ブログ【暦や季節、時勢について】斎藤一の生まれたとき

ブログ【暦や季節、時勢について】斎藤一の生まれたとき

ゲーム薄桜鬼のキャラクター斎藤一のモデルとなった歴史上の「斎藤一」の生誕日は天保十五年一月一日。この年は十二月二日に改元があり(明治まで立年改元を基本としていたため)改元時に遡り弘化元年とされています。以前、ブログに載せた藤田五郎の警視庁での履歴書に「弘化元年一月一日生まれ」と記録されているのはこのため。この年から幕府は「天保暦」を採用し、明治五年にグレゴリオ暦(私たちが現在も使っている西暦)に変わるまで二十九年間使われました。太陰暦(月の満ち欠けを基本にするもの)です。西暦(グレゴリオ暦)に換算すると、斎藤一の生まれたのは1844年2月18日となります。

天保暦は西洋天文学を基本としたユニークなもので、地球の自転の誤差なども取り入れられていました。それまで時間も定時法(一時間は季節に関係なく同じ)だったものが、太陽が昇り沈むまでの時間を六等分にして数える「不定時法」が採用されました。季節によって一時間が長くなったり短くなったり、暮れ六つが冬と夏では異なるといった具合です。

この天保暦が使われた二十九年間がすっぽり斎藤一の半生と重なるため、小説を書く時に暦や時間、季節を特定する作業をすることがよくあって、私の中で新選組の史料の日付や時間の記録の季節感を捉えるのに天保暦はとても重要です。面白いのが二十四節気の区分はそれまでの寛政暦をそのまま採用していて、斎藤一の生まれたのは二十四節気の第二「雨水」にあたります。旧暦の正月。雨が降って土が湿り、末候では「草木が芽吹き始める」季節。旧正月は今のお正月より「春の芽吹き」を感じますね。そんな季節にこの世に生をうけた山口一(のちの斎藤一)、江戸市中の外れの本郷真砂(典型的な江戸の武家屋敷町)でどんな生活をしていたのだろうと想像が膨らみます。

天保年間はまだ幕末以前。黒船来航よりずっと前から日本の海岸線の至る所に外国船が接近していました。外国船打ち払い令も既に発布され、斎藤一が生れた天保十五年には、少し前に起きた「蛮社の獄」で捉えられた高野長英が脱獄しています。同じくこの言論弾圧で自決した渡辺崋山は生前に滝沢馬琴と長く交流があったことが有名です。馬琴さんと云えば居を今の本郷地区である神田明神下に構えていました。時代は「鎖国派」か「開明派」で揺れ始めていたため、表向きは渡辺崋山とは距離をとっていた馬琴さんも「近世説美少年録」では開明派であった崋山を擁護するような「新局玉石童子訓」を書いています。

こういった思想的な争いが、どれだけ江戸市井の人々の意識に拡がっていたのかは私もよくわかりません。知識人(蘭学や洋学、兵法を学んでいる人々や幕府高官)しか把握していなかったのか、こういった読本を通して庶民も開明的な思想に触れていたのか。それとも時代の落ち着きのなさは社会の空気に滲みでていたのかもしれません。このように、思想的な争いや弾圧が活発になっていた時期に、斎藤一は足軽中間身分の次男坊として生まれ成長しました。文化的な地域であった本郷界隈。時は弘化、嘉永(孝明天皇が即位し改元)と移り変わり、山口一が九つの頃、黒船が来航。その後「安政の大獄」が起き、時代の潮流で幕府や各藩が開国か、攘夷かという国政の選択をしなければならない状況に発展していきます。

幕末の十数年間で米の値段は急騰し、インフレも起き、貨幣価値の変動は目まぐるしいものがあります。山口一の父親の佑介さんは、御家人株を買って士分となった苦労人だと伝わっています。斎藤さんの長兄は和算が得意でした。斎藤さんも剣術と並行して寺子屋で算術や読み書きを習ったことでしょう。本郷から郊外の試衛場(甲良屋敷)へ通うようになったきっかけは何だったのだろうと想像が掻き立てられます。江戸後期の切絵図や風景写真を見てみると、箪笥町などの武家屋敷や神社仏閣が点在していたところを通りながらも、田端や神田川(江戸川)の土手など市中の喧噪を離れ長閑な風景の中を歩いて通っていたことが伺えます。

一般的にとらえられている「幕末」よりずっと以前、十年近く前に斎藤一はこの世に生を受けました。薄桜鬼では近藤さんや土方さんより年少として描かれていますが、近藤さんと同様に、斎藤さんは前時代に足を突っ込んでいる世代です。そんな斎藤さんが大正時代まで激動の時代を生きたことは特筆するものがあります。薄桜鬼で描かれる二十歳頃から明治期の斗南で仕官する推定三十歳頃までの斎藤さんを見ていると、この生まれた頃の空気感や育った本郷界隈の雰囲気は、「剣術」という要素と同じぐらい人物形成の土台の部分になっているような気がします。ゲーム内に直接描写はされていないけれど、プレイしていて、キャラクター像(振る舞いや所作、食べ物の好みや生き方)にそういった部分を感じさせてくれる、奥深い薄桜鬼の世界が私は大好きです。

上の切絵図は本郷真砂町(江戸後期)のもの(ROIS-DS人文学オープンデータ共同利用センターの江戸切絵図より)中央の松平右京亮とある広大なお屋敷の道を隔てた「小役人」辺りが山口一の生家と推定される地域。辺りは右京山と呼ばれ地図の中にあるように小さな坂が多いです。
現在の街の区画と比べると切絵図は大まかで、実際の真砂町は細かな路地が沢山存在しています。左上の「水戸殿」は水戸藩屋敷で現在は「小石川後楽園」や東京ドームシティとして残っています。

ちよろず

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