
庇の影 序章
我々の中にあふれた多くのものは、我々を我々自身の外に放り投げる
「大胯びらき」
元治元年六月
「斎藤さん、こちらへ」
巡察を終えて河原町から屯所へ戻る道すがら、四つ辻を過ぎて歩いていると、雪村千鶴に呼ばれた。朝から陽射しは厳しく、無風の通りは砂埃の向こうに陽炎がゆらゆらと揺れていた。
「斎藤さん」
再び名を呼ばれた。雪村千鶴が自分を手招く様に腕を伸ばしている。
「こちらへ、日陰は涼しいです。こっちを歩いてください」
先を行く三番組の部下たちは、既にばらばらに散らばって歩いている。このように巡察を途中できりあげる午後は、隊列を解かれ皆が自由に屯所に戻る。先日起きた池田屋の騒動の後、しばらく巡察随行を控えていた雪村が久しぶりに屯所の外に出た。今日はこのまま雪村と一緒に屯所に戻るつもりだった。
南側の建屋の庇の影は、確かに人が二人並んで歩くのに十分な幅があった。右差しの自分は、すれ違う者に刀が当たるのが嫌だ。往来を歩くのは、自分なりに気遣っている。確かに京の町のうだるような暑さは、その陽射しを避けることで幾分か凌ぐことができるだろう。
言われるままに庇の影を踏むように歩いた。だが雪村は再び自分の名前を呼ぶ。一体なんだ。そう思った瞬間、袖を引っ張られた。「もっと庇の影にはいってください」と言う。雪村のいささか強引な様子に思わず立ち止まった。
「なにゆえ、影に入らなければならぬ」
「涼しいからです」
自分を見上げる雪村は、その額に前髪が汗で張り付いている。上気した顔。よほど暑いのだろう。こめかみから汗が流れている。「こちら側を歩いてください」と再び強く肘を引いて、雪村は自分を庇の内側に立たせた。やれもやれもという表情の雪村を見て、思わず笑いが込み上げてしまう。自分は一歩踏み出すように再び庇の影から外に出た。
背後で草履が地面を蹴る音がした。雪村が追いかけて来る。日陰には入らずに歩き続けた。息を切らして自分に追いついた雪村は庇の影にまた自分を引っ張ろうとする。自分は歩を止めて説明した。
「影に入れば涼しい。だが、庇の影に目が慣れると通りで斬りあいになった時、相手の動きを見誤ることがある。このような陽射しでは尚更だ」
「相手の抜いた刀に陽の光が当たると、目くらましに遭う。日向を歩くと俺の眼は光に慣れる」
雪村はようやく納得したようだった。それからは何も言わずについてきた。この暑い中を無駄に走らせてしまった。次の四つ辻の茶屋で飴湯を買ってやろう。雪村は屯所に戻れば、直ぐに洗濯を取り込みに中庭を動き回る。
間もなく着いた茶屋の店先で、竹椅子に雪村を腰かけさせた。大きな番傘は丸く地面に影をつくっている。雪村は、「飴湯、大好きです」と嬉しそうに笑った。
「俺はここの飴湯しか飲まぬ。総司は、二条の宇田川屋の飴湯が冷たくて美味いと言っているが、ここは生姜が沢山入っていて香りがよい」
「そうですね。とても甘くておいしい」
少しの休憩だったが、雪村は幾分か汗が引いて楽になったようだった。それから壬生村に向かう通りをゆっくり歩いて帰った。道に出来る建屋の影が一本の線のように目前に連なっている。陰と日向。光と影。明暗。己の行く道。
そんなことを考えながら砂埃が立つ地面を踏みしめた。
******
駿州の道行
文久三年一月
江戸を出立し箱根の関を超えてから三日で駿州府中宿に着いた。
晴天続きで日中は歩いていると身は温かい。遠く江戸を離れ駿府まで来た。前年の暮れ、江戸で人を殺めた。相手は旗本の次男。帳付けなしの果し合いだった。罪に問われることは必至。直後に江戸を出奔した。駿州まで辿り着いた今、追っ手に見つかる不安はなくなったと思う。
街道沿いの宿はどこも賑わっている。旅籠の呼び込みの声が聞こえたが、そのまま通り過ぎて宿場外れの古めかしい建屋に向かった。木賃宿は入口の木戸が小さく、上り口の間口も狭い。まだ早い時間の到着のためか、誰も人が出てこない。薄暗い土間に立って肩の荷物を下ろした。
「あ、お客さんだらー」
