浜千鳥
明暁に向かいて その50 番外篇
明治十五年夏
千鶴が昼餉の片付けを終えて居間に戻ると、さっきまで座っていた斎藤の姿が見えなかった。庭先に遊ぶ次男の声も聞こえず、縁側の廊下にごろんと横になる猫の坊やの姿が見えた。坊やといっても、その身体は大きく尻尾もふさふさと立派で父猫の生前の姿とそっくりだった。千鶴はそっと近づいて、猫の背中を優しく撫でた。ふわふわの毛が生えたお腹が上下にゆっくりと動いている。気持ち良さそうに眠っている坊やからそっと離れると、千鶴は奥の間に入っていった。
薄暗い部屋の真ん中に敷いてある布団に子の姿がなかった。上掛けがはぐったままになっている。さっきまで一さんと一緒に眠っていたのに。
長女が生まれて五か月。最近は腰も据わって夜はまとめて眠るようになった。昼餉の後に乳をあげて寝かせ、半刻の内に片付けを済ませる。斎藤が家にいる時は、斎藤が長女を寝かしつけて一緒に仮眠をとる。だが今日は二人の姿が見えない。千鶴は縁側から中庭を覗いて、斎藤の姿を探した。ぐるりと母屋の反対側の庭に出ても姿がみえない。玄関に斎藤と剛志の草履がないことを確かめた千鶴は、斎藤が子供を連れて外に出掛けて行ったのだと漸く気がついた。
「千桜も連れて行っちゃったのかしら」
千鶴は斎藤が赤ん坊を連れて出掛けたことに驚いた。一番暑い盛りにどこへ。だが、久しぶりにのんびりとした時間が戻った気がして、井戸から水を汲んで植木に水を遣り、それが終わると縁側の影に腰かけて涼んだ。足先を濡らしたところを団扇で煽ぐと気持ちがいい。千鶴は身体を半分横たえるように傍らの猫の坊やに手を伸ばし、ふわふわの尻尾を触った。そしてそのままうとうとと眠ってしまった。
******
カラカラと玄関の戸が開く音が聞こえた。
「帰ったぞ」
廊下の向こうに斎藤の声が聞こえて、千鶴は慌てて起き上がった。居間に上がってきた斎藤は赤子を抱えて、背中には次男の剛志を背負っている。着流しの裾ははだけ、襟元も崩れたまま斎藤は千鶴に背中の子供を預けると、大きく溜息をついて畳に腰を下ろした。
「坊主はひとつも歩こうとせん」
千鶴は斎藤の背中から受け取った子供がよだれを垂らしてぐっすりと眠っている顔を見た。汗でぐっしょりとなった額を手で拭ってやりながら、奥の間の布団の上に寝かせた。子供の足の指は土埃だらけで、手拭で払い布団の上も綺麗にした。居間に戻ると、斎藤は胡坐をかいた膝の上に赤ん坊を載せて、じっと子供の顔を覗き込んでいる。
「そろそろお乳をあげないと」
千鶴が傍に座って、子供を抱き上げると肌着が汗でぐっしょり濡れている。座布団の上に寝かせると、赤ん坊は気に入らないのかぐずぐずと泣き出した。奥の間に着替えをとりにいって戻ると、斎藤が膝に子供を抱いてあやしている。千鶴が着替えを座布団の上に拡げると、父親はゆっくりと子供を寝かせた。
「麦湯を冷やしてあります」
「はじめさんもお着替えなさったら?」
千鶴がそう言っても、斎藤は着替えをしている子供の傍から離れない。四つん這いになって子供の顔を覗いてあやし始めた。子供は汗を拭われながらも足を動かして、父親に笑いかけている。斎藤は目を細めて子供の小さな手を自分の唇にあてて微笑んだ。千鶴が乳やりを始めたら、ようやく斎藤は立ちあがって風呂場に行き浴衣に着替えて戻って来た。そして、脱いだ着物の袂から紙の包みを取り出してお膳台の上に置いた。
「ちりちりだ」
一瞬、何の事だか判らなかった千鶴は開いた包みの中から香ばしい匂いを嗅いで、それが麦こがしだと合点が行った。指の先に唾をつけて麦粉を掬って舐めた。甘くて美味しい。懐かしい味。赤ん坊の小さな口に指で与えると、味わうように口をすぼめている。
「よろこんで食べている」
「おいしいね」
千鶴は子供の口の周りを拭いながら笑いかけた。
「こんにゃく閻魔の門前に新しく出来た店だ」
「主人が大きな炮烙でちりちりを作って売っている」
「あんな遠くまで? 暑かったでしょう」
「ああ、坊主がちりちりを欲しがるゆえな」
「千桜もいなくなって、心配しました」
「連れ出した時は起きていたが、揺らして歩いているうちに良く眠っていた」
