決闘

決闘

明暁に向かいて その41

明治十一年七月  津軽屋敷の庭にて

 斎藤はゆっくりと眼を開けた。丹田から強い闘志が湧いて来る。焼けた砂利の上を靴底で、二三度掻き均してからしっかりと足場を定めた。

 抜いた刀を青眼に構えた。相手の睨むような視線。村山は青眼のまま切っ先をかすかに動かすように構えている。二人の間にはおよそ十間ぐらいの距離があった。二人はにじり寄るように前に進んで間合いを詰めて、そこで互いに睨み合った。白州の砂利に炎昼の光。灼熱の中で相手の着物の色も霞んで見える。

 最初の一撃。先に打った方が勝負を制する。この揺れるような暑い空気の中で、剣を振り回して討ちあう訳にはいかぬ。村山の図るような切っ先の動きを見ながら斎藤は思った。相手は一刀で決めるつもりであろう。

 遅れはとらぬ
 決して

 そう思った瞬間、足袋を履いた村山の草履の先が小刻みに前に進み、右横に少し動いた。互いの距離はまだ開いたまま。斎藤はじっと動かず、相手が踏み込んで来る瞬間を見極めようと神経を集中させていた。その瞬間、相手の右足が突然前に出て来た。殺気。斎藤は背中が総毛立った。斬り合いになる。互いに間合いを詰めた、じりじりと砂利が音をさせて、村山が迫る。膝をこちらに向けて、左の軸足の踵が斎藤から見て、左の外側に動いた。睨むような相手の視線。瞬きをした時、相手の後ろの軸足の踵が上がったのが見えた。

 来る

 斎藤はその瞬間、相手が刀を八双に振り上げた所を自分の身に寄せるように左側に身体を回して、下段から相手の懐に刀を振り上げた。相手は振り下ろすと同時に左の軸足で身体を廻して軽々と躱すと、再び青眼に構えながら斎藤の正面に切っ先を向けた。斎藤は、相手が完全な守りの態勢で軸足を構えているのに気が付いた。

 つけ入る隙がない
 陽は頭の真上
 相手の切っ先が眩しく感じる

 白州からの熱や光の反射も全て、相手の図り事のような。斎藤は背中に汗が流れて行くのを感じた。再び青眼で睨み合う。村山が僅かに右に動いた。後ろに引いた踵がゆっくりと外側に。砂利を踏みしめる音で相手が重心を軸足に掛けたのが判った。前に出している草履の足先が僅かに右にずれて、相手の腰が沈んだ。斎藤は、一気に左足で踏み込んで行った。正面からの一撃。村山は後ろに下がりながら、振り上げるように斎藤の剣を跳ね上げた。真剣同士がぶつかる。腕にかかる衝撃が凄まじい。村山の腰から下は微動だにせずに全身の力を込めて打ってくる。強い。躱したまま八双に構えながら、斎藤は後ろにはね飛ぶように下がった。革靴が砂利の上を滑る。両足で踏ん張るように止まると、左側から総司が自分の横に立つのが見えた。

 深緑の上着、腰には木綿の紐帯。斎藤は、総司の出で立ちに気を取られた。総司が姿を現す時はいつも江戸や京に居た頃と変わらぬ姿だった。いつもの長着に山袴。だが、隣に立つ総司は正装で勝負に挑んでいた。斎藤は錯覚を起こしていた。遠い昔、一緒に戦った日々。敵に取り囲まれても互いに阿吽の呼吸で相手を切り崩した。

 斎藤は鋭く左足を思い切り前に踏み込んだ。相手の正面に足の内側が平行になるように足先を左に向けた、村山は斎藤の足先に気を取られて剣を返して低く斎藤の右側に流れようとした。斎藤は一瞬で刀を峰に返し村山の肩に叩きつけた。その瞬間、白い砂利の地面から村山の剣が跳ね上がってきた。恐ろしく早い。打ち合った二本の剣が凄まじい音を立て、二人は跳ね返った刀を抱いてすれ違い、前に走った。

 振り向いて、刀を構え直す。そのまま、斎藤は八双の構えで相手に向かって突進していった。上段からの突き。相手は青眼のまま冷静に右に左にと躱す。一瞬身体が沈み込むように見えた村山が低い位置から袈裟懸けに刀を振り上げた。

 そこ

 総司の声。総司がいつも胴を狙って来るときの声が聞こえた。斎藤は一瞬で背後に飛び下がった。吸い込む空気が灼熱のように熱い。白い砂利から砂埃が舞い上がり、その向こうに刀を青眼に構え直す村山の姿が見えた。フン。鼻から不満そうに空気を吐き出す総司の声。背後の総司が陰の構えで不穏に笑ったのを感じた。背後の総司は完全に剣を自分の身に引いて立っている。

