庇の影 その二
尾張の国 吉田宿
掛川宿を過ぎてから峠もなく吉田まで難なく進んだ。江戸から京までの道のりも半分を過ぎて、ようやく人心地が着いた気がした。
舞坂や新井では海岸の風景を思う存分眺めて歩き、胸の内の憂いや鬱憤は少し晴れた。大井川の向こうは尾張の国。道行く人の多さに驚く。吉田宿に着いたのは陽も傾きかけた頃。大きな宿場町は往来も荷馬車や人出で真っ直ぐ進む事が出来ない。昼過ぎに買った米袋が思ったより重く足取りが滞る。裏街道に出て宿を見つけようと庇の影を急いだ。
「兄さん、にいさん」
不意に建屋の格子の中から声が聞こえた。細い女の腕が格子の間から伸びてきた。袖を引こうとする小さな手は白粉が塗ってあり、格子から鹿子の袖が垂れている。格子の向こうは暗くて、ちらりと白い顔が見えた気がした。
「寄っといでよ」
宿の飯盛女の客引き。心なしか白粉の匂いがした。女の手を払うように腰の刀に手をかけて足早に過ぎた。一つ建屋を通り、次の建屋の前でも二階家から呼び声が聞こえた。
「兄さん、だんな」
「寄っといでよ」
朱や紅色の鹿子袖。中には二階家の欄干から身を乗り出して、鹿子帯を垂らして持たせようとする者もいる。まだ日暮れでもない内に……。そんな風に思った。岡場所独特の風情。どこか江戸を思わせる。ところ変われば……変わるものだな。
大通りを離れ、裏道を街道外れに向かって歩いた。古めかしい木賃宿。寂れた場所であれば尚よい。「松の間」と札のついた部屋に入ってようやく腰を落ち着けた。この宿では米を二合渡せば宿で炊いて出してくれるということだった。余れば握り飯にするつもりで米を三合渡した。飯炊きの手間が省けた。特にやることもない。手持無沙汰にしていると、湯の準備が出来たと声がかかった。案内された建屋の裏には大きな五右衛門風呂が設えてあった。小さな用水路の脇に簀の子が敷いてあり、そこで着物を脱いで台にあがって湯船の中に入った。熱めの良い湯だ。
それにしても風呂釜が大きくて深い。沈めた足板に真っ直ぐに立ってようやく肩から上が水面に出る。
背の低いものは足が底に届かぬな。
湯船の縁に凭れ掛かるようにして、そんなことをぼんやりと考えていた。ふと目の前に女の結髪が見えた。風呂釜の向こう側に立って居る女の後頭部。宿の女中かと思った。振り返った女は見た事のない女だった。湯船の中を覗きみると、女は小さく会釈をした。
「よいしょっと」
女はそう言って、縁の向こうにしゃがんで見えなくなった。こつん、と何か木と木がぶつかる音がした。女は再び縁に手をかけて立ち上がった。手拭で前を隠している。女は裸だった。呆気にとられている自分の目の前で、女はもう片方の手で板を湯に浮かべると身体を捻るようにして縁を跨いで板の上に足を置いて沈めた。
「あったかい」
女は嬉しそうに笑っている。湯煙の向こうにみえるのは、確かに女だ。白い肌に華奢な肩、湯の表面から見え隠れしているのは白い女の乳房だ。
「ええ湯だがね」
自分は頷くしかなかった。女は湯を掬って肩や首元にかけている。
「そっちは深いでしょう。足がとどけーへん」
女は湯をかき混ぜるように足を動かしているのか、湯の表面が揺れている。水面の先には女の両の乳房がゆっくりと水に浮く様に波打っているのが見えた。自分は生唾を呑み込んだ。
いかん。いかん。
あわてて後ろを向いた瞬間、足板が滑って踵から外れた。しまったと思った時には遅かった。湯の中に身が沈んだ。底についた足は焼けそうだった。湯船の壁を掴んでも滑る。
えいっ。
死ぬ気で底を蹴った。川に沈んだ時を思い出した。暴れても仕方がない。熱い。熱くて焼けそうだ。五右衛門の如く釜茹でになってなるものか。
「だんな、これに掴まって」
女の声が聞こえる。背中を何かで突かれた。自分は振り返って、湯の中で何かに掴まった。木の長板。それを持ってようやく水面に顔が出た。目の前に女が立って風呂の縁から伸ばした板を支えている。たおやかな腰つき。揺れる女の乳房が目の前にあった。また湯に沈みそうになった。女は自分の肩に手をかけて引っ張り上げてくれた。
