帰還
明暁に向かいて その36
丸市尾集屯所
明治十年九月
延岡での敗退後、薩軍は南下し九月に鹿児島に突入した。それから官軍の占領下にあった私学校を奪回して中心地の高台である城山に立てこもった。薩軍の残党の兵数はおよそ六百。官軍は続々と鹿児島に集結し、城山を幾重にも防塁で囲み、完全な包囲陣地を立てた。攻める兵の数は五万。最終決戦は近かった。
一方、豊後口警視徴募隊として丸市尾に駐屯している斎藤たち二番小隊は、地域一帯の警備と物資の補給任務にあたっていた。豊後での戦は終わっていたが、丸市尾一帯は戦火と海上封鎖の影響で食糧難に陥っている。近隣の村同士で、食料や物資の盗み略奪などが起き、警視徴募隊は地域一帯の昼夜の見廻りに加え、陸軍兵糧施設の警備、地頭との物資調達の相談受付など地域鎮定作業は、実際の戦役より複雑な問題を抱えていた。
九月二十五日未明。鹿児島より西郷軍降伏の知らせが集屯所陣営に届いた。
終わった。
斎藤は安堵の溜息が漏れた。早朝に徴募隊員に暴徒追討終結の報告がされ、同時に撤退帰還準備の命が下ったと伝えられた。隊員たちは皆、悦びの声を上げた。
その日の内に、丸市尾の集屯所に別働第三旅団の第一大隊から黒江安彦小警部が地域鎮定及び撤退作業の指揮を執る為、部下五十名を連れて合流した。斎藤は黒江との久しぶりの再会に互いの無事を喜んだ。黒江は、都城まで薩軍追討に進軍したと、戦役の激しかった事を斎藤達に報告した。
斎藤は、丸市尾一帯の現況を報告し、黒江の希望で翌朝より各地への巡察を共にすることになった。
斎藤と黒江小警部が精力的に丸市尾の北方面の村落を巡察している間、部下の天野と津島が、略奪目的で軍施設に近づく怪しい地元民を二名捕らえた。二人の若者は、轟越の村落に暮らす元薩軍の農兵たちだった。薩軍に食糧を全て渡した為、村落は食糧難で畑の物は全て掘り起こして食べ尽くしたという。餓死する者が出ていると憤る二人は、そのまま物置小屋に監禁された。
夕方に巡察から戻った黒江小警部は、元農兵のいる物置小屋に直接出向くと、若者たちの拘束を解き、二人の話に耳を傾けた。それから若者二人に握り飯をたっぷりと食べさせ、村落を救済するために軍の兵糧を轟超に調達することを約束した。全てが黒江小警部の一存で決定し事が運ばれた。
「軍への物資調達願いん書類を急いで作って欲しか」
早朝に呼び出された半隊長以上の者は、黒江小警部に本営の事務に就くように命令された。斎藤は山のように積まれた申し出願いを記入清書し、朝一番の伝令便に間に合わせることが出来た。黒江は、海軍の海上封鎖を早急に解くように軍司令官へ陳情書を提出した。朝食の席で、黒江は一帯で起きている平民の諍いは、全て対応すると大声で宣言した。
「戦火に巻き込まれた者は、ないんとがもなか。我々が帰還すっまで平民が平穏に暮らすっごつすっのが我らん使命や。戦火で収穫が得られん地域は十分に物資を送って、これからもこん場所で平和に暮らすっごつす」
黒江は巡察部隊と陸軍兵糧藩を再編成し、各地域に派遣して炊き出しを行った。二言目には、「時間がなか」と黒江は厳しい表情で繰り返していた。
「来月ん終わりには、徴募隊は豊後からん完全撤退をすっ。こん時期に収穫がなかと、農民も漁師も、こん冬を越すのが難しか」
斎藤たちは、戦火で荒れた土地を均す作業にもついた。巡察に廻る時間は、全て農作業や開墾、物資調達や炊き出しに充てられた。陽が落ちて、陣営に戻ると皆が互いに一日の作業を労いあう。夕餉の席で、皆が車座になって上官、部下関係なく一日の作業で気になったことなどを話しあう。黒江は皆の話を親身になって聞くと。