背後から誰かの声が聞こえた。下男のような男が「いらっしゃいまし」と会釈して土間を横切った。間もなく奥から宿の女中が出て来て、「いらっしゃいませ」と言って自分の刀と荷物を受け取った。四畳一間の部屋に通され、壁の傍にある古い刀置きの傍に持って来た荷物を置いた。女中が火鉢に炭を置きにやってきて、台所と厠、建屋の裏の先にある共同の湯屋の場所を案内してくれた。
箱根の峠を過ぎて、三島に着いた頃からこうした木賃宿に泊まるようになった。道中で出逢った商人の男から、米を一升持って歩けば旅籠より路銀が掛からずに旅が出来ると教わった。親切な男で、三島宿で米問屋を紹介してくれて安価で米を買うことが出来た。宿には自由に使える竃があって、自分の持ち寄った米を炊いて好きに食事が出来た。駿府は山葵がよく取れるらしく、木の上蓋のついた壺の中に麹と一緒に葉っぱが漬け込まれてあるものが置いてあった。これを炊きたての飯に載せて食べると美味い。
腹が膨らんだところで、宿の裏にある共同の湯屋に向かった。熱い湯に浸かって旅の疲れを癒した。足を延ばして湯に入るのは三島の宿以来だ。気持ちが良い。つい長湯をしてしまった。宿の部屋に戻ると、廊下は他の客が行きかい騒がしい。夜になると次々に客が増えて、満室になったようだった。翌朝早く起きて府中を出た。握り飯と茶をいれた竹水筒を持って出たが、昼前には雲行きが怪しくなってきた。鞠子には直ぐに着いた。茶屋で案内された宿は小さな旅籠だった。降り始めた雨はザーザーと音をたてて、宿に着く頃には大雨になった。濡れた着物を脱いで、直ぐに湯に浸かった。外は暗く雨音が止む様子はない。この雨では峠超えは無理だと思った。江戸を発ってから足止めになることなく西に向かってきたが、ここでは丸一日滞留することになるだろう。
旅籠の飯は美味かった。大きな御櫃に麦飯がたっぷりと入ったものを出され、とろろ汁がついた。塗りの茶碗に何か黒いものが煮たものが入っていて、口にいれるとほくほくとして甘い。給仕をする女中が、
「零余子だらー。うまいべ」
と言って笑顔を見せた。鞠子では自然薯がよく採れるらしい。山深い土地。宿は少なく、数軒の旅籠しかない。他に客もいる様子がなく閑散としていた。ここまで順調に進んだが、宇津野谷の峠は難所で、この雨だと道も更に悪くなる。宿に旅草鞋を用意してもらうように頼んだ。雨が上がった翌朝、宿の者に峠を越えて岡部まで行くというと。
「ひげでいもぐには、お気をつけくだせえ」
と注意された。髭題目。峠の中腹にある大きな石碑で、その辺りには山賊が潜むと教えられた。旅の商人が襲われ金品を奪われるという。残忍な仕打ちで逆らうと刀で斬られ崖に突き落とされる。怯えた表情で話す男は代官に訴えても役人が取り締まることもないと溜息をついた。府中宿の賑わいと一変して閑散とした宿場の様子に、道行が危険で人が寄り付かないことを思った。だが、峠を迂回する路は浜に出て舟で尾張に向かうしかなく船賃は嵩む。仕方ないがこのまま進むしかないと思った。
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無構えの男
翌朝雨間の内に宿を発った。山道は思った程泥濘もなく楽に進むことが出来た。足元はごろごろとした石が多い。急ぐ旅ではないが旅籠に泊る余裕はなく、できれば次の宿場でまた木賃宿を探して雨天をやり過ごすつもりだった。
山道をひたすら登る。気温は低く、時折風が吹いて頭上の木の枝から大きな水粒が落ちて来る。それでも、早足で歩いていると身体は温まり、背中や首筋が汗ばむくらいだった。半刻程過ぎたところで道は下りになった。泥濘を避けながら、木の根もとの上を歩く。ただ何も考えず、風の音と木々がきしむ音だけが耳に入っていた。
突然、林の中から何かを叩くような音がした。木こりが大木に斧をぶつけるような。ざわざわと木々がぶつかり合う。その途端黒い影が目の前にあらわれた。大きな薙刀を持った男が立ちはだかるように目の前に立っている。山袴に長羽織。首には手拭を巻いて、腰には大太刀と大きな瓢箪徳利が真っ赤な紐でぶら下がっていた。ざんばらな髪の間から覗く眼光が鋭い。大きな男だ。六尺はあるだろう。男は通せんぼをするように窪地の向こうに仁王立ちになった。
