第五部 変身
薄桜鬼奇譚拾遺集
鬼の襲来
西本願寺の屯所が風間に襲われた夜、殆どの幹部は屯所を留守にしていた。何度にも渡る鬼の襲来をずっと防ぎ続けて来た新選組は、この夜に限っては油断をしていた。屯所の護衛は手薄だった。
鬼たちの周到な下調べによるものか、未明に本願寺の北集会所に音もなく風間達は侵入してきた。その夜、千鶴は早くに就寝していた。隣の部屋の斎藤と総司は夜中の巡察に出たまま。総司と部屋続きの山﨑の部屋に、やはり留守中の山崎に代わり、一時的に島田魁が千鶴の護衛の為寝泊りしていた。
不審な物音に島田が気付いた時には、既に風間は千鶴を部屋から連れ出していた。刀を抜いて切りかかった島田を、風間は振り返り様に足蹴にした。島田は数軒の距離を吹き飛ばされ、柱に全身を打ち付けられた。蹴られた場所はみぞおちだったのか、そのままぐったりと動かなくなった。
「島田さん」
風間に塞がれていた口元から千鶴は漸く声を出すことが出来た。千鶴の叫び声と物音を聞いて、原田左之助と土方が駆け付けて来た。左之助の前に天霧が立ち塞がった。本願寺の境内で二人は打ち合った。土方は風間を追いかけた。背後から、井上や山南の姿もあった。山南は、ここぞとばかりに羅刹隊士達を十名連れ出し、境内は騒然となった。
青い月明りが広がる境内で、風間は斬りかかる羅刹隊士をバサバサと斬り捨てた。小脇に抱えられた千鶴は、意識を失っているらしく、ぐったりしている。羅刹隊が鬼に全く歯が立たぬ様子に、山南は苛立ちながらも、風間の凄まじい身体能力に感心した様子で、最後に自分も斬りかかるように構えた。
その背後から、土方が渾身の力を込めて風間に斬りかかった。風間は片手太刀で軽々と躱し、土方を足蹴にした。土方は体勢を崩しながらも打ちかかる、それを何度か繰り返したのち、土方の一撃を躱して風間は後ろに飛び逃げると、皮肉な笑顔を見せた。
「今宵は、貴様らと戯れるつもりはない」
「女鬼は貰った」
と言って、一瞬の内に屋根に飛びあがった。天霧も原田との闘いを切り上げると屋根の上に飛び逃げていった。追いかけて行こうとする原田を、土方は止めた。境内は、羅刹隊士の遺体で騒然としている。本願寺の僧侶が気付かぬ内に速やかに片づけるよう、山南が別の羅刹隊士に促している。原田は、千鶴を取り戻しに追いかけないのかと、声を荒げているが、土方は肩で息をしながら、「今から追っ手をやる」そう言って、境内の先の門を見た。
黒い影が門に見えた。屯所の異変を察したのか、戻ってきたのは、夜中の巡察に出ていた総司と斎藤だった。土方の下に足早に駆け付けた二人は、荒い息遣いをしていた。
「千鶴が浚われた。風間だ。西方面に逃げた」
「総司、斎藤、お前らなら追いつけるだろう」
「千鶴を取り戻せ。薩摩に連れ去るつもりなら、大坂の港に向かっているはずだ」
総司達は、土方が言い終わらない内に、駆け出した。背後から土方が叫ぶ声が聞こえた。
「俺らも追っ手を出す、明け方に淀方面に向かわせる」
西本願寺の塀の向こうに、二人の影が消えて行くのが見えた。満月が頭上に大きく輝いている。総司達の消えた方向から獣の激しい遠吠えが聞こえた。
*******
壬生狼
総司と斎藤は、ひたすら走った。まだ遠くには行っていない。西に向かっているのは確かだ、川ではなく山。
「こっちだよ、はじめくん」
総司が見当をつけた方角は、天王山方面。確かに。こっちだ。斎藤は、総司の後をついてひたすらに走った。二人は藪の中を突き進む、さっきまで明るい月明りの指す街道だったが、今は暗闇。だが、二人の動きは更に早くなった。
「近い」
斎藤が前を走る総司に言うと、
「近いね。敵は二人」
「はじめくん、僕は先回りして崖に廻る。君は追い込んで」
振り返った総司の瞳は翡翠色に輝いた。斎藤が走りながら頷くと総司は進む道を逸れて、左側の闇の中に消えて行った。
(雪村の匂い。だんだん濃くなってきた)
斎藤は、ひたすらに突き進む。この先は街道から深い山道に進む分岐、どこに逃げるつもりだ。薩摩に連れ去るなら港のある大坂。それか、このまま陸路か。風間の行き先を走りながら斎藤は考えた。