「ほら、こっち。ここは浅いから足をのせて」
女に手を引かれて足台に乗ることが出来た。
「すまぬ」
女はくすくすと笑っている。
「ぬるぬるしとるもので、滑りやすいで」
ようやく態勢を整えることが出来た。女は水面に浮いた足板を器用に板で手繰りよせると、自分に渡して笑っている。
「すまぬ。礼を言う」
「溺れてまったと思ったで」
女はくすくすと笑っている。ばつが悪い。風呂で身を沈めた上、おなごに助けられるなど。女は「さ、あたしは上がります」と言って「御先に」と身を翻すように湯船から出て行った。縁にかけた足と太腿が白く、ただ白く眼の前を過ぎていった。自分は完全にのぼせてしまい風呂から上がると頭がくらくらした。
*****
部屋の畳の上で横になっていると、飯が炊けたと声がかかった。台所のそばの座敷に据えられた膳。炊き立ての白米に赤みその豆腐汁。美味い。香の物、大根の煮物と小さな巻貝の煮つけが付いている。甘辛くて美味い。酒が飲みたい。宿で酒を頼もうか。少し贅沢をしてみたい。路銀はまだ十分に残っている。そう思って、膳を下げに来た女中に酒を頼んだ。二合百文。悪くはない。飲みたりなければ、通りに出てもよい。すっかり気が大きくなって、巻貝の煮つけを肴に飲み始めた。
「そんなら、姉さん」
どこかで聞いた声がした。勝手口から声を掛けたのは、風呂場の女だった。女は自分に気付くと、愛想よく会釈した。自分は姿勢を正して頭を下げて挨拶した。宿の女主人に貰い湯の礼を言うと、女はもう一つの勝手口から出て行った。戸をくぐる時に捻った腰が、夕暮れの光の中でたおやかな曲線を描いた。自分は、女が居なくなった後もただぼんやりと戸口を見ていた。
「お客さん、お代わりは」
女将に勧められたが、久しぶりの酒で十分に酔いが回っていたので断った。部屋に戻って身が温かい内に布団の中に入った。翌朝は暗い内に発って出来れば岡崎まで行きたい。伊勢国桑名までは途中海路があると、道すがら傳馬の男から聞いた。海が荒れると舟が出ず迂回して陸路を行くと数日はかかる。京まで急ぐなら、宮宿から「七里の渡し」をと。
目を瞑って眠ろうとした。だが、ふと目の前を白い肌が横切る。白い女の手。「兄さん」と呼ぶ飯盛女たちの声。鹿子の袖、帯かざり。朱色、紅、山吹。女の笑い声。
白い肌、湯に揺れる乳房。
湯船でみた女の腰つきや太腿を思い出す。濡れた肌。酔った頭の中で断像を追い求める。寝返って身体を横にした。左手はすぐに己の股間に伸びていった。布団から右手を伸ばして枕元に置いてあった手拭をとった。女の腰に手を伸ばして情をぶつける。耳には女の艶めかしい声が聞こえて来る。物凄く興奮する。やめられん。
手拭を用意しておいてよかった。布団を汚さずに済んだ。己を褌に仕舞って一息ついた。
——ねえ、その子、気に入ってんでしょ。お楽しみに。
総司が笑う。吉原の夜。むらさき。どこか遠くを見ている黒目勝ちの大きな眼。小さな肩……。江戸で、そんなことがあった。昨年の秋のことなのに、もう遠い昔の気がする。あの夜、不意に女をあてがわれた。何枚も重なった襦袢の向こうに白い肌が見えた。手を伸ばしてまさぐった尻の柔らかさ。また思い出してしまう。
——好きにしなよ。気に入ったんでしょ。
また総司の声がする。からかうな。目が冴えてきた。でも再び股に伸ばした左手は止められぬ。
また果てた。今度こそ眠ろう。全てを仕舞って寝返りを打って目を瞑った。だが江戸に居た頃のことばかりが頭に浮かぶ。総司は日野の初稽古に独りで行ったのやもしれぬ。向こうで引き留められたとしても、とっくに江戸には戻っている筈。試衛場の皆はきっと稽古と上洛の準備で忙しくしておるだろう。
年明けには上洛するよ。将軍様の護衛にね。
総司の嬉しそうな顔を思い出す。近藤先生や新八たち。多摩から馳せ参じる土方さん、井上さん。皆の充足感を思った。心の底から羨ましい。
俺は一緒に行けぬ身となった。
同じ上洛なのに。
