ブログ【小説更新情報】庇の影 その二

ブログ【小説更新情報】庇の影 その二

皆さん、こんにちは。

庇の影 その二」をアップしました。序章の続きです。

今回は尾張の国吉田宿から京の伏見までの道行を描きました。江戸時代の東海道の旅は、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」がよく知られていますね。当時の風俗や実際の旅の様子が描かれていて、滑稽な話が多い。今回も沢山参考にさせてもらいました。

山口一は江戸を出奔して、手持ちの路銀は十分に持っていますが、旅の始めの頃から野宿や木賃宿を利用することが多く、人を避けての移動を心掛けています。今回は近江の大津を出て、いよいよ洛中に向かう途中、山科で光逸真五郎に出逢います。

真五郎は私の捏造したオリジナルキャラクターです。「濁りなき心に」の「寺田屋」「池田長兵衛」に登場しています。伏見大坂町の長屋に刀研ぎの工房を持つ町人。山科で真五郎と出会ったことから、山口一は上京には向かわず、街道を伏見に向かいます。伏見は洛外なので、上洛は一日先延ばしになりました。

自分の先行きへの不安や拠り所の喪失を実感した斎藤さん。山科で真五郎に出逢うまでは殆ど他人との接触はないようです。ただひたすらに内省のような時間を過ごし、腰の打刀を研ぎに出す目的も、「刃こぼれがあっては、値打ちが下がる」と「刀を手放す」ことを考えているようにも見えます。

「斎藤」姓を名乗り始めたのは、旅籠の利用を始めた箱根宿以降。宿の帳付けで名乗る必要があったので、その時に偽名を使いました。どうして「斎藤」と名乗ったのか、二次小説の独自設定を書きますね。

山口一が元服した頃、江戸神田の外れにある小さな剣術道場の一番弟子でした。門人は他にもう一人。二人とも通い弟子です。非常に小さな道場で他道場との交流はありません。剣の師匠は高齢で病に倒れ、道場の後継人を立てることなく亡くなります。道場は閉鎖され、もう一人の門人は上総の国に帰り、山口一は稽古の場所を求めて、上野界隈の道場の門を虱潰しに叩くことになります。道場閉鎖の際、師匠のご遺族の引っ越しや、書状の代筆など手伝い世話をした際、「斎藤某」という宛名を幾度も書く事になりました。

江戸を出奔後、初めて旅籠に泊ったのは箱根の関所を超えた辺り。宿の台帳に記名する際、とっさに「斎藤一」と偽名を使ったのが始まりです。本名の「山口」と全くかけ離れた名前。以前に書状で何度も書いていたので、さらさらと書く事ができました。山口一の偶像崇拝の対象は幼少の頃から頼光四天王の「渡辺綱」です。「甲陽軍鑑」に出て来る山本勘助も大好き。「塚原卜伝」にも憧れ、偽名の候補として「渡辺」「山本」「塚原」を考えていました。「山本」は「山口」に似ているから却下しました。

  • 渡辺一
  • 塚原一

この二つを使おうと思っていたのに、筆を持つと書き慣れた「斎藤」のくずし字を使ってしまった。以降「斎藤一」を宿帳に記すようになりました。すみません、特別面白いエピソードでもなんでもないです(・∀・)

設定ではいろいろと考えてみたのですが、江戸の道場のもう一人の門人が「斎藤姓」だったとか、でも結局、自分の身元が判らないようにする工夫が必要で、全く親類縁者知人に繋がりのない「斎藤」姓を名乗られたのかなとも考察しました。現存している記録では、浪士集まりが京での残留を願いでる会津藩提出嘆願書*1に、「斎藤一」が記されているのが最初期のものです。可能性として、このタイミングで姓を「山口」から「斎藤」に変えたことも考えられます。斎藤さんの他にもう一人、京で合流した隊士に「佐伯又三郎」がいます。二人の出身地が「江戸」と記されている*2為に、佐伯と斎藤さんが一緒に江戸から浪士集まりに加わったとすると、斎藤さんと佐伯が一緒に上洛したとも考えられる。そして、壬生村の近藤勇を訪ね、結果浪士集まりに合流することが事前に取り決められていたかもしれず。本当に斎藤さんの上洛と浪士集まりに合流した詳細は謎ですね。

この辺りは、想像を最大限に膨らませて、創作しようと思っています。

先日「オトメイトスタイル」が自宅に届きました。薄桜鬼情報は冒頭ページに特集があって、付録のクリアフォルダが素敵です。私は斎藤さんの口角が下がった不愛想な厳しい顔が大好き。少し丸顔風なのもいいですね。今回の絵、とても気に入っています( *´艸`)

新解禁情報については、公式からネット公表されてからブログでも触れますね。

ここまで読んで下さってありがとうございます。

また小説の続きを書いたらアップします。

ちよろず

出典* 1「志大略相認書」
*2「世話集聞記」伝文に近く、史料としての信ぴょう性は低い。

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