(近い。敵は足を止めている)
斎藤は、風間たちの気配を感じた。夜の帷が下りた森の中は市中と違い一段と空気が冷たい。斎藤の荒い息は、霧を吹きだしているように白い。斎藤は気配を消した。抜き足で近づく。山道の辻に祠が見えた。そこに男が二人佇んでいる。金色の髪の男は風間。もう一人の男は天霧。風間が雪村を抱えている。気を失っているようだ。
寝込みを襲うなど不届き千万。許さぬ。
斎藤の両目が蒼く光を放った。風間は藪の中に気配を感じ、そちらを振り向くと、口角を皮肉な表情で持ち上げた。
「幕府の犬か」
斎藤は、ゆっくりと前に進んだ。暗闇に蒼い双眸だけが光っている。
雪村を、放せ。
静かにそう言って、風間と天霧の目の前に立った。
「壬生狼」
風間は、嘲笑を込めて斎藤を見下ろす。
「貴様のような異形の者が、我等鬼と対峙するとは」
「身の程知らずの田舎者もここまで来れば度し難い」
風間がそう言い終わる前に、斎藤は地面を蹴った。そのまま千鶴を抱えた風間に襲い掛かった。風間は軽々と躱すと、再び飛掛かった斎藤の腹部を右足で蹴り上げた。鈍い音がして、斎藤は後ろに跳ね飛ばされた。風間は千鶴を抱え直すと、辻から外れて藪の中に駆け込んで行った。
逃すものか。
斎藤は追いかける。斎藤の後を天霧が追いかけて来た。何度も背中に手をかけられ、その怪力で地面に打ち付けられた。
これしき。
これしきのことで。
斎藤は牙を剥いて、立ち上がると天霧を飛び越えて、ひたすらに風間を追った。
雪村。
風間の白い影は風のように木々の間をすり抜けて行く。鬼は飛ぶように走る。斎藤は己の足を見た。地面を蹴る足。
向こうが二足なら、こちらは四足。
造作ない。
斎藤は追いかけた。いつの間にか、目の前に天霧も走っている。
もう少しだ。この先は崖だ。
全速力で走る風間が、ふと急に足を止めた。森の外れ。再び月明りが辺りを照らし明るい。風間の止まった先に総司が居た。翡翠色の瞳は鋭く輝き、既に低く構えている。作戦通りだ。風間の背後は崖。幾ら鬼でもこの絶壁からは逃がれられぬ。
総司は、斎藤と息を合わせたように、風間と天霧に襲い掛かった。風間は千鶴を地面に下すと、腰の太刀を抜いた。刃先は、風間の深紅の瞳同様に輝いていた。風間の初太刀を総司と斎藤は見事に躱した。二人で交互に襲い掛かり、最後は同時に風間の首を押さえつけた。体勢を崩して悔しそうに歯を食いしばった鬼の頭領は、髪を銀色に変えて本来の鬼の姿に変化した。
凄まじい力で、斎藤と総司は撥ね退けられた。数軒の距離を滑り込むように踏ん張りながら下がった二人は、再び風間に襲い掛かった。総司は風間の右腕を、二の腕から襲い、太刀を振り落とさせた。斎藤は、再び風間の喉を狙った。
喰いちぎる。
碧い瞳は飛びかかりながら閃いた。斎藤の牙はまっすぐに風間の喉仏を捕らえた。風間が押し倒されるように地面に倒れると、天霧が背後から強い一撃を斎藤に放った。
激痛が背中に走った。背骨が折れたか。そう思ったが、斎藤は、怯まなかった。一度捕らえた獲物は決して放さぬ。
獣の心得。
斎藤は牙を剥いた。総司が再び天霧に襲い掛かり、崖淵まで追い込んだ。斎藤は、風間の喉から血の味を感じた。風間は、両手で斎藤の肩を掴んで押しのけた。ゆっくりと立ち上がった風間は、崖淵から飛び上がって戻った天霧と一緒になると、今夜はこれまでと、さっきまでの執拗な戦いは嘘のように、暗闇の中へ姿を消した。
斎藤は、地面に置き去りにされた千鶴の元へ向かった。千鶴は、風間の羽織にくるまれたまま目を瞑っている。気を失わされたのか、どこも怪我はしていないようだ。総司が千鶴の腹の下に頭をつっこんで、手荒に持ち上げた、斎藤はそっと千鶴を助けて総司の背中に載せてやった。ゆっくりと森に戻る。
さっきまで輝いていた月に雲がかかり、空が覆われて行く。今夜は雪になる。このような山奥で。近所には小屋もない。斎藤は途方にくれた。総司は、ゆっくりとしっかりした足取りで森の中を進む。山道の辻の祠の中は狭くて千鶴一人でも入ることができなかった。