髭題目の山賊か。
そう思った瞬間、相手は薙刀を降り回すようにして刃先を向けて来た。空を斬る音。右側の木の影に避けた。踵は柔らかい草地についた。
「ここを通りたければ、持っているものを置いていけ」
男はそう言って、顎で指図するような仕草を見せた。身を隠した大木の影から、相手の立ち位置を確かめた。窪地の周りにはところどころ泥濘と枯葉が積もった盛り上がりが見えた。男の背後の地面はごろ石が続き一段下がっている。自分は鯉口を切った。抜刀しながら相手の切っ先を跳ね飛ばすように、下から振り上げた。右手に見える枯葉の上に踏み込む。地面があれば、二振り目で突ける。一か八か。相手の振り回す薙刀を剣の鍔の近くで受けた。手に響いてきた衝撃は凄まじく、右足で踏ん張った地面に身がのめり込むような感覚があった。
相手は、撥ね退けた瞬間に窪地の後ろに足をついてにじり下がった。股を大きく割って、右足の内側を見せるように前に出して相手は尻を背後に引くように低く構えた。じりじりと薙刀を引くように自分の軸足に寄せている。無構え。念流か。そう思った。馬庭念流道場の長物遣いは、いつも相手の切っ先を自分に引き込むように構える。間合いを自分に寄せて相手の一手を受ける瞬間に反撃する。出稽古で多摩に滞在中、念流遣いと決闘をしたことがある。相手の踏ん張りを崩すには、連続で撃たなければならぬ。
次の一手。
考える間は無かった。「ヤットオーーーー」という雄叫びと共に、大きく振り上げた相手の刃が自分に向かって来た。上段から咄嗟に刀を抱くようにして地面を蹴った。相手の振り下げた刃を避けて、身を低くしたまま窪地を飛び超えた。相手の懐の中に入るようにして、そのまま着地した。その勢いのまま両の手に力を込めて思い切り峰で相手の胴を撃った。
残心のまま、すぐに振り返るように身を翻して上段で構える。
呻き声を上げた男は振り返りざまに態勢が崩れて窪地に片膝をついた。今だ。真剣に持ち直し、地面を蹴って相手の喉ぼとけを狙って突きを入れた。
ぐぉお、という声を上げて男は目を見開いた。自分の切っ先は男の人迎にのめり込んでいる。体重をかけて更に押し込んだ。男はがっくりと両膝を地面について薙刀から手を離した。震える手でゆっくりと首に刺さった刃を握っている。抜き取るなら抜いてみろ。自分は相手が白目を剥いて息の根が止まるまで、刀を押し込み続けた。相手の動きが止まって刀を抜いた時、血が噴き出して地面に散らばった。
地面に突っ伏すように倒れた男は首をこちらに向けたまま絶命していた。自分は肩で息をしながら刀を二度振るって血を払った。強く風が吹き大きな雨粒が落ちて来た。懐から手拭を出して刀を拭ってから鞘に納めた。その時、どさっという音がした。振り返ると背後に誰かが立っていた。小柄な男。紙の雨合羽を被り、箱包みを背負っている様子から商人に見えた。足元には風呂敷包みと杖が落ちていた。男はわなわなと震えている。
「ひ、ひ、人殺しー」
絞り出すようにそう言って、仰け反るように尻もちをついた。男は、後ずさるように藪のなかに後ろ手をついて逃げて行く。
「この者は追い剥ぎだ。鞠子に行って。そう宿の者に伝えよ」
自分がそう伝えても、男は「どうか、命だけは。殺さないでくれ」と言って、懐から銭入れを出して自分に差し出した。
「髭題目の山賊を成敗した」
そう説明しても、男は「お願いします。どうか、どうか」と地面に突っ伏して、一向に自分の云っていることを解していないようだった。恐怖で腰が立たなくなっている男は、「殺さないでください」とむせび泣いている。助け起こそうにも、近づくと草むらに後ずさる。伸ばした己の手には確かに血がついていた。自分の着物に返り血が付いていないかを確かめた。たとえ追い剥ぎでも斬られて絶命したとあれば近隣の役人が取り調べにくるだろう。身元検めは困る。商人の男を置いて、その場を足早に去った。山道を下って次の宿場へ。いや、その次の宿場まで急ごう。
