佐伯陸軍出張病院

佐伯陸軍出張病院

明暁に向かいて その35

明治十年七月十三日

 高床山で負傷した斎藤が佐伯の大日寺(だいにちでら)に運ばれて来たのは、夜中未明。黒澤村から地元人夫が持つ松明で照らされた山道を陸軍医療部隊がひたすら走って負傷者たちを搬送した。佐伯港に近い大日寺の本堂が陸軍出張病院として設えられていたが、既に堂内は傷病兵で満員状態だった。

 大日寺は境内の庭に即席で包帯所を設けていた、意識のある銃隊頭の本城充之進は包帯所で手当てを受けた。幸いなことに銃弾は右肩の鎖骨を外れ、主要動脈も外れていた。焼尾での圧迫止血が功を奏していて、上腕筋だけが損傷している事が確かめられた。一方、左腹部に銃弾を受けた巡査の田中は、意識が朦朧としていた。本堂に運ばれた田中は、再び傷口を開腹する処置がとられた。肋骨の真下を銃弾が貫通。左の肋骨にひび、腎臓に損傷はみとめられないが、銃弾貫通時の衝撃で腸菅に傷が出来ている事が考えられた。再び傷口を縫合して止血。痛み止めにモルフィネが経口投与された。

 斎藤は、完全に意識がなかった。呼吸困難な様子で右肋に貫通した銃創があったため、肺損傷が疑われた。直ぐに傷口を切開して内腑の状態が確認された。前方から飛んできた銃弾は、第五真骨(肋骨)と第六真骨の間を肺をぎりぎりにそれて貫通、銃弾が体内に入った衝撃で肋骨にひびが入っていた。恐らく衝撃で右肺の中が損傷している可能性があった。聴診器を胸に置いた医師は異音を確認した。肺胞の損傷。呼吸が浅いことが深刻だが、命に別状はないという診断だった。斎藤の出血が多量なため、絶対安静が言い渡された。止血の後に右肋骨を固定。モルフィネが投与された。

 境内は傷病兵で満員だった。痛みに苦しむ者の声がずっと聞こえていた。梅雨が明けて、夜間も蒸し暑い夜。看病夫が朝方になっても手当てに追われていた。

 七月十五日。丸二日経って、やっと斎藤の意識が戻った。呼吸が浅く、右胸の痛みを訴えた。医師から右肋を撃たれて佐伯まで運ばれたと説明を受けると、斎藤は二番小隊の無事を確認したがった。警視隊は日向との県境で戦闘が続いている。黒澤村から運ばれた部下の巡査二名も命に別状はないと報告すると、ようやく斎藤は落ち着いたように目を瞑って再び眠りについた。この日の午後、斎藤は田中や本城とともに、近隣の久成寺(くじょうでら)に転院した。本堂の空気窓の傍に敷かれた清潔な布団の上に身体を横たえた斎藤は、医師からモルフィネの調達が遅れている為、痛み止めを与えることが出来ないと説明を受けた。斎藤は頷いた。呼吸をすると痛みが走るが、それより吸える空気が圧倒的に少ない事が辛かった。自分の胸から起きる泡がはじけるような音も奇妙に感じていた。医師は、新鮮な空気をできるだけ吸えるように、看病夫と一緒に布団を空気とりの窓の傍に移し、斎藤の顔が空気孔に向けられるように枕を調整していった。

 斎藤が入院している間、二番小隊は、平田小警部の指揮で焼尾から更に南下した。宮崎県延岡との境にある津島畑山で台場を築き、延岡に集屯している薩摩軍の北上を阻止し続けた。重岡の伝令使詰所で、徴募隊の戦況が各別働旅団と司令官へ伝令された。戦況は、陸軍出張病院にも報告され、重篤な負傷者は海軍の手配で鹿児島、日向、佐伯の港から大坂臨時陸軍病院に搬送されていった。