「おいん一存で決めらるっことはなんでんすっ」
笑顔でそう云って、皆を安心させた。隊員が就寝すると、黒江は斎藤を呼び出した。
陣営から外れた、海の見える広場に立った黒江は斎藤に「戦は、終わった後が本当ん戦じゃ」と呟いた。斎藤は、黙ったまま頷いた。
「藤田さんは、先ん戦ん後は国替えにあったち聞いちょります」
「戦火で荒るっとも、新しか土地に移っともそけ暮らす民がいっばん苦労すっ。おいは軍人じゃっどん、本当ん戦は戦火ん後んこっじゃて思うちょっ」
斎藤は黒江が元陸軍(御親衛)の中佐であったとこの時初めて耳にした。斎藤と青山の練兵所で剣術稽古をしていた永井盛弘陸軍少佐とはかつての同僚だったという。永井少佐が屯田兵として北海道に駐屯した年に、黒江は同郷の川路大警視に陸軍から引き抜かれる形で警視官になった。
「弥一郎とは、同じ剣術道場で修練した。同じ釜ん飯を食うた」
黒江警部は永井少佐の事を【やいちろう】と呼んでいるようだった。永井少佐の妻【チカ】が、黒江小警部の従兄弟の妻の妹であったこと。その縁もあって、永井少佐が陸軍を退官後、薩摩に戻った後もずっと文のやり取りが続き、黒江小警部が私学校偵察の為に鹿児島警視に駐在している間も、永井少佐の自宅に行き来をしていたと話した。
「奥方が、亡くなって……。戦が始まったんな直ぐやった」
「熊本では立派な最期を遂げたときいちょっ」
黒江は衝背軍として、かつての親友である永井少佐と敵味方に分かれて闘ったと呟いた。斎藤は東京での永井少佐との日々を思い出していた。青山の少佐の自宅を監視していた日々。剣術稽古での交流。決して打ち解けた仲ではなかったが、その太刀筋や【秘剣】の技、物静かながらも、豪胆な薩摩隼人であり立派な軍人だったこと。そして、妻想いの優しい一面があった事も……。
(ご新造が亡くなられたのか……)
斎藤は病身の妻を抱えた永井の姿を思い出し、気の毒に思った。そして、この戦役で永井が戦死したことを残念に思った。
「永井少佐は真の薩摩隼人でした。立派な軍人であられた」
斎藤が静かに話すと、黒江は微笑みながら頷いた。それから二人で暫く、夜空の下に拡がる海を眺めてから、陣営に戻った。
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手紙
明治十年九月 東京小石川
九月の中旬過ぎ。千鶴は、総司の姉のおみつから長男の芳次郎が東京警視局巡査に採用になったと報せをもらった。近く預かって貰っている打刀を引き取りに伺いたいと書かれた文を読んで、返信を書こうと、奥の間に入った。
押し入れから、総司の姉のおみつから斎藤が預かった総司の愛刀を取り出した。斎藤が出征前に丁寧に手入れをしたものを、千鶴は刀袋に入れて大切に行李の中に仕舞っていた。確か、はじめさんは預かり証をしたためていた。それを思い出した千鶴は、物入れから斎藤の文箱を取り出した。
文箱の蓋を開けると、預かり証の写しと一緒に、「千鶴へ」と書かれた文を見つけた。自分宛の文。千鶴はそれを初めて目にした。そっと、襖の明るい方へ居ざると、文を広げて目を通した。
千鶴
長い間色々と世話ニ也厚ク御礼申上候
此御恩はいつまでも忘レハしない
今日の日の有ることヲ既ニ覚悟してゐて呉れたことと思ふ
もし己に万が一の事が有る時 願わくは
會津の地ニ泉下の者と一緒ニ葬ツテ貰いたく候
たとへ、此の身が戦地ニ於て露と消へても
魂となって千鶴と子を守りたく候
藤田五郎
明治十年五月十八日
千鶴殿