「それじゃあ、もう暫くお昼寝はしないかも」
千鶴は千桜を畳の上に座らせると、前掛けをつけて夕餉の仕度をしに台所に立った。子供は後追いする様子もなく、斎藤の膝の上に抱きかかえられた。
*****
向島にて
「片時も離れないんです」
空の家の居間で千鶴は赤子のおしめを替えて、抱きかかえた。次男の剛志は、美禰子と積み木を並べて遊んでいる。お多佳は微笑みながら団扇で優しく風を送ってくれている。
「家に帰ってくるなり『千桜はどこだ』ですから」
「着替えもしないで、眠っていても抱っこをして離さないの」
斎藤が娘にべったりな様子を聞いて、お多佳はくすくすと笑い続けている。
「娘というのは特別なんでしょうね。歳三さんもそう。離れに仕事部屋を造ったのも、美禰子の顔を見に来るためだって」
「私なんてそっちのけ」
と言ってにっこりとお多佳は笑った。
「あんまりにも酷いから、一度、歳三さんに尋ねたことがあるんです」
——わたしと美禰子が池に溺れたら、どっちを助けるんですかって。
「馬鹿野郎、美禰子に決まっているだろ。溺れるなんて縁起でもねえこと言うなって逆に怒られてしまいました」
千鶴は何かを言いかけるように口を開けた。
「わたしが死んでも構わないなら、ようございます。でも美禰子を産んだのはこのわたし。それを忘れてもらっちゃ困ります」
「そう言ってやったんです」
「あんまりだから」
お多佳はそう言って笑っている。
「土方さんはなんて?」
「一瞬、呆気にとられたような顔をしていました」
「二の句がつげないようになったと思ったら、何て言ったと思います?」
——半分は俺のもんだろ、ですって。
お多佳は堪えきれないといった様子で笑っている。千鶴は全く同じことを斎藤に訊ねたことがあると云った。
「私も訊いたんです。千桜とわたしのどちらを助けるかって。千桜だって即答されました」
「私が死んでもいいんですかって訊いたら、首を横に振っていましたけど」
「どっちかを助けたら、片方は死んでしまうんだからって云ったんです。そうしたら、はじめさんは、千桜を水面にあげて俺は手を伸ばすって云うんです」
「わたしには自力で手に掴まれって」
千鶴がくすくすと笑いながら話すのをお多佳は感心して頷いて聞いている。
「二人とも助けるっていうのは真っ当な答え」
「私も歳三さんにそう言って貰えたら、どんなに良かったか」
お多佳はそう言って、お勝手に行くと手早くお昼の仕度をして振る舞ってくれた。次男の剛志と土方の娘の美禰子は二人で並んで座り、上手に匙を使ってご飯を食べている。
「昨日、豊誠さんがお使いを送ってくれて」
「ちょうど、風呂上りに縁側で涼んでいたんです」
「一瞬でしたが、『美禰子』と声がして」
「綺麗な水の玉でした。『八月に帰る』と言って消えて」
千鶴は驚いた。いま、長男の豊誠は西国の鬼の郷に居る。去年の夏に初めて、風間千景に招待されて西国に行って以来、学校の長い休み中に風間の元へ遊びに行くようになった。
——東国の頭領が鬼の世の見聞を深めることは必須。烏帽子親として責任は俺様がとる。
豊誠は西海九国の領地を全て巡り、鬼世界の成り立ちについて見聞を深めた。お多佳が話す「お使い」というのは、式鬼のことだろうと千鶴は思った。
(もうそんな事が出来るようになったのね)
千鶴は息子の成長を頼もしく思い、遠くに離れても、こうして空の家の人たちのことを気にかけている様子を微笑ましく思った。
「家には天霧さんから数日おきに文が届いて。肥前島原からも遊学にきているご子息がいて、豊誠のよい遊び相手になっているそうです」
「そうですか。わたしは一度も西の地には行ったことがありませんが、島原は海が綺麗だそうですね」
「ええ、豊誠は五島の方に船で連れて行ってもらったらしくて。大層綺麗な場所だそうです」
おしめを替え終わった千鶴は、赤子を抱き上げた。
「この子たちが大きくなったら、一度皆で行ってみたいです」
「ええ、その時は歳三さんに船を手配してもらいましょう」
千鶴は赤ん坊と次男を連れて、昼下がりに診療所に戻った。斎藤は夜遅くに帰宅し、翌日は非番だからと晩酌してから横になった。