誰も通らぬ山道の泥濘の中を再び登り続けた。途中、雨が降り始めたが鬱蒼とした木々の下をひたすら歩を進めた。水場を見つけて、手や腕についた血を落とした。着物の裾についた血のりも洗いながした。冷たい水に手が凍りつきそうだ。雨音がザーザーと響く中、さっきの男の「人殺し」と叫んだ声が何度も頭の中をよぎった。
無構えの男をやらねば、己がやられるところだった。腰に巻いた金子を奪われたら元も子もない。あの場をやり過ごせていても、次にあの商人が狙われていただろう。長物で人を脅し金品を奪う悪人を成敗してやった。人殺し。上等だ。峠の坂を下りながら、腹の底から怒りの感情が沸々としてきた。山道に立ちはだかった男の顔。出で立ちから百姓か猟師か。馬庭念流の構え。あの者の足の踏ん張りは強かった。自分が飛び出した時、足の踏み場を逃していたら相手の刃に貫かれていただろう。
俺は勝った。奴との勝負に。
打刀を抜いた瞬間。己の掌に響いた感覚を思い出す。共鳴するような。力が一心に集まる。柄も握り易くてよい刀だ。相手を撃てた。思うように身体が動いた。人迎を狙った。殺すために。
やらねば。やられる。
それだけだ。
己で己を納得させるように呟いた。雨粒が顔を濡らしている。腹の中の煮えくりかえる想いと同時にどこか虚しさも感じる。自分はそれを見まいとした。剣を振るっても報われぬ。追い剥ぎを成敗しても「人殺し」と誹られる。
——剣を振るって人を斬って咎められるなら。
俺は何の為に刀を抜く必要がある。
勝つためか。生きるためか。悪い者は成敗する。道理に逆らうか。どちらでもよい。刀に手を掛けた時、俺は一か八かに賭けた。飛び上がって降り立つ地面が窪地より低ければ、俺に勝ち目はなかった。俺は地面を蹴って次の手を撃てた。刀は手になじみ、振り易かった。人迎を違えずに打てた。
この型、決まったら一撃で殺れるね。
試衛場での鍛錬の日々が心に巡る。総司は上背から引き肱で正確に相手の急所を狙える。俺の突きは精々相手の水月だ。だが相手の振りかぶりと己の利き足の踏み込みで威力は上がる。総司との型の浚いはそればかりを集中してやっていた。俺と総司のやり方は間違っていない。道場の稽古も真剣での勝負もおなじこと。勝てば面目が立ち、負ければ死ぬ。
腰に差した刀は何のためにある。相手を真剣で斬れば死ぬ。自分も斬られれば死ぬ。ただそれだけだ。俺はいつでも死ぬ覚悟は出来ている。
死ぬ覚悟。
恐れてなどおらぬ。俺は俺の道理を通す。それだけだ。それを全うできないのならそれこそ犬死だ。
目の前の山道が開けて、平らかな道になってきた。雨も上がり、まだ十分に外は明るい。山の麓から直ぐに見えた宿場を過ぎ、そのまま更に街道を進んだ。往来の者に尋ねると、次の宿場は平坦な道行であることが判った。
「お寺さんのごちょにょらえをこえるだら、すったらすぐだ」
寺を超えればすぐに次の宿場への道に出る。ごちょにょらえは「五知如来」という大きな石像が五体並んでいる寺のことだった。香の匂いが漂っている。老婆が如来像に線香をたむけて手を併せていた。自分が傍を通り過ぎると、愛想のよい笑顔で深く会釈した。自分も会釈を仕返し、「御免」といって通り過ぎようとした。
「こん如来さまは、ご利益がある」
「昔、お姫様が口がきけにゃーっけのが、如来さまに御祈りしたら口がきけるようになってね」
「ありがたい如来さまだら」
老婆は自分にも線香の束を分けて持たせてくれた。祈願しろということか。促されるままに手を併せた。目を瞑ると、山賊の死んだ顔を思い出した。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
老婆の声が聞こえて来る。南無阿弥陀仏。自分も一緒に心の中で唱えた。無構えの男が成仏するよう祈った。峠の道行が安寧になることも。己の道理が正しいものであるように願った。手を併せ終えた自分に、老婆は笑顔で会釈して境内から出て行った。腹を立てていた事は不思議と心の中から立ち消えて行った。ただ、胸の内で考えた己の道理のことは、ぐるぐると堂々巡りのようにずっと頭から離れないままだった。
つづく
→次話 庇の影 その2へ
(2020/02/04)