「羊歯の林へ行こう。あそこなら苔が生えている。羊歯の葉の下にこの子を寝かせよう」
総司が向こう側を鼻先を向けて指す。
「ああ」
斎藤は答えた。背中の激痛が気になるが、歩ける。骨は折れてはいないようだ。斎藤は、ゆっくりと総司の傍を歩いた。千鶴の腕が総司の背中からぶら下がっている、斎藤はその下に入って千鶴の腕を自分の肩に載せた。千鶴の手は温かかった。よかった。無事で。総司が、雪除けになるからと言って、大きな羊歯の葉の下に千鶴を下した。
「この羽織、このままにしておこう」
総司は、そう云いながら、羽織の裾を咥えて千鶴を包むように着せかけた。そして大切そうに千鶴の背中側に体を横たえて頭をそっと千鶴に寄せた。
「そっち側お願いね」
相分かった。斎藤は千鶴の正面側にぴったりと身体をつけて横たわった。こうしておけば、体温は奪われない。たとえ雪が積もろうが、霜が立とうが大丈夫だ。斎藤は千鶴の顔を覗き込んだ。長い睫が伏せられて、安らかな顔をしている。寸でのところで連れ去られるところだった。
取り返せた。
斎藤は目を瞑った。総司も静かに千鶴の背後で眠っているようだった。
*****
満月の夜の戯れ
京と大坂の国境の山奥。低く垂れ込めた雲からちらちらと小雪が降る中、雪村千鶴が羊歯の林の地面の上で眠っている。それを挟むように大きな獣が二匹。片方は黒い毛で覆われ、光沢のある毛並みは蒼い。大きなつま先は千鶴の背中まで周り、ぴったりと寄せた身体はゆっくりとした呼吸で静かに上下している。千鶴の背後には、胡桃色の体毛に覆われた大きな獣。千鶴の髪の毛にその鼻先を埋めて、長いふわふわの尻尾は器用に自分の身体と千鶴の上に覆いかぶさっている。
巨大な狼が二匹。
総司と斎藤が満月の出る夜の間だけ変化(へんげ)する姿。
二人の変化のきっかけは、新選組が壬生浪士と呼ばれていた頃に遡る。その頃浪士組の局長は近藤以外にもう一人居た。
筆頭 芹沢鴨。
水戸藩の浪士で、近藤達とともに江戸で結成された浪士集に参加して上洛した。剣の腕も立ち、水戸藩との繋がりで顔も広く、浪士集の局長筆頭となった。だが、その性格は横柄で、凶暴な面を見せる時があった。百姓出身である近藤を見下す態度に、土方や総司は反感を持ち、次第に芹沢の水戸派と試衛館派は隊内で対立するようになった。芹沢は酒癖が悪く、酔うと座敷であろうが市中であろうが狼藉を働く。取り巻きは縮み上がり、事の収拾をつけるどころか、その場で立ち尽くすのみ。仕方なく近藤や土方が尻ぬぐいにまわった。土方達にとって目の上の瘤のような存在の芹沢だったが、浪士集まりが京に居る為には、芹沢の人脈が必要だった。市中取り締まり組織として正式な役目を貰うには、士分の立場である筆頭に頼るしかなく。近藤達は芹沢の狼藉を持て余しながら、何も出来ないでいた。
当時、東国から来た浪士集団が「市中取り締まり」を名目に練り歩く姿は、市井の人々には「物騒で野暮ったい外者よそもの」に見られた。資金も持たぬ浪士は身なりもみすぼらしい。【みぼろ】と陰口を叩く者も少なくなかった。資金。浪士集まりには金が必要だった。それも芹沢が強引に集めた。暴走する芹沢だが、組織が立ちゆかなくなるのを防いでいるのも芹沢だった。
一方で芹沢の暴虐、無法な振る舞いは留まることはなく。時に理由もなく、何の落ち度もない人間にまで手荒い真似に及ぶこともあった。周辺に居る者は誰も芹沢に逆らえず、制止出来なかった。そして芹沢自身、己でも統制が利かないようだった。周りの取り巻きは気づいていなかったが、芹沢の体は長い間病に蝕まれていた。
黴毒(そうどく)
ちゃんと養生をすれば、「かさをかいた」ぐらいで快方に向かっただろう。だが、芹沢は、不摂生を極め、己から病の深い淵に陥って行った。まるで何かから逃れるように。隊内の者には、酒乱を装うことで病から来る発作や自失を隠すつもりだったのだろう。だが、芹沢にはもう一つ周りに隠す秘密があった。
