望むところ
明暁に向かいて その23
明治九年三月
年明けからずっと続いた寒さがようやく緩んで来た。
千鶴は斎藤の出勤を通りまで見送ったあと、玄関に戻って門に掲げてある表札を見上げた。
【藤田五郎】
少し古くなった表札の隣に真新しい【雪村】の表札
そしてその隣に大きな雪村診療所の表札が掛かっていた。
今月になって政府から、妻の氏は【所生ノ氏】を用いるように指令がでた。千鶴は、斎藤と斗南で祝言を挙げて以来「藤田」の姓を名乗って来たが、ここに来て「雪村」の姓を表札に掲げるようになった。
雪村診療所は千鶴の所生の家。ここに雪村の表札が在ることに違和感はないが、藤田五郎の妻として藤田姓に慣れてしまった今は、雪村の姓を用いるのは不慣れな感じがした。
姓が変わるというのは不思議な気がする。夫である藤田五郎も、元は山口が出生の姓。だが、千鶴が初めて斎藤に出会った時、【斎藤一】が夫の名だった。斎藤は新選組の任務の為に、【山口二郎】と名乗っていた時期もあった。だが千鶴は、京の屯所時代から斗南に移るまで、ずっと「斎藤さん」と呼び続けた。夫の下の名を呼び始めたのは、祝言のあと。以来ずっと「はじめさん」と呼び続けている。五郎は表向きの名前。呼び方を変える気はなかった。隣に住むお夏も同じだった。今更何年も夫の姓を名乗ってたのに変えるなんて面倒だと言っている。ご近所の「春告鳥」の皆んなも、今迄通り変わらずだと笑っていた。
そんなある日、斎藤が夕餉の後、「恩給の届け出を出さねばならん」といって書き付けを持ってきた。
以下提出ノ事
戸籍調書
婚姻証明書
書付には証明書を提出することで斎藤が退官後に警視庁を通して太政官から恩給が下りるとあった。斎藤は硯と筆を千鶴に持ってこさせると、戸籍調書に記入を始めた。千鶴は子供が邪魔をしないように、お膳の傍から抱き上げると奥の間に寝間の支度をしに向かった。
敷布団を敷いた上で、うわ布団に坊やを包んで転がすと子供は声を立てて笑った。声を聞きつけた総司が奥の間に来て、子供と一緒に敷布に包まって放り投げられるのを待つ。敷布団の上をゴロゴロと子供と一緒に転がっては走って逃げ回る。子供は興奮して息もつけないぐらいにゲラゲラと笑った。千鶴は暖まった部屋で子供の寝間着を着せ直すと布団に寝かせた。総司も坊やの枕元で丸く横になる。最近は子供が寝付くまでこうして総司が見ていてくれる。有り難いこと。千鶴は目を閉じ始めた子供に布団を掛けると、総司を優しく撫でてから居間に戻った。
斎藤は婚姻証明書を書き終えていた。硯箱に筆をしまいながら、証明書はお膳の上で墨が乾くまで置いておくように言うと、そのまま風呂に浸かりに行った。千鶴は硯を片付けるついでに証明書を眺めた。
証明書
東京市小石川区富坂町丗番地
雪村千鶴
右者藤田五郎ト明治四年八月廿七日
結婚セシモノニ相違無之此段証明候也
明治九年三月廿五日
藤田五郎
右上がりの独特な綺麗な楷書で書かれた証明書は立派で、千鶴は斗南で挙げた祝言を思い出した。あれは夏の終わり。大殿様が斗南に滞在されていて、山川様と御仲人役を引き受けてくださった。晴れやかで、厳かな慶びの日。はじめさんは、日付までちゃんと覚えていてくださった。
千鶴は証明書を手に取った。なんとも言えない幸せな気分。
私がはじめさんと婚姻を結んだ日。
千鶴はフワフワとした気分で風呂場に向かった。斎藤は既に身体を流し終わって湯船に浸かっていた。千鶴も掛け湯をして湯船に浸かった。
「ちょうど良い湯加減だ」
斎藤は満足そうにそう言ってゆったりと座っていた。千鶴は、微笑みながら湯船の反対側に凭れて腰掛けた。
証明書を見ました。
千鶴は嬉しそうに、ふふふと笑っている。
結婚式は八月二十七日でした。
すっかり忘れていました。
千鶴は湯の表面をそっと撫でながら、ふふふと笑い続けている。
「正しくは、明治四年三月十七日が婚姻の日だ」
斎藤は湯を掬って顔に掛けると気持ちよさそうに両手で拭った。
二人で祝言を挙げたのを覚えておらぬのか。