 それから更に、数日間医療物資の到着が遅れていたため、痛み止めがないまま斎藤は虫の音の息で横になっていた。



*****

津島畑山

二番小隊 警視徴募隊陣営

明治十年七月十三日

「ちょいと、ごめんなすって」

 天野が立ち上がると、それまでワイワイと騒いでいた巡査が一斉に鼻と口を手で覆って構えた。皆の前で制服の上着を尻まくりするように立った天野は盛大に放屁した。

 やめでぐれ

 失明する

 皆が制帽で煽いでは逃げ回る

 ガハハハと天野は笑っていた。「芋食って、酒飲んだら、出るわ出るわ」といって、皆を追いかけ廻した。

 天野は腹の中腐ってる

 近づくな

 二番小隊の巡査は皆が鼻を覆って逃げた。天野に掴まった佐藤常吉が、掴み屁を嗅がされて目をぎゅっとつぶったまま仰向けに倒れた。

 ねず吉死んだぞ

 皆が倒れた佐藤を囲んで大笑いしている。「お、今度は催した。いかんいかん、実がでる」と云って、天野は厠に走っていった。

 陣営の外れの林で用を足した天野は、ズボンを上げながら夜空を見上げた。満月の夜だった。ほろ酔いで気分がいい。ふとその時、傍の林に光るものが見えた。不思議に思った天野は、そのまま山の斜面を下に降りた。藪の向こうは小さな段になっていて、そこに津島が座っていた。手には何か光るものを持って、それがきらきらと月明かりを反射していた。何かを右手に持ってじっと眺めている津島は、天野が抜き足で近づいても気がつかないようだった。

 わっ

 天野が津島の背後から大声を出すと、津島は飛び上がって驚いた。ガハハハと笑う天野に、津島はたじろぎながら、両手を後ろに回した。

「なにやってんだ、こんなところで」

 天野が尋ねても。津島は真顔のまま黙っている。天野は津島の背後にまわって、「何かきらきら光ってたぞ」と津島の左手をとって中を確かめた。津島は身をよじるように、天野の手を振り払った。その時、津島のもう片方の手から写真が天野の足元に落ちた。

「なんだ。何を隠した?」

 天野は、写真を拾うと「女の写真か?」とにやにやとしながら、月明かりにかざして見た。津島は飛びつく様に写真を奪おうとした。天野は笑いながら津島の手を振り払ったが、写真を見ている内に、だんだんと真顔に変わっていった。

「これ、……奥さん……じゃねえか」

 天野が持っている小さな写真には、千鶴が写っていた。髷をゆった笑顔に白い着物を着ている。それは、最近の奥さんの姿というより、まだ西洋髪を結う前の懐かしい姿だった。

「返せ」

 津島が天野に体当たりするように写真を奪った。天野は、津島の腕を掴んで離さなかった。

「なんで、お前がその写真を持ってんだ?」

 天野は咎めるような口調で尋ねた。「盗んだのか?」と天野は顔を覗き込んだ。津島は、首を振るように顔をそむけた。天野は、「さっき光ったものはなんだ?」と詰問した。津島は、小さな声で、「関係ないだろ」と答えて。腕から逃れようとした。

「おまえ、その写真。主任の荷物から盗んだのか?」

 天野の声が響いた。そして、津島の腕を掴んで、もう片方の手を力ずくで開かせた。津島は銀色の髪飾りを手に持っていた。小さな銀細工。鈴蘭の形をした。これが光っていたのか。女の髪飾りと奥さんの写真。髪飾り、鈴蘭、……すずらん、奥さん……。

 茫然としている天野の手を振り払って津島は踵を返した。天野は津島の肩を持って、引き留めた。

「おい、その写真を渡せ」

 命令するように天野が云うと。津島は肩を振り切るようにして坂を上ろうとした。天野は津島の態度が気に入らなった。「おい、なんとか言えよ」と云って、思い切り腕を引いて坂から引きずり降ろした。津島は肘で天野を突き飛ばした。尻もちをついた天野が逆上して津島に襲い掛かった。抵抗する津島の胸ポケットから写真を掴むと、地面を蹴って走って坂を駆け上がった。津島は、背後から天野に掴みかかり、二人で再び坂の下まで転がり落ちた。転がりながら、津島は思いきり天野の頬を殴りつけた。

「返せ」

 津島は本気だった。天野が思い切り腕を上げて遠ざけ、津島が手に取ろうとすると左手にすり替えて、更に遠ざけた。津島は、狂ったようになって天野の顔を殴り付けた。逆上した天野は津島の肩を掴んでひっくり返ると、今度は自分が馬乗りになって津島の腹や顔を力いっぱい殴り付けた。津島の口の端が切れて血が流れた。津島は天野が殴るのを止めた隙に、天野を突き飛ばして逃れ、土の上に落ちた千鶴の写真を必死で取り返した。津島は肩で息をつきながら大切そうに写真の土を払うと胸に仕舞った。仰向けになったままの天野は荒い息のまま、「津島、おまえ」と呼びかけた。