千鶴は衝撃を受けた。出立の日に書かれたもの。こんな……。千鶴は手紙を握りしめたまま畳に突っ伏して号泣した。家の中で千鶴は独りきりだった。坊や二人は玄関側の庭で遊んでいて、千鶴が声を上げて泣いているのを知らずにいた。
それから数日、千鶴は悪阻の症状が一段と強くなり、水を飲んでも直後に全て戻してしまうようになった。子供は機嫌よく遊び、食欲も旺盛だった。千鶴は食事作りだけは何とか続けていた。いつものように千鶴は、お昼の片付けをした時、台所の土間で腰から力が入らず、しゃがんで動けなくなった。そのまま後ろ向きに倒れたような気がした。直後に頭に強い衝撃を受けた。
目の前が暗い、坊や……。
千鶴が気づいたのは、その日の夕方。奥の間で布団の上に寝かされ、寝間着に着替えていた。枕元にはお多佳が心配そうに座って、顔を覗きこんでいた。
「千鶴さん、」
お多佳に呼ばれて、千鶴は身体を起こそうとしたが、お多佳に制止された。まだ、本調子ではないから横になっているようにと云われて、千鶴は再び横になった。
「お台所で倒れていたのを、お隣のお夏さんが見つけてくださったんですよ」
「さっきお医者様がお帰りになって。養生が必要だと。お水を少しずつ飲みましょう」
お多佳が吸い飲みを口に差し出すので、千鶴はそっと口をつけた。吸い飲みの水はほんのりと甘酸っぱくて、一口飲むことが出来た。それ以上は、欲しくないと云うと。お多佳は心配そうに、濡れた手拭で千鶴の口元を湿らせるようにそっと拭った。
「お腹のお子の為にも、こうやって少しずつは」
そう言って、お多佳は千鶴の手を握った。「こんなに痩せ細って……。さぞかしお辛かったでしょう」と優しく擦るように温めた。
「坊ちゃんは、お夕飯をたっぷり召し上がって、居間で遊んでいますよ」
お多佳は、そう言って千鶴に微笑むと、今夜はここについて居るからと千鶴を安心させた。それから、お多佳は頻繁に千鶴に水分を摂らせて、合間に小さく切った梨を口に運んだ。千鶴はなんとか一切れ果物を喉に通すことが出来た。吐き気は続いていたが、食べたものを戻すことはなく、そのまま横になったまま目を瞑っていた。お多佳が子供を風呂に入れて寝かせるというので、そのまま行灯を消した部屋で千鶴はうつらうつらと眠り始めた。
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丸市尾警視徴募隊駐屯所
明治十年九月の終わり
ほぼ新月に近い夜。消灯後の駐屯所の母屋で斎藤は横になっていた。
日中は残暑が厳しい豊後も、朝晩は過ごしやすい。今朝も早朝から陽が落ちるまで、丸市尾の北部地区の山間の灌漑工事を行った。二番小隊の部下十名と水路の掘削。地元人夫と力を合わせての作業は、随分と捗っている。斎藤は丸市尾の風光明媚な風景を眺めて、遠い昔に斗南藩で大番掛として見廻った田名部を思い出していた。灌漑を行っても不毛だった土地。手をかけても、荒涼とした風景が広がり、皆が絶望していた。斎藤は、丸市尾が豊かな土地柄であることに安堵していた。
戦ん後が本当の戦だ
黒江小警部の言葉がずっと心に残っている。戦役が終った後、残った土地で人々が絶望するような事は決してあってはならぬ。どうか、この豊かな土地で、民が平穏にずっと在るように。そんな風に心の中でそっと祈っていた時だった、母屋の表に明るい光が見えた気がした。外一帯を眩しいぐらいの光が照らしている。斎藤は簡易枕から頭を外すと、上体を起こして上着を羽織った。陸軍の緊急移動か。斎藤は靴を履くと、急いで外に出た。
母屋の外に輝く光が見えた。光の中に千鶴の式鬼が立っていた。羽を畳んだまま、じっと斎藤が近づくのを待った輝く鳥は、長い首を手向けるように伸ばした。瞳からは青い涙が流れていた。