斎藤は微笑んでいた。千鶴は斎藤の首に抱き着く様に飛び込んで行った。湯の表面が大きく揺れた。
二人きりの祝言
囲炉裏端で夫婦盃を交わした。あの夜、二人は晴れて夫婦になった。
「覚えています」
千鶴は嬉しそうに斎藤の頰に口付けて、ぎゅっと抱きついた。斎藤はお湯を掬っては、千鶴の背中や肩に何度も掛けた。あれから五年だ。斎藤の優しい声が耳元で聞こえた。千鶴は幸せな気分でいっぱいになった。
****
婚姻証明書
翌朝、千鶴はいつもより早く起き出して台所に立っていた。斎藤が朝稽古を終えて居間のお膳に着くと、千鶴は給仕を始めた。
「お赤飯を炊きました」
「坊やにはお結びにしてありますよ」
そう言って、小さな赤飯のおむすびが並んだ皿を出した。
「珍しいな」
斎藤はそう一言言って食べ始めた。千鶴は嬉しそうに前掛けを取って席に着いた。
「お祝いですから」
そう言って笑顔で「頂きます」と手を合わせると、嬉しそうに箸を進めた。
「何の祝いだ?」と斎藤が尋ねた。
証明書のお祝いです。
千鶴は笑顔で答えた。斎藤は千鶴が昨日から随分と嬉しそうだと思った。今朝は余所行きの着物に紅もさしている。そうか、証明書の祝いか。ようやく斎藤は解った。婚姻ノ証明書がそんなに喜ばしいことなのか。
斎藤は制服を来て支度をすると、昨日用意しておいた書類を鞄へしまった。
「今日鍛治橋に提出するが、証明書が欲しければ、もう一部貰って来るが」
斎藤がそう言うと、千鶴は飛び上がらんばかりに喜んだ。斎藤の首に飛びつく様に抱きついている。斎藤は千鶴を抱き上げて刀を掴むとそのまま玄関の上り口まで歩いた。
玄関を出ると、春の暖かい日差し。庭先の桜の木も蕾が膨らんでもう開花が近い。斎藤は神夷に跨がって門を出た。千鶴は子供と門の外まで出て来て斎藤を見送った。
***
その日斎藤は、青山練兵場での剣術指南の後に直接鍛治橋に出向いた。大警視川路から広間で待機するように指示を受けた斎藤は、各署より警部補や巡査が集められているのに気付いた。同じ剣術世話掛として各署の道場で稽古をつけている者ばかりだった。斎藤は敬礼をしてから席に着いた。
大一区管轄署長の酒井了恒が部屋に入って来た。簡単な挨拶を済ませた酒井は、皆を呼び出したのは今年の剣術大会について段取りを説明する為だと話した。各自が担当している道場で稽古中に選抜を行い、鍛治橋で決勝戦を行う。選抜期間は約一カ月。五月に決勝戦を行う。
斎藤は陸軍歩兵に稽古をつけている為、自分の所属する大一区小二虎ノ門署で選抜を行う。皆が配られた大会要綱に眼を通した後、早速選抜を開始するように指示をされた。広間での解散の後に、事務方に出向いて戸籍調書と婚姻証明書を提出した。斎藤の他にも剣術世話掛から数名が届け出を出していたようだった。斎藤はそのまま川路の部屋に行くように事務方に言われた。
大警視川路は、上着を脱いだ寛いだ姿で執務席についていた。書類の山の前で手に書類を持って目を通していた。斎藤が部屋に入ると顎で応接椅子に腰掛けるように無言のまま指示した。斎藤は会釈をしてから席に着いた。
川路は執務席から斎藤に戸籍調書を提出したかと尋ねた。斎藤が事務方に提出して来たと返事をすると、「ん、よか」と言って頷いた。
「廃藩後の郡村の戸籍は誤記載と移動、除籍もされてん」
次々と帳面のようなものを開いて目を通しながら、川路は呟いた。
「結婚証明書は?」
書類を確かめながら、斎藤に尋ねた川路は斎藤が提出したと答えると、「ん、よか」とまた頷いた。
川路は書類をまとめて机上に置くと、立ち上がって斎藤の前の席に座った。
「警視庁でも編纂してる区画整理書と戸籍調書でちっとは改善されう」
斎藤が結婚証明書を提出したのは、戸籍の記録に謝りがあるのを訂正する為だった。斗南藩で記録されていた貫属戸籍には上大町寄寓が藤田五郎の住居、そして【篠田内蔵 長女 妻 やそ】と記載されていた。