 はじめくん、いくよ。

 背後から総司が一歩踏み出して走り始めたのを感じた。斎藤も剣を引いたまま走った。相手は肩で息をしながら斎藤の一手を見極めようとしていた。相手の一歩手前で左側から掬うように真剣を振り上げた斎藤をそのまま上から叩き下ろすように村山がぶつかって来た。凄まじい剣戟の音が庭に響いた。二人は互いを跳ね返すように下がると、斎藤は再び上段から激しい突きを見舞った。やらねば、やられる。右隣で翡翠色の眼がギラりと光った。総司が相手の右側にすり抜けて行くのが見えた。

 その瞬間村山は躱した切っ先から逸らすように肩を下げると、総司とは反対方向に一歩前に出て来た。

 動きを読まれている。

 ここまで相手の動きが早いと、隙をつけぬ。斎藤は村山の突きを交わしながら再び陽の光が当たる庭の真ん中に下がって行った。どうしても押し返される。息が上がっている。斎藤は信じられないほどの疲労に襲われていた。陽の光が目に入って、相手の切っ先の光が解けて見えない。口を開けて、斎藤ははげしく喘いだ。腕は鉛のように重く足は砂利の中に定まらない。息が整わぬまま斎藤は村山を見た。

 村山は斎藤と同じような有様だった。肩で大きく息をして喘いでいた。苦しいのは互いに同じ。村山は腰を伸ばした。そして刀を八双まで引き上げると走って来た。斎藤も走った。二人で走り寄りながら刀を合せた。互いの力で跳ね返り、後ろに砂利を滑り下がる。何度目かの打ち合いで、村山の刀が斎藤の二の腕を打った。その一撃を避けながら、斎藤の刀が真っすぐに上から村山の肩を打った。叩く。そのまますれ違って身体を回そうとしたが、斎藤は下げた右足がそのまま砂利を滑り、右膝を地面についてしまった。しまった。そう思った瞬間、総司が斎藤の前に庇うように立ったのが見えた。八双に構え、右足を引いて立つ総司の背中。

 その横から、黒い影が走って来て前で構えた。

 青眼に構えた津島。足を踏ん張り、今にも打って出そうだった。同時に砂埃の向こうの村山がなんとか態勢を整えようとしたが、そのまま手から刀を落とした。すると、斎藤の打った肩を押さえると片膝ががくんと落ちた。斎藤はすかさず立ちあがるとそのまま総司の傍をすり抜けて、杉山の落とした剣を足で押さえた。真剣の切っ先が杉山の右首にぴたりと当たり、相手の動きを完全に制圧した。

 大きく息をついた杉山は、絞り出すような声で「参った」と云うと、両手を地面についた。額から汗が地面にぼとぼとと落ちている。斎藤は息を整えながら、剣を引いて鞘に仕舞うと、足元の村山の剣を拾って、村山に返した。そして、村山を助け起こすと、二人で位置に戻って互いに礼をした。勝負あり。灼熱の白州での體楽道場の鷹との果し合い。無事に終えることが出来た。

 村山は刀を握ったまま、斎藤に打たれた肩を押さえながら、ずかずかと縁側に向かって歩いていった。柱の傍で泣き崩れているユキの前に腰かけると、大きく肩で息をしながら呼吸を整えた。

「ユキ、水を、」
「水を用意しなさい」

 ユキは、顔を上げた。大きく肩で息をする叔父の顔を見上げると、振り仰ぐように庭の向こうからゆっくりと歩いてくる斎藤と津島の姿を見た。二人とも手に打刀を鞘に仕舞ったものを持っている。津島はユキの瞳をずっと見つめたまま歩いて来た。背後の庭の砂利の上は、揺ら揺らと陽の光が水を湛えたように見える。津島は砂利を踏みしめて一歩一歩近づく。

 あなたを貰いに来た。

 真っ直ぐに見つめる瞳はそう物語っているようだった。涙に濡れた顔で、頷く様に見つめ返したユキは、もう一度杉山に「水を用意しなさい」と言われて、ようやく腰を上げることが出来た。ちょうど玄関先から女主人と御付きの者が外出から戻って来た声が聞こえた。ユキがお盆に、水差しと湯飲みを持って来たものを縁側に置くと、既に杉山は着物を半身になって脱いで、手拭で汗を拭っていた。肩には真っ赤な打撲の跡。ユキは手拭を取り出すと、持って来た水に浸して杉山の肩にあてがった。杉山は、湯飲みの水を一気に飲み干して一息ついた。背後からユキがその横顔を見てみると、村山は剣術稽古の後のように清々しい顔をしていた。

 暫くすると、井戸を借りたいと言って、裏庭に行っていた斎藤と津島が身仕舞を整えて中庭に戻って来た。杉山は、頭を下げて挨拶する二人に、「約束は約束だ」と一言いうと、草履を脱いで縁側に上がった。斎藤は、深く頭を下げて、「有難うございます」と礼を言った。杉山は、再び着物に袖を通して身仕舞を整えると。

「次は、玄関から入って挨拶に来い」

 と津島に向かって云った。その言い方は憮然とした様子だった。それから、ユキが水を二人に勧め、二人は縁側に立ったまま水を一気に飲み干した。縁側で嬉しそうに津島を見上げているユキの横顔を見て、杉山は諦めたような大きな溜息をついた。廊下の前で、津島に向かい村山の低い声が響いた。