「主任は、死にかけてんだぞ。そんな主任からなんで、奥さんの写真を盗む」

 天野は、はあはあと息をつきながら尋ねた。ずっと津島は俯いたまま首を振り続けていた。小さな声で「盗んでなどいない……」と津島が呟く声が聞こえた。津島は地面に膝をついたまま、両膝を突っぱねるように拳を握りしめていた。ずっと俯いて黙っている津島に、「じゃあ、なんでお前が奥さんの写真を持ってんだ?」と起き上がりながら尋ねた。

「貰ったんだ。……あの人から……出征の時、お守りに……」

 津島は項垂れたまま、小さな声で呟いている。「盗んでなどいない……」そう言って、首を横に振っている。

「お守りと一緒に包みに入っていた。奥さんがくれた刀袋も……手紙も……」

 ぽつぽつと呟くように話す津島は、小さくなっている。天野には何の事だか解らない。酷く混乱した。主任の奥さんの写真を津島が貰った……?出征の時に自分も明神様のお守りを貰った。だが、なんで奥さんが津島に写真を渡すんだ?

「なんで奥さんがお前に写真を渡すんだよ。奥さんだぜ、主任の」

 啖呵を切るように天野が胡坐をかいて強く津島に訊ねた。津島は、しゅんと小さくなったままじっと黙っていた。天野は「おい、お前、まさか……」と呟くと、四つ這いになって勢いづいて、津島に近づき、下から顔を覗き込んだ。津島は小さく震えていた。青白い光の中で、津島の眼から涙がポトリと膝に置いた手に落ちた。

「忘れようと思っても、どうしようもない……」

 天野は驚いた。津島が泣いている。ぽとり、ぽとりと涙の粒が落ちている。なんてこった。こいつ、そうだったのか。天野は東京での日々を思い返した。

「いつからだ?」

 天野は驚きながらも静かに尋ねた。ずっと黙って泣き続けている津島が、「初めて会ってからずっとだ」と小声で答えた。そして、手の甲で涙を拭うと「戦に来る前に、気持ちは伝えた」

 いつ死んでも後悔はない

 津島はそう言って、じっと口を噤んだままになった。天野は何も言えなかった。何がどうなったのか、こいつが奥さんに言い寄るなんてことが。いってえ、ぜんてえ、どうなってんだ。天野は混乱しながらも、しゅんとなっている目の前の津島を不憫に思った。こうして、こっそり厠のついでに、写真を眺めるぐらいしか出来ないのだろう。そんで、奥さんも奥さんだ。なんでまた、あんなにっこり笑った写真をこいつに渡したんだ。

 天野は腕組みをして考えこんだ。奥さん、主任、そして津島。どうすっ転がっても、津島は斬られる。戦で生き延びても、東京に帰ったら斬られる。主任は奥さん命の魂だ。

 一刀両断だ。

(可哀そうだが、相棒。ここはスッパリ諦めろ)

 天野は独り大きく頷いた。そして立ち上がると、津島の背中の土埃を払ってやった。そして、津島を助けるように立たせると、陣営に帰るぞと声をかけた。それからずっと、津島は無言だった。水場で顔を洗ってから天幕に戻った。天幕の手前で、津島は「どうか誰にも言わないで欲しい」と天野に頼んだ。

「当たり前だろ。主任に知られてみろ、俺ら二人ともお陀仏だ」

 囁くように天野はそう言うと、微笑みながら天幕の入り口に立って、「天野二等巡査、ただいま厠より帰陣しました」と叫んだ。そして、就寝の準備を始めていた巡査たちを前に、再び笑顔で「屁が出る」と云って大騒ぎを始めた。

 二番小隊の天幕からは、消灯まで皆の笑い声が響いていた。



*******

久成寺 本堂にて

 斎藤が佐伯に運ばれてから数日が過ぎた。

 胸の痛みは依然変わらず、呼吸の苦しさは自分の胸にひゅーひゅーという風が響くような音を立てていた。息苦しさと深い息をつこうとしても力が入らない。なんとか、空気孔の隙間から外気を吸いこめているような。外の暗さからするともう陽が落ちていることは明らかだった。斎藤は、目を瞑って眠りにつこうとした。

 眩しい

 眩しい光に気づいたのは、それから数時間は経っていた頃だろう。空気孔の隙間に、明るい光が射していた。斎藤は外に何か強い光が当たっていると思った。空気孔に目を凝らしても、外を見ることが出来ない。誰だ。誰が外を明るく照らしている……。