己は逐電浪人、行方をくらまし、このまま根無し草になるのが関の山。
もうどこにも。己の居場所はない。
虚しさとやるせなさ。心に広がる暗闇。まるで真っ黒な渕に全身が沈んでいくような。たった独り。考えまいとしても、どこにも寄る辺のない身上は、暗然たる中に永遠に取り残されたような気がした。
****
眠ったのか起きていたのか自分でも判らない。鳩尾に暗い大きな穴が開いたような気分で布団から出た。外はまだ暗い。厠に行って顔を洗った。しーんと冷える空気の中で空を見上げた。明けの明星か。東の空にひと際輝く星を見てそう思った。夜が明ける前に出立しよう。部屋に戻って着替えを済ませると、荷物を持って勝手口に出た。台所の台の上に竹皮で握り飯が包んだものが置いてあった。「松の間」と書かれた紙が添えてある。女中が夜のうちに用意しておいてくれたものだろう。宿賃は先払いで済ませている。握り飯の包みを内飼いにしまって、外に出た。白んで来た空に背を向けるように、まだ薄暗い街道を西に向かった。
土を踏みしめる音を自分で聞きながら、黙々と歩き続けた。時折、行商のような出で立ちの者とすれ違う。それ以外は誰にも会うことはなかった。一里塚を過ぎたところで、視界が開けた。姫街道との追分を経て、宮宿へ向かった。ただひたすら歩く。自分の吐く息と吸う息。それだけに集中していると心が無になれた。
海路はおだやかな凪の中を、ゆっくりと進んだ。舟には商人も多く乗っていた。刀を腰に差しているだけで、腰かけのある場所を譲られる。海風は冷たいが、海面の眩しい光と広がる海原を眺めているだけで気分が晴れた。舟が着く先は桑名。尾張は人出でにぎわう土地だと思った。舟には伊勢詣客が多く、一宮の大鳥居が見えると歓声をあげて手を合わしている。船着き場の喧噪を避けて、街道をひたすら進み庄野で宿をとった。宿の主人とは片言だけ言葉を交わし、部屋で横になった。旅人の路銀を狙う者は多い。無銭で施しを受けて伊勢参りをする集団にも出会った。腰に巻いた金子だけを守るように、数刻身体を休めて再び街道を急いだ。
******
真五郎との出会い
桑名を旅立ってから数日で近江へ出た。大津から山科にさしかかった時、山道で立ち往生している男の姿が見えた。大きな長木箱を背負い、白髪交じりの髷、藍の羽織に山袴。商人風の男の前には刀を抜いた浪人が立っていた。
「金目のもんを出せ」
片手太刀の刃を向けて叫ぶ男の前で、老人は後ずさりながら首をぶるぶると横に振っている。自分は震える男の前に出て鯉口をきった。抜刀しながら、追い剥ぎの片手太刀を払った。男は「うおお」とおかしな声をあげ、地面に落ちた刀を拾おうとしたが、こちらが刀を返して喉元に突きつけると、仰け反るように動かなくなった。
「命が惜しくば、このまま立ち去れ」
総髪の男は、目を見開いたまま小さく頷くと、地面を這うようにして山道を駆け下りていった。無様な男だ。地面に落とした刀を拾うこともせず逃げるか。刀を鞘に納めてから、男の刀を手に取ってみた。長めの打刀。刀身は太く、刃は深く切れ込んでいる。悪くはない。そう思った。
「ありがとうございます。お武家様」
背後から声を掛けられて振り返ると、老人が頭を深く下げて命を救われたと礼を言っていた。
「怪我はないか」
「へえ。もう斬られるもんやと覚悟してました」
男は懐から手拭をだして、涙と首もとの冷や汗を必死に拭っている。大津から伏見街道に向かう途中だという男は、用事で山科に来た帰りだという。自分は上京に向かうと応えた。
「お手の刀。鞘がおまへんと持ち運びに難儀しますやろ」
男は追い剥ぎが置いていった刀を見て、「お待ちを」と言って背中の荷物を解いて、地面に木箱を置いた。長木箱の紐を解いて蓋をあけると、そこには刀が一振り、綿と一緒に詰められてあった。男は持っていた風呂敷から真っ白な上絹を取り出すと、それを地面に広げて「ここに置いてください」と頼んでくる。自分は言われた通りした。
男は「ちょっと拝見します」といって、打刀を粒さに眺めている。「ええもんですな。拵えも悪うない」と言って、丁寧に布で包むと、長箱の中に刀をしまった。