これは、斗南への移住後一時的に身を寄せていた倉沢平治衛門の屋敷に同じ時期に暮らしていた「篠田やそ」が、斎藤の妻と誤って記録されたものだった。斎藤は其れを認識しないままでいた。東京へ移住する時に、斎藤は除籍届けを斗南藩に出したが、その時に千鶴を妻と記載した。
今回の恩給支給の届出提出の指示があった時に、斎藤は初めて自分の戸籍を確認した。そして、千鶴が後妻となっている事に気付き驚いた。記録では内縁の妻。実質は「妾」である。恩給支給には妾は正妻同様二等親と定められているが、斎藤は千鶴をたった一人の妻と正したかった。その為の婚姻証明書の提出だった。
恩給は退官後に支給されるものであるが、万が一斎藤が在職中に亡くなった場合に扶助料として妻に支給される。今回斎藤はこの手続きのために戸籍調書と証明書を提出した。
警視庁では、年明けから三ヶ月の間に殉職者が五名。その内、川路の元で諜報活動をしている者が二名職務中に死亡。恐らく、斎藤以外で剣術世話掛の中に間諜が居るのだろう。川路は決して、警視庁内の影の活動を公にしなかった。その代わり、危険な任務を担う斎藤達の身許を守ると川路はその責任を明確にしていた。
細君の身許
妾を囲う者にも扶助が行き渡う
そう説明して川路は笑った。
「私の妻は、雪村千鶴ひとりです。囲い者はいない」
憮然として答える斎藤に川路は「ん、そうか」と笑って答えた。
こうしたやり取りが大警視との間であった事を斎藤は千鶴には話さなかった。己が殉職する可能性がある事を言葉にしたことはない、だが千鶴は覚悟は決めているだろう。先の戦の最中に想いを伝え合って以来、互いが命を落とす瞬間まで共に居ようと決めている。命が尽きるまで。
それは羅刹の毒が抜けた今も変わらぬ。
それでも、自分に何かが起きた時、千鶴を扶けるものがある事は有り難いと思った。
斎藤が千鶴の事を考えていると、川路は「廃刀令を不満に思う士分が弁論や活動を行いよう」と真顔になって話し始めた。
「築地地区の夜行巡察を重点的に頼む」
斎藤は、承知と返事をして川路の部屋を出た。それから事務方からもう一枚の婚姻証明書を受け取ると鍛治橋を後にした。
****
婚姻証明書を持ち帰ると、千鶴がそれを見て殊の外喜んだ。
大切そうに奥の部屋へ持って行き、仏壇の上に置いて手を合わせている。
斎藤は千鶴が仏壇に話し掛けているのをよく知っている。仏壇には千鶴の母親の位牌がある。千鶴は亡くなった父親や兄の名前を書いた小川紙を位牌がわりに置いていた。そこには、近藤勇、井上源三郎、沖田総司、野村利三郎、山崎烝、宮川信吉の名前もあった。新選組隊士は判る限り戒名も書いてあった。
「はじめさんとの婚姻の証明書です」
誰に見せているのか、手を合わせたまま仏壇に話し掛けている。時々、クスクスと笑ったりしている、まるで目の前に誰かが居て共に語らっているかのよう。「母さま」と呼びかけて話し込んでいる時もある。きっと幼き時より母親とこうして話をして来たのであろう。斗南から上京して間もなく、奥の間で千鶴が仏壇に独り語りかける姿をよく見かけるようになった。嬉しそうに話す小さな背中を眺めながら、斎藤は診療所に戻って暮らす事を決めて良かったと思った。
千鶴の語らいの相手は、時に近藤であったり、井上だったりする事もあった。なんでもない日常の出来事を話していたりする。 いつだったか、「お母様、今朝、豊誠はまた床板に穴をつくりました」と話し掛け、「はじめさんも随分とやんちゃをしていたそうですね」と言って笑っていた。どうも斎藤の母親と話をしているようだった。楽しそうに話し込む千鶴の事をいつも斎藤は邪魔をしないようにそっとしておいた。
亡くなった者との語らい
母親を早くに亡くした千鶴には当たり前の日常なのだろう。斎藤は不思議に思う事もなかった。自分も声には出さぬが、心の中でその場に居ない者に語り掛けている。近藤さんや総司、三番組の部下、土方さんと再会する迄はいつも心中で話し掛けて居たものだ。