「そなたから津軽の分家に、正式に挨拶をせねばならぬ。話はそれからだ」
「太政官への提訴は取り下げる」

 そう言ったきり杉山は黙ってしまった。津島は杉山に頭を深く下げて礼を云った。縁側から下がったところで、目尻を袖で押さえていたユキが最後に顔を上げて微笑んだ。津島は小さく頷くように目を見詰めて返事をした。見つめ合う二人を斎藤は確かめると、深々と頭を下げて杉山に礼を云って署に戻りますと挨拶をした。

 門の傍に停めていた雲雀と神夷は、いつの間にか下男が日陰に移動をさせて、水を沢山与えてくれていた。斎藤が傍に行くと、神夷は嬉しそうに斎藤に鼻先を寄せて来た。何度か闘いの途中に神夷の嘶きが遠くに聞こえていた。おかしな奴だ。共に寄り添う。総司と同じ。そう言えば、総司は勝負の後に姿を消した。今日の果し合いは、総司の助太刀なしでは無事には終わらなかっただろう……。

 隣で、津島は満足そうに鞍を整えると雲雀を引いて先に門の外に向かった。玄関先にお付きの者に付き添われて、ユキが見送りに出て来た。

「出来るだけ早くに逢いに来ます。私がここに来るので待っていてください」

 津島は自信に満ち溢れた様子でユキに微笑みかけた。ユキは「はい」と嬉しそうに微笑んだ。




*****

仇持ちはならぬ

 戸越から品川通りに向かってゆっくりと馬を歩かせながら、斎藤は津島に話しかけた。

「今日は品川方面を見廻ったとだけ報告する。津軽屋敷へ行ったことは他言するな」
「決闘は法律で禁じられておる。今日の事は決して誰にも知られてはならぬ」
「それから」
「お前が助太刀をする前に勝負はついていた」
「杉山さんに刃を向けたわけではない。だから気にするな」

 斎藤はずっと前を向いたまま話し続けていた。津島は「はい」としか答えられない。

「剣を抜く必要があっても。仇だけはつくってはならぬ」
「惚れたおなごの父親なら猶更だ……」
「娘の目の前で斬り合いを見せてしまった事は後悔しておる。すまぬ」

 津島は何も言えなかった。全ては己が引き起こした事。成り行きとはいえ、真剣を抜いて相手と果し合いをしてでも助けてくれた。主任は自分に謝るが、全ての事が感謝してもしきれない。

「本当に有難うございました」

 仕合いの直後に、津軽屋敷の庭で深々と頭を下げた時と同じように、津島は斎藤に礼を云った。

「主任に相談もせずに、戸越の屋敷に乗り込んだことをお許しください」

 深々と頭を下げる津島に、斎藤は黙ったまま頷いていた。品川から愛宕方面に通りを上ったところで、ようやく道に影が出来てきた。建屋の影をゆっくりと馬を並走させながら二人は虎ノ門に向かっている。

「策もなく、勝負を申し込んだ。杉山さんは俺が今まで剣を交えた相手では、一番強いやもしれぬ。あのような剣豪とは滅多に出逢えるものではない」

(総司もそう思っていた)

 斎藤は今日の闘いを思い返していた。そして、ふと笑いがこみ上げて来た。

「あのような勝負は、千載一遇であろう」
「だが、終わった瞬間、俺は服に綻びを作ってしまったと後悔した」

 そういう斎藤は自分の制服の右肩と袖の縫い目が裂けている場所を見せながら、苦笑いの表情を津島に向けた。

「妻が、破れた原因を知りたがる」


 暫くの間、斎藤は考え込んでいるようだった。隣で黙ったまま静かに歩を進める津島に、斎藤は微笑みながら、「夫婦とは不思議なものだ」と呟いた。

「互いを大事に想い、共に暮らし、守り合う。男もおなごも、互いに……」

 津島は隣で頷いていた。なんとなくだが、少しずつ実感が湧いて来た。ユキと夫婦になる。これから津軽の杉山家に正式に申し込みに行く。津軽の母上も兄上もさぞや驚くことだろう。お許しを貰ったら、戸越の杉山さんに正式に挨拶に向かう。ユキの元へ……。

「署への報告書は俺が書いておく。お前はすぐに署長のところへ行って退職願いを取り下げろ」
「署長も田丸さんも大層心配されている」
「はい」

「津軽に戻るのだったな。休暇願を直ぐに提出しろ」
「はい」

 斎藤は事の段取りを全て決めているようだった。津島はだんだんと実感が湧いてきた。

 二日間の休みを貰って津軽に戻る。
 全てはそれからだ。
 そして、出来るだけ早くユキに逢いに行こう。

 建屋の隙間から西日が強く差し込む。焼けつくような空気に包まれているが、津島の心は宙を浮く様に軽やかだった。それが伝わったかのように雲雀は合図を送らない内から速足に変わっていった。