はじめさん、はじめさん、
あなたに逢いたい
どうか行ってしまわれないで
逢いたい、あなた
涙は美しい文字になって丹頂の足元に池を造っていた。斎藤は伸ばした掌に涙の文字を受け取った。温かい涙。悲しそうな丹頂は、とめどもなくずっと涙を流している。どうしたのだ。いったい。斎藤は掌に受けた悲しみの涙に、千鶴の身に何かが起きたのだと思った。掌の涙を左の指先で掬うように取って、宙に文字を書いてみた。
千鶴、
なにがあった
大事はないか
戦は終わった
もうすぐ戻る
必ず戻る
宙に書かれた碧い文字は輝きながら、丹頂の胸に消えていった。斎藤は、式鬼がどういった仕組みで送られるのかがわからなかった。だが、自分にその力があるのなら、今すぐに、どんな事をしてでも千鶴の許へ行きたいと思った。
はじめくん、
耳に総司が自分を呼ぶ声が聞こえた。
そっちはどう
はやく戦を終えて帰っておいでよ
あの子が寂しがっている
はやく帰っておいで
丹頂が羽根を広げて光の中にぼんやりと溶けていった向こうに、総司が立っている姿が見えた。
総司か。
斎藤は前に一歩進んで、総司の影に近づいた。ぼんやりと見える光の中へ。
あの子が寂しがっている
心の中に響く総司の声に、「分かった」と答えながら斎藤は一歩一歩前に進んで光の中へ入っていった。
*****
頬に温かい何か。
千鶴はゆっくりと眼を開けた。一瞬、猫の総司がじっと顔を近づけているのが見えた。頬に感じる総司の肉球。温かい。そっとそのまま千鶴の頬を優しく撫でると、踵を返すように総司は背を向けた。同時に千鶴の首元に総司のふわふわの尻尾がゆっくりと触れて行った。
のっそりと歩く総司の後ろ姿が見えた。そしてその向こう。居間への襖が開け放たれた向こうに、総司が立っていた。こげ茶の着物に、深緑の山袴、足元は巾が巻いてある。髪は短く降ろしているが、襖の柱に背をつけてじっと見つめる姿は、京に居た頃の総司そのものだった。千鶴が布団から起き上がって、襟元を押さえながら立ち上がると、総司は微笑みながら顎で指さすように中庭を眺めた。
温かい夜だった。縁側の障子は開け放たれたまま。中庭に明るい優しい光がぼんやりと見えた。
千鶴は、総司の前をすり抜けると裸足のまま中庭に駆け下りた。
光の中に立っていたのは斎藤だった。
略服の制服を羽織るように纏ったまま
珍しくシャツの襟もとが無造作に開いていて
千鶴が縋り付く様に腕の中に飛び込むと
受け止めるように優しく抱きしめた
はじめさん、はじめさん
言葉にならない。あなた。愛しいあなた。会いたかった。
千鶴を抱きしめた斎藤は優しく千鶴の髪を撫でた。
千鶴、なにがあった
大事はないか
戦は終わった
もうすぐ戻る
必ず戻る
必ず戻る
はじめさん、はじめさん
千鶴は、ただ名前を呼ぶことしかできない。
耳に聞こえる「必ず戻るゆえ」という愛しい人の声は、だんだんと遠くになっていった。抱きしめ合ったまま、ゆっくりと消えていく斎藤に千鶴は頷きながら微笑み返した。
気づくと千鶴は褥の上で坊やと一緒に横になっていた。外は明るくなり始めていた。布団の足元に総司たち親子が丸くなって眠っている。台所から、お多佳が炊事をする音が聞こえていた。千鶴は慌てて起きると、支度を手伝いにお勝手に向かった。お多佳は、横になっていてくださいと言うが、今朝は気分がいいと答える千鶴を見て、安堵したように微笑んだ。
お膳の前に座った千鶴と豊誠の前に、次々にお多佳は朝餉を並べていった。
冷やした桃
玄米粥のうらごし
塩もみ胡瓜の三杯酢漬
豆腐のお味噌汁
子供にはおかかおにぎりに海苔を巻いたものが並べてあった。