証明書の報告を終えて、嬉しそうに千鶴が居間に戻ってきた。晩酌をする斎藤の傍に座って、お茶を煎れて飲んだ。もう遅い時間だが、二人で過ごす時間を最近は滅多に取る事がなかった。
「証明書、大切にしまっておきます」
千鶴は微笑みながら呟いた。斎藤は頷いた。戸籍の誤記載の事は千鶴には話さずにいたが、改める事が出来た。その記念にもなる。
「こんなに喜ぶなら、もっと早くに取っておればよかった」
斎藤がそう言って微笑むと。千鶴は頷いた。
「はい。こうしてはじめさんと夫婦になれたのも、新しい世の中だから……」
千鶴は嬉しそうに話す。
「以前なら、はじめさんのお嫁さんになるなんて、いくら願っても叶わない事でしたから」
斎藤は杯を口につけていたが、思わず手を離して顔を上げた。
「こうして夫婦になれたのも、新しい世の中のおかげ」
千鶴は微笑みながら独り言のように呟いている。斎藤は驚いた。千鶴とは互いに離れぬと誓い合った夜からずっと添い続けて来たつもりだった。千鶴が斎藤が気付くよりずっと以前から、自分を好いていた事は夫婦になってから知った。京で千鶴と共に暮らした日々。自分も千鶴に対して特別な感情を持っていたが、どうにかなろうなど考えてはならぬと己に言い聞かせていた。互いに想いあっている事など、夢にも思わず、ただ一日一日を必死に生きていた。先の戦の最中は、明日をも知れぬ身だった。会津に残ると土方に告げた日の事は決して忘れない。自分に付いて行くと言い張る千鶴と決して離れぬと誓い合った。敗戦後に斗南に共に移ったあの日々でさえ、千鶴は、士分である自分と夫婦になる事は思いもよらぬことだったと笑う。
—— ただずっとお傍に居られれば
ずっとそう思っていました。あの春の日の夜に、はじめさんが夫婦の盃をと言って下さった時は、本当に嬉しかった。はじめさんのお嫁さんになれたことが……。
斎藤は千鶴を抱き寄せた。愛おしくて堪らぬ。
「ずっと苦労をかけている」
斎藤は、静かに唇を千鶴の髪につけた。千鶴は斎藤の腕の中で静かに首を横に振っている。
幸せです。これ以上は望めないぐらい。
囁くように話す千鶴をきつく抱き締める。「俺もだ」という優しい声が頭上から聞こえた。千鶴はじっと斎藤の胸に頬を寄せて幸せを噛み締めた。
****
明治九年四月
沖田ミツの願い
四月に入って、永倉新八、藤堂平助が北海道から上京して来た。左之助は、大陸に渡った後、南方に出向き交易のある暹羅(シャム)に滞在していると便りがあった。
板橋宿に土方も一緒に出向いて、慰霊碑建立式を開いた。立派な慰霊碑に新選組隊士達の名前が刻まれていた。局長近藤の法要も執り行われ、参列した生き残りの隊士達と旧交を温め合った。
久し振りに平助や新八と語らった。斎藤達夫婦にとって嬉しかったのは、総司の姉と義兄が参列した事だ。沖田林太郎とは、日野の佐藤道場で一度挨拶を交わした記憶があっただけで、試衛場には出入りをしておらず、総司の姉のミツと一緒に鶴岡にいる事だけが判っていた。庄内藩御預かりの身分のまま、瓦解後は、鶴岡で開墾隊の一員となっていたが、今年になって東京に戻ったという。十年ぶりに会った総司の姉のミツは、昔と変わらず。凛として背筋を伸ばし、斎藤と千鶴に挨拶をした。斎藤も千鶴も総司の気配を慰霊碑の傍で感じていた。総司は唯一の肉親のミツを慕い続けていた。斎藤は小石川にある自宅に総司の姉夫婦を招待した。
板橋での式の後、数日経ってミツ達夫婦が診療所を訪ねて来た。斎藤は特別に午後の非番を取って、二人を迎えた。総司も玄関の上がり口で嬉しそうにミツを迎えて、ずっと傍を歩き、ミツの正座する隣に座って離れない。千鶴は、ミツに「沖田さんです」と総司を紹介した。
大層立派で御座います。
毛もフサフサとして
まるで総司のよう
目元もそっくり
そう言って感心して隣の猫を撫でた。総司はミツの膝に上がって、甘えるように横になった。千鶴はその様子を嬉しそうに眺めて微笑んだ。