芹沢は、満月になると狂う。目は金色に輝き、牙が伸び、指の先の爪は太く尖り。身体中固い体毛で覆われた。四足で地面を蹴って走り、叫ぶ声は遠吠えとなってあたりをつんざく。
人狼なのは生来のものではない。幼少の頃に狼に噛みつかれた。手の施し様はなく、満月になると人間であることも忘れ、獣の本能のままに夜明けまで暴れまわる。水戸に居られなくなったのは、もしかすると、その正体所以だったのかもしれぬ。
今となっては知る由もない。芹沢は死んだ。上洛して半年を過ぎた九月に。人狼である以上に、人としても非道の限りをし尽したあげく、土方達に粛清された。芹沢の最期は、まるで芹沢自身が望んだかのように、刀で切り殺された。
粛正のきっかけとなったのは、まだ八月の暑い頃に島原で開かれた宴会の夜のこと。御所の警備での功績が認められたのを浪士組幹部だけで祝った。いつもの如く酒の入った芹沢が暴挙にでた。一緒にいた近藤と土方がその場を収めたが、機嫌の悪い芹沢はひとり宴席を後にした。昼間の暑さが全く引かない風も吹かぬ満月の夜だった。後を追い掛けた総司と斎藤は、暴れる筆頭との死闘の末に芹沢の牙でその身を裂かれた。総司は左腕を、斎藤は脇腹を。二人の傷は深かった。総司は、二日間高熱を出した。斎藤も、ひどい傷だったが、総司より癒えるのが幾分早かった。そのひと月後、近藤と土方は、京都守護職から芹沢処分の許可を受け、粛正を執り行った。
そして、芹沢の粛清から初めての満月の夜に、総司と斎藤の身体に異変が起こった。屯所の離れの渡り廊下で月夜の光を見たとたん、二人の身体は震えだした。瞳が金色に輝き。全身が光を放った。身体を巡る血が逆流するかのような感覚で、立っていられなくなった斎藤は膝を床の上についた。症状が落ち着いた時には、身体は、四つ足の獣に変わっていた。大きな狼に。
総司は、目の前にいる斎藤が黒い毛の獣になり、碧い瞳がいつもの斎藤の双眸そのものの光を放っているのを見詰めた。
はじめくん、だよね。
ああ。
話しかける声は、野獣のうなり声だが、互いに言っていることは十分に理解できた。二人は、芹沢が見せた野獣の姿を思い出した。怪物のような人狼。だが、斎藤は人というより狼そのものだった。巨大な野犬。そう言ってもいい。総司は己の姿も眺めてみた。自分の身体を覆う毛は、人間の時の頭髪の色そのもので、胡桃色。
よかった。僕も犬の姿だ。
二人で、互いの姿を確かめ合った。斎藤が、目の色が普段と変わらぬ。そう言って、二人で中庭に降り立った。全身に満月の月明かりが当たると、力がみなぎって来た。走りたい。駆け回りたい。そう思った瞬間、総司が先に駆けだしていた。斎藤は総司を追い掛けた。
二人で壬生の屯所を出て、市中を走り抜けた。直ぐに人里を離れ、山の中に入り野山を駆け巡った。躍動感、爽快感、気分の高揚。風の匂い、森中の生き物の声や音。全てが強烈だった。総司と斎藤は、腹の底から笑った。気分が良くて、月明かりに向かい叫んだ。その声は、野獣の吠え声。山中に響き渡る遠吠えだった。
月と一緒に明けの明星が並んだ。夜明けが近い。散々野山を駆け巡った二人は、自然と足が町中に向かった。二人で追い掛け合いをしながら、壬生の八木邸に戻った。月が隠れるぐらいに明るくなってくると、斎藤達の姿は人間に戻った。裸体の人間の姿。斎藤は、中庭で素っ裸で膝を地面についたまま、元の人間に戻った自分の姿を確かめた。不思議そうにしている斎藤の前に、立ち上がった総司は裸のまま、御影石を飛び越して濡れ縁に上がると、廊下の上に脱ぎ捨てた着物を斎藤に投げつけた。
早く、着ちゃおう。
そう言って、廊下で急いで着物を身につけた。一晩中駆け回っていたが、疲れはない。逆に爽快だった。そして恐ろしく空腹だった。山では、泉で水を飲んだだけ。総司達は、土に汚れた手足を洗って泥を落とすと、そのまま台所に向かって、炊事当番の井上と平助を手伝った。朝餉の後、総司が斎藤に井戸端で歯を磨きながら尋ねた。
ねえ、牙はどう? 伸びてる?