*****

戻った総司は

 その日の夕暮れ時、津島と診療所に戻った。千鶴が厩の入り口に駆けこんできて、馬を降りた斎藤にいきなり抱き着いた。津島のいる前で、なりふり構わず胸に顔を埋めて強く縋り付いている。どうした。斎藤は千鶴の髪を撫でた。千鶴は斎藤が戻って来るまで心配で仕方なかったと言って離れない。いつもと様子が違う千鶴に、津島も驚いていた。斎藤は、千鶴を宥めるように厩からそっと出て母屋に向かって行った。千鶴は斎藤の腕に掴まるように歩く、そして玄関の上り口で靴を脱いだ斎藤に再び抱き着いた。

「坊やと横になっていたら、変な夢を見て……」
「はじめさんが、沖田さんと一緒に武将と斬り合って」
「恐ろしい鎧を着た武将が何人もです。」
「頼光や渡部綱が襲ってくるんです」

 斎藤は千鶴が夢の話をするのを聞いて、やはりと思った。昔から千鶴にはこういうところがあった。斎藤の身に何かが起きると虫の知らせのように何かを感じる。酷く心配をしたり、不安を感じたり、不思議な胸騒ぎがすると一生懸命訴えてくる。斎藤はいつも千鶴の不安を取り除いてやるのだが、おなごの勘なのか、実際に斎藤が窮地に立つことや危険な状況になっているのを鋭く感じているようだった。

「総司と一緒に、頼光や綱と刀を交えたのか。俺もそのような夢をみてみたい」

 斎藤は微笑みながら腕の中の千鶴にそう言うと、その艶やかな髪にそっと口づけた。
 
「恐ろしい夢でした。沖田さんとはじめさんが交互に、何度前に出ても、」
「武将たちがずっと斬りかかって」
「怖くて叫びながら目が覚めました」

 千鶴が顔を上げて斎藤の顔を見上げた。無事に家に戻ってきたのが嬉しい。生きた心地がしなかった。そう言って嬉しそうに見上げる千鶴に思わず口づけた。腰を抱き寄せると、千鶴は首に腕を廻して口づけを返す。昼間に真剣で斬り合った事が今更ながら実感となって身に響く。無事に千鶴の元へ戻れた。

「母上ーー、つよしが泣いてる」

 廊下の向こうから豊誠が千鶴を呼ぶ声が聞こえた。斎藤はようやく立ち上がると千鶴を連れて居間に入った。縁側の廊下で、総司が身体を横たえるように眠っていた。斎藤が総司の頭を撫でると、総司はくったりとしたままずっと眠り続けている様子だった。馬の世話を終えた津島が心配そうに縁側から声を掛けて来た。千鶴は赤ん坊の世話をしながら、津島に風呂と夕飯を進めたが、津島は朝一番の船で津軽に戻るからと断った。門のところで振り返り斎藤に深々と頭を下げた津島は、笑顔で二日間、休みをとりますと挨拶をした。千鶴は、久しぶりに津島の明るく笑う表情を見た気がした。




****

「沖田さんもずーっと眠られたままで。動かないんです」

 斎藤が千鶴と縁側に戻ると、千鶴は廊下で眠る総司の傍に膝をついて総司の全身を優しく撫でた。

「午後に外から戻ってらっしゃったんですが。縁側に上がった瞬間、身体を伸ばして倒れるように横になったまま眠ってしまわれて」
「今日はお昼も召し上がってないんです」

 千鶴は心配そうにそう云うと、総司の木の茶碗を持って台所の中に入って行った。夕餉のおかずを膳に並べると、水の入った木の茶碗を眠っている総司の傍に置いた。斎藤は、総司が決闘の後、なんとか診療所に戻って来たのだろうと思った。真剣勝負。総司は助太刀どころか、最初から一緒に闘った。いつもの手合わせとは違う。流石の総司も、あの炎天下での勝負の後、ここに戻るのに骨が折れたのか。斎藤は総司に感謝した。憶することなく、剣を振れたのは、総司が居たからだ。斎藤は、もう一度総司の背中を労うように撫でた。

 千鶴は斎藤の制服の肩が大きく綻んでいることにすぐに気づいた。斎藤は、品川で昼間から酒を飲んでいた者同士の乱闘の仲裁に入ったと言い訳した。酔っ払いに上着を掴まれ、激しく抵抗された際に破れたと云うと、千鶴は「まあ、それは」と言って上着を抱きしめるように持った。

「裏地まで破れています。明日は、正装の上着をだしますので、それを着て行ってください」

 千鶴はそう云うと、子供を促して膳の前に座って皆で食事を始めた。次男の剛志(つよし)は斎藤が胡坐をかいた膝に機嫌よく座っている。千鶴は、お茶碗にいれたすりつぶしたお粥を木の匙で食べさせた。三口ほど食べると、直ぐに千鶴に抱っこをされて乳を飲んだ。今日も暑い一日だった。昼間に行水、お昼寝を二回。今晩もよく眠るだろう。千鶴は、子供の真っ黒な瞳を見詰めながら、優しく背中をとんとんとし続けた。