 明るい光は段々と柔らかな色になってきた。温かい光。その光は空気孔を通って斎藤の顔に、そして全身を照らし始めた。優しい光。斎藤は自分の全身を見た。明るく照らされているような。光に包み込まれている。何だ。これは。そう思った時だった。

 布団の足元に細い足が見えた。それは長い美しい鳥の足で、なだらかな鳥の胴体に繋がっていた。すっくと立つ大きな鳥は全身が輝く様に白い美しい丹頂だった。優しく羽根を畳むように肩を降ろすと、長い首を伸ばして会釈をするように首をもたげた。伏見がちな瞳は、長い睫毛が降りて、その先から零れるように涙の粒が伝って落ちた。斎藤の布団の上掛け、足の辺りに落ちた涙から小さな桃色の芽が生えたのが見えた。小さな芽がゆっくりと開き、やがて双葉が出て茎が伸び、どんどんと成長していった。小さな木が斎藤の足元に伸びている、やがてその木に赤い美しい花が咲くと、しだいに花が閉じて子房が膨らみ大きな柘榴のような実になった。丹頂はその美しいくちばしで、ついばむように花の実を摘むと、ゆっくりと斎藤に渡すように差し出した。斎藤は左の手を伸ばした。

 桃色の光に包まれた大きな実は、斎藤の差し出した掌の上に乗ると明るく輝き始めた。その光が次第に斎藤の全身を包み込むと、それまでに感じていた胸の痛みが嘘のように立ち消えて行った。吸い込む息には温かい光が入り、力強く全身に呼吸が届いた。みなぎる力。身体が生き返った。

 吉祥果か

 斎藤がそう呟くと。丹頂はその美しい瞳を伏せるように頷いた。そして、空中に金色に光る文字が綴られた。

 はじめさん、逢いたい

 はじめさん、吉祥果が咲きました

 新しい命が宿りました

 はじめさん、あなたに逢いたい

 はじめさん、どうかご無事で

 斎藤はその文字を見て、優しく頷いた。そうか、自然と顔が綻ぶ。こんなにも嬉しいことがあるだろうか。俺も会いたい、千鶴。大事はないか。斎藤は、丹頂に向かって尋ねた。鳥は宙に浮かんだ金色の文字がゆっくりと斎藤のもとに降っていくのを確かめると。斎藤の頬と髪をそのくちばしの先で優しく撫でてから、大きく羽根を広げた。輝く光で、お堂の中は明るく輝いた。その光の中にだんだんと溶けるように千鶴の魂は消えて行った。

 夢の中のようだ。斎藤は思った。左の掌に受けた吉祥果の感触も幸せそのものの重みも、全てが残っている。有難い。大丈夫だ。直ぐに良くなって、戦を終える。

 そして帰ろう

 愛しいお前のもとへ

 斎藤はそのまま、目を閉じて深い眠りについた。



******

帰隊

 翌日の午後、ようやく佐伯に医療物資が届いた。医療班が持ち込んだモルフィネを持って、医師が重篤な患者から優先的に痛み止めを飲ませ始めた。斎藤の胸に聴診器を当てた医師は、斎藤の肺泡の音が正常に戻っていることに驚いた。斎藤は痛み止めは必要がないといって断ると、医師は傷口を見て、驚異的な回復力だとさらに驚いていた。既に縫合から四日目にして、傷口が完全に乾いていた。医師は、念の為に肋骨は固定したままにしておくと言いながら、丁寧に包帯を巻きなおした。そして、ひと月もしたら、帰隊できるようになると微笑んだ。

 斎藤は希望を持った。

 その後、経過は良好だった。毎日朝夕に前線の戦況、警視徴募隊の守備状況の報告を詳細に受けることが出来た。斎藤の部下二人も経過は良好だった。枕元に置かれた認証の半紙に書かれた、患者が重篤かどうかを知らせる【〇】の数は、三つから一つに減って行った。八月十日を過ぎた頃、政府軍は延岡での西郷軍壊滅作戦を計画。五万の兵の投入が予定されていた。警視徴募隊は、延岡と佐伯の境にある波当津(はとうず)で、後備軍として待機しているということだった。