「豊誠が美禰子ちゃんに式鬼を送ったらしくて」
仰向けになって静かに目を瞑っている斎藤に向かって、千鶴は囁いた。
「宙に浮く水の玉だったそうです。中から声がきこえて『八月に帰る』って」
「元気にしておるのだな」
「うちには何も送ってこない」
暗闇に斎藤がふっと笑う声がした。千鶴は手を引かれて抱き寄せられた。
「鉄砲玉みたいに、行っちゃったきり」
千鶴の不満そうな声が続く。斎藤は優しく千鶴の頭を撫で、こめかみに唇で触れた。
「あと数日で八月だ。すぐに戻ってくる」
「はい」
「坊主が戻ったら、雪村の里に行く」
「数日休みを貰う事にした」
千鶴は斎藤に縋りつくように抱きついた。嬉しい。ずっと忙しく、まとまった休みは秋口までは無理だと聞いていた。千桜を連れて初めて白岩にいくことができる。数日でも、ゆっくりと親子水入らずで過ごせたら。喜ぶ千鶴を斎藤は優しく自分の床に引き寄せ、夜更けまで二人で睦んだ。
*****
そして八月
中秋の暑い盛りに豊誠が西国より戻った。日焼けして背が伸び、ひと回り大きくなったように感じる。無事の帰宅を喜んだ千鶴は、西国から息子を連れ帰ってくれた天霧をもてなし、沢山の土産話を聞いた。豊誠は翌日には空の家に土産を持って出向き、一晩泊まってから診療所に戻ってきた。次の日から、毎日早朝に斎藤と庭で剣の稽古、朝餉の後に外に遊びに行き、昼に弟と水遊びをして、再び夕刻まで遊びにでて帰ってくる。千鶴は子供たちの世話に追われ、目まぐるしい日々を過ごした。
お盆を過ぎて一番暑い盛りの午後、次男の剛志と千桜が一緒に昼寝を始め、千鶴はその間に夕餉の仕度をしていた。斎藤が帰宅途中に河原で遊ぶ長男を見かけ、馬上から声を掛けると豊誠は飛ぶような勢いで走ってついてきた。風に乗ることを覚えたのか。富坂を登る馬を追い越し、嘶く神夷を手招くように診療所の玄関で笑っている。そのまま豊誠は、馬に水浴びさせて餌をやって世話をした。斎藤たちが風呂に入っている間に、昼寝をしていた子供たちが起きて、千鶴は赤子に乳をやり水菓子を用意した。
早めの夕餉を仕度した千鶴は、お勝手から廊下にでると居間には誰もいなかった。静かな中庭は水やりをした後らしく地面が濡れている。千鶴は縁側から庭に下りて、ゆっくりと東側の物干しの方に歩いて行った。ぐるりと診療所の玄関に周った時に、西側の植木の前に斎藤の姿が見えた。空には陽が暮れて茜色の雲がたなびき、逆光になった斎藤の横顔が抱いた赤子の顔を覗き込んでいる。千鶴は、家の壁づたいにゆっくりと足音をたてずに近づいていった。
はまちどーりのともよぶこえは
ちりちりーやちりちりー
ちりちりーやちーりちり
ちりとーんだりーー
優しい歌声。微笑みながら子をあやしている。
ちりちりーやーちりちりー
ちりちりーやーちりちりー
千鶴は玄関の影に隠れるようにして、その歌声に聞き入っていた。生まれて初めて聞いたはじめさんの歌声。
ほんとに初めて。
斎藤と京で出会ってから十七年。はじめさんが歌っている。初めて聞いた。
歌っていらっしゃる。
千鶴は両手で口を覆って、嬉しい驚きに声も立てられずにいた。
歌っている、はじめさんが。
余りに感動して千鶴は肩が震え出した。笑っているのか泣いているのか自分でもわからない。気づかれないようにゆっくりと近づいていった。斎藤の優しい歌声は続き、あやされて声をたてる子供の声が聞こえた。斎藤の足元には、長男と次男がしゃがんでビードロ玉で遊んでいた。全てがゆっくりとして見えた。大切な人たち。
わたしのかけがえのない大切な家族。
千鶴は今、この刹那が永遠に続くといいなと思った。子は元気に育って欲しい、早く大きくなって優しい子になって欲しい、はじめさんも身体を壊さずにいつまでも元気でいて欲しい。
でも今このまま、ずっとこのままで居られるなら。
神様、どうかこの瞬間が永遠に続きますように。
夕焼け空と優しい夫の歌声と子供たちの笑い声が聞こえ、逆光に浮かび上がる優しい横顔を見ながら、千鶴はなんとも言えない幸福感に包まれながらそっと祈りつづけた。
了
→次話 明暁に向かいて その51へ
(2022/02/27)