 食事の後に、斎藤が子供と風呂に入って、すこし縁側で涼んでから蚊帳を吊るした奥の部屋で横になった。その時もまだ総司は縁側の廊下で眠ったまま。子供達が眠り始めると、斎藤は千鶴に言われて、総司を蚊帳の中に連れて行こうと抱き上げた。

(軽い。紙のようだ)

 斎藤は驚いた。くったりとした総司の身体はふわふわとした毛で随分と大きい。だが、その身の重さは、いつもの三分の一もない。総司の坊やは総司より一回り身体は小さいが、骨組みもしっかりしていて抱き上げると重い。なのに、今腕の中にいる総司は、抱き上げている事を感じないぐらい軽かった。

 斎藤は蚊帳の裾を片手で揺らして、そっと中に入った。長男の枕元に総司を寝かせると、総司は口角を上げたような表情でぐっすりと眠り続けていた。余程、疲れたのか。千鶴は、最近は昼間も眠っていることが多いと総司のことを話していたが、この暑さでばてているのやもしれぬ。

「総司、礼を言う。あんたの助太刀がなければ、ここにこうやって帰ってこられなかったやもしれん」

 斎藤は小さな声で眠る総司に話しかけた。総司の静かな寝息が聞こえた。豊誠の足元では、すでに猫の坊やがひっくりかえるように四肢を伸ばして眠っていた。斎藤はその姿を見て微笑むとそっと蚊帳から出て行った。



*****

雪村の郷にて

明治十一年八月

 今年の旧盆に斎藤は休みを三日続けてとった。正月以来久しぶりの休暇。ちょうど土方がお多佳を伴って青森県五戸に向かったのを見送り、そのまま白河の雪村の郷へ千鶴と子供を連れて向かった。東京から千鶴の故郷へは、八瀬の千姫が御所車を用意してくれた。普通なら二日はかかる道のりが数刻の内に山深い中を駆け巡っている。東京とは違って、澄み渡ったひんやりとした風が爽やかに吹いていて、御簾をあげて周りの新緑を眺めて千鶴と子供は声をあげた。

 雪村の郷。最後に来たのは、明治二年の秋。九年ぶりに訪れた郷は、変わらずに静かで集落の中心にある雪村の家の母屋は美しく整備されている。裏庭の畑には沢山の野菜が育っているのが見えた。雪村の郷を守るのは、田村家の血を引く極薄い鬼の末裔だった。この強い結界で守られた古の鬼の郷は、一度は人間によって破壊され、雪村の血族は途絶えたと思われていた。東国の鬼の一族、雪村家の再興に最も心を砕いたのは、西国の鬼の一族の風間家。風間家の棟梁である風間千景は、瓦解後に雪村の郷の整備を家老の天霧に命じた。

「静かに豊かな暮らしが守られた嘗ての姿に郷を戻せ」
「焼き討ちになった者を集落で弔う」
「田村の者、所縁のある者を地頭として置き、守らせよ」

 これが風間の指示だった。雪村の郷の再興に関しては、八瀬の千姫、東西の鬼の一族が皆同意していた。京に千鶴が暮らしていた頃、何度も風間が千鶴との婚姻を迫り、引き換えに雪村家の再興を約束した。風間はその通りの事を千鶴が知らない間に実行している。改めて千鶴は、郷を訪れてそれを知ることになった。

 鬼は決して約束を違えぬ。

 そう断言していた風間の誇り高い深紅の瞳を思い出す。千姫から時折、新しい世で鬼の血脈は密かに絶えることなく存続していると便りがあった。主の住んでいない土地を、ここまでの状態に戻して維持してくれることに尽力した西国の鬼の棟梁に感謝の気持ちしかない。小径に出て子供を抱いて歩くと、ふと自分の幼い時の記憶が蘇る。母様のやさしい声、小鳥のさえずり、木々の間をそよ風が吹き抜ける。懐かしい。わたしは、ここに居た。ここはわたしのふるさと。

 斎藤は千鶴が活き活きとしている様子を眺めて居られるのが嬉しかった。上京して四年。やっと里帰りをさせてやることが出来た。この地は自分にとっても特別な地。羅刹の毒を浄化して、生き返らせてくれた場所。再び戻って来れた。一緒にいる長男の様子を見ても判る。子供にとって、ここは己の力を存分に発揮できる場所なのだろう。木に登り、駆け回り、岩を掴んでは放り投げ、風に乗って飛ぶように岩から岩へ飛び移る。結界に守られた鬼の地は、子供の大きな力を受け止め、さらにその力を強くする。子供は興奮しながら野山を駆け巡った。豊誠は、東京ですこしずつ自分の怪力や能力が周りの人と異なることに気づき始めていた。千鶴も斎藤も、子供に特別な力が備わっている事を教えた。力加減が必要な事、身体に受けた傷が周りの人間とは異なり、すぐに回復する、たぐいまれな力。とても特別な事だから大切にしなくてはならない。

 一緒に遊ぶ近所のお友達が怪我をしたら大変なこと。
 身が傷つくと、血がでて直るのに時間がかかる。
 力が強すぎると周りの人が驚いてしまう
 優しく、優しくするように
 周りの人を守ってあげましょう
 あなたはとても強い男の子だから。