 八月十二日 斎藤は完全に床上げをした。胸の固定もとれて、包帯を巻いた上にシャツを着て、制服を羽織った。本城は肩から腕を吊るした状態で、上着を羽織り境内で斎藤と一緒に歩行訓練した。巡査の田中は、痛み止めの使用が長引いたため、八月いっぱいは入院することに決定した。そして二日後、斎藤と本城は早朝に、佐伯を出立し七時間かけて波当津まで移動した。

 午後三時を回った頃、最後の峠に差し掛かった。本道の向こうから、走ってくる巡査の姿が見えた。佐藤常吉だった。満面の笑みで、鼠のように素早く近づくと、「半隊長、若様、お迎えにあがりました」と頭を下げた。帰隊の知らせは送っていなかったと斎藤が不思議そうに云うと、匂いと音で分かったと鼻を擦りながら嬉しそうに佐藤が笑うので、斎藤も思わず微笑んだ。

「出迎えご苦労。高床山では、勇猛に闘いよくやった。大した手柄であった。随分と間が開いたが、佐藤が居たお陰で小隊が無事に退却できた。礼を云う」

 そう言って、斎藤は頭を下げた。一緒に、本城も深々と頭を下げた。佐藤は照れ臭そうに鼻を掻いていたが、すっくと背筋を伸ばすと挙手敬礼をして、

「無事のご帰還。大変喜ばしく。僭越ながら、随行仕りたく」

 立派な挨拶をした。斎藤は、「相分かった。任せよう」と返事をして歩いていった。佐藤は、よいと断っても、斎藤と本城の荷物を全部背負って歩くと言って聞かなかった。日焼けをして、随分と逞しくなった佐藤を見ながら、斎藤は本城と眼を見合わせて頷き合った。

 夕方に徴募隊の陣営に戻った斎藤と本城を二番小隊は大喜びで迎えた。

 斎藤の正式帰隊は八月十五日とされた。後備軍には、おそらく戦闘の要請はないだろうということだった。直後に別働第三旅団は延岡での勝利、それから政府軍は日向を南下し、飫肥を攻略後、八月の終わりには内陸の都城の薩軍を追討し、宮崎から西郷軍を追討した。



******

八月二十三日 東京小石川

 お盆を十日も過ぎた頃、千鶴は子供に食事の支度をして食べさせた後、台所でなんとか片付けを済ませた。水を少し飲んで、土間からの上り口に腰をかけると。そのまま力が抜けたように横になった。

 なんとか水だけは喉を通っていた。廊下を坊や二人が走りまわる音が聞こえる。坊やの笑い声と、猫の坊やの爪が床を滑ってひっかく音。楽しそうな声……。

 どうか、神様。このまま冷たい風が吹く様な。そんな場所に連れていってください。

 千鶴はそっと目を瞑った。

 雪が一面を覆った五戸の風景

 斎藤に寄り添って立ちながら

 ただしーんとした静かな地平を眺めた

 遠い日々。真っ白な雪はきらきらと光って

 雪が大好きなはじめさんと

 ただ黙って静かに雪景色を眺めた

 吸い込む空気は清らかで冷たくて

 吐く息はずっと先まで白く

 雲の間から照らす柔らかな光

 雪は何もかも覆ってくれる

 その白さで

 穢れもなにもかも浄化してくれるようだ

 静かにはじめさんが呟く声が聞こえる

 千鶴は、心の中の風景の中に居た。気分の悪さがすーっと消えてなくなるように楽になった。

 静かに起き上がった。それから数刻の間、動く事が出来た。居間の片付けをして、洗濯物を干した。子供が庭で水遊びをしていた。再び、気分が悪くなってしまい縁側で横になった。そんな矢先だった、診療所の門に逓信部の山形が神夷を連れて現れた。

「こんにちは。奥さん」

 山形は、逓信部の制服を着たまま会釈した。子供が神夷に突進していった。山形は手際よく、神夷を厩に繋ぐと水を飲ませた。千鶴は、身仕舞を整えてから厩に向かった。山形は、子供が神夷の背中によじ登るのを手伝っていた。そして、振り返ると、斜めに掛けた鞄を取って、今日は九州から入った電信を報せに来たと新聞を取り出した。

 千鶴は、山形に縁側から居間へ上がって貰った。東京日日新聞の紙面を広げてみせた山形は、

「ここです」と指を差した。紙面には以下のような記事が書かれていた。

【戦報採録拾遺】

 該地出張の大庭氏より郵送せられたるものなり。

 轟越の諸兵も午前三時森崎を発し、丸市尾に至り、警視二番小隊を二分し、半隊長藤田五郎小隊長を引いて陸軍の兵と合し本道を進み、分隊長遊佐正人半小隊を率いる陸軍兵と合し間道日平峰を超えて進撃し、鶴羽峠の賊塁を抜き尾撃して高床の山上に登る。