いや。なんともない。
僕も。さっき、もう一度着物脱いで、背中も見てみたけど、毛も一本も残ってない。
斎藤は、頷いた。俺もだ、と話した。それから、二人で土方に夜中に起きたことを話しに土方の部屋に向かった。土方は驚いていたが、芹沢の異変には以前から気づいていたと二人に話した。
人狼が人を襲い、噛みつくと、噛みつかれた人間も人狼になる。古い言い伝えだ。
斎藤は、自分たちの変化を細かく土方に説明した。総司と意思の疎通は普通に出来たこと。野山を駆け巡りたい衝動は抑えきれず、屯所を出て行ってしまった事。千里を走っても疲れず、嗅覚、聴覚の感覚は研ぎ澄まされ、山の中に居ても、市中で起きている事は察知できた。
「すげえじゃねえか」
土方は笑顔で斎藤に言った。斎藤は驚いた。異形の自分は土方に迷惑をかけると思っていた。芹沢がそうであった様に、いずれ自分達は暴れまわり、粛正される。斎藤は覚悟は決めていた。土方は明るい表情で頷いた。
「お前等の話を聞いてると。狼になってる間の能力は最強だ。互いに話が出来るのなら、二人で一緒にいろ」
「今度、俺等の話しが通じるか、試してみるか」
土方は、暦を出してきて次の満月の出る日を特定した。芹沢は、必ず満月の夜に出掛けていた。次は十一月十二日だ。いいな、俺の部屋で待機しろ。必要な物があれば報せろ。それから、このことは当面、近藤さんと俺だけの話に。後で近藤さんには俺から説明しておく。どんな些細な事でもいい、身体におかしいところがあれば直ぐに報せろ。いいな。
土方の指示を受けて、斎藤は自分がまだ新選組に身を置ける事に安堵した。だが、己の異変は常に注視しよう。総司もだ。人狼は凶暴だ。羅刹と同じぐらいに。己が狂うなら、いつでも自刀する。その覚悟は局長にも伝えておこう。斎藤は自分の身の振り方を決めた。総司も全く同じ事を考えていた。
それからも二人は互いに身体の変化を確かめ合った。予想とは違い、普段の生活にあまり変化はなかった。総司は若干食欲が増して、食事の量が増えた。斎藤は元々が痩せの大食い。変わらずよく食べた。変身している間の能力と普段は無縁だが、満月の夜の身体にみなぎる感覚は覚えている。
二回目の満月の夜は、直ぐにやってきた。満月の光を浴びた瞬間、二人は変身した。土方が中庭で立ち会い、翡翠色と紺碧の瞳が光る二人を眺めた。
「お前等、変わらねえな」
感心しながら、土方はしゃがんで二人の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。斎藤は頭を垂れて撫でられるままになっているが、総司は嫌がるように仰け反って、鼻を鳴らした。
「着物は、脱いじまわねえとならねえんだな。俺の言っていることが解るか?」
そう尋ねると、斎藤は「はい」と答えた。それは、小さな遠吠えのような声だった。
「着物は、廊下に置いておく、必ず明け方暗い内に帰ってこい」
土方に見送られて二人は屯所を後にした。また野山を駆け巡りに、西の山に昇り、斎藤は崖の上で満月に向かって吠えた。なんとも言えぬ爽快感。総司とのじゃれ合いは、道場での手合わせと同じぐらい楽しいものだった。跳躍、俊敏、感覚の鋭さを二人で競い合う。山は楽しみの宝庫だった。木々の間をすり抜け、何里も先の山の斜面の穴の中に眠る小さな野兎の寝息まで聞くことが出来る。
「じゃあ、今、土方さんは?」
「副長は、風呂に入られている」
「近藤さんは?」
「眠って居られる。寝返りをうたれた」
「左之さんは飲んでるね。壬生の郭だ」
総司は笑う。市中のあらゆる気配が耳に聞こえる。匂う。感じる。
「ねえ、いつもこんななら良いけど。いつもだと大変かもね」
「ああ」と斎藤は答えた。確かに。普段の生活でここまで全てが聞こえ匂いで判るのは、逆に難儀であろう。
「ねえ、満月の夜だけ山に来ちゃうけど。屯所まではひとっ飛びで帰られるようにしておこうよ」