 豊誠は優しくすることを千鶴から、強くなり守ることを総司と父親の斎藤から教わった。向島の土方からは、思う存分暴れて遊べ。挨拶をきっちりしろと教わった。診療所とその周りの世界の中で少しずつ物事が判り始めていた豊誠にとって、この山深い母親のふるさとは、絵草子で見た【おとぎの国】のようだった。木々が自分に語り掛けてくる、風が水が土が、「帰ってきた」「強き善き者」「あるじ」「木霊がうたう」「竜神が轟く」「さあ、お連れいたそう」、そのような歓喜の声が自分を包み込む。豊誠は目覚めた。

 土蜘蛛があらわれ
 我こそがそれを退治する
 岩を投げ、刀を振るって守る
 我が国を 我が民を

 豊誠はあらん限りの力で自然の中で、ごっこ遊びに興じた。額にかいた汗で前髪がびっしょり濡れて、興奮状態で縁側に帰って来ては、昼餉に用意されたおにぎりを頬張って笑う。そんな長男を千鶴は嬉しそうに眺めた。子供はもりもりと用意したお昼を食べ終わると、ご馳走様でしたと挨拶をして、再び木刀を持って林の中に走って消えて行った。

「ここは、子を育てるのには最適の場所かもしれぬ」

 斎藤が、下の子が寝返りを打つのを手伝いながらそう呟いた。本当に。千鶴も頷いた。普段、総司や総司の坊やが診療所の庭で子供と遊んでくれている。近く、長男は尋常学校に入ることになる。ご近所の子供と同じ環境で、鬼の力を発揮して生きていくには、少し気をつけなければならない事も出てくるだろうと思った。ふと、ずっと以前に診療所に現れた不知火の言葉を思い出した。

 人間の中で、鬼が育つのは大変だ。
 なにかあれば、俺や天霧に報せてくれればいい
 天霧はあの風間を小さい頃から面倒を見た。

 そうだ。天霧さんと風間さんにお礼の式鬼を送ろう。この郷を整備してくださったお礼を。

 千鶴は思い立った。八瀬の千姫より時折、西国の鬼の郷が安泰だという事は聞いていた。昨年の西南戦役の間も、風間は自らの信念で中立の立場をとり鬼の郷を守り続けた。戦火で追われた人々を、結界を一部解いて鬼の郷で暮らせるようにした。そして、戦役の負傷者を両軍どちらも介抱する施設を開放したと聞いた。

「人間は愚かな者たちだ。だが、愚かさゆえ命を落とすのは見過ごせぬ」

 風間は結局人間を放ってはおけない性分だと千姫は笑う。それを素直に認めないのが、風間だと。千姫は、千鶴への文の中で自分の思う事に同意を求めていた。千鶴は千姫の文の文面を思い出して微笑んだ。風間千景に対して昔から批判的だった千姫。だが、そんな千姫を通して知る西国の鬼の棟梁は、あの尊大な態度の向こうに、鬼であることも人であることも問わない優しい心があるのだと千鶴は思った。戊辰の戦では、あんなにもはじめさんを切り殺す憎い敵。ただ逃れたい恐ろしい存在だと思っていたのに……。

 戦は恐ろしい。郷を追われ、大切な人や物を奪われ、鬼も人も傷つけあい、略奪する側に回る。風間さんも自分も同じ。守りたいものはきっと同じなのだ。そして、あの戦から十年経った今、自分にはこうして愛する夫と子が居る。幼い時に暮らした郷に戻り、思う存分子供を遊ばせる事が出来て。こんなに幸せなことはなかった。


 風間千景様

 大変ご無沙汰をしております。
 次男の誕生の折、お祝いの品をご送付くださり
 有難うございました。
 息子は生後半年を過ぎ。健やかに育っております。
 このたび、九年ぶりに、雪村の郷に足を運ぶことができました。
 美しいこの地が再び嘗ての姿に戻ったこと
 心より嬉しく、感謝の気持ちしかございません。

 雪村の郷の再興の折、大変ご尽力くださいましたこと
 感謝をし尽くしても、足りない気持ちがしています。
 裏山に築かれた両親や集落の者たちの祖先の墓
 再び参ることが叶いました。

 風間さんにおかれましては
 どうかご壮健で
 いつかお会いして感謝の気持ちを直接伝えられる機会が
 持てる日を強く願っております。

 雪村の郷にて、
 雪村千鶴


******

明治十一年八月

褥での話

 お盆の休みが終わり、帰京して間もなく、診療所に津島淳之介の兄夫婦が訪れた。

 千鶴は、居間に迎えた津島の実兄より津島が二日後に結納を執り行うと聞いて驚いた。斎藤は津軽から戻った津島から、ユキの実家である杉山家に晴れて正式に婚姻の許しを貰ったと報告を受けていた。斎藤はそれを【御用聞ヤス】には伝えていたが、千鶴には伝えそびれていた。