 是より先、藤田五郎右翼の兵を率いる福原峠を越え焼尾に至り、賊塁を撃って直ぐにこれを抜き、又兵を高床に進め砲撃して之に当たる。この時、藤田五郎銃創を負ふ。故に暫く兵を焼尾に退くるといへども、左翼の兵己に迂回して高床の賊兵を攻撃す。於是再び兵を高床に進め之を撃つ、賊兵遂に拒ぐ能はずして退走す。

 千鶴は、「藤田五郎銃創を負う」と読んで、口元を両手で覆った。はじめさんが撃たれた。千鶴は震えだした。山形は、これはひと月以上も前の戦闘ですと記事の最後を指さした。確かに、七月十二日と書かれていた。

「奥さん、これが今朝届いた豊後口警視徴募隊の活動報告です」

 山形は走り書きのような書状を千鶴に見せた。九州からの電信伝聞をそのまま写して来たという。

 薩軍は宮崎以南に完全追討。官軍は別働第一旅団、別働第二旅団大隊で鹿児島包囲。海軍により延岡日南の海域封鎖。西郷軍の追討壊滅を目指す。別働第三旅団は解団し、薩軍捕虜の収容作業の為鹿児島県警施設設営。豊後口徴募隊は、八月二十五日波当津で警備陣営設立。豊後一帯の農民一揆、戦火の被害地の救済を行う。徴募隊第一大隊及び四番、五番小隊は指揮長園田警部で米津、蒲江に駐屯。一番小隊指揮長千葉束警部補、二番小隊指揮長藤田五郎警部補は丸市尾一帯担当。六番小隊指揮長平田小警部は臼杵方面。

 山形は、【藤田五郎警部補】と書かれた箇所を指さした。

「この【丸いちお】って所に。藤田さんは指揮長としていらっしゃる」

「こういう風に、指揮長として伝聞に上がるのは、無事に任務に就かれてるってことです」

 山形は、心配そうに紙面を必死に読んでいる千鶴を元気づけた。【警備陣営】とあるので、戦じゃない。伝聞では豊後は戦が終わって、戦火で荒れた地元への物資が必要だとありました。

「きっと、藤田さんはご無事です。帝都にいらっしゃる時のように、警視官としてご立派にお勤めされています」

 千鶴は、山形の言葉に励まされた。そして、お茶も出していなかったと、謝って台所に行って用意を始めた。はじめさん、怪我をされたのが七月。千鶴の胸は張り裂けそうだった。何も知らずに……ひと月も……。戦はまだ続いている。私が気を落としていては。千鶴は、気持ちをしゃんとさせて、昼餉の準備も始めた。山形は、再び厩で子供と神夷の相手をしてくれていた。お昼を山形と子供に食べてもらい、久しぶりに神夷と触れ合った千鶴は気持ちが落ち着いた。

 山形は、また何か豊後口の様子が判ったら知らせると云って、神夷と帰っていった。



****

東京小石川

総司との諍い

 その日の夕方、千鶴は機嫌よく遊んでいる坊や二人を中庭に置いたまま、門の外に豆腐売りを追いかけて出て行った。最近、代替わりをしたお豆腐売りは若い青年で、あっという間に移動してしまう。笛の音を頼りに追いかけているが、なかなか見つからない。小さな木の桶を抱えたまま、千鶴は駆け足でぐるぐると町内を廻って探し求めた。

 やっと見つけたお豆腐売りは、「一番良くできたものです」といって、笑いながらお豆腐を一丁千鶴の桶に入れると、「毎度あーりー」とさっと目の前から居なくなってしまった。千鶴はやっと買えた豆腐の入った桶を抱えて、いつもとは違う筋から診療所に向かって坂を上っていった。陽は傾いているが、うだるような暑さ。朝夕だけでも涼しくなってくれればいいのにと、千鶴は溜息が出た。建屋の塀の影を探しながら、ゆっくり歩いていると、ふと見上げた塀の上にふわふわの尻尾が垂れ下がっているのが見えた。