総司の提案で、駆け巡る山を決めた。西山。南は山崎まで。一度嵐山に行ったが、崖から落ちて二人で怪我をしたため避けた。
西山は深い山が連なり、楽しみ過ぎて時を経つのも忘れた。ある夜、総司が飛び込んだ岩場の下に一面に枸橘からたちと茨の林があって、総司は全身が枝に絡まり抜け出せなくなった。一刻以上もかかり斎藤が必死で枝をかき分け、後ろ足を引っ張り総司を助け出した。二人とも棘が全身に刺さり、暫く傷を互いに舐め合った。早く屯所に戻って手当しようと市中に向かったが、二人とも途中で力尽きた。
気がつくと、二人は古い寺の御堂の中に居た。布団を掛けられ、身体中の棘を抜いた場所に香薬が塗られていた。そのむせ返るような香りで目が覚めた。総司は隣の布団で眠っていた。顔も傷だらけで、ところどころ血が滲んでいた。
斎藤が起き上がると、御堂の入り口から一人の僧が入って来た。作務衣を斎藤に渡し、朝餉が出来ていると別の部屋に来るように言われた。斎藤は総司を起こして二人で着替えた。別の部屋では、膳が二つ並べられ、椀に温かい粥が入っていた。二人は手を合わせてから食べた。生き返るようだった。
斎藤は、目の前の僧侶に傷の手当と食事に対して礼を言った。和尚は斎藤達をじっと見詰めると、自分の見た出来事を話した。明け方に大きな犬が二匹御堂に入って来た。そのまま力尽きたように動かなくなった。念仏を唱えていると、その姿が人になった。怪我をした若者が二人。
「釈尊の縁起に、四つ足の獣の姿をした灯明が現れ、辺りを照らし、衆生の光となったとある」
そう言って微笑むと。「養生されよ」と言って、部屋を出ていった。総司と斎藤は、目を合わせた。膳を片付けて作務を手伝った。和尚は終始無言のまま二人を眺めていた。陽が高くなってから、斎藤と総司は和尚の元へ戻ると、訳あって変化する身であること。市中を見廻ることを生業としているとだけ伝えた。和尚は、市中への道行きを教えてくれた。今から山を下りれば陽が落ちるまでには辿りつく。
二人は、重々に礼を言った。御堂の前の御門には【三鈷寺】と札が掲げられていた。
****
西山の犬神さま
再び、国境の山道。まだ明け方の暗い内。辺りは薄らと雪が覆っている。その中を足早に素足に草鞋を履いた斎藤が歩いていた。
羊歯の林。雪で真っ白な一面の向こうを探すと、羊歯の歯の下に総司と千鶴が横たわっていた。総司は一糸纏わぬ姿で、千鶴を背中から抱くようにじっとしている。斎藤はその姿を見て、小さく溜息をつき、持っていた作務衣を総司に投げつけた。
「痛い」
総司は千鶴の肩に腕を回したまま首だけ回して振り返った。
「いつまでそのような姿で寝ている。離れろ」
斎藤は、囁き声で言い捨て酷く苛立ったような顔で総司を睨み付けると、持っていた羽織で千鶴を包み込む様にして持ち上げた。千鶴はぐっすりと眠ったままだった。温かい。総司が抱きしめていた為、体温を充分に保っていた。
「酷いなあ。せっかくその子を温めていたのに」
「早く着替えろ。山道づたいに上がるぞ。半刻はかかる」
そう言って、斎藤は再び来た道を千鶴を抱えて行った。総司は、寒い、寒いと文句をいいながら、斎藤に投げつけられた墨染めの作務衣と草鞋を身につけて、先に山道を登って行く斎藤を追い掛けた。
「はじめくん、いつ起きたの?」
「四つ前だ。まだ月のある内」
「和尚のところ?」
「ああ、ここからは暫くかかる」
「ぼく、股がすーすーしてる。褌つけてないと寒いね」
総司が笑う。仕方がないと言って、斎藤は黙々と歩く。
それから二人は、狭い山道を黙ったまま登り続けた。雪化粧の中、薄い綿の作務衣に素足に草履姿だが、早足で歩く二人の息は温かく。千鶴を抱いた斎藤はそのぬくもりをずっと感じていた。斎藤は時折、千鶴の顔を眺めた。余程深い眠りについているようだ。目を覚ます様子はない。