お多佳が持って来た色とりどりのビードロの小鉢に盛られたおかずは、見ているだけでも美しくてうっとりとなった。
「これはみんな、歳三さんが硝子工場で試作に造っていた器」
「食べ物はこうして器に入ると、また味も変わって感じるから」
「あまり無理せずに、食べたいだけ」
「水も少しずつおとりになれば、大丈夫」
お多佳は、子供がもりもりと食べる様子を眺めながら、団扇で千鶴に風を送って微笑んでいた。
久しぶりの食事だった。粥がこんなにお腹に入るのもひと月以上ぶり。美味しい。千鶴はお多佳の気遣いが嬉しかった。お店や家も忙しいのに、こうして小石川まで来て世話をしてくれるお多佳。感謝の気持ちしかない。そして、土方もそうだった。ずっと忙しく関西に仕事に出ていたが、西南の戦役が終わったと、大急ぎで帰京して千鶴に報せに来た。
三井商船に警視庁から帰還用の船の発注があったそうだ。十月の終わりに豊後口の警視隊は帰京する。
千鶴は一気に元気が出た。ぱっと千鶴の表情が明るくなった瞬間。一緒に居間にいた総司もお多佳も、それを見逃さなかった。
もうすぐ戻る
斎藤の声が聞こえたような気がした。
はじめさん。待っています。
どうかご無事に
あなた。愛おしいあなた
早く会いたい
千鶴はしゃんとした心持ちがした。土方とお多佳を引き留めて、昼餉の準備をして二人をもてなした。そして、食事の後、ゆっくりと寛いだ後に、自分はもう大丈夫だからと土方とお多佳に云うと、重々にお礼を言って夫妻を見送った。
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明治十年十月
海軍による丸市尾の海上封鎖が完全に解かれたのは、十月初め。大漁旗がはためく漁船が湾内を覆うように出ていく風景を見て、湾岸に立った地元民は大いに喜んだ。
二番小隊は、日中は農作業、灌漑工事作業に精力的にかかわった。「こうして畑作業をしていると、故郷に戻りたいといつも思う」と語る部下を見て、地元に戻る部下たちには、それぞれの生活があることを思った。
漁師たちが海に出始めて一週間もすると、豊後高田からも商船が入り農産物の物資が流通するようになった。徴募隊は重岡や竹田まで物資が行き渡るように本道の整備も行った。それから間もなく、東京の警視局より帰還の日程が言い渡された。
十月二十一日 豊後口警視徴募隊臼杵(うすき)本営、大橋寺に集合
十月二十三日 臼杵港より帰還
十月二十八日 横浜港着。新橋停車場前にて解隊式
臼杵への移動が一週間後に決まった。二番小隊は黒江の指揮下で、精力的に地域平定にあたった。物資の流通がほぼ通常に戻ったのを確認した徴募隊は、丸市尾駐屯所の最後の夜に宴会を開いた。
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集落の一番大きな座敷を借りて、二番小隊は総勢百名で宴会を開いた。丸市尾の浦で獲れた鮃や蛸、栄螺に鮑。酒の肴になるものが沢山用意された。豊後は野の幸、山の幸、海の幸と物資が豊かな土地柄で、地元人夫が用意した魚介汁は美味で皆が舌鼓を打った。地酒は芋から造った焼酎。斎藤は持って帰ることが叶うなら、豊後の芋焼酎を東京に持ち帰りたいと思ったほど、飲み口が気に入っていた。
宴もたけなわとなった頃、故郷に帰ってどんな仕事に就くのかという話になった。宮城から戦役に参加した部下の殆どが、臨時徴募隊として、今回の戦役で初めて巡査になっていた。士分でありながら、農業や山林開墾業に就く者も多かった。半分の者が、このまま警視官として地元で働くことを希望していた。ひとりひとりが自分の夢を語り、天野がそれを茶化しながらも和やかな時間が過ぎた。そして話の中で、部下の半分が妻帯者であることがわかった。家族の写真の見せあいをして笑う隊員たちを眺めながら、斎藤は無事に戦争が終わって良かったと心から安堵した。