 黒塀の上の柿の木の陰に総司が座っている背中が見えた。千鶴は「沖田さん」と声を掛けようと思ったが、その向こうに黒い猫の姿が見えて声を引っ込めた。黒猫は、しなをつくったような姿で総司の前に背中を向けて横たわっていた。長いしっぽが、ゆっくりと総司の肩や背中の周りにまとわりつくように動いている。艶めかしいその動きに、千鶴は言葉を失った。総司に気づかれてはいけないと思って、とっさに塀の影に身を隠してしまった。持っていた桶から水が零れて、前掛けと下駄を履いた足先が濡れてしまった。千鶴は息をひそめた。

 総司は気配に気づいているのか、気づいていないのか。ゆっくりと黒猫の背中を背骨に沿う様に下から上に舐めている。目の前の二人は、明らかに、事に及んだあとのていだった。千鶴は息を飲んだ。見てはいけないものを見てしまっているけど、どうすればいいのだろう……。動悸がしながらも、塀の上の二人から目が逸らせない。

(いやだ、私ったら。見ちゃだめ、見ちゃダメ)

 そんな風に思って首を振って俯くと、踵を返して元来た道を引き返してから遠回りして家に戻った。中庭で無邪気に遊ぶ猫の坊やを見ると、安堵と同時にだんだんと嫌な気持ちがもたげてきた。しゃがんで、坊やの背中を撫でながら、千鶴は大きな溜息をついた。そして、こんなに可愛い猫の坊やを放ったまま、沖田さんはあんなところで何をしてらっしゃるんだろう、と腹立たしくなってきた。千鶴はずかずかとお勝手口に入ると、豆腐の桶を流しに置いて、「もーーーーー」と叫び声をあげた。

 それから、まな板の上に南瓜を置くと「えいや」と包丁で思い切り斬りつけた。南瓜の実を皮ごと細かく千切りにしながら、「なんなんですか、いったい」「不潔です、沖田さん」「お千代さん、ですか」、「おみいさんの、目と鼻の先で、よくあんなことできるものです」、鼻息荒く千鶴は憤り続けた。

 そして、夕餉の支度が終わった。縁側の猫の食事処には、坊やのお椀に冷ご飯としらす干しの混ぜたものを置いた。居間のお膳で子供は南瓜のきんぴらと冷奴と焼き茄子を美味しそうに食べていた。千鶴は、一口冷奴を食べたが、直ぐに戻してしまい。水だけを飲んでじっと座って休んだ。目を瞑って、庭から吹く夜風にあたっていると、いつの間にか総司が戻ってきて、縁側から廊下に上がって来た。千鶴は「おかえりなさい」と声をかけることもなく、坊やの食べ終わった食器を片付け始めた。

 暫く廊下の食事処で、自分のお椀に顔を埋めていた総司は、隣で食事を終えて満足そうに毛ずくろいをしている坊やを見ながら体を起こすと。

「ねえ、なんでこれだけなの」

 そういって不満そうに千鶴を見上げた。総司の茶碗には朝に焼いた目刺しが一匹。総司は尻尾と頭を残して食べ終えていた。千鶴はつんとしたまま何も答えずに、お膳の上を片付けている。お膳の上からおかずの入ったお皿を全て片付けられて、総司は不満そうに「ふん」と鼻を鳴らした。