急な勾配を何度かやり過ごした後、ようやく寺の門が見えた。二人は境内に入り、御堂の中に入って和尚を探した。和尚は斎藤が抱えた千鶴の姿を見て、奥の座敷に布団を敷いて寝かせるように言った。朝のお勤めがあるからと、また御堂に向かった和尚について、斎藤と総司は一緒に読経して作務を勤めた。
陽が寺の境内に入り出した頃、斎藤達は御堂の渡り廊下の拭き掃除を終えた。和尚は、じっと二人の様子を黙って眺めていた。そこへ奥の座敷から起き出した千鶴が、廊下を警戒しながら歩いてきた。そっと廊下から中庭におりて、辺りを見回している。
千鶴は、風間に連れ出されたまま目を覚ましたと思っていた。誰も居ない今のうちに逃げよう。お寺の中のようだが、門はあちら側か。細心の注意を払って、音を立てずに建屋の反対側に出ようとした。
「雪村」
斎藤の声が背後からした。千鶴は飛びあがるぐらい驚いた。振り返ると、斎藤が立っている。千鶴は斎藤に駆け寄った。涙目になっている。斎藤は千鶴の背中にそっと左手を回して抱きしめた。
「鬼の連中は去った」
斎藤の背後に総司が立っていた。千鶴は総司を見て笑顔を見せた。
「顔を洗っておいで。ここの和尚様が朝餉を用意してくれている」
千鶴は頷くと斎藤と一緒に井戸端へ向かった。斎藤は、手短に千鶴に今自分たちが居る場所の説明をした。千鶴は境内を眺めながら、自分が無事だったことを実感したように、安堵した表情を見せた。斎藤が奥の間に千鶴を連れて行き、寺から借りた小さな作務衣と足袋を渡した。
千鶴は特別な客間で用意された膳を食べた。身体が内から温まった。給仕をする幼い僧侶は、まだ十歳ぐらいにみえた。千鶴はお礼を言って再び御堂に戻った。斎藤と総司が中庭の掃き掃除をしていた。千鶴が中庭に下りて、一緒に総司達を手伝った。終始無言で黙々と働く。だんだんと陽が高くなって辺りは明るくなった。
片付けが終わると、三人で和尚のいる部屋へ向かった。もてなしへのお礼を言うと。和尚は微笑んで頷いていた。
「淀に向かわれるのでしたら、好都合。じきに雪も消えますやろ」
和尚は、半紙に西山の南側へ下る道を書き出したものを斎藤に持たせた。
「有り難うございます」
斎藤は、両手をついて礼を言った。本当に有り難い。いつもは獣道しか通らず、匂いの感覚も鈍い今は、南側への道行きが怪しかった。斎藤は、丁寧に地図を畳むと懐にしまった。
千鶴は、支度をしに奥の間へ戻った。自分が着てきた着物と風間の羽織が綺麗に畳まれて置いてあった。さっきの年若い僧侶が障子の向こうから、風呂敷を持ってきたといって声をかけてきた。千鶴は部屋に小僧を招いて、丁寧にお礼を言った。
「こちらを」
小僧がちいさな和紙の包みを千鶴に差し出した。
「和尚様から、お守りを渡すように仰せつかりました」
そう言って、小僧は丁寧に両手をついて挨拶をすると部屋を出ていった。千鶴は、和紙の包みを開けると、梵字の小さなお札と髪の毛のような、艶々の動物の毛がまとめて入っていた。濃い黒碧と茶色。沖田さんと斎藤さんの髪のような色。千鶴は、障子越しの明るい光にあてて、暫く眺めていた。
部屋を出て、玄関に向かうと廊下に和尚が立っていた。千鶴がもう一度、助けて貰えたお礼を言うと。
「釈尊のご加護。大犬神の化身がこの山に現れた。ありがたや、ありがたや」
そう言って、微笑みながら合掌した。千鶴は、和尚から渡されたお守りの事を仰っているのかと静かに微笑みかえしながら、もう一度深くお辞儀をした。
総司と斎藤は既に玄関で待っていた。和尚に見送られて三人で寺を後にした。まだ雪が残っている山道をぬかるみを避けながら、ゆっくりと下りて行った。日ぐれも近い頃、淀より手前の桂川の袂で斎藤達は、新選組の旗印を見つけた。平助と左之助が、平隊士数名と荷車を引いて待機していた。
千鶴の着物や、斎藤たちの着替えと刀、隊服まで車に積んであった。早朝からずっと待っていたと聞いて、千鶴は本当に有り難かった。断る千鶴を荷台に乗せて、皆で西本願寺に向かった。
