけて帰れ。
川路は、腰をあげて縁側から去った。川路の背中に向かって、「先生、ありがとうございもした」と相良は深く頭を下げた。川路が去った後も、ずっと暫く相良は頭を下げ続けていた。
******
それから、一週間の後、相良は青山の家を完全に引き払い、鹿児島行きの船に乗って東京を旅立った。
斎藤は、鍛冶橋に出向き監視の内容を伝えた。川路は、ご苦労だったと一言応えた。
「相良喜一郎は、わしと同郷。あれの親父とわしの弟は、同じ剣術道場に通うとった。真影流だ。喜一郎はこげん小さい時分からよう知っとう」
「あれも身分の低か家のもんで、剣術で身を立てるいうて頑張っとった。じゃっどん志半ばに戻ってしもた」
川路は残念そうな表情でそう言うと、一度執務席に戻って書類を持って斎藤の前の席に戻った。書類に眼を通した川路は太政官からの報せが届いたという。
近く、太政官で廃刀令施行の建議が出る。
「軍人、警察官吏以外の帯刀は禁止になる」
「わしらも制服を脱いだら、刀を腰に差せんようになるこつ。ちっくと不便になっど」
斎藤は黙って川路の説明を聞いていた。
「不満か? そう顔に書いてある」黙っている斎藤の顔を見て、川路は笑った。
「刀は武士の魂じゃっで、不満を持つ者も多い。身分統制とゆうてうが、魂を奪われた士分がこのまま黙っとうとは思わん」
「陸軍の中に反乱分子がおるか引き続き監視を続けて貰いたい」
川路の指示は、いままで通り、陸軍に出向き剣術指南を続けながら兵部に所属する歩兵や上役の動向を探るというものだった。
斎藤は承知と答えた。
***
鍛冶橋から直接帰宅した斎藤は、そのまま家で休んだ。夜行巡察も休みで、久しぶりにゆっくり過ごせた。千鶴に【廃刀令】の建議がでることを教えると、驚いていた。
「それでは、家にある刀や、薙刀もお取り上げでしょうか」
千鶴が心配そうに訊ねた。
「いや、刀は持ち歩く分には大丈夫だろう。腰に差して歩けぬだけだ」
千鶴は、「まあ」と驚きの声をあげている。
「俺も、制服を脱いだら腰には差せぬ。手に持って歩くことになろう」
斎藤は、考え込んでいた。
「それでしたら、袋に入れて肩から下げるのはいかがでしょう?」
「昔、越後高田にはじめさんがいらした間。私は、【池田】さんと【無銘】さんを刀袋に入れて持ち歩きましたから」
そう言って、奥の間の押し入れの中の行李から刀袋を取り出した。それは、袋の一部が立派な緞子で出来たもので、千鶴が先の戦の後に会津の妙国寺での謹慎中に縫って作ったものだった。緞子の生地は、元々、会津城内の御堂の須弥壇に敷く為に、遠い天竺から伝わった古い布地で、千鶴はその模様が、斎藤の愛刀【池田鬼神丸国重】の鍔の形と全く一緒だと気がついたと云う。
城の中から持てるものを妙国寺に持ってきた時に、その緞子の端切れを従女の一人が持ち出していた。千鶴が、照姫様と札詠遊びをした時に、その端切れを褒美に賜った。千鶴は、その緞子の生地を使って、斎藤の愛刀を仕舞う刀袋を縫った。そして、その後もずっと大事にその袋に刀を仕舞って、越後高田の斎藤の元に持ち寄った。
千鶴は、取り出した刀袋を斎藤に見せた。斎藤は、刀袋が変わりなく保管されていたことを喜んで、千鶴に礼をいった。もう一つの、脇差し【無銘】の袋も眺めながら、己の大切な刀をずっと持ってこれた事を喜んだ。
【廃刀令】は第二のご維新だ。
そう云っていた川路を思い出した。斎藤は、新しい世の中の新しい変化を思った。
刀を腰に差せなくなる日が来るとは……。
武士の魂
斎藤は、それが新しい世に否定されるのは残念だと思った。
つづく
→次話 明暁に向かいて その22へ
(2018.09.10)