ふと、隣に座る黒江が自分の家族写真を斎藤に見せた。囲炉裏端の灯りに照らされた写真には、奥方と男の子が写っていた。明治六年生まれの長男だという。斎藤は、自分の息子の豊誠と同じ年だと黒江に話した。
「そうと。おいに似て、利かん気が強かが、力は強か。こんまま強か男に育って欲しかとおもっちょっ」
「家内は腕白な息子に振り回されちょっ」
そう言って笑う黒江に、斎藤は自分の家も全く同じですと応えた。
「妻は、坊主を毎日叱るのにくたくただと文句を言っています」
斎藤はそう言って微笑みながら、黒江に写真を返した。黒江は「もう一年あっちょらんじゃ」と愛おしそうに写真を眺めていた。斎藤は、黒江小警部が昨年起きた神田での斬り合いの直後に薩摩に渡った事を思い出した。黒江は斎藤に、再び鹿児島県警に駐屯するつもりだと話した。斎藤は驚いた。臼杵から鹿児島往きの船に乗る手配が出来ているらしく、一緒に駐屯する部下が二十名志願していると言って笑った。
「女房と息子を呼びつけっつもりじゃ」
これから一年ぐらいの間に、しっかり鹿児島の警視施設を立て直したい。そう話す黒江に斎藤は、一緒に帰京出来ないのが残念だと話した。囲炉裏の向こうで、部下たちが、「半隊長の奥方は、」「藤田半隊長は綺麗な嫁もちだ」と騒いでいるのが聞こえた。黒江は手酌で豪快に自分の湯飲みに焼酎を注いで一気に飲むと、
「藤田半隊長ん奥方は立派な御仁だ」と、よく通る大きな声で話した。
奥方は医術ん心得がある
帝都ん乱闘で斬られた巡査の刀傷を縫うて
警視庁から感謝状をもろうた
「美人(しゃん)よっかおごじょだ」
それを聞いた皆が千鶴の写真を見たいといって斎藤の周りに群がった。斎藤は胸ポケットから千鶴の洋装の写真を取り出して部下に見せた。垢ぬけた洋装姿に感心する部下たちは、写真を手に取ってみたいと許可を申し出た。斎藤は微笑みながら写真を渡した。
まなぐが大ぎぐでめんこい
こいなにめんこい奥方がいらっしゃるのが
東京さ、
帝都にはこいなに美人がいるのが
部下たちは我も我もと前に出て来て、写真を覗き込んで感心している。写真を回された津島がじっと動かずに息をのんで見入っている姿を見た天野は、「半隊長の奥さんは、実物はもっと別嬪だ。笑い上戸で、気立てもいいぞ」と斎藤の代わりに自慢した。大騒ぎをする部下を見ながら、満足そうに微笑む斎藤は、静かに酒の入った杯を口にあてていた。
夜は更けていった。無礼講で座敷に横になって寝始める者がいた。津島は天野に声を掛けられて、座敷のある母屋を出ると、そのまま海の見える広場まで歩いていった。夜風が気持ちよい。満月に近い夜。月明かりの下、目の前に漆黒の海が広がっていた。
「なあ、おい。ねず吉のやつ。故郷に許嫁がいるんだとよ」
天野が津島にそう話すと、傍に生えている芒を抜いて振り回した。
「お国に帰ったら祝言挙げるって。戦に出る前に約束したらしい」
「いいよなあ」
天野はそう言って、ずっと遠くに見える海を眺めた。津島もずっと前を向いたまま黙っていた。
「実は俺も、東京に無事に戻ったら、嫁を貰おうと思っている」
天野が津島に向かって突然告白した。津島は少し驚いたような表情をした。「決まっているのか」と津島は尋ねた。
「相手か?いんや」
天野は笑っている。暗がりに月明かりが逆光になって、天野の白い歯がよく見えた。