「お武家様、この刀は私が研ぎをかけて鞘をつけてから貴方さまにお納めします」
「わたしは伏見で刀の研ぎを生業にしているもんです」
「それは、手前のものではない」
「いいえ、あの盗人が置いていったものです」
「ほんもんの武士なら、おいそれと刀を置いて逃げるようなことは絶対おまへん」
それもそうだ。心中で自分もそう思った。刀は武士の魂。腰の差料がなければ、道に裸で立っているようなものだ。男は丁寧に刀の入った木箱を風呂敷に包んで背負うと、にっこりと笑って頭を下げた。
「刀はお預かりしました。わたしは光逸真五郎と申します」
「斎藤一と申す」
宿帳で使い慣れた名前を名乗った。それから真五郎と共だって山道を歩いた。人と言葉を交わすのは久しぶりな気がした。江戸から東海道を通って来たと云うと、「それはえらいことですな」と感心された。真五郎は、伊勢より東は一度も行ったことがないという。街道の分かれ道で、真五郎に伏見まで一緒に来て貰えないかと言われた。
「もう、日暮れも近い。また追い剥ぎに遭うやもしれん」
「こんなけ刀を背負ってても、わたしはひとつも抜けしまへん」
「斎藤様、刀を研ぐ間、どうかうちに泊まってもらえたら」
「なにも特別なことは出来しまへん、そやけど、宿代りになりますやろ」
急ぐ旅ではなく、洛中に着いたら宿を探そうと思っていた自分は真五郎の誘いを受けた。道中の用心棒か。自分は心の中でそう思った。俺などが一緒でもこの男は厭わぬのだな。
伏見がどこにあるのかもわからぬまま、男について街道を下って行った。真五郎の住まう長屋に着いた時、陽はすっかり暮れていた。真五郎は独り住まいのようだった。長屋の離れに通され、間もなく真五郎が作った雑煮を食べた。焼いた餅が入っていてうまい。
「斎藤様、障りがなければお手持ちの刀を見せて貰えますやろか」
二杯目の雑煮を食べていると、真五郎が部屋の奥に置いてある打刀を指さして尋ねた。自分は頷いた。真五郎は、手洗いに外にでると、白い布地を持って戻って来た。
「恐れ入ります。触らせてもらいます」
姿勢を正し畏まって刀を改める真五郎の眼は真剣だった。蝋燭を灯し、その傍で刀身を粒さに吟味している。
「鍔に近いところに小さい刃こぼれ、二か所」
「巾木を取り替えましょか。これは、ええ刀や」
「研がせてもらって、よろしいでっしゃろか」
「拵えも綺麗にして、そうですなあ。研ぎだけでも十日はかかりますなあ」
「頼めるなら、お願い致す」
真五郎は研ぎ直せば、刃こぼれは直すことは叶うと云って笑った。ありがたい。何度か抜いた刀だが、旅の途中に簡単な手入れしか出来なかった。刀を手放すにしても、刃こぼれをしていては値打ちが下がる。そんなことも考えた。真五郎は布で刀を包もうとした。だが、今一度自分でも刀をしっかりと吟味したいと思った。
「みてよいか」
「へえ」
恭しい所作で真五郎は両の手で打刀を差し出した。蝋燭の灯をそっと傍に移動させた真五郎は、少し離れた場所で正座をして待っている。自分は刀の柄に手を掛けた。その時、強い震動が起きた。まるで刀が強い力で揺れたような。吸い付くように己が手に力が入り、握りしめた指、手首、腕、そして心の臓、鳩尾から丹田にまで震動が伝わった。まるで刀と己の身が共鳴し合うような。よい拵えの刀は、柄が手に収まり一体感があるが、これはそれとも違っている。一瞬だが、音でも立てたように共鳴した。おかしなことがあるものだ。そう思いながら、ゆっくりと刀を鞘から出した。刀身は曇っていた。雨の日の後に、もっと手入れをしておくべきだった。血をしっかりと拭えておらぬか。後悔ばかりが先立つ。柄の縁にも血の跡が残っていた。人を斬ったから仕方がない。だが、幾ら旅の途中とは言え、もう少しちゃんと手入れをしておけば良かったと思う。
「研ぎを済ませて、巾木と縁、柄のまき直しをすれば、もっとお手になじみますよって」
「頼む」