 千鶴にとって、津島の縁談話は晴天の霹靂だった。だが、ここ数日の津島の明るい表情を思い返すと、「お嫁さんをお貰いになる」ことで幸せな気持ちから来ていることに思い当たった。津島の実兄は、外見は津島とは違っているが話す言葉は、津軽弁で弟と似通った実直な様子に心が温かくなった。今朝、芝の港に着いて、その足で診療所にやって来たという兄夫婦に、千鶴は急いで食事の支度をして、振る舞った。

「一度はお断りすた縁談だばって、こうすて杉山家ども縁戻ったのが嬉すい」
「淳之介は剛直などごろがあって、一度決めるど動がね」
「お相手は申す分ねが、こぢらは身分不相応なうえ。田舎者ゆえ、粗相でもすたっきゃ気が気でね」

 千鶴は結納式に出られる津島の兄夫婦が、随分と緊張している様子に感心していた。このような良縁があって。本当に良かった。千鶴が兄夫婦に訊ねると、宿は芝の港の傍にとってあるという。夕方早くに斎藤が戻るので、ご挨拶出来ればと言って引き留めたが、荷解きをしたいからと早くに兄夫婦は人力を呼んで帰っていった。

 その日、斎藤は夜遅くまで戻って来なかった。

 区画整理の編纂作業が一段落して、労いに署長たちと銀座で食事会をしたという。酒も飲んだと言って、帰ってくるなり制服を脱いで、風呂場に行ってしまった。千鶴は、子供に乳やりをして寝かしつけた。蚊帳の中で、子供に添い寝して肩をやさしく、とんとんとしてやる。子供が生まれてから、千鶴は赤ん坊と一緒の布団で休むようになった。寒い間は、隣に敷いた布団で休む斎藤と子供を挟むように。暑い季節になってくると、子供を反対側に寝かせて、千鶴は斎藤に背中を向けて眠っていた。

 子供が夜中に泣くと、おしめ替えや乳やりに何度も千鶴が起きる。冬からずっと、斎藤は千鶴には触れずに我慢し続けている。もう一つの布団で眠る千鶴に手を伸ばせば触れられるが、昼夜子供の世話に追われている千鶴を起こすのは忍びない。これは長男が赤ん坊の間もそうだった。子に対しての遠慮。母親となった千鶴に対しての遠慮だった。

 酒が入っていたこともあり、熱い身体をもてあました斎藤は、布団をはぐったまま仰向けになっていた。今夜、総司親子は婿入り先に泊まっているらしく姿が見えない。長男は少し離れた所で蚊帳の中ですやすやと眠っていた。斎藤は千鶴の背中に手を伸ばした。

 腰を触った。脇腹から尻にかけてその輪郭をなぞるように。千鶴は起きていたらしく。ゆっくりと寝返った。

「はじめさん、今夜は御酒が深かったのでしょう。お疲れ様です」

 千鶴が小さな声で訊ねた。斎藤は頷いた。もう眠ってしまわれたかと思った。と千鶴は云うと昼間に津島の兄夫婦が診療所に訪ねてきたと話した。

「津島さん、結納式を明後日にですって。北品川の戸越のお屋敷で」
「はじめてお会いしましたけど、津軽のお兄様はとても大きな方で、眉も太くて、津島さんとご兄弟とは思えなくて」
「とてもいいお家の娘さんがお相手だそうです」
「お兄様は身分不相応な上に田舎者だからって、物凄く緊張されてて」

 千鶴は一気にまくしたてるように話す。斎藤は千鶴の腰に手を廻したまま、ただ頷いていた。

「津島さん、最近明るい表情なのは、縁談が進んでいるからでしょうか」
「今日も、坊やをお風呂にいれて、絵草子を読み聞かせて帰っていかれましたけど」
「お相手の娘さんは、どんな方でしょうね。お兄様は身分不相応って仰ってましたけど」

「元弘前津軽藩家老の家の娘だ。分家で一千石。戸越の屋敷も【津軽さま】と呼ばれる広大な屋敷だ」

 斎藤が呟くように教えると、千鶴は「まあ」と驚いていた。じゃあ、一度津島さんの家が縁談をお断りになったのが、また縁づいたって喜んでいたんですね。良縁のようですね。千鶴は嬉しそうに話した。斎藤は、「紆余曲折の上のことだ、津島は縁談が決まって喜んでおるだろう」と呟いた。そして、千鶴の腰を自分に抱き寄せた。

「紆余曲折って、なにがあったんですか」

 斎藤の胸に頬を寄せた千鶴が顔を持ち上げて、斎藤の顔を覗き込んだ。真っ黒な瞳が光って見えた。まずい。

 まずい。
 興奮し始めた。

 斎藤はそう思った。千鶴は話に興じると瞳孔が大きくなり目が輝きだす。興奮するときの前兆だ。これが睦言を交わす時であれば良い。触れると直ぐに感じ始めて艶めかしく凄く良くなる。良くなるのだ。だが、こういった自分たち以外の色恋の話になると質が悪い。忽ち興奮して情を交わすどころではなくなってしまう。