 もう、お外でお召し上がりになってくると思ってましたから。

 千鶴はすまし顔で答えた。二人の坊やに白湯を飲ませると、台所の流しの前で食器を洗い始めた。総司がのっそのっそとお勝手に入ってきた。

「一日、仕事して帰ってきたのに、目刺し一匹なんて。君、ずいぶんじゃない?」

 総司の眼は完全に怒りに満ちていた。

 千鶴は一瞬振り返って、総司を見たがすぐに前を向いて忙しく手を動かした。

「そうでしょうか。随分なのは、沖田さんです」

 千鶴は澄ましたまま、皿を洗い続けた。

「お仕事ですか。坊やを放ったまま、お千代さんとこに行かれるのが」

 総司は、眉を一瞬上げたが、そのままゆっくりと身体を土間の上り口に横たえた。

「まあね。近所の巡察は毎日でてるからね」

 総司は自分の肩口から胸にかけて舐めて毛づくろいを始めた。千鶴は、総司の開き直った態度に更に怒りがこみ上げてきた。お皿を扱う手元がつい乱暴になってしまう。

「巡察だなんて、昼日中からあんなところで、恥ずかしくないんですか」

「わたし、見ちゃったんですから。黒崎さんの塀のところ」

「よくも、みいさんの目と鼻の先で、あんなこと……。沖田さんは不潔です」

 総司は、千鶴の剣幕を見て、可笑しそうにクスっと声をたてた。そして土間に降り立つと、ひょいと流しの縁に飛びあがった。

「あんなことって、君。何をみたの?」

 総司の翡翠色の瞳は、さも可笑しそうな表情でじっと千鶴の顔を覗き込んでいる。

「言いたくありません」

 千鶴はつんと向こうを向いた。総司はクスクスと笑っている。

「何を見たか言ってごらんよ」

 ずっと首を伸ばして千鶴の顔を覗き込みながら、総司は微笑んでいた。

「お千代さんと睦まれてました。いやらしい、あんなところで」

 千鶴は吐き捨てるように云うと、つんと顔をそむけた。

「おチヨちゃんとはいつも仲良くしてるよ」

 総司は嬉しそうに微笑むと、土間に飛び降りた。そして尻尾をふりながら上り口に飛びあがった。

「あの子とは、僕がここで暮らし始めた頃から」

 千鶴は目を丸くした。そんなに前から。じゃあ、どうしてお千代さんのところにお婿にいかれなかったんでしょう。

「お婿?」

 総司はくっくっくと笑っている。君はどうしても、僕を誰かのお婿さんにしたいみたいだね。僕は、この通りさ。そう言って、総司は背筋を伸ばして綺麗に座ると、尻尾をゆっくりと揺らして丁寧に前足の前に揃えた。千鶴は、呆れて何も言えない。それじゃあ、おみいさんはどうされるんです。鵜飼さんのおみいさんは。坊やを産んで、今も沖田さんが通われるの待ってるんですよ。

 総司は、「うん」と嬉しそうに笑っている。「おみいちゃんは僕の可愛いお嫁さんだよ」と云うと、右の前足の肉球を舐め始めた。沖田さん、沖田さんは何もわかっていらっしゃらない。わたしは、嫌ですから。脇に別の女の人のところに通われてるなんて。

 総司は、前足を床に戻すと、「どうして、急にそんなこといいだしたの?」と一言尋ねた。前は、君、一言も僕にそんな事いわなかったじゃない。おかしな子だね。と笑いながら立ち上がった。

「君が嫌でも、僕はおチヨちゃんと会うのはやめないし、婿入り先にも通う。君が僕に夕餉の準備をしないなら、外で残飯漁りでもしてくるさ」

 そう言って、台所を出て行こうとのっそのっそと歩きだした。そして、最後に振り返って、

「夜更けに必ず戻るから、蚊帳の中にいれてね」

 そういうと、暗い廊下の向こうに姿を消した。千鶴は、しまったと思い、「沖田さん」と呼んで追いかけたが、既に総司は中庭から見えなくなっていた。千鶴は縁側に座って項垂れた。

 沖田さん、追いやってしまった……。

「ごめんなさい……」

 千鶴は俯いたまま小さく呟いた。

 本当に。沖田さんの仰る通りだ……。

 お千代さんの事は、ずっと昔から知っていたのに。

 どうして、今日はあんなに腹を立ててしまったのだろう。

 こうして、ずっと診療所で一緒に暮らしてくれている沖田さん。本当は他にも行きたい場所、暮らしたい場所があるのかもしれない。それでも、坊やと私の傍に居てくださっている。まるでいつも寄り添うように……。

 僕は、僕さ

 よく屯所でも仰っていた。沖田さん。土方さんや、幹部の皆さんが沖田さんに何かを従わせようとしても、沖田さんはご自分のやり方や道を通す方だった。それは正しい正しくないではなく、沖田さんが一番いいと信じてらっしゃる生き方。はじめさんもそれをよく解っていらした。

 千鶴は、総司に謝ろうと思った。

 ごめんなさい、沖田さん。

 わたし、どうかしてました。

 ご飯作って待っています。

 俯いたまま、寂しい気分でいる千鶴の元へ二人の坊やがやってきた。千鶴は二人を優しく抱きしめると、奥の間へ寝間の支度に向かった。

 総司は、中庭の塀の上からその様子をずっと見ていた。

 そして、ゆっくりと暗い夜空を見上げた。

 はじめくん、そっちはどう?

 戦を終えて、早く帰っておいで

 あの子が寂しがってる。

 せめて夢の中ででも

 ついでに手合わせもしようよ

 僕、腕がなまっちゃう

 総司は大きく欠伸をすると、そっと塀の向こうに消えていった。




つづく

→次話 明暁に向かいて その36




(2019.02.08)

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