ミツ達夫婦には、長男が居て歳は二十二。今も鶴岡に残って開墾士として勤めているが、いずれは東京に呼び寄せようと思っているという。剣術が出来、腕があるのでその才を活かしてやりたい。総司が京で立派な武士として活躍したように。そう言って、ミツは膝の上の総司を優しく撫でた。総司は口角を上げて目を細めて居る。至福の表情と同時に姉上に褒められて鼻高々な様子。
藤田様は警視庁でご活躍と伺っております。
息子の芳次郎は、巡査になりたいと申して居ります。
私も夫も芳次郎が望むようになる事を願って居ります。
ミツは斎藤に、今日此処に伺ったのは、藤田さまにお願いがありまして、と傍らに置いてあった刀袋を取り出した。その瞬間、総司は跳び起きるように畳に降り立った。
「此れは弟の総司が生前使っておりました打刀です」
ミツは大切そうに袋から刀を取り出すと、そっと斎藤に向かって居ざり恭しく渡した。
「廃刀令が出た今。私どもがしまい込んだままですと、ただ錆び付くばかり」
——どうか、私共の代わりにお預かり願います。
ミツは深々と頭を下げた。斎藤は、驚いたように手の中の打刀とミツを見ていたが、
「こちらを預けて貰えるなら。芳次郎殿が巡査に成られるまで大切にお預かり致す」
そう斎藤は答えた。そして、ミツと林太郎の許可を得て鞘から刀を抜いてみた。
手入れはされているが、若干の錆が見えた。ミツの隣で総司が目を光らせてじっと刀身を見つめていた。
「神田に腕の良い研師が居ます。直ぐに研ぎに出しましょう」
そう言って、斎藤はつぶさに確認した後に刀を鞘にしまった。ミツは刀の所持証明書の書付を恭しく斎藤に差し出した。斎藤は千鶴に紙と硯を持って来るように頼むと、刀の預り証書を認めた。墨が乾くと、丁寧にミツに差し出した。
「急に無理なお願いを申しまして。本当に有難う御座います」
そう言って深々と頭を下げた。千鶴は総司もだが、斎藤が心から嬉しそうに刀を手にしているのが良くわかった。武士の命である刀。
この子とはずっと一緒に戦ってきた。
総司が屯所の部屋で、愛刀を大切に手入れをしていた姿を思い出す。時折、斎藤と一緒に黙ったまま黙々と。発熱が続き、寝込みがちになっても寝間着姿で手入れだけは欠かさなかった。
良かった。沖田さん。
千鶴は満足そうに佇む総司に笑いかけた。総司は再びミツの膝に上がり、夕方に帰るまでずっと離れなかった。診療所の門まで出て、姉夫婦を見送った総司は、千鶴に抱っこをされて母屋に戻った。斎藤は軽く早めの夕餉を食べると、夜行巡察に出る支度を始めた。居間を出る時に斎藤は、箪笥の上に置いてある総司の打刀を再び手に取った。
大和守安定
総司が亡くなるまで使っていた。斎藤は拵えをじっと見つめた。黒呂色塗鞘。下緒の巻き方は総司のものだ。刀身は反りが浅く、帽子も浅くのたれ込んでいた。互の目を主調に乱れ、角がかった刃、尖りごころの刃が交じり、足がよく入っている。懐かしい。よく切れる刀であった。
斎藤は後ろ髪を引かれるような気持ちで、箪笥の上に刀をそっと戻した。
玄関の上り口まで総司が出てきた。靴を履き終えた斎藤は千鶴から自分の刀を受け取ると、「行ってくる」と一言。そのまま玄関の戸を開けて外に出た。総司がすっと足元をすり抜けて門に向かって走って行った。
斎藤は門を出る時に総司に話し掛けた。
「総司、明日早速研ぎに出す。戻ったら、手合わせ願う」
総司は背筋を伸ばして座っていた。尻尾が揺ら揺らとゆっくり動いて、綺麗に前脚の前に揃えるように降り立った。暗がりに総司の翡翠色の目が輝いている。斎藤は微笑みながら前を向いて歩き始めた。
「あの子で真剣勝負したら、僕は間違いなく勝つから」
総司の声が背後から聴こえた。斎藤は驚きながら振り返った。
「行ってらっしゃい、はじめくん」
総司は口角を上げて挑むような表情で笑っていた。
ああ、行ってくる。
斎藤は振り返りながら応えた。
望むところだ。総司。
斎藤は心の中で、背後の総司に話し掛けた。そして、気分が高揚したまま自分の腰の刀を右手で押さえながら夜の闇の中へ駆け出した。
つづく
→次話 明暁に向かいて その24へ
(2018.10.30)