「東京で偶然出会って、恋仲になったって仰っていました」
「偶然会ったって、巡察中だったんでしょうか」

 千鶴は斎藤になにか津島さんから聞いてませんかと訊ねてくる。もうすでに斎藤の肩を両手で掴んで尋問するような勢いだ。斎藤はしまったと思った。もうこうなったら千鶴は止まらぬ。

「ああ、巡察中に道案内をしたと言っておった」
「やっぱり。そうでしたか。じゃあ一旦破談になった相手に、東京で偶然出会って。津島さんとお相手の娘さんは、恋に落ちたんですね」
「恋に、落ちた。ああ、落ちたのだろう……」

 斎藤はもう話を半分にしようと思った。相槌を打つだけ。極力自分からは話さぬようにしよう。それより、触りたいのだ。欲にまかせて淫靡に。

「突然お許しが欲しいって、津島さん津軽に帰ってこられたそうですが、お兄様はお相手の杉山家とは絶縁状態だから肝が冷えたって仰ってました」
「お家同士が仲違いしている中で、恋人二人は燃え上がってしまったんでしょうか」
「もえあがる、あがったのであろうな……」

「はじめさん、聞いてらっしゃいます?」

 ひときわ大きな声で千鶴が両肩に縋り付いてきた。

「聞いておる。大声をあげるな。子が目を覚ます」
「津島さん、恋人とこっそり逢瀬を遂げてたんでしょうか」
「こっそりかどうかは知らぬが、文のやり取りはあったようだ」

 まあ、文ですか。と千鶴の掴んでいた手の力が緩んだ。うっとりと考え事をしているように宙をみている。斎藤はすかさず、尻に手を持って行ってまさぐった。千鶴は一瞬身じろいだが、再び両肩に掴まると。

「では、両家に隠れてお二人は、文で気持ちを確かめ合ったんですね」
「津島さん、お綺麗な手跡ですもの。お相手の方はそこに惹かれたんです。きっと」
「はじめさん、聞いてらっしゃいます」
「ああ、聞いておる」
「もう、はじめさん、そんなに【いちぶしん】したければ、どうぞ」

 千鶴は自分の袖をはぐって二の腕を斎藤に触らせた。冷たくて気持ちいいでしょ?と微笑んでいる。気持ちいいが、もっと他を触りたい。淫靡なやり方で。

「でも文のやり取りだけで、仲違いしている家なのに縁談を復活させるって。二人が逢うことも反対されるでしょうし」
「駆け落ちでもしないかぎり」
「二人で家を捨ててしまって、どこか遠くに行って暮らすとかしないと……」

 もう完全に千鶴の頭の中は【泣き本】状態となっていた。斎藤は溜息が出た。次には心中沙汰だと騒ぎだすだろう……。

「お二人はどうやって結婚のお許しを貰えたんでしょう。だってお武家様の家同士。仲違いされてたら、それこそお家騒動ではないですか。ありましたもの、本にも」
「本……。泣き本まがいだが、津島も先方の養父に斬られかけた」

 思わず、口が滑った。千鶴には隠しておこうと思っていた【切絵図騒動】の事も、【杉山ユキ失踪事件】【鎌倉薔薇邸訪問】【津軽屋敷の決闘】の事も結局全て話す羽目になった。千鶴は斎藤の腕の中で、興奮したかと思うと、鼻水をすすり始め、「それで、どうなったんです」と話の続きを聞きたがった。ずっと津島さんお元気がなかったのは、ユキさんへの恋煩いだったんですね。お仕事まで追われて。お可哀そうに。それに、ユキさんも籠の鳥ではないですか。千鶴は何度も枕に突っ伏してはグスグスと「可哀そうに、お辛かったでしょうに」と、涙を流していた。斎藤は、千鶴の好きなままにさせておいた。ただ、二の腕から向こうの胸には触れた。冷たい皮膚が柔らかくて気持ちがよい。

「はじめさん、果し合いをされて、津島さんとユキさんを救ったんですね」

 千鶴は首に縋り付いて強く抱きついて来た。さすが、わたしの旦那様です。お相手の父上様の顔も立てて、津島さんは巡査を辞めなくても良くて。ユキさんとの婚姻も決まって。こんなに幸せなことはありません。ありがとうございます。津島さんとユキさんの代わりに私がお礼をいいます。千鶴は嬉しそうに何度も斎藤の顎や頬に口づけた。


「はじめさん、お疲れじゃありませんか」

 ようやく興奮状態が落ち着いたのか、暫く静かに抱き着いたままだった千鶴が尋ねてくる。疲れた。津島の騒動の事は、本当は話したくはなかった。少なくとも、褥の中では……。

「もし、お疲れじゃなければ、連れていってください」

 千鶴の声が耳元で聞こえた。

「漆喰の廊下に」

 艶めかしい囁き。連れていくとも。もう我慢の限界だ。

 斎藤は直ぐに起き上がって千鶴を抱きかかえた、蚊帳の外に抜けると、深く口づけあいながら診療所との間の廊下に向かった。





つづく

→次話 明暁に向かいて その42





(2019.04.06)

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