「出征前に、小石川のお夏さんに頼んでおいた。【いい嫁っ子】を見繕ってくださいましってね」
そうしたら、お夏さんは「ようございます。貴方に見合う良い娘さんを探しておきますから」って、「だから、必ずご無事にお戻りくださいましよ」って念を押されたと天野は笑った。
「東京に帰還したら、俺は嫁さんを貰う」天野は嬉しそうに話した。津島は黙って頷いた。
「そんで、お前はどうすんだ?」
天野が津島に訊ねた。津島は暫く黙っていたが、「東京に船が着いたら、そのまま津軽に帰る」と呟いた。解隊式の後、そのまま芝から津軽に帰るつもりでいると答えた。天野は、「もう戻ってこないのか?」と訊ねた。津島は、黙っていた。
「……、巡査を辞めるつもりはない」
暫くの沈黙の後、津島が海を眺めたまま答えた。「東京に戻りたいと思っている」と津島は、「今までと同じように。警視官として勤めたい」と呟いた。天野は「俺もだ」と笑った。
「なんてったって、二等巡査だ。徴募隊にも出て闘った。胸を張って勤められる」
天野が、「そうだろ?」と笑いかけてくるので、津島も笑顔で頷いた。目の前の暗い海の向こう。遠くには東京がある。帝都を離れて半年余り。騎馬巡察の日々。随分と遠い昔の事だったような気がする。虎ノ門、芝、品川、築地、真砂の下宿、小石川の診療所。主任の奥さん。東京に帰還したら、あの日々が戻るのだろうか……。
必ずご無事に東京に戻って来られることを
強く御祈りしています
あの人の文に書かれてあった言葉。それを胸に今日まで頑張った。津島は千鶴から貰った手紙に書かれてあった文言の全てを覚えていた。
津島淳之介様
拝啓、昨日は診療所にお越くださり有難く存候
貴殿の申し伝え事心より嬉しく思ひ候。
私の好意は我が夫に最も似たる貴方様なればこそ
されど折角の御好意を無にするは望ましからぬ事に候へは、
只想いに応えるものを何か渡したく候。
以前鈴蘭が好ましいと仰せられ候へ共、頂いた銀の髪飾り
且又御守りとして所持して貰いたく候。
勝手がましき事を申上げる事誠に心苦しく候へば
必ずご無事に東京へ戻られることを強く祈り奉り候
かしく
五月十五日夜 雪村千鶴
津島淳之介様
必ず無事に東京へ
津島は、そう祈って貰えた事だけでも幸せなことだと思った。
****
明治十年十月二十四日
臼杵港より三菱汽船愛宕丸に乗り込んだ豊後口警視徴募隊は、豊後を後にした。
船は順調に進み、豊後を発ってから三日目の夜に浦賀港に到着した。愛宕丸はそのまま浦賀湾内に碇泊した。いよいよ明日は、横浜港に着くと皆が喜んでいたが、東京から浦賀港に電信で、横浜でコロリが蔓延している事が知らされた。警視隊は急遽、愛宕丸を品川港に向かわせる手続きを取った。
十月二十八日、正午前に浦賀を出航し、午後二時に船は品川港に到着した。港前の広場に集まった警視隊千名と、別の船で降り立った陸軍兵六百名。陸軍と警視隊合同の解隊式が開かれた。虎ノ門署から斎藤の上司、田丸警部が出席していた。解隊式の後、田丸は満面の笑顔で斎藤と部下の天野と津島を迎えた。帰還者名簿の確認後、自由解散となった。斎藤と部下の二人は、二番小隊がそのまま別の船で宮城へ向かうと聞いて、乗船場まで見送った。近く東京で凱旋式があると知らされていた皆は、「また東京さ来ます」と笑顔で乗船していった。甲板にもう一人の半隊長、遊佐正人警部補の号令で全員が整列した。汽笛が鳴り、すぐに船は動き始めた。
「警視徴募隊二番小隊、これより宮城へ帰郷いたします。藤田警部補、天野二等巡査、津島二等巡査に敬礼」
遊佐警部補の号令で皆が挙手敬礼した。背筋をまっすぐに伸ばし、じっと敬礼する佐藤常吉の目には涙が見えた。皆、よく戦った。斎藤と部下二人も背筋を伸ばし、挙手敬礼して仲間を見送った。