真五郎は受け取った刀を丁寧に布に包むと、さっそく研ぎにとりかかると云って部屋を出て行った。自分は用意された布団に横になると、一瞬のうちに眠りに落ちて行った。
翌朝、まだ暗い内に目覚めた。厠に向かうと、工房の窓から灯りが漏れているのが見えた。顔を洗って着替えを済ませ、工房の扉を開けた。真五郎は板の間に座って作業をしている。そっと近づいてみると、真五郎は白い作務衣姿で、片膝を立ててしゃがみ一心不乱に刀を研いでいる。裸足の足の下に板が渡してあり、その板が手元の砥石の押えとなっている。右手で桶から掬った水を砥石にかけると、刀を水平にそっと石の上に置き、慎重な様子で位置を決めると一気に体重をかけるように滑らす。板を押える右足の指が大きく開いてはゆっくりと戻るように板を浮かせ、それに合わせて擦りつけた刀身が返る。刀研ぎを生まれて初めて見た。真五郎の指先は刀身の表面を確かめるように動く。その真剣な様子に、そっとその場を離れようとした。
「下研ぎです。これで刃こぼれはなくなります」
「ここ、ここに二つ刃こぼれがあったのは取り除きました」
自分は頷くしかなかった。真五郎は再び手を動かし始め、工房に刀身が砥石の上を滑る音がするだけになった。火鉢もなにもない板の間で、おそらく真五郎は一晩中作業をしていたのだろう。工房には様々な道具が置いてあった。どれもよく使い込まれて、埃ひとつかかっていない。壁の一番奥まったところに立派な檜造りの神棚があった。そこには太刀が置いてあった。天に向かって反り返るような姿は、大層凝った拵えで鞘の真ん中に結ばれた下緒は美しいものだった。総漆塗。暗い中に浮かび上がるような艶と輝きに驚く。
二礼し柏手を打って、手を併せた。江戸を出て無事にここまで辿り着いた。今日はいよいよ市中に向かう。父上に訪ねるように言われた吉田殿の所へ。己の身の振り方を決められるように。
外は明るくなり始めた。工房から裏庭に出た。町屋の裏は谷戸になり苔むした地面と敷石が続く。誘われるように庭の奥に行くと、小さな祠が見えた。両側に楠の大木が覆うように生えている。祠の前の石畳に上がって、手を併せた。心に願うことはさっきと同じ。
己の進む道を決めることができますように。
石畳から降りて離れに向かった。工房から続く渡り廊下で囲まれた一帯は小さな社のようだった。苔の匂いと瑞々しい空気。長屋の前の通りとはまるで違う静寂な空間。心が落ち着く。草履を脱いで渡り廊下に上がり、奥の間で身支度をした。間もなく、真五郎が朝餉を用意してくれ、二人で向かい合うように座って食べた。
「刀は、今日から数えて十日の後に仕上がります」
自分は頷いて、食事を続けた。これから向かう先は上京。直ぐに発てば数刻で吉田殿の家に辿り着くだろう。
「大層世話になった」
「いいえ、なにもお構いできへんままで」
食事を終えると、荷物を持って工房に向かった。真五郎は作業場から立ち上がって。数振りの刀を広げた布の上に並べた。
「刀が仕上がるまで、こちらをお使いください」
「どれも、ええ刀です」
真ん中の刀の佇まいが気に入り、手に取ってみた。鞘から抜くと、細身で軽く扱いやすい。反りが殆どなく、降り降ろすより突きに向くと心中で思った。他の二振りも良い品だったが、最初の一振りを借りることにした。
「では、これを借り受ける。礼を言う」
「へえ、では十日後に、お待ちしています」
.
通りに面した間口で真五郎に見送られて市中に向かった。通りはどこも商いで賑やかだ。江戸を発ってから大きな宿場を何度も通ったが、伏見はどこよりも華やかに感じた。多くの人出に祭りでもあるのかと思っていると、伏見稲荷に出た。大きな参道の前をそのまま横切るように北上する。街道は人の行き交いが多い。荷車が勢いよく走り抜ける。東福寺の傍の茶屋で、「ようこそ、おいでやす」と声を掛けられた。茶屋には、「洛中へおいでやす」と書かれたのぼりが立てかけてあった。いよいよ市中に入ったと思いながら、ずっと川沿いの道を歩き続けた。
つづく
→次話 庇の影 その3へ
(2021/02/16)