屯所には日暮れに着いた。冷え切った身体を浴場で温めた千鶴は、遅い夕餉を幹部の皆の前で食べ、無事の帰還を喜んでくれている事に感謝した。そして、山奥のお寺で助けられた事。総司と斎藤が自分を迎えに来てくれた事が嬉しいと、目尻に涙を溜めながら、改めて斎藤と総司に畳に手をついて礼を言った。
千鶴が早くに部屋で休んだのを確かめた後。斎藤と総司は、疲れ落としに浴場に向かった。前夜の風間と天霧との闘いは、二人の身体に無数の傷痕を残していた。自分の脇腹のどす黒い痣を見て、総司が舌打ちした。斎藤は、背中に酷い擦り傷と黒い痣、首と肩に黒赤い風間の手の痕が残っていた。
「舐めてあげようか」
総司が、湯船の縁に両手を掛けて足を前に伸ばしながら笑う。
「馬鹿を言うな」
そう言って、斎藤は湯を掬うと顔をバシャバシャとやって深く身を沈めた。
「山崎くんの薬より効くと思うけどね」
「あとで石田散薬を飲む」
「えー、僕飲みたくない」
総司は、嫌そうな顔で答えたが、斎藤は意に介さず。打ち身には確かに効くから飲めと呟いた。
****
その後、屯所に鬼が現れることはなくなった。長州征討の為、公方様が大坂城に陣を構えた。新選組も会津藩調練所に幹部が出向き、戦に向けての調練を受ける事になった。土佐藩浪士の横行が目につく昨今、市中は依然穏やかではない。しかし監察方の情報によると、薩摩藩は国元の武備を密かに始めているらしく、反対に洛中での活動は静かだった。おそらく、風間たち鬼の連中は京には不在。土方は、監察方の報告を聞きながらも、屯所の警備は一層強めておくように指示をした。
総司と斎藤は、変わらず満月の夜は朝方まで二人だけの巡察に出ていた。生傷をつくってくる二人を、千鶴は不思議に思っていたが、二人が互いに手加減せずに剣や体術の稽古をしているのだろうと、丁寧に手当をした。
まだ春先の冷える朝、土佐藩の不逞浪士が徒党をつくっている情報があり、左之助達が特別に精鋭部隊を編成して三条に向かった。調練に借り出される幹部が巡察に出られない分、隊士の人数が少なく、土方も厳しい表情をしている。連日の土佐藩の浪士の物騒な事件の話を耳にしていた千鶴は心配で仕方がなかった。
必ず、みなさんがご無事にもどられますよう
千鶴が、廊下で西の空に向かって手を合わせて願っていると。背後から総司が声をかけた。
「あれ、もう左之さんたち、行っちゃった?」
「はい、さっき門を出て行かれて」
「ふーん」
総司は千鶴を興味深そうに見下ろしている。
「皆さん、きっと大丈夫です。神様にお願いしましたから」
千鶴が笑顔で総司を見上げる。総司の背後から、斎藤が調練に出掛ける支度をして出てきた。
「西山の犬神様が守ってくださいます」
千鶴はそう言って、掌に挟んだお守り袋を大切そうに眺めた。そして、自分が風間から助けて貰った三鈷寺の和尚様から釈尊のご加護で大犬の化身が守ってくださったと教えられたと笑顔で話した。
「へえー、和尚さん、そんな事いったんだ」
総司は、右側の口角を持ち上げながら笑うと、斎藤に振り返った。斎藤は、千鶴の掌のお守りを興味深そうに眺めている。
「はい、和尚様がこうして、犬神様のお守りをくださいました」
千鶴は、非番に寺までまたお礼に行ってみたいと思っているが、遠方過ぎて一日では帰って来れない。そう呟くと。
「じゃあ、もう少し暖かくなったら、行ってみようよ」
そう言って、渡り廊下の欄干に腰をかけて、総司が笑った。
「君が山道を歩けなくなったら、はじめくんが君を背負ってひとっ飛びしてくれるさ。ね、はじめくん」
斎藤が、総司を眩しそうに見返しながら、静かに笑って頷いた。明るい光が廊下に射し込んで、総司の髪と斎藤の髪が逆光に光る。犬神様のようだ。千鶴は、微笑みながら二人の姿を眺めた。
表階段から調練に出向く二人を見送りながら、千鶴は、お二人にも犬神様のご加護がありますようにと、心の中でそっと祈った。
了
(2017.11.20)