斎藤は、芝の港に津島を見送ってから本所へ帰るという天野と別れて、乗り合いの停車場へ向かった。虎ノ門署への復帰は三日後と決めていた。ゆっくりと骨休めがしたければ一週間の休みが認められている。斎藤は陽が落ち始めた道を家に急いだ。
乗り合い馬車を降りると、辺りの様子は変わっていないことにほっとした。春日通りを小石川へ進む。道端には芒の穂が風にゆれていた。梅雨の最中に東京を発った。あれから半年あまり。長かった。富坂の下。帰ったぞ。戻った。どんどんと足が速くなる。陽が暮れ始めている。
坂の上に診療所の門が見えて来た。
帰ってきた。
門の向こうで、厩の傍に子供がしゃがんでいる姿が見えた。斎藤は気配を消して進むと、背後から子供を抱き上げた。子供を振りかえさせると、「とーさま」と笑顔で抱きついて来た。
「大きくなったな」
荷物を地面に降ろしながら、強く抱きしめた。厩の陰から総司が顔を出していた。口角を上げて、嬉しそうに微笑んでいる。その隣に目を真ん丸にした坊やが一緒に顔を出していた。様子を伺うような表情に、斎藤は「総司、ただいま戻った」と笑いかけた。
斎藤は制帽を脱いで、子供の頭に載せた。子供は顎紐を自分の顎に引っかけると、嬉しそうに笑ったまま地面に降ろされた。斎藤は荷物を持ち上げ、家の反対側に廻ってみた。そのまま母屋の南側へ。
やはり、ここか。
物干しの前で、千鶴は洗濯物を取り入れていた。縞赤の着物に、前掛けをした帯の下はふっくらとして見えた。背伸びをしながら、一生懸命手を伸ばして広げた敷布をとろうとしている。斎藤は、「ただいま戻った」と声をかけたが、千鶴は聞こえていないようだった。斎藤は、荷物を持ったまま近づいて行った。敷布を降ろして丁寧に畳み始めた千鶴は、ふと顔を上げてこっちを見た。
大きな黒い瞳が一段と大きくなって
満面の笑顔になった
そのあとに涙を流しながら
駆けてくる
愛おしい者
胸に抱きしめた。やっと。自分の名前を繰り返し呼んで泣きじゃくる。昔と変わらぬ。一度こうなると、幼子のようだ。可愛く愛おしい千鶴。やっと戻った。
「ただいま戻った」
囁くような優しい声。はじめさん、はじめさん。やっと逢えた。やっと戻っていらしゃった。神様。有難うございます。
千鶴は斎藤の胸に縋り付くように泣き続けた。夕暮れの中。優しく抱きしめられ、髪を撫でられた。
千鶴を抱きしめたぬくもりを感じながら、そのふっくらとした腹から、幸せの重みを感じた。小さな愛おしい者。斎藤は幸せだった。
「おかえりなさい、はじめさん」
顔を上げた千鶴は笑顔でそう云うと、斎藤に涙を拭われた。斎藤は優しく微笑んでいる。日焼けした精悍な顔。碧い瞳。頬を左手で覆われると背中を強く抱き寄せられて深く口づけられた。
もう決して離れないで
愛おしいあなた
決して離れぬ
離すものか
言葉にしなくても伝わる想い
庭が薄暗い紫色の帷に包まれるようになるまで、二人は抱きしめ合っていた。総司に連れられた坊や二人はそんな二人を母屋の影からそっと見ていた。
「こっちへおいで」
総司は坊や二人に声をかけると、ふわふわの尻尾を揺らしながら反対側の中庭に向かった。坊や二人が縁側から居間に上がると、総司は御影石の上に登って振り返るように空に上がった満月を見上げた。
やっと帰ってきた。
僕の役目もそろそろ……だね……。
ね、近藤さん
心の中で総司は呟いた。
つづく
